さざ波は鱗のひかり

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さざ波は鱗のひかり

 海龍かいりゅうは、海の底にゆれる薄闇のベールの中から突然現れた。身体は果ての見えないほど長く、胴は太くしなやかで、闇の中でほのかに光る白銀の鱗で覆われていた。瞳は鏡のように深く透き通り、わたしたちをしずかに見つめている。この世界でもっとも醜く、獰猛な生き物だと言われていたそれは、息を飲むほど美しく、怜悧なまなざしをしていた。
「その鱗を譲ってはくれないだろうか」
 海龍はわたしの首飾りを愛おしそうに見つめる。海龍の声は深くやわらかで波の音に似ていた。わたしは、胸の前でゆらゆらと揺れている首飾りを手に取る。わたしの手のひらにすっぽりおさまるほど小さく、貝殻の類だと思っていたそれは、言われてみると確かに、目の前にある鱗と同じ光を宿していた。わたしは首飾りを外し、おもむろに海龍の顔の前に差し出す。海龍はその大きな口で、やさしく啄むように首飾りを受け取った。
「ありがとう、ふるい友人の形見なんだ」
 海龍は恭しくお辞儀をして、闇の奥に消えていった。わたしたちは、白く光る残像をいつまでもいつまでも見つめていた。
 
 
 わたしたちの十五回目の誕生日は、めずらしく朝から明るかった。朝日が淡い灰色の空をつらぬき、わたしの瞼や頬に降り注ぐので、わたしは朝の鐘が鳴る前に目が覚めた。浜辺からかすかに聞こえてくる波の音とみんなの寝息が溶け合ってやわらかく部屋を満たしている。瞼を開けると、淡く鋭い光が目の奥をつんと刺し貫いて、甘い酩酊に襲われる。隣で毛布にもぐりこんで寝ているジウが小さく身じろぎした。わたしは、ジウの毛布にするりとすべり込む。毛布の中の空気は、息苦しくない程度にしっとりと湿っていて、ジウの鱗からは、ほのかに海の匂いがした。ジウがゆっくりと目を開ける。黒く濡れた瞳がまっすぐにわたしを捉えた。薄暗い毛布の中でお互いの瞳が乱反射する。わたしの顔がジウの瞳の中で小さく揺らめいた。
 朝の鐘が鳴り、シイとミトとユエも目を覚ますと、わたしたちは揃って海藻拾いに向かった。海は、空の色を映して鈍色にゆらゆらと光っている。波のおだやかな浅瀬で海藻を拾い集めるのがわたしたちに課された仕事だ。
「今日も海に行くの?」
 シイがわたしたちを見て、わざとらしくため息をついた。
「こわくないの? 海龍に食べられちゃうよ?」
 ミトは不安そうにつぶやく。
「ごめん、すぐ戻るから!」
 わたしたちは浅瀬を駆けながら、シイたちに手を振る。
「気をつけてねー!」
 ユエの妙に間延びした声を背中で受け止めて、わたしたちは波の中に身体をすべり込ませた。
 
 海の中はおそろしく豊かだった。陸では動き回るものが、かあさまとねえさまとわたしたちくらいしかいないのに対して、水の中を稲妻のように駆け抜ける銀色や、ぐにゃぐにゃと身体をくゆらせながら動く茶色、硬い殻に覆われた細長い手をたくさんもつ赤色など陸では考えられないほどたくさんの色があふれ、様々に動き回るもので満ちていた。海藻にしても、海の中にあるものは、浅瀬で拾うものよりもはるかに大きく、炎のように激しくゆらめいている。
 わたしたちは波間を縫うように泳いで、あっという間に沖に出た。今日の海は波がおだやかで、鱗が水を切って進む感触が心地よい。わたしたちの身体は、海の中をどこまでも遠く、どこまでも深く、縦横無尽に駆けることができた。
「きょうはどっちから?」
 ジウが水面に顔を出す。濡れた鱗が淡く虹色に光っている。
「南から回ろう」
 わたしが答えると、ジウはとぷりと波の中に潜った。わたしもジウのあとに続く。海の中で、ジウの身体に水面の影が踊る。陸で太陽に照らされて光る鱗もきれいだけれど、海の中でつややかに濡れた鱗は、内側から光を放っているように見える。鱗をきらめかせながら泳ぐジウの姿は夢のようにきれいだった。
 わたしたちはひと月前に、ねえさまたちが島の近くで海龍を見たと噂しているのを聞いた。それからというもの、わたしたちは、ねえさまたちの目を盗んで島の周りを巡回しはじめた。
「海の中には、海龍という、この世でもっとも醜くて獰猛な生き物が目を光らせていて、海の中に入った子どもたちは、すぐに食べられてしまうのよ」とねえさまは何度もわたしたちに言い聞かせ、海に入ることを禁じた。けれど、わたしとジウは十年前、禁を破って海へ入ったとき本物の海龍を見たことがある。ねえさまの話とは全く違って、わたしたちは、その強く美しい姿に一瞬で虜になった。そして、わたしたちは、いつか一緒に海の世界を冒険して、もういちど海龍に会いに行こうと誓いを立てた。これはジウとわたし、ふたりだけの秘密だ。
 
 島は南北に長く、三日月とおなじかたちをしている。真ん中の、ふかく抉れたところに淡褐色の砂浜があり、それ以外のところは、ごつごつと黒く険しい岩肌に縁取られていた。
 島の南端に近づくと、白い円蓋をもつわたしたちの家が見える。今頃、家ではかあさまと五人のねえさまたちが食事の支度をしているのかもしれない。ほのかに日差しを受けて、円蓋の縁が銀糸のように光った。砂浜の反対側――大きく弓なりに張り出しているほう――は、ごつごつとした岩肌が剥き出しになっている。こちら側は、ねえさまたちの目につきにくいので、水面に浮かぶ、半透明のぶにぶにとした丸いものを投げ合ったり、泳ぐ毛布みたいな背の上に寝ころんだり、わたしたちは思い思いに楽しむことができた。
 家とは真反対の、島の北端には使われていない灯台が立っている。灯台のすぐ下は切り立った岸壁になっていて、海面すれすれの――潮が満ちたら沈んでしまう――ところに岩肌を大きな匙で掬い取ったような窪みがあった。この洞窟がわたしたちの秘密の場所だ。
 洞窟の中はひんやりと湿った闇と波の音で満たされている。濡れた身体を投げ出して寝そべると、波の中を揺蕩うような心地よさがじんわりと身体中に広がってゆく。
「今日も会えなかったね」
 ジウが隣でぽつりとつぶやいた。わたしは頷きながら、まなうらに海龍の姿を思い浮かべる。
「もっと遠くまで行けたらいいのに」
「行けるよ」
 きっと、と言うとジウは目を閉じて、波の音を聞いた。わたしも波の音に耳を傾ける。洞窟の中で反響する波の音は、ジウの鼓動やわたしの呼吸、洞窟の中を流れる風のゆらめきと混ざりあって、いっそう深く、やわらかに聞こえた。
 
