その日からドアは戻らない

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梗 概

その日からドアは戻らない

運び屋の紗理奈は潔癖症で風呂を入る時も手袋をしている。世界に有数しかない生きたドアを都心の大邸宅で降ろした。決して直接触れてはいけないと言われる因縁のドアに、輸送中に呼ばれている気がした。依頼人は世界一のドアコレクターの誠司で、若くして立ち上げた家具屋の収益を投じた邸宅には十万のドアが備え付けられている。廊下、部屋の間、いたる隙間にドアがある。

通された応接間には十重のドア。それに頬ずりする誠司から、生きたドアに直接触れる者には〈ドアの魂〉が流れ込み、身体の内外の隙間にドアが生える、歴史上、生きたドアは数種類あり、挟んだ者を消滅させるものもあると伝えられる。

紗理奈は地元の町外れの洋館に触れてはならないドアがあったのを思い出す。高校時代、クラスメイト三人と闇バイトでそのドアを盗み出したが、その後三人は急死した。紗理奈は直接触れてはいなかったが、帰り道に死んだ親友と手をつないだ。

紗理奈は相棒のリオンに過去の調査を依頼する。地場の半グレから情報収集をするリオンは、刑事の末利と出会う。末利は自分の兄は紗理奈の元カレで、交際中に同様に変死したとリオンに告げる。リオンは紗理奈を庇いながら共に調査を進め、誠司が裏バイトを依頼したことや、すでに焼け落ちた洋館の主が、誠司の元へのドアの輸送の依頼人であることを突き止める。盗み出した極秘カルテで変死の詳細を知り、東京へ急ぎ戻る。

〈ドアの魂〉が失われている。誠司からクレームを受けた紗理奈は邸の一室へ向かう。百のドアがある部屋の中央で、使用人に素手で触らせたが死ななかった。偽物か〈ドアの魂〉を抜いたなと誠司は迫る。

誠司が部屋の外れの黒布を外すと、あの洋館のドアが現れた。久方ぶりだと言う声を、紗理奈だけが聞いた。あの時の生き残りかと言いながら恍惚とする誠司は生きたドアに身体を擦り付ける。不意に洋館のドアが開き、黒衣を着た洋館の主が〈ドアの魂〉を生きたドアに戻した。口、鼻、喉、腸、肛門にドアが生え、誠司は絶命する。

到着していたリオンと末利が部屋に突入し、カルテ通り変死した誠司を見て悲鳴を上げる。兄と寝て変死させたと末利が紗理奈を非難していると、邸が揺れ動いた。生きたドアが二つ揃い、共鳴し、〈ドアの魂〉の増幅と生きたドアの大増殖が始まった。

紗理奈はドアに触れても大丈夫だった。水道管、天井から床の間、あらゆる間に生まれるドアと、館のドアが歯向かう中、三人は命からがら脱出する。輸送車に乗り込み発進するが、紗理奈の手袋が破れていた。触ったかもと混乱した末利が暴れ車は横転し炎上する。紗理奈とリオンは脱出する。

館の範囲を出たドアが、倍々の速度で増え〈ドアの魂〉を都心中に伝播させる。電車バスのドアは乗客を喰らい殺し、ビルの間にできたドアに四方を囲まれ閉じ込められる者も出た。ドアに阻まれ、家の中、部屋の中に沢山の人が閉じ込められた。

世界中の隙間にドアが生まれる中、紗理奈は街なかのドアを開けながら、リオンに一緒に開けて人を脱出させるビジネスをしようよと言って笑った。

文字数:1256

内容に関するアピール

家のドアが歯向かってきたら。トイレに入っている間にそんなことになったら、トイレのドア、廊下のドア、玄関のドアと、少なくとも3つのドアを倒さねばなりません。身の回りのなにか、人間のために造られていると信じられているものがちょっと生き物っぽく振る舞うだけで、人間社会はきっと滅ぶでしょう。昔ドアに恋する男の話を書いたとき、IoTなどを持ち出してリアリティレベルで失敗したので、奇想ホラーSFとして書ききるつもりです。読んだあと、少しでもドアをおそろしいと思ってもらえれば。

※回転ドアは多分出てきません。あれはなんか、違うドアですよね

※”真夜中のドア〜stay with me”がシティ・ポップブームのせいで海外でも人気を博していますが、あれに負けないように真打ちのドアはこっちだという風にしたいです。

※ネタを使い回さないと決めているのに…少し悔しい

文字数:367

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わたしドアだけど、愛されてもいいの?

