天井と床

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天井と床

第一章 アオイ

“私たちは男の支配から解放され、ついに自由を得たのだ”

 本を読んでいてこの手の言葉に出会う度、私は複雑な気持ちになる。
 確かに昔はそうだったかもしれない。でも今は違う。私は、いや、女性はすでにあらゆる支配から解き放たれ、自由を手に入れているからだ。
 だから、正直うわっとなる。この、うわっという感覚は、別に否定したいわけではなくて、言葉の圧力で息苦しくなるからだ。せっかく面白い本でも、そういう文言が紛れ込むと作品全体の雰囲気を壊してしまう。
 だから苦手だ。
「はあ」
 私は本を閉じ、鞄に詰めて席を立った。
 そこはカフェのオープンテラス。私の唯一の憩いの場で、昼食のあとに本に没入することが毎日の楽しみだったのに、今日は少し失敗してしまった。
 皿を返却口に返すと、女性の元気な「ありがとうございました!」の声が響く。
 私はカフェを出た。
 これからまた仕事が始まる。
 古い本なんて買わなければよかった。駅前の古本市を見て回るのはとても楽しいのだけれど、時々こういう本を引いてしまう。言葉の強い本を読むと、当たり前のことが当たり前に見えなくなって、違和感ばかりが強くなる。
 道行く人々も、車に乗っている人々も、タクシーやバスの運転手だって、見渡す限りの人間は女性だ。性別という区分けが、街から消えてしまっている。
 ここには男がいない。存在が消えてしまったのではない。男は私の見えないどこかで生きている。ただ、社会に姿を現さないよう、巧妙に隠されているだけだ。私は社会人になって、いや、それ以前の学校に入学した時点から、男をまったく見ていない。
 だから、普通に生きているなら、自分で望まない限り、男のことを考える必要はないわけだ。こうやって、昔の言葉に出会わなければ……

※    ※    ※    ※  

「先輩! 言われてた資料を用意してきました!」
「ありがとう。今日はもう上がっていいから」
 私はモニターを見ながら書類を受け取る。
「いいんですか!?」
 うれしさの混じる言葉を聞いて、けれどその場から動く気配がないので、私は彼(現代では彼女などという言葉は存在しない。存在しないということすら普段は気づかないというのに、これだからいやだ)の方を見る。
 昨年入ったばかりの新人、ユウキは周囲の様子をうかがっていた。以前、先に帰って、年上の同僚ににらまれたことを引きずっているらしい。
 私は、自分にもそういう時期があったことを思い出し、ちょっと笑ってしまう。
「心配しないで。誰かに何か言われたらアオイさんから許可をもらいましたって言っていいから」
 するとユウキの表情がパッと明るくなった。
「ありがとうございます! 先輩はまだ帰らないんですか?」
 ユウキが興味津々で聞く。この後輩はやけに私に懐いている。職場の派閥に属しない私について行っても無駄なのに、と思うことはあるし、直接言ったこともあるけれど、ユウキはあまり気にしない性格らしく、私もことさら言わなくなった。慕われているのは素直にうれしい。
「夜に予定が入っているから。高校の同級生から食事に誘われているの。時間までは作業を進めておこうと思ってね」
「わあ! いいですねえ! 私なんて最近は友達と全然連絡取れてないですよ」
「あなたくらいの年だったら、まだ就職したばかりで忙しいでしょ。私も会うのは久しぶりよ」
「えー、先輩くらいのキャリアでも久しぶりなんですか?」
「私のことはいいから、早く帰んなさいよ」
 ユウキは少し考えるように首を傾げたあと、ハッとした表情になり、
「では、お先に失礼します!」
 と言って、バタバタと準備を始めた。
 人付き合いの苦手な私が、彼を遠ざけられない理由の一つに、この察しの良さがある。まったく考えていないようで、相手の感情を察知する能力が高い。
 職場を出るユウキを見送って、私は再びモニターに向かい、今日中にする必要のない作業をだらだらと続けた。

 仕事をしているときはよくても、会社を出て、夜の街を歩いていると、考えなくてもいいことを考えてしまう。
 男はどこへ消えたのか。
 百年前、大きな戦争が起きて、男たちはみな戦場へ行った。残された女性は終わりの見えない争いに業を煮やして革命を起こした。団結し、武器をとり、権力者からその地位を奪った。
 そして、女性が世界を支配した。
 短くまとめるとたったこれだけのことだ。これが男を消した要因で、男だけがかかる奇病とか、女性だけしか生まれなくなった、というようなこともない。
 戦争で疲弊していたことも大きな要因だったかもしれないけれど、とにかく、女性は力で男たちをねじ伏せた。
 女性は権力を獲得してすぐに、戦争を終わらせて、男のいない世界の実現と都市の復興に乗り出した。復興には労働力がいる。そこで目をつけられたのが、力を失った男たちだった。
 世界から貧困が消えた。不平等の根っこにある低賃金労働を、これまで女性を虐げてきた(この手の文言も昔の本によく出てくるから苦手だ)男たちが担うことになったからだ。
 そして、女性は自分で職業を選択する権利と自由を手に入れた。もちろん、競争はあるけれど、少ない賃金で貧困に追い込まれる人間はほとんどいなくなった。
 人間……そう、この時代において、人間とは女性を意味する言葉だ。人種も民族も宗教も思想も、あらゆる対立を超え、人類はついに女性という枠組みの中で一つとなった。有史以来、世界から初めて差別と呼ばれるものが消えた。
 人は余裕を持つと差別をする気がなくなるのかもしれない。未だに残る対人関係の不和までをなくすことはできないけれど、安定した職とセーフティーネット、それらが可能にした生活の安定により、人間は本来の意味での豊かさを手に入れた。
 とはいえ、男は社会から完全に消えたわけじゃない。今でもどこかにいる。
 私の着ている服は、工場で男たちが作っている。私が食べるレストランの料理や食料品店の弁当は、女性が調理している。でもその食材、例えば穀物類は、企業が運営する巨大農園で男たちが作っている。
 それを私は知識としては知っていても、実際に見たことはない。戦後の復興が進んで、新たに環境が整ったインターネットでも、テレビ放送でも、雑誌でも、どのメディアでも男の存在は隠されているからだ。
 男がどんな仕事をしているのか、どんな生活を送っているのか、この社会では一切触れようとしないし、初めから男などいなかったように扱っている。私が知っているのは、学生時代に読んだ社会の教科書の数行だったり、一時期読み漁った古い本から得られたわずかな情報に過ぎない。
 それを良いとか悪いとか、判断することは私にはできない。見たこともない存在に同情することはできないし、仮に悪いことだったとしても、自分に何かできるとも思えない。私は肉や野菜を食べるけれど、食材となる動物や、植物のことを考えないことと同じだ。
 この状況は、私の住む国だけではなかったりもする。世界中を覆った戦火は、同時多発的に女性を目覚めさせ、先進国から発展途上国に至るまで、あらゆる場所で同様の革命が起こった。
 だから、考えても無駄なことなのだ。全世界のだれもが、この状況に疑問を持つことはないし、仮に持ったとしても、問題として議題に上がることもないわけだ。
 まったくの無駄だ。無駄なのだけれど、それでも考えてしまう。
 男はどこへ行ってしまったのだろう?

 店につくと、先に二人が来ていた。
 予約の名前を言うと、店員が私を案内してくれた。窓際の奥のテーブル席に、二人が向かい合って座っている。時間ちょうどに来たはずなのに、何やら熱心に話し合っている様子で、行くのに少し勇気が必要だった。
 私が席に近づくと、フリルのついた赤いチェックのワンピースを着たカナエが手を振った。
「アオイ! こっち、こっち!」
 カナエに誘導されて、私は彼の隣に座る。見るからに派手なカナエの隣に、地味に抑えた服を着た私が座っていいものかと思ったけれど、席について正面を見ると、その考えは吹っ飛んでしまった。
 目の前には、革製の黒い上着に銀色のアクセサリーをじゃらじゃらとつけた女性が座っている。今回会う約束をしたのは、高校生の同級生、カナエとルイの二人。ということは……
「久しぶり」
 仏頂面でルイが言った。紺色に染めた髪は短く、耳についたピアスが光っている。
「あ……うん。ひさしぶり」
 言ってみたけれど、頭が追いついていかない。普段生活をしていて、こんな見た目の人間に出くわしたことがなかったからだ。
 男が消えてから、女性には服装の自由が与えられた。パンツをはこうがスカートをはこうが女性の選択に任されている。とはいえ、人と違う服を着るには覚悟が必要だ。
 それで、一度ネットニュースで話題になったことがある。最近の若者は周りに気を使いすぎて個性がないというのだ。
 もちろん、その記事には若い世代からの反論があった。上の世代は派手だったり、デザインに凝ってみたり、服にこだわりがありすぎる。それがダサいと思っているから、今の服装に落ち着いている。このコメントには複数の賛同の声が上がった。
 こんな感じで、性別の区分けがなくなっても、世代間のズレは消えないものだと、その記事を読んで思ったものだ。
「アオイ! ちょっと! どうしたの? ルイに見とれちゃった?」
 私はそこで、ようやくカナエから話しかけられているのに気付いて、
「ああ、ごめん、びっくりしちゃって」
 と言った。ルイは笑っていて、私はとても懐かしい気持ちになった。高校で私と同じ制服を着たルイが、そこにいたからだ。
「どうして笑うのよ」
 私も笑いながらルイに言う。
「いや、アオイは変わらないなって、しっかりしているように見えて、時々すっごく抜けてることがあって、いっつもそんな顔をしてた」
「ちょっとやめてよ! 私はびっくりしただけ。普通に生活しているとお目にかかれない奇抜な服だったから」
「ぼくからしたらアオイもだよ。女性らしい服装とは縁のない生活を送っててね」
「二人だけで盛り上がっちゃって、あたしも仲間に入れてよ」
 カナエが口をはさむ。
「私は正直、カナエにも驚いたな。そんな服、どこに売ってるのよ」
「そうだそうだ。今時フリルのついた服なんて絶滅危惧種だ。こう見えて、ぼくの見た目はそれなりの需要があるんだよ」
「ひどい! 二人してあたしをいじめるのね」
 泣きまねをするカナエを見て、私とルイは笑った。カナエも変わっていない。高校の時は、いつもこんなやり取りをしていた。カナエが突拍子もないことをして、私はびっくりする。それを冷静にルイが指摘して、カナエが怒る。
 私は笑いながら、少しだけ、泣きそうになっていた。
「では、そろそろ飲み物を頼みましょうか」
 カナエがけろりとして言った。彼は見た目によらず、変にしっかりしたところがあるのだ。私は自分のことはできても、なかなか気が回らなくて、場を仕切るのはいつもカナエの役割だった。
「じゃ、料理は頼むよ」
「私もお願い」
 ルイの言葉に私も続く。
「もう! いっつもあたしがやってるじゃない!」
 そうして今度は三人で笑い合った。