 わたしたちが浜辺に戻ると、ちょうど昼の鐘が鳴った。
「遅いよ!」
 シイがわたしたちを睨みつける。
「ごめん」
 ジウが雨粒のように透き通った小さな貝殻を差し出す。日に透かすと、表面にうっすらと虹色の模様が浮かびあがる、浜辺ではめったに見つからない珍しい貝殻だ。シイは、きれいな貝殻に目がない。ジウがシイの手のひらに貝殻を乗せると、シイは「次は絶対おくれないでね」と笑った。
 乾いた風がわたしたちの身体に吹きつけ、濡れた鱗がかすかに軋んだ。耳元で空気がざわめく。薄い雲の奥に浮かぶ太陽の胡乱な光が、ジウの鱗を照らす。ジウの鱗には無数の虹の輪が浮かび、ほのかに光を放っていた。
 
 食堂につくと、既にかあさまとねえさまたちが揃って中央の円卓に座っていた。シイが海藻のたっぷり詰まった網を差し出す。ねえさまが「おそかったわね」と言ったので、わたしたちはまたシイに小さく睨まれた。
 ねえさまに促され、わたしたちも席に着く。窓側にかあさまとねえさまが座り、その向かい側にわたしたちが座った。
 それぞれの前には円形の白い器が並べられている。わたしたちは、器になみなみと満たされた半透明のものを匙でそっとすくう。かたいとやわいの中間の――ちょうどくるぶしをなでるくらいの高さの波の感触を思わせる――それは、匙で運ぶと小さくふるふると震え、口に含むとほのかに甘い。食事は日に一度、ねえさまたちが作ってくれる。わたしたちは、この食べ物がどうやって作られているのかまったく知らない。ねえさま曰く、わたしたちが拾ってきた海藻でつくっているらしいけれど、あんな茶色や緑のものがどうしたらこんなに透き通った色になるのだろう。
 食堂には天窓から光が燦燦と降り注ぎ、かあさまやねえさまの透き通るように白い身体の輪郭を淡くにじませた。ねえさまたちの身体はわたしたちと違って、全身が白くなめらかな肌で覆われている。ねえさまたちの肌はじゅうぶん薄くやわらかくみえるけれど、こうして、かあさまと並ぶと、やっぱり全然ちがう。かあさまの肌は本当にぬけるように白く、一片の傷も翳りもなく、肌理細やかで、わずかに触れることさえためらわれるほど薄い。波打ち際を歩くだけでも、肌が破れ、溶けてしまいそうだと思った。
 
 かあさまは、みんなが食べ終わったのをたしかめるとおもむろに口を開いた。
「今日は大事な話があるから、このあと浜辺に来てちょうだい」
 
 淡褐色の砂浜は、ほんのり湿り気を帯びて、歩くと足の裏がひんやりとつめたかった。耳元で波の音と風の音が混ざって響く。朝よりも風が強くなった気がした。ねえさまたちがもう先に着いていて、わたしたちにその場に座るように言った。シイたちが三人並んで腰を下ろし、わたしとジウはその後ろに並んで座った。つめたい砂におしりをつけると、凍った風のようなものが、すばやく背骨を駆け上がってゆく。わたしたちは、みんな自分の膝を抱えて座った。つめたく乾いた風に吹かれて、鱗が軋む。
 遠くからかあさまがやってくるのが見えた。白い身体は日に透けて、よりほっそりとして見える。わたしは、風に巻き上げられた砂が、かあさまの肌に傷をつけないか不安だった。
 かあさまがわたしたちの前に立つ。
「きょうは、あなたたちの十五回目の誕生日ですね」
 かあさまは一人一人の顔をゆっくりと見渡す。
「これから陸で生きていくためには〈肌〉が必要です」
 かあさまは、自分の腕を掲げた。誰よりも白くなめらかな肌は日を受けて、皓々と輝く。
「今から大切な準備をします」
 
 わたしたちは顔を見合わせる。「準備」とは一体なのか誰にも分からなかった。わたしたちには、それぞれひとりずつねえさまがついて、広く間隔をあけて波打ち際に一列に並んだ。わたしは不安になって、ジウに視線を送る。遠すぎて表情まではわからないけれど、たしかにわたしを見つめているのはわかった。
 ねえさまは「暴れると傷になるから」と言って、わたしたちの手足を縛った。ねえさまたちは、たしかに厳しいけれど、今までこんな風に扱われたことはなかった。鱗に伝わる乾いた縄の感触がおそろしく、わたしは声も出せない。
 ねえさまは、右手に手のひらくらいの大きさの薄くて小さい貝殻を持った。丸く張り出した縁をわたしのくるぶしの少し上押し当てると、そのまま膝に向かってまっすぐにすべらせる。貝の縁が通ったあとは、浅く針を刺すような痛みが走った。痛みを感じると同時に、わたしの淡く虹色に輝く透明な鱗がはりはりと涼やかな音を立てて剥がれ落ちた。鱗が剥がれ落ちたところは薄桃色の表皮が露出している。脆く頼りなさげな表皮は、つめたい風があたるとしんと沁みた。
 呆然としていると、ねえさまはまたすぐに脚に貝を押し当てて、鱗を剥いだ。痛みがはっとわたしを正気に引き戻す。どうにかねえさまを振り切って逃げようとするけれど、信じられないくらい強い力で捩じ伏せられ、引き倒され、身体をうつぶせに固定された。頬が砂地に沈み込んで、鱗がきしきしと鳴った。ねえさまは、両脚の足首からふくらはぎ、膝の上からももの裏までを一気に剥がし取った。浅く瞬発的な痛みに身じろぎすると、「動いたらもっと痛くなるよ」とさらに強い力でわたしを押さえつけた。
 ミトの叫び声が甲高く響いた。ユエが泣きじゃくる声、シイのうめき声が波の音に混じって聞こえてくる。わたしがジウの名前を何度も呼ぶと、ねえさまは「しずかに」と押さえつける力を強くした。じわじわと視界が涙で滲んでゆく。次第に、暗幕が下りるように目の前がうっすらと暗くなってきた。
「なんでこんなことするの? 鱗のままじゃ生きていけないの?」
 わたしは、意識が薄れてゆくのに、どうにか抗おうと声を発した。
「これから今までの倍の時間を生きなきゃいけないのよ? 鱗の身体じゃ持たないわ」
 ねえさまの声はつめたく、けれど、少し諭すような響きがあった。
「乾燥してぼろぼろになるの。自分で体温を調節することもできなくなるのよ、それに――」
 ねえさまはわたしの背中の鱗をすべて剥がし終えると、何か言いかけて、背中を軽く手で払った。しゃりしゃりとたくさんの鱗同士がこすれ合う音が聞こえる。
「それに、鱗の身体のままではたまごも産めないのよ」
 たまご? と聞き返そうとしたけれど、もう何も言えなかった。意識が落ちる直前、遠くでジウがわたしの名前を呼んだ気がした。
 
