印刷

梗 概

林美麗リン・メイリンは国営研究機関で夢を仮想空間化する研究をしている。あるとき被験者から具体的なイメージを持つデータが送られてくる。空間は晴れた草原でそこには巨大な塔が立っていた。林は自らその空間に入る。
 塔の内部は螺旋階段が上空に伸びていた。階段を上がると頂上付近に達する頃に浮遊する土地が見えてきたが、そこで突如空間が崩壊する。現実の被験者から送られてきていたデータが途切れたのだ。
 林が現実に戻ると、被験者は死んでいた。

データが送られてきた時点で被験者は死亡していた。死因は持病である心臓発作であり偶然だった。
 林はこの現象を実験動画と共に学会で報告する。この事実は世界中ですぐに話題となった。すぐさま各国研究機関で再現実験が行われた。確かに死後の人間は脳からデータを発して、そこから草原に立つ塔と土地の空間が得られた。

階段を上がろうとする研究は多かった。だが生者は体力の限界で空間が崩壊する前に昇りきることができなかった。

草原を「死後の光景」と呼び、浮遊する土地を天国だと考える者は多かった。天国の存在可能性は死への抵抗感を人から奪った。生活や病気に苦しむ者の一部がその神秘の土地に苦しみの解放を見出して死を選んだ。世界では自殺率が増加しWHOは明確な社会問題だと言った。

人々は「死後の光景」に惹かれて死を選んでいる。それを解決するにはあの土地の正体を明らかにする必要がある。
 林は自殺者を減らすため政府に研究の継続を要求した。しかし政府は実際に土地が人々の求める苦しみのない新たな安住の地であることが確定して逆に自殺者がさらに増えることを怖れてそれを拒否。林は国営研究機関から解雇されてしまう。

大学を追われた林に接触してきたのは民間企業だった。そのCEOは営利的な天国旅行を実行するため、臨死技術を開発していた。死者にしか登りきれぬ階段があるのであれば死ねばよい、そしてそのあとに生き返ればよい。CEOはそう林に言った。林はCEOのもとで研究を継続することを受け入れた。
 世間は研究を続ける林を天国に執り憑かれていると非難した。
 臨死技術が完成する。林は自ら被験者となる。CEOはこの技術の宣伝のため、林の死を世界同時生配信する。天国を信じるものも否定するものも皆が固唾を呑んで見守った。

林は再び草原に下り立つ。そして塔の階段を一気に駆け上がる。実際に死んでいるので体力を気にせず階段を駆け上がれた。

階段を上がったさきは動植物でいっぱいだった。そこには絶滅種すらいた。
 林はそこで冒頭の被験者の姿を探す。しかしそこに人間の姿はなかった。そこは天国などではなかった。ただ脳機能が停止したあとに発現する細胞に宿る生命の記憶だった。
 林は天国などないことを配信でみているであろう人たちに声を張り上げて訴える。訴えながら涙が零れる。
 林もまた林は表向きは天国の不在を証明して死を選ぶ人たちを食い止めるつもりでいた。しかし本心では自分も今日までただ一目死者に会いたくてこの天国に無意識で懸けていた。
 冒頭の被験者は林の恋人だった。林が追い求めていたのはその人だった。
 林は恋人を喪った事実をその土地で初めて受け止める。
 そして大切な人の死を受け入れるように一歩ずつ天の階段を降りた。

文字数:1344

内容に関するアピール

今回の課題は「最小限の嘘で最大限の効果を」だったので、まず嘘をゼロにしてみました。 ヒトの脳は体が死んだあともしばらく活動を続けているらしい(リンク先参照)。そこで今回、この死後信号の解釈をエスカレートさせて、もしもそこになんらかのイメージを死者が見ているならとドミノを一つ作って、さらにそこを仮想空間として入れたら、そして社会は……、自殺が増えちゃって……、というふうにドミノを拡げていきました。最後のオチは天国だと思っていたのは脳機能を停止したあとに細胞に宿った生命記憶が現れていたという話です。個体発生は系統発生を繰り返すということばがありますが、そんな感じで生命の細胞にはこれまでの進化の記憶が残されていて、進化の末端の人間はまだその記憶にはいないのです。天国なんかないかもしれない、でも天国を信じてしまうのが人間だと思います。そういうことを踏まえて書きたいと考えています。

参考

https://wired.jp/2013/05/02/consciousness-after-deathall/

文字数:449

印刷

彼女が席を外してそれから再び脳科第三研究室に戻ってきたとき、それはすでに現われていた。彼女が扉を開いたと同時に白衣を着たチンが興奮した声で計測モニターを見るように言った。
リン、この出力は明らかにこれまでにない反応だよ。実験の条件はこれまでとなにも変えていないのにこの差異はなんだろう。とにかくすぐに確認してみてくれ」
 彼女はその同僚の一言にすぐさま研究室の人数分買ってきた夜食の生煎饅頭シェンジェンマントウが詰まったビニール袋を置いてモニターを確認した。陳の言うとおりその出力は日中の覚醒時をはるかに越えるデータ量を示していた。
 彼女がガラス壁の向こうで横たわる被験者の姿をじっと見つめると、隣で座っていたジァンがいつもの粘着質な声で言った。
「被験者はいまだお休み中だよ。CTのなかで今もぐっすりおねんねしてる。けど、これはレム下の睡眠状態以上の出力量だよ。もちろんノンレム下でもこんな反応はない。睡眠科学史上未知の反応パターンだな」
 被験者からの出力データのIWBイマジナリー・ワールド・ビルディングは?
 彼女は問うた。
「抜かりなく展開中。まもなくめくるめく夢の世界の御開帳だ。奴さんが黄金の象の上で絶世の美女と夢中でお遊びしている夢を見ていても俺を恨まんでくれよ」
 彼女は蒋の軽口には反応せず、目の前のモニターを睨み続ける。まもなくゆっくりとその三次元の空間が画面上でロードされていく。
「ここまで鮮明なデータは初めてだな。これは本当に世紀の発見と呼べるかもしれない」
 いつのまにか顔をぴったりと横につけてモニターを覗き込んでいた陳が彼女の隣で囁いた。
 彼女たちの研究チームではこれまでも幾度となく睡眠中の被験者から夢を取り出してきた。生体からの電気データを画像化する実験はもはや珍しくもないが、ここ脳科第三研究室ではデコーディング・フローにIWBによる三次元空間展開の実現を目指していた。他所の機関が夢の映画を作ろうとしているなら、我々はその夢の映画を空間化して入り込むことを目的としている。まだ学部レベルのひよっこたちが研究室見学の際に彼女はそう説明していた。
「驚いたな。ここまで具象化できた脳内イメージはいままで文字通り実験鼠一匹見つかってないよ」
“夢のなかじゃあ全員がジャクソン・ポロック”、いつぞやに蒋が言ったことだ。彼女たちはこれまで様々な被検者の睡眠時の脳の活動データを取り出し空間化してきたが、それらは悪夢以上の悪夢で、それはよく言って光の絵の具をぶちまけたような抽象表現主義のような空間としてしか再現されていなかった。
 それがいまやモニター上に一つの具体的な形象を持つバース宇宙として現れようとしていた。
 データ量がこれまでと桁違いに大きいのかその空間の全貌の現れはゆっくりだった。蒋がモニター上の景色を見て、嫌な笑いとともに呟いた。
「はてさて、フロイト先生ならこの光景をどんなふうに解釈するんでしょうねえ」
 彼女はモニター上のその三次元空間を見つめた。それからそこにひろがる空間映像をモニター越しにそっと触れてみた。