 到着ロビーを出たところで警察車両が待ち構えているのを覚悟したことは何度もあるけれど、長年の相棒が迎えの車として霊柩車をチョイスするなんて、紗理奈は全然想像していなかった。その馬鹿げた発想は、いったいどこから来たのだろう?
 自分の身体の特殊さも大概馬鹿げていると思うけれど、あえて選んでいるわけではない。豊かな乳房や二重まぶたぐらいなら美容外科の手で作り出すこともできるけれど、それより複雑なのだったら、嫌でも付き合って生きていくしかない。
 それがどんなに奇妙なものであっても。
 紗理奈は胸の中に十キログラムのコカインを隠し持っている。パッケージを積み上げたら一メートルはゆうに越える高さになる。相棒のリオンと組んで、これまで何度もお役所的でのんびりした税関職員の目をくぐり抜けてきた。
 食道や胃、肛門などに違法薬物を押し込んで入国を試みる者たちに対して、税関も無防備なわけではない。空港内のクリニックは大学病院と連携していて、不届きな輩をあぶり出すためのレントゲンはひっきりなしに稼働している。
 けれど、たとえ怪しまれてクリニックに連行されて、熟練の放射線技師が待ち構えていても、紗理奈の持ち物を暴くことはできない。胸元から下腹部にかけての秘密の空間。X線では捉えられないそこに、紗理奈は好きなものを隠すことができる。
 それは、わたしが本当は人間ではないかもしれない何よりの証拠で、だからわたしは、どこにいっても愛されている気がしない。特殊な身体を活かした運び屋稼業も、いつまで続ければ良いのだろう。そう思いながら、煙草に火を点けた。
 数メートル先に人だかりができていた。そのはず、スモークガラスの黒塗りのクラウンはそれだけで異様で目立つのに、宮大工のつくった金襴な屋根が輝いているのだから。古風な霊柩車の写真を見て、年寄りは唖然とし、若者はカメラを構えて物珍しそうに笑っていた。
 異様なものを見るときに、人間誰もが見せる悪意のない邪悪な顔だ。
 窓が開いて、彫りの深いリオンがぬっと顔を出した。
「紗理奈。紗理奈。おい。ドア女。聞こえてるか? 早いところ乗ってくれ。騒ぎになっちまった」
 ドア女。
 紗理奈の身体の特殊さを端的に表す単語。蔑むような目をしながらそう吐き捨てて消えていった昔の知り合いは何人もいた。そう呼ばれるとカチンとくるが、リオンが言うならまだ許すことができた。
 それより問題なのは、そんな目立つ車に乗り込まないといけないことだ。
 向こうから空港職員と警備員が数名かけてくるのが見える。
「写真や動画は止めてください。ご遺体に失礼になりますので」
 リオンが周囲に向かって丁寧な声でそう言うと、みんなカメラを構えるのを止めた。紗理奈が乗り込むと、警備員が窓をノックするのを振り払うように霊柩車は発進した。告別式で沢山のひとに見送られるのはこんな気分なのかもしれなかった。
「リオン。なんでこんな目立つ車で来るの? っていうか。目立つ以前の問題じゃん」
「警察は検問で霊柩車を改めようなんて気にならないだろうから、こっちのがかえって隠れやすいと思ってな」
「検問なんてあっても、わたしの《部屋》にいれておけば見つかりっこないじゃん」
「念には念を入れてな。悪徳警官がドア女の胸元に手を突っ込んで、ドアノブに手をかけて《部屋》を開けないとも限らないだろ?」
「リオンの国の汚職警官だったらともかく、ここは日本、そんなやついるはずない。警察に怪しまれたり、見せちゃいけないものを見せるようなヘマをわたしがするとでも思ってるの? 長い付き合いなのに、そんなに信用ない? わたし」
 紗理奈はタックインしていたブラウスをたくしあげ、上から順にシルバーのボタンをとって胸元をはだけた。身体の表側と、秘密の空間である《部屋》を隔てているものがあらわになる。
 紛れもない、何の変哲もないドアが、胸元から下腹部にかけてはまり込んでいる。
 左胸元のドアノブを右手で引いて、隙間から《部屋》に手を差し入れる。ペルーの麻薬カルテルから買い付けた極上のコカインのパッケージを取り出して、ひとつ。ふたつとセンターボードに積んでいく。
「わたしの《部屋》なんていらないって言うなら、全部出してここに積んでくから」
「わかった。落ち着け。落ち着いてそれをしまって。ボタンも閉めろ。おれが悪かった。煽り合いはおしまいにしよう。ドア女とも呼ばない。紗理奈もおれの国の話はしない。ブツも依頼人に届けるまではしまっておく。おれはこんな車で来た理由をちゃんと説明する。どうだ?」
