マッハ、轟々

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梗 概

マッハ、轟々

日本人は四倍速のアニメ観たさに人間をやめたのだ、というのはイエエエイル大学のバーンズ教授が口にした有名なジョークだが、これに頷く者も多い。事実、加速能力に目覚めた人間の九割が日本在住だ。

 

加速能力者アクチュエータたちは常人の四倍速にまで加速することで、可処分時間の増大に成功。有り余る時間で生活を豊かにしたが、中には例外もいる。たとえば、伊田島いだじま真羽まなはは常人の千倍の速度――音速の世界で活動している。そしてその兄・ごうは、等倍速への異常な拘り故かあらゆる加速能力を無効にする。

 

能力の抑えが利かない真羽は、轟が一メートル以内にいる間しか等倍速に戻れない。それ以外の時、彼女は衝撃波と高熱の塊だ。誰かと会話することも、お気に入りのアニメを観ることもままならない。常人の一日が数年に相当する真羽にとって、その境遇はあまりに過酷だ。加速による負荷や加齢への耐性があっても、心は普通の人間のままなのだ。父親である伊田島博士は、真羽を隔離して“治療法”を研究している。

 

ある日、バーンズ教授が博士のもとを訪れ、真羽を渡せば治療を施しても良いと提案する。しかし、博士はこれを拒絶した。バーンズを名乗るこの男が偽物であると看破した為だ。偽バーンズ=ヘリカルは博士に重傷を負わせ、研究棟から真羽を拉致した。これを知った轟は、単独で追跡を始める。彼は警官だが、妹のことになると我を忘れる困った男であった。

 

さて。実際のところ、ヘリカル一党は〈アンダークロッカー〉という加速能力を抑制・逆行させる装置を有していた。その技術力をもってすれば、能力の影響範囲を拡大することもできる。彼らに足りないのは、恒常的かつ強大な加速力を発生させる能力者の存在のみ。ヘリカルは、自国全体を加速させる為に真羽を使い潰すつもりだった。一党の狙いを知って、真羽は恐怖する。その時、轟の車が真羽たちを乗せた搬送車輛に衝突した。

 

移動手段を失ったヘリカルたちは轟を振り切る為、〈クロッカー〉を最大出力で稼働させる。広範囲に減速現象が発生し、街はパニックに陥った。みなが緩慢な動作で逃げ惑う中で、ヘリカルと轟たちだけが通常速度で追跡劇を演じている。

 

轟は一党の大半を無力化するが、能力の過剰使用が祟ってとうとう力尽きてしまう。絶体絶命の状況に陥る中、轟はヘリカルの隙を突いて、〈クロッカー〉の破壊に成功する。加速能力を取り戻した真羽が、熱風を振るってヘリカルを打ち倒した。

 

騒ぎが収束に向かう中で、轟は真羽に“治療薬”を手渡す。それは、博士が完成させていた物だった。「加速研究の為に治療を先延ばしにしていた。私は父親失格だ」という博士の言葉を轟が伝える。真羽はこれを笑って許した。薬を飲み、能力を失った彼女はただ一言、兄に告げる。「アニメを観よう、いつも通り等倍で」。家族と同じ時を生きること、それだけが真羽の望みだった。

文字数:1197

内容に関するアピール

“倍速で映画を見るオタク”という存在を知った時、まるでミュータントだなと思ったので、本当にミュータントにしてやりました。これが本作の嘘=虚構です。

加速能力者がいる世界では、“時間”という資源にも大きな格差が生まれます。だから、みなが速さを求めるようになる。しかし、真羽のように音速の世界に足を突っ込むと人間生活がままならなくなるし、轟のように等倍でしか動かないやつはオールドタイプ扱いされる。研究の為に誰かを苦しめる人もいるかも知れないし、国家間の競争に利用する者も出てくるかも知れない。問題は山積みです。

今回は、「架空の技術革新とそれがもたらす功罪」というイメージで書きました。

求めているものと違ったら、申し訳ございません。

余談ですが、イエエエイル大学はイエエエエエエエイル大学としたかったのですが、字数制限を考えて控えめにしました。実作では景気よくいきたいです。イエイ。

文字数:387

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マッハ、轟々 ver.DC

人はみな平等だ。地位や容姿、金や家庭――その他諸々の例外を除いてどれだけのものが残るかは知らないが、兎も角、いくらかは平等だったはずだ。たとえば、そう。限られた時間を同じ速さで過ごすという意味では、俺たちは間違いなく平等だった。

