梗 概
貴方のためのマフ
ある朝、濃霧が晴れると鹿児島県・桜島に巨大な兎が鎮座していた。体長は約58m、垂れ耳。香箱座りで眠っており生殖器が見えないが、首周りの豊かな肉垂からメスと見られた。
研究室から中継を見ていた博士は青ざめる。巨大兎の姿形が娘と飼っているホーランドロップのレモンちゃん(♀ 2歳)そのものだったのだ。そこで初めて、試作中の動物医療用巨大化注射製剤の紛失に気づき、犯人が自分の11歳の娘ナツだと確信する。娘を顧みない母親に反抗したナツは盗んだ注射をペットに打ったのだ。現場に向かった博士はナツを見つけるも、彼女は兎のあまりの変化に取り乱していた。博士はナツにこれまでを謝罪し、同時に彼女の軽率さを諭す。まだ技術は途上で生きたまま元に戻す方法が見つかっていないこと、今後の影響はわからずレモンちゃんが苦しむかもしれないこと……2人は何年振りかに深く話し合う。その間自衛隊は巨大兎の周囲を封鎖し、一般人の立ち入りを禁止するが、写真や動画は即拡散され桜島の巨大兎は一日で世界中を駆け巡った。
翌日、ナツは自衛隊と博士に付き添われレモンちゃんの麓で声かけする。嬉しがるレモンちゃんは寝っ転がってなでなでを要求するが地震のような揺れにナツは立っていられない。触れ合えない現実に愕然としたナツは「研究者になりレモンちゃんを元に戻す」ことを誓う。
当初監視目的で国が設置した24時間ライブカメラは58mの兎を世界中に配信し続け、常時60万人接続の人気ライブとなっていた。その広告収入は巨大兎特例措置法に基づき設立された基金に積み立てられ、1日500kgの牧草調達等をはじめとした巨大兎管理費に充てられた。レモンちゃんは濡れたがらず水に入らないため島内を縄張りに気ままに暮らす。一方、地元桜島の人々は巨大兎を桜島の権化として「御耳長様」と呼び「大兎大社」なる神社で神様として祀り始める。それは全国に広がり次々と神社が造られ、狛兎が日本中で一般的な光景となった。大兎を拝むため桜島に足を運ぶことは徳を積む行いとされ、鹿児島県は好きに動く兎から損害を受けつつも大いに栄える。
そんなある日、桜島が大きな噴火を起こす。火山灰と噴石を嫌がったレモンちゃんが体を震わせ大きく跳び上がると、そのジャンプは成層圏を超え月まで届いた。月面に寝っ転がるレモンちゃん。感触が気に入ったのか、そのまま月に居着くようになる。当初人々は悲しんだが、今度は24時間月面ライブカメラが大人気になり、桜島での管理費が浮いた巨大兎基金は、世界中の子供達の教育のため使われるようになる。
そして桜島では足跡の大穴が祀られ、月には兎がいるようになったのである。
ナツは大学生になっていた。巨大兎基金からの教育資金助成の採択通知は届いたばかり。世界から愛される兎を見るたび迷いが生じるも、進むしかない。もう一度、自分の小さな兎を腕の中に抱くために。
文字数:1200
内容に関するアピール
起点となる一つの設定を「兎が巨大化する注射」としました。
・桜島には権現(山の神)たる大兎がいる ・兎を食べず、兎という言葉の代わりにお耳長様と呼ぶ などの伝承が江戸時代の随筆内に記されているとのことで、そちらをモチーフに巨大兎の出現位置を桜島として組み立てました。
実作でもこの雰囲気を崩さず、ナツの成長と過去への後悔、兎への思いなどを織り交ぜつつ、のんびり屋の巨大兎レモンちゃんをめぐる世界中を巻き込んだ愉快なドミノにしたいと思います。巨大兎は人類終末の使者と主張するカルトVS兎愛の地元民などのエピソードも出していきたいです。
第一回の講評以降、「うさぎを月に返すには」を考えていたのですが、巨大化させれば脚力でいけるというところに思い至りました。ジャンプ!