 紗理奈は《部屋》を開き直して、肋骨や肺、心臓がh収まるべき場所にコカインのパッケージを詰め直した。ルームミラーに見慣れた自分の身体が映っている。マホガニー製の艶っぽい表面、時間ともに加齢を引き受けることのない無機物に、上半身の殆どは支配されている。
「ボタンも閉めなよ。前からは丸見えだ」
「別に恥ずかしいものじゃない。その辺の女とは違うんだから。見られたらリオンが恥ずかしいってこと?」
「紗理奈がそれに悩まされ続けてるの知ってるから、見てるとこっちも辛くなるんだ」
「リオンに共感してもらいたいなんて思ってない。それに、わたしの《部屋》、リオンは利用する側じゃん。勝手に辛くなられてもさ」
 薬物、武器、盗掘品、文化財、ドアの向こうの《部屋》に隠してなんでも運んだ。ベンガルトラやクロコダイルの子供など、国際条約で保護されている生き物を欲しがる依頼者のため、金のためにせっせと運んだ。
 人を含め、生き物の死体だけは生理的に難しかった。一度だけ人の死体の処分を依頼されたことがあって、《部屋》に押し込んだけれど、身体の方が拒絶して吐き出してしまった。あのとき、自分の意志とは無関係に、ドアが勝手に動くことがあると改めて認識させられたのを紗理奈は思い出す。
 なんにせよ。普段道具として利用しているのに、急に憐れむような目をわたしに向けないでほしい。窓の外へ煙草の煙を吹くと、真横を走っているトラックに積まれた豚と目があった。
「紗理奈がどう思おうと、おれは辛くなるんだ」
「でさ、なんでこんな車借りたの?」
「静岡県の片田舎でとある金持ちが死んだ。金持ちの館に何百年も前から据えられてる家具を運ぶ必要がある。ところがそいつが、自分と一緒にそれを焼くことを望んでる。棺に入れてくれってさ。他にも一緒に焼かれそうな骨董類があるから、遺族は揉めてるらしいが、オレたちの知ったことじゃない。で、依頼人が遺族の一人とこっそり話をつけた。だから、葬儀場に行くフリをして棺ごと持っていく必要がある」
「死体はどうするの?」
「依頼人の方で始末をつけるって」
「なんなのその依頼人。ヤバい感じしかしないけど」
「依頼人は、お前もご存知、某グローバル家具メーカーの社長だ。お前を指名して、これまでも幾つもよくわからん依頼をしてきたことがある」
「某なんて言ってはぐらかさないでよ。相田家具製作所の社長の相田誠司? わたし、あいつ苦手。あいつ、わたしのドアと《部屋》のことに探りを入れてきたし、嫌な予感がする。なんで依頼を受けたの」
「二人で六億。一人三億。破格だった」
 ためらいがちにそう言うと、リオンは紗理奈から目をそらし、先行車両のいない虚空をまっすぐ見つめたまま。すまんな。と続けた。末端で犯罪の片棒を担がされるだけの運び屋に対する報酬としては明らかに狂った金額だった。
「裏があるに決まってる」
「だが、裏さえなんとかなれば、紗理奈もオレも、足を洗える。慣れてきて薄汚れてきちまったけどさ、こんなのいつまでも続けられない。高台にある広い家に住んでさ、のんびり犬でも飼って暮らしたいんだ。まずはアイルトンと同じ犬種を飼う。紗理奈がよければ、一緒に住めばいい」
「いったい何を積むの? 大きさ的にわたしの《部屋》に入らないってこと?」
 ああ。リオンはつぶやくように返して、カーナビを表示しているスマートフォンのホーム画面に目を落とした。七歳で行方不明になった、かつての愛犬アイルトンが舌を出していた。紗理奈が意図しようと、意図しないで開けてしまおうと、サイズさえ問題なければ何だってドアの中にしまい込むことができる。できないほどの大きさの家具を想像し、紗理奈は首をかしげた。
「ドアだ。この世に数えるほどしかないと言われてる。《生きたドア》らしい。多分さ、お前のそれに関係あるんだろう。おれはオカルトは信じねえが、例の依頼人はひどく興奮してたよ。初めて《生きたドア》を見る興奮を分かち合おう。ってな。おれたちには特別に、運び終わった《生きたドア》をお披露目してくれるらしい。正直、ドア自体にオレは興味がないが、紗理奈、お前の過去が何か分かるかもしれないとは思ってる」
 紗理奈は脈が深く潜り、強く打つのを感じた。《生きたドア》どこかで聞き覚えのあるそのフレーズが、何度も頭の中で反芻した。

