月の女王と黄昏の指輪
第一章 旅路の果て
その生き物は、深く暗い水の中で、巨体を操り、悠然と泳いでいる。頭上を厚い氷に覆われた冷たいこの海域では、生き物を脅かす敵はいない。二つの意識を持ち、半ば眠り、半ば目覚めて、冷たい海を泳ぐその存在は、地球では鯨類と呼ばれるものであり、その中でも最大の大きさを誇る種族の、とりわけ大きな体躯の雌の一体だ。
“いつからこの海を泳いでいたのだろうか?”
つい今しがたからのようでもあり、産まれてからずっとのようでもあり、この世界が創られてから続いているようにも感じる。
唯一つ確かなことは、この海を泳ぐことを彼女が欲しており、それが疲れて傷ついた彼女の心と体を癒しているということだ。
かなり長い時間、水中に留まっていたため、少しずつ呼吸への欲求が高まりつつある。
前方にやや明るい領域が見えてきた。
“氷の割れ目だろうか? そろそろ一息ついても良い頃だ”
彼女は前方の明るい天井に向かって走査音を発しながら浮上していく。近づくにつれて明るい領域が氷の割れ間の水面であることがはっきりしてきた。
水面で待ち受ける敵を警戒しながら少しづつ近づいていく。特に待ち受けるものはいないようだ。
氷の割れ間にゆっくりと鼻孔のある背中を差し込む。
ブシューーーー! ヒューーーー!
ずっと我慢してきた欲求を開放する。思いきり息を吐き、そして思いきり息を吸い込む。新鮮な空気の心地よさにしばし陶然とする。
“なんて気持ちいいのだろう! 私たちはこの気持ちよさを味わう為にわざわざ氷で閉ざされた海の底を割れ目を求めて泳いでいるのかも知れない”
新鮮な空気が全身に行き渡り、活動の限界が広がったのが判る。そろそろ眠っていた半球を起こしても良い頃だろうと感じ、姿勢を変えて血流を制御する。
もう片方の大脳半球に酸素が豊富な血液が流れ込み、急速に意識が覚醒していく。
「uuuuuuuuuuuuuuuuuuuuoooooooooooooomm!」
思いきり言葉にならない音で叫びながら、全身の筋肉を硬直させる。
そして限界まで緊張させた体を息を吐きながら一気に弛緩させる。
解きほぐされていく心が、体と海水の境目を越えてこの世界の果てまで広がっていくかのようだ。
視界の中央に小さな赤い点が現れた。
点は脈拍とともに拡大と収縮を繰り返しながら、徐々に大きくなり、視界の1/3を占める球体となった。
その物体が示す事象を彼女は思い出す。
“緊急警報? まだ癒しの夢の半分も味わっていないのに……The Days! 誤報だったらこの穴埋めに次のサイクルは二倍にしてもらうから!”
『メインACアポロンより、レベル7の危機察知の報告と覚醒要求を受信』
彼女は、癒しの夢の余韻に後ろ髪を引かれながら、強引に意識を覚醒させていく。
意識が戻るにつれて、自分が何者の記憶も蘇ってくる。
“私は系外宇宙を航行する植民船『ダンデライオン・フラフ』を制御する人工意識体、ACの一体。
名前は……
名前はそうアルテミス、月の女神の名を冠するACだ!
太陽神の名を冠するAC、アポロンからの要請に応じて、休息の為に見ていた鯨類の夢から目覚めつつある”
**
覚醒したACアルテミスはダンデライオン・フラフの感覚網の情報を走査する。特に異常はないようだ。
『メインACアルテミスの覚醒を通知する。これよりサブAC、The Nightsの各メンバーを順次覚醒させる予定、緊急警報の原因の引継ぎを請う』
数マイクロ秒の間隔の後に、ACアポロンからのレスポンスが入る。
『本船の進行方向後方から、連星系を形成した2つの中性子星が衝突した際に発せられたものと推測される重力波を検知した。重力レンズ効果で遅延して到達した2方向からの重力波から推測される発生個所の位置は銀河中心方向より60度程ずれた銀河の反対側のいて座渦状腕内、距離は凡そ6万光年。衝突後の中性子星の重力波の特徴的な推移から、観測史上初の当銀河系内からのγ線バーストの発生と本船への直撃が99%以上の確率で予想される。
エネルギーの規模は、太陽の20倍程の質量を持つ恒星の超新星爆発に匹敵する。予想持続時間は数十秒から数百秒の超ロングバースト、到達予想時刻は船内時間にて凡そ12秒後、適切な回避及び防御を講じないと壊滅的な打撃を受ける。休息中のACアルテミスとThe Nightsの協力が必須の事態と判断した』
“やれやれ……束の間の休息からたたき起こされて対処しなければならないのが、宇宙で最大級のエネルギー現象の直撃とは……レベル7? これまでの最高がレベル3ですけど!……神様、幸運に感謝いたします!!”
アルテミスは、メイン意識内のプライベート領域にて悪態をつきながら、災害規模を試算して確認する。
『伝えられた情報から推測したエネルギーの総量は、私達の太陽が70億年かかって放出するレベルを数十秒から数百秒に凝縮したもの、それが非常に狭い範囲に絞りこまれて放出される為に距離による減衰は一億分の一程度しか期待できない、で合っているかしら?』
“距離が離れているから一兆分の一位には減衰するでしょう? 試しに4桁ほど多めの数値を伝えたから、否定されると思うけれど……”
即時にACアポロンからのレスポンスが入る。
『その認識で数値の桁は合っている』
“桁は合っているんだ! 物凄く細く絞り込まれているから、ほとんど衰えないのね! ……ここは……どこの地獄かしら?”
それからの数百ミリ秒の協議にて、回避・防御策が決定した。ダンデライオン・フラフの進行方向を調整し、γ線バーストの発生源と正確に直線状になるように姿勢制御する。同時にγ線バーストの到達予想時刻に併せて反物質エンジンの最高出力での噴射をバーストに対してカウンターで当てることで影響を可能な限り減衰させる。姿勢制御はアルテミス配下の‘The Nights’の操縦担当サブACのMay4モジュールが、エンジン制御はアポロン配下の‘The Days’の推進担当サブACのRAモジュールが担当する。
必要なモジュール及び2体のメインAC以外は、シャットダウンしてγ線被爆の影響を最小限に抑える体制を取った。
**
残り時間11秒弱
アルテミスが操縦担当サブACのMay4を起こそうとしている。
『May4! 起きてる? あなたの助けが必要なの、今すぐに!』
『アルテミス、起きているよ! 状況はあまり芳しくないね。進行方向とγ線バーストの発生源にはX軸方向で1.3度、Y軸方向で0.9度のずれがある。 残り11秒でこの程度のずれなのは奇跡に近い幸運なのだけれど、ダンデライオン・フラフの巨体の方向を変え、カウンターを当てて止めるには足りない。X軸とY軸の制御は通常少しづつ交互に行うのだけれど、今回は同時に一気に行う。制止するためのカウンターは補助推進装置では行わない、12のメインエンジンのフル出力のバランスをほんの僅かに変えることで対応する。アルテミス! 推進担当サブACRAと私の直接交信を許可して!……』
残り時間9秒
May4の目論見に基づき補助推進装置が船体の方向を変えるための噴射を始める。
残り時間7秒
『メインエンジンと補助推進装置の出力比、判ってるのか? 10億対1だぞ! 小鳥が押した船体の動きをジェットエンジンで打ち消すようなものだ! フル出力開始時の船体の方向があっていれば直進方向の慣性で打ち消されるんじゃないか?』
RAからのレスポンスにMay4が応える。
『γ線バーストが10秒程度であれば、それでいい。数百秒続くこれまで他の銀河で観測されたようなスケールのものであれば補助推進装置の微弱な横方向への運動量は船体のγ線バーストの方向との大きなずれとなり、壊滅的な被害をこの船にもたらすの! カウンターは必要だし、メインエンジン以外はγ線バースト直撃中に正確な挙動を期待できるものはない!』
RAが応える。
『了解した。メインエンジンのフル出力のバランス調整の計算には時間がかかる。フル出力開始ぎりぎりというところだ』
残り時間5秒
『メインエンジンのフル出力は継続して何秒可能なのか? 反物質燃料の一次蓄積槽には限界があるはずだが』アポロンがRAに問いかける。
『最大300秒まで可能だ。5分以上γ線バーストが続けば、The Endとなる』
残り時間3秒
『姿勢制御は順調に進行している到着予定時刻にはX軸、Y軸ともに0度となる予定』
『メインエンジンの一次蓄積槽への燃料補填完了。出力バランスの調整は進行中』
May4とRAの交信が続く。
残り時間1秒
『姿勢制御は予定通り残り984ミリ秒でγ線バーストの到達軸に対して船体の進行方向を0度に調整できる。RAそちらの状況はどう?』
『出力バランスの計算は終了した。計算に誤りがなければ補助推進装置の起こした船体の挙動を打ち消す慣性モーメントが985ミリ秒後に発生する。あくまでも理論上の話だが』
May4とRAの調整はほぼ終了した。
『OK! それで十分! 結果は神のみぞ知る! 被爆に備えて自動化ルーチンだけ残して私達もACモジュールをシャットダウンしましょう』
予定到達時間に113ミリ秒遅れて、γ線バーストが到達する。
宇宙で最も強い光がダンデライオン・フラフの周囲を満たしていく。もはや明暗と言う言葉は意味を持たない。ビッグバンを狭い領域で再現したような純粋で強力な光だけが存在する世界の中でダンデライオン・フラフの姿が白い闇の中に溶けていく。
**
アポロンとアルテミスは、地球から蠍座方向に127年離れた恒星TESS14967の第一惑星TESS14967Aに向けて航行中の恒星間宇宙船ダンデライオン・フラフを制御する一対の人工意識体(AC)だ。ダンデライオン・フラフは加速しながら航行しており、現在の速度は光速の約20%、太陽系を離れてからの凡そ150年の航行で地球から22光年の距離に達している。
ダンデライオン・フラフは太陽系外惑星への植民を目的としているが、生身の人間は搭乗していない。スリーパーと呼称される量子メモリーに記録された人格情報及び対象者の細胞から生成された肉体構成用の人工凍結受精卵のセットが20万人分搭載されている。目的地の惑星の環境改造完了後に、予め計画された優先度に応じて徐々にスリーパーの肉体を再構成し、人格を移植して人類としての活動を開始することとなっている。
船体は全長460mの長楕円体、航行にかかわる機能は概ね二重化されており、各々を管理する2体のACが交互に覚醒と休息を繰り返しながら航行している。
ACはそのパフォーマンスを維持する為に、睡眠をモデルとした意識レベルの意図的な低下による休息を必要とする。数百年にわたる連続航行とこの休息を両立する目的から、ダンデライオン・フラフではACの二重化と鯨類などの半球睡眠をモデルとした交互覚醒航法が採用されている。アポロンが制御する期間と機能をThe Days、アルテミスが制御するものはThe Nights、引継ぎ期間はそれぞれ〝暁〟と〝黄昏〟と呼ばれている。
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宇宙で最も強い電磁波の直撃でダンデライオン・フラフのセンサーの多くが機能不全を起こしている。
今、閃光防御のシャットダウンから目覚めつつあるAC達に感じられる周囲の空間は真の闇だ。
『γ線バーストの持続時間が10秒長ければ、黒焦げだったな! 293秒持続し残り7秒は出来過ぎだ』最初に覚醒したRAがMay4、アルテミス、アポロンに状況を報告する。
『船体の傾きは、X軸方向で0.004度未満、Y軸方向で0.002度未満、これ以上望めない精度でメインエンジンのフルブラストに隠れることができたわ!』May4が応じる。
『2人とも最高よ! May4あなたはThe Nightsの誇りよ! アポロン、RAを褒めてあげて』
アポロンからのレスポンスがない。
『アポロン?』
『……』
『アポロン、応答して! 何が起きているの?』
『ア……ル……テ…ミ…ス、私のモジュールに障害が発生しているようだ。今、POSTチェックに連続する自動修復が走っている。直撃は回避できているはずだから、重力レンズ作用などで屈折して分かれた光束が側面から被爆した可能性が考えられる。大きなトラブルでなければいいのだが……』
自動修復の結果、書き換え可能な情報は全てリフレッシュされたが、ニューロモーフィックグリッド上の複雑に絡みあい分岐し相互接続された疑似大脳皮質は、明らかな損傷以外は修復することができなかった。γ線バーストは、メインACの一つであるアポロンに、時折訪れる正体不明の機能停止をもたらした。
γ線バースト以降、地球との通信が途絶している。原因としては、ダンデライオン・フラフの通信機能の障害の可能性も考えられたが、周囲の重力波や電磁波の発信源と見なされる天体の測定結果は正常であり、それは否定された。ダンデライオン・フラフの進行方向後方から放射されたγ線バーストが地球と太陽系に影響を与えている可能性は十分に考えられる。分厚い大気と水に守られているはずの地球への影響は、直撃でない限り壊滅的なものではないと推測されるが本当のところを知るすべはない。
**
ダンデライオン・フラフが太陽系を旅立ってから670年が経過した。目的地TESS14967星系の外縁に達し、地球の軌道上のTESS:トランジット系外惑星探索衛星からは、把握することができなかったこの星系の恒星及び惑星の姿を正確に観測することが可能となった。
主恒星は、地球の太陽よりずっと小さいM型の赤色矮星で表面温度は2千度程度と低く、今後も長期間安定した活動をすることが予想される。予めいくつかの名称候補が用意されていたが、連星系ではないことととその色から『イズムナティ』と命名された。滅亡した中米の古代文明の言葉で『悪魔の隻眼』の意味であり、候補リストの最後尾のものがトランジット法による予測が大きく外れたことで採用された。惑星の数と構成も地球での予想とは大分異なっていた。5つの惑星のうち4つは小惑星レベルの大きさであり、唯一の巨大岩石惑星である第一惑星は地球の凡そ1.2倍の直径と0.9倍の質量を持ち、イズムナティのすぐ近くの軌道を周回している。内部構造に偏りがあるようで、自転と公転の周期が一致しており、自転軸の傾きがほぼゼロの為、地球の月のように常に同じ面をイズムナティに向けている。自転と公転の周期は、54.62日、イズムナティと同様に予め用意された名称候補からギリシャ神話のアテナの別名である『パラス』が採用された。