参考文献 『ウサギの日本文化史』赤田光男 世界思想社
文字数:355
貴方のためのマフ
☆
「彼女」が現れたあの日、私はまだ3歳だった。
それでも、周囲の誰もが驚き困惑し、しばらくその話で持ちきりになった日々のことを覚えている。
あれは夏の朝のことだった。明け方に濃霧注意報が出された鹿児島市内は、あたり一面、真っ白な霧につつまれていた。暖かい黒潮の海からの空気が早朝の陸で冷やされて、桜島の姿もすっかり覆い隠されていたのだ。だんだん時間の経過と共にやわらかな白さが薄らいで太陽が顔をだし、いつものように桜島に目を向けた誰もが——その目を疑った。
いるはずのないものが、昨日まで存在しなかったものが、桜島のいびつな山並みを枕のようにして寝そべっていたのだ。
つややかな毛並み、匙のような長い耳、上唇の裂けた口元、首周りの豊かな肉垂——東京に住んでいた私はというと、リビングで瞬くテレビを通してその光景を見ていた。
読みかけの本をフローリングに捨て置いて、ただじっと指をさしてそれをひたすら見つめていた。
リポートするテレビのキャスターが興奮した様子で、何度も何度も同じ単語を連呼する。
皿を洗っていたうちのお母さんも、顔を上げて中継を見ると、水を出しっぱなしにしたまま動きを止める。
お母さんの呟きが、私と二人きりでいる夏のリビングに響く。
「なにあれ、うさぎ……?」
その日から、もう丸7年がたつ。キャスターが当時の中継で興奮のままに叫んだ、「うさぎです! あれはッ! うさぎです!」というフレーズはその年の流行語大賞にノミネートされ、「うさぎです! プリントクッキー」や「うさぎです! Tシャツ」は今や鹿児島土産の定番だ。
そう、桜島にはあれからずっと、巨大兎が住み着いている。私の研究として、巨大兎の公開情報や私の所見をまとめた「巨大兎基本情報」ノートより、以下を記す。
・全長:約58m(耳の先までふくむ)
・推定体重:およそ150トン
→麓にいると島のてっぺんには届かない。もちろんジャンプすればすぐ届く。
まれに突然元気良く跳ねることがあり、その際運が悪いと島の建物の窓ガラスが空振で割れるらしい。
・種類:ホーランドロップ
→研究者間では、巨大兎にペットのうさぎの種類がそのまま当てはまるか議論を生んでいるらしい。
・性別:雌♀
・見た目:全身が薄いグレーの被毛。垂れ耳。
→首元がタプタプになっていて、まばらに白い毛が生えている。
うさぎの雌だけが持つもので肉垂という。
子兎を産むときのために、栄養をタップリ貯めておく。
・餌:毎日約500キロの牧草
・生活:明け方と夕方以外はだいたい寝ている。
睡眠は1日約15時間ほど。(目を開けていても寝ていることがある。)
巨大なコンクリの箱が主な寝床。(元々島には噴火時の退避壕があって、それを模しているという。)
まだまだたくさんあるけど、まあこんな感じでうさぎは島内でドタバタ気ままに暮らしている。大きさ以外は、普通のうさぎとさほど変わらない。ただひたすらに巨大。巨大すぎるだけ。
私の朝は、桜島のうさぎの様子をただ映し続ける「桜島ライブカメラ ー巨大兎さくらちゃんー」の配信を起動することから始まる。
私はずっと、この日本国鹿児島県鹿児島市桜島に突如現れ、以降住み着いた巨大兎、つまり世界中が「さくらちゃん」と呼ぶ不思議生物をあの日から毎日欠かさず観察している。
鹿児島市が管理するこのライブ配信は日本だけでなく海外でも人気があり、常時60万人近くが接続する盛況ぶりだ。(ちなみに広告収入は巨大兎基金として積立されていて、巨大兎の餌代、清掃費、なんなら壊した家の修繕費とかに至るまでのおおよそ全てをここから賄っているらしい。)
これは今年で10歳になる私のライフワークであり、7年に渡り取り組んでいる自由研究だ。学校に提出するでも発表するでもない、私の人生をかけた、深い深い探究なのだ。
☆
鹿児島の夏は、眩しい。空港から降り立って感じたのはまずそれだ。
あらゆる風景のくっきりとした輪郭の鮮やかさに、目がしばらく慣れない心地がする。
以前ここにきたのは巨大兎が現れる前のことで、私はまだ一人できちんと歩けないくらい小さかった。当時も空の色や緑の色が東京とは違うと考えていたけど、その感覚は間違っていなかったみたいだ。