 生まれたときから、わたしはドア女だった。
 紗理奈はそう思うことがある。というより、《部屋》を利用して運び屋稼業を続けるごとに、年々その考えの根っこが強くなっているのを感じていた。
 よく見る悪夢から目覚めて薄目を開けると、橙の西日の中を車は南アルプスに向かい走っていた。首元がべっとりと汗で濡れている。湯上がりのように。
 悪夢の間、紗理奈は自分が生まれる瞬間に立ち会った。助産師が紗理奈を取り上げて、産湯につける。生まれたばかりのドアはきちんと閉まっていなくて、隙間から《部屋》の中へ温い湯が流れ込んでいる。赤子が顔を上げ、はじめて目を開くと、たった今通ってきた大きなドアがパックリと開いていて、広大な《部屋》が向こうに見える。
 悪夢のことを頭ごなしに否定する自信が年々失われている。
 だってわたしは、いつからこうなったのか、どうしてこうなったのか。昔のことは何一つ覚えていないのだから。
 記憶が定かなのは十年前からで、十五歳のときからだった。古びた団地の空き部屋にボロボロ格好で力尽きているところを、リオンに助けられたことは鮮明に思い出せる。残暑の厳しい九月のことで、脱水症状になりかけていた。
 それより前のことは、生まれた場所も、通っていた小学校も、中学校も、友達のことも思い出せない。
 記憶に真っ黒な靄がかかっていて、靄の濃さが年々濃くなっている。そしてその靄は、記憶と一緒に《部屋》のどこかに封じられている。記憶を探ろうとするたびに、紗理奈はドアの奥底がひどく疼くのを感じるのだった。
 《生きたドア》を運ばせようとしている依頼人、相田誠司は紗理奈の過去について何かを知っているに違いなかった。五年前、準文化財ともいえるアンティークを彼の私邸に届けた際、紗理奈は《生きたドア》について聞いたことがあるかと尋ねられたのを思い出した。
 そのとき、紗理奈は首を横に振った。本当に覚えがなかったから。相田は紗理奈が物をどう運んでいるかについて根掘り葉掘り、ときに答えを誘導しようとしながら質問を繰り返した。あとからやってきたリオンが、依頼に関係ないまどろっこしい問答にしびれを切らしてテーブルをキレ気味に叩いて、その場は解散になった。
 その数年に渡って、誠司は繰り返し紗理奈を名指しして依頼を繰り返した。どの依頼もただの配送に近い小さなものばかりで、報酬もしけたものだった。紗理奈は何度か、目一杯の皮肉を込めた文章を添えて、シロネコ宅急便のウェブサイトを案内したことがある。
 曽祖父から代々受け継がれて生きた小さな家具屋を一台でグローバル企業に成長させた誠司はちっぽけな皮肉など気にもとめないようで、いつも爽やかなお礼のメッセージが帰ってきた。鍛えられた肉体を持つ長身の男の格言をまとめたビジネス書は本屋に平積みにされている。そんな男もドアのことになると血相を変える。美しいドアや珍しいドアを見ると下劣な目つきで舌なめずりをしさえする。
 相田誠司は稀代のドアマニアなのだ。
 東京都千代田区番町の彼の私邸は異様そのもので、十万枚を越えるドアが据えられている。その外観は超芸術トマソン好きもひっくり返るほどで、五階建ての豪邸の窓は全てドアになっている。新しい使用人が雇われる度に、外に面したドアを開けて落下しないように口酸っぱく注意されるらしい。
 彼がコレクションのドアに向けるのと同じ偏執的な視線を浴びせられた感覚を、紗理奈は覚えていた。誠司は自分の正体を知っていて、喉から手が出るほどドア女を欲しているのだろう。
 チェーンの飲食店のロードサイド店舗すらまばらになってきた国道沿いのセレモニーホールを右折すると、小川沿いに住宅地が広がっていた。ナビによると目的地はもうすぐで’、日は丁度落ちきったところで、小さな街灯の光とハイビームだけが頼りになった。
 危ねえ。リオンの舌打ちのあと、急ブレーキがけたたましく鳴った。ドンと音が鳴って、女性の身体がボンネットに跳ね上げられた。
 小柄な女性は立ち上がると、運転席の窓ガラスをノックして、車に乗せるように言った。
 リオンはできないと言おうとしたけれど、事故の音を聞いて辺りの民家の軒先に人がポツポツと現れはじめ、観念して、女性を車に乗せると、逃げるように来た道を引き返した。