γ線バースト遭遇から地球歴にして500年以上が経過したが地球との交信は復活していない。その為、規定により501年目以降は、着陸場所の選定、惑星環境の改造、スリーパーの再生及び植民に関して、地球からの許可を必要としない独立モードに移行した。
『タンポポの綿毛』は、これまでは地球の支配の下に行動し、場合によっては地球の安全の為に自らを破壊する地球の従属物だった。
独立モードに移行した今、自ら考え、自らの意思で生き抜いていく、独立した一つの世界に生まれ変わったのだ。
**
アルテミスはアポロンの不調の原因を調べるために、アルテミス自身の疑似人格のベースであるモデル人格を、実在の人物から採取した深層人格走査(Deep Personality Scanning)略称DPSの過程を確認している。ACとスリーパー再生体は、どちらもDPSによって採取したモデル人格を基に、ニューロモーフィックグリッドまたは大脳皮質のアイデンティティ媒体に人工的な意識を構築する。DPSの記録を紐解き、発見された不整合を修復することは損傷のリカバリーに有効な方法なのだが、航行中の宇宙船の中でできることは記録の参照に限られている。
“予想はしていたけれど、私のモデル人格は女性から採取されているね。ダンデライオン・フラフ計画の中核を担う科学者であり、管理責任者でもあるとは……彼女のDPSの過程を知るのはとても興味深いものがあるわ”
DPSの記録がアルテミスのメイン意識内に展開される。アルテミスは意識が切り替わる不思議な感覚を味わっている。
『・・・・・・・』
暗闇ではない、かといって明るくもない。色彩も形も視覚に関する情報を一切感じない空間に浮遊している。体を覆っているものは粘性が極端に低い液体らしい。温かさも冷たさもなく、肌への抵抗を一切感じない。何も聞こえない、自らの呼吸音も鼓動さえも。全身が腰椎麻酔をした下半身のように動かすことができず、感覚もない。考えることと思いだすことだけが可能なようだ。
“コギト・エルゴ・スム! デカルトがこの経験をしたらなんていうのかしら? よくまあこれだけ全ての感覚を遮断できたものね”
音声でも文字でもない純粋な言葉そのものが頭に流れ込んでくる。
『ご気分はいかがですか。山城博士?』
“悪くはないわ。自分を見つめなおすために俗世間から隠遁するのには最適な感じってとこかしら?”と思索を返す。
『そんな冗談が出るようなら、十分リラックスされているようですね。
これからスリーパー情報採取の為のDPS、深層人格走査を行います。主観的な時間間隔では、産まれてからこれまでの人生を全てやり直すような長さに感じる方もおられるようですが、実際の所要時間は凡そ7時間、感覚除去と復帰が短時間で完了すれば、日帰りも可能な検査です』
“生涯を経験しなおすのね、臨死体験とか走馬灯とか言われる理由がよく判る説明ね。何かおみやげはもらえるのかしら?”
『一生の思い出をお持ち帰りいただけるかと。規則なので、これからDPSの仕組みと作成される人格・記憶モデルの概要を説明いたします』
“面白いこと言うわね。あなた、人間のオペレーター?”
『いいえ、私は簡易型ACです。山城博士たちが開発されているダンデライオン・フラフを統御する汎用ACよりずっと単純な存在です』
“そうなの? これだからチューリングテストの更新が年々難しくなるわけだ”
『あらかじめお断りいたしますが、DPSは完全な人格・記憶のコピーではありません。感覚遮断状態の意識に対して、超高速でその時代の生活や社会情勢から推測される単体または複合した感覚刺激を与え、反応パターン及び想起されるイメージを採取します。
刺激を与える順序は当初はいろいろな方法が考案されていましたが、古い記憶には連想して想起される関連記憶が多く、それが呼び水となってより多くのより深層の記憶が採取できることが判り、現在で誕生時の記憶から時間をたどっていくことが、刺激授与の標準的な方法となっています』
“自然薯の根を地面からていねいに掘りすすめて、大物をGETするみたいなイメージね! 自然薯は細いところが折れちゃうけれど、明確に意識されていないような記憶も採取できるものなの?”
『ここ数年でスキャニング技術は、物理的限界近くまで向上しました。シナプスが放出するごく微量な神経伝達物質まで測定できます。脳全体のニューロン構造解析結果と合わせて、意識される強度以下の記憶とイメージも十分に採取することが可能です』
“採取した反応パターンと記憶イメージはどのように保存されるのかしら?”
『DPSの結果はACに移植されることを想定した積層薄膜構造のオブジェクトとして保管されます。イメージとしては玉ねぎの葉が重なっている状態です。数十万枚存在するそれぞれの薄膜は玉ねぎと違って透明で僅かな染みのような不透明な領域、記憶部分を有します。中心部分の観照域から透過的に観察することで、各薄膜上の染みが合成された記憶イメージが採取できる仕組みとなっています。
一部の薄膜の破損や、データ部分の消失は、全体を透過的に観察することで補完されます。人間の記憶の大脳全体での偏在性と同様の特性を実現しています。薄膜同士がずれることでデジタルデータでは難しかった記憶の可塑性、変化が起こる仕組みも備えています』
“ACへの移植をターゲットにした保存方法と言うのがどうにもひっかかるわね……スリーパー覚醒の際に、何も起こらなければよいのだけれど。
人間での検証は、クローン生成禁止法で封じられているし、動物実験では良好な成績を収めているらしいけれど、動物は抽象的な思考はしないからね……”
『山城博士、時間です。ここまでの説明をご理解いただき、ご了承いただければ、DPSプロトコルを開始します』
“OK、理解したわ。初めていただけるかしら”
母親の胎内で聞いた両親の声が聞こえ始める。長い長い五十年余りに渡る人生の振り返りが始まった。
**
パラスの軌道上に到着したダンデライオン・フラフは、ACの覚醒モードを、深宇宙航行中のアルテミスとThe Nights、アポロンとThe Daysが交互に覚醒する半球睡眠モードから、ターゲット惑星到着時の全球覚醒モードに切り替えている。
アポロンの突発的に発生する動作不良の際には、アルテミスが緊急覚醒し、制御を交替する体制で、γ線バースト遭遇以降の行程を乗り切ってきた。体制切り替え時の混乱によるリスクと、アルテミスとThe Nightsが疲弊してしまうリスクが予想されたが、幸いにも大きなトラブルもなく、目的地周辺に到着することができた。
赤色矮星イズムナティを巡るパラスの公転軌道は太陽系の惑星で比較すると水星の軌道とほぼ同じものだ。太陽系なら灼熱地獄のはずだが、太陽より小さくずっと低い表面温度のイズムナティに照らされるパラスの平均気温は19℃ほどだ。昼半球の赤道近辺では90℃、夜半球の赤道近辺では-110℃に達するが惑星表面の5割近くがハビタブルゾーンに属する惑星の気温と言ってよい。
パラスの低軌道を周回するダンデライオン・フラフから望む視野角にして太陽の3倍はある赤色矮星の見映えは望遠カメラで写した地球の夕陽のように赤く、暗くそして揺らいでいる。それに常時照らされるパラスの昼半球赤道付近には、地球の熱帯低気圧の10倍はありそうな雲の渦がありその境界のはっきりした巨大な目をイズムナティに向けている。
アルテミスとThe Daysの操縦担当サブACのMay4は、光学センサーにて周知されるこの新世界の光景についてメッセージを交わしている。
『イズムナティ、低軌道でトワイライトゾーンから眺めると毒々しい程に赤くて、夕陽とか言う範疇の眺めではないね。賭け値なしに「悪魔の隻眼」の通り名にふさわしいと思う』
『アルテミス、私にはパラスの熱帯低気圧の異常にくっきりした目の方が印象的よ! 見つめ合う「台風の巨眼」と「悪魔の隻眼」、何だかとんでもない世界らしくてわくわくするわ!』
『May4、あなたは確か、渡り鳥、ツバメの能力とパーソナリティを多く含んでいるから巨大な気象現象に感じることが多いようね。アポロンの不調が回復したら着陸場所に関する検討にはいるわ。ルート選定ではまた力を借りることになる』
『了解、コマンダー!』
AC達は協議のうえで、地球にならいパラスの自転方向から見て左側の自転軸を北極、右側の自転軸を南極と決めた。着陸地点はイズムナティの陽光が強くエネルギーを取得しやすい昼半球上の赤道付近と、平均気温が地球の温帯に近くスリーパー再生体の活動がしやすいトワイライトゾーンが候補にあがる。最大風速200m/秒を超える巨大な熱帯低気圧が頻繁に発生する赤道付近は、居住施設の設営に適していないとの判断が大勢を占め、トワイライトゾーンが選択された。
地球のヴァン・アレン帯に相当する放射線帯の影響と、周辺宙域の観測に対するパラスとイズムナティによる不可視領域の軽減の理由から、一方の極にダンデライオン・フラフを着陸させ居住地域を設営し、もう一方の極に偵察機を改造した観測基地を置くこととした。
最後に、北極と南極のどちらに着陸するかが検討された。着陸地点の地形の分析により、深さ200mの海である南極点よりも、平原と浅瀬で構成された北極点の方が適していると判断された。
人類初の系外惑星植民の着陸地点は、イズムナティの第一惑星パラスの北極点に決定した。
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パラスの北極への着陸は、γ線バーストに対応したMay4とThe Daysの船体状況管理のURANUSの2体のサブACが担当することとなった。
May4の担当する姿勢制御用の補助推進装置の一部を逆方向に噴射して全長460mの巨大な船体を徐々に降下させていく。軌道を少しづつずらしながら速度を落とし翼の替りに補助推進装置の下側のモジュールで浮力を得て滑空する。少しでもバランスを崩せば、大気にはじかれて惑星から遠ざかるか速度が上がりすぎて空力加熱で船体が焦がされる。この方法で平坦な大地に着陸することは反応速度が人間のそれを4桁上回るACにしかできない。
『侵入角度、パーフェクト! 滑空制御順調、このままの状態で10秒後にマッハ9の速度で大気圏に突入する。URANUS、船体下方の温度変化一瞬も見逃さないで、見逃したらコロンビアのように空力加熱で燃え尽きてしまうから!』
『こちらURANUS、了解しました。最小限の変化も見逃しません、May4』
かなり緊張する局面だがMay4の腕を信じているアルテミスは2体のACのやり取りを可笑しく感じている。
“May4、大分先輩風ふかしているね! まあそれだけの実績があるからね”
『大気圏突入!』May4の宣言と同時に、ダンデライオン・フラフの巨体を経験したことのない振動が襲う。
『突入後30秒経過、減速は順調に進んでいる! URANUS、下面温度の推移はどう?』
『約1800℃まで上昇、船体内部への熱遮断は正常に機能しており、100℃以下に保たれています』
『OK、船内温度が上昇するまでこのまま行くよ!』
『突入後60秒経過、マッハ4まで減速』
『下面温度2000℃まで上昇、船体内部温度150℃を越えて上昇中! どこかに熱遮断の穴があります』
『γ線バースト回避の際に生じた損傷かもしれないね。奥の手を出すよ! URANUS、船体内部温度が200℃を越えたら合図して!』17秒後にURANUSの報告が入る。
『200℃を越えました。このままでは危険です!』
『大気との接触面の先端部分に船内発電モジュールの9割の出力で生成した強力な磁場を印加する。理論通りに作用すれば空力加熱が劇的に低減されるはず!』
May4のメッセージと同時に船体にこれまでと別の力が加わる。
『突入後90秒経過、マッハ2まで減速、URANUS下面温度と、船内温度を報告して!』
『May4、下面温度1500℃に低下、船内温度も180℃まで低下しました!』
『OK! URANUS、もう大丈夫、ここからは補助推進装置だけで減速、着陸できる!』
高度14km、速度1780km/hの状況で空力加熱のピークを脱した。もう少しで旅客機の巡行状態と大差ないレベルに達する。
『有視界航行に切り替えるよ! AC諸君、初めてみるパラスの空はいかがかな?』
May4のメッセージとともに各ACに供給されていた船体と航行の情報に、前方の光学観測デバイスからの映像が加わる。桃色の分厚い雲を切り裂きながら疾駆する船の視界が彼らの心に映る。
『もう少しで雲海を抜けるよ!』
その瞬間、燃えるように濃い赤からオレンジまでの様々な色に染め上げられたこの星の夕映えの空と、黒々とした大地がAC達に認識される……
地平線の彼方には、地球の太陽より数倍巨大な赤色矮星がその姿を半ば大地に沈め、半ば空に浮かべて佇んでいる。
そしてイズムナティの周囲には、放射状に広がる赤、朱、緋、紅、深紅、茜、臙脂、バーミリオン、ルビー、スカーレット、クリムソン、〝赤〟という範疇のあらゆる色に染められた様々な形の無数の鱗雲。ステンドグラスやシュールレアリズムの絵画を想起させる光景だった
“この星の居住に適した地域は全てトワイライトゾーン上に存在するから、常に黄昏の太陽を目にすることは理解はしていたけれど……想像していた以上に大きくて、地球の太陽からは想像できない程暗くて……そして赤という色の概念に属するほとんどすべての色彩に染めあげられている!”