毎年、夏休みはここ鹿児島県から、従姉のナツねえが東京の方に遊びにくるのが定番だった。(ナツねえのママである叔母さんは物理の研究者でバリバリ仕事をしているので、子供の長期休みというのはなかなか大変だからだ。)
今年はナツねえが受験のため、東京側から出向いたのだ。新型感染症の流行でここ数年はみんな遠出ができていなかったから、本当に久しぶりの対面だった。
「ナツちゃんこっち!こっち!」
お母さんが、道路の向こう側から小走りしてくるナツねえに大きく手を振る。最寄りの路面電車の停留所まで、迎えに来てくれたのだ。
「あらあ、見ない間にちょっと大きくなった?」
「えー? おばさん、そんなに背伸びてないですよ」
「ほんと? なんだかスラっとしたから。ごめんねえ、迎えにきてもらっちゃって。姉さんには大丈夫って言ったんだけど」
「いやあ、浪人生ですけどずっと座って勉強してられなくて。息抜きにちょうどいいですよ」
久しぶりに会うナツねえは穏やかにそう言った。思ったより元気そうで、正直私はホッとしていた。
第一志望も第二志望も第三志望も、鹿児島の大学も東京の大学もぜーんぶ落ちた、とナツねえママとうちのお母さんとで、電話しているのを聞いてしまったから。
自分が一生懸命取り組んできたことが実を結ばないのは辛いだろうな、と思う。かわいそうだ。
私も、私の日々の研究がこの先結果に結びつかなければ、きっとかなしい。
「ハルちゃんお疲れさま。暑かったでしょ」
ナツねえはTシャツにゆるいズボン、足元はヒールのないサンダルで完全に手ぶらだった。家からこの停留所まで急いで走ってきたのか、少し額に汗がにじんでいる。
「まあね。ナツねえほんとに久しぶり」
「うん、久しぶり……。リュック重そうだね。持とうか?」
「自分で持つから大丈夫」
背中のリュックには、たぶん私の命の次に大事なものが入っている。
いくらナツねえでも、今やすやすと渡すわけにはいかなかった。
お昼ご飯に黒豚の豚カツを食べてから、ナツねえと二人で桜島に行くことになった。
最近しばらく小規模噴火の報道があったし、近づいて大丈夫なのかと聞いたら、お母さんから笑い飛ばされてしまった。あんなの東京で大袈裟に報道されてるだけで、ここじゃあしょっちゅうあるんだから、と。
東京から出発する時、私が電話で「ナツねえと二人で桜島に行ってみたい」と伝えていたこともあり、ナツねえママが気を回してくれたようだった。受験生に案内してもらうのは申し訳ない、とうちのお母さんが止めようとしても、ナツねえママは譲らなかった。
「ナツが行かなきゃだめなのよ」
声色は優しくても、きっぱりとした口調だった。
お母さんとの会話の中での言葉だったけど、たぶん本当はナツねえに言っているんだろうなと思った。
ナツねえママはキッチンで食後の紅茶をいれて、今度こそナツねえの方を向き、笑って続けた。
「ね、ずっと勉強だけだと煮詰まるわ」
ナツねえママは私たちの中で、一番強い。誰も逆らえない。
ナツねえは本当は断りたかったかもな、と思いながら、私はナツねえと二人きりで歩いて路面電車の停留所まで行った。
「ちょうど行っちゃったところだね」
柱にくくられた時刻表を見て、ナツねえがひとりごとみたいな声の大きさで言う。
「暑いけど、すぐ次が来るから日陰で待とうか」
私はうなずいた。人がひとりしか立てないくらい細い待合のホームに立って、電車を待った。
リュックとワンピースに蒸された背中にじっとりと汗をかいていく感覚がある。
この辺りの路面電車はというと、アスファルトの道路の真ん中に青々とした芝生を川みたいに通して、その上に線路を敷き、両岸にそれぞれ停留所を置いていた。
そんなふうに待合ホームが道路上の孤島みたいになるので、背後をすごい速さの車がビュンビュン通っていく。太陽に照らされた線路が、芝生の上に白いペンで書いた曲線みたいに遠くまで細く続く。全部が狭い東京ではとても作れない景色だ。
隣にナツねえがいても、どこか落ち着かなかった。
ナツねえはもう免許を取ったんだろうか。いや、浪人してるんだからまだだろう。
鹿児島は車がないと暮らせないとよく聞く。運転が下手だから東京に住んでるのよ、と言うお母さんの気持ちもなんとなくわかる気がする。次々違う車のエンジンの音がする……。