「だから。絶対とんでもないことが起こります。あの《生きたドア》を相田誠司に渡すなんて絶対に駄目です。あなた方は《生きたドア》の恐ろしさが分かってないんです。わたしの兄も。ドアのせいで行方知らずになったんですよ」
 藤村柚月と名乗った女は、かれこれ三時間近く、ふたりに対して熱弁を奮っていた。時折、《生きたドア》の犠牲になった兄の話を持ち出し、その度に紗理奈に恨めしそうな視線を送っていた。紗理奈はその視線の違和感に気づいていたが、特に何も言わなかった。
「分かるわけねえだろ。オカルトには興味はないんだ。オレは」
「オカルトじゃありません。《生きたドア》は人類を超越した知性を持っていて、人類が狩猟採集生活をしていた頃から存在していると言われています。人類はドアのない住居をつくるようになって、それから、《生きたドア》の存在を知ったものがその形を真似てドア付きの住居を作るようになったんですよ」
 その話はもう三度目か四度目くらいで、紗理奈にとってもリオンにとっても欠伸の種にしかならなかった。柚月は誇らしげに、持っているタブレット端末に格納された資料ファイルをふたりに示す。曰く、古代ローマのアレキサンドリア大図書館の跡地で発掘された古い文書の一部で、世界初の自動ドアについて記されているらしい。
 書いたのはアレキサンドアリアのヘロンと呼ばれる人物で、図書館のそこかしこに自動ドアを据えたらしい。それらのドアの開閉は、蒸気機関的な物によるのではなく、《生きたドア》に頼っていただけだと。自省的な文章で綴られているのだった。
「紗理奈。知り合いなんだろ。こいつをなんとかしてくれ。なんだっけ、京都の、超絶技巧研究所だっけか」
「超限知性研究所です。人間を超える知性を世界のどこよりも追い求めている機関です。紗理奈さんは、よくご存知のはずですよ」
 京都大学超限知性研究所は人員の七割以上を外部から受け入れる特別な研究機関で、紗理奈の保護を謳う機関でもあった。例えば、身体の都合で通常の病院を受診できない紗理奈は、身体に何かあったときは京都大学の大学病院まで足を運ぶか、リオンがツテを持つ闇医者をたよるしかなかった。
「この人とは知り合いじゃないけど、超限研にはお世話になってる。毎年の検診とか、ね。わたしの身体について、わたしよりも知ってるはず」
「行動も事細かに把握されてるのか? 発信機でもつけられてなきゃ、こんなクソみたいな田舎に先回りされることはないだろ」
「あなた方みたいに後ろ暗いところのない、ちゃんとした研究機関ですから、無断でそんなことしませんよ。実験用のマウスを殺すのにだって倫理委員会にかけなきゃいけないぐらいです。一応人間の紗理奈さんのプライバシーを侵害することはできません」
 一応は余計だ。紗理奈は嫌な気分になった。
「だったらどうやって、おれたちを待ち伏せなんてできるんだ」
「私たちは、貴重な観察対象の《生きたドア》の動向を常に把握するようにしています。歴史上確認されている《生きたドア》は全部で十数枚、現在所有者が分かるものは八枚で、そのうち二枚が日本に存在しています。この町にある《生きたドア》は、前身の帝国大学時代からわたしたちと深い関係がありました。もう一枚も、元々は同じ持ち主が持っていて、彼は私たちの研究にとても協力的でした。彼が亡くなって、遺体と一緒に焼かれる可能性があるというから、飛んできたんです。聞いてまわると、かねてから《生きたドア》を手に入れようとしていた男、相田誠司が動いていることが見えてきた。あなたたちが依頼を受けていることもね」
「誰の差し金か分からねえが、ベラベラと情報を喋るやつがいるということは分かった。紗理奈。おれたちは何も情報を出す必要はない。とりあえず、こいつを適当な山奥に放り出してから考えよう」
 リオンがギアをドライブに入れて車を発進させようとすると、柚月は運転席の首元から手を回して抵抗した。紗理奈が引き剥がそうと手をのばすと、柚月はサッと身を引いて、足元に転がっていたクッションで紗理奈を叩くと、ドアに身体をギュッと寄せた。車内灯に照らされた白い右腕の肘から手首一面に鳥肌が立っていた。
 他人に奇異の目を向けられることは数多かったが、ここまで怯えられるのは久しぶりのことだった。嫌悪の込められた視線を避けようと、紗理奈は身を引いて煙草を咥えた。
 苛立ったリオンが拳でハンドルを叩くと、静かな住宅街の一角にクラクションが響いた。
「おとなしくしてろ」
「誰の差し金でもない。相田誠司があなたたち二人のことを喋ったの。あのドアマニアの方から話が持ちかけられた。ああいうマニアはいつも上から目線で、聞いてもいないことを自慢気にベラベラ喋る。二枚目の《生きたドア》を手に入れる手はずが整った。超限研に協力してもいいからその代わりに紗理奈さんに関する研究資料をよこせってね。とにかく、二枚目を相田に渡してはだめ。《生きたドア》が二枚、同じ場所に置かれたら、何が起こってもおかしくない」
「二枚目? あのドアマニア、おれたちには《行きたドア》を見るのは初めてだって言ってたぞ。ご自慢の館でお披露目をするから見に来いってな」
「相田誠司は一枚目をとっくに手に入れてる。彼の館のどこかに据えられているはず。十年前に彼が盗み出しているんだから。記録によると、十年前の八月の終わり」
「十年前の夏の終わり。わたしがリオンに助けられたときだね」
 紗理奈はそう言うと、胸が痛い。とつづけて、歯を食いしばった。
 そのときから、自分はドア女なのだろうか。《部屋》の中に何か大きなものが入り込むような、焼けるような痛みを感じて、夕立に降られた野良猫のように弱々しく丸まった。指に挟んでいたタバコは火が点いたままで、黒革のシートが焦げて嫌な匂いがした。
「わたしの《部屋》に、誰か入ってる気がする」