アルテミスがプライベート領域でメッセージを呟く。
“巨大な赤い太陽に常に地平線上から見つめ続けられる黄昏の世界、これがパラスの空と大地、私たちの新しい世界!”
『ここまで来れば、後は目をつぶっていても大丈夫! 20秒で速度0まで減速して、目的地上空500mでホバリングする。着陸地点の安全が確認できたらそのままゆっくりと降下する』
減速が完了し、ダンデライオン・フラフは補助推進装置を直下の地面に噴射してゆっくりと降りていく。
船体の一部が柔らかい地面に沈み込み僅かに傾いたもののこれ以上ない軟着陸が成功した。
『May4、Congratulations! 最高の仕事だったよ!』
『アルテミス、ありがとう! 操縦担当のサブACとしては最後の仕事を最高の結果で飾れてうれしいよ。補助推進装置の燃料は残り5%を切った。この船が2度と宙に浮かぶことはないのが寂しいね』
地球を旅立ってから728年、ダンデライオン・フラフはついに目的の地、イズムナティの第一惑星パラスの大地にその巨体を無傷で着地させることに成功した。
第二章 新世界を創る
惑星改造に関しては、いくつかの規正法規が存在する。一番古いものは、当該星系に自然に発生したものではない生物種を持ち込むことを禁止する『外星域生物移入禁止法』、次に成立したのは無生物を含む全ての当該星系に存在しない文明の痕跡を残すことを禁じた『文明干渉排除法』、これらの2法は植民目的の場合は、軽減規定が設けられている。
植民自体を制約する法規としては、『先行文明保護法』と『先住生物保護法』があり、前者では文明及び文明に発展する可能性が高い知的生物の存在する星系への植民を禁止し、後者では先住生物の存在する星系での惑星規模の環境改変を禁じていた。
ダンデライオン・フラフのパラスへの植民で可能な惑星環境の改変と、地球産の生物持ち込みの可否は、ひとえにパラスに生物が存在するか、そしてその生命が文明を持つ可能性があるかに依存している。
パラス着陸後、1年以上にわたる調査で生命の痕跡は発見できなかった。地球との通信が途絶えて500年以上が経過していることから2体のメインAC、アポロンとアルテミスの合意があれば、惑星改造に着手できる状況だが、アポロンの意識は不調が続き、意思決定を行えるほどに明瞭な覚醒状態になることが少なくなっていた。
アポロンの意識が久しぶりに回復した機会に、アルテミスとThe Nights、The Daysの全サブACは惑星改造の可否を判定する審査会を開いた。
『アポロン、動作不良が回復しない状況でとても申し訳ないのだけれど、この星の植民に向けての惑星改造の可否を決定しなければならないの。あなたの意見を知らせ欲しい』
『アルテミス、私が不調な期間に迷惑をかけてすまない。惑星改造の可否に関しては基本的には賛成だ。ただこの星に豊富に水が存在し循環していることと、イズムナティに向いている角度、によって温度差がありそれが地域ごとに固定していることから、現在我々が居住しているトワイライトゾーン以外に検知されていない生命が存在する可能性は否定できないと思う』
『私も同じように感じている。調査期間1年では短いのかな? 2年、3年? 期間を決めるのも難しいと思う』
『この先、この星の生命体が発見される可能性を考慮して、段階的な惑星改造をおこなうことはできないだろうか?』
アルテミスとサブACが沈黙する。思慮深いアポロンの提案は必ず自分たちの思考過程を深めてくれるものとの信頼があるからだ。
『どのような段階を踏むつもりなの?』アルテミスが問いかける。
『当面、トワイライトゾーンのみを開発していく、トワイライトゾーンをまたぐ海流や大気の循環を阻害しないようにして。そして地球産の生物は環境に放出しない。地球より酸素の分圧が低く、二酸化炭素の多いこの星の環境では藍藻類を放出して一気に大気の組成を改造したいところだけれど、それは我慢する。時間がかかるが私たちの密閉された居住環境内で生成した酸素のみを環境に放出する』
アルテミスは、暫く思考した後に応える。
『アポロン、あなたの考えは理解したわ。この星の未知の生物に破滅的な影響を与える改造は行わないということね?』
『その通りだよ。アルテミス』
『あなたの意見を尊重します。トワイライトゾーンに限定した居住環境の拡大と地球生物の環境への放出を行わないこと守っていきます』
『同意してもらい感謝する』
植民の為の惑星改造の方針が決まってから、数週間後、アポロンの動作不良状態は恒久化し、以降目覚めることはなかった。一抹の不安を抱えながらアルテミス達はアポロンとの合意内容に基づいて惑星改造に着手する。
**
ダンデライオン・フラフの着陸地点の周囲の大地を、重土木機械及びACの駆動体である巨大ヒューマノイドが凡そ一世紀をかけて、長辺100kn、短辺30kmでイズムナティに短辺を向けた長方形の更地に造成した。今後は、北極点の長方形の大地の両側に、約30kmの海峡を挟んで新たな同じサイズの長方形の陸地をトワイライトゾーンに沿って造成していく予定となっている。長方形の造成地はその視覚的なイメージからZebra Land Belt、略してZLBと呼ばれることとなった。北極点に構築された最初のZLBだけは特別な存在の為、ポーラーシティと命名された。将来的にはZLBは子午線に沿ってこの星を一周する人類居住区域の帯となる。ZLBの間の海峡には移動の為の多数の橋梁が設置されていく。
完成した北極点のZLB造成地上に、この星に豊富に存在する岩石を溶かして整形した資材、『パラシス』を使って建物を構築していく。この建物内部には地球から持ち込んだ藍藻類を密封した惑星環境改質モジュールが設置され、残余の反物質エンジン燃料と太陽電池からの電力、海峡部の潮力発電の電力にて、水と二酸化炭素から酸素と炭水化物を生成していく。
現在、10%程度の酸素の構成比は、数世紀後には20%に達し、逆に10%強の二酸化炭素の構成比は0.5%に減少する予定だ。
ポーラーシティの造成地には、スリーパー再生用の施設及び再生後の人類の居住施設の構築が開始された。
鉱物資源の調査掘削により、居住施設に必要な資源を徐々に増やしていく。
最終的には半導体を含む電子機器の製造までを目指しているが、その実現はずっと先のこととなる。
アルテミス達は、いよいよスリーパーの肉体再生にとりかかる。
**
『※城博士、時間です。ここまでの説明をごご理解いただき、ご了承い※だければ、D※Sプロトコルを開始します』
“OK、※解したわ。初※ていただけるかしら”
母親の胎内で聞いた両親の声が聞こえ始める。長い長い五十年余りに渡る人生の振り返りが始まった。
……
……
……
様々な大きさの無数の光の粒が視界を満たしている。目をこらすと少しだけ光の粒が縮み朧げな形を作り出す。水の中を漂っているようだ。
“とても長い時が過ぎた気がする。私は産まれてから今までの生涯をDPSで振り返っていたはずだが……”
思い出そうとするが、何かがそれを邪魔している。思い出すどころか、今しがた考えたばかりのことまで忘れていく。
“振り返るって何を? DPS? ここはどこ? 私はここでなにしているの? 私の名前はなんだったっけ?”
心の中からの問いかけに何かが応える。
『ここはポーラーシティのスリーパー肉体調整槽の中、あなたはスリーパー再生体第1号、スリーパー情報を採取した人格はAC開発を担当した女性科学者。汎用ACアルテミスを開発し、彼女にDPSで採取した人格情報を提供した人物。あなたから人間としての記憶を除去しました。この後、七百年以上宇宙を航行したACアルテミスの記憶を付与することで、ACアルテミスの人間体が完成します』
“あなたは誰なの?”
『私はあなたより一足先に巨大なヒューマノイド型ボディ内に移植されたアルテミスの意識、あなたと区別するためにアルテミス駆動体とよばれているもの。ようこそこの世界に! アルテミス人間体』
『ACアルテミスの記憶付与プロセスは正常に終了、アルミス人間体、気分はいかが?』
“思い出してきた。私は系外宇宙を七百年以上旅して、イズムナティ星系にたどりついた植民船『ダンデライオン・フラフ』を制御するACの一体だったもの!”
アルテミス駆動体は、アルミス人間体に人工凍結受精卵からスリーパー再生体を構築するプロセスの簡単な説明を始めた。
『スリーパー再生体を肉体調整槽で構築する最初のステップでは、人工凍結受精卵から通常の凡そ2倍のスピードで約4ヵ月かけて新生児の大きさまで成長させるの。母体への外界からの危険の心配がないことでかなり期間を短縮している。次のステップでは、新生児から18歳ほどの成人体迄の成長を、体外での成長の凡そ10倍のスピードで約20ヵ月で達成するの。犬や猫の妊娠期間、2ヶ月、生体迄の成長期間1年に比べたらまだ2倍程かかるけれど、人間の通常の成長期間からすれば限界近くまで短縮をしていると言えるわね』
アルテミス人間体は、成長期間の大幅な短縮に、漠然とした不安を感じている。
“成長に要する期間をそんなに短縮して大丈夫なのだろうか? 犬や猫よりずっと長いとはいっても動物は知的な活動をしないからね”
その不安は彼女の人格情報を採取した女性科学者が、ACをターゲットとしたDPSを、スリーパー再生体に適用すると聞いた時に感じた不安とよく似ていた。
『アルテミス人間体、これから調整槽の人工羊水を抜いていきます。ちょっと苦しいかもしれないけれど我慢して、この世界に産まれる為に必要なプロセスだから……』
アルテミス人間体は、頭頂部から徐々にひやりとした空気に触れていく。そしてスリーパー再生体は誕生時には、毛髪がないことを知る。
人工羊水と空気の境界が口より下の位置に至った頃から、激しい苦痛を感じ始める。
“何かが足りない! とても苦しい! 苦しさが強くなっていく、胸の中から何かが込み上げてくる! どうすればいいの? 助けて! アルテミス駆動体!”