暑くて風があって、私はお母さんに持たされたペットボトルの麦茶を喉が渇いているわけでもないのに、何度か口に含んだ。ナツねえは、あまり話さない私と違ってとにかくおしゃべりが上手なのに、今日はどうしても会話が続かなかった。
停留所までやってきた路面電車に乗って港まで行き、桜島フェリーに乗りこむ。うさぎの桜号。7年前現れた新星は、多くの混乱を生みつつも、今はもうすでにここ鹿児島県、ひいては九州や日本の観光的にも重要な位置付けで、マスコットとしても十二分に馴染んでいた。
船が島に着くまでナツねえと甲板にいようと思ったら、ナツねえは何やら考え込んで言葉すくなに、中にいるねと言って船内に引っ込んでしまった。
私は無理して誘わないことにして、一人で甲板に向かった。船で近づくこのタイミングは、徐々に大きくなるうさぎを映像に収める格好のチャンスだからだ。
私は初めて見る生の巨大兎をよく観察しようと、首にかけた双眼鏡をかまえた。
薄いグレーの体毛に覆われた上部が視界に入る。あのリポーターのように「うさぎです!」と叫びたい気持ちに駆られる。だってあれはうさぎとしか形容しようがないから。58mだけど。
観劇が趣味のお母さんから最近もらったお下がりの双眼鏡は、遠くの風景を細かく見るには少し倍率が足りない。でも、これで十分だった。それくらい、島のうさぎは巨大だった。
毎日ライブカメラで観察していても、実物を見るのはやはり違う。当たり前のことだけど、相手は生きていて、動いているのだ。きっと島につけば、歩く音で地鳴りがしたり、鼻息で帽子が飛んだりするに違いない。
大きさそのものは、7年前の登場時から成長しているようには見えない。やはりあの時点で成体として完成していて、大きな体重の変化は起きていないと思われた。
うさぎは体を大きく震わせて、丸い背に薄く積もった灰を払った。
快晴の日にくることが出来てよかったと思う。雨の日は灰が張り付いて巨大兎の元気がなくなるタイミングだから。食事が済んだようで、前足を上げて立ちあがり、その裏を片方ずつ器用に舐めている。本当に、すごく元気そうだ。
ただ、少し暑いのか、いつもより鼻がひくひくする速度が速い気がする。平時は1分間におおよそ50回ひくひくする。これはかつて私がライブカメラを見ながら計測した平均値だ。
「嬢ちゃん、さくらちゃん見にきたんか?」
甲板で近くにいたおばさんが話しかけてくる。地元の農協か何かの人のようだ。
小さくグレーのうさぎの刺繍の入ったエプロンが、ところどころ土か何かで汚れている。
「そうです」
「そうかあ、最近跳ねんけども小石とか当たっで近づきすぎんようにな」
「はい。ありがとうございます」
フェリーから降りると、島はうさぎだらけだった。
横断幕とか立て看板とか顔のところが空いた記念写真用のパネルとか、耳の垂れたグレーのうさぎの絵がこれでもかとかわいらしく描かれている。さっきの農協の人のエプロンも、何処かで売っているのかもしれない。
フェリーから降りたその足で、そのまま二人で大兎大社に向かった。
そこは狛犬ならぬ狛兎が有名で、入口左右の阿吽像に似た二羽のほか、敷地内の至る所に全国からの寄付で造られたといううさぎの像が立っているという。
7年前に巨大兎が現れた後に創建したらしいけど、今では全国に分社が作られているらしい。
狛兎も徐々に一般化し、今では地域の神社にもぽっと置かれたりして、さほど珍しいことではなくなった。
大兎大社は7年前に現れた存在を、祀る対象として具体的にどう書くのだろう。気になって社のそばの看板を読んでみると、こうあった。
一 御由緒
ここ鹿児島には古くから大兎が住むという伝説があり、かつては兎を狩ることが禁じられていた。
その伝説の大兎がこの地を選び、「御耳長様」と呼ばれる神の姿をとって現れたのである。
そのため、社殿をここ桜島に遷座するものである。
二 御神徳
・縁結び、子宝、安産
・健康、学業成就
・家内安全
「うさぎだし、子宝はわかるとして学業ってちゃんと見てくれるのかな……」
いつの間に、隣に立っていたナツねえが真面目な顔をしてそう言ったので、私は思わず笑ってしまった。