 悪しき習慣から脱却し、居酒屋と呼ばれる店舗が消滅した現代では、すべての店舗はみなきらびやかで美しく、かわいらしい。
 店舗は大まかに分けて二つのパターンがある。シャンデリアのきらめく西洋建築風の店舗とパステルカラーとキャラクターに満たされた「かわいい」を基調にしたファンシー路線の店舗。最近ではその二つに収まらない、シックで落ち着きのある隠れ家的な空間を特徴とした店も増えている。地味で目立たないトレンドの傾向はここにも表れているわけだ。
 ここはオーソドックスな西洋風の店舗で、もちろん本家ほどではないにしろ、少なくとも外側だけは、立派な邸宅のような外観と内装を備えている。広い店内にはアンティークなテーブルとシャンデリア、そこかしこに置かれたステンドグラスタイプのランプが置かれていて、二階に続く大きな階段が目を引いた。
 他人と食事をする習慣がない私にはとっても新鮮で、ついつい周囲を見回しながら、フランスのコース料理を食べていた。
 会話はまず、自分たちの近況から始まった。話題選びと進行を担当するのはもちろんカナエだ。
 カナエの親は有名企業の社長だ。学生の頃はあまり気にならなかったけれど、働いてみるとその違いを実感する。彼は実家に住んでいて、親と一緒に暮らしているらしい。仕事は、親の経営する企業の受付で、座ってばかりで足が冷えて困っちゃう、と言って不満顔だった。
「この前、親に無理やり海外旅行に連れていかれてさ、行きたくないって言ったんだけど、あたしがいなくちゃいやだって言うの。子離れができてないのよね。おかげで決まってた予定がぜんぶ駄目になって……ま、向こうの食べ物がおいしかったからいいけどね」
「ひゃー、出たよ、金持ち自慢。人に言うのやめな。きらわれるからさ」
「ただ近況を話しただけでしょ!」
 ルイが、大げさに驚いて、カナエが冗談交じりに怒る。私は笑いながら、そわそわしていた。カナエの次は自分の番だ。引け目を感じることはないけれど、華々しい話を聞いた後だと、それなりに躊躇してしまう。
 私の生活なんて、本当につまらないもので、一人暮らしの家と会社の往復しかしていない。休みの日になっていくところと言えば図書館か本屋で、その後に行くカフェを日によって変えるくらい。本当に代り映えしない毎日を送っている。
「仕事は楽しいよ。入社したころは、そりゃあもう大変だったんだけど、今は仕事もさばけるようになってきたし、いやになることはないかな。とはいっても、慣れてしまうとそれはそれで新鮮味はなくなってきてるかなって思う」
 仕事のことについて話すと、カナエは、
「でも、楽しいって思えるだけでいいじゃない。あたしなんて、ずーっとやること変わらないし、やりがいってのがなくてさあ」
 とため息交じりに言った。
「でたよ。満たされてる人間ってのは他人のことがわかんないもんだな。ぼくもそういうこと言ってみたいよ」
 ルイが即座に切り返す。
「ひがみは見苦しいですよ」
 カナエも負けてはいなかった。
 そうやって、少しずつ、空白となっていた日々を埋めるように、相手のことを聞いて、自分のことを話した。けれど、ルイは相槌は打っても、なかなか自分のことを話さなかった。
「ルイは、今どうしているの?」
 私は我慢しきれなくなって聞いた。高校時代から派手な服装だったカナエは別としても、ルイの見た目から今の仕事は想像できなかった。もしかすると、働いている時はきっちりした制服やスーツを着ているのだろうか? それにしては、ルイの髪型や髪色は奇抜すぎるように思えた。
「ぼくのことはいいじゃないか。それより、二人のことをもっと聞きたいな」
 ルイの様子がおかしかった。穏やかな表情が崩れ、焦っているようにも見えた。
「あ、気になっちゃった? ルイはね――」
「カナエ! その話はやめようって……」
「いいじゃない。アオイはそういう子じゃないって」
 私は二人で言い合っているのにびっくりして、
「別に言いたくなかったらいいよ!」
 私は言った。高校生の時から、もう十年も経っているんだ。だからきっと、言えないことだってあるだろうし、それを無理に聞き出すつもりはなかった。
 するとルイは、とてもまじめな表情になって、大きく息を吸った。
「ぼくはね、舞台をやっているんだ」
「ぶたい?」
 思わず聞き返してしまう。ぶたいが舞台に結びつくのには、少し時間がかかった。
 そこでカナエが口をはさむ。
「ルイってね、すごいんだよ。アオイは知らないと思うけど、新進気鋭の演出家でね。実は今回の食事会だって、ルイが界隈で有名になったからなんだ」
 熱心に話すカナエの言葉を、私はぽかんとしたまま聞いてしまった。まったくピンと来ていない。
「有名って言っても、小さな世界での話さ。劇場ではそれなりに評価されているみたいだけど、あまり大きな声で言えるようなことでもないし……」
 ルイは見るからに自信なさげで、そういう顔は似合わないと思った。
「そんなことない。ルイは自信を持っていいんだよ? 未だに男が男が、なんて言ってるのなんて、上の世代のごく一部だけなんだから」
 私はカナエの、男という言葉につい反応してしまう。
「どういうこと?」
 その反応はカナエにとってうれしいものだったらしく、満面の笑みを浮かべた。大きな声では言えない内容なのか、声を抑えて、私ににじり寄るようにして話し始めた。
「今ね。若い世代の間でちょっとしたブームになってるの。もともとは、戦後の政策で隔離された未成年の男たちのために作られた団体が始まりだったんだけれどね。昔から、決められた区画で許可を受けた劇団が、舞台を上演しているの。はじめは上流階級の隠れた趣味だったんだけど、ここ数年で一般にも開放されてね。これがすっごく面白いんだ。ルイは劇場で舞台演出をやってるんだよ」
 早口でまくし立てるカナエの言葉を何とか咀嚼しようとしていると、ルイのため息が聞こえた。
「本当は誰にも言うつもりはなかったんだ。褒められた仕事でもないからね。それなのに、やっているうちに変に有名になって、声をかけられることが増えた。まさかカナエに見つかるなんてね。今日だって、早めに呼び出されて質問攻めだよ。こんなに熱心なファンは初めてだ」
 ルイの言葉に、ああ、それでか、と納得した。今日、三人が揃ったのは、ルイを見つけたカナエのおかげだったということだ。
「だって、身近に関係者がいるなんて思いもしなかったんだもの。そりゃあ聞きたいってなるでしょ。アオイも興味あったりする?」
「えっと、私は……」
 突然話を振られて頭が追いつかず、言葉が出てこなかった。男がやる舞台、そんなものがあったなんて……
「無理に誘うもんじゃないよ」
 そう言うルイの表情は沈んで見えた。
「私、見てみたい」
 自分でもびっくりするくらい、自然に口から言葉が出た。
「え? ほんと!?」
 あまりに即答だったので、誘ったカナエのほうが驚いていた。目の前に座ったルイもあんぐり口を開けている。
「うん。もし知らない人から聞かされてたら、そんなこと考えもしなかったかもしれない。でも、ルイがやってることでしょう? それに、カナエが楽しんでるなら、きっと私も面白いって思えるはず。どんなものか見てみたい」
 しばらく間があって、しまったと思った。私は間違ったことを言ってしまったのだろうか。でも、さっき言ったことは本心だった。本くらいしか興味のなかった私が、こんなにも前のめりになっているのは、自分でも不思議だった。
「わあ! うれしい! 今度一緒に行きましょうよ! あたしはよく劇場に通っているんだけど、まだまだそんなに広がってなくて、語り合える友だちが少なかったのよね」
 今にも立ち上がって叫びだしそうなカナエを見て、私もうれしくなった。
 私は正面を見る。ルイはなぜか複雑な表情をしていた。うれしいような、悲しいような。言葉では説明できない表情をしていた。
「興味があるのなら、一度見てみるといい。ぼくの舞台は今準備中だから、先になるだろうけどね。ほかの舞台だったら、いつもなにかしらやっている。それをみて、判断したらいいよ」
「うん、そうする。カナエ、よろしくね」
「まかせて! あたしが入門に最適な舞台を選んであげる。わー! ほんとに見てくれるの? 布教ってこういう時に使う言葉だったのね! 初心者でもちゃんと楽しめるように色々教えてあげるからね」
「アオイはよくないスイッチを押してしまったんじゃないか?」
 ルイが苦笑いで言う。
「そうかも、あんまり言われると引いちゃうからお手やわらかにね」
「もう! 盛り下がるようなこと言わないでよ!」
 そして、三人で笑った。
 とても、楽しい食事会だった。

 その日、私はかつてないほどに胸を高鳴らせていた。
 舞台が上演される演劇ホール。そこで私は、たった一人で座っていた。一緒に来たカナエは、ホールの外でグッズ販売の行列に並んでいる。会場は満員らしく、行列はすさまじいことになっていた。
 手持ち無沙汰の私は、カナエから渡されたチラシを見る。
 白いシャツと黒いズボン、ベルトをまいた二人(おそらく男で、顔が見えないようなデザインになっている)が、手を取り合って身を寄せている。下の方に『籠の鳥』というタイトルらしきものが書かれていた。
 ほかに得られる情報はなかった。裏面を見ても、デザインされた空の風景と、あの日ぼくたちは出会った――、というポエム調の文章が書かれているだけだ。
 これから始まる物語の推測を早々にあきらめ、周囲をぐるりと見まわしてみる。
 カナエと同じような服装をしている女性が多いと思いきや、実際はそんなことはなく、デニムに落ち着いた色のニットを合わせるといったような、シンプルな服装の女性も多かった。
 なんだ、こんなことなら悩む必要はなかったじゃない。
 私はこの日のために、服装のことで頭がいっぱいだったのだ。

※    ※    ※    ※

 カナエからの誘いは、食事会の次の日に来た。
 すでにカナエは、想定しうるあらゆるスケジュールに対応する劇場のデータをそろえていて、私は自分の空いている日を伝えるだけでよかった。見に行く舞台は一週間後の祝日に決まり、決まった瞬間に劇場の場所と時間が、画像も交えて立て続けに送られてきた。
 画像にはカナエの、
『おしゃれしてきてねー』
 というコメントが添えられていた。
 その時点では、特に実感はわかなかったのだけれど、近づくにつれて、なんだか落ち着かなくなってきた。私は普段本屋とカフェくらいしか行かないから、自分が着たい「おしゃれな服」が思いつかないのだ。流行の服は知っているけど、それはなんだか違う気がする。前日になると、とても不安になってきて、ついカナエにメッセージを送ってしまった。
『なんでもいいよー』
 などとのんきな返信が届いたけれど、私は気が気ではなかった。何年振りかと思うほど、久々にクローゼットのなかをひっかきまわし、漠然としたイメージの中にしかない「劇場に合う服」を探した。
 そこには当然だけれど、代り映えのないラインナップが並んでいて、会社の式典用に一度だけ着た華やかな正装を引っ張り出して、それくらいしかないことにがっかりしてしまった。
 周りに合わせて地味な服装をしてきたつけが、こんなところで回ってくることになるなんて思ってもみなかった。

※    ※   ※   ※

「お待たせ!」
 声がした方を見ると、カナエが大きな袋を持って立っていた。
「わあ、すごい荷物。全部買ったの?」
 カナエは椅子に座って、足元にグッズを慎重に立てかけると、
「実物見たらついつい買っちゃうのよね。シャツだとか、クリアファイルだとか、ボールペンとか、持ってても使わないんだけど、こればっかりは仕方ないのよ」
 と笑顔で言った。困ったような口調だけど、ぜんぜん困っていないのはすぐにわかった。周りを見てみると、カナエみたいにグッズを大量に買い込んだ人々が続々とホールになだれ込んでいた。
「どう? フライヤーは見た?」
「チラシのこと? よくわからなかった」
「この劇団はデザインに偏りすぎるところがあるのよね。それが良いんだけどさ。あたしは一度見たから、どんな話か説明することはできるけど、やっぱり前情報なしに見てもらいたい」
「そういうものですか」
「だって、あたしの余計な主観を入れてみても、同じような感想になっちゃうじゃないの。もしわからないことがあったら、後で聞いてね……ほら、はじまるみたい」
 ホールにブザーが鳴り響く。ざわめきが静まり、緊張感が張り詰める。私も思わず居住まいを正し、その時を待った。
 そして、幕が上がった。

 その舞台は、私がこれまで読んできた小説と比べても、特別優れているとは思えなかった。
 学校(男だけが通っている学校らしい)という閉鎖された空間で展開される男同士の友情。ただそれだけの話だ。
 メインとなる登場人物は二人。ソウイチロウとリョウタ。聞きなれない名前のこの二人の会話によって物語は進んでいく。
 ソウイチロウはリョウタのすべてを手に入れたいと望み、しかし、リョウタはそのことに気づかない。ソウイチロウは相手に自分の望みを知ってもらいたいと思いながらも、しかし知られたくないとも考えている。
 その苦悩が、ラストシーンで、二人の対話という形で締めくくられる。ソウイチロウは相手に自分の思いを伝え、リョウタもまた、その言葉を受け入れようとする。二人が手を取り合ったことで”何か”が伝わったことを暗示しながら、幕は閉じる。
 私がこれまで読んできた小説は、そのほとんどが、女性の成長譚か、立身出世物語だった。周囲の圧力に耐えながら、自分の力を蓄え、困難を乗り越えて、主人公の求める成果であったり、地位であったりを手に入れる。私はそれらの物語を道しるべとして、この、競争社会を生きてきた。
 今の仕事は楽しい。私が望んで就職した会社だ。
 でも、学生時代はつらかった。勉強はいやではなかったけれど、周りと比べられることがとても苦しかった。だから、高校時代の楽しかった思い出には、いつもルイとカナエがいる。一人になるととても孤独で、勉強だって投げ出したかった。
 そんな時、私に勇気を与えてくれたのが、小説であり物語だったのだ。
 けれど、舞台で上演されていたのは、私のまったく知らない物語だった。相手を手に入れる。そんなこと、考えてみたこともなかった。むしろ私は、親にも、教師にも、他人に頼らない自立した力や精神こそが、女性に求められるものだと教わってきた。
 他人は他人だ。だから協力はしても助けてくれることはないし、自分も相手を助ける必要がない。
『他人を所有し、支配しようとしたからこそ、人類は滅びの道に進み、そして女性が立ち上がった。他人を所有することをやめて初めて、人類は次の段階に進むことができたのだ』
 いつか読んだ本にこのようなことが書いてあった。昔の言葉で、とても思想を感じるけれど、私はその通りだと思っていたし、そうしなければならないものだと信じて生きてきた。
 たしかに、この舞台には中身がない。登場人物は成長しないし変化もない。展開に工夫がなく、一人の男がずっと悩んでいるだけだ。けれど、それこそが、これまで読んできたどの小説とも違う部分であり、私が強く心を引き付けられた部分でもあった。
 ソウイチロウが”何か”を求めていることを自覚し、ふとした拍子にリョウタの体に触れる。
 その場面で私の胸がざわっとした。うまく言葉にできない。比喩ではなくほんとうに、心臓がきゅっと握られてしまったような感覚。苦しくて、甘いようなじんわりとした痛みが胸に広がる。今までで体験したことのない感覚だった。
 私は、舞台が終わっても、作品の世界から抜け出すことができず、カナエに声をかけられるまで、茫然としていた。
「どうだった?」
「すごかった……」
 なんてことだ。私は言葉も失ってしまっていた。さっき見たものを表す言葉が見つからないことを心苦しく思った。
「気に入ってくれたみたいね。いいの、何も言わなくったって。あたしも初めて観たときはそうだった。なんていうか、言葉にできなくて、もどかしいって感じになるのよね。でも、それがいいんだ」
「わかる! 良かったってことは間違いないんだけど、それをなんて言っていいのかわからないんだ」
 カナエは大きく頷いた。
「カナエ……」
 私はつい、彼の名前を呼んだ。
「なあに?」
「ありがとう」
「うん、喜んでくれてよかった! また、誘うからね!」
 カナエはとてもうれしそうで、私もうれしくなった。