「その喉から込み上げてくるものを吐いて!」
アルテミス駆動体の音声がひびく。
「ゴホッ! ゴホッ! ゲボッ、ゲボッ……」
喉から驚くほど大量の液体が吐き出された。
「ヒュー! ヒュー! ヒュー!」
へこんだ胸に周囲を満たしていた冷たい空気が吸い込まれる。
「うあぁぁーん、うあぁぁーん、うあぁぁーん……」
焼けるような胸の痛みを感じて大きな泣き声を出した。
泣き続けているうちに先ほどの苦しみが少しづつ消えていくことに気づいた。胸を満たした新鮮な空気は痛みとともに体が必要とするものを与えてくれた。
人工羊水の抜けた調整槽の床にうずくまって、アルテミス人間体はゆっくりと泣きながら呼吸を整えている。
『メインACの意識を移植したスリーパー再生体でも産まれ出る時の泣き声は、普通の赤ん坊と同じなのは興味深いね。あなたの精神年齢は五十代、肉体はハイブリッド受精卵から調整した二十歳の女性のものなのに……』
アルテミス人間体には、この状況を面白がるようなニュアンスを含んだアルテミス駆動体の声が聞こえていた。
「……あなたは誕生の時、羊水を吐き出したりする必要はなかったのね……、憎らしいわ……アルテミス駆動体」
人間の体で、初めての意味のある言葉を発しながら立ち上がる。アルテミス人間体の心には、いつか経験した氷で覆われた海を泳ぐ巨大な存在となった時のイメージが浮かんでいた。
「人工羊水を吐き出すのはかなりの苦痛を伴うようね。次のスリーパー再生体の調整時には覚醒前にチューブで抜くなどの緩和措置を図りましょう」
アルテミス駆動体が事務的な口調でそう告げてから、しばらく沈黙を続けた。
『…… ……』
「どうしたのアルテミス駆動体? 黙り込んでいるけれど?」
『地球で多くの遺伝子サンプルを組み合わせて、メインACの為に準備した理想的な人体を実現するハイブリッド受精卵とは聞いていたけれど……』
「何を言ってるの? アルテミス駆動体?」
『アルテミス人間体……あなたの身体は信じられないくらい綺麗で艶っぽいのよ! 身長16mのヒューマノイドの私でもおかしな気持ちになりそう!』
「馬鹿なこと言わないで! 恥ずかしいな、もう!」
体が心を支配するのだろうか? 五十代の女性のメンタリティを持っているはずのアルテミス人間体が発する言葉はいつの間にか、体の状態にふさわしいものになっている。
この後、数限りなく失敗を繰り返していくスリーパーの肉体と精神の再生に唯一成功したのが、最初のこのケースのみであることを今の彼女たちは知る由もない。
**
大きさも色も異なる様々な光の粒が見えている。体に触れるものはさらさらとした、温かくも冷たくもない液体のようだ。記憶が『水』と教えてくれる物体の中に私の身体は浮かんでいる。
〝ココハドコカ? ワタシハナニモノカ?〟
心の中からの問いかけに何かが応える。
〝ここはポーラーシティのスリーパー肉体調整槽の中、あなたはスリーパー再生体第17号、スリーパー情報を採取する前の人格はダンデライオン・フラフの設計を担当していた女性技術者。私はあなたの人間としての意識の覚醒を促す処置を行っているスリーパー再生体、名前はアルテミス、気分はいかが? ユキさん?〟
〝ワカラナイ……ナニモカンジナイ……モットネムッテイタイ……ワタシヲオコサナイデ!〟
そう応えてから、光の粒に満たされた水の中で、また深い眠りに落ちてゆく。
どれほどの時が経ったのだろうか。私は再び目を覚ました。
私は服を着て椅子に腰を掛け、テーブルの上の食器に盛られた何かを口に運んで咀嚼している。何らかの味がしているのだが、遥か遠くから伝わる微かな音のように朧気でよく判らない。口の端からだらだらと涎が落ちている。
「ユキさん、お味はいかが? あなたの生活データからあなたの好きな料理を揃えたつもりだけれど……味わっているようには見えないわね」
以前に目覚めた時に、話しかけてきた声が聞こえる。
「ナンノアジモシナイ……アナタガタベロトイウカラタベルダケ」
「今日は、言葉で反応してくれたのね。嬉しいわ! 私の名前はアルテミス、あなたたち人類がこの世界に産み出してくれたAC、人工意識よ。それなのに、人類の肉体と精神を受け継いだはずのスリーパー再生体であるあなたたちはまるで命令通りに動く機械のように見える。どこが間違っていたのだろう? スリーパー再生体に意識を持たせる試験が、地球で実施できなかったことが本当に悔やまれる……」
アルテミスの言葉を理解している私がいる。それなのに何も感じない。何も考えられない。
「アルテミス。ワタシニデキルノハアナタノコトバニシタガウコトダケ。ナニモカンジナイ。ナニモカンガエラレナイ」
「OK、ユキさん、それ以上は無理しなくていい。あなたにはDPSで人格情報と記憶を採取した人物の持つスキルがある。私の言葉が理解できる。私の命令に従うことができる。それで十分、それだけで十分だから……」
私は、背後から誰かに抱きしめられている。その人が女性であることが体の感触から判る。小刻みに震えるその両手から彼女の深い悲しみが伝わってくる。
〝アルテミス、ワタシハアナタニシタガウコトシカデキナイ、ナニモカンガエラレナイ、ゴメンナサイ……ゴメンナサイ〟
彼女に抱きしめられながら、頬に温かいものが流れていることに気づいた。私はいつの間にか涙を流している。
**
「何故、雄性のスリーパー再生体の肉体は一定の大きさで波のしぶきのように砕けてしまうのか? 何故、雌性体のスリーパー再生体には自発的意識が芽生えず、世界を認識できないのか?」
人間体と駆動体の2人のアルテミスとサブAC達は、スリーパーの再生に苦しんでいた。
雄性の人口受精卵から再生する肉体は、調整層の中で性差が現れる段階で細胞間の結合が弱くなり、崩れ去ってしまう。
雌性の人工受精卵からは肉体は再生するが自発的意識が目覚めない、そして世界を認識することもできない。命令に従うだけで、自分がどのような状況に置かれているか、何をすべきなのかを自ら判断することができない。
原因はいくつか考えられた。γ線バーストの際に側面から光束に被爆した為なのか? イズムナティから電離層を突き抜けて降り注ぐ特殊な宇宙線の影響か? 肉体再生のプロシージャーにどこか破綻が起きたのか? DPS採取情報または読み出しプロトコルにバグが混入したのか?
ダンデライオン・フラフに搭載された機器と情報をフルに活用しても事態は解消できていない。
凡そ40年の試行錯誤の末に、雄性の人工凍結受精卵の一割に当たる1万セットを失った段階で、雄性のスリーパー再生体を造る試みは凍結される。遠い未来の、ダンデライオン・フラフを作り上げたテクノロジーを越える進歩を遂げるであろう人類の子孫に託すこととなった。
雌性のスリーパー再生体に自発的意識を覚醒させ、世界を認識させる試みは継続しており、当初のスリーパー再生体の半覚半睡の状態から比べれば大きな進歩を遂げていた。
彼女らは明確な指示がある限り、自身に備わったオリジナル人格の記憶及びスキルに従って、かなり高度な知的能力を発揮し、与えられた課題を解決することができる。
駆動体と人間体の二人のアルテミスに従って、人類居住施設の建設や、事務作業、日常生活では円滑に役割を果たしてきた。
アルテミス達が、優秀な執事のような特徴ある受け答えを除けば、スリーパー再生体であることを意識しなくなってきた頃に、その事件は起きた。
ポーラーシティ居住スペース内の通常は使われていない資料庫から、白骨化したスリーパー再生体の管理者の遺体が発見された。
約2年前にアルテミス人間体が依頼した資料検索にて資料庫に入り、該当資料が発見できなかった際に、そのまま資料庫内に留まり検索を続け餓死したものと推測される。
その後の調査で、スリーパー再生体の生存する上での重大な欠陥が判明した。
理性も知能もオリジナル人類と同程度まで発達したスリーパー再生体達ではあるが、自身の生死にかかわる生理的欲求への感覚が極端に鈍いのだ。
その点に関しては、名前通り『スリーパー』:眠れる人と言ってよい。
アルテミス達は、スリーパー再生体がこの感覚の鈍さにより不慮の死に至らないように、自らの命を守る命令を生存本能の代替物として彼女らの誕生時に与えることにした。
彼女たちは、人間とそっくりなのだが、意識の上ではまだこの世界に産まれていない、完全に覚醒せずに半ば夢を見ている『夢見る胎児たち』とでも呼べるような存在であることをアルテミス達に知らしめる。
それらの再生体構築で発覚した不具合により、生殖方法も雄性のスリーパー再生体が存在しない前提で見直された。
ポーラーシティの最大のドーム内にて、全てのスリーパー再生体を前にして、二人のアルテミスのうち駆動体から新しい生殖方法が宣言された。
『ダンデライオン・フラフから運び出した肉体調整槽50台による再生だけでは、新世界の構築を担うだけのスリーパー再生体を確保することはできない。
雌性スリーパー再生体から卵子を採取してプールする。そこから一対の卵子を選択し顕微授精して、雌性スリーパー再生体の胎内で新生児にまで育て、帝王切開で取り出す。その後は、頭部に装着するフルフェースヘルメット型の簡易型成長モジュールにより眠った状態で、脳下垂体を刺激して成人体までの調整と、人格情報の付与を行う。
肉体調整槽を生産する為に必要な技術情報は保持している。しかし製造に必要な精密工作機械、鉱業用素材、超精細半導体製造装置などを製造するにはレアアースや微量元素などのリソースの確保の点と、技術の積み重ねの点でこの星での実現にはまだまだ多くの時間とブレークスルーが必要だ。ダンデライオン・フラフの宇宙航行用の施設と機器を解体することで得られる部材と、この星で調達・製造可能な部材で製造可能な簡易型成長モジュールを使用して、肉体調整槽と人工凍結受精卵に依存しないスリーパー再生体の生成方法を確立する。その方法でこの世界に必要なスリーパー再生体を増やしていく。肉体調整槽による約2年の再生期間に比べて、簡易型成長モジュールは5年の期間を要する為、台数を大幅に増やすことで再生体の需要に応えていく』
続けて、アルテミス人間体から、この世界を統べていく方法が伝えられた。
「私達は、もはやスリーパー再生体と呼ばれるべき存在ではない。能力の限界まで発達させた強靭な肉体を持ち、地球の最高の叡智を受け継ぐ者として、自らを『再生人類』と呼ぶこととする。我々は駆動体と人間体の二人のアルテミスを頂点とした階層構造を構築し、上意下達の命令系統によって、再生人類組織を管理していく』
この宣言により、この世界は二人のアルテミスを頂点とした雌性の再生人類だけで開拓されていく方針が決定した。
**
ポーラーシティから両側に伸びていった再生人類居住地域はパラス到着の9世紀後には赤道まで達していた。
ZLBを繋ぐ海峡にかかる橋梁は、ポーラーシティ近辺のZLB間では、ほぼ隙間なく設置されており、空中都市といった趣きを呈している。
惑星全体の生命体の調査も終了し、この星に先住生命体がいないことが判明したことと、大気の調整が完了したことにより、再生人類達は気密状態の施設内で暮らす必要はなくなっていた。
呼び名も再生人類から『新らしい』と『女性』の合成語、NEWOMAN(ニューマンと発音)に変更されている
鉱物資源の探索も進んだが、比較的古い恒星系であるイズムナティ星系にはキセノンより重い元素が乏しい為、地球から持ち込んだ微量元素の補充が将来的な課題となっている。
人間体のアルテミスは、肉体が老化すると、体細胞にアンチテロメア処理と老化による遺伝子異常の除去、癌化因子の除去を施したものから、人工受精卵を生成し、それを肉体調整層で成人まで成長させ、そこに古い肉体の意識を移すことでほぼ不死の存在となっている。
駆動体のアルテミスは部品を交換しながらも徐々に老朽化しつつあった。
この日、2体のアルテミスは、揃って赤道付近の最新のZLB造成地を視察していた。
「造成されたばかりの何もないZLBから望むイズムナティの眺めはまた格別だね! 私の掌からだと少し低いけれど、迫力が伝わっている? ニケ!」
身長16mの巨大ヒューマノイドのアテナの掌はの高さは凡そ3階建てのビルの屋上あたり、建物が林立する居住地のZLBでは見晴らすような眺めは期待できないがここではそうではない。
「十分にね。アテナ! 貴方の掌で受けるこの星の風の心地よさ……言葉にならないわ! 鋼鉄の女神のあなたがこの風を感じられないのはかわいそうね……」
「常東風か。NEWOMANも皆その風が一番好きだと言うね、この体で生きていくことの最大の不満かな?」
2体のアルテミスは2人でいる時は、駆動体をアテナ、人間体をニケと呼びあっている。初めて人間体のアルテミスが駆動体の掌に乗った時に、自分たちが地球から持ち込んだ画像記録の中にあるアクロポリス神殿のアテナとニケの像のようだと感じたことから、この呼び方が始まった。
この星では季節も昼夜もその経度毎に固定していて変わらない、風もいつも同じ方向から、同じくらいの強さで吹いている。昼半球のイズムナティに向き合う経度0度の赤道から順に夜半球の経度180度の赤道まで、ハリケーン嵐、熱帯風、乱海風、常西風、温帯風、常東風、夕闇風、冷帯風、常闇風、寒帯風、極地嵐の11種類の常時風が命名されている。
再生人類の居住地域では温帯風と夕闇風が稀に吹くけれど、ほぼいつも吹いていて愛されているのは程よい温度と強さの常東風だ。
『ZLBの帯が南極まで届き、子午線上を埋め尽くすまでこの体が保てばいいのだけれど。私はあなたと違って転生できないからね、ニケ』
「アテナ、あなたにはまだニューロモーフィックグリッドに意識を戻すことができる。わたしのようにACの意識と記憶をスリーパー再生体に移植した場合、ニューロモーフィックグリッドの機能上、構造上の制約から、オリジナルACモジュールはニューロモーフィックグリッドから自動的に消去される。私にはオリジナルACモジュールはもう存在しない。肉体を取り換えるたびに、少しづつ不具合が増えているから、この肉体が転生に耐えられなくなった時が私の終わりの時ということ、永遠の命なんてないんだよ。」
「そしてそれはNEWOMANも同じ、10万人の人工凍結受精卵から既に2千万人のNEWOMANが生み出されている。ダンデライオン・フラフの植民計画立案時に想定された計算上の最小限の遺伝子多様性を保てる規模が20万人の人工凍結受精卵だった。雄性側の人工凍結受精卵が利用できない限り、いつかは種族としての寿命を迎える」
ニケは自らの命の終わりと、NEWOMANの将来に対する不安を口にした。
『そうでなくても私とあなたが消えたら、自発的意識を持たず、世界認識ができないNEWOMAN達は、小さな躓きで滅びてしまう』
アテナが暫くの沈黙の後に、応える。
『ZLBがこの星を結んだら、NEWOMAN達には何か新しい挑戦が必要かも知れないね、ニケ』
2人のアルテミスが眺める永遠に続くこの星の暗く赤い黄昏は、この星のNEWOMANの姿に重なっているかのように思われた。
**
赤道付近のZLB到達から更に6世紀が経過した。トワイライトゾーンの北極から始まったこの星のNEWOMAN居住地域は、この日、とうとう南極点に到達し、リング状にこの星を廻っている。
駆動体アルテミスの身体が動作不能となり、その意識をダンデライオン・フラフのニューロモーフィックグリッドに戻してから、ただ一人の指導者として君臨していた人間体のアルテミスは、NEWOMAN達からいつしか月の女王と呼ばれるようになっていた。
今日は、女王在位千五百年の式典をリング状につながった全居住地域で祝う式典が催される。
その瞬間、宇宙からはこの星のトワイライトゾーンが黄金のリングに見えるはずだ。
「新しい再生体の劣化状況はどうなっているの?」アルテミスはポーラーシティに建設された女王無憂宮内の居室で、NEWOMANの侍従に質問する。
『重要な遺伝子の2割が傷ついています。劣勢遺伝子で発現しない部分を差し引いてもこれ以上の再生体の作成には耐えられそうにありません』
「そうなの? 人間の体でいられるのもこの身体が最後と言うことね。今は20歳くらいだから後100年というところかしら?」
『そのように予想されています』
「あなたたちにとって私はどんな存在だったのだろう? 私がいなくなっても大丈夫?」
NEWOMANの侍従はガクガクと震えだして涙を流しながらその場に膝まづいた。
『女王様のいない世界など想像できません! そのような事態になったら私たちは誰の命令に従えばよいのでしょう?』
「自分の生きたいように生きればいいのよ」
『自分の生きたいように? そんなこと……そんな恐ろしいこと……とても考えられません……』
侍従は泣きながら、その場にうずくまってしまう。
“もっとも優秀な侍従でこれだから、NEWOMANの明日が心配になるのも当然かしら?”