しかし、すぐにナツねえが浪人中なのを思い出して、口を抑えた。きっと真剣なのだ。
あの何を考えているのかよくわからない、黒々とした目のうさぎが勉強をどうにかしてくれるとは思えない。でも吊るされたお守りは白地にグレーのうさぎと桜の模様がきれいに刺繍してあり、物としてとてもかわいい。これだけで、この大兎大社が人気があるというのもわかる。
看板の最後は、以下のような文章で締めくくられていた。
御耳長様は今や広く日本中で崇敬されており、この地に足を運び、祈ることで限りない善行をつめるものと言われている。
御耳長様。
「さくらちゃん」と言うと誰もが巨大兎のことを連想する。しかし、「御耳長様」と言うと一気にネットミームの雰囲気がせりだしてくるように思う。
私は社殿でお賽銭を入れて鈴を鳴らすのと同時に、リュックのポケットからスマホを取り出して、「仮想創建」の社でも画面をタップしなんとなく同じように鈴を鳴らした。
ネットでは「仮想創建」と呼ばれる、各々がデザインした架空の神社を作る遊びがここ数年ですっかり根付いている。祀る神様はといえば、御耳長様だ。特にグレーで垂れ耳、とかビジュアルに指定があるわけではなく、それぞれが思う御耳長様のモデリングも製作側の腕の見せ所になっている。
とにかくデザインが特徴的でかわいらしかったり、細部まで作り込まれていたりと、人気の「仮想創建」では文字通りの「お布施」があまりにも集まりすぎてしまって、トップ製作者が脱税で捕まったりしたのも記憶に新しい。
私が気に入ってデジタル参拝している御耳長様はこの桜島の巨大兎に忠実な、グレーのホーランドロップだ。しかも、実写とみまごう姿が動くようになっている。
この大兎大社の敷地内は、特にそれら「仮想創建」について連想させるものは何処にもなく、ただただ海を見渡すことのできる木陰の中の静かな神社だった。お祈りするところとしては、その方がきっとずっといい。
結局ナツねえは人が並んでるからという理由で、お守りを買わなかった。あくまでも想像だけど、ここで買ったという出来事と、落ちた受かったという結果がくっつくのが嫌なのかもしれない。
私が買ってあげようか? と言おうとして、なんかカッコ悪いと思ったのでやめた。お小遣いで十分買える値段だったけど、いらないという高校生のナツねえに無理に提案するのはスマートな感じではないと思う。
大兎大社を後にして、いよいよ巨大兎に近づいていくことにした。
バスで遊歩道の麓まで行くと、駐車場のあたり一面がくすんだ浜辺のように砂に覆われていた。
いや、正確には砂ではない。
灰だ。全て灰だった。
足をすすめるごとに、靴の裏の模様が階段全てに残っていく。後ろを振り返れば、私とナツねえの靴の模様が点々と登っていくのがくっきり見える。山に登っているのに、足だけ見れば砂浜のように錯覚しそうで、奇妙な感じだった。
「わたし、ここで待ってるね」
さくらちゃん遊歩道を途中まで登った中途半端なところで、ナツねえが足を止めた。
「どうして?」
巨大兎は今は眠っているのか、山を枕に寝っ転がってあまり大きく動かないけど、広々としたお腹が上下にくうくう動いていて、その鼻息さえ感じられそうな距離にまできている。
「だめ、これ以上は」
「ナツねえ」
「ごめん、ハルちゃん一人で行ってもらえる? ほんとにごめん」
その瞬間だった。ものすごい轟音が、島の頂上から鳴り響いた。上に目をやると、真っ白な煙で視界が遮られる。
噴火だ!
まばらにいた周りの人からも、きゃあという声が上がる。
吹きつける爆風で灰が勢いよく巻き上がり、思わず目をつぶる。全身がもう灰まみれだ。
風にのって強い硫黄の匂いも運ばれてくる。取り急ぎすぐ下にある、待避壕に行かなくてはいけない。
それなのに、立ち止まっていたナツねえが突然、私の横を通り越して上にいる巨大兎の方に駆け出そうとした。
「ナツねえ、ダメだよ! すぐに降りなくちゃ」
私は叫んでナツねえの腕を掴む。帽子が落ちたけど、そんなこと構っていられなかった。
「レモンちゃんが、レモンちゃんが!」
それでも上がろうとするナツねえが階段につまずいて、転んだ。私は申し訳なく思いつつも、すかさず上に乗って押さえ込む。ナツねえは、煙で隠れたうさぎの方角へもう一度叫んだ。
レモンちゃん!