一分は六十秒。一時間は三千六百秒。一日は八万六千四百秒。

一日は一日、それは侵しえない聖域のはずだった。人類に加速能力が宿るまでは。

人類初の加速能力者アクチュエータが発見されたのは、二十一世紀も半ばのこと。時の日本では可処分時間の減少が悪化の一途を辿っており、病的なまでにショート動画や倍速再生を礼賛する文化が醸成されていた。

これに起因してのことなのかは諸説あるが、加速能力を発現させた者の九割が日本人であり、史上初のアクチュエータもやはり日本在住の人間だった。かつての加速能力研究の権威、バーンズ教授が「日本人は四倍速のアニメ観たさに人間をやめたのだ」というジョークをイエエエイル大の講義で口にしたのは、あまりにも有名な話である。

まあ、そんな与太話はどうでも良い。俺にとっては、人間のやめ方などは興味の対象外だ。アニメは等倍速で観るに限るし、強すぎる力は概してヒトを不幸にするものだ。現に俺の妹は、伊田島いだじま真羽まなはは、その速さゆえに社会生活を失っている。だから、俺の興味は加速能力の根絶にしかない。

誰もが等倍速で歩む世界。それが俺の夢見る景色だ。

これはつまり、そういう話。

 

     ◆     ◆     ◆     ◆

 

そこのアクチュエータ止まりなさい、と言ったところで止まってくれる奴はまずいない。考えられる理由は二つ。速すぎてこちらの声が追いついていないか、捕まるはずがないと踏んでいるか。いずれにしても、公権力をナメている。前者については、法定速度を千キロ以上超過している訳だからなおのことタチが悪い。

〈――該車両、現場から安土通りを南進中。時間延伸は、およそ六倍程度と推定される〉

無線から逃走車両の情報が流れてくる。

車両ごと六倍速に加速できるというのは、なかなか大したものだ。一般的に、加速能力は効果範囲が広がると、それに反比例して速度が低下するとされている。だから、乗っている車両ごと時間延伸しても、せいぜい二倍速程度が限界だ。多少気張ったところで、六倍速フラットでの走行など出来たものではない。

「伊田島先輩。これじゃないですか、赤のミニクーパーって」

三釦スーツに丸眼鏡を合わせた古めかしい格好の青年、能登のと公彦きみひこがスーパースロー映像を見せてくる。街頭設置された専用スキャナが捉えたものだ。

「よく見つけたな。どこの映像だ?」

「直線四キロ先の地点です。時間流の変動も探知されていますから、まず間違いないでしょう。時速三百キロで走行しているということは、ここに来るまで……えーっと」

「算数してる暇はなさそうだな。いつもの手でいくぞ」

「ほんと適当ですね……」

「うっせえ」

能登の頭に軽くチョップを食らわせると、俺はバッグから水筒を取り出した。

クリア素材の内側では、名状しがたい色の液体が揺れている。

「毎度気になっているんですけど、ソレ・・ってなんなんですか?」

「あ? ああ、俺の体液だ」

「えっ、それって……どの?」

「知りたいか? 本当に?」

たじろぐ能登に「血」と叫んで、俺は水筒の中身をぶち撒けた。足元から道路中心線まで、血の混ざった水溜まりが一線に広がっていく。片足を浸しながら、俺は通りの先を睨みつけた。おりしも、夕闇の中にそれらしいヘッドライトが浮かぶ。

「来ましたぁ」

「おう」

都合の良いことに、例のクーパーは一台でやって来る。

巻き添えが出ないのは良いことだ。交通課の機嫌を損ねずに済む。

俺は鼻歌で『大きな古時計』を奏で始める。脈拍に近い、アンダンテのリズムだ。こいつが、荒事の気配に急く俺の体内時間を通常速度域に留めてくれる。薄く目を閉じて、俺は頭の中に平井堅を思い浮かべた。

迫る、ミニクーパー。歌う、平井堅。タイヤが水溜りを撥ねる。

その瞬間、俺の体内時間がクーパーの時間流と干渉した。平井堅が死にそうな表情でテンポを上げる。俺は足を踏ん張って、体内時間を等倍速に引き戻した。抑制された時間流は水溜りを介して、タイヤの接地面へと逆流する。