 全身に稲妻が走ったような痛みに貫かれ、びくりと身体が跳ねた。気がつくとわたしは浅瀬に寝かされていた。波がわたしの身体をゆっくりと撫で上げるたびに、ぴりぴりと刺すような痛みが全身を侵す。ふと、ねえさまと目が合った。水面越しに見上げたねえさまの顔は滲んで、歪に揺れていた。痛みが次第にじんじんと熱を帯びたものに変わる。身体の表面の感覚が薄れ、自分の輪郭がじわじわと溶けて滲んでゆく。
 ねえさまがわたしを抱き起して、また砂浜に寝かせた。わたしには、もう抵抗する気力が残っていなかった。ただ、ねえさまのすることを受け止めるしかない。ねえさまは、波打ち際の冷たく湿った砂でわたしの身体を覆ってゆく。
「砂の瘡蓋よ」
 ねえさまはひとりごとのようにつぶやく。手つきこそ淡々としているけれど、ねえさまのやわらかい手のひらからは、ほんの少しだけいたわりのような感情が伝わってきた。ひんやりと冷たい砂に包まれて、身体の感覚が芯までかたく閉じ込められていくみたいに思えた。
 ねえさまが、わたしの身体のかたちに合わせて砂を均す。すみずみまで磨き上げられた砂の表面は、まるでねえさまたちの肌のようになめらかになった。鱗を剥がされたわたしたちは、ねえさまたちによって、砂の身体につくりかえられた。
 わたしたちは呆然と自分たちの新しい身体を見つめる。淡い光に当たると、ほのかに虹の輪が浮かぶ、あの美しい鱗はもうどこにもなかった。きれいに磨き上げられた淡褐色の砂はただぼんやりと日差しを受け止めている。
 「こんなのやだ!」
 ジウの声がするどく響いた。ジウは近くに落ちていた自分の鱗で腕の砂を抉った。
「やめなさい」
 ねえさまがジウの手を掴み、鱗を取り上げる。そのままジウを引き倒して自由を奪うと、抉れた箇所に砂を足してきれいに修繕した。腕がきれいになおると、ジウは解放され、自由になったジウはまた腕を抉った。ねえさまは顔色ひとつ変えず、また淡々とジウの腕を修繕する。ジウが何度抉り取っても、ねえさまは平然と修繕を繰り返した。それはジウが完全に抵抗しなくなるまで続けられた。
 浜辺はしんと静まり返って、波の音だけが絶えず響いていた。もう誰にも抵抗する気力が残っていないようだった。きっと、ここではずっとみんなこうやって従うしかなかったのだろう。ねえさまも、かあさまも。わたしはきょうだけで、ここで生きていくのがどういうことか嫌というほど思い知らされた。
 ねえさまに促されて立ち上がった時、わたしはふらふらと波の中に倒れ込んだ。砂の瘡蓋は波に濡れても崩れなかったけれど、いつまでたってもつめたく湿って、じっとりと重たく感じた。
 