 後部座席に力なく横たわった紗理奈のドアが開かれて、身体と垂直に立っている。舞台裏を隠す衝立のように、車外からの目線を遮っている。少し離れた場所でリオンが《生きたドア》の持ち主の遺族に電話をかけていて、このあとの段取りを確認していた。
 開いたドアの影で、柚月が《部屋》を覗き込みながら目を丸くしていた。
 そこには何の変哲もない都会のワンルームの一室があって、運び屋稼業で得た物、受取人が失われた品々、取引中の物などがまばらに置かれていた。飾り気はまるで無いけれど、実際に若い女性の一人暮らしの部屋だと言われても誰も驚かないだろう。
「レポートでは読んでいたけれど、本当に《部屋》になってるなんて。でも、誰もいない。誰かがいる気配もない」
「もう痛みは引いてきた。でも、まだなんだか、動いている感じがする。なんか変な感じ。ボコッと硬い何かが入ってるみたいな、異物感がある」
「でも、この《部屋》には何もいない。誰かがこの中に入ることはできるの? 入れたことは?」
「入れるし、ある。その辺りも研究レポートに書いてあるはず。人を興味本位で観察するなら、それくらい知っておいて」
「ごめんなさい。でも」
 柚月は《部屋》の隅々を何かをなめるように見回して、小さくため息をついた。落とし物が見つからなかったときみたいながっかりした顔をした。
「どうしたの?」
「なんでもないんです。ただ、イメージしていたより狭かったから」
 住む部屋の下見をしたときのような返事に、紗理奈は拍子抜けした。異物感の原因の何かが目の端にでも映って、それを探してくれているのだと思ったのに、違ったから。乱暴なパッキングのあとのリュックサックみたいに、ゴロゴロと何かが当たる感じが続いていた。背中に硬いものがあたっているとき、するべきことは明快で、シンプルな詰め直した。
 左手を突っ込んで、コカインのパッケージを取り出そうとした。パッキングの質が悪いせいで、穴が空いてしまって、白い粉が車内にも《部屋》の中にもさらさらと流れ出してしまった。今度は紗理奈がため息をついて、どっとやってきた疲れから目を閉じた。
「悪いけど、いったん見える物を全部取り出してくれない?」
「手を入れて、大丈夫なんですか?」
「大丈夫。でも、《部屋》は目に見えているところだけじゃないから、むやみに遠くに手を伸ばさないほうがいい。遠くの方は、わたしも分からない。そこには多分、昔のわたしがある。相田誠司が何か知っているはずの、思い出せない記憶が」
 柚月は見えるものを順に取り出した。手を差し込むと部屋の模型に外側から触っているみたいに、置かれた物に思うままに触れることができた。大量のコカインのパッケージ。アマゾンの奥地で精製された幻の幻覚剤の余り。紛争地帯で生産されたダイヤモンド。軍事政権の機密文書。弾丸。拳銃。未開封のままの大量の映画のディスク。
「最後に取り出した映画のやつは、リオンの私物だから放っておいて」
「目を閉じているのに、分かるんですか?」
「分かるよ。身体にドアがついてるってのは、そういうこと。通り抜けたものは全部。輪切りにして調べてる感じ。超限研で毎年やられてる全身スキャンと同じ」
 《部屋》から抜けた柚月の左腕が車内灯に照らされて亡霊のようにきらめいた。細さに見合わないゴツゴツとした厳つい時計が紗理奈の目に入った。
「その時計」
「借り物です。安物ですよ」
「そう。知っている気がしただけ。なんでもない」
 あてにしていた遺族の一人と連絡がつかないことに苛立ったリオンが機嫌の悪そうな顔でやってきて、広げられたものを見て更に顔をしかめた。
「紗理奈、気分は大丈夫か?」
「さっきよりは、だいぶマシ」
「ならよかった。物騒なものは早く閉まってくれよ。こんな田舎だが、用心にこしたことはない。通夜が終わったころ、例のドアマニアと繋がってる遺族の一人が、オレたちを邸の前に招き入れる手はずなんだが、連絡がつかない」
 行きに北上してきた道を初秋の満月がほとんど真南から照らしていた。真夜中が近づいている。夜の暗がりに止まっている車なんてろくでもないに決まっている。柚月はろくでもない物を《部屋》に戻していく。幾つかの弾丸。機密文書。幻の幻覚剤。大ぶりのダイアモンド。散らばったコカインのパッケージが月明かりでより白く美しく見える。
「部屋の写真は撮ったか? 記念になるぞ。なにせ何も映らないんだから。レントゲンにも映らないから。おれたちは自由に物を運べるんだ」
 ろくでもない物を《部屋》にしまう柚月をリオンがそう言って茶化していると、懐中電灯の丸い明かりが二つ現れた。一つはリオンを照らし。もう一つは霊柩車の屋根を照らし、金襴な鳳凰と極楽鳥の細工を行き来した。
「こんな車をここに停めて、君たち何をしてるの? 身元が分かるもの見せてもらってもいい?」
 口調こそゆったりとしていたけれど、ふたりの警察官はどちらも猜疑に満ちた瞳をしている。紗理奈は慌ててドアを締めて、シートの上で膝を抱えて息を潜めた。柚月のしまいそこなった穴の空いたコカインのパッケージが足元で光っていた。まだ気づかれてはいない。
「霊柩車? こんなところで何やってるの?」
「ご遺体の準備が整うまで待ってるんですよ。お別れを急かすわけにも行きませんからね」
 丁寧な手付きで免許証を差し出しながらリオンがそう言うと、警察官はうんうんと頷いた。
「岡林さんところね。先週まで元気だったんだけど。歳も歳だったからね」
「上の方が何人か行ってるね。署長も。昔、あの家で、ドアに触ろうとするなって殴られた因縁があるって言ってたね。おれもガキの頃やろうとしたよ。友達と肝試し代わりにあの家に忍び込んでさ」
「通夜の準備に若いのが結構駆り出されたみたいだけど、あのドアも運んだのかね。岡林さんは絶対に触るなってよく言ってたけどさ」
 話に耳をそばだてていた柚月が血相を変えて駆けてきた。
「早く《生きたドア》のところに行った方がいいです。ひどい被害が出る前に」
「お姉ちゃん、急にどうした。ドアが生きてるなんて、あの岡林さんみたいなこと言って。ねえ。その右手に持ってるやつ、ちょっと見せてもらえる?」
 柚月の右手には拳銃が握られていた。紗理奈の《部屋》から取り出した、紛れもない本物だった。一度は警戒を緩めたふたりの警察官の顔が一気に険しくなる。
 柚月は警察官を振り切って、霊柩車に駆け込んでエンジンを始動し、アクセルを踏み込んだ。リオンはとっさに助手席に駆け込んで、もたつく柚月に怒鳴るように言った。
「免許持ってねえのか。ギアを変えてサイドブレーキを解除しろ。進むわけねえだろ」
 後部座席のドアが左右からこじ開けられる。紗理奈は起き上がり、座席を掴む手を払いのけようとする。
「逃げるんじゃない。エンジンを切って降りなさい」
「うわ。なんだこの女。身体にドアがついてる。ドア女だ」
「ドア女で何が悪いの? 軽々しく呼ばないで。これでも喰らえばわたしの身体も普通に見えるよ。田舎警官にはもったいない上物だけどね」
 座席の下に山になったコカインを掴んで警察官の顔にねじるように叩きつけた。片方は目と鼻いっぱいに、もう片方には鼻と口にたっぷりと。粘膜はいとも容易く快楽を受け入れて、絶頂への階段を駆け上がり始めた。おろそかになった手は弛緩して、握ることを止め、治安の守り手としての責任を放り投げてしまった。
 夜道に転がった警官ふたりを見送りながら、紗理奈は手に残ったコカインを鼻で吸った。わたしのこの身体が、幻覚剤の見せる淡い夢だったらどれだけ良かっただろう。始まりそうな快楽を掴みかけながら、紗理奈は頬を伝う涙を指でそっと拭った。