「林、気分はどうだ。吐き気や頭痛は起きていないか。やばくなったらちゃんとゴーグルを外すんだぞ」
 夢のなかで目を開く前に耳元で陳の心配気な声が聞こえる。彼女はガタイの大きさに似合わずに心配性な現実にいる陳の顔を想像して思わず顔が綻んだ。
 人間の夢のなかに入ることはただ夢を見ることとは違う。端的に言ってそれはひどく酔う。原因ははっきりしないが、彼女たち研究チームでは、他人の主観においては夢の像は具象として現れているはずだが、それを不完全な空間再現による抽象として見るせいで侵入者の三半規管が耐えられず乗り物酔いに似た症状を起こすのだと解釈していた。ひどい場合だと悪夢の抽象を長時間見続けると、ゴーグルを外したあと脳の空間認識が狂って長期間吐き気に悩まされることもあった。
 陳からマイクをひったくった蒋の声がした。
「まあここまで空間が具象的なかたちになっているなら、いまのところ抽象空間酔いは大丈夫だろう。それよりも極度に現実に似ているとなると戻ってきたときに現実感を取り戻すのに時間がかかりそうだな。いずれにせよあまり長居はしないようにしろよ」
 彼女は了解と笑って答える。口は悪いが心配しているのは蒋も同じだった。
 彼女は目を開く前に深呼吸をした。彼女は仮想空間に入って息をするたびに不思議な気がする。もちろん彼女が吸っている空気は仮想空間のものではない。あくまでそれは研究室の空気でゴーグルから見える世界のものではない。しかし視覚聴覚触覚を現実から仮想空間に対応させるときあらゆる感性がその見ている世界で生じているような感覚にやはりなるのだった。彼女は何よりも今視覚や聴覚よりも先に新たな世界の空気を呼吸していると感じていた。
 彼女は目を開き他人の夢のなかで目を覚ました。目の前に広がる光景はとてもシンプルだった。
 真っ黒な塔とどこまでも広がる草原。
 彼女はゴーグルをつける前に感じていた自らのうちにある懐かしさのような感情がこみあげてくるのを今やはっきり自覚した。手元に身に着けた触覚グローブがくすぐるように指先を刺激した。草原の緑は音を立てて揺れていた。その触覚は風だった。
 そして高く高く聳える石の建造物。
 被験者は一体何の夢を見ているだろう。夢の世界はシュール・レアリズムというよりはむしろ静物画のような印象を彼女に与えた。
 蒋によると草原自体の広さは実はそこまでではないらしい。実際は歩いて――といっても、それは研究室内の歩行型デバイスの上で足を動かすだけだが――300メートルほど進めば張りぼての壁に衝突してしまうとのことだった。
 彼女は再度目の前に伸びるバベルを見上げる。目に入ってくる高さは2000メートルほどで、それ以上はどれだけ目を凝らしてもその頂上は視野に収まらなかった。実質この光景は塔の空間と言ってもよかった。
 彼女は塔に向かってゆっくりと足を踏み出した。
 蒋が言ったとおり塔はすぐ近くだった。近づいてみると塔にアーチ状の入口があり、中に入ることができた。入ってみると広さはそこまでなかった。外側からは真っ黒で罅ひとつなかった堅牢な構造物のように見えたが、中はむしろ金属が赤茶に錆びているようで不安な印象を与えた。
 中心にはちょうど塔を内側から貫くように一本の円柱が伸びていた。彼女はぐるりとその円柱の周りをまわったが、その円柱以外にめぼしいものはなく、塔の本質はその円柱なのだと確信した。裏側に回ると上へあがるための階段の入口が見えた。階段は一段一段ずれて螺旋状に組み上げられていた。彼女は足をそっとその踏み段に置いた。
 それからまるで導かれるように彼女は階段を一歩づつ上がった。一歩、また一歩と上がるたびに歩みはどんどんと早くなり気づけば駆け出すように昇っていた。
 階段はどこまでも伸びていた。螺旋階段を永遠と上がっていると彼女はそのうちだまし絵のなかにいるような気分がしてくるのだった。永久にただどこにも辿り着かない無限の階段。やはりこれは悪夢の空間なのかもしれない。彼女はそんなことを考えた。
 どこにも辿り着かない階段を永遠に昇り続けさせられる、そんな地獄。彼女はそんなことを考えると心臓が不安で飛び跳ねるのを感じた。自分はもしや塔という怪物に囚われたのかもしれない。そんな妄想が立ち上がってきた。
 どれくらい昇り続けたか、いよいよわからなくなるころ彼女はようやく塔の頂上に到達した。彼女は塔の頂上から草原を見下ろそうとしたが塔の頂上はやはり濃い雲が霧のように囲んでいて地上を視界に収めることは叶わなかった。まるで雲の上の天国だ、そう陳と蒋に話しかけようとしたときに彼女は気づいた。
 階段はまだ続いている。塔の頂上からさらにそれ以上の目にはもう見えない空の果てまでまるでガラスでできたような透明な階段が続いていた。塔の頂上は更なる高さまでの踊り場に過ぎなかった。
 いったい、この階段はどこまで続いているのか。
 ここまでくればヤケだ。
 彼女は声に出さずにそう胸のうちで囁いてまた空に向けて一段踏み出した。
 彼女はまた一歩また一歩と階段を上がる。塔の内部で階段を上がっているときに比べればまだ圧迫してくるような壁がない分気が晴れるかと思ったが、けっきょく塔の頂上から空に伸びる階段も雲に囲まれて無味乾燥な道程であることには違いがなかった。
 彼女はいつまでも、いつまでも階段を昇り続けた。
 そしていよいよ階段が辿り着く場所を上空に見つけた。
 その場所は足元から続く階段の先でぽっかりと浮いていた。彼女はその上空に浮遊する島をみて直観的にあそこがこの階段の終着点と感じた。地上から遠く離れた天の島。彼女ははやくこの無間地獄の階段を昇り切りたい一心で再び駆け上がった。この無限に感じるほど長い昇り階段のその先にいったい何があるだろう。彼女は確実に階段を上がっていく。頭上の島にどんどんと近づいていく。
 彼女は蒋と陳の無線に階段を駆け上がるので夢中になるあまり気がつかなかった。天の島まであと百段ほどというところで彼女はようやく二人の声に気がついた。
「林! 階段が消えているぞ!」
 彼女は現実からの声に思わず立ち止まった。それから上がってきた果てしない階段を後ろに振り返ってみると、たしかに階段は一段ずつ消えていった。
 彼女は再び島に向かって駆け上がった。息を弾ませながら、まるでそこが自分の帰る道であるかのように彼女は駆け上がった。地上に落されるにしても、せめてあの島がいったいどういう場所なのか少しだけでも見ておきたい。
 あと50段……40段……30段……、
 天の島まであと20段をきったところでわずかに土地が視界に入ってきた。
 そしてそこまでだった。彼女は残り19段の踏み板に足を置いた瞬間に強烈な浮遊感を感じた。目線が一心に見ていた島から不意に下がっていった。周囲の雲はまるで空間ごと剥がれていくように黒く消え去っていく、彼女は夢のなかの重力に従って永遠と落ちていきながらこの夢の世界が崩壊するのを薄れていく自らの意識とともに感じた。