 夜中にジウに揺り起こされ、わたしたちはふたりでそっと寝台を抜け出した。わたしたちは部屋の窓から家の裏に出る。わたしたちの部屋はかあさまとねえさまたちの部屋の間にあって、どちら側を通るときも、影が映らないよう、窓の下を這うように進む。地面に自分たちの砂の跡が残らないか心配だった。
 家の前までくると、ジウはわたしの手を握った。砂の手のひらは、いつもよりジウの体温が遠くに感じられて、すこし寂しかった。わたしたちは初めて徒歩で灯台を目指す。いつもなら海の中を泳いだほうがうんとはやいのだけれど、濡れた砂の感覚を思い出し、わたしが陸路を提案したからだった。雲の切れ間から月の光がこぼれ落ちて、あたりを銀色に照らす。砂の身体の縁が研ぎ澄まされた光を受けて蒼く滲んでゆく。
 灯台に着くと、わたしたちは真っ先に地下室に向かった。灯台の中は暗く、すぐそばに浜辺があるせいか、あちこちに砂が厚く降り積もっている。どんなに静かに歩いても、どこからか白い砂が舞い、乾いた匂いがした。地下室の隅にある木箱から蝋燭と燐寸、玻璃の欠片をくすねる。玻璃の欠片の切先は、打ち寄せる波のやわらかな緑色と同じ色をしていた。部屋の奥の床にはひっそりと穴が開いていて、中を覗くと、細く長い階段が見える。その階段を降りてゆくと、わたしたちの秘密の洞窟につながっている。
 ジウは蝋燭に火をつけた。洞窟の壁に一斉に影が浮かび上がって揺れる。溶けた蝋を地面に三滴ほど垂らすと、その上に蝋燭を立てて固定した。一緒に持ってきた玻璃の欠片を取り出し、おもむろに玻璃の切先を左腕を覆う砂の瘡蓋に突き刺した。ジウが玻璃の欠片を抜くと、瘡蓋の表面にはひび割れのような隙間がぽつりと残されている。ジウは隙間に爪を引っ掛け、そのまま瘡蓋をゆっくりと引き上げた。瘡蓋は薄桃色の表皮ごとめくれ上がる。ジウが構わず毟り取ると、歪に毟り取られた瘡蓋のかたちにじわりと血が滲んだ。ジウは、そこから堰を切ったように左腕の瘡蓋をどんどん毟ってゆく。唇をかみしめ、目に涙をいっぱい溜めていた。
「あたし、こんな身体はいやだ」
 ジウはわたしをまっすぐ見つめた。
「鱗を失いたくない」
 ジウの左腕は、瘡蓋を毟った部分が窪んで、血をあふれさせている。それでもなお、ジウの瞳はしずかに燃えていた。わたしは思わず、この強くて痛々しくて美しい存在を抱きしめる。ジウの強さが眩しくて、愛おしい。ジウは、まだなにも諦めていない。わたしは、なんでも分かった気になって砂の身体を受け入れた自分が恥ずかしくなった。
 わたしも、勇気を出してジウのように玻璃の欠片を左腕の瘡蓋に突き立てた。瘡蓋をひっぱると、するりとあっけなく剥がれ落ち、中からねえさまたちによく似た、白くなめらかな肌が現れた。ジウもわたしも息を飲む。肌の表面はなめらかに均され、鱗の面影は一切なくなっている。ジウと同じく血が出ると思っていたわたしは呆気にとられた。ジウに促されて、右腕も同じように毟ってみる。けれど、左腕とまったく同じ白くなめらかな肌が見えただけだった。
「どういうこと?」
 ジウがおそるおそるつぶやいた。
「……わからない」
 なんとか絞り出したわたしの声は震えていた。ジウとわたしの間に遠い隔たりのようなものを感じた。どちらが正しいのかなんてわからなかったけれど、なんとなく、わたしの身体のほうが何か恐ろしいものに変わってしまったような気がした。自分が、自分でないような感覚――。手足からふと力がぬける。
「イサリ」
 ジウがわたしの名前を呼び、わたしの身体を抱きとめる。ジウの体温がほのかにわたしの砂にうつった。ジウの肩に顔をうずめると、乾いた砂同士がささめきあうような音がした。
 潮が満ち始め、波がわたしたちの爪先を濡らしてゆく。灯台から出ると、空はもうほのかに白み始めていた。夜明け前の、やわらかく寂しげな風がわたしたちの砂の上を流れてゆく。部屋に戻ると、まだみんな眠っていた。部屋は、乾いたからっぽな匂いに満ちていて、波音がやけに遠くに聞こえた。わたしたちは、同じ毛布の中にもぐって、お互いの身体を抱きしめ合うように眠った。
 
 朝の鐘が鳴って、わたしたちはシイに揺り起こされた。起き上がったわたしたちの身体を見て、シイは小さく悲鳴を上げた。
 明るいところで見ると、わたしたちの身体はいっそうひどい有様に思えた。わたしたちの腕はいびつな窪みにまみれ、ジウに至っては、腕のいたるところにじゅくじゅくとまだ血が湿っているところや流れ出た血が固まったあとが散らばっている。シイは、絶対怒られるよ、とわたしたち以上におびえていた。
 わたしたちが浜辺に向かおうとすると、ちょうど部屋の扉が叩かれ、目の前にねえさまがいた。
「きょうからしばらく海藻拾いはしなくていいわよ」
 ねえさまはそう言うと、わたしとジウの身体を一瞥して、何も言わずに去っていった。ジウとわたしは顔を見合わせてすこし笑った。
 なにもすることがなくなったので、みんなでもういちど眠った。ミトが小さく、「もう浜辺に行きたくないな」とつぶやいた。わたしは目を閉じながら、ぼんやりと、浜辺に捨てられた鱗のことを思った。そして、遠い昔に、拾った鱗のことを思い出す。海龍が「ふるい友人の形見」だと言っていた鱗。眠りに落ちる寸前、まなうらに浮べた海龍の残像が白く滲んで消えていった。
 
 昼の鐘が鳴って、食堂に向かう。食堂にはかあさまがいた。わたしがかあさまの前に座ると、一瞬、灼けつくような視線を感じた。けれど、かあさまもねえさまもわたしたちの腕について何も言わなかった。食事を終えて、部屋に戻ろうとすると、わたしだけがかあさまの部屋に呼ばれた。
 初めて足を踏み入れたかあさまの部屋は大きな窓から日差しがまっすぐに降り注いで眩しかった。窓に掛けられた薄いレースの布の繊細な模様の影が白い床に落ちて、歪に揺れている。寝台と小さい円卓、そして布張りの椅子があるだけで、殺風景に見えた。からっぽな空間を埋めるみたいに強く日が差し込んでいる。かあさまは椅子に腰かけると、わたしに近くにくるように言った。わたしがかあさまの前に立つと、そっとわたしの腕に触れた。窪みの中に白く細い指を入れ、窪みの縁をなぞるように指をすべらせた。薄い肌と肌がこすれ合う初めての感覚に、背骨がぞわりと慄いた。かあさまは、指を離してわたしをまっすぐ見つめると、「あなたが次のかあさまよ」と言った。
 
 かあさまは、わたしを寝台の近くに呼び寄せて、壁を指さした。寝台の上の壁にはびっしりと水晶の欠片が埋め込まれている。水晶の欠片は、拳くらいの大きさのものと、それよりも二回りくらい小さいものの二つがあった。そして、よく見るとそのどれもに文字が刻まれている。
「イチカ、リリ、ゲルダ……名前?」
「そうよ、これはみんな今までの〈かあさま〉たちの名前」
 かあさまが指先で水晶の欠片を撫でる。
「大きいのも、小さいのも?」
 わたしが尋ねると、かあさまは「そうよ」と頷く。
「よいたまごを産んだ人は大きい水晶なのよ」
 かあさまは陽だまりのようにやさしい笑みを浮かべた。身体の奥からぬるい泥のようなものが溢れて、わたしのなかをなみなみと満たしてゆく。自分のものとは思えないほど身体が重く、つめたい。
「わたしがたまごを産むの? わたしだけ?」
 声が震えた。かあさまはゆっくり頷いた。
「いちばんなめらかで美しい肌の持ち主だけがかあさまになれるの。この世界でたったひとりきり、あなたにしかできないことよ」」
 かあさまは少し誇らしげに言った。ふと、食堂で並んで座るかあさまとねえさまの肌を思い出した。
「なにも怖いことはないわ。かあさまも、そのまた前のかあさまも、もっともっと前のかあさまたちも、みんなやってきたことなのよ」
 かあさまがわたしの肩を抱いた。かあさまの手のひらは、やわらかくて、おそろしいほど熱い。
「大丈夫、あなたにもきっとできるわ」
 あたたかな笑みを浮かべるかあさまの瞳は水晶と同じくらい澄み切って、まるで伽藍洞のように見えた。
 