 その日から、私の人生が変わった。
 通勤電車の中や、仕事中の空いた時間、家で過ごす時間、一日のほとんどの時間を舞台のことを考えて過ごした。自宅と会社を往復するだけの毎日が、舞台のことを想うだけで、こんなにも変わってしまうことに驚いていた。
 初めての観劇のあと、カナエとは毎週のように舞台を観に行った。男が登場する作品にはいくつもの種類があり、私が観たものは「学園もの」と呼ばれていた。そのほかにも男が会社で務めている「社会人もの」をはじめとする年齢、舞台設定が違う多種多様な作品が上演されていたけれど、私は、一番最初に見た、学園ものに心を奪われ続けていた。
 はじめの頃こそ、カナエに連れられて舞台に通っていたものの、次第に私は一人でも観劇をするようになった。劇団によっては、仕事終わりに間に合う舞台もたくさんあったからだ。カナエとも行くことはあるけれど、彼が追いかけていたのは社会人ものだったということもあり、自分で開拓したいという気持ちが強くなっていた。
 もちろん、学園もの一筋というわけではなかった。最初に見た舞台を忘れることができなくて、ソウイチロウ役を演じた役者の作品は可能な限り観に行った。一度はどうしても時間が合わず、会社から有休をもらって行ったほどだ。
 私は舞台にのめりこみ、生活の大半を舞台に費やした。会社が終わって舞台を見に行き、ホールの出口に置かれている色とりどりのフライヤーを持ち帰る。家でそのフライヤーを見ながら次に行く舞台を探して寝る。そんな生活を続けていた。
 部屋にはグッズが増えて、物の置き場がなくなった。カナエが行列に並んでいるのを見て、どうしてあんな必要のなさそうなものを集めるのだろう、と思っていたけれど、作品のロゴやイメージがプリントされたタオルやシャツが部屋にあるだけで、あの世界とつながっていられるような気がした。
 でも本当は、舞台に立つ役者の写真が欲しかった。写真でなくても、イラストだっていい。見ただけでその役とわかる何かが欲しかった。けれど、そんなものが販売できないということはわかっている。舞台では登場人物でも、ひとたび外に出るとそれは男の写真でしかなく、持っていることを知られてしまったら、どうなるかわかったものではないからだ。
 だから私はグッズを買った。少しでも、あの世界に浸り続けていたかった。人生で初めて、本以外のものが部屋を圧迫するようになった。これは私にとって、かつてないほどの大事件だった。
 仕事中、ソウイチロウのことを考えると元気が出た。繁忙期が来ても、後輩がミスをしてカバーすることになっても、仕事相手が無理難題を押し付けてきても、ソウイチロウのことを考えると、それだけで気持ちを切り替えることができた。
「最近、先輩楽しそうですよね。何かあったんですか?」
 ある日の仕事終わりにユウキが言った。
 会社帰りに舞台に通うようになって、仕事を無駄に長引かせることがなくなったため、私はユウキと会社を出るタイミングがほぼ同じになっていた。
「私は特に変わらないけど……」
 私はしまったと思った。舞台に行っていることは、まだ会社の誰にも言っていない。言えるはずがない。男が抹消された社会で、男のことを追いかけているなんて、公にはしてはいけないのだ。
「へえー、でも先輩、少し前よりかわいくなりましたよ。あ、前がかわいくないってことじゃないですよ。すっごく明るくなったっていうか」
 私はよほど浮かれていたらしい。
「褒められたら悪い気はしないけど……そんなに変わって見える?」
「はい。良いことですよ。先輩って美人ですけど、ちょっととっつきにくいっていうか、話しかけづらいというか……」
「ユウキ」
 私が言うと、ユウキは察して、
「そうだ。ちょっと相談に乗ってくれませんか?」
 と話題を変えた。
「いいよ。どこかカフェにでも寄る?」
「いえ、大したことはないので、帰り道でいいです」
 私はその日、舞台の予定もなかったので、
「わかった。じゃあ帰りましょう」
 と答えた。

 会社のビルを出て、夜道を歩き始めるとすぐにユウキは切り出した。
「配偶者のことってどう考えてます?」
「え?」
 その言葉を聞いた瞬間に、私の思考は固まった。思わず立ち止まりそうになった。
「親はそろそろ年頃でしょって言うんですけど、私はなんだか面倒で……仕事だって始まったばかりだし、すぐじゃなくてもいいんじゃないかって。それでこの前言い合いになっちゃって……」
 私は何も言えなかった。口の中は渇き、思考は停止したままだった。
「体に一切負担はないとはいえ、手続きは煩雑だし、少なくとも子育て期間は扶養する義務だってありますし、もっと先でもいいと思うんですよね。先輩は、たしか独身でしたよね? 先輩は親から言われたとき、どう返してますか? 周りは、結構気軽に配偶者を決めてたりして、参考にならないんですよね。それで、先輩はどうしてるのかなって」
「そ、そうね。私の親はあんまり干渉しないタイプだから。自分のことは自分で決めなさいって、学生の頃はよく言われたものよ」
 私の言葉は、震えていたかもしれない。自分の声が遠くにあって、まるで他人の言葉のように聞こえた。
「いいですねえ。私もそういう親が良かったですよ。昔は優しくて良い親だって思ってましたけど、干渉がひどくて……」
「ま、まあ、仲がこじれるのもよくないから、一度しっかり話し合ってみるのがいいんじゃない? それで、このくらいの年になったら決めるとか、そういうことがわかるだけで、あなたの親も安心すると思う」
 私は言った後、大きく息を吸った。ユウキに動揺を悟られはしなかっただろうか。
「そうですよね! ありがとうございます! やっぱり先輩に相談できて良かったです!」
「いいのよ。みんな通る道だから……」
 その後、ユウキは話題を変えて、取材先であった面白い出来事のことを話していたが、全く頭には入らず、私は相槌を打つだけだった。

 比較的空いている電車のなかでドア付近に立ち、私は車外の景色を眺めていた。
 私の仕事は雑誌の編集者だ。
 世の女性に、コスメやファッションのほか、カフェ、飲食店、観光地など女性の生活を豊かにする情報を提供する仕事。美容アイテムの付録目当てだったとしても、多くの女性に読まれている媒体だと自負している。取材先となるのは化粧品メーカーやアパレルブランド。利用するランチのお店やカフェは毎回変えて、新しい取材先の開拓だってしている。時には、観光地まで直接取材に向かう。
 雑誌の仕事をしていると、紙面の広告が必ず目に入ってくる。
 紙面でも特に大きな枠を占めている企業広告。
 電車の車内広告にも当然のように掲載されている。
 流麗なフォントと花が咲き乱れるデザインで目を引くけれど、文字は社名と連絡先だけで、事業内容やキャッチコピーは一切書かれていない。
 私は知っている。それがどんな企業の広告なのか。
 配偶者を選別し、女性の要望に合わせた人材を紹介する企業だ。
 男が存在しない社会で、人はどうやって生まれているのか。私たちは、試験管で生まれたわけではなく、人から生まれ、育てられた。
 人を産むのは配偶者だ。
 配偶者とは何か。
 改造された男だ。
 法律的にも、認識的にも、配偶者は男ではないとされている。けれど、それが女性だけの社会を成り立たせるための方便だということは私にはわかっている。
 戦後、世界を支配した女性は、まず、出産と子育てからの脱却を試みた。そこにはもちろん反対の声が上がったが、勢いづく強硬派の勢いを止めることはできなかった。戦時中に非公式に行われていた人体実験は、ここで大いに役立った。
 男の体を出産可能な体に改造し、受精卵を人工子宮で成長させる。
 こうして女性は、女性を縛り付けるあらゆるものから解放された。
 微かな記憶として残る、私を優しく抱きかかえ、食事の世話をして、服を着せてくれたのは誰か。物心がついてからも、全寮制の学校に入るまで育ててくれたのは誰だったのか。
 それは紛れもなく、男だった。配偶者と呼ばれてはいたものの、男は確かにそこにいた。男はどこへ行ってしまったのだろう? なんて白々しい。私ははじめから知っていたのだ。
 配偶者は女性の生活圏の目に入らないように、産院と呼ばれる隔離施設のなかで子を産み、資産家は自宅の一室で、それ以外の家庭では養育施設で子を育てる。メディアで情報が一切流れることがなくても、これが事実であることは、学ぶまでもなく暗黙の了解として知られている。
 何故、そんな当たり前のことを忘れようとしたのか。
 私が、育ててくれた配偶者と一緒に居たいと願ったからだ。
 国の決まりによって、私は配偶者と、全寮制の小学校に入るのと同時に引き離され、厳しい競争社会に放り込まれた。学校では何度も配偶者のことを思った。けれどそれは、年齢が上がり、社会のことを学ぶにつれ、あってはならないことだと理解する。
 私は感情を押し込め、配偶者のことを、男のことを忘れようとした。成績のことだけを考え、そして私は、ついにそれを実現した。忘れてしまえば、気づきさえしなければ、心は絶対に傷つかない。
 宿舎に入る直前に、一度だけ親と会った。親は私の顔をじっと見て、
「強く生きなさい。昔であれば、男が助けてくれることもあったけれど、この社会では、女性は強くならなくてはならないの。私があなたのためにしてあげられることは少ない。だけど生き方だけは教えてあげられる。本を読みなさい。そして、世界のことを知りなさい。そうすれば、独りで生きていくことがどういうことかを知ることができるから」
 と言った。あまりにも衝撃的過ぎて、一言一句覚えている。それ以来、親とは電話でのやり取りはあるものの、ほとんど顔を合わせたことがない。親の言葉は私の考えを補強し、より頑なに自分を守り、男を認識の外に追いやった。
 後で分かったことなのだけれど、私の親は変わった人だった。
 同級生の話を聞けば聞くほど、親は子どもに干渉するものであり、一緒に住んでいない家庭でも、子どもの人生に口を出してくるものなのだそうだ。
 私はある意味で、親に甘えているのだろうと思う。
 何も言わないことを良いことに、自分の感情を優先して、男のことを考えないようにしていた。でもそれは、もうそろそろ終わりなのかもしれない。
 私は遠くの景色を見ながら、そんなことをぐるぐると考え続けていた。

 

 