桜島の噴火……規模はわからないけど、急いで降りなければ噴石かもしくは最悪の場合、火砕流なんかに直面することもあり得る。
今の桜島ライブカメラはどの角度もきっと画面中が煙まみれで、様子が見えなくなっているに違いない。コメント欄も、うさぎを心配するものであふれているはずだ。
ナツねえにレモンちゃんと呼ばれた巨大兎の姿が、煙の向こうにまた見通せた。両方の前足で顔をくしくしと撫でて、灰を落とそうとしている。それでもこの灰の海みたいな噴煙の中では、落とすことなんてできない。
その時だった。
巨大兎が全身をぶるっと一度震わせたかと思うと、そのまま後ろ足を地面にめり込ませて、鞠のように大きく跳び上がったのだ!
そのジャンプは、私たちの煙る視界をやすやすと越えていき、声を上げる隙もなかった。
巨体がどこかに着地する音も、それに伴う地響きも、何も聞こえなかった。いや、聞き分けることができなかったのかもしれない。
重たい煙にまとわりつかれて、また何も見えなくなった。
「ナツねえ、とにかく降りよう。今は何もわからないよ」
私が強く体を押して、ナツねえは、ようやくゆっくりと立ち上がった。
全身の力を無くしたみたいにぼんやりとしていて、私に手を引かれる姿は、小さい子みたいだった。ナツねえは、今すごくすごく奥の方から傷ついていて、おしゃべりで明るい夏休みのナツねえではないんだと、その手の熱さと強張りから、私はようやくわかった。
☆
なんとか辿り着いた桜島港のフェリーで、二人で並んで座った。子供だけの二人組だったので、周りの人たちもとにかく親切にしてくれて、顔と手はとりあえずきれいにすることができた。灰をぬぐったハンカチは一瞬で真っ黒になった。
幸いにも取り急ぎ現状は大規模噴火といえる規模ではないようで、誰も甲板に出さず、とにかく安全な市内まで船内に乗れるだけ乗せて戻るということだった。
同じように灰まみれになった人の姿もちらほらあった。夕方とはいえ、まだ気温も下がりきっていなくて、蒸し暑かった。
朝に広く澄み切っていた青さとは打って変わって、噴煙で覆われた空はとにかく暗い。完全に陽が落ちたら、それこそ本当に何も見えなくなってしまうかもしれない。
周囲の誰もが、巨大兎の跳躍について口々に言った。
実際に見たのか、一体どこに飛んだのか、いや、島からは出ていない、あれは噴火口に落ちてしまったんだ……誰にもまだ、本当のことが見えなかった。
私は、隣で黙りこくっているナツねえに声をかけられなかった。
どうしたらいいかわからなくて、今日見かけた車のナンバーをひたすら頭の中で足していく遊びをした。なかなか量が多くて覚えきれなくなりそうになったところで、ナツねえがようやく口を開いた。
「ハルちゃん、知ってたの?」
ナツねえは顔を伏せたままだった。前髪が影になって、表情がわからない。私はうなずいた。
「うん」
「どうして?」
「だって見たことあったから。あのうさぎがレモンちゃんだって、すぐわかった」
その一言で、ナツねえは顔をあげた。両の目にはくっきりとした絶望の色があって、今が真夏でなければ、雪山で遭難した人みたいに見えていたかもしれない。ナツねえはただ真っ直ぐ私を見つめていて、視線を外さない。
なぜ、とその半開きの口が音もなく問いかけている。
「私、昔さわらせてもらったよ」
中継を初めて見たあの夏の朝から既にわかっていた。被毛も目の形も体つきも顔つきも……全部が全部、ナツねえが飼い始めたとき、一度だけさわらせてもらった小さなうさぎ——レモンちゃんと同じだったからだ。
「でもハルちゃんそのときって」
「確か2歳。巨大兎のときが3歳とちょっと」
「覚えてたの? ほんとに? そっか。ハルちゃん、すごいや。すごい、やっぱりすごい。賢い、ママみたい。そっくり」
ナツねえは何度も何度も、「すごい」を繰り返した。
でもその言葉は口の中に何か引っかかった人みたいに、モゴモゴしていた。