そうしてクーパーは、コンマ数秒ともたずにバーストした。接地面とそれ以外で大きな速度差が生じ、その結果、前輪が破裂したのだ。バランスを崩した車体は、中央分離帯に正面衝突して足を止めた。

「加速犯罪捜査局だ!」

タイヤの断片を路傍に蹴っ飛ばして、俺はクーパーに駆け寄った。

車体の前部がひしゃげていて、運転手はエアバッグに顔を埋めている。ご愁傷様。

「速度超過二百六十三キロ。とんだレコードですね」

乱れた前髪を押さえつけながら、能登が走り寄って来る。

妙に嬉しそうな顔をしているのが若干シャクに障った。

「俺がこのアホを拘束するから、お前は荷物を検めるんだ。良いな?」

「ラジャーです」

能登が車の後部に向かうのを尻目に、俺は割れ窓の中に手を突っ込んだ。お目当ては運転席にあるドアロックだ。腕を切らないよう慎重に手元を探っていると、指先がプラスチックの感触を捉えた。

「……やっぱり、アネモイか」

円筒型のピルケースの中には、着色料に彩られた錠剤が納められている。

アネモイというのは、平たく言えば幻覚剤の一種だ。メトロノームや変性音楽と併用することで意識状態を誘導し、体内時間を狂わせる。要はアップテンポに同調して、加速能力を上振れさせるためのものだ。

「おい。起きろよ、ジャンキー」

運転手の青年を引きずり出したが、ピクリとも反応しない。死んじゃいないよなと一瞬心配になったが、御当人の口から微かに呻き声が漏れている。そういう訳で、俺はこの青年を心置きなく拘束することができた。

「運転免許は所持。お名前はトツカヤスユキさん。年齢二十一歳。ふむ。それで、加速免許は……丙種! おやおや、良くないなぁコレは」

「だからなんで嬉しそうなんだよ、お前は」

「別に嬉しくなんかありませんよ。まあ、強いて言えば、余罪があった方が道路管理課の皆さんを納得させやすいでしょう? 我々が捕らえた人間は、公共物を破壊してでも捕らえる価値がありましたって」

能登の言うことも、一理ある。

このトツカという青年は違法な薬物に手を出し、法定速度を大きく超過したうえに、持っているのは丙種加速免許ときた。乙種以上の免許を持たずに、車両の「加速」を行うのは重大な違反行為だ。しかし、それはそれとして喜び難いのも間違いない。

「能登、後は任せても良いか?」

「ぼくに、一人でどやされろとおっしゃる?」

「手柄も全部お前のものだ。俺はもう、疲れた」

「良いですよ。尻拭いはパンピーの仕事ですからね。先輩はせいぜい、酷使した脳味噌を休ませてやってください。ぼくはたぶん徹夜です」

憎まれ口を叩く能登に別れを告げて、俺は最寄り駅へと足を向けた。

能登には悪いが、まだ休む訳にはいかない。局員寮とは逆方向の電車に乗って、俺は若松河田駅へと向かう。そこには、加速能力総合研究所がある。俺の妹がいる。

 

     ◆     ◆     ◆     ◆

 

加総研かそうけん、第三隔離室。特注の高性能防爆ガラスの向こう側では、熱波と衝撃波が吹き荒れている。その中心にいるのが俺の妹、伊田島真羽だ。彼女は通常時間の千倍の速さ――即ち、超音速での行動ができる国内屈指のアクチュエータだ。

彼女が手を振ると、衝撃波が近くにいる人間の頭を殴打する。

全力疾走すると、熱せられた肉体が通り道にある全てを灰にする。

それも、否応なくだ。そう、伊田島真羽は減速できない。ブレーキのかけ方が分からないのだ。だから彼女は二十四時間、三百六十五日、千倍速フラットで動く。動かざるを得ない。