第二章 カナエ

 あたしはいつも怒っている。
 例えば仕事のこと。
 受付という仕事は戦前は、花形の職業だったと言われているけれど、現代ではバカにされている。受付は会社の顔で、大きな会社であれば絶対に必要な職業のはずだ。
 なのにもともと女性が割り当てられることが多かったというだけで、社内でひどく扱いが悪い。会社で食事会があっても、ほかの社員は受付の子に近寄ろうともしないし、陰で悪口を言っていることも知っている。
 受付は早く帰ることができるけれど、営業や管理職とは違って、仕事にインセンティブはつかないし、もらえるお金だってそれほど多くない。自分の職をちゃんとやっているだけなのに、どうして悪く言われるのだろう。女性社会になって、差別がなくなったなんて嘘だ。それはあたしが一番よく知っている。
 例えば服装のこと。
 あたしは会社のロッカーでほかの社員と一緒になることがあるけれど、人の服を見て陰でこそこそ言ったり、あたしが近くにいるのに声を立てて笑ったりする。
 服装の自由が与えられたなんて、誰が言ったのだろう? 人が良いと思って買った服で、人となりが断定されて、仲間外れにされることだってある。若い子たちが、地味な服を選んでいるのだって、そのことと無関係ではないはずだ。
 あたしは自分の服装に自信を持っている。かわいいと思うし、社内のだれよりも女性であることを活かしていると思う。
 なのに、なのに、あたしはいつも仲間外れだ。
 最初は、社長の子であるあたしをうらやんでいるんだって思った。実際にそういうこともあるだろうけれど、本質はそこじゃない。
 自由は認められている。でもあくまでそれは、自分の立ち位置により制限されるとても狭い範囲での自由だ。人が集まる場所では、化粧や服装で仲間かそうでないかが明確に区別されて、そこから少しでも外れると、周りから白い目で見られることを、あたしはこれまでの経験で理解していた。
 だからあたしは舞台に行く。
 そこには差別なんてない。
 舞台を求める人たちが、ただそれだけのために集まって、男の演技に酔いしれる。
 親の友人からの招待で、十代の終わりに初めて見に行ってからというもの、あたしはこの世界のとりこになっていた。
 舞台は自由だ。
 どんな服装をしても何も言われない。みんな、男を観るために集まっているのだから、他人がどうかなんて関係がない。
 それに、舞台はどんな世界だって見せてくれる。
 学園ものに社会人もの、ファンタジーに歴史ものだってある。歴史ものだけは規制が厳しいのでやる劇団は少ないけれど、男の扱いを調整したり、架空の設定を取り入れることでうまく脚色して、素晴らしい作品に仕上げてくれる。
 あたしは舞台であれば、どんな作品だって見た。
 仕事は人生のなかで、舞台のおまけくらいにしか思っていない。親に言われて仕方なくやっている仕事なんかより、舞台を観ている方がずっと幸せなんだから。
 でも最近、舞台にも気に入らないことが出てきた。
 あたしが舞台に通うようになって、ずいぶんと人が増えた。
 それは劇団にとっては良いことだと思う。役者だってスタッフだって、もらえるお金が増えて、舞台をより良いものにするための原動力になる。
 でも、人が増えるとファンの間でいざこざが増えるようになった。
 ホールの外で言い合いをしているファンたちを見かけることだってある。役が役者に合っていないとか、メインの配役を逆にするべきだとか、そもそも脚本が良くないだとか、舞台を作ったこともないくせに、自分の意見を言いたがるファンが増えた。
 昔は良かった。観劇するのは資産家だけで、みんな、舞台のことや演出のことでぐちぐち言う人はいなかった。そんなことをしている時間があったら、別の舞台を観に行って、自分に合うものを探した方がいい。つまりあたしが言いたいのは、舞台を分かっていないファンが増えたってことだ。
 ネットが発達したこともよくなかった。
 匿名の空間では言いたいことを責任も取らずに言えるようになる。語る場を得てからというもの、舞台を上から目線で語る評論家みたいなのが、SNSに無数に湧いてきて、それだけならばいいのだけれど、派閥を作って争いまで始めた。彼らは国からの監視の目を逃れるため、舞台を知らない人から見たら理解できない暗号文のような用語を駆使しながら、一日中ずっと喧嘩をしている。
 喧嘩だけじゃなくて、仲良く話しているコミュニティがあることは知っている。その一方で、ファン同士の争いが多いことも事実だ。感想を言い合える友人は一人でも多く欲しいけど、攻撃的な言葉で自分の感想を汚されたくはない。
 だからあたしは、悩んだ末に、ネットをほとんど見なくなった。ファンの心情はとても複雑なものなのだ。
 そんなときに、あたしはルイを見つけ、アオイと再会した。
 アオイはすごい。ネットの言葉に汚されず、純粋に舞台を観ている。初めて舞台に行った時のあたしを見ているようで、とってもうれしくなった。
 もっと、アオイみたいな子が増えたらいいのに、そうしたらまた、昔みたいに、新鮮な気持ちで舞台を観て、一体感を感じることができるはずなのに……

「ちょっと早くしなさいよ!」
「ごめーん。グッズ見てたら遅くなっちゃって」
「そういうのは上演前にさっさと済ませて、終わったらすぐに帰るもんなのよ。何度言ったらわかるの?」
「でも、観てるうちに欲しくなっちゃって。帰りに残ってるの見たらさ。それに、これが最後かもしれないし」
「……まあいいけど。さ、行きましょ」
「待ってよー!」
 あたしは舞台ファン仲間のヒナタを置いて、ずんずんと先へと進む。ホールの入り口には、だらだらと喋っている女性がたむろしている。舞台が話題になってから、こういうマナーのなっていないファンも増えた。
 舞台が上演されている白塗りのお城みたいな豪華な建物を出て、あたしは次の計画を練る。
「今日はこの後予定ある?」
「ないよ」
「じゃあ服を見に行こうか」
「うん……」

※    ※    ※    ※

 ヒナタは長年付き合っているあたしだから言えることだけれど、とろい。
 いつも動きが周りとずれている。だからあたしはいつだって、ヒナタを連れまわし、こうしたらいいとアドバイスをする。一緒に居るようになったのは、あたしと同じように親がお金持ちだし、仕事も忙しくないからだけど、一番の理由は落ち着くからだ。
 服装も一緒で、あたしはヒナタと一緒に居る時だけは、肩身の狭い想いをしなくて済む。一方ヒナタのほうは、周りの目なんてまったく気にならないらしく、あたしはそういうところをちょっと尊敬したりしている。絶対に言わないけどね。
 一時期、ヒナタとは別の子とも仲良くしようと思ったことがある。舞台のことを話し合える仲間が欲しくて、SNSを通じて出会ったファンの集まりに参加してみたりもした。でも、結論から言うとダメだった。
 ネット世代のファンはすぐに周りと衝突する。この状況はずっと続いている。自分のこれだと思った作品や登場人物の関係性を絶対だと思っている節があって、人と少しでも感じ方に違いがあると、相手を遠ざけたり、攻撃したりする。
 あたしはこういう性格だから、それはおかしいんじゃない? なんてことを言ってしまって、それで空気が悪くなって、ファンの集まりから離れるということを繰り返した。あたしは線の細い上司を否定されるのはいやだったし、流行りだからといって、強気で相手役を振り回す上司が一番だなんて、誰にも言わせたくなかった。
 そんなわけで、仲間を作ろうと頑張ってみたものの、結局は長く続かず、舞台はヒナタと一緒に観に行くことに落ち着いた。ヒナタはあたしにとって、親友というわけではなかったけれど、とても大切な友だちだった。

※    ※    ※    ※

 考えてみると、ヒナタはショップの時点でおかしかった。
 いつもなら二人で買い物に行くと、あたしに負けないくらい、いや、時にはそれ以上に服を買ったりするのだけれど、その日は何も買おうとしなかった。それどころか、まるで興味がないかのように、あたしの後ろをついて歩くだけだった。
「今日の舞台ってさ、ちょっと客に媚びすぎじゃない? そりゃ、劇団としては人を呼ばないといけないから、男同士の絡みを作品に入れる必要があるってのはわかるけど、それにしてもちょっと多すぎっていうか、やりすぎじゃない? そもそも客の質が悪いのよ。昔はこんなことはなかった。もっと観てる側に創造させる余地があったでしょ。でも今はそういうのがわかんない客が多いから、過激にやれば喜んで、喜ぶからって劇団が絡みを多くしてるってのがわかるのよね」
「うん……」
 あたしはヒナタと服屋に行ったあと、近くのカフェに入った。観劇の後は、あたしの感想をヒナタに聞かせるのがいつもの流れだった。
 でも、今日はいつもと違った。いつもなら、ヒナタはあたしがここだっていう時に相槌を打ってくれるはずだった。「そうだね」とか、「うんうん」とか、言ってくれていたのに、今はなぜか、下を見て考え込んでいるようだった。
「どうしたの?」
 さすがに気になって、あたしは聞いた。
 でも、ヒナタは答えなかった。
 おかしい。ヒナタはいつもぼんやりとしてはいるけれど明るくて、落ち込んだりしているところを見たことがない。それが今日はまるで別人みたいに下を向いて動こうとしない。
「えっと……」
 ようやく口を開いたと思ったら、ヒナタから出てきたのはそんな言葉だった。あたしはだんだんじれったくなって、
「なんなのよ。言いたいことがあったらさっさと言いなさいよ!」
 と強めの口調で言う。それでも下を向いたままなので、あたしはもっと大きな声を出してやろうかと思っていると、
「わたしね。舞台に行くの、やめようと、思うの」
 と、言葉を切るように言った。
 ……今なんて言ったの? 理解が追いつかずに茫然としていると、
「カナエと舞台を観るのはとっても楽しくて、言い出せなかったんだけれど……」
「どういうこと?」
 あたしは、おそるおそる尋ねた。あたしの提案なら何でも聞いてくれて、一度だっていやだとか言ったことなかったヒナタが、あたしから離れようとしている。こんなことってあるのだろうか。
「親にね、配偶者を決められちゃって、もう舞台には行くなって言われているの。わたしはいやだって言ったんだけど、もう大人になりなさいって……」
「そんな……」
 あたしはそんな言葉しか口からでなくなっていた。
 するとヒナタは顔を上げた。今まで見たことのない、あたしを気遣うような、作った笑顔だった。
「こんなわたしでも、遊んでくれてうれしかった。ずっと一緒に舞台を観に行きたかった」
「だったら、親の意見なんて無視すればいいじゃない」
「それはできないの。うちは厳しいから。でもね。配偶者の写真を見たけど、舞台に立っていてもおかしくないくらいの顔だったんだ。とても代わりにはならないと思うけれど、気はまぎれると思う。カナエもどう? 舞台だったらその時にしか会えないけれど、配偶者だったら……」
「やめて!!」
 あたしは思わず立ち上がっていた。怒りで体が震えて、今にも泣いてしまいそうだった。
「この裏切り者!!」
 あたしは荷物を乱暴につかむと、そのまま店を出た。うしろから、ヒナタがあたしを呼ぶ声がした。

 あたしは怒ってた。いつだって怒っていた。
 女性として、人間として生きていたいのに、いつも女性が邪魔をする。女性が生きたいように生きるための社会なのに、社会はあたしを受け入れようとしない。
 あたしを受け入れてくれるのは、舞台の男たちだけだ。触れる必要なんてない。ただ見ているだけでいい。そこには何の差別もしがらみもなくて、本来の意味で、解放されたあたしがいる。
 舞台が、舞台こそがあたしのすべてだ。
 ほかのことは何もかも嘘っぱちだ。みんな上っ面を取り繕って、まるでそこに自由があるみたいに振る舞ってはいるけれど、あたしは一度だって感じたことはない。社会はあたしを自由とは真逆の狭いところに押し込めて、苦しめている。
 あたしは自由になりたい。何もかもから自由になりたい。
 自分がどんな仕事をしていても、何も言われない社会。どんな服装をしていても笑われたりしない社会。そして、配偶者を持たなくても許される社会。
 あたしはただ自由だけを願っていた。