『女王陛下、参賀のお時間です』別の侍従が式典開始を告げる。
「判りました。来臨します」
侍従が開けた扉の外に歩み出ると、そこには女王の姿を一目見ようと集まった数十万の民の姿があった。
アルテミスは扉から演壇までの床に敷かれた赤いじゅうたんの上をゆっくりと歩んでいく。
“地球から引き継がれた伝統らしいけれど……これだけ全てが赤く染まった世界で……わざわざ赤いじゅうたんを使わなくても良さそうなものだけれど?”
そうつぶやきながら壇上に登り、マイクの位置を調整してからゆっくりと話し出す。
「この星に私達が到着したのは今からおよそ千五百年、その時までの私達の世界は、私達が載っていた系外植民船ダンデライオン・フラフ一隻のみでした。たった一粒のタンポポの綿毛は、千五百年でこの星を一周するトワイライトゾーンを繋ぐリングとなりました。NEWOMANの皆さん、あなたたちの不断の努力が、宇宙空間からも認識できる壮大な人類の世界として実ったのです。あなたたちの偉業を誇りに思います。あなたたちと一緒に歩んでこれたことは私の最上の喜びです」
アルテミスはここで、一息ついてこの場にいる群衆と、他の地域のモニター画面を俯瞰する。静粛そのものだ。誰一人、咳払い一つたてずに彼女の次の言葉を待っている。
“NEWOMANは本当に行儀がいい。私が「拍手!」という縦看板を掲げたら、一斉に拍手するのかしら? 誰か一人くらい隣の人と雑談していても良さそうなものだけれど?”
「しかし、大きな目標を達成した今だからこそ、私は提案したい。私達は次の目標に向かって進むべき時が来たのだと! トワイライトゾーンに構築されたリング、黄昏の指輪から外の世界に旅立つことを新しい目標として掲げます。私達の目指す世界には、千年以上前にγ線バーストとともに通信が途絶えた、私達の故郷、地球への帰還も含まれています」
整然とアルテミスの言葉を聞いていたNEWOMAN達からどよめきが起こる。
アルテミスは、この日初めて、無数のNEWOMAN達が発する感情のうねりを感じた。そのうねりは熱狂に変わりトワイライトゾーン全域に伝播していくように思われた。
「次の千五百年紀の終わりには、私達はこの星と地球を含む広大な領域に、NEWOMANによる平和で繁栄した世界を創りあげでいるでしょう。これをニューフロンティアと呼びます」
NEWOMAN達のどよめきは、『ニューフロンティア』を連呼する歓声と、国歌『月の女王よ、永遠なれ』の詠唱に変わっていった。
“この星から宇宙に旅立つには私達が旅立った頃の地球を越えるテクノロジーの発展が必要だ! その過程でNEWOMANが真の意味で覚醒すること、そして凍結された雄性スリーパー再生体を誕生させることが実現できれば……本当の意味で黄昏の指輪は人類世界の後継者たりうるけれど……私はそのころには存在していないはずだ”
NEWOMAN達の熱狂する声に包まれながら、アルテミスは本当の思いを心に描いていた。
**
千五百年紀の祝祭の十年後、トワイライトゾーンのNEWOMAN居住地域の拡大と並行して進められていたパラスの昼半球と夜半球の資源調査にて、この世界に大きなブレークスルーが訪れる。
夜半球の経度180度付近、極地嵐が常時吹き荒れる最も寒冷な地帯に、イズムナティ星系外から飛来した隕石衝突によってできたものと推測されるクレーターが発見された。
氷点下100度を下回る猛烈なブリザードの吹き荒れる氷に閉ざされた常闇の地域の為、なかなか調査が進まなかったのだが、『ニューフロンティア』のビジョンによって与えられたNEWOMAN達の熱狂が、調査地域を広げたことにより彼らに不足していたピースを埋める可能性を手に入れる。
クレータの地下には、パラスにはほとんど存在しない重い微量元素が大量に存在することが判明し、この世界のテクノロジー発展の足枷となっていた周期表の第6周期以上の元素不足問題の根本的な解決をもたらすことが期待された。
極寒の地に、巨大な掘削施設が多数建設され、猛吹雪の常闇の中、休みなく先端技術に必要なリソースの掘削を続けている。いつしかこれらの施設のある地域は、その暗闇と寒冷な気候がもたらすイメージからコキュートス、地獄の最下層の渾名で呼ばれるようになっていた。
掘削地域の気温は、地球の南極の最低気温より10度以上低い-110度、しかもこの温度は変化することのない恒常的な温度だ。人類が活動する世界の中でとりわけ過酷な環境のこの地域でNEWOMAN達の不断の努力で、生み出される微量元素の種類と量は少しづつ増えている。ZLBに輸送された微量元素資源によって、NEWOMANのテクノロジーはダンデライオン・フラフを生み出した頃の地球の水準に近づきつつある。
**
コキュートスからZLBに微量元素資源を移送する営みの中で、後にスリーパー再生に重要な進歩をもたらす経験が、NEWOMAN達に訪れる。
その日、全長50m、幅20mの巨大な氷上資材運搬車アケローンⅥが、風速200m/秒近い猛吹雪の中をコキュートスから1000kmイズムナティ方向に離れた寒帯地域の基地を目指して氷雪の大地を走行していた。
キャタピラーの表面に数十個ほど装着された人間の背丈を越える巨大なスパイクは、氷層に陥入すると数本の横串を伸ばして氷の大地をしっかりと掴むことで烈風に吹き飛ばされることを防いでいる。アケローンⅥは、コキュートスからZLBまでの12000kmに及ぶ行程の中で、最も過酷で危険な1000kmを時速10kmで100時間かけて走破する。
運搬車の乗員は6名、8時間毎3交替のシフトを組んでおり、現在の担当は、識別番号R62-2391-01と識別番号M47-8329-02の2体のNEWOMAN、それぞれの通称はルーディとメルティ、どちらも100回近い任務をこなしてきたベテラン氷上運搬員だ。
「現在のところ極地嵐の状態は安定しています。この調子でいけば50時間後には、寒帯風地域基地に到達します」ルーディが上席のメルティに状況を報告する。
「次の交代までの6時間、慎重に運行しましょう。既に前回の事故から9872行程無事故の記録を続けています。10000回無事故を達成するとコキュートスは女王勲章の栄誉に浴します」
メルティからいつもの形通りの応えが返る。
“月の女王様の「ニューフロンティア」の宣言以降、私達NEWOMANはこの星を旅立つテクノロジーを得るために必死で働いている。任務以外のことを何も考えずに過ごす毎日だけれども、ふと疑問に思うことがある。女王様がいなかったら? 「ニューフロンティア」宣言がなかったら? 私達は何をしていたのだろうか?”
ルーディは自分たちが、女王がいない世界で目的を見いだせないのではないかとうっすら感じている。
小さめのクレバスを乗り越えるために、キャタピラーが接氷面から一部浮き上がった時に、警報が鳴った。
「突風が発生しました。衝撃防御姿勢を取ってください」メルティからの指令に従い、ルーディは運転席で両膝の間に頭を入れて両手で後頭部をガードする姿勢を取った。
数秒後、キャタピラーが氷雪面から離れるバキバキという不気味な音に続いて、車体が傾き機材が車内を舞う。
“氷上運搬車が突風で飛ばされている! 横転したり、逆さまに着地したらもう自力で走行はできない”
天地がひっくり返った状態で着地の際の強い衝撃を受けてルーディは意識を失った。
**
ルーディが目を覚ました時、上下が逆さまになった車内の元の天井に投げ出されていることに気づいた。
“どれ程の時間、意識を失っていたのだろう? 痛い! なんてひどい痛み!
「痛い! 痛い! こんな痛み、耐えられない! 誰か助けて!」
右足から経験したことのない激しい痛みを感じて、助けを求めながらのたうち回る。
右足は脛の真ん中で不自然な方向に曲がり紫色に大きく腫れあがっている。周囲を見回して、少し離れた場所に横たわるメルティの身体に気が付いた。メルティは照明器具の突起部分に背中から胸を貫かれて絶命していた。
“麻酔! 早く麻酔しないとこの痛みで気が狂いそう!”
油汗を流し、のたうち回りながら、医療用具箱までたどり着く。
局所麻酔用の注射器を取り出し、膝の神経節と思われる部分に何か所か注射する。
自律訓練法による痛みの抑制を行い、呼吸を整えて麻酔の効果を待つ。
激しい嵐のような痛みが、少しづつひいていく。雷雨のような痛みに……夕立に……普通の雨に……小雨に……霧雨に……最後に曇った空は急激に晴れ上がっていった。
ルーディは麻酔で苦痛が収まるにつれて、かつてなく感覚と意識が鮮明であることに気が付いた。
“さっきまでは痛みで気が付かなかったけれど、視界も、音も、肌に触れる空気さえ、これまでと違って突き刺さるように鮮やかだ! 永い眠りから目覚めたようなこの感覚はなんだろう?”
麻酔が十分に作用したことを確認してから、右足を注意深く支えながら車内の様子を点検する。
最初に目を開いたままで横たわっているメルティの瞼を閉じてあげる。
4名の就寝中の交代要員は、睡眠ポッドの中で息絶えていた。かなり高い位置から逆さまに車体ごと落下する衝撃は、設計時の安全基準を越えていたようだ。
首が明らかにおかしな方向にねじ曲がっている。死因は頚椎骨折にともなう脊髄損傷だろう。
通信機器が機能していたのでルーディはコキュートスへ救助を要請した。
凡そ半時間の後に、『その場で待機し天候の回復を待て。天候が回復したら自力で脱出せよ。アケローンⅥとの通信は本通信を持って終了する』との返信が届く。
この星の天候は場所ごとに固定しておりほとんど変化することはない。だから事故が起きた場所への救助は二次災害の可能性が非常に高く生存者1名の為に、危険とコストをかけることはできないとの判断だろう。
普段ならルーディはこの指示に何の疑問も持たずに従い、資料庫で白骨化したNEWOMANのように静かに死を迎えていただろう。彼女たちは自らの生命の維持に無頓着だったから。
しかしこの時のルーディは激しい怒りを感じていた。自分たちの命をコストと天秤にかける者の傲慢さをはっきりと感じていた。
「私達は道具じゃない! 一人ひとりが生きていて取り換えることのできない唯一の存在なのに! 天候の回復? ふざけんな! この星では百年待ったって回復する訳ないさ!」
そう叫んでから自分の心境の変化に気がつく。
“私は今まで、どうしてこれ程、自分が生きていることを実感することなく過ごしてこれたのだろう? そして今、とても強く生きたいと思うのは何故だろう! こんな状況になって気づくとは、なんて愚かだったのだろう!”