制御が利かなければ、加速能力は何の役にも立たないばかりか周囲を脅かす害悪でしかない。彼女はよく、自分のことを“壊れたコンコルド”と呼んでいる。

「親父、真羽はどうだ?」

隔離室脇の観測スペースに行くと、俺の父――伊田島いだじま禄朗ろくろうが解析装置の操作パネルを弄っていた。親父は俺には目もくれずに答える。

「どうって、見ての通りだよ。元気に衝撃波を撒き散らしている」

「そうじゃない。分かってるだろ、治療の話だ」

「あの子は病気なんかじゃない。加速能力は天からのギフトだ。自分で抑え込んでしまったお前には分からんかも知れんがね」

「そう思っているのは、あんたら研究者だけだ。本人はあんな力なんか望んじゃいない。見ろよ」

俺は親父の胸倉を掴んで、防爆ガラスに顔を向けさせた。

真羽の姿は、肉眼では捉え切れない。目に映るのは、かすかに震える防爆ガラス。それに、耐熱処理が施されたいかめしい居住設備の群れ。炭素繊維強化炭素複合材料カーボンコンポジットで組まれた黒鉛色の床、壁、天井。とても人間の住環境とは思えない。

「衝撃波で他人をバラバラにするかも知れない。熱波で誰かを消し炭にしてしまうかも知れない。だからこうして、狭い部屋で独り缶詰めにされている。こんなこと望むやつがどこにいるんだ。あんた、自分がああなっても同じことが言えるのか?」

「制御しようとしている。お前という成功例がある訳だから可能なはずなんだ」

「だったら、早く真羽を助けてやれよ。俺たちが数分くっちゃべってる間に、あいつは一日過ごしているんだぞ」

「簡単に言わないでくれ。加速能力が宿っている脳領域でさえ、ここ数年になってようやく割り出されたばかりなんだ。一朝一夕に解決とはいかん」

少し前まで、人間の脳内には時間を知覚する部位は存在しないとされてきた。

かつて時間感覚は、五感や記憶をもとに生成される二次情報に過ぎなかった。しかし、アクチュエータの脳には時間を司る器官が存在する。〈時間皮質〉と仮称されるその部位は他の脳領域と連絡して、状況に見合った速度域まで体内時間を加速させる。アクチュエータたちが加速に耐えうる身体を獲得できたのも、この〈時間皮質〉による作用だと言われている。

しかし、これらは大半が仮説段階のものだ。

アクチュエータたちがいかにして時間を操っているのか、当人たちをもってしても説明がつかない。自転車の漕ぎ方と同じだ。コツは教えられても、感覚を教えることはできない。俺にはそれがもどかしかった。

「……御託はもう沢山なんだよ」

「どこへ行く、轟?」

「真羽のところだ。あんたと話したってしょうがないだろ」

親父を押しのけて、俺はコンソールに手を伸ばす。そうして、冷却シークエンスを始動させた。研究区画一帯にアラートが流れ、隔離室内部に冷却剤の注入が始まる。今頃、真羽は酸素マスクを着けて冷却剤のプールに浸っている頃だろう。循環装置チラーが怪獣の唸り声もかくやといった轟音をあげているが、その音も真羽には追い付けないだろうと思うと気持ちが少し落ち着いた。

まったく。ただ妹と会うだけで、巨大ロボットの発進シーンみたいになってしまう。

「入るぞ、真羽」

天井部に設けられた進入口から、俺は隔離室へとダイブする。

すぐ近くに、特注のダイビング装備を着込んだ真羽が見えた。

〈冷却終了、冷却終了。隔離対象の時間延伸を解除してください――〉

言われずとも。動きの少ない頭部に向けて、俺は慎重に手を伸ばす。

指先が真羽の髪に触れた瞬間、自分の体内時間が急激に加速するのを感じる。例によって俺は、イマジナリー平井堅によってこれを中和した。急な速度変化で、頭の奥がじいいんと熱を持つ。通常速度に戻ったタイミングを見計らって、冷却剤は室外へと排出されていった。

「いつも思うんだけど、これってなんだか儀式めいてるよね。なんだっけ、ほら。バルサン?」

洗礼バプテスマな。お前は本当、ミッション系とは思えんな」

天井から投げ込まれたタオルを受け渡しながら、俺たちは馬鹿笑いする。

酸素マスクを外した真羽の顔は、昨日と同じく十六歳の少女のそれだった。体感時間で言えば数年の時が経過しているはずだが、見掛けではまったくそうは思えない。しかし、彼女の脳は間違いなく数年分の孤独を蓄積しているはずだ。