※    ※    ※    ※

 気づくとあたしは家にたどり着いていた。
 移動している時には気づかなかったけれど、あたしは泣いていた。荷物が重い。こんなに買い物をしなければよかった。
 親が見栄のために買ったバカみたいに大きな家のドアを開けて、靴を揃えることなんて気にもせずに、階段を駆け上る。そして、勢いよく部屋に飛び込んだ。
 買い物袋を放り投げ、ベッドで思いっきり泣いた。
 今この時こそ、アオイとルイに会いたかった。
 高校生のあの頃は、なにも考えずに生きていけた。自分のいやなことをする必要はなかったし、服だって自由に選ぶことができていた。誰一人として、あたしのことを否定する人なんていなかった。
 もういやだ。なにもかもいやになってしまった。
 そこで、ノックの音がした。
 ドアは開いたままだったから、相手はそのまま話し始めた。
「今日は早かったですね」
「何の用?」
 あたしは泣いているのを悟られないように、ベッドから起き上がる。
「お話がありまして……」
 言いづらそうにかしこまっている相手は、親の配偶者だった。エプロンをして、いかにも家事をやっていますって姿をしていた。無駄に背が高くて、若い頃は顔が良かったらしいけれど、今ではくたびれて皺もあり、老いが見える。
「出てってよ。あたしは今そういう気分じゃないの」
「ですが……」
 配偶者はそこで黙ったまま動かなかった。あたしは配偶者のそういうところがきらいだった。言いたいことがあったら言えばいいのに、あたしの許可がなければ、口を開こうともしないのだ。
 配偶者は子供を産むためにいる。現代の技術では、子供の性別を選ぶことはできないから、女性を生むまでその仕事を続ける。親が望む人数の子を産むか、必要とされなくなった時、配偶者には大きく分けて二つの道がある。
 捨てられて国の管理下に置かれるか、あるいは、家の雑事をこなす仕事を与えられる。あたしの親は後者を選んだ。
「さっさと言いなさいよ」
 あたしは仕方なく尋ねた。いつもであれば簡単に引き下がる配偶者が動こうとしない理由はわかっていた。
「配偶者のことです。主人から言付かっておりますので、どうかお聞きください」
 配偶者は一般的に、自分を選んだ女性のことを「主人」と呼ぶ。戦後からいくつもの呼び方があったそうだけれど、今ではだいたいこの呼び方に落ち着いている。あたしはそれがいやでたまらない。主人と呼ぶことで、自分がこの家にいることを許されていると誇示しているように感じるからだ。
 配偶者は続ける。
「主人は心配しています。あなたがこのまま配偶者を選ばず、独り身でいるつもりなら、この家を出て行ってもらわなければならない。そんなことまで考えておられるそうです。あなたが検討するとおっしゃれば、すぐにでも、優秀な候補を集めるとのことです。どうかご検討ください」
 あたしは、その中身のない、感情のこもっていない言葉を聞きながら、とてもいやな気持になっていた。体型が崩れ、肌の張りも消えてきた、醜い姿をさらす男。あたしだってバカじゃない。子供の時からずっと、配偶者が男であることを知っていた。こんなのが男だとしたら、社会からいなくなって当然だとも思っていた。
「これでも譲歩されているのです。それが、あなたは主人の優しさにつけこみ、配偶者選びをずっと先送りにされている。主人は厳しいことをおっしゃっていますが、あなたのことをとても心配されているのです」
「うるさい!」
 あたしは我慢しきれなくなって叫んだ。配偶者はあたしの声に驚いて固まった。
「なんか心配してるって言うけどさ、だったら直接言いに来たらいいんじゃない? あの人って、言いたくないことはだいたいあんたに言わせて、自分は甘やかすだけ。それで、あたしが言うことを聞かないってなったら、出て行けって脅す。それでちゃんとした親だとか思ってんの? 笑わせないでよ。自分で言いなさいよ! あんただって、ほんとはどうでもいいと思ってんでしょ。仕事だから仕方なく悪役をやってやってるって思ってるんでしょ!」
「そんなことは……」
「出てってよ! 言いたいことがあるなら直接言えって伝えてよ! あたしは今が一番幸せで、親の言われたとおりに配偶者を持つなんてしたくないって!」
「しかし……」
 配偶者の動揺が伝わってくる。あいつはこんな時、困って慌てることしかできないんだ。何故って自分の考えが全くないから。
「出てけっていってんの!!」
 部屋に響く大声を出して、ようやく配偶者は扉を閉めて出て行った。ほらみたことか、なんにも言えない。あいつのおびえた顔、醜くてしょうがなかった。
「きもちわるい!」
 ずっと思っていたことだけど、口に出さずにはいられなかった。
「きもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもい!!」
 誰もあたしのことなんて考えてくれない。
 そしてあたしは、またベッドで泣いた。

 

 

第三章 ルイ

 ぼくはアオイやカナエとは違う。
 この前二人と会って、改めてそのことを実感した。そんなことは、高校の頃は思ってもみなかったことだった。もしかすると、気づこうとしていないだけだったのかもしれない。
 でも、会えてよかった。
 二人と会って、あの頃の自分に少しだけ、戻ることができた気がした。
 ぼくは今の生活が体に染みついている。
 男と接することが増え、考えも世の女性とは大きくずれている。でも、これからやる舞台には、あの頃の気持ちこそが必要なのだ。見るものすべてが美しかったあの頃。ぼくは良い刺激を受けたと満足していた。
 だが、稽古場に入ると、その余韻は一瞬で消え失せてしまった。
「お疲れ様です!」
 整列した男たちの野太い声が響く。
 男が数十人集まる稽古場で、女性はぼく一人しかいない。
 ぼくはここでは常に厳しい表情を維持する。男に弱みを見せれば付け込まれ、言うことを聞かないものも現れるからだ。全体の規律が乱れるということは、スケジュールにも影響をあたえることになる。限られた時間のなかで最大のポテンシャルを発揮するためには、少しの油断も許されなかった。
「あと十分で始める。今日は通しでやるから全員準備しておけ!」
 ぼくは、稽古場に響き渡る大声を出す。空間が張り詰めることがわかる。
「うす!!」
 男たちの声で稽古場が震える。
 これがぼくの生きる世界だ。

※    ※    ※    ※

 ぼくは社会にいてはならない存在だった。
 社会には女性と男がいる。大多数の男は低賃金労働で一生を終え、一部の男は配偶者として女性の家で子を産むために管理される。
 男の扱いは法により厳密に管理されているのだが、時として、あってはならない事件が起きることがある。ぼくにはその内情を知る権力をもっていないが、話に聞くところによれば、労働から逃げ出した男が女性を襲う場合、そして、これは絶対に公になることはないが、女性が男を囲う場合……
 どちらにせよ、正規の手続きで生まれなかった子どもは、孤児として施設に入れられることになる。それがぼくだ。
 ただ、扱いは悪くない。施設は万全とまでは言えないものの、専門の職員が最低限の食事や教育を与えてくれるし、高校までの学費は保証してくれる。
 物心ついた時、ぼくは施設に居て、何も知らない状態だった。だが、ほかの施設の子がそうであるように、同じく孤児の年長の子どもから、世界のしくみと自分たちの出生の秘密を知らされる。そこで苦しみ、心に鬱屈を抱える子どもも多いが、ぼくはあまり気にしなかった。
 自分でも不思議なのだが、ぼくは子どものころからどこか冷めた目で世界を見ていて、年長の子どもの悪意にも、同い年や下の子たちの鬱屈にも流されず、ただ、施設から提示される「するべきこと」をやり続けた。
 落ちこぼれていく子も多いなか、ぼくはまじめに勉強し、そして、優秀と呼ばれる点数をたたき出し、地域でもレベルの高い高校に入学した。
 そして、ぼくはアオイとカナエに出会った。
 高校は楽しかった。進学校のため、周囲の人間は無駄な干渉よりも受験に向けて努力していたし、ぼくも迷うことなく、授業だけに専念した。
 なにより、アオイとカナエがいた。二人はぼくのことを大切にしてくれたし、ぼくもまた、はじめて親友と呼べるものに出会ったと思った。
 だが、その幸せな時間も、長くは続かなかった。
 施設出身の人間は、高校までの人生しか保証がない。
 優秀なもののなかには、奨学金をもらいながら大学に行くものもいるが、たいていの孤児は、高卒の人材として社会に紛れ込む。社会に出て、所属した企業で人の役に立つことの大切さを知り、十年も働けば出自のことなど気にされなくなる。それでようやく孤児たちは、これまでため込んできた鬱屈から解放されるわけだ。
 しかし、ぼくは卒業を間近にして、自分がどうするべきかについて悩んでいた。奨学金をもらって大学に行きたいと言えるほど学びたいと思えるものはなかったし、かといって、やりたい仕事があるわけではなかった。このことは、アオイにもカナエにも相談できなかった。二人は、他の生徒と同じように早々に大学へ行くことを決めていたからだ。
 そんな時、施設の先輩からぼくに声がかかった。
 施設の孤児でも珍しく歪んだところがない、年上だろうと年下だろうと分け隔てなく接する優しい先輩だった。理由はわからないが、先輩はぼくを気に入ってくれていて、施設で出会った子どものなかでも唯一、もう一度会ってみたいと思える人物だった。
 先輩の名前はリオ。
 呼び捨てなのは仕方ない。本人がそう呼べというからだ。
「おれは確かに評価を受けた。だが、作品やそれを作ったスタッフ、役者がすごいだけで、おれがすごくなったわけじゃない。呼び捨てにしろって言ってるのは、自分が偉いなどと思わないための戒めだ」
 そう言うリオは、今でこそ裏方に回って後進の育成と舞台に立つ前の男たちの演技指導をしているが、当時は、若いながら高い評価を受け、業界で一、二を争う演出家だった。
 リオに連れられてはじめて見た舞台に、ぼくは衝撃を受けた。
 その舞台は、今考えると、明らかに法律違反の作品だった。王位継承の争いに巻き込まれ、やむなく男の姿に身をやつさなければならなかった女王が、男との友情を育んでいく。
 舞台は厳密な規制によって上演される。
 女性が男と、あろうことか友情をはぐくむなど題材として選んではならない作品であった。こんな作品、許可が出るわけがないのだが、当時はまだ、国の管理が行き届いていないところもあり、舞台の演出家やスタッフだけが内々で集まる地下劇場が存在していた。
 ぼくはその感動に支配されたまま、リオについていくことを決めた。
 リオは悪いやつだ。施設でともに本を読み、映像作品を見て、人物の関係性や心の動き、物語構成について語り合った仲ではあったが、今思えば、その時点でぼくは目をつけられていたのだろう。あのとがった作品を見せれば、ぼくがうんと言うと分かっていたに違いない。
 かくしてぼくは、アオイとカナエに何も言わないまま、舞台の世界に踏み入れることになる。それがこれほど評価され、日の目を見ることになろうとは思ってもみなかったわけが……

 ほかの劇団のことはどうだか知らないが、演出家の仕事は多岐にわたる。
 既存の脚本の選定、あるいは脚本家への依頼。この段階で、作品のイメージをほぼ固めてしまう。
 台本ができれば、役に合う役者を選び、稽古全体のスケジュールを組む。この仕事は別の劇団であれば、舞台監督という職を置いて分担するものらしいが、ぼくは全体を把握したいという理由から、できるだけすべてを自分で管理するようにしていた。もちろん助手は置いているが、最終的な判断は、ぼくが下すことになる。
 稽古が始まれば、役者一人ひとりの演技に指示を出すだけでなく、美術スタッフとの打ち合わせにも参加する。小道具、大道具、衣装の選定を行うほか、音響や照明の各スタッフにも、作品のイメージを伝え、具体的な指示を出す。
 目が回るような忙しさだが、やはり特に力を入れているのは、役者の演技だ。これだけは、ほかの部分とは違い、人任せにするわけにはいかず、すべてぼくが管理している。
 幼いころから厳しい教育を受け、選び抜かれた男たちの能力は高い。しかし、有能であるがゆえに思い上がるもの、協調性に欠けるものが大半だ。
 だからこそ、演出家の力が問われる。
 集められた男たちはみな、自分が世界で一番演技が上手いという誇りがある。自らの演技を否定されると露骨に反抗する男もいる。
 そんな時、演出家は女性のままではいられない。ある時は男の気持ちに寄り添った優しい言葉をかけ、ある時は厳しい言葉で叱責する。演出家とは男側の視点で物事を見なければならないのだ。
 はじめはぼくも舐められていた。おれたちの考えがわかるものかと態度で示し、ぼくの言葉を無視することだってあった。いちスタッフとして劇団に配属されていた頃は、ぼくの言うことなど誰も聞かず、心が折れそうになったこともあった。
 だが、ぼくは諦めなかった。
 男の気持ちを熟知したうえで、的確な指示を出し、男たちのやるべきことを指し示す存在となる。このことが出来るようになるまで、五年以上の年月がかかった。リオに言わせると、それでも早過ぎるということであったが、ぼくは自惚れることはなかったし、だからこそ、今でも仕事を続けられているのだと確信している。
 今のぼくは、男たちに言わせれば、隊長であり、指揮官であった。その地位に立つことができたことで、作品に与えた影響は大きかった。
 がさつでありながら男の心は繊細だ。自分の演技に自信を持ちながら、常に不安を抱えている。無駄な虚勢を張り、それで演技の質が落ちる。大切なのはリラックスをさせることだ。コミュニケーションを取り、安心させる。男への共感と毅然とした態度が、演技の指示に説得力を持たせる。
 ぼくについていけば安心だ。そう思わせるものでなければ、演出家は務まらない。
 また、男に考えさせることも重要だ。
 劇団に入ることを許される男たちは、演技については徹底した指導を受けているものの、自分で考える訓練ができていない場合が多い。自立した考えが個性となり、それが舞台上で合わさることで、作品の出来が変わってくるため、稽古では、
「なぜその動きをした」
 と聞くことがよくある。
「わかりません。こうした方が良いと思いました」
「言語化しろ。お前らは台本を読む力と身体操作の能力は持っているが、全体の流れや、台詞、動作の一つ一つの意味を理解できているものは少ない。本物の役者になりたいのなら、なぜそうであるのかを常に考えろ」
「うす!」
 そのようなやり取りを何度も繰り返しやっている。
 仕事を始めてから間もなく十年、ようやく劇団も育ってきた。ぼくが今準備している舞台は、その集大成となるはずだ。このためにぼくは生きていたと言っても過言ではなかった。