 かあさまの部屋を出ると、ジウがいた。ジウの顔を見たらほっとして、ぼろぼろと涙が零れた。ジウはわたしを抱きしめると、背中をさすってくれた。ジウの乾いた手のひらがやさしくて、わたしはますます泣いた。
 
 洞窟で、わたしはかあさまに言われたことをすべてジウに打ち明けた。
「じゃあ、イサリが次のかあさまになって、あたしたちが次のねえさまになるってこと?」
 ジウは目を丸くした。
「……たぶん」
 ジウは、そっか、とつぶやいて黙り込む。この砂の瘡蓋に覆われた身体が、かあさまやねえさまと同じなめらかな肌になる、今はまだうまく想像できないけれど、でも刻々と変化は始まっている。わたしは腕の窪みに触れた。
 
 ジウは、ひとりでずっと、砂の瘡蓋を剥き続けていた。わたしやシイたちは、瘡蓋を剥かずにいたけれど、瘡蓋は勝手に剥がれ落ちて行った。シイたちの瘡蓋の下には、薄い鱗が生えていた。
 わたしたちの瘡蓋がすべて自然に剥がれ落ちた頃、ジウのぼろぼろに破けた身体にようやく鱗が生えてきた。ジウの身体に、前と変わらず分厚くうつくしい鱗が生えたとき、わたしたちは抱き合って喜んだ。
 ねえさまたちに鱗を剥がされた日からひと月が経った頃、シイたちの身体は薄い鱗で覆われ、ジウの鱗はすっかり元通りに生えそろった。わたしだけ、薄くなめらかな肌に覆われ、鱗を失ってしまった。
 
 
 朝の鐘が鳴り、浜辺へ向かう日常が戻ってきた。瘡蓋がもうすっかり取れてしまうと、わたしたちはまた以前のように海藻拾いをすることになった。
「今度はいつ剥かれるかな」
 あれ以来、ミトはいつまた鱗を剥かれる日が来るのかと、毎朝おびえている。
「そんなの考えたって仕方ないでしょ」
 シイがわざとらしいくらい明るい声で励ます。わたしは俯いて、水の中で揺れる海藻を見つめた。
「イサリはいいよね」
 ミトのじとりとした視線がわたしの肌に突き刺さる。わたしは聞こえなかったふりをした。シイもユエも言葉には出さないけれど、きっと同じことを思っているのだろう。たまに、瞳にミトと同じ色が浮かぶときがある。
 わたしはもう、海藻拾いをサボって、ジウと一緒に海龍を探しに行かなくなった。行けなくなった、と言った方が正しいのかもしれない。わたしの身体はもう、以前のように泳げなくなっていた。ゆっくり泳ぐことはできても、稲妻のように駆け抜けたり、深く潜ったりはできなくなった。わたしたちが海の中を駆け回れたのは、鱗のおかげだったのだ。わたしは自分がこの身体になって初めて、ねえさまたちが滅多に浜辺に近づかない理由がわかった。もうじき、この海藻拾いもさせてもらえなくなるのだろう。
 
 わたしが海龍探しをやめたいと切り出したとき、ジウはぽろぽろと涙をこぼした。
「もう絶対にいや?」
 ジウは、自分が背負って泳いでもいいし、いっそ舟に乗ったっていいから、と言った。わたしは小さく首を振る。わたしはジウと対等でいられないのも、わたしの変化のせいでジウが傷つくのもいやだった。きっと、一緒にいる方法もあるのだろう。けれど、どうしようもなく分かたれてしまったわたしたちの身体に、ひらき続ける距離に、わたしは耐えられない。
 ジウは小さく「そっか」と言って、わたしを抱き寄せた。ジウはいつだってわたしにやさしい。薄い肌で触れるジウの鱗は、前よりもうんとつめたく、硬く感じた。
 わたしたちは海龍の話も、約束のことも口に出さなくなった。
 
 
 目を覚ますと、重くのしかかってくるような黒い雲が空の低いところにどんよりと立ち込めていた。重しを乗せられた海は、唸り声をあげるように低く轟く。たっぷりと湿った風がわたしたちの身体を緩慢に撫でてゆく。浜辺は生ぬるく、濃い海の匂いで満ちていた。
 わたしは、ジウと距離をとるようになってから、あきらかに孤立していた。海藻拾いも、シイたちのいる広い浅瀬ではなく、砂浜の端にある、岩場の入り組んだところや、岩陰ばかりを探すようになった。シイたちの声や視線が飛んでくることもなく、また今まで見たことのない海藻もたくさん見つかるので、ひとりでも楽しめた。
 つい熱中して岩陰を辿っていたら、胸のあたりまで海に浸かっていた。慌てて引き返そうとすると、ふと、海に浸かった底の部分が大きく抉れている岩が目についた。その匙で削り取ったような窪みが、秘密の洞窟に似ていた。わたしは、特に深く考えず、潜って穴を覗き込む。一瞬、中でなにかが光った。思い切って手をいれると、硬くつめたい懐かしい手触りがした。――鱗だ。身体は丸く太って、わたしの腕と同じくらいの太さがあった。そっと掻きだすように手を引き寄せると、目の前に、白銀の鱗と細長くしなやかな身体をもつ生き物が現れた。大きさこそ小さいものの、それはたしかに海龍だった。
 海龍はわたしの腕の中で、ぐったりとしていた。胴に一箇所深い裂け目があって、そこから赤黒い肉が覗いていた。わたしは、海龍を慎重に穴の中に戻すと、灯台に向かって走った。
 久しぶりの洞窟は生ぬるく、濃い海の匂いで満ちていた。波の音がやけに近くに感じる。ジウは、洞窟の隅で仰向けに寝そべっていた。
「ジウ」
 わたしが呼ぶと、ジウは飛び起きた。
「海龍がいる」
 