再び彼女が目を覚ましたのは研究室のベッドの上だった。
 陳が心配そうに彼女の表情を覗き込むのが見えた。彼女はすぐさま起き上がった。
「被験者から送られてくる出力データが途切れたんだ」
 陳は彼女を真っすぐ見つめていった。
 そう、それじゃあすぐに実験を再開しましょう。被験者にそう伝えて。わたしはまだあの階段を昇り切っていない。あそこにはきっと人間の意識を理解するなにかがある!
「いや、残念だがもう実験はできないんだ」
 なぜ? 陳は、これはたったいまわかったことだが、そう言い訳をするように前置きしながら言った。
「被験者は君が仮想空間に入る前に死んでいたんだ」

――では、それはあなたが侵入しそして経験したという天へ伸びる塔と階段は被験者の死後の脳によって生じていたものということか?
 彼女は頷き、そして応えた。
 それは死というものをどこで定義づけるかによると思う。だが我々研究チームが後日状況を精査したところによると、確かに我々がその出力データを受け取った時点での脈拍のバイタルデータは停止していた。それから脳にかんしても大脳、小脳、脳幹つまり全脳の活動電位も終わっていた。つまり、我々が観測し構成した仮想空間データは端的に言って死後のものと言ってよいと思う。
――しかし、心停止を起こしさらに全脳の活動も停止していたとするなら、あなたたちの機器が受け取ったその“出力”は一体何なのですか。何もないところからの出力とでもいうのですか。
 確かに出力されたデータの発生源を辿ればそれは頭部にセットした計器からデータを受け取っている。しかし繰り返すが、その時点での脳の活動は停止していた。従ってそれは脳に由来する出力とは言えないと我々は考える。
――言っていることが矛盾しているぞ、人民脳科科学院第三研究室林美麗研究室長! あなたのいうことを併せれば、脳からの出力データが観測された、しかしその時点で脳はとっくに死んでいたと。
 そのとおりだ。出力されそして我々が観測したデータは脳からのものだ。しかしその際に脳は死んでいた。だから我々はこの出力データを死後のものと言っている。
 べつの研究者が口を開いた。
――出力があったのなら、それは脳は活動を続けているといってよく、そしてそれは死後のものとわざわざ大げさにいう必要もないのではないか。
 それは脳の死をどう定義づけるかの問題だ。我々の開発していたIWBは脳波を読み取っているわけではないことを改めて御理解されたい。通常の意味での脳波計であるならばたしかにその脳は死によって観測されるとおり完全に沈黙を示していた。しかし我々が睡眠時の夢遊状態を観測するために拵えた計器には反応があった。脳波が停まっても、夢を見ているという事実を重視して、それは死ではないと定義するならそれはそれで構わない。実をいうと我々は脳に観測器を取り付けて得られた出力データはもしかすると脳由来ではないのかもしれないと考えている。脳はあくまで出力データの通過するただの一地点でしかなく、その出力データのいわば発信元はべつにあるのではないか。
――脳が出力データの発信元ではなく、あくまで通過点に過ぎない。大本の発信元はべつにあると。なんだね、それは。魂とでも言いたいのか、その言葉は科学の敗北ではないかね。
 科学とは既存の理論に基づかない現象を排除することではないだろう。未知の現象の存在を認め、それを論理的に説明することこそが科学だ。それをいまは仮に魂と呼ぶならば魂の科学的考察と手続きをすればよいだけのことだ。
――だが現在、医学で定義されている人間の死のラインを後ろにずらすのは大変なことだぞ。
 我々は現段階では、現在定義されている死のラインを後ろにずらすという主張をしているのではない。
――あくまで君たちが観測した出力データ、そして君自身が経験した仮想空間体験は死後のものというわけか。
 そうだ。
――では君がその出力データによって構成された草原と塔、そして天へと延びる階段の光景を君はなんと解釈する? 君が見たという天に浮かぶ島は?
 それは今の段階で、わたしが答えることではないだろう。いずれにせよ今回のケース一件ではデータとしては不十分だ。IWBを用いて死後の出力とその光景が観測されるかは追証実験が必要だろう。
 会議室が沈黙に包まれた。最後に一人いままで一つも質問をしなかった研究者の手が上がった。彼女はどうぞと声をかけて質問を受けた。
――あなたたちの研究が被験者を死に至らしめたという可能性はないのですか。
 最初に言ったとおり、被験者はもともと虚血性心疾患を患っており、今回の心不全が実験中に生じたのはあくまで偶発的なものだ。我々の実験が被験者の心不全を引き起こしたのではないと言い切れる。後日行った医療解剖の結果を見てもそれは明らかだ。
――ええ、そうでしょう。あなたたちの実験が被験者を殺したということはない。それはわかっていますよ。けれどあなたたちの実験の最中に心疾患が発生し、実験中であったからその発見が遅れたということは? あなたたちが実験の最中であったから、その心疾患の発生に対応が遅れたということは?
 我々の実験ではリアルタイムで心臓の動きを観測できる機器は取り付けていなかった。心停止のタイミングが分かったのはあくまで実験後後日の状況を精査してからのことだ。実験中で被験者の変化に気づけなかったのは遺族に申し訳なく思う。