 稽古が終わると、男たちを引き連れて飲みに行く。
 本当のところを言えば、美術スタッフとの打ち合わせなどやることは山のようにあるのだが、これをやっておかなければ、すぐに男たちの気持ちが離れていく。かくも男というのは面倒な生き物なのだ。
 ぼくたちが行くのは隔離区画の居酒屋。女性社会では忘れ去られた飲食店の一形態だが、男が作る街では健在だ。酒を流し込み、肉を食らうということに関しては、これほど効率的な場所はない。
 女性の社会と男たちのいる隔離区画はまったくの別物だ。舞台を上演する劇場は隔離区画の外周に沿って立ち並んでいるのだが、その向こうには、異世界が広がっている。
 男だけが集められる労働区画ほど劣悪な環境ではなく、むしろ慣れれば住みやすい場所ではあるのだが、それでも、両方を行き来すると、あまりの光景の違いに体が追いついていかなくなる。
 酔った男たちの殴り合いが日常的に発生するこの街は、治安が良いとは言えないものの、案外悪い場所でもなかったりする。男たちが身を寄せ合って住む古ぼけた集合住宅とお世辞にもきれいと言えない飲食店や飲み屋の入った雑居ビル群。すべてが整理され、美しくあることが重視される女性の街とは完全に趣を異にしている。
 すべての男がそうだとは言わないが、気のいい奴らばかりで、毅然とした態度で接すれば、むしろ素直に人の話を聞き、時にぼくを笑わせたりもしてくれる。
 だからぼくは、この街をきらいにはなれない。

※    ※    ※    ※

「タイショウ、今日はよろしく」
「おう、ルイさん。席は空けてるよ」
 店主を何故タイショウと呼ぶのかは知らない。男たちの街に来て、リオに居酒屋に連れて行ってもらってからずっとそう呼んでいるから、深く考えたことはない。
 ぼくはカウンター席に座り、十数人の役者たちが、半個室となった広いテーブル席へと進む。男たちが席に着いたのを見計らって、ぼくはタイショウに人数分のビールを頼む。
 あとは役者たちが勝手にやる。ぼくはいつも、ひとり離れてカウンター席で酒を飲む。店はすぐに騒がしくなり、男たちが演劇論を戦わせたり、どうでもいいバカ話をして騒いでいるのを聞きながら、無言で酒を飲むのが、ぼくのいつもの習慣だった。
 はじめは面食らったが、今ではこれが心地いい。掃除はされているが、古くて雑然としている店内で、焼き鳥を食べ、ビールを飲む。たまにタイショウと話をして、舞台や役者について話す。普段はなるべく威厳を保ち、自分の考えを表に出さないぼくも、タイショウにだけは口が軽くなる。
「ルイさん。若いのはどうだい?」
 タイショウが焼き鳥をカウンターに置きながら話しかける。
「最近は養成所のカリキュラムが整備されているからみんな能力は高いよ。でもその分熱量みたいなものは足りないかもね」
「なるほどねえ。おれの時とは違うってことか。あんときは上から殴られながら演技を覚えて、下のやつに抜かされねえように必死に足掻いて、それで鍛えられたもんだが、今どきは違うんだろう?」
「今役者を育てるのは養成所だよ。でも養成所じゃ精神までは鍛えられない。リオもその辺は頑張っているようだけど……」
「リオさん! 懐かしいねえ! 歳を取ってからだが、あの人の舞台に立ったことがある。また会いてえなあ!」
「今度言っとくよ」
 男たちの街は、ほぼ男だけで経済が回っている。役者以外の仕事に就く男たちも元役者であることがほとんどだ。才能があれば、役者は何歳でも続けられる。中年や老人などの役は少ないながらも舞台に欠かせない。だが、競争に敗れる、あるいはなんらかの理由で舞台に立てなくなった場合、舞台の裏方に回るか、タイショウのように街での職を得る。
 この街では、どこに行っても知っている顔がいる。だから気兼ねがない。居心地がよくて当然だ。

 少し酔いが回ってきたころ、ぼくの横に男が座った。ぼくが店に連れてきた役者のひとりだ。
「なあ、この公演が終わったら、もっと良い役をくれよ。おれの方が、ほかのやつらよりうまくやるってのはわかってるだろ?」 
 酒臭い顔を近づけて、ぼくに絡んでくる。
「おい、飲みすぎだ。相手を選べよ若いの!」
 タイショウが男を諫める。普通であれば、このように男が女性に近づくことなどあってはならないことだが、ぼくは黙っていた。なぜなら今準備している舞台に関してだけは、ぼくに弱みがあるからだ。しかし……
「いいんだよ。なあ! おれがいなけりゃ成立しねえんだから、このくらいは許されるんだよ」
 そして男がぼくの肩に手を触れようとしたとき、
「図に乗るな!」
 ぼくは大声を出し、男の腕を跳ねのけた。男はおびえた顔をしていた。
「ぼくがあの役をお前に渡したのは、確かにお前の演技を信用しているからだ。だが、それによって調子に乗るのなら、扱いを考えなくてはならない」
 ぼくがよどみなく言うと、男は目が覚めたように、
「ルイさん。すみません! おれ、どうかしてたみたいで……」
 と立ち上がり、何度も頭を下げた。
「今回のことは許してやる。席に戻れ」
 男がすごすごとテーブル席に戻ると、店の中に静寂が訪れた。

 居酒屋を出て、男たちを解散させたあと、ぼくは一人で別の店へと向かった。普段はそのようなことをしないのだが、今日は飲みたい気分だった。
 飲食店街から路地に入り、薄暗い道を進むと、ぼくの目的の店がある。地下に伸びる階段を下りて、たどり着いたのは、かつてリオに連れて行ってもらったことのあるバーだった。
「マスター、空いてるかい?」
「ルイさんじゃないですか。こりゃあ珍しい」
 マスターが、なぜタイショウでないのか理由はわからない。
 カウンターと、三つほどのテーブル席がある狭い店内で、ぼくは一番奥の席を選んだ。まだ早い時間だったのか、ほかの客は誰もいなかった。特にこれが飲みたいというものもなかったので、マスターにおすすめを頼む。
 ぼくの様子を見てなにかを察したのか、マスターは無言でテーブルにカクテルを置き、それから話しかけることもしなかった。
 今日は飲みたい。酒を楽しむのではなく、ただ酔っていたかった。女性専用住居区画に戻ってやることはたくさんあるのだが、それでも今日は酔いたかった。
 頭にアルコールが回るのを感じながら、けれどぼくは、完全に酔うことはできなかった。ぼくに酔わせない何かが、頭の隅にわだかまっている。ほんとうにあれをやるのか。しかしすでに稽古も始まっている。大掛かりな舞台で、とても危険な賭けでもあった。
「ここ空いてる?」
 顔を上げると、全身にぴったりと張り付く体のラインを強調した服を着た女性が立っていた。それはぼくと同業の演出家である、セナだった。
 ぼくは今まで気にしていなかった店内を見回してみる。ぼくと彼以外、客は誰もいない。
「どうぞ……」
 ぼくが言うと、セナは椅子に座り、片手をあげてマスターを呼んだ。彼は、
「ブランデー」
 とだけ言って、長い髪を振り、ぼくの方を見た。
 そのしぐさすべてに女性が満ちている。ぼくがまさにそうなのだが、男と生活を共にしていると、男のしぐさみたいなものが体に染みつく、それがないということは、よほど強烈な自意識を持っているといえるだろう。
 マスターがテーブルにグラスを置くと、セナはブランデーを一口含み、
「この前のあなたの舞台、評判良いみたいね」
 と言った。ぼくは警戒していた。
「まあね。そっちだって、満員らしいじゃないか」
「アタシのは客に媚びてるから。あんただってそう思ってんでしょ? 部活ものってのは、顔のいい男を集めて、服脱がせるか躍らせるかしときゃ、客はついてくる。そりゃそうかもしれないけど、客はそんなに単純じゃない。客の反応を見て、アタシだっていろいろと考えてんのよ」
「ぼくはむしろ尊敬しているよ。客が何を求めているかなんてよくわからないし、わかってたとしてもうまくできないんだ。ぼくは自分がやりたいと思うことをやってるだけだよ」
 セナはぼくをにらみ、酒をあおって溜息をついた。
「それっていやみ? いや、違うんでしょうね。悔しいけど、あんたは天才よ。学生と先生の二人、しかも直接会話するのはわずかで、ほとんど手紙のやり取り、あの原作を、あれだけうまく料理するとはね。女性の存在は示されるけど、舞台には出さないってのもうまいやり方。ありゃ勝てないわ」
 褒められているのはわかるのだが、それに返す言葉を思いつかず、ぼくは黙っていた。それに、セナがぼくをほめるためだけに話しかけているとも思えなかった。
「……なんでアタシが話しかけてるのか、不審に思ってるんでしょ?」
 セナが言い、また酒を口にした。
「ほめてくれるのはうれしいけど、それだけじゃないんだろう? ぼくは君に恨みを買うようなことをした覚えはないけど」
 男の街にはいくつもの劇団があり、それぞれに演出家をはじめ、劇団を運営する女性がいるが、ほとんど接点はない。街ですれ違うことはあっても、基本的に挨拶すらしないし、恨まれる理由などあるはずがなかった。
 ほかの劇団の舞台を見ることはあっても、作っている人間には干渉しない。それが舞台に携わる者の暗黙のルールだった。
「恨みならずっとある。あんたは気づいていないかもしれないけど、ほぼ同時期に評価を受けたあんたとアタシは、ずっと比較されてきた。最初はそんなことどうでもいいって思った。客を呼んだ舞台が一番だと思ってたし、今でもそうだと思ってる。でも、あんたの舞台はやっぱり別物。呼んだ客の数はアタシのほうが多いかもしれないけど、わかってる客は、あんたの方が上って気が付いてる」
「それを言いに?」
 ぼくは核心に踏み込む。とてもいやな予感がしていた。
「あんたの舞台の情報は掴んでる。やめておきなさい」
「人の舞台に口を出す気かい? そんなことをする権利は――」
 ぼくの声は、焦って上ずっていたかもしれない。
「いいのよ。ごまかさなくったって。アタシにはわかってる。舞台をやると一度は夢見ることだけれど、それは固く禁じられている」
「何のことだか……」
 そこで、セナは酒を飲み干して、席を立った。
「警告はしたから」
 セナはカウンターに紙幣を置き、バーを出て行った。
 ぼくは、彼の背中を見送ることしかできなかった。

第四章 アオイ

 その舞台は、いつも観ているものとは明らかに違っていた。ホールの入り口付近を見るだけでも、それがわかった。
 まず、グッズ販売のブースが一切置かれていない。これだけでも異常な状況なのだけれど、会場入り口で配られるフライヤーもなければ、会場案内にタイトルすら掲載されていなかった。
 買うにしろ買わないにしろ、とりあえずグッズを見て回る。習慣として体に染みついた行動ができなくて、ホールの周りで待っている観客はどこか手持無沙汰に見え、いつものような活気もなく、不思議な空気が流れていた。
「ルイは何かやるつもりね」
 隣に立っているカナエが言った。
「どういうこと?」
 私は聞き返す。観劇経験の長いカナエには何か思うところがあるようだ。
「アオイにはわからないだろうけれど、右を見ても左を見ても、熱心なルイのファンばかり。これがどういうことかわかる?」
「……わからない」
「今じゃ滅多に見られないことだけど、あたしが舞台に通い始めたころ、一度だけこれに近い雰囲気を感じ取ったことがある。身内、つまりは周りに口外する心配のない、信頼のおけるファンだったり、関係者だけを集めて上演するってやり方」
「特別な舞台ってこと? 確かにいつもと雰囲気は違うけど」
「あたしが観たのは、台詞のない、全編無言で演じられた作品だった。ほかにはない斬新な構成で、今考えても挑戦的な作品だったと思う。後で知ったことなんだけれどね、実験的な作品を上演するときにはこうやって、ファンだけを集めてお披露目して反応を見るらしいのよ」
「ふうん。じゃあ反応次第で内容が変わったりするの?」
「その通り。演技や見せ方を調整したり、会場の規模を変更したりね。作品の反響を想定したうえで上演スケジュールを組むってわけ。まあ、実際始まってみないと何もわかんないけど、わかってることは、あたしとアオイはルイから信用してもらってるってことね」
「それはうれしいことね」
「ま、そういうこと」
 二人で話しているうちに扉が開き、上演案内が始まった。いつもは騒がしいホールのなかも、今回ばかりは妙に静まり返っていて、私は落ち着かなかった。