 薄暗い洞窟の中で、鱗に蝋燭の火をうつしたジウの輪郭がほのかに滲む。外では、静かに雨が降り始めた。雨に閉ざされた洞窟は、暗く、静かで海の底にいるみたいだった。ジウは自分の鱗を一枚剥いで、海龍の傷にあてがった。ジウの横顔が知らない人のように見える。わたしたちは、灯台の地下室に転がっていた水瓶を見つけ、その中に海龍を入れた。海龍は水瓶を気に入ったようで、心地よさそうに丸まった。けれど、傷がまだ痛むのか、水瓶の底でじっとしている。蝋燭のあたたかな光に照らされて、海龍の鱗はますます美しく輝いて見えた。ジウは、たましいごと全部注ぎ込むように海龍を見つめていた。
 
 しばらくして、海龍がおずおずと水瓶から顔を出した。
「あの、助けてくださってありがとうございます」
 よく通る澄んだ声だった。
「あなたの名前は?」
 ジウが尋ねると、海龍はディーラと名乗った。
「あたしはジウ。傷はどう? 痛い?」
「いいえ、だいぶよくなりました。ジウのおかげです」
 ディーラはジウの腕の、鱗が剥がれた痕を見つめた。ジウはにっこり笑う。ふたりは視線で通じ合っていて、わたしはすっかりのけ者にされた気がした。
「あなたが見つけてくれたんですよね?」
 ディーラがわたしの方を向いて、ありがとうございます、と言った。わたしが言葉に詰まっていると、ジウが代わりに、「イサリよ」と笑った。
「どうしてあんなところにいたの?」
「……あの、食べられそうになって」
 ディーラはきまり悪そうに身を捩る。
「え? 海龍なのに?」
「海龍でもこどもは普通に食べられますよ」
 ディーラは平然と答える。海龍と言えど、身体が小さいうちは身体が大きいものに食べられるらしい。ディーラは、どうしても陸が見たくて、大人たちの反対を振り切ってここまで来たと語った。
「どうして?どうして陸を見たかったの?」
 ジウは、ディーラの水瓶に思い切り近づいた。もうすっかり打ち解けたようだった。
「ヒトが陸でどうやって生活しているのか知りたかったんです。遥か昔、わたしたちは同じ仲間でしたから」
「仲間って?」
 ディーラの言葉にジウが首をかしげる。ディーラは、知らないんですか? と目を丸くして、海龍が必ず子どもに語り聞かせるという物語を教えてくれた。
「わたしたちは、ずっと長い間、海の底でひっそりと暮らしていました。わたしたちは海を愛し、仲間を大切にし、とてもしあわせでした。けれど、あるひとりの若者が、陸に暮らす「ヒト」という生き物に興味を持ち始めました。最初は「ヒト」が海に落としていった物を気まぐれに集めていただけでした。銀色に輝く不思議な棒やぶにぶにと弾力のある布、涼やかな音のなる筒など、実に他愛のないものたちばかりでした。しかし、熱心に集めているうちに、若者は次第に「ヒト」そのものに憧れ、愛してしまいました。けれど、群れの長老たちからの猛反発を受け、なかなか陸へ行けませんでした。若者は、諦めずに、長い長い時間をかけて交渉しました。若者の根気強さに負けた群れの長老たちは、ついに若者が陸へ行くことを許可しました。そうして、ようやく、若者は陸へと旅立ちます。しかも、ひとりではなく、若者の熱意に感化された仲間たちも一緒でした。しかし、彼らが陸に着いたとき、もう「ヒト」の姿はありませんでした。とうの昔に絶滅してしまっていたのです。若者は愛する「ヒト」を失ったかなしみに打ちひしがれ、そして、若者はひとつの選択をします。それは、陸に残された「ヒト」の跡を手掛かりに、自分たちが「ヒト」となることでした。一緒に陸に来た仲間たちは戸惑い、若者を説得しようとしましたがだめでした。若者はその日から、自らの鱗を剥がし始めたのです。そうして、徐々に「ヒト」としての身体を手に入れてゆきました。当然、仲間たちの中には、海へ帰って行くものもいました。若者は彼らを止めませんでした。けれど、海の仲間たちは何度も陸の仲間たちを連れて帰ろうとしました。次第に、そのやりとりは苛烈さを増し、争いへと発展してゆきました。そして、ついに海と陸は永遠に分かたれてしまったのです」
 ディーラは話し終えると小さく息を吐いた。わたしたちはしばらく黙り込む。洞窟を滴り落ちる水滴の音がやけに大きく聞こえた。
「あ、あのときの形見って――」
 ジウがわたしを見つめる。わたしはジウの言葉で、初めて出会った海龍のことを思い出した。どうして海龍の友人の形見が陸にあったのか、ずっと疑問に思っていたけれど、もしかしたら、彼が言っていた「ふるい友人」とは、「ヒト」に姿を変えた海龍のことだったのかもしれない。わたしとジウは目を見合わせて笑った。
「つまり、わたしたちも海龍ってこと?」
 ジウが尋ねる
「そうかもしれません」
 ディーラは鏡のような瞳でわたしたちを見つめた。
 
 ジウは、ディーラの物語をすっかり信じ込んでしまったようだった。ジウはもうディーラに夢中だ。ディーラの傷が癒えるまで、洞窟で匿うと言い出した時、胸にいやな靄のようなものがかかった。
 洞窟に行かないと言い出したのはわたしなのに、ジウとディーラが一緒にいると思うと不安に駆られて、わたしも毎日、洞窟に行くようになった。ジウは、わたしもディーラと仲良くなりたいんだと勘違いしている。ディーラは物知りで、やさしくて、わたしたちにいろんな話を語り聞かせてくれるけれど、わたしはいつも上の空だ。わたしが本当はディーラのことを疎んじていると知ったら、ジウはどう思うだろうか。
 かつてあんなに海龍に会いたくてたまらなかったのに、今ではディーラの顔を見るたびに胸が痛んだ。身体だけでなく、心もすっかり変わってしまって、わたしは一体どうしたらいいのかわからなかった。「わたし」がどんどん消えてゆくような気がして怖かった。
 