彼女たちの学会発表はささやかなものだったが、世界中で話題を呼んだ。何よりも彼女が発した「死後」という言葉をジャーナリズムがセンセーショナルに取り上げた。人々は複雑な死の定義などという議論など素通りして、彼女が発表した心停止とさらに脳波停止後に観測された出力現象に、そして彼女が体験した仮想空間での塔と階段、それから最後に現れた天に浮かぶ島で話題をさらった。
 被検体の確保が困難だと思われた追証実験も意外なことに速やかに行われた。追証実験に積極的に被験者として名乗りを上げたのは末期の病を持つ人たちによって構成されるある宗教団体だった。その宗教団体は死後の世界の存在を教義として置いており、彼女が見た天に浮かぶ島を天国だと信じて憚らなかった。彼らは集まった寄付金を用いて関連分野の研究者を集め信者のいまわの際を利用してIWBで出力データを得た。宗教団体の協力による実験のもと確かに人間の心停止後と脳波停止後にIWBによって出力データとその仮想空間化によって、彼女が言ったような草原の塔と階段の光景を人々は得ることができることが確かめられた。
 宗教団体に付き合った研究者たちは確かに出力データから草原の塔と天に繋がる階段のある空間を得た。そして侵入した研究者たちは彼女と同じように導かれるように階段を駆け上がり、天の島を見た。
 しかしその天の島に辿り着いたものはいなかった。どれだけ早く駆け上がっても必ず島に辿り着く直前でその仮想空間は崩壊してしまうのだった。この崩壊は研究者に言わせれば、死後の出力データが出力される時間が階段を昇り切るほど確保できないというそれだけのことであったが、宗教団体や世間の人々はそもそもそれは生者であるから昇りきれず天の島に至れないのだと考えた。すなわち浮遊するその土地は死者でなくては至ることのできない場所なのだと。死後に現れるその天の島を天国の存在だと人々が見做すようになるのは時間のかかることではなかった。
 彼女は天国の発見者として瞬く間に時の人となった。
 研究を続ける彼女はある科学ジャーナリストに天国とはどんな場所かと訊ねられることがあった。
 彼女はその質問に関してはあくまで科学者として冷静に確かに死後の塔から伸びる階段を昇っていけば島を見ることができるが、それがいわゆる宗教的な天国だとか極楽浄土だとかそんなものであるかはまだわからないことだし、そんなふうに期待するべきではないと言った。
 しかし彼女の諫言など聞こえていないかの如く、人々はその「天国」を信じて、そして勝手な期待を寄せた。

「天国」の存在はなによりも人々から死への抵抗感を奪った。
 人々は死んだあとにも暮らせる場所があるのなら、そしてそれが現世よりも穏やかで魅力的な場所であるのなら、なぜこの苦しみに充ちて生きなくてはならないだろうと問うた。むしろ、人びとはあの死後の天の浮島を「天国」だと確信したというよりも、それが「天国」であってほしいと願ったのかもしれない。まさしく不合理、故に我信ず、そういうわけだった。
 もちろんこれまでに「天国」を信じる人たちはたくさんいた。だがその「島」の存在は生々しくこれまで以上に人々を惹きつけた。人々は死を受け入れた。そして生を見限った。人々は「天国」を信じて死んだ。大いに死んだ。病のなかで苦しみに喘ぐ者。貧困のなかで生活に苦しむ者。あるいは現世に飽き飽きと虚無を見出した富豪も。また殺人も増えた。ある国で大量の人を殺した殺人犯は、どうせ天国があるのなら殺したって問題ないと堂々と述べた。彼はその後死刑に処せられたが、そもそも「天国」があるのなら、死刑というものにいったいどんな意味があるのだろう。ましてその場所が地獄のようなこの現実と比してまったく極楽のような場所であるのなら。
 彼女はあくまで死後の光景があるにしても、塔とその階段そしてその上がった先にあるものが「天国」とは限らないと言い続けた。我々はまだ生者であり、その島のなにも確認していない、と。しかしそれでも人々の「天国」にかける期待は止まらなかった。結果的にその年の世界での死者の数は前年の数を遥かに超える数となった。そのほとんどは自殺だった。人々は現実を捨てよりよい天国での穏やかな生を求めて死を選んだ。