 まもなく予定されている上映開始時間。
 静寂が支配するホールでは、詰めかけた観客の息遣いや荷物を動かす音だけが響いていた。
 ブザーが鳴り、ホールが暗くなる。私は息をのんで、幕が上がるのを待っていた。しかし、幕はなかなか上がらず、代わりにスポットライトが舞台袖を照らした。
 現れたのは、スーツを着て正装したルイだった。これまでの舞台では見たことのない光景だった。
 カナエは小声で、
「やっぱりね……」
 とつぶやいた。
 マイクを持ったルイは、幕の前の中央に立ち、ホールのざわめきが静まるまで待っていた。そして、ルイが口を開く。
「これから上演いたしますのは、ウィリアム・シェイクスピアの不朽の名作『ロミオとジュリエット』でございます。五百年以上前に生み出されたこの作品は、現在では上演されることもなく、原作となる戯曲に触れることすら困難です。その理由は、舞台を観ていただければ、次第にお分かりになることと存じます。なぜ演目を伏せ、信頼を置ける皆さまだけを招待したのか、疑問を持たれている方も多いのではないでしょうか。この謎もまた、物語が進むにつれてご理解いただけると存じます。皆さまにおかれましては、この舞台のことを、くれぐれも口外なさらないようお願いいたします。もしもお約束できないという方は、上演前に席をお立ち下さい」
 そこでいったん言葉を切り、観客を見回した。
「残られたということは、お約束していただけるということですね。ご協力いただきありがとうございます」
 ルイは深く礼をした。
「舞台なるのは十四世紀のイタリア、ヴェローナという地方の貴族の物語です。モンタギュー家、キャピュレット家、互いに相反する貴族の両家にそれぞれ生まれた、ロミオ、ジュリエット、二人の物語」
 そこでルイは大きく息を吸った。
「それらの時代設定をあえてあいまいにし、衣装をはじめ美術関係も、無国籍なものとすることで、皆さまにも受け入れやすいものといたしました。登場人物の感情の高まり、そして交わされる言葉のやり取り、そのようなものを、時代と場所を超えて受け取っていただきたいと考えております。われわれとはあまりにも縁遠い物語ではありますが、どうか最後までお付き合いください。それでは上演を開始いたします」
 ルイはもう一度深く頭を下げ、素早く舞台上からはけていった。
 そして、幕が上がった。

 ロミオとジュリエットは、前口上を語る役が登場することで始まった。
 この形式はまず、ほかの舞台では見られないものだった。詩のように語られる両家の不和。物語は、その役者が退場することで始まった。
 序盤、中心となる登場人物は、モンタギュー家の子、ロミオとその友人であるマキューシオとベンヴォーリオ。ロミオは友人二人に、自らが思いを寄せている女性への情熱を抑えられないと話す。
 まずここで私は驚いた。この舞台では普通に「恋」という言葉が使われている。あまりに自然に使われるので、理解するのが数テンポ遅れてしまったほどだ。恋とはよほど古い本にしか出てこない、現在では使われることのない言葉だった。
 それとは別に、私はこの、マキューシオとベンヴォーリオという二人の友人たちに引き付けられていた。荒々しく、軽口を叩くマキューシオと、いつも冷静で、二人の友人を諌めるベンヴォーリオ。ルイは五百年前に作られた話だと言っているが、そんなことを感じさせない魅力的な人物だった。
 人物をある程度把握すると、美術にも目が行った。あえて無国籍にしたとルイは言っていたが、なるほど、話の流れから上流貴族の邸宅や人々の街並みがうかがい知れるけれど、背景自体は段差や高台など驚くほどシンプルなもので構成されていて、表面には幾何学模様が描かれ、観客に想像させるものとなっていた。
 恋に悩むロミオにベンヴォーリオは、キャピュレット家の晩餐会に紛れ込み、新たな相手を探すことを提案する。
 そして、舞台はキャピュレット家の一室へと移る。
 私はそこで度肝を抜かれた。ホールでも、声を抑えた小さな叫び声が上がった。
 ジュリエットは女性であった。
 これはカナエに聞いたことだけれど、舞台では、女性が舞台に立つことは禁じられている。私が観た舞台でも、存在が示唆される舞台はあっても、女性が、仮に男が女装したものであったとしても、登場した作品を見たことがない。
 けれど、ジュリエットは紛れもなく女性だった。装飾がちりばめられた豪華なドレスに身を包み、彼女(この言葉を使う時が来るとは思わなかった)は確かにそこにいた。その優雅な身のこなし、立ち振る舞いはまさに女性であったけれど、よく見てみるとそれは女装した男であることがわかった。
 不思議なことに、物語は進んでも、女性はジュリエットだけだった。
 モンタギュー家の家長にも、キャピュレット家の家長にも、妻(夫人と呼ぶべきだろうか。どちらも現在では使用してはならない言葉だ)が出てくるし、ほかにも立場上、女性らしき登場人物もいるのだけれど、女性として表現されているのはジュリエットのみ。服装も、角ばったシルエットを持つ礼服、あるいは着崩したシャツ、パンツで統一され、それらは普段の舞台で見るものに近かった。これがカナエの言っていた実験的な試みの一つなのだろう。
 かわいらしく、そして美しい、魅力的な女性として舞台上を飛び回るジュリエットは、晩餐会でロミオと出会う。キャピュレットの妻の甥であるティボルトが警戒するなか、ロミオは、あろうことか、ジュリエットと、口づけをする。
 これにはさすがに大きめの悲鳴が上がった。
 こんなこと絶対にあってはならないことだ。過激な舞台では、男同士で頻繁に行われていることであるけれど、女装をして、しかもそれが女装をしている男ではなく、女性とされた人物が男と口づけをする。小説でもテレビでも映画でも、どんなに過激で、どんなにグロテスクな描写がある作品でも、ここまで明確に描写された場面は見たことがなかった。
 私は頭が混乱して、めまいがした。
 その後、ジュリエットはロミオがモンタギュー家の者であると知り、運命の残酷さを嘆くことで、第一幕目は終了する。

 私は観てはならないものを観ている。こんな事何らかの法に触れているに決まっている。ルイは私を、ここに集まっているファンを、共犯者にしようとしている。
 けれど、何故か、観客はロミオの行動に悲鳴を上げはしても、抗議の声を上げることはなかった。それほどに、登場する役者たちは美しく、演技が洗練されていて、観客のだれもが舞台の作品世界に魅せられていた。
 ロミオの美しさは当然のこととして、女性として登場するジュリエットが、ため息が出るほど美しかった。
 女性が女性として描写されるだけで、どうしてこんなにも美しいのだろう? それはロミオの美しさを際立たせるものでもあった。ジュリエットの魅力が、ロミオの男としての美しさを際立たせる。大きな動きで会場を走り回り、感情を爆発させるロミオに、会場は魅了されていた。
 まわりを固める役者も魅力的で、ロミオの友人であるマキューシオとベンヴォーリオはもとより、ジュリエットの世話役(ばあやと呼ばれていた)も個性派の役者が良い味を出していて、時には笑いが起きるほどだった。
 第二幕が始まる。
 晩餐会が終わって、マキューシオとベンヴォーリオが帰った後も、ロミオはキャピュレット家の邸宅に残っていた。ジュリエットへの想いを胸に、たどり着いたのは、二階(セットの都合で階数はわからないが)のジュリエット部屋が見える場所だった。
 窓辺に現れたジュリエットは、ロミオへの想いをつぶやき、それを聞いたロミオに声をかけられる。二人は想いを伝えあう。スポットライトに照らされたジュリエットはあまりにも美しく、使う言葉もまた、その姿にふさわしいものだった。
 ジュリエットは言う。
“この通り、私の顔は夜という仮面が隠してくれている、でもなければ、私の頬は娘心の恥ずかしさに真っ赤に染まっているはずですわ。だって、今夜はあんなことを立ち聞かれてしまったのですもの。そりゃ出来ることなら、私だって世の常の娘らしく、さっきの言葉はみんな嘘だって、言いたい心は山々ですのよ。だけど、体裁なんて私もいや! 愛してくださる、本当に? ええ、と言って下さるわねえ”
 ジュリエットの言葉に、隣からカナエの深いため息が聞こえた。私には想像することしかできないけれど、カナエにとって、ジュリエットは理想の姿なんじゃないかって思った。どこまでも淑やか(こんな言葉は女性に対して一切使ってはならない)で、美しくて、強い心を持っている。
 二人の会話は、世話人の呼ぶ声で中断させられる。そしてジュリエットは、ロミオに使いの者を出すことを約束する。
 ロミオはそのままの足で、ロレンスという名の神父(こういう時、本を読んできたことを恨む。知らなければ気にならない言葉が、引っかかって仕方ない)のもとへ向かい、助言を求める。翌日、ジュリエットの使いの者(世話人)が現れ、ロミオはロレンスのもとで結婚すると宣言する。
 結婚!! 
 性別の異なる二人が契約を結ぶ行為。戦前には、生涯を共にすると宣言する結婚式と呼ばれる儀式が盛大に行われていたという。私の読んできた本には、結婚とは男が女性を支配していた時代の諸悪の根源であり、結婚式もまた、唾棄すべき儀式とあった。これが平然と台詞として出てくるということがどういうことか、観客の何人が気づいているのだろう?
 私はこの舞台で、一体いくつもの、観てはならないもの、聞いてはならない言葉に触れなければならないのだろうか。けれど、不思議と恐怖は感じなかった。この先の物語が一体どうなってしまうのか、そればかりが気になって、法律のことなどを考える余裕はなくなっていた。
 世話人はロミオの言葉をジュリエットに伝える。ジュリエットはほかのものに見つからないように、ロレンスのもとへと向かう。
 二人は想いを交わし、第二幕が終わる。

 第三幕は、マキューシオとベンヴォーリオの登場から始まった。
 この時点で、私はこの二人のファンになっていた。ところが、すぐに雲行きが怪しくなる。二人の前にモンタギュー家をきらうティボルトが現れ、さらにそこに、ロミオも合流する。
 ティボルトはロミオを挑発するけれど、ジュリエットと結婚することを決めた以上、ロミオは手を出すことができない。それを見ていたマキューシオが我慢できずに腰の剣を抜く。ティボルトもまた剣を抜き、二人は斬りあう。ロミオは闘いを止めようとするけれど、マキューシオはティボルトに刺されてしまう。
 ここでまたしても悲鳴が上がった。
 私も思わず声を上げてしまいそうだった。マキューシオは口数の多さで本心を隠しているけれど、本当は情に厚く、仲間のために命を張ることのできる、とても魅力的な人物だった。もちろんこれは私の想像も混じっているけれど、それくらい私の心を掴み、だからこそ悲しかった。
 マキューシオの死を知ったロミオは、自らも剣を抜き、ティボルトと戦う。そしてティボルトは、ロミオに刺されて倒れる。
 そしてロミオは罪人となった。
 ティボルトの死とロミオの追放を嘆くジュリエット。一方、ロミオはロレンスのもとに身を隠していた。そこで自身の追放を知ったロミオの言葉は、私の心に深く突き刺さった。私はまるで自分の体ではないみたいに心臓が跳ねるのを感じた。
 ロレンスから死罪ではなく、追放なのだからと諭されるロミオは、
“いえ、ヴェロナの外に世界はありません。どこもすべて苦界、煉獄、いや、地獄そのものなのです。ここから追放されることは、世界中から追放されることであり、世界中からの追放は、結局死なのです。してみれば、追放というのは、死罪ということの美名に過ぎない。死罪をただ追放と呼ぶことによって、あなたは黄金の斧で、私の首をはねて、一撃必殺、その切れ味、腕の冴えを、得意気に笑っておられるようなものだ”
 と嘆く。
 私には、ロミオのように、何かを求めたことがあっただろうか。いつも、他人や社会の要求に応えることに必死で、自分から何かしたいと思ったことがない。あえていうとするなら、舞台に行こうと思ったことくらいだ。私もロミオのように、それこそ、できないなら死んだ方がましだと思えるようなことに、この先出会うことができるのだろうかと考えて、胸が苦しくなった。
 ロミオは出立の前にジュリエットに会いに行く。けれどそれは、悲しみにあふれた別れの前の最後の密事だった。一方、キャピュレット家では、嘆くジュリエットを癒すため、青年貴族であるパリスとの結婚を進めようとしていた。
 そして第四幕。
 ジュリエットはロレンスのもとへ向かい、助言を求める。ロレンスは一時的に仮死状態となる薬を彼女に渡し、墓所に収められた後に、ロミオが救出する作戦を提案する。言われたとおりに薬を飲み、永い眠りにつくジュリエット。荘厳な葬式が催されるなか、ロレンスは出立したロミオに手紙を出す。
 第五幕。
 私はこの時点でいやな予感がしていた。この作品の原作がどのようなものかを知らないし、シェイクスピアという作家の他の作品だって知らない。なのにこれまで読んできた、観てきた作品の経験が、私に警鐘を鳴らしていた。
 私は息をのんで、その時を見守っていた。
 出立したロミオはマンチュアという場所にいる。そこでロミオはジュリエットの死を知り、自らも死ぬつもりで毒薬を買い、墓所のあるヴェローナに戻る。ロレンスの計画を知らせる手紙は、不運なことにロミオには届かなかった。
 墓所でジュリエットの体を掘り返そうとしているロミオは、ジュリエットの結婚相手とされていたパリスに見つかる。
 二人は互いに剣を抜き、戦いの末、ロミオはパリスを斬る。
 またしても人を殺めたロミオは絶望し、毒薬をあおり倒れる。
 そこに現れるロレンス。ほぼ同時にジュリエットが目を覚ます。状況を察するロレンスであったけれど、墓所の見回りから逃れるためにその場から去る。残ったジュリエットは、倒れたロミオの体と、手にある杯ですべてを悟り、ロミオの持つ短刀で自らの胸を刺す。
 この時のジュリエットの熱演を、私は生涯、忘れることができないだろう。これまでだって、舞台で心が動かされ、涙を流したことはある。でも、そんな感動とは違った。泣く、ということはない。ただただ言葉を失って、舞台で繰り広げられる演技に圧倒されていた。この舞台を観ることができたことに私は感謝していた。
 物語は終わりへと向かっている。
 けれどそこで、物語は突然中断することになる。入り口が開け放たれ、薄暗いホールに外の光が差し込んだ。