「あまり離れるなよ。半径一メートル以内から出たら、速度を抑えられなくなる」

「分かってる。それより兄ちゃんさ、また父さんと喧嘩してたでしょ」

真羽の口調には確信めいたものがある。どうやら、見られていたらしい。

「バレたか」

「そりゃあ、私からすれば二人は静止画みたいなものだからね。見落とす方がおかしいよ」

「嫌なもの見せちまったな。次は見えねえ所で締め上げるよ」

半分冗談で言ったのだが、真羽が笑うことはなかった。

髪の水気をタオルに吸わせながら、彼女はぼそりと呟いた。

「あんまり気にしないでね」

「ん?」

「私もこうなって長いでしょ。いい加減慣れたっていうかさ。ほら、もともとインドア派だったし、引き籠る口実ができた……みたいな?」

強がりだ。それも、かなり見え透いた。

「お前がアクチュエータになって半年だ。ってことはアレだぞ、千倍ってことは……ともかく途方もない時間なんだ」

「分かってる。単純計算で五百歳ってこと。もう立派になおばあちゃんってわけ」

「そうは見えないぞ。まだ全然、高校生って感じだ」

「ありがと」

俺の言葉に、真羽はお義理の笑みを返す。

「でもね、老け込んだっていうのは本当。はじめは、『どうして私がこんな目に』とか『なんで上手く減速できないんだ』とかってイライラしてたんだけど、今はもうなんとも思わないの。枯れちゃったのかもね?」

返す言葉が見つからなかった。

兄妹揃って加速能力に目覚めておきながら、俺だけが何も失っていない。好きに加減速ができるくせに、真羽を通常速度に留めていられるのは日に三十分が限界だ。俺だけが外の世界で自由に過ごせる。俺は真羽に恨まれても、仕方のない人間だ。

自分が笑みを保てなくなっているのを、俺は自覚した。

「あー、もうやめやめ。だいぶ時間を無駄にしちゃった。ほら、アニメ観よう。ウォッチリストが大変なことになってるからさ」

真羽はまた、誤魔化すように声を張り上げる。

その痛々しさに、俺は耐えられない。

「待ってくれよ、大事な話だろ。お前が早く元の生活に戻れるように――」

「だから、大丈夫だって。父さんから聞いてない? 明日、イエエエイル大の偉い先生が来てくれるんだって。研究に協力してくれるかも知れないって話」

「ああ、バーンズ教授?」

今となっては過去の男だ。あの教授先生がつまらんスキャンダルで地位を失いつつあることは、その界隈では有名な話だ。そんな男がどれだけの助けになるか、かなり怪しい。

「そう、その人。だから、大丈夫だって。その内、兄ちゃんが目にクマ作りながらここに来る必要もなくなるよ」

だから今は、この時限付きの等倍速を満喫したい。

真羽の望みはそれだけだった。

俺はまた余計に、加速能力が嫌いになった。

 

     ◆     ◆     ◆     ◆

 

かつて俺は、加速するのが好きだった。

映画は倍速のシアターで鑑賞するのがステータスだと思っていたし、通学する時は訳もなく三倍速で駆け回っていた。誰も彼もがノロマで、何が起きても怖くない。そんな幼児的な全能感に囚われていた。しかし、真羽のことが全てを変えた。

俺はただ、自分が見ている光景を見せようとした。

少しだけ、十倍速の世界を見せてやろうと思い立った。

そうして真羽が俺の速さに同調した時、あの子の才能は覚醒した。真羽は一週間もしない内に、俺よりも長く加速できるようになった。そして、その才能は本人の意思とは無関係に増大を続け、親父が隔離室を用意する頃には、あの子は自力で等倍速に戻れない身体になっていた。

あれ以来、俺は加速するのを止めた。俺にとって、加速能力は過ちの象徴だ。

世界には加速できない人間がいて、一方には減速できない人間もいる。そして、俺たちはまだその壁を取り払う術を持っていない。だから、目下のところ俺の罪は永遠だ。

親父だろうが誰だろうが、「加速」の謎を解ける人間ならば、いけ好かない奴にも協力しよう。常々、俺はそう思っていたし、バーンズの視察に立ち会うよう親父に乞われた時も同じ気持ちだった。