待ってください、研究の中止ってどういうことですか! 言ってることの筋が通ってないですよ。
「筋なら通ってる。君はこれ以上の人々を天国に送りたいのか。いいかね、すでに我が国だけでも自殺者数は都市部を中心に全国民の一割に届こうとしているのだぞ。それもこれも君が見つけてきたあの『天国』に人々が惹かれてだ」
 そうであるならば、なおのこと研究を進めてあの天の島について調べる必要があります。人々はまだ未知のあの島を極楽浄土のような天国だと決めつけているけれど、もしかしたらただの無味乾燥な岩山かもしれないし、ひょっとしたら現実以上に辛い地獄かもしれないんですよ。それがはっきりしたら人々が死を選ぶのも止めるでしょう。
 彼女はある日の早朝から院長に呼び出しを受けていた。いまや彼女はメディアから天国を見つけて地獄の門を開いたと皮肉を持って評されていた。「天国」を求めて死を選ぶものは交通事故や病での死者の数など軽く越えていた。「天国」を巡っての死を世界では天国関連死と呼ぶようになり、先日WHOは「天国」の存在は明確な社会問題であると声明を出すに至っていた。
「触らぬ神に祟りなし。しかし君は触れてしまった。君は本来人間が見つけてはいけないものを見つけてしまったんだ」
 人々があの島に天国を重ねているなら、きちんと調べ上げて島を「天国」という抽象的なものではなくはっきりと世俗的に定義すべきです。それが科学の役割です。
「だが実際にあの島が人々の妄想するとおりほんとうに『天国』だったら? この現実に対する救いであるのなら? 君はあの島が『天国』じゃないかもしれないという。しかしそう考えるのであるならば、『天国』かもしれないという考慮もすべきだ」
 話の筋がずれています。問題はあの場所が天国か地獄かということ以上に人々が漠然としたイメージを身勝手に持っていることにある。だからなんとか生きてる我々が到達してその神秘をはっきりと暴かないといけない。
「そして調べた結果があの場所が『天国』だと言わざるを得なければどうする。天国の存在が科学的に証明されてしまったら、ますます人は『天国』に向かうのではないか? はっきり言おう君の研究中止は党中央からの要請だ。彼らとしてもこれ以上の人民の自殺者数を増やすのをみすみす看過してられんとのことだ」
 だから島が何であるかを解明することが……。
「もうこのへんにしておこう。議論は堂々巡りだ。いずれにせよ研究は中止。君の人民脳科科学院第三研究室研究室長という任も解く。これは決定事項だ」

彼女が脳科科学院を解雇されたという情報はメディアに大々的に取り上げられた。そしてその間も人々は自ら死に続けていた。その死を防ぐ方法はどこにもなかった。ウィルスや病禍であるならば、少なくとも人間は治療薬を開発したり医療技術を発展させることでその数を減らそうとすることはできる。あるいは殺人や交通事故でも警察の数を増やしたり道路を整備したりすることによって少なくとも何らかの対応をとることができる。だが自ら死を選ぶ人たちにできることはなかった。自死という極めて個人的なことに対して社会はまったく手をこまねいているしかなかった。それは究極死を選ぶ個人の問題だから。
 自殺者の増加は人心を荒廃させ、社会を混乱させた。人々に虚無感と厭世観すらもたらし、そしてその結果ますます自殺者は増えた。完全に負のループに社会は陥った。全く皮肉なことに『天国』は人間にとって救いというよりも、災厄としか言いようがなかった。

 彼女のもとにとある新興の国内ベンチャー企業が接触してきたのは職を失って一か月も経たないうちだった。彼女の暮らすアパルトマンにものものしいハイヤーで現れたのは、ウェイボーで不躾にもDMを送り付けていたCEO本人だった。CEOは市内で最も高層なオフィスビルの最上階まで彼女を案内すると背後にガラス張りで一面に広がる地上の光景を背に彼女に話し始めた。
「古くから富と名誉というこの世におけるありとあらゆる栄華を手にしたものが窮極のところ最後に真に求めようとしたものは何か。これは難しい質問ではありません。それは永遠の命です。まったく貧者だろうと富豪だろうと臣民だろうと皇帝だろうと、死というものだけは誰しもに平等だ。林さん、我々はあなたがあの素晴らしい天の土地を見つけるずっと前からこの問題に取り組んできたのですよ。つまり老化を止める細胞の秘薬、マインドアップロードによる身体の超越、そして脳を含めた全人体冷凍保存技術。おっと、いまあなたはまるで荒唐無稽な研究だと笑われたが、我々の研究の費用に関してはこれまで一度も尽きたことはないのです。ええ、そうです。我々には圧倒的な富を持つ顧客、そう正しくこの世の全てを手に入れたような顧客がうじゃうじゃいるのでね。それは我が国を越えてありとあらゆる世界中の人たちがです。端的に言って我々は死を超越する技術の開発には糸目を付けません。林さん、あなたが見つけた天の島というコンセプトは素晴らしい。わたしはあなたの研究を調べていくとどんどんと自らのうちに崇高なる使命のような感情が湧いてくるのを感じました。あなたが見つけた『天国』、そのコンセプトの最大のポイントはまさしく死後の生という点だ。人間は確かに死を乗り越えることは不可能かもしれない。死はたとえこの世の栄華を極めたものですら乗り越えることのできない決定的な人間の条件なのかもしれない。しかしもし死後にも今と変わらぬ、いや今以上の薔薇に囲まれるような生活があるのなら? そうです、死は乗り越えるものではなかった。死はむしろ積極的に受け入れるべきもの。死はわたしたちに与えられた最大の進化なのかもしれない。林さん、わたしたちがあなたに望むのは端的に研究の継続です。そしてあの天の島がはっきりと天国であるということを明らかにしていただきたい。ええ、わかっていますよ。現在、わたしたち生者ではあの死者の階段を登りきることはできません。あなたの研究報告のとおり、IWBを用いての死後の光景の仮想空間化を維持できるのには時間的限界がある。わたしたち生者においては天国への階段を登りきるのに圧倒的に時間が足りない。あなたの熱心な研究をもってしても、塔からの階段を登りきり、あの天の島へ至ることは生者では不可能だ。天の島のその大地に足を踏み入れることのできるのは死者だけというわけですね。ねえ林さん、そうであるならば、死者にしか登りきれない階段があるなら、そう、死者にしか辿り着けない天の土地があるのなら、一回死んでしまえばよいのではないですか。わたしたちはありとあらゆる死と隣接する技術を研究しています。先ほど述べた全人体冷凍保存の技術もね。全人体の冷凍保存とは言ってしまえば、肉体を、つまり心臓も脳活動もいちどすべて冷温化で停止させることです。それは端的に言って死と同義だ。臨死経験というわけですね。もちろんこの技術はいまだわたしたちの手を持っても完全なものとは言えないが、しかし現在では18分間だけであるならば、対象を仮死状態にさせそして復活させることができるところまで来ている。もはや基礎技術は出来上がっている。あとはあなたともにこの18分間を出来るだけ長くすることだけだ。これでわたしたちは初めて天の階段を登り切りその未踏の国に至ることができる。あなたもあの天の島の正体を明らかにしたいのでしょう。あなたはあの天の島は天国などではないという。しかしわたしはあの島は天国だと信じていますよ。いやそう願っているというべきか。はっきりいおう、わたしは死が怖い。もしあれが天国でなく、わたしたちが死後に向うべき土地としてふさわしくないものであるならと考えて夜も眠れないのです。だからベクトルは違ってもはっきりさせたいのです。天国があるかないかと怯えるのはもうたくさんだ。はっきりとあなたにはあの天の島に入り、その目でみてそしてその口で天国であると認めてほしいのですよ」
 彼女は一通り新製品のプレゼンテーションでも終えたかのように満足げな顔をしたCEOに対して何も言わずその瞳を見つめた。そしてCEOが、わたしのもとで研究を行ってくれますね、そう言いながら渡してきた独占研究契約の書類を黙って受け取るだけだった。