「その手のやつさ」
 柚月がとっさに右手を身体の後ろに隠した。片手操作になったハンドルは大きくぶれて、少し車道にはみ出した電柱に霊柩車が正面衝突思想になった。
「違う。そっちの銃はどうでもいい。依頼人がぽっくり死んじまったやつだから、ほしけりゃ勝手に持ってけ。時計だよ。時計。レア物だ。オレも含め、若い男たちは一時期それを買うために毎日インターネットに張り付いて、早いもの勝ちのクリック合戦した」
「兄のです。行方不明なので、借り物です」
「そうか。兄ちゃんにもし会えたら、次は負けねえって言っといてくれ」
「この前まではアテがあったのに、今は何も手がかりがないんです」
「とにかく、邸に入って、棺を持ち出す。そしたら東京へトンズラだ」
「だめです。ドアは運ばせません」
 柚月はエリオに銃を向ける。
「ゲームじゃないんだ。軽々しくそれを向けるな。向けるなら撃つ覚悟をしろ。どちらにしろ、燃やされると困るだろ? お前らの研究の種なんだから」
 街灯の乏しい路地の先。ただっぴろい闇の中にぼうと、岡林邸が建っている。異様な明るさを放っている。通夜がとっくに終わっているにしろ、まだ通夜の最中にしろ、赤く明るく輝いていた。
 開いたままの窓から焦げ臭さが入ってきて車内を満たした。たましいのない電球の止まった輝きではなく、揺らめきながら風と共に輝きを増していた。近づくとバチンバチンと木が弾ける音が鳴っていた。すべてが焼け落ちるまでの残酷なカウントダウンのように聞こえた。
「見とれないでブレーキ踏め。ブレーキ」
 リオンの叫び声も虚しく、霊柩車は正面の木戸を突き破り、小上がりの玄関に並べられた上品だけれど野暮ったい革靴をみんな踏み潰してから止まった。
 火は徐々に大きくなっていたが、邸全部を包み込むほどではなかった。無傷の後部座席から、上気して顔を紅潮させた紗理奈が降りたった。
「リオン。生きてる?」
「なんとかな。運転してた方はどうだ?」
「いない。飛び降りたんじゃない?」
「いなくなったなら都合がいい。問題の棺を探そう。痛む前に持ち出せなきゃ、三億がパァだ」
 廊下にはたくさんの喪服姿の人が倒れている。上の方で燃えたぎる炎の熱気と、焦がしきろうとする激しい音に感覚はすっかりやられてしまって、生きているかどうかを気にする余裕なんてまるでなかった。足元にあるのはただの物。踏みつけたって何の問題もない。そう思わざるを得なかった。
 床の間に建てられた琳派風の金屏風に炎が映っている。百畳はあると思われる広大な応接間の中央に桐の棺は安置されていた。棺に向かって山程の喪服姿の参列者が遺体となって折り重なっている。
 組み木細工で飾られた壁の上に、立派な遺影が掲げられている。
 豊かな口ひげを生やした一流の役者のように目力の強い男の顔が、炎と死の混ざり合う光景を見下ろしている。
 この男を、わたしは知っている。一度も出会ったことはないけれど、知っていることが分かる。紗理奈はそう思いながら、呆然と遺影の男と目を合わせていた。《部屋》のどこかに感じていた異物感が弾けたように思えた。
「運ぶぞ。紗理奈。早くしないと死んじまう」
 リオンに促されてて棺を霊柩車に積み込んだ。
 途中で蓋が外れて落ちた。拾う余裕などなかった。中身が火の粉で傷んでしまうこともどうでもよくなった。それよりも問題なのは、遺影の主の遺体がないことだった。大仰な桐の棺の中に、女神の彫り込まれた美しい黒壇のドアが安らかに眠っている。
 持ち主が触れることを許さなかった《生きたドア》がいま、持ち主の代わりに霊柩車に載せられた。
 霊柩車をバックで発進されると、両手で銃を構えた柚月が立ちはだかった。肝の据わった顔をして、引き金を引くのを一秒でも躊躇わなそうだった。アクセルを踏もうとしたリオンの右こめかみで、ヒュンと音がした。
 リオンは観念して両手を高く上げた。
「あなたはいい。別に行ったって構わない。紗理奈さん。あなたは降りて」
 両手を上げて助手席を降りた紗理奈は、額の真ん中に銃口を突きつけられた。遠くで消防と警察のサイレンが鳴り響くのを聞きながら口を結んでいると、柚月は紗理奈の胸元に手を突っ込んでブラウスを引き裂いた。
 晒されたドアの真鍮のドアノブに、赤い炎が揺らめいて輝いた。
「兄さんはあなたの《部屋》にいるんでしょう? この町と同じで、私の街にも岡林家所有のドアがあった。普段はまるで使われない別荘の離れに取り付けられていて、決して触ってはいけないと誰もが知っていた。大学生だった兄さんは、地元の先輩に紹介された裏バイトを請け負った。ドアを盗み出せって。兄さんも悪いやつだよね。彼女のあなたと取り巻きに命令して、自分は手をくださずにバイト代をもらおうとしたんだから。これも、覚えてないっていうの?」
「覚えてない。けれど、その時計が皐月くんのなのは知ってる」
「覚えていることが、皐月兄さんがあなたのドアを通って《部屋》に入った証拠じゃない。あなた以外の実行犯はみんな、ここの人みたいに《生きたドア》に触って変死した。体中の隙間という隙間がドアになったから。あなたも見たでしょう? ドアを運ぼうとした奴らも、そのあとで触った人たちも、みんなドアに侵食されて、死んだ」
 まだドアの化けものが生きていたか。焼け死ね。
 頭上からけたたましい叫び声が聞こえたと思うと、紗理奈の上からガソリンがぶちまけられた。霊柩車の上で、血走った目をした喪服の男がポリタンクを掲げている。幾つもの変死体を前にして、すっかり動転してしまったのだろう。
 この呪われたドアもぶっ壊せばいい。
 彼は霊柩車の屋根を壊すと、棺を立てて蹴り飛ばした。
 《生きたドア》が空中で開き舞う。
 それは開いたまま紗理奈の上に覆いかぶさり、紗理奈は《部屋》の中飲まれて消えた。
 男がマッチを擦って投げると、《生きたドア》は火に包まれた。