しかし、これはどうにも頂けない。

〈新宿管内、車両事故が多数発生。場所は――〉

〈――転進を試みるも、随伴車両含め全車走行不能〉

無線は大混乱だ。新宿区一帯で、減速現象が起きたせいだ。

俺と能登は加総研に向かう途中でこれに巻き込まれた。

「こんなことなら、送り迎えなんて引き受けなければ良かったです」

「そうか、じゃあここで放り出すぞ。そうすりゃ、めでたくおさらばだ」

「ああ、そんな殺生な」

俺たちの乗ったセダンは、なんとか通常速度で走行を続けている。しかし少しでも気を緩めれば、十分の一以下の速度にまで引きずり下ろされそうな気配があった。

加速状態のものを等倍速に「同調」させるなら兎も角、「減速」させる方法などは聞いたことがない。それが技術によるものなのか、特異な才能によるものなのかは分からないが、これだけは確信している。この騒ぎの中心には加総研がある。

「バーンズ……」

「それって確か、偉い学者先生ですよね。その人がこんなことをしたと?」

「知らん。だが、親父がそいつに真羽を見せると言っていたのは事実だ。俺が今日呼ばれたのも、二人が口を利けるようにブレーキ役をする為だった――急げ」

もうじきです、と能登が声を張り上げる。

人通りのない野路から通りに出ると、見慣れた鉄門が目に入った。加総研の正門だ。常駐しているはずの警備員は、どこにも姿が見えない。パニックに呑まれて逃げ出したのか、あるいは排除されたか。

能登が門の手前で車を止める。

「お前はここで待機だ。スローになれば無線も役に立たんだろうから、とにかく見張りをしていろ。頼んだぞ」

「ちょっ」

手を離した瞬間、能登の動きは緩慢なものになる。

抗議の表情を浮かべたまま、何もない空間を見つめていた。

悪いな、と聞こえないのを承知で声をかけて、俺は玄関口へと駆け出した。第三隔離室は研究棟の最奥、廊下の突き当りにある。走っている内に、頭の奥がほんのり熱を持ち始めたのを感じた。人間二人と自動車一台の時間流を制御するのは、思った以上に負荷が掛かるらしい。

観測スペースの扉がいつもより重く感じられた。

「……なんだ、これ」

まず目に入ったのは、緩やかに降る血飛沫。空中で釘付けになった男の身体。

血に塗れた伊田島禄郎がそこにあった。

「おい。おい、しっかりしろよ。なあ」

迂闊に触れて良いものか、逡巡する。しかし、見たところ急所は外しているらしかった。傷があるのは左の上腕部と下腿。いずれも浅い。俺は止血の処置をしてから、親父を自分に同調させた。瞬間、浮いていた身体が一散に倒れ込んでくる。