 彼女が『シーシェン・カンパニー』のCEOと手を組み、脳科科学院を解雇されたあとも研究を続けていることはジャーナリストたちにすぐ知れることとなった。むしろCEOが情報をマスコミに積極的に流していたので当然のことであった。彼女はそのことによい顔はしなかったが、CEOに言わせれば注目を集めれば集めるほど冷凍仮死技術研究の資金が集めやすくなると言って憚らなかった。
 彼女は常に世論における論争の渦中だった。曰く、「天国」を見つけた人類の魂の救世主。曰く、怪しげな天の島で人々を自殺に向わせた地獄の門を開いた悪魔。どちらの論調の記事が多いかというと、圧倒的に後者の論調が多かった。後者のような意見には、彼女が天国を否定しているという事実を知ってか知らずか、世界中の人々を死に追いやっておいてそれでもまだ天国の存在に拘り続ける、死に執り憑かれた女などという言い回しもあった。彼女はそれらのどの記事を見てももはや反論することも自説を述べることもしなかった。ただ無心に最初に登りそして見たあの天の島の光景だけをひたすら考え続けそしてCEOのもとで仮死技術の完成のための研究を続けた。その異常とも言えるような一心不乱な研究態度に彼女の助手を務める『シーシェン・カンパニー』の研究員たちは確かに何かに執り憑かれているような気配すら感じるのだった。

かくして全人体冷凍保存技術は彼女の常人ならざる熱意で急速にその開発速度を上げた。彼女が加わるまで、『シーシェン・カンパニー』での動物実験の繰り返しにより一分一分とその保存可能期間を伸ばして18分の冷凍保存を可能にしていたが、彼女の努力によりその時間は短期間で飛躍的に伸びた。
 あるとき研究の視察に来たCEOは彼女に「天国への登攀」実験は是非とも世界中に配信するかたちで行いたいと告げた。CEOはいまや天国の存在は公共の問題であるとか、これはアメリカが月に到達した偉業に並ぶ人類の大きな一歩だとか、いつもの調子で長々と語りかけた。もっともその表情を見れば窮極のところ自社サービスへのこれとない宣伝効果となるからだろうと簡単にその魂胆は彼女には伺えたが、昼夜問わない研究で朦朧とした頭ではどうにも反論の言葉が浮かばなかった。
 彼女が『シーシェン・カンパニー』に移籍して半年、18分間だった全人体冷凍保存技術の保存可能時間は1時間を越えることに成功していた。
 それは死者がその脳波停止後に出力データを送る時間を越えて、死後の光景である仮想空間の崩壊する時間を大幅に越えていた。「天国への登攀」はもはやいつでも可能だった。 
 研究部員の一人が笑い続けるCEOに、その天国の登攀は誰が行うんですか? と訊ねた。CEOはなんの迷いもなく彼女を指さした。

 0時間32分。
 それが人間が脳波を停止したあとに出力データを送り続ける時間だった。IWBを用いたその出力データの仮想空間維持時間、すなわち死後の光景が崩壊するまでの時間はその32分間だった。
 これまで試みられてきた天の島への登攀ではどうしてもこの32分以内に塔から伸びる階段を昇り切ることがどうしてもできなかった。
 ある研究者が階段を登り切るのに必要な時間は、仮にどれだけ足の速い人間がその登攀に挑戦しても最低でも一時間以上は必要だと見込まれていた。
 1時間24分。
 そしてこの数字が彼女たちが現在全人体冷凍保存技術で維持していられる仮死時間だった。もちろん実験の際に行われたのは人間ではなく動物実験だったので、マウスよりもより複雑な身体と脳を持つ人間においてもこの時間が維持できるかはわからなかった。
 しかしそれでも仮想空間が維持される32分間を越えている。理論的にいえばいったん冷凍となって死に、心臓も脳波も停止させればその人間は死者と同じ状態になり、自らの内側であの死後の光景を実際に体験することができるはずだった。そして1時間24分間で階段を登り切きり、天の島のその実態を調査して帰ってこれるはずだった。

林さん、必ず時間通り帰ってきてくださいよ。全世界配信中に実験の失敗で死亡事故でも起こせば我が社はおわりですからね。
 彼女は冷凍用コクーンに入る前にCEOが珍しく剣吞な表情で話しかけてきたのを見て思わず笑いそうになってしまった。帰ってくるもなにも時間になれば研究チームの人間が勝手に解凍して現実に戻らされる手はずになっている。CEOはしかしそれでも彼女の今日までの研究の打ち込みようをみて、嗅覚鋭く彼女がまるで死を望んでいるように思えてそう声をかけずにはおれなかったようだ。文字通り死地に赴く彼女に。
 彼女は目を閉じて深呼吸をする。そしてまるで走馬灯のように最初の被験者が死んで天の島を発見した日から今日までのことを思い返した。今日までジャーナリストにはさまざまな記事を彼女は書かれてきたが、彼女が「天国」に執り憑かれているというのは正しかった。彼女は誰にも言わなかったが、最初に塔から階段を登ったそのときから声が聞こえていたのだ。それは天のあの島から聞こえる、死の国から生の国への呼びかけだった。
 やっと。
 彼女は目を閉じたままそう思う。
 やっとあの島に行くことができる。