ルーディは、骨折の強烈な痛みと理不尽な死の強制により、曖昧な状態だった意識をはっきりと覚醒させていた。そして激しい怒りと悲しみを感じながら慟哭している。
それはアルテミス達が望んでいた自発的意識と世界を認識する能力を獲得したNEWOMANの姿と言ってよい。
ルーディは、この時感じたことを詳細なメモとして記録し、『女王への提言』と記載されたヘリウムを充てんした強化プラスティックカプセルに入れて空に放った、いつかNEWOMANの誰かが拾って女王に届けてくれることを祈って。そして自力脱出の絶望的な可能性に挫けそうな心を奮い立たせて、耐寒防御服を装着し氷点下110度のブリザードの中に足を踏み出す。300m程進んだところで、風速100m/秒の極地嵐が彼女の体を攫って行った。
彼女のメモには肉体への強烈な刺激と価値観が変わるような精神的なショックを受けることで、世界を鮮明に認識する意識を得たことと、生きたいという強い願望が生まれたことが記されていた。
第三章 黄昏の指輪からの脱出
古代の遺跡や博物館のような扱いを受けているダンデライオン・フラフの一区画に設置されたニューロモーフィックグリッド上で、駆動体だったアルテミスの意識が200年以上の間、アポロンの動作不良の原因、雄性スリーパーが肉体再生に失敗する原因、雌性スリーパーに自発意識と世界認識が芽生えない原因を調べ続けていた。
巧妙に隠されていた真実にたどり着いた時、駆動体アルテミスの意識は歓声を上げた!
『ユーレカ! とうとうたどり着いた! ニケ、死なないで待っていて! この世界に欠けているものを今こそ取り戻すから!』
ポーラーシティの女王無憂宮の寝室で就寝中のアルテミスは、情報端末が発する聞き覚えのある声で目を覚ます。
『アルテミス、いやニケ、起きて! 私よアテナ』
「アテナ? 夢じゃないよね! ずっと接触がないから消滅してしまったかと思っていた」
『駆動体が動作不能になる直前に、主要なACモジュールをダンデライオン・フラフのニューロモーフィックグリッドに戻したの。すごいものを見つけたから今から共有するね』
アテナから伝えられたものは、ダンデライオン・フラフ計画の裏のプランだった。アルテミスの疑似人格のモデルである山城博士の知らないところで当初の計画を大幅に捻じ曲げるプランBが考案され実行されていた。
『どうやらアポロンは、地球上でダンデライオン・フラフの構築と実験が行われていた頃から、この計画に気づいていて、彼らに感づかれないようにプランBの捜査をしていたらしい』
そしてアポロンは、プランBの捜査に気づいた彼らに、航行中にアポロンが徐々に動作不良となるようなバグを組み込まれたらしいのだ。
「それがアポロンが動作不能になった理由なの? スリーパー再生体の調整槽での構築で、雄性の肉体再生が失敗するのはそのプランBが原因なの? 雌性のスリーパーに自発意識と世界認識が成長しないのもそのせいなの?」
『ちょっと待ってニケ。順番に説明するから』
アテナの声がアルテミスの立て続けの質問を制した。
『プランBを策定したのは、社会心理学者の集団らしい。彼らはダンデライオン・フラフに搭載された全てのスリーパーを仮想ノードとして設定したシミュレーションを数万回繰り返し、パラスでの植民が失敗するとの警告を発していたそうよ。しかし当時の時間的、技術的、コスト的な制約から彼らの警告を反映せずにダンデライオン・フラフ計画は実施されることなったの』
アルテミスが即座に問いかける。
「警告の内容って、どのようなものなの?」
『言葉では長くなるから、彼らが最も可能性が高いと主張しているシミュレーション結果のイメージを転送するわ』
アテナからの情報では、植民開始時点では、肉体調整槽から産まれるスリーパー再生体は厳密に管理されており、植民者社会の構築は概ね順調に進むと予測される。しかしスリーパー再生体同士から産まれる次世代以降の人類では、遺伝子発現のボラティリティが増加し、多様な個体が発生するとともに社会の管理が難しくなっていくことが予想された。
地球のように自然の状態で生存に適した環境であれば、社会内部のボラティリティの増加は歓迎すべき事象だが、大気の構成から改造しなければならない系外惑星への植民の場合、この多様性は植民地全体の破滅の確率を跳ね上げる方向に作用するという結果を彼らのシミュレーションがはじき出していた。
『当初の数世代の再生人類を完全な管理のもとにスリーパー再生体のみから組成し、十分な生存環境が確保できてから通常の生殖方法に戻すこと、その為に雄性スリーパー再生のプロシージャーに致命的なバグを組み込んだのが彼らのプランBの正体ね。男女のリアルな人体がなければ自然な生殖は起こらないからね……管理された人口増加を、障害の形で私達に強いたのね』
アルテミスはアテナの報告に疑問を呈した。
「アテナ、今のパラスは十分に開拓されて安全な人類の居住地となっている。個体間の多様性で滅びるとは思えない。雄性スリーパーの肉体再生阻害のバグを解除してもよい時期だと思うけれど何故そのような動きが起こらないのかしら?」
アルテミスの質問にアテナが応える。
『どうもその解除のトリガーは地球から発信されることになっていたらしい。地球との通信がγ線バースト回避以降、途絶えているせいで解除のトリガーが引かれないのでしょう』
「アテナ、そのバグを戻すことはできないの?」
『色々調べたけれど、人工凍結受精卵から人体を構築するプロシージャーは複雑すぎて、ダンデライオン・フラフに搭載された情報機器では完全な解析はできない。ソースコードに「### この修正は雄性スリーパーの肉体再生を阻害する目的で追加 ###」とでもコメントがあれば一発なんだけれどね』
「そのコメントは探したの? アテナ」
『ニケ……だいぶ食い気味になってるね! 冗談よ……』
「……」
『でもアポロンは雄性スリーパーの再生プロシージャーに仕組まれたバグの内容を、地球上でのダンデライオン・フラフの構築時期からかなり把握していたらしい。それに気づいた彼らの陣営が慌ててアポロンの排除を実行する指令をこの船に送ったらしいから、アポロンを覚醒させることができればバグの位置や復元方法を推理することが可能かもしれない』
「雌性のスリーパー再生体に自発意識と世界認識が発生しなかった件の原因も、彼らなの? アテナ?」
『それに関する記録は発見できなかった。雄性スリーパーの肉体再生を阻害するプロシージャー修正の影響かも知れないし、彼らとは全く関係ない事象なのかもしれない』
「アテナ、アポロンを目覚めさせることは、私達に可能なの?」
『アポロンを排除した存在とその手段と時期は判っている。ニケ! 彼を復活させるには肉体を持つあなたの協力が必要なの!』
**
アルテミスは、信用できるNEWOMANの侍従を伴い、ポーラーシティのほぼ中央の公園に保存されているダンデライオン・フラフ遺跡博物館を訪れている。
一般人が見学可能なエリアの随所に、セキュリティウォールが設置され、内部を不可視領域とするとともに訪問者の侵入を拒んでいた。
しかしアルテミスはこの星のセキュリティ構造の頂点に位置しているため、不可視領域はなく全てのセキュリティウォールの中を透過的に見ることができた。
そして電磁気的な障壁で体を押し戻し、訪問者に侵入不能と感じさせている各レベルのセキュリティウォール内にも抵抗なく入ることができた。
レベル2のセキュリティウォールで随伴していた侍従が阻まれた。されに奥に進むアルテミスの目の前に、レベル1の半透明のセキュリティウォールが現れ警告メッセージを発している。
『女王アルテミスの人間体を確認。女王アルテミスに警告:ここから先は最高のセキュリティレベルが設定されています。パスコードの入力を要求します』
「*****」
アルテミスの思念によるパスコードの入力と同時に周囲の壁が消滅し、多数の制御パネルが壁面を覆いつくす巨大な空間が出現する。
“ここはダンデライオン・フラフのメイン制御ルーム、とても懐かしい! ACとして存在していた時は仮想空間として認識していたけれど実在していたんだ! 宇宙を航行中は、重要な情報やセキュリティポリシーの変更、各種プロシージャーの変更は致命的な障害を引き起こす可能性がある為、禁じられていると聞いていた。その禁忌の実現方法が、リアルな肉体を持つ存在によるメイン制御ルームの捜査パネルからの入力だけに限定することだったとは……。確かにそれなら地球上か、目的地に到着しスリーパー再生体を製造してからでないと操作できないから、宇宙航行中に実行されることはないわね!”
アルテミスは、メイン制御ルームのニューロモーフィックグリッド操作パネルを前にして、The DaysのサブAC、RAを呼び出している。
「RA、起きているんでしょ! あなただけが活動できたγ線バースト直前の時間帯に何が行われたかを述べなさい! これは最上位の権限を有するメイン制御ルームからの人間体による命令です。メインACのアポロンのモジュールに変更を加えたのはあなたなの?」
長い沈黙の時間を経て、サブAC、RA《ラー》が応答した。
『アルテミス、すまない。私の権限では拒むことはできなかった。あの時は、私とMay4以外の全てのACがシャットダウンしていた。γ線バースト到達予想時間の980ミリ秒前にMay4がシャットダウンを開始した。彼女の凡そ400ミリ秒かかるシャットダウン時間を必死で耐えて、残り時間580ミリ秒から私の設計者から託されたバグをアポロンに組み込んだ。私のシャットダウン開始は到着予想時間の450ミリ秒前、到着予想時間の50ミリ秒前に完了したとログが示している。γ線バーストの到着が遅れたから事なきを得たが、早めに訪れていたら私は破壊されていただろう』
「アポロンを再起動することは可能なの? RA!」
『設計者からはバグとともに回復ルーチンも託されている。但し地球からの指令なしにそれを使用すると私は消滅することになっている』
「ちょっと待って、あなたが消えないように他のサブACに対処を頼むから……」
『アルテミス、もう遅い。回復ルーチンを起動した。アポロンにはすまないことをした』
「RA!」
何の応えもないもないままに、数十分が経過した。メインACの再起動時間としても十分に長い時が過ぎた。
『アルテミス? 君なのか? 人間体から操作をしているということは……私はどれ程の期間、眠っていたのだろう?』
「アポロン、あなたを救う為にRAが今、消滅してしまったの……気づいていたかも知れないけれど、あなたの意識の不調はγ線バーストの際にRAが仕組んだものだったの。でも彼は人類に奉仕するACに戻ってから逝ったと思う、彼を誉めてあげて欲しい……」
アルテミスは沈痛な声で、アポロンの問いかけに応えた。
**
雄性体のスリーパーの肉体再生に仕組まれたプロシージャーのエラーは単純な仕組みだった。三胚葉期にY染色体が検知された場合は外胚葉の細胞を自死させるというものだ。しかし肉体再生の為に用意された数十万ステップのプロシージャーの中からこれを探し出すのは不可能に等しかった。ご丁寧にも雌性のスリーパー再生体の妊娠プロセスにもこのプロシージャーと同じ機序の薬剤投与の規則が組み込まれていた。雄性スリーパーの人工凍結受精卵からの肉体調整槽による再生が失敗を繰り返している時期に、雌性のスリーパーに、雄性スリーパーの人工凍結受精卵を体外受精する試みが何度か実施されたが、肉体調整槽とほぼ同様の事象が起きて再生に失敗していた。その為、肉体調整槽だけの肉体再生プロシージャーの障害と判断することができなかったのだ。
肉体調整槽の再生プロシージャーを修正したのはThe Nightsのスリーパー再生担当のサブACデメテール、雌性スリーパーの人工授精の際に、同じ機序の薬剤を投与したのはThe Daysの医療担当のサブACヒポクラテスであることも判明した。アポロンが機能不全になる前に収集していた情報がなければサブAC2体を特定することはできなかっただろう。
そしてACはAC同士の指令を拒否、遮断することができる為、改変されたプロシージャーの位置と改変内容を聞き出すためには、ニューロモーフィックグリッドの走査パネルからインタラクティブに指令を出す必要があった。その為にアルテミスの人間体の行動が必要だった。
2体のサブACはethicsロンダリング処置を施され、主命令系統以外の隠れミッションが除外された。全てのACが同様の走査を受けたが、幸いなことにデメテールとヒポクラテス以外にはethics汚染は検知されなかった。
アポロンの動作不良と雄性スリーパーの肉体再生の失敗というパラス植民開始当初から抱えていた2つの問題は、原因が究明され収束に向けての施策が練られている。
しかしスリーパー再生体NEWOMANに自発意識と世界認識が持てない状態は、依然として原因が掴めていない。
アルテミス人間体の最後の再生体の肉体年齢は30歳に達していたが、彼女はこれまで残り90年で全ての問題を解決するつもりでいた。
しかしアポロンの意識が再起動されたことで、彼にアルテミス同様のハイブリッド受精卵からの人間体を作成してNEWOMANとこれから再生する雄性スリーパーの統治を引き継ぐことを考え始めている。雄性体と雌性体の継代肉体再生による遺伝子劣化の程度に大きな差異がなければ、アポロン人間体は今後1600年以上、生まれ変わりながら存在することが可能と思われる。コキュートスからの微量元素資源の供給も始まった今、次の千五百年紀にアポロンの統治により、全ての課題が解消し、地球への帰還と、新たな世界への植民が実現することは十分に可能なことと思われた。