 ディーラが洞窟に来てから、もう一週間が経っていた。ディーラの傷はすっかり塞がって、傷跡すら見えない。わたしは、ディーラが海へかえる日を待ち望みにする一方で、ジウも一緒に連れて行ってしまうんじゃないかと毎日、不安でたまらなかった。
 ほそくやわらかい雨が降っていた。空も海も白くけぶって、うすいベールに包まれているように見えた。海藻拾いもそこそこに、わたしは灯台へ急いだ。肌の上で雨粒が踊る。走るとよりいっそう雨粒の感触が鮮明になった。かつて、水の中を鱗で切り開くように駆けた感覚が甦る。わたしはうれしくて、もっともっと走る。はやく走れば走るほど、肌の上を雨粒が駆け抜け、まわりの景色も淡く流れ去ってゆく。本当に海の中にいるような心地よさだった。わたしは、この感触がたまらなく好きだった。もういなくなってしまったと思っていた「かつてのわたし」はまだちゃんとこうして「いまのわたし」の中にいる。忘れていただけで、なくしてしまったわけではなかった。たまらなくジウに会いたくなった。わたしがここにいることを知ってほしい。そして、きっと今ならディーラとも友達になれる気がした。
 わたしは久しぶりにわくわくした気持ちで灯台に入った。地下室の階段を降りてゆくと、ジウとディーラの声が聞こえた。はやくふたりに会いたくて、駆け足になる。最後の段を降りきった瞬間、ジウの声がわたしの身体を貫いた。
「行きたい! わたしも一緒に連れてって!」
 わたしは身体が凍り付いたように動けなくなった。ついに、わたしが恐れていたことが起きてしまった。
「もうここには帰ってこられないかもしれませんよ?」
 海はわたしたちにとって広すぎますから、とディーラの声は静かに諭すようだった。
「イサリと離ればなれになっても行きたいですか?」
 胸がどくんと強く鳴る。ジウはどっちを選ぶのだろう。期待と恐怖がないまぜになって今にも泣きだしてしまいそうだった。わたしは祈るような気持ちでジウの返答を待った。
 
 ジウは何も言わなかった。ジウが海へ飛び込んで、どこか遠くへ泳ぎ去ってゆく音だけが洞窟の中に響いていた。鱗と違って、いつまでもぐしょぐしょと濡れたままの肌はわたしをいっそう惨めな気持ちにさせる。つめたい闇がわたしをすみずみまで侵す。感覚を失ってゆく指先が凍えるようにつめたかった。
 
 真夜中、わたしはひとり灯台をめざした。もう雨はやんでいたけれど、空気はつめたく湿って、雨の気配が色濃く残っている。
 洞窟の中の空気もひんやりと湿っていて、少し重たかった。わたしは洞窟の奥に置かれたディーラの水瓶にゆっくりと近づき、くすねてきた銀色のナイフを取り出す。食堂にたった一つだけ残されていたナイフはよく研がれ、隅々まで磨き上げられていた。そっと水瓶に手を伸ばし、触れようとした瞬間、
「ごめんなさい」
 というディーラの声が後ろから聞こえた。おそるおそる振り返ると、ディーラは海の中にいた。洞窟の入口すれすれに迫る海面から頭をだして、深く静かな瞳でわたしを見つめている。
「わたしのせいで苦しめてごめんなさい」
 ディーラの声は、まっすぐわたしに届いた。深い悲しみとやさしさがディーラの声と瞳に滲んでいた。わたしは思わずディーラに駆け寄って、そのつめたくしなやかな身体を抱きしめる。
「ごめんね」
 わたしはディーラの身体をそっと撫でた。
 
 ディーラは口で器用に自分の鱗を二枚剥ぎ取ってわたしにくれた。
「イサリとジウが海に来るときは、どうかそれを持っていてください。きっとまた海の中で会えます。また会えたら、そのときは――」
そう言うと、ディーラは少しためらってから、
「イサリとも仲良くなりたいです」
 わたしはもう一度ディーラの身体をつよく抱きしめた。ディーラの白くひかる鱗は海の中できらりと揺らめいて、消えていった。
 
 わたしは、水瓶の中にディーラの鱗を入れて地下室の木箱の前に置いた。ジウならきっとわかるだろう。わたしは、また洞窟への階段をゆっくりと降りてゆく。
 かつて、ジウと一緒に海の世界を冒険しようと約束したときのことを思い出す。わたしたちはずっと同じ夢を追いかけていたはずなのに。けれど、わたしだって、まだ夢を捨てたわけじゃない。もしまたジウが同じように迷ったとき、一緒に行けないことよりも、ジウの足枷になるほうがつらい。それなら、先に夢を叶えてしまえばいい。わたしは、期待に胸を膨らませながら、階段を一歩ずつ降りる。波の音がだんだん近くなる。洞窟の中はたっぷりと膨らんだ濃い海の匂いに満ちていた。洞窟の入口に立って、深く息を吸い込む。わたしが、わたしたちが夢見た世界の匂い。わたしはそっと目を閉じる。ぬるくやわらかな波の中に身を委ねる。波はわたしをやさしく受け止め、広く深い、ゆたかな海へと運んでゆく。
 
 
 つめたい鱗の感触がした。頬に、肩に、腰に、手のひらに、硬くつめたい鱗を感じる。鱗は小さくふるえていた。ふるえは波のようにわたしの身体にひろがってゆく。あたたかな雫がわたしの頬に降り注ぎ、なんども「イサリ」とわたしを呼んだ。――ジウだ。ジウがわたしを抱きしめて泣いている。
 
 「ジウ」
 わたしの声はひどく掠れていて、さざ波よりも小さかった。
「イサリ!」
 視界いっぱいにジウのぐしゃぐしゃに濡れた泣き顔が飛び込んできた。思わず笑うと、ジウはまた大きな涙をぼろぼろ溢れさせた。
「イサリ」
 ジウはたしかめるみたいにわたしの名前を呼んで、強く抱きしめた。わたしもジウの背中に手を回す。鱗はジウの背中でさざ波のようにかすかに波打っている。わたしの手のひらから溢れた熱がジウに移って、鱗がゆっくりとぬるくなる。ジウの鱗はほんとうのさざ波のように心地よかった。
 