まずは風を感じる。彼女はこの死後の光景に来るのはまだ二度目のはずだったが掌にそして頬に通り抜けていくその感触を懐かしく感じる。前回の体験でつけていたデバイスは視聴覚ゴーグル、触覚グローブ、そして歩行のための360度ランニングマシン。だけどいまはそんなウェアラブルデバイスを身に着けていないし、この死後の光景は誰かの出力データを仮想空間に再現したものでもない。それでもここはまぎれもなく「死」の空間だった。それも今は誰かのものでもなく自らの死。前回と違い匂いまで感じることができる。
 彼女は目を開き穏やかな草原の光を受け入れる。
 彼女の死後の光景はあの日観た姿と何一つ変わらなかった。まるでデスクトップのような草原。ただ塔のためだけの箱庭の空間。そしてそこから延びる階段とあの天の島。
 彼女は自分の死の時間が残されていないことを思い出して、真っすぐに駆け出した。
 死後の自分は感覚はあっても肉体はないようだ。駆け出せば足に感じるような疲労感は全くなかった。一歩一歩が飛ぶような心地でいまなら生きているだれよりも速くそして長く走っていられる。これなら階段を駆け上がるのもいちいち休まなくてよさそうだ。
 彼女は塔に辿り着いても休まずに内部の螺旋階段を上がっていく。階段を回っていると前回感じたようにまるで自分が永遠に回っているような、上昇も下降もなくひたすら平行に尻尾を追う犬みたいになっている気分になった。けれども、彼女は駆け上がる足を止めない。
 今でもう何分経っただろうか。やっかいなことにこの死後の空間では時間を測ることができない。与えられた時間は1時間24分。いまはその時間のうちどれくらい使ってしまったかわからない。
 それでも時間通りに辿り着けるはずだと信じて塔の内部の螺旋階段を彼女は上がり切る。地上から遠く離れた塔の頂に立って自分が登るべき階段を確認する。下の地上は見えないし、見ない。彼女はただ上だけを見上げて駆け上がる。階段は長く果てしなかったが、それでも一度途中まで上がった経験からか、前回よりは速く上がれている感覚があった。
 彼女は階段を囲む雲のなかに突撃して高みを目指す。何段も何段も、ずっとずっとひたすらに階段を上がり続ける。それは追うように。そして追われるように。
 やがてまた雲の向こうに島が見えてきた。彼女は駆け上がりながら頭上を見上げる。島は静かに何も言わずに、そこで彼女を待ち続けている。いま現実の彼女はコクーンで冷凍保存状態だ。CEOが言ったとおり彼女から得られる主力データはモニターに映すなりなんなりして世界中に生配信していることだろう。あの島を「天国」と信じる者も信じない者も、おそらく世界中の人間がその配信を見ているはずだ。
 彼女は前回は踏み外した踏み板に確実に足を降ろした。空間は崩壊しない。いける。ここまで半信半疑だった彼女は島への到達を確信した。これであの島の神秘は明らかになる。「天国」かそうでないか、はっきりする。

彼女が踏み込んだその土地の一歩目は湿った土の感触だった。
 島の大きさは階段から見上げていたときは遠くにあるから小さく見えていたのかと彼女は思っていたが、実際に近づいてもそこまでの大きさではなかった。彼女は静かなその土地の入口でゆっくりと全貌を見渡した。足元は膝くらいまで高さのある背の高い草で覆われている。彼女の耳にはどこからか水が流れる音が聞こえた。見えないどこかに水辺があるのかもしれない。彼女は草いきれと土の匂いに鼻腔を充たされながら、ゆっくりと島の内部に向けて歩き始めた。
 ふいに彼女の前に青い翅を持つ蝶が二頭横切った。その青い羽搏きは彼女の目線の先で互いに踊るように遊びやがて導くように島の中央に消えていった。
 あの特徴的な翅はオガサワラシジミだ。彼女は声に出さずに反射的に思った。それは彼女がかつて同僚であった男から教えてもらった名前だった。
 気がつけば彼女の背後から黄と黒のまだらをした蝶、橙に黒の斑点した蝶、朝焼けのような紫の蝶がオガサワラシジミを追いかけるように目線の先を飛んでいった。ギフチョウ、オオウラギンヒョウモン、ミヤマシジミ。すべて彼女が教えられた蝶の名前だった。そしてそれらの蝶はみな現実の地球上から絶滅している蝶だった。蝶を目で追っていると声がするような気がした。林。そう彼女を呼ぶ声が聴こえる。彼の声だ。
 歩みを進めると、徐々に足元の緑の葉に黄や紫、赤に水色の花弁を持つ植物がぽつりぽつりと混ざり始める。彼女はそれらの花々を踏まないように気をつけた。それらの花の名前を彼女はわからなかった。どれもこれも見たことのない花たちだった。
 そんなふうに足元の花を見つつ歩いていると、ときおり草の根が揺れて足元から動物が飛び出してきた。いつか共に図鑑を見ながら教えてもらったときのように、その名前を彼女は歌うように口ずさんでみる。
 ワキアカカイツブリ。オレンジヒキガエル。シマワラビー。ルイジアナハタネズミ。オオウミガラス。ドードー。これらは17世紀から現代にかけて存在した動物。つまりいまはいない。
 森の奥からはこんどは巨大な動物たちが現れてすれ違っていく。
 ナウマンゾウ。ドウクツグマ。ダイアオオカミ。ギガンテウスオオツノジカ。アメリカマストドン。これらは258万年前の動物群。
 彼女は現れる動物たちと反対方向に進んでいった。足元には小川が流れている。最初に入り口で聞いた水の音はこの小川だった。そこにはビカリヤ、イタヤガイなどの6600万年前の貝類がいた。彼女は小川を越えてさらに森の奥に向かう。ついには彼女の背中を越す大きな動物たちが現れた。白亜紀、そしてジュラ紀に存在した地上の支配者である恐竜たち。
 カルカロドントサウロス。アウカサウルス。ディモルフォドン。プロトクス。
 彼女は島の奥に進んですれ違っていく動物たちの名前を呟きながら徐々に理解していく。動物のなかにはときに彼女が知らない姿のものもあった。そう、すれ違っていく動物たちはすべてこの地上から消えた、つまり絶滅動物たちの姿だった。現代、新生代、中生代、古生代。奥に進めば進むほどその絶滅年代は古くなっていく。
 ヴェヌストゥルス。スフェナコドン。システケファルス。ブロントスコルピオ。パレオカリヌス。スティロヌルス。イクチオステガ。モリソニア。ダイバステリウム。エレトプテレス。ユタウロラ。イソキシス。ハルキゲニア。バージェシア。アノマロカリス。
 彼は絶滅動物の名前を彼女に教えるのが好きだった。生まれつき心臓が弱かった彼は子供の頃から死んでいってしまった動物や植物に自分が重なると彼女に言っていた。たくさんのこの地球から消えていった動物、たくさんのこの地球から消えていった植物。その一つ一つの名前を囁きながら彼はいつか彼女の指先を取って、図鑑の上でなぞった。彼女はいつも彼のその絶滅動物の名前を呼ぶ声が好きだった。
 やがて、ヨルギアやエルニエッタなどの先カンブリア時代のバージェス動物群とすれ違って、それからもこれまで人間が把握していない無数の古代絶滅生物たちとすれ違って彼女はようやく島の中央に辿り着いた。
 島の中央にはただ一本大きな木が生えていた。葉の形はやや丸みを帯びた三角形で彼女はその木の名前を知らなかった。最初に見たオガサワラシジミやオオウラギンヒョウモンなどの蝶たちは彼女を待っていたが如くその木の側ではためき、やがて消えていった。
 彼女はゆっくりとその木に近づいていき手を自然と延ばして触れた。その幹は掌のなかで清涼な感覚を与えた。彼女は思わず懐かしい人にそうするように木に頬を摺り寄せた。そして彼女は彼女が、そして人間が求めていたものはこの島にはないことを理解した。
 ここは人間にとっての天国などではない。
 彼女は木に背を向けると、一度目を閉じて深呼吸をしてそしてまた開いた。そして現実できっとこの島の様子を生配信で見ているであろう世界中の人間たちに聞こえるように叫ぶ。