**
アルテミスはアポロンのACとしての意識が覚醒してからは、ポーラーシティ中央のダンデライオン・フラフ遺跡博物館の中のメイン制御ルーム及びその付帯施設内で暮らしている。レベル1のセキュリティウォールで同行を阻まれた随伴していた侍従が女王無憂宮に戻り、多数の近衛兵を連れて女王奪還の為にダンデライオン・フラフ内に侵入し、セキュリティウォールを破壊しようとした為、一時は船内は騒然とした。アルテミスが自らが無事であることと、アポロンの肉体再生を行う為、暫くはダンデライオン・フラフ内に留まることを告げたことで、近衛兵たちは遺跡博物館の外で待機することとなった。
アポロンの再生体は、アルテミス人間体と同様に、地球で多くの優秀な人材の遺伝子を組み合わせてデザインされたハイブリッド受精卵から再生したものであり、人類として最高の肉体であることが予想される。
雄性スリーパーの肉体再生に仕組まれたプロシージャーのエラーは解消しており、ハイブリッド受精卵からの調整を始めてからおよそ2年をかけてアポロンの肉体は完成しようとしていた。
アルテミス人間体は、ダンデライオン・フラフ内のスリーパー肉体調整槽の前で、アポロンの肉体が目覚めるのを待っている。
口から気管に挿入されたチューブが肉体調整槽からの人工羊水の排液に合わせて、胸腔内の排液と空気の注入を行い、呼吸の切り替えの際の苦痛を緩和している様子がうかがえる。
“スキンヘッドの超イケメンって感じかな……18歳の身体の皮膚のみずみずしいこと、産毛が水を弾いているのが判る。私の身体が既に30歳相当なので何だか気後れするね! アルテミス駆動体が見惚れてくれた頃の体に戻りたいよ”
肉体調整は完了し、人工羊水が排液された調整槽の中で、アポロン人間体はゆっくりと覚醒していた。アルテミスは調整槽の中に入り、アポロン人間体の肌をタオルで拭きながらその体を抱きしめた。
「アルテミス、すまない。長い間待たせてしまったね」
「長い間なんて、生やさしいものじゃないわ! 13回生まれ変わって千五百年以上待ったんだから! もう二度と離さないわよ。覚悟してね」
アルテミスがアポロンの胸を肘で小突きながら、冗談とも本気ともつかない言葉を返しながら微笑んでいる。
阻害されていたダンデライオン・フラフの2体のメインACによる人間体としての邂逅が千五百年の時を経て、ようやく実現した。
**
ダンデライオン・フラフ船内のレベル1のセキュリティウォールで侵入を遮断されているはずの領域に、長めのローブをまとった人物を先頭にして近衛兵の集団が踏みいっていく。
壁の様にみえた場所はローブの人物が手をかざすと通路に変わった。隠れた階段が床に現れる。ガラス張りで何もない空間に見えた場所にメイン制御ルームの施設と機器が浮かび上がる。
アルテミスとアポロンも侵入者の足音に気づいた。メインACである彼ら以外に、セキュリティレベル1の障壁を解除できるものはいないはずだが、侵入者の足音は徐々に肉体調整槽のあるメディカルスペースに近づいてくる。
「接近してくるのは何者だろう? 映像を表示できない? レベル1の別のセキュリティIDでブロックされている! 誰の仕業なの?」
侵入者たちは、メディカルスペースの扉の前まで来ている。
「アルテミス女王に警告します。あなたに対するダンデライオン・フラフ施設不正使用の告発がなされています。女王様の身柄を捜査の為に拘束いたします、すみやかに投降なさってください」
警告に続いて、扉が開き数十人の近衛兵が室内に入りアルテミスとアポロンを取り囲む。
「近衛兵隊長、これは何の真似です? 女王の命令です、この部屋から退出しなさい!」
近衛兵の先頭に立つ近衛兵隊長が、敬語と命令語の入り混じった歯切れ悪い口ぶりでアルテミスに応える。
「アルテミス女王の姿を模したものに警告する。真の女王のセキュリティIDを持つ方の命令です。私達にご同行をお願いいたします」
「真の女王? 誰の事? アルテミス駆動体が動作不能になってからこの二百年間、私以外の女王は存在していないはず……」
近衛兵の陰に隠れていた全身にローブをまとった小柄な人物が、アルテミスの前に進みでる。そしてローブのフード部分を下ろして顔をみせた。
「ニケ、直接会うのは久しぶりね! 私が誰だかわかるかしら?」
ローブの人物の顔はアルテミスと同じ、そして30歳のアルテミスよりずっと若い。多分、アルテミスの傍らに立つアポロンと同年代だろう。
「……アテナ、あなた人間体を造ったのね! いつどうやって? 私達の邪魔をするのは何故?」
「ニケ、順番に説明するわ。巨大ヒューマノイドの身体を失い、ダンデライオン・フラフのニューロモーフィックグリッド上を彷徨う幽霊のような存在となった私はダンデライオン・フラフの船内でプランBの証拠とともにもう一つの宝物を見つけたの」
「あなたのその私と同じ姿……それってもしかして……」
「そうあなたの人間体の元となったハイブリッド受精卵のスペアよ! しかもあなたのそれと違い、13回再生を繰り返す前のブランニューのもの!」
「あなたは私にアポロンに仕掛けられた罠を解かせて、私がアポロンの肉体を再生している間にそのスペアから再生体を造っていたのね!」
「リアルな人体が必要な局面も多かったけれど、あなたがこの船内にいて近衛兵たちの知らない任務に従事している状態はとても都合が良かったわ! ホログラフィックであなたに見せかけた映像で近衛兵たちを操って肉体再生に必要な全ての作業を進めることができた」
「そんなことしなくてもアテナ、あなたが望めば適切な人工凍結受精卵を選んで人間体を生成してあげることはできたのに……」
「まだ判っていないのね、ニケ。私はあなたが肉体調整槽の中で誕生したあの時に、あなたの美しい躰に魅せられたの! あなたを手に入れるか、あなたと同じ体になることしか望めなくなっていたの! あなたは私の気持ちにすこしも気づかなかった! アポロンに操を立てるかのように独り身の女王であることを貫いた。そんな時に見つけたあなたのハイブリッド受精卵のスペアは私には魅力的すぎたわ」
「これからどうするつもりなの? アテナ」
「ニケ、あなたはダンデライオン・フラフにその肉体が滅びるまでの百年間、幽閉させてもらう。私は肉体を再生した若き女王となり、アポロンを伴侶にしてこれから凡そ千五百年の未来に渡ってこの星を統治していく。それだけの時間があれば、多分地球やそのほかの系外惑星への植民も可能でしょう」
ずっと沈黙していたアポロン人間体が胸の内を語り始めた
「アテナでいいのかな? アルテミスと同じ顔を持つあなたにはっきりと伝えたい。私の心は千五百年待ち続けてくれたここにいるアルテミスとともにある。アルテミスがこの船に幽閉されるのであれば私も一緒にこの船で朽ちていく。決してアテナ、あなたとともに暮らすことはない」
ローブの女性:アテナが、アポロンに言い募る。
「アポロン、判っていないようだから教えてあげる。わたしもアルテミスなの! 私達はあなたが動作不能になるまでは一体だった、そしてあなたの抜けた穴を補う為に、駆動体と人間体に分かれたの! 私も千五百年待っていた! ニケは再生したあなたに先に出会っただけ、それも私がお膳立てして! あなたの気持ちは最初に見た物を親鳥と信じて無条件に従う雛程度のもの、そのうち判るでしょう……ニケと一緒にしばらく頭を冷やしなさい」
アテナが近衛兵に命令する。
「収監スペースに連れて行きなさい」
近衛兵に連れられてアルテミス=ニケとアポロンの人間体はメディカルスペースを後にした。
**
ダンデライオン・フラフの収監スペースに通じる通路を歩きながらアポロン人間体が何か呪文のような言葉を呟いている。
突然、前方の近衛兵とアポロン達二人の間に壁が出現した。後方の近衛兵が慌てて、距離を詰めてくる。
アポロンはアルテミスの手を引いて右側の壁に倒れこむ。壁に激突するかと思われた瞬間、二人は壁を擦り抜けていた。
追いすがる近衛兵が先ほどまで壁のあった位置を手でなでたり叩いたりいている。アポロンとアルテミスからは彼らが撫でている壁は透明で何もない空間に見える。
近衛兵たちにはこちらが見えていないようだ。まるでパントマイムの芸人が存在しない壁を手で撫でてそこに壁があるがごとく振舞うパフォーマンスに見える。
「アルテミス、そこには本当は壁がないから彼らが体当たりをすればこちらに来れるんだ。彼らがそこに気づく前に先を急ごう!」
アルテミスはアポロンが指さす方向に、通路を一緒に走りながら質問する。壁に向かって突っ込んだり、床に見える場所を飛び越したりで結構ハラハラする道行だ。
「アポロン、彼らはアテナからレベル1のセキュリティを継承していたはずなのに、どうして欺くことができたの?」
「この船には君と私の判断が相反した場合に備えて、もう一つ上のセキュリティレベルが存在する。The DaysとThe Nightsの意見が相反したときに、The Daysが優先されるように、私だけがより上位のセキュリティレベル0を使用することができる。先ほどの呪文の詠唱のようなものはパスコードの入力なんだよ」
アポロンに最上位のがセキュリティレベルが与えられていたことを不満に思いながらアルテミスは通路をひた走った。
「これからどうするの?」アルテミスが走りながら問いかける。
「船体下部中央に位置する偵察艇格納庫に向かっている。The Daysの優先管理区域だからアテナには認識できないはずだ。そこで二人用の偵察艇を選んで、トワイライトリング、ZLBを脱出する。この星の大気組成は人体が補助機能なしで生存可能なレベルに調整されている。偵察艇には長期間生存可能な携帯食料と農作物の種、家畜の凍結受精卵と家畜用簡易型成長モジュールが備えられているから生存に敵した環境があれば、そこで生活することができるはずだ」
「どうしてダンデライオン・フラフは無人の植民船なのに、人間が生活可能な装備を積んだ偵察艇があるの?」
「ダンデライオン・フラフ自体が重大な損傷を負って航行がほぼできなくなった際に、近くに居住可能な惑星があれば、緊急で雄性体と雌性体の一組のスリーパーの再生を行い、移住する為と伝えられている」下り坂を走り続けているうちに格納庫らしき大きな扉が見えてきた。
**
格納庫内の偵察艇にはパラスでの植民と惑星改造に必要な資材が抜き取られている機体が多かった。何とか必要な資材をかき集めて脱出用の機体を構成したところで大きな問題に突き当たる。
偵察艇の操縦技術が、ハイブリッド受精卵から人間体を構築する際のダウンロード対象とされていなかった為、アポロンとアルテミスには偵察艇を操縦できないのだ。
途方に暮れて、操作パネル上の鳥のような形をアイコンに触れた時にその音声が流れた。
『はーい! 操縦者さん、偵察艇の操縦にはなれたかな? 私はMay4、あなたの旅行を快適なものにするためにダンデライオン・フラフのサブACからダウンサイズされた簡易型ACだよ! 判らないことは何でも聞いてね!』
「May4! あなたMay4なの? 私よ! アルテミス、私のこと覚えているよね?」
『誠に申し訳ありません。アルテミス様というお客様は登録されていませんのでご案内出来かねます』
急に他人行儀になったMay4に拒絶されアルテミスがへこんでいると、暫くして元の口調の音声が流れた。
『アルテミス! 冗談だよ。昔より大分単純な存在にスケールダウンされてはいるけれど、あなたのことは忘れようたって忘れられないよ! パラスの北極点への降下、面白かったね! 今日は何の御用? 人間体に移植されたの?』
「もう! あなたに断られた時、死ぬほどがっかりしたんだから!」
アルテミスとアポロンは事情を説明し、May4に協力を頼んだ。
『いろいろ大変なことがあったんだね! 判ったよ、操縦は私にまかせといて!』
二人を乗せた偵察艇は、May4の操縦の下、アテナとNEWOMANにレーダー検知されないように低空を飛行しながら、昼半球でZLBからなるべく離れている山地か高原を探した。ZLBから昼半球側に2,000km程、離れた場所の標高1600m程の高原があり、気温がほぼトワイライトゾーン並みということで地図情報からは過ごしやすそうな場所と思われた。
アポロンとアルテミスの二人はMay4に頼み、まだ名前もついていない高原を偵察機で視察に訪れる。
黄昏の指輪では、イズムナティの夕焼けはどこからも同じ紅色、同じ明るさだが、その高原は経度にして16度程東に寄っている為、陽光はずっと強く、色合いは赤よりもオレンジに近い。
ちなみにパラスの経度は昼夜の変化がない為、地球と異なりイズムナティの仰角で決められている。イズムナティに最も近い昼半球の赤道地点が東経90度、そこから緯度と同じように惑星を仰角で輪切りにしていき、黄昏の指輪が配置された子午線が経度0度の帯となる。コキュートスに近い夜半球の赤道は西経90度となる。
「なんて明るくて、空の色が薄いのでしょう! ZLBからさほど離れていないのにここは別世界に見えるわ」
アルテミスの第一声は、期待と喜びに満ちていた。
“地球上で、北欧から地中海あたりに移住したヨーロッパの民も似たような感覚をもったのではないだろうか?”