「おい、喋れるか。何があった」

「真羽が……連れていかれた。視察は嘘だったんだ。連中は端から、あの子を国外に連れ出すつもりだったんだ」

言われて俺は、はじめて防爆ガラスの向こうを見た。そして、ようやく気が付いた。

ガラスの振動音がしない。真羽がいない。

「いつだ、いつ連れていかれた?」

「分かるものか。奴ら、妙な装置で真羽の力を逆行させた。減速させたんだ。私にはもう、どれだけ前の出来事だったか――」

「もう良い」

俺は親父との同調を切った。これ以上は時間の無駄だし、傷にも障る。

警報装置を起動して、俺は来た道を引き返した。気が逸って、時間制御が荒くなっていく。急いでいる時には、どんな歌のリズムも頼りにはならなかった。

この世には、一千BPM――鼓動の十倍速以上の曲があるらしいが、それにすがる人間は恐らくいないだろう。急いでいる時に歌う馬鹿はいない。

勢いあまって、車のドアを引き抜いてしまいそうだった。

「能登、運転を代わってくれ」

「どこに向かうんですか?」

「それをお前が調べるんだ。近くの街頭スキャナを片っ端から検索しろ」

「動けてる車を探すんですね?」

「そうだ」

能登を助手席に押し込んで、俺はアクセルを踏み込んだ。

信号が赤のままだったが、咎める奴はいない。

「まだ、どっちに向かうか分かりませんよ」

端末を操作しながら、能登が困惑した声を上げる。

「親父によれば、連中は真羽を国外に連れ出すって腹らしい。行き先が港にせよ大使館にせよ、逃走経路は自ずと絞れるはずだ」

「なるほど。先輩、おバカな割にやりますね」

「あ?」

「いえ、なんでも。それより、結果が出ました。コンテナラボが一台、通常速度でこの通りを南進しています。他にそれらしい車両は見当たりません」

能登が画面を見せてくる。映し出されているのは、加総研の車両だった。

「野郎、パクリやがったな」

大方、真羽を収容できるだけの車両を用意できなかったのだろう。

あるいは、減速現象を引き起こす装置が嵩張った可能性もあるが。

「あの、先輩」

やや言いづらそうに、能登が切り出してくる。

「なんだ」

「さっきから気になってたんですけど、その血は?」

言われてはじめて、俺は自分が血みどろになっていることに気が付いた。

観測スペースで浮遊していた返り血に違いなかった。

「親父の血だ。俺のじゃない」

「中で何があったんですか?」

「バーンズが親父を撃った。たぶんな。助けは呼んであるが、問題は連中が武装してるってことだ」

「僕たち丸腰ですからね。どうしますか、体当たりでもします?」

「武器なら、無いこともない」

俺がダッシュボードをしゃくって見せると、能登は恐る恐る中を漁り出す。そして、アルミケースを探り当てた。中には、金属製のボールと棍棒が納められている。真羽の部屋の材質と同じ、カーボンコンポジット製のものだ。

「極超音速にも耐える素材だ。こいつをアクチュエータが投擲すれば、携行火器なんかオモチャも同然だ。ただ問題は、使える奴がいないってことだ」

「先輩が使えば良いじゃないですか。なれるんでしょう、超音速?」

「俺は……俺は、怖い」

驚いた様子で、能登が俺の顔を覗き込む。

「真羽がああなったのは俺のせいなんだ。加速を教えたばかりに、あの子は……」

「でも、何もしなかったら妹さんは連れていかれます」

分かっている、そんなことは。百も承知だ。勘弁してくれ。

「加速能力は危険なんだ。お前には分からないかも知れんがな」

「分かってないのはあなたの方だ。何もしないなら、これ僕が投げちゃいますよ。自慢じゃありませんが、ソフトボール投げの最高スコアは二十メートルです。良いですか?」

「やめろ」

勢いでケースを奪い取ったが、俺はこの期に及んで決心がつかなかった。

それを見透かしたように能登が言う。

「いま、僕たちが追っている相手が減速現象を引き起こしているのなら、これは大きなチャンスですよ。千載一遇と言って良い。その技術は、真羽さんを救うかもしれない」

「失敗したらどうなる? 俺はどうやって償えば良い?」

「貴方が守りたいのは真羽さんですか」

俺は思わず、助手席の方を見た。

能登の視線が真っ直ぐにこちらを捉える。

「それとも、自分自身ですか」

「くそっ」

俺は体内時間を一気に引き上げた。もう、テンポもクソもない。

焼け付くほどに加速する。周囲の車が次から次に視界の端へと消えていく。

「煽ったんだから、きちっと案内しろよな」

「ラジャーです――ちなみに、今のところを右折でした。速すぎます」

「オールドタイプめ」

能登を小突きながら、俺はハンドルを切った。車は既に、大使館街のすぐ傍に差し掛かっている。もし、逃げ込まれたら手の出しようがない。ここで止めなければ、真羽はどこぞの国に連れていかれる。

彼女の才能は、永遠に消費されることになる。

彼女の名前は、早送りボタンと同義になる。

そんなのは糞くらえだ。

「ここが合流地点です。さあ、行って」

背を押されて、車外に飛び出す。瞬間、セダンも能登も置物のように動きを止めた。

静寂の中、俺は独りで真羽を乗せたコンテナを待つ。

いたずらに高鳴った鼓動が、残された時間を食い潰していく。俺は『大きな古時計』を口ずさんだ。右手にカーボンコンポジットの砲丸を握ったまま、のろのろと歌い続ける。

奴らが来たら独唱は終わり。面白くもない、マッハの世界がやって来る。

 

     ◆     ◆     ◆     ◆

 

安心してほしい。

たぶん、あんたはどこも読み飛ばしていないし、誤タップもしていない。俺がバーンズのアホをとっ捕まえるくだりは、端からここに記されていない。

安心してほしい。真羽は無事だ。親父も無事だ。

超音速の砲丸が、事の大半を片付けてくれる。あとは、オマケみたいなものだ。

端折った部分はどうにでも補完してくれて良い。

あんたら、そういうのは得意だろうからさ。

                                         The End

文字数:10076

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