私は、一般的なホーランドロップのサイズ——おそらく1500gから2000g程度だったレモンちゃんが一気に150トンになった正確な原因を突き止められていない。
小さなうさぎをベースにその体を一気に巨大化させたのなら、瞬間的な細胞増殖という線は流石に模様とか見た目が変わるんじゃないかと思う。じゃあ、もし細胞と細胞の間を一瞬で埋める質量を何処かから持ってきたらどうだろう。別次元とか。あるいは、それこそうさぎという生き物がそもそも巨大である別次元のレモンちゃんをこの地球の座標に固定して引っ張ってくるか、とか……。
この7年こうやってあれこれ考えてはいたけど大方、当時10歳だったナツねえが何かしたのだろうと目星をつけていた。そして、ナツねえがそれを一人で引き起こしたのなら、何かしら機械や道具の補助を受けたはずだ。その出どころを考えれば、すぐに一人に行き着く。物理学者で研究機関所属のナツねえママに決まってる。
「ナツねえが、レモンちゃんに何かして、レモンちゃんはあんなに大きくなったんだよね?」
「……」
「ナツねえが、ナツねえママと同じ専攻に入ろうとしてることと、何か関係ある?」
「……」
「言いたくなければいい。ごめん」
私はリュックの中の2冊のノートを取り出した。古い方の1冊は「巨大兎基本情報」。もう一方の新しい方を、ナツねえに差し出した。タイトルは「巨大兎研究 Vol27」。
「レモンちゃんは私がなんとかする。私がやるよ」
最新のものになる、巨大兎研究の27冊目では物理関係の話のほかに、レモンちゃんの体の灰を綺麗に落とす方法や、足裏を健康に保つ方法なんかも考えて書いてある。この辺りはもういらなくなってしまったかもしれないけど。
「ちょっと今はどこにジャンプして行っちゃったのかわからないから、改めて探すところから始めないといけない」
「ハルちゃん」
ナツねえの顔はすぐにぐしゃっとなって、その大きな両目から薄く涙がこぼれた。
「ごめんね、ハルちゃんごめん。わたし、わたしレモンちゃんのために早く研究者にならなきゃって思ってたのに、や、やってもやっても理系科目がわけわかんなくてどこも受からなくて……。なんで親戚中でわたしだけこんな考えなしで頭悪いんだろって……なんかもう、情けなくて、レモンちゃん、レモンちゃんが」
ナツねえはそう言ってうーっ、うーと唸りながら肩を震わせて泣いていた。泣きながら必死に話す人というものに、私は生まれて初めて対峙した。両手のやり場に困った。
浪人生かあ、うちの親族からは初めてかもね、と電話を受けて悪気なくつぶやいたうちのお母さんのことを、私はきっと責められない。相手の気持ちを考えられるようになりましょう、と夏休み前の通知表に書かれたばかりだ。
ナツねえはそのまま泣きながら、7年前に何があったのか、ポツポツと話し始めた。
ナツねえママと喧嘩したこと、桜島の研究所からものを持ち出して困らせようとしたこと、銃みたいなものを盗ったこと、何度かカチカチ引き金を引いても特に何も起こらず、興味を失って放り投げた際、偶然照射された一線がレモンちゃんの尻尾をかすめたことーーそれがあの夏の日の朝だったのだ。
ナツねえは取り乱し、事態に気づいたナツねえママはすぐさま対処にあたった。連絡を受けた自衛隊が周囲を封鎖し、一般人の立ち入りを禁止しても、レモンちゃんのあの大きさは隠しきれない。写真や動画はあっという間に拡散され、桜島の巨大兎は一日で世界中を駆け巡った。
あの日から、ナツねえママも、ナツねえも、そして東京の私も、ずっとレモンちゃんを元に戻す方法を探し続けていたのだ。
私は、手持ち無沙汰になっていた両手を大きく広げて、とにかくナツねえを抱きしめた。大丈夫、大丈夫と、そう言った。
ナツねえは、確かに少し考えなしなところがあって、本人の言うように頭がよくないのかもしれない。それでも、それがなんだというんだろう。ナツねえは私よりずっと上手に人とコミュニケーションが取れて優しくて、私よりずっと体力があって早く走れる。