 どれほど《部屋》を進んだか覚えていない。《部屋》の中を抜けてどこまでいけるのだろう。わたしの《部屋》からわたしが出ることができたら、わたしの胸のドアが開いてわたしが顔を現すのだろうか? 紗理奈は闇雲に進んだ。
 《生きたドア》から《部屋》に入れることも、出ることができることも確信があった。自分の《部屋》の異物感は、恐らくあの《生きたドア》の持ち主が入り込んで、抜けていったと気に感じたものだから。抜けた先は想像できた。元カレに命令されて運び出そうとしたあのドアだ。わたしの故郷にあったあのドアだ。触れては行けないと言われたあのドアだ。
 実際、たしかあのとき、わたしはドアに触らなかった。
 あれは確か不慮の事故で、非力な誰かが手を滑らせて、階段からドアを落としたのだ。下にいたわたしは、ドアをくぐって、こうして《部屋》に入って、気づくとあの邸の一室にいたのだ。
 そう。相田誠司のドア邸に。
 目を覚ました紗理奈は、壁に貼り付けにされていることに気がついた。ロープなどで縛られているのではない。大の字にされた身体の手足には太い釘が打ち込まれ、胸元から下腹部にかけてのドアが一番キレイに見えるようにされている。
「貴重なドアが焼けてしまったのは悲しいことだが。ついに僕は君を手に入れることができた。君がこの《生きたドア》から出てきたとき、心臓が止まるかと思った。美しいドア女を、ついに僕の物にできる日がきたんだから」
 一枚目の《生きたドア》の前に置かれたアール・デコ調の椅子に腰掛けて相田誠司がこちらを見ていた。コカイン中毒者のように、とろんとだらしなく恍惚とした目で、舌なめずりを繰り返している。物への中毒でそんな目ができる誠司のことが、紗理奈にはひどく羨ましく思えた。
 《部屋》から出た先はアンティークのドアが所狭しと並べられた相田誠司ご自慢の部屋だった。一部屋に千枚ものドアが取り付けられている。
 部屋につながることのない無用のドア。鑑賞するためだけに存在させられる物たち。この男は、本当にドアのことを愛しているのだろうか? 紗理奈は思った。
 胸が痛み。紗理奈は《部屋》の中の異物感が三つなのに気がついた。
「家具屋として僕がこれだけ成功できたのは、ひとえに家具を愛しているからだ。この成功が愛の何よりの証明だ。僕は特にドアを愛している。ドアがなければ、僕の人生はありえない。愛が深ければ深いだけ、理解できる。理解ができれば、その物の感覚がすべてわかる。どうすればその物が美しくあれるか、数学の定理のように明晰に理解することができるのだよ」
「どれだけ見たって、舐め回したって、ペニスを擦りつけて愛を証明しようとしたって、あなたにはドアの感覚なんて分かりっこない」
「どんな感覚なのか、これから君に教えてもらえばいい。毎日何時間でも話そう」
「知りたいなら、そのドアを開けて、《部屋》に入って戻ってくればいい。あなたにはこの体になる勇気がないだけ」
「黙れ。物を愛しながら、この世界で成功するにはこれしかなかった。《部屋》に入るのなんて簡単だ。開いて、中を見て、足を進めればいいだけだ」
 誠司が一枚目のドアへ近づいていく。
 紗理奈は《部屋》の中の一つの異物感がそわっと動いたのを感じた。
 音も立てずドアノブが回り、中から男が現れる。遺影の男。彼は死んだのではなく。死を偽装して誠司を誘い出したのだ。《生きたドア》を盗んだことの罰を与えるために。彼が《部屋》に入ったとき、《部屋》を通じて彼の考えと紗理奈の考えは人つなぎになった。
 音もなく。彼は誠司を《部屋》の中へと連れ去った。《部屋》の中で彼は誠司に復習するのかもしれない。彼が誠司をこちらに戻せば、誠司の念願も叶うのかもしれない。
 だってそれは、彼がドア人間になることを意味するのだから。
 取り付けられたドアたちを見て、紗理奈はひどくかわいそうだと思った。
 わたしの中で二つの《生きたドア》の知性が響き合うのを感じる。ドアを解放しよう。ドアでも生きていていい世界になればいい。
 邸宅中のドアが震えて地鳴りが起きる。梁と支柱が折れる音が聞こえて、崩れ去った天井の向こう側に青空が見える。千代田区番町の路地にドアが解き放たれていく。間を通るものの数だけドアは感じることができる。ならば間を埋め尽くそう。路地の隙間という隙間をドアが埋め尽くしていく。街路樹の間。塀の間。皇居のお堀の隙間まで。東京は瞬く間にドアで溢れた。
 このあとも、ドアは増え続けんだろうな。
 二つの異物感が胸元でうずいた。あの場から逃げるには、ふたりとも《生きたドア》をくぐるしかなかったんだろうな。
 でも、ここから出られると少し恥ずかしい。リオンなんか、わたしのドアから出れるのだろうか? まずはリオンと、ためにためた映画を見よう。それから、柚月の兄を探そう。兄弟でドア人間なら、きっと大丈夫だから。
 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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