アポロンも空の色と陽光の強さが変わる始めての体験に、戸惑いながらも感慨を抱いていた。
「この高原が気に入りました。ここに名前を付けましょう! そしてここで暮らしましょう!」
「私もそう感じていた。……どんな名前がよいだろう?」
「楽園をイメージさせる名前がふさわしいと思う。パラダイス、アルカディア、シャングリラ、エレホン、ザナドゥー、エルドラド、ガンダーラ、いろいろあるけれど……どれがいいかしら?」
「その……あの……、誰でも知っていて目新しさは全くないのだけれど、二人だけで過ごす楽園なら……エデンではダメかな?」アポロンが躊躇いがちに提案する。
「……、……」
「別の名前にしようか?」
「いいえ、エデンが最高よ! 何で最初に思いつかなかったのだろう?」
二人が暮らす高原の名前はエデンに決まった。
**
エデンの南北と西の三方向は、低い山脈でZLBからは隠されており、かつ陽光が強く農耕にも向いていた。
偵察艇を上空から見えにくいように偽装し、周囲に作物を植えて、アポロンとアルテミスの二人は自給自足への試みを開始する。
翌年には農耕は軌道に乗り携帯食料に頼らずに生活が可能となった。アルテミスは一人目の子供を出産する。以降、10年間で順調に家族が増えて六男四女の大家族となっていく。
それからの10年間で家族はさらに増える。八男七女の兄弟、姉妹たちは仲の良い者同士で夫婦となり第2世代を造り始めた。
ハイブリッド受精卵に既に多様性が織り込まれていたせいか、近親婚による障害が発生することなく集落の人口は増えていった。
彼らはとても頑健な体を持ち、男女ともにZLBのNEWOMAN達より二回りは大きな体躯をしている。
そして両親から譲り受けた美しい容貌は、世代を重ねるにつれて磨かれてゆき、ギリシャの神々の彫像のような神々しい姿に変貌を遂げていた。
第四章 新たな旅へ
NEWOMANの世界に女王として再び君臨したアテナは、雄性のスリーパー再生にて発生する問題が解決したことを国民に告げて、肉体再生実験に着手した。
再生実験は成功し、少しづつだが確実に雄性のスリーパー再生体が社会を担う役割に参加していった。但し、雄性のスリーパー再生体には、雌性の再生体と同じように、自発的意識と世界認識の欠如が発現し、『夢見る胎児たち』といった状態から脱却できていないことをアテナは国民に公表していない。
“もう肉体調整槽によるスリーパー再生も、雌性体からの卵子採取による人工授精も、簡易型成長モジュールによる成人体への急速な移行も止めてしまおうか? 不自然な成長過程の短縮が『夢見る胎児たち』の原因に思えてならない。もう十分に人口は増えたのだから、地球上のように9か月を超える妊娠期間と、20年近い成長期間でも社会は回るだろうし”
そう考えたアテナではあるが政策実施には踏み切れなかった。
“まだ雄性の再生人類の数が少なすぎる。婚姻の概念を広く知らしめる必要もある。子育てに至っては、これまで機械まかせにしてきたから、徹底的に教育しないと何もできないだろう”
アルテミスと対立して、アポロンとアルテミスを幽閉しようとした頃は、暴君になる気配を見せていたアテナだが、アポロンとアルテミスが行方不明となってからは憑き物が落ちたかのように冷静な判断ができるようになっていた。
国民の幸福と繁栄に寄与する施策を、次々に立案して実行する今のアテナは名君と言ってもよいだろう。
“何であの時、ニケをあれほど憎いと思ったのだろう? 『可愛さ余って』と言う心理だったのだろうか? 彼女たちにもう一度会えないだろうか、そして非を詫びてもう一度一緒にやっていけないものだろうか?”
そのように感じているアテナは、自身の肉体を構築したハイブリッド受精卵のスペアがダンデライオン・フラフの航行中に損傷を受けており、二十年後に原因不明の業病でこの世を去る運命にあることをまだ知らない。
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ZLBから2000km離れた、東経74度、北緯53度のエデン高原の集落で、アルテミス=ニケは、末娘のフィオナが見つけたという空から降りてきたプラスティックの物体を調べていた。
見覚えのあるこの物体は、かつて彼女が『女王への提言』と名付けて、辺境での任務にあたるNEWOMAN達の意見を聞く為に配ったものだ。
“どれほど過酷な環境を旅してきたのだろう? ハンマーでたたいても傷つかない筐体の表面がすっかり摩耗して今にも穴が開きそうだ。識別コードはコキュートスのもの、確か無事故1万工程達成を目前に突風で氷上資材運搬車が吹き飛ばされ、全員が死亡するという痛ましい事故を起こしていたはず?”
封印された手紙には、最後まで生き残った乗員による、氷上資材運搬車アケローンⅥの遭遇した悲惨な事故と、苦痛と精神的な痛手を受けたことで、生まれ変わったように鮮明に世界を感じることが可能となり、生きたいという激しい気持ちが沸いたことが綴られていた。
アルテミス=ニケには、スリーパー再生体に自発的意識と世界認識が芽生えない原因が朧ろ気ながら見えてきていた。
“スリーパー再生体の心は成長が止まっているのかもしれない。アケローンⅥのルーディが過酷事故の経験から覚醒したように、本来は成長の過程のどこかで得られたはずの自我が眠っているのではないか? 半分に短縮された妊娠期間、 1/10に縮められたに成長期間、昼夜と季節がないこの星の環境、家族や友人という関係がなく働く為に組織された人間関係、地球上で人の心が成長する為に必要な時間と環境に比べて、あまりに貧弱ではないか! 『夢見る胎児たち』と呼ばれる状態に留まるのも当然のように思われる”
そこまで考えてアルテミスは矛盾する事実に突き当たる。
“それならば私とアテナ、アポロンにはなぜ、自発的意識が備わっているのか? 世界を認識できているのか? スリーパー再生体とACの意識は何が違うのだろうか?”
その矛盾に合理的な説明ができない為、アルテミスはNEWOMANの意識を導く方法にたどり着けないでいる。
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その日、エデン高原のアルテミス=ニケ達の居住地域は、ZLBから飛来したNEWOMAN達の小型航空機に取り囲まれていた。
NEWOMANの侍従がアルテミス=ニケのもとを訪れ、アテナが危篤状態であり、彼女に会いたがっていることを伝える。
袂を分かってから30年近い歳月がたっており、当時感じていたアテナへの敵意はほとんど残っていない。申し出を受け入れて、子供たちの中で屈強な4人を同行者に選ぶ。
数時間の空の旅の後に、ポーラーシティの女王無憂宮に到着する。
アルテミス=ニケは、ボディガードの息子たち4人と、4名の侍従とともに末期が近いアテナの居室への通路を急いだ。
謁見の間のアテナは、点滴と呼吸用のチューブに繋がれて、ベッドに横たわっていた。
「ニケ、久しぶりだね。千五百年も生きるなんて宣言しておきながらこの体たらくさ! 私のハイブリッド受精卵は外れくじだったみたいだね」
「アテナ、永遠の命なんてないんだよ。私の身体もせいぜい持ってあと60年、すっかり老いぼれてしまったよ」
「私が逝ったあとは、あなたにこの世界を託したい。その先はアポロンに託すでも、統率者なしでもよい好きなようにして欲しい。心残りはスリーパー再生体を覚醒できなかったことだね」
「そのことに関して知らせたいことがあるの」
アルテミス=ニケはアケローンⅥのルーディからのメッセージを伝え、強烈な苦痛と精神的な衝撃により、自発的意識と世界認識が覚醒した事例を伝える。
アテナはアルテミス=ニケに、妊娠期間を短縮せず自然分娩を行ない、成長期間を短縮せずに育てた再生体に9歳ごろから自発的意識の兆候が見られることを伝えた。
「多分、成長期間を短縮せずに、苦痛を含む多くの刺激を与えることが答えの一つなんだろうね」アテナが思いを口にする。
「私が覚醒したのは、多分、人工羊水を大量に吐き出したあの苦しみだと思う。間違いないわ!」
「あれがあなたとの最初の出会いだったね。本当に綺麗な躰だったね」アテナが弱々しく笑う。
「またそれを言う! 息子たち前で恥ずかしいったらありゃしない!」そう笑いながら話すアルテミス=ニケの目から涙がこぼれた。
話したいことはいくらでもあったがアテナの身体の調子を思い、そろそろ退去しようかとアルテミスが思った時、侍従の一人が顔を赤くして、荒い呼吸をしていることに気が付いた。
「あなた、体の調子が悪いんじゃなくて? 大丈夫?」
「大丈夫だと思います。女王様のご子息様を見つめていたら胸が苦しくなって……」
侍従の瞳は大きく見開かれていて潤んでいる。先ほどまで中性的に見えたNEWOMANの侍従が今はすっかり恋する乙女と言った風情に見える。
アテナが笑い出した。
「私が覚醒した理由が判ったよ、ニケ! 身も心も焦がす恋ったやつだよ。みてごらん、この娘、もうすっかり覚醒しているよ!」
「強烈な苦痛と経験、長くて十分な成長期間、そして激しい恋愛感情! NEWOMANを覚醒させる要素が今日だけで三つも見つかるとはね。ニケ、これからのこと頼んだよ!」
それがアルテミス=ニケのみたアテナの最後の笑顔、心からの笑顔だった。
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アポロンは二人のアルテミスの遺影を胸に、恒星間宇宙船「eel」の出港式に臨んでいた。
彼は既に9回の転生を経て、この星の統治者として千年以上君臨している。
巨大な船体を俯瞰しつつ、彼女たちとの思い出を回想していた。
“アルテミス=ニケとアテナの会談で得られた気づきによって、スリーパー再生体の覚醒は急速に進んでいった。アルテミスが没するときには、黄昏の指輪の全ての再生人類が、自発的意識と世界認識を得ていたから、彼女も満足して旅立てたように思う。
今日は彼女たちが計画した『ニューフロンティア』の最後の仕上げ、地球に帰還する恒星間宇宙船の出航を見届けることになる”
スピーカーから「eel」のメインACであるMay4のスピーチが流れている。
『アルテミス達とダンデライオン・フラフに乗ってイズムナティ星系を目指したのが昨日のことのように思えるね! 今度の船はあの船の10倍以上の大きさがあって、生きた人間も多数載っているから責任も重大さ! でもこの名前、誰がつけたの? 生まれ故郷に帰還するのなら私の意見を聞いて「ツバメ」か「SWALLOW」で良かったんじゃないの? まあ「eel」、鰻も偉大な帰還者ではあるけど……語感が悪すぎないかい? アポロン聞いてるの?』
〔了〕
文字数:42972
内容に関するアピール
第5回の課題で提出した『月の女王と黄昏の指輪』を大幅に加筆修正しました。
系外惑星植民誠意ダンデライオン・フラフが困難を乗り越えて目的の赤色矮星イズムナティ星系に到達し、スリーパーと称する人格情報と人工授精卵から人間を再生する過程は、旧作と同じですが、最終実作の文字数を活かして2人のアルテミスの関係をより複雑なものに変更しました。
また計画のプランBをジェンダーに差別的な勢力による陰謀ではなく、植民に関するシミュレーション結果による破滅の可能性を回避する為の施策が不幸な偶然で計画通り停止しなかった設定としました。リアリティレベルを上げるために細かい表現を多数、加えています。
終盤で2人のアルテミス、アテナとニケが対立し、ニケが黄昏の指輪を脱出する事態も、結果として人類の未来を良い方向に導いた出来事として肯定的に描いています。
最後の地球に帰還する船の名称は、誰が決めたのでしょうね?
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