ごらんの通り、ここには絶滅動物たちがいるだけでここに人間の姿はありません。ここはわたしたちが想像するような裸の赤ん坊が天使の衣装を着てラッパを吹いたり、優しく微笑む女神がいるような、人間にとっての天国ではないのです。おそらくここはわたしたち動物が進化のなかで細胞ひとつひとつに記憶している生命の記憶の場なのでしょう。ここは死というわたしたちの未來が行き着くところというよりもむしろ生命の過去そのものなのです。ですからここにまだ絶滅していないわたしたち人間の姿はありません。わたしたちは生命の記憶のなかに登録されていないのです。ここに辿り着くのは種の記録のみなのです。わたしたちが心停止と脳波停止後に発してた脳からの出力データはおそらく全身の細胞がその死に際して最後に蓄えたいわば細胞記憶が脳を経由して発せられていたのでしょう。繰り返します。ここには人間はいません。あなたが死んでもその身体も魂もけしてここには辿り着かないのです。あなたが死んでもあなたは無になるだけでけしてその後にいまよりも楽しかったり心地のよい楽園に到達するわけではないのです。ただあなたたちは無になるのみです。何度でも言います。死は何にも解決にはならないのです。この島は救いでもましてや死後の生でも何でもありません。わたしたちは死後に期待せずまっすぐに現実を生きなくてはなりません。ここにおいてあなたがいまも苦しんでいる病を癒すなにほどかのものはないのです。あなたが解決できない社会的問題に対する答えがあるわけでもない。そして、ここには不幸にも先にあなたたちよりも先に亡くなっていった家族や友人や恋人がいるわけではないのです。そう、ここには先立って死んでいった大切な人がいるというわけではないのです。

彼女は延々とこの生命の記憶の島から現実に向かって叫び続けた。もう誰も天国を期待して死なないように。なんどもなんども繰り返し、ここは天国ではないと叫び続けた。そして叫びながらいつしか彼女の目元からは涙が零れる。彼女の叫びは、それはまるで自分に言い聞かせるように何度も何度も繰り返された。
 彼女は叫ぶ。ここに来ても大切な人にあなたが愛した人にもう一度会えるわけではないのです。
 彼女は涙声で叫び続ける。たった一人の死後のこの空間で彼女の声が響く。島の動物も植物も何も答えない。ここにいる人間は彼女一人なのだから。
――婚約者の死と引き換えに研究成果を手にした気分はどうかね。
 あの学会の発表の終わりに投げられた質問だった。
――「天国」を発見した際に死亡した被験者の男性は林博士、あなたの恋人だったという話もありますが? 
 これはまだ脳科科学院を追い出されるまえにジャーナリストに聞かれたこと。
 彼女は一つ一つと目からまるで記憶が流れるように溢すたびに気づく。どれだけ人々にこの島が「天国」であることを否定しても、ほんとうは自分がいちばんその存在を信じたかったのだ。どうしてもこの場所に辿り着いてそして彼にあいたかったのだ。塔を登り、長い長い階段を上がればそこで待ってくれていると信じたかった。
 彼女はもう現実の人に訴えることを忘れて泣いた。絶滅した木々に囲まれ、絶滅した動物に、そして花々に囲まれて、膝をついて、その死後の空に向けて大声を上げた。まるで恐竜か怪獣のようだ。悪魔と罵られ、世界中の人間を天国に送ったと罵られた研究者はそんなふうに泣き続けた。彼が死んで彼女は今日まで一度も泣いていなかった。
 無数の絶滅動物が木から霞のように現れてはどこかへ歩き去って彼女の涙でぼやけた視界から消えていく。

彼女はそれから声がおかしくなるまで泣き続けるとようやく立ち上がった。ゆっくりと膝をつけた生命記憶の島からその足で立ち上がると涙を拭いながらその足で立った。それから島を出て、地上へと続く階段を一段一段降りるためにその最初の一歩を踏み出した。

 

                                     了

文字数:18586

課題提出者一覧