 わたしたちは浜辺にいた。ジウはわたしがいないことに気づいて、探しに来てくれたらしい。そして、ちょうどわたしが波の中に落ちていくのを見て、わたしを助け出してくれた。
「なんでひとりで行こうとするの」
 ジウが口を尖らせた。
「一緒に行こう」
 約束でしょう?とジウは笑った。わたしもジウをまっすぐに見つめて笑った。
 
 雲の隙間から月明かりが零れて、ジウの鱗が皓々と輝く。波の音が深く低くあたりに満ちて、風はすみずみまで海の匂いがした。わたしは、薄く小さな貝をジウの背中に押し当てる。貝をすべらせて、淡く虹色にひかる鱗を剥ぐ。鱗は、はりはりと涼やかな音を立てて剥がれ落ち、わたしの身体や、砂浜につぎからつぎへと降り注ぐ。鱗が剥がれ落ちたところは薄桃色の表皮が現れ、やわく光をはね返している。そっと表皮に触れると、ジウはびくりと身体を震わせた。表皮ごしに触れるジウの身体は、燃えるように熱かった。
 わたしが貝をすべらせるたびに、ジウは唇をかみしめて痛みに耐えた。ジウのかすかに震える背中から鱗をすべて剥がし終えると、わたしはジウの正面に座り、ジウのなだらかな胸に貝を押し当てた。ジウの体温や鼓動が貝を通して伝わってくる。小さく息を飲む音、かすかに漏らす呻き、わななく唇。わたしはジウの痛みや熱に触れる。最後に、ジウの手のひらの鱗を剥がすと、鱗はしゃりしゃりと音を立てて、手のひらからこぼれ落ちていった。
 
 ジウはわたしを砂浜に横たえる。わたしの肌が月のひかりを浴びてほの白く輝く。ジウは、わたしがくすねてきたナイフを取り出した。肌の上にナイフの先を押し当てられると、ナイフにわたしの肌が映った。つぷ、と切先が肌に沈むと、灼けつくような痛みが走る。わたしの血は鈍い光を宿して、肌の上を流れてゆく。ジウがそのままナイフをすべらせると、わたしのおへその下にぐるりと水平線のような赤が浮かび上がった。
 わたしの肌は薄く、ぴったりと身体に密着しているので、ジウは表面に垂直にナイフをすべらせたあと、さらに中にナイフを差し込んで、今度は身体のかたちに合わせて水平にナイフをすべらせなくてはいけなかった。ナイフが肌の上を滑ると、その刃の軌跡に沿って肌がかっと熱くなった。冷たいナイフが、ぞりぞりとわたしの肌のうちを這い回り、身体から肌を切り離してゆく。肌を剥がされた部分が燃え盛るように熱かった。ふいに、お互いの剥き出しの身体同士が触れて、その熱を分かち合う。ジウは鱗の、わたしは肌の、異なる痛みを同じように分け合って、わたしたちは混ざり合い、ひとつになってゆく。
 夜明けがもうすぐそこまで迫っていた。ジウはわたしの腰や脚を鱗で覆ってゆく。ジウの鱗はひんやりと冷たく、熱をもった皮膚を鎮めてくれた。わたしの身体は、血と砂と泥と波と風と、そして鱗と、何もかもが混ざり合って、淡くひかりを放つ。わたしはジウの胸や背中をわたしの透ける肌でベールのように包み込んだ。肌はジウの身体の上で波打つように踊った。わたしたちは、自由に、軽やかに、笑い合いながら、自分の身体をつくりかえていった。
 
波がわたしたちの爪先を撫でてゆく。空がほのかに白み始めた頃、最後に、ディーラにもらった鱗をお互いの身体に埋め込んで、わたしたちはようやく身体をつくり終えた。薄明かりの下で、わたしたちの身体は様々な色に、鈍く、淡く光る。半分は肌に、半分は鱗に覆われた、わたしたちだけの身体。痛みを分け合ってできた、たったひとつの身体。わたしたちは立ち上がって、お互いの手を握った。鱗に覆われた爪先で波を蹴る。波に浸かった鱗がしんと冷たくなってゆく。わたしたちは手を繫いだままするりと波の中に身体をすべり込ませた。波はあたたかくわたしたちを包み込む。わたしたちは、なめらかな肌で風を感じ、鱗で覆われた脚で波の中を駆けてゆく。

文字数:18036

内容に関するアピール

この一年間、ほとんど知識ゼロの状態からがむしゃらにSFに向き合ってきました。SFのレンズを通して見ると、日常の些細な棘やざらつきが違った見え方をするような気がして、そういうお話を書いてみたいと思いました。なので、最終実作では、わたしが日常で感じていることをお話の核にしてみました。
 
 話の中で描きたかったことは2つです。まずひとつは、「身体への恐怖」です。私たちの身体には予め機能が課されていて、それによって勝手に変化していきます。たとえば、怪我をしたらどこからともなく瘡蓋が現れて傷を治そうとするし、思春期になると第二次性徴を迎えます。また、社会ではそれぞれの身体に応じて役割を果たすことを求められます自分の内側から半ば暴力的にもたらされる変化とそれによって変わってしまう社会における自分のあり方、その狭間で揺れる苦悩を表現しました。
 ふたつめは、「痛み」です。わたしたちの身体は常に「痛み」に晒されています。作中で登場人物が、自分の好きな身体でいるために瘡蓋を剥き、血を流すシーンがあるのですが、どうせ痛いのなら、誰かに押しつけられる痛みではなく、自分らしくいるための痛みを選びたい、という祈りを込めました。また、痛みは他者とつながるための手段にもなりうるという肯定的な面も描きたかったです。
 
 表現としては、私たちと全く異なる世界や存在に共感してもらうために、身体感覚をできるかぎり克明に描くよう心がけました。最後までリアリティのあるサイエンスやガジェットというSFらしいものは描けませんでしたが、身体感覚で読者とつながりつつ、現実から遠くにつれていけるお話、登場人物に共鳴したり、一緒にその世界を知覚できるお話、さらには、だれかの「ない記憶」になれるお話を目指しました。

文字数:740

課題提出者一覧