「はい、そこまで!!」
 ホールの中がざわついた。みんな、入り口から現れた女性の姿を見ていた。
 体のラインを強調した、今ではあまり見られることのない服装をした女性がゆっくりとした足取りで、舞台に向かって歩いていった。
「ルイ!! 出てきなさい!!」
 舞台の役者たちは動きを止めている。女性の声を受けて、舞台の袖からスーツ姿のルイが現れる。
「どういうつもりだ!」
 ルイが言う。
「この状況で、よくもそんなことが言えたものね。言ったでしょう? 警告はしたって」
 女性は振り返り、観客を見回した。
「観客の皆様にはもうお分かりでしょう? この舞台が、完全な違法であるということは。外にはすでに警察が待機しています」
 ざわめきが大きくなる。
「セナ……ルイのライバルとされている演出家よ」
 カナエが呟く。私は知らない人だけど、どうやら有名な人物であるらしい。
 ざわめきがさらに大きくなるなか、
「お静かに!!」
 とセナが大声を出す。すると会場は静まり返った。
「違法な舞台はすでに上演され、皆様は見てしまっている。今さら逃げることなどできません。ですがご安心ください。事情聴取と厳重注意だけで済むはずです。皆様の経歴に傷がつくことはございません。このことに関しては、私を信用してください」
 会場に安堵の声が囁かれる。私は状況を理解しようとするだけで精一杯だった。
「さて」
 セナは再び舞台上のルイの方を見る。
「何か言いたいことはある?」
「初めから、こうするつもりだったのか?」
 ルイの声はこの状況に似合わず冷静だった。
「そうね。あんたが違法な題材に手を出すことを知った時から決めてた。別にあんたに借りもなければ、見て見ぬ振りをする理由もないからね。ここまで待ってあげたのは、演出家としての慈悲の心よ。あんただって、満足したでしょう?」
「ああ、確かにぼくが一番やりたいことはすべてやった。しかし感謝はしたくないな」
「してもらわなくて結構。そんなことよりもまずやらなければならないことがあるんじゃない?」
「うん、そうだね」
 ルイの表情は、どこか晴れやかに見えた。セナは来た道を引き返す。それと同時にルイが声を張り上げた。
「会場の皆様、長い間この舞台にお付き合いいただきありがとうございました。自分のやりたいこと、皆様に伝えたいことは、すべて表現できたつもりです。この舞台はおそらくもう上演されることはないと思われますが、皆様の心にだけでも残っていただければ幸いです。この度はご迷惑をおかけいたしました。セナの言う通り、皆様の経歴に傷がつくことはございません。すべては私の責任です。この舞台を計画し、上演を決めたのは私であり、劇場にも、劇団にも、役者にも、一切の責任はありません。皆様には、重ねて御礼申し上げます。どうか今後とも舞台をお楽しみください」
 ルイが深く礼をすると、誰ともなく拍手が巻き起こった。私も拍手をしていた。隣のカナエはとても感激したみたいで、泣きながらルイの名前を呼んでいた。
 他の観客のことはわからないけれど、私はこんなことで、ルイのことを否定することになならないだろうと思った。さらに言えば、それだけの危険を犯しながらも自分のやりたいことをやり遂げたルイを尊敬さえしていた。

 あの舞台が終わって約一ヶ月が経った頃、ルイからメッセージが届いた。
『話したい』
 要件はそれだけだった。私が『いいよ』と答えると、ルイは私の予定や移動時間を気にしながら、場所と時間を指定した。劇場近くのカフェにお昼過ぎ。私は『わかった』と答えた。
 もっとかける言葉があったのかもしれない。あの後どうなったのか、ルイは落ち込んでいないのか。でも、メッセージ上ではどんな言葉を選んでも間違っている気がして、会って直接話そうと決めた。

※    ※    ※    ※

 舞台の後、私は事情聴取を受け、ルイとの関係を聞かれた。私は迷わず大切な友人ですと答え、その回答を誇らしく思った。
 警察から解放されて、待っていたカナエと顔を合わせた時、お互いの表情は明るかった。もちろん、二人ともルイのことを心配している。心配しているけれど、それ以上に、舞台を見た感動を分かち合いたかった。
 きっとその方が、ルイにとってもうれしいことではないかと思ったし、素晴らしい作品に対する賞賛の言葉が、私も、カナエも、口から溢れて止まらなかった。
 人の集まる場所で話すわけにもいかなかったから、夕食の時間を過ぎてずいぶん遅くなっていたけれど、私たちは人通りの少ない道を選んで歩いて話した。
「すごかったね!! あたしさ、舞台を見てる理由って、結局いい顔の役者を見るためだって思ってたのよね。でもさあ、見た? あのジュリエット! 関係性が複雑でわかんないところも多かったけどさ、それでもジュリエットがとっても魅力的だったってことだけはわかる。あんな女性、ちょっと憧れるよね」
「やっぱり! カナエはジュリエットを気に入るだろうなって思った。私はね、ロミオの純粋でまっすぐなところがいいと思った。恋っていうのはよくわからないけれど、何かのために命を賭けることができるってすごいと思う。男のロミオがいることで、ジュリエットがすっと美しく見えたし、ジュリエットがいるから、それを求めるロミオも魅力的なんだ。男っていうのは――」
「アオイ!!」
 かなえが神妙な面持ちで、指を口に近づける。しまった。大きな声で喋り過ぎてしまったかもしれない。こんなこと誰かに聞かれたら、きっと大変なことになるだろうし、カナエにだって迷惑がかかるかもしれない……
 けれどカナエはそこで意地悪く笑った。
「あたしもそう思う!!」
「もう! おどろかさないでよ!!」
「大丈夫よ。ここじゃ誰も聞いてないし、聞いてもわかんないでしょ」
 そして二人で笑った。
「あー、ほんとにすごかった。ところで、マキューシオとベンヴォーリオのことなんだけどさ」
 ひとしきり笑ったところで、私が切り出した。
「わかる!」
 カナエが即座に答える。
「まだ何も言ってないのに」
「言わなくてもわかる! いい感じの二人よね。あれって本当に五百年前に作られた話なの? 今でも現役で行けそうじゃないの」
「だよねえ。マキューシオが刺された時はほんとに悲しかった」
「わかるー。あーあ、あれ一回だけってのは、本当に残念ね」
「うん……」
 そうやって、二人で作品を噛み締めながら、電車にも乗らず、長い道のりを歩いて帰った。時々、ルイのことを心配する気持ちも起こったけれど、今はまだ、作品世界に浸り続けていたかった。きっとルイもそれを許してくれると思った。

※    ※    ※    ※

 カフェにつくと、先にルイが来ていた。
 私が席に近づいても、ルイは気づかず、窓の外のどこか遠くを見ていた。
「待たせちゃった?」
 私が言うと、ルイは跳ね上がるようにこちらを見て、私も驚いてしまった。
「う、うん、待ってないよ」
 ルイの様子がおかしい。もしかすると、あの舞台のことを引きずっているのかもしれない。
 私は席に座り、水を持ってきた店員にコーヒーを頼む。正面のルイを見るとやっぱりおかしい。表情が硬いし、何か言おうとはするのだけれど、口を開くだけで言葉が出てこない。
 うかつに舞台のことも切り出せず、黙ったままでいると、
「えっと、こ、この前は――」
 とルイがようやく言おうとしたところで店員が来た。
 声と一緒に息まで止め、苦しそうなルイがおかしくて、笑ってしまう。すると照れるようにルイも笑った。
「ごめん、こんなんじゃ、いつものぼくじゃないな。よし! もう大丈夫だ!」
 ルイが言って、手のひらで顔をたたくので、それもおかしかった。
「待つよ。いろいろあったんだし。今日はどんなことを話してくれるの?」
 ルイはコーヒーを飲んで、大きく息を吐いた。
「今日は、アオイに謝りたいと思ってね。どんな舞台をやるかも説明せずに、あんなことに巻き込んで申し訳なかった」
 ルイは頭を下げた。
「カナエにも直接謝りたかったんだけどね。今は忙しいらしくて……」
「気にしないで、私もカナエもあの舞台が観れて本当に良かったって思ってる。カナエなんて、舞台を観て決心したみたいで、今一人暮らしの準備をしてる。だから謝らなくても大丈夫」
「よかったよ。ぼくはそれが一番気にかかってたんだ。舞台のことがきらいになったんじゃないかとか、これは、考えたくないことだけど、ぼくがきらわれてしまったんじゃないかって」
「そんなことあるわけないじゃない! でも、ひとつ文句があるとするなら、ルイの舞台がすごすぎて、ほかの舞台が物足りなくなったくらいかな」
 ルイの表情がようやく和らぎ、ほんとうにうれしそうに笑った。
「あの後、どうなったの? 大変だったでしょう?」
 ルイの様子を見て、気になっていた話題に触れる。
「うん。ぼくたち舞台関係者は、国や資産家の庇護もあって守られているけど、さすがにあの作品はやりすぎた。とはいえ、それほどきつい罰則もない。一年間の謹慎。その間は一切舞台に触れないという誓約書を書かされた。後は次回作の検閲がきつくなるくらいかな。大したもんじゃないよ」
「でも、一年って結構長くない?」
「その間は、いろいろなものを見て回る時間に充てるさ。舞台に関わるようになってから、ずっと働き詰めだったからね」
「そうなんだ」
 私は安心した。あれだけの舞台を作り上げたルイが、二度と舞台に携われないなんてあってはならないことだと思った。
「今日はアオイに謝りたいというのとは別に、もうひとつ言わなきゃならないことがあるんだ。聞いてくれるかい?」
「いいよ」
 私はルイの表情が硬くなったことに気づいていた。いったい何を言われるのだろうと身構えたけれど、どんなことでも受け止めようと思った。
「ぼくはね。あの作品を作りながら、自分と向き合っていた。何故ぼくがあの題材を選んだのか。過去のどんな作品よりも、あの作品は男女の恋愛を描いている。やると決めた時、ぼくはとがったものをやってやろうって意気込んでた。舞台の検閲ってのは、いやになるほど厳しいからね。でもやっているうちに、ぼくは登場人物、特に主役の二人に同化していた。ぼくはロミオであるのと同時に、ジュリエットでもあった。自分のなかにこんな気持ちがあるなんて、思ってもみなかったことだよ……」
 そこでルイは、コーヒーを飲む。
「ぼくはロミオに、ジュリエットになりたかった。改めてそのことを理解した。そして、その相手は……アオイ、君だ」
「え……?」
「このことを伝えるために、ぼくは今日、君を呼んだ。ぼくは、アオイ、君が好きなんだ。高校の時からずっと。当時はこの気持ちに名前が付けられなかった。君はぼくにとっての憧れだった。君はひとりで自立しようとし、自らの道を切り開いていこうとしていた。それがとても眩しくて、いつも君の姿を追っていた。君はぼくにとっての光だったんだ」
 私はあまりのことに気が動転して、声が出なかった。何か言おうとして、口を開いても、息が漏れるばかりだった。
「ごめん。君を困らせるつもりはなかったんだ。でも、言わずにはいられなかった」
「私は……」
 ようやく声に出て、けれど、そこで止まってしまう。
「いや、いいんだ。無理に応える必要はない。わがままかもしれないけど、ぼくの言葉を受け取ってくれるだけで十分だよ」
 そしてルイは天井を見上げた。
「ぼくと君とは、天井と床のようなものかもしれないね。お互いに見ることはできても、永遠に交わることがない。でもぼくは、こうやって、話すことができるだけでもうれしいんだ」
 誰もいない店内で、ルイの低く、柔らかな声を聞きながら、私は、自分の内側から出てくる言葉を待っていた。

 

 

 

 

 

※『ロミオとジュリエット』引用部分は中野好夫訳、新潮文庫版をもとにしています。

文字数:42668

内容に関するアピール

これまで見てきたもの、考えてきたことを踏まえて書きました。

最後まで表に出ることはありませんでしたが、この一年、走りきることができたのは、他の受講者の方々の作品に刺激を受けたことが大きかったと考えています。

作品に添える言葉はありません。ただ、内容に関して、もしも問題が発生した場合は、削除していただいて構いません。

一年間、ありがとうございました。

文字数:172

課題提出者一覧