私は別に、うさぎが好きで毎日毎日、巨大兎を観察し続けたわけじゃない。なんなら特に好きでもない。ハルはうさぎ大好きだよね、と言われても訂正が面倒で否定してこなかっただけだ。
研究を続けていた理由はだた一つ、これがいずれナツねえの助けになるはずという確信があったからだ。
「ナツねえは私がどんなでも一生大事にするって言ってくれた。だから私も一生ナツねえを助けるよ……覚えてる?」
私がナツねえにひっついたままそう言うと、ナツねえがハッと顔を上げて目があった。ナツねえは灰と一緒に涙にまみれて、頬だけじゃなく首元までびしゃびしゃだった。
私は確かにあの日のことを覚えていた。母と叔母が話す西日の差し込む明るいリビング。母の膝の上にいる私。そこに帰ってきたナツねえ。そして言った言葉と笑顔。この頭は、何やらいろんなことをよく記憶できるようだけど、私はその時のナツねえの言葉を生きていく上でずっと真ん中に置いてきた。嬉しかったから。
ナツねえは息をついて、それから首を傾げて小さく笑った。今年、鹿児島に来て初めて見たナツねえの笑顔だった。
「ハルちゃんにはかなわないなあ」
結局、噴火した桜島から飛び上がったレモンちゃんが何処に着地したかというと……いや、その事実にみんな目を疑って驚愕したのだけど……月だ。
そう、そうなのだ。月だった。
レモンちゃんのジャンプは、成層圏を超え、なんと月まで届いたのだ。
衛星画像がとらえたのは、月面に気持ちよさそうに寝っ転がる巨大兎、レモンちゃんの姿だった。
☆
そうだ。月にはうさぎがいる。この世界ではそれが自明だ。
そのうさぎのことを、みんなはその来歴から親しみを込めてさくらちゃんと呼ぶけど、私たちは符牒のようにレモンちゃんと呼ぶ。
私の朝は、月うさぎの様子をただ映し続ける「月面ライブカメラ ー巨大月兎さくらちゃんー」の配信を起動することから始まる。
ナツねえは結局理系での進学を諦めて、浪人の途中で文転した。今はうちに居候しながら東京の私大に通って日英通訳者、そして翻訳者を目指している。研究者の助けになりたいらしい。ナツねえはそもそもどの言語でもコミュニケーションをとることがうまいから、向いていると思う。
私はというともう少し先だけど、高校をスキップして一足早く大学生になる予定だ。
桜島ライブカメラはうさぎの跳躍とともに月面ライブカメラへと移行し、その広告収益による巨大兎基金もそのまま健在だ。ただ、桜島での管理費が結果的に浮いたことから、現在は日本中の子供たちの教育資金助成基金として活用されている。私もありがたいことにちょうどそこから採択予定通知が届いたばかりだ。申請書には、物理学者、そして宇宙飛行士になるためと書いた。
でも本当は、申請書に書いていないし、書けないけど、私の目的は一つしかない。
月のうさぎをナツねえの腕の中に戻す。それだけ。それ以外に目指すべきところなんてない。
私は迷わない。
みんなに愛されるあのうさぎが、真に誰のための存在なのかを、私は確かに知っているのだから。
☆
「姉さん、ハルなんだけど発達の検査引っかかっちゃって。発語がないって」
「え? でもきちんとこちらの言っていることは理解している感じよね」
「そうなんだよ、姉さんだって全然話さなかったってお母さん言ってたし、同じなのかなと思って」
「そうね、理解はしていても話す気分にならない感覚に覚えがあるし、ハルちゃんもそうなんじゃないかしら」
「ママ、おばちゃん! ただいまー。なあに、ハルちゃんのこと?」
「ナツ、帰ってきたらまず手洗いうがいでしょう」
「はーい。ハルちゃんはおしゃべりできなくてもこんなにかわいいもんね、全然問題ないよ!」
「そうよねえ、ほっぺふくふく足もふにふに。この頃の子って本当に素敵だわ」
「ねえねえ、おばちゃん。もしハルちゃんがおしゃべりできなくても私が一生守ってあげる。ハルちゃんがどんなでも一生大事にするよ。だから心配しないで」
「あら、ナツちゃんありがとう。お姉さんで優しいね。ハルのこと、どうぞよろしくね」
文字数:12068