エメの名香
十九世紀半ばまでのパリは世界で一番臭い場所だった。水はなく、人々は風呂に入ることを知らず、垢を積み重ねることを誇りとしていた。壺に溜められた多くの糞尿と汚水、余った食糧が窓から投げ捨てられ、道に設けられた溝に納まることなく溢れる。その上を辻馬車の車輪が踏みつけて細かな汚泥へと変えていく。
なぜフランスは世界一の香水市場となれたのだろうか? 人々はまとった臭気を香水で隠したかったからだろうか? いや、むしろ人々は各々が蓄えた臭いを魅力だと考えていた。ローズ、オレンジフラワー、ラベンダー。ほのかな植物性の香りは彼ら彼女らの魅力を引き立てる補助線としてはたらいた。
ナポレオン三世の任命を受け、一九五三年にセーヌ県知事となったジョルジュ・オスマンはパリ改造に着手する。世界一臭い場所は長い時間をかけて変貌していく。無秩序だった街は秩序を獲得し、不潔は悪とされ、善なる清潔を国として目指していった。
香水はそのような激動の時代を背景に近代化を果たしていく。臭気を引き立てるのではなく、個人そのものを香りの持つ印象でブランド化していく。変化の中心にいたのは間違いなくゲラン社およびゲラン一族である。ゲラン帝国とも呼ばれた香水史の礎はどのようにして築かれたのだろうか?
ラファエル・ベルナール『ゲラン帝国とゲルリナーデの謎』(二一二八)序文より抜粋
1
精神の一部が冒されているのだ、とエメ・ゲランは横たわったベッドの中で溜め息を吐いた。もう五十四になる。もしかしたら大病の前兆かも知れない。あるいは死の直前に神がエメに与えた奇跡なのかもしれない。どちらにせよ、幻覚をみるようになったのは老いからくる異常に違いない。
エメはのそのそとベッドから這い出ると、石油ランプに小さな火を灯す。あまり明るくするとミツに見つかり夜更かしをたしなめられる羽目になる。
思えば父、ピエール・フランソワ=パスカル・ゲランは偉大なる調香師だった。ピエールの手によって人々はロンドンの香水ではなく、フランスの香水に憧れ、手に取るようになった。いまやパリが最も最先端の香水王国となっている。弟ガブリエルもまた経営と入れ物の開発という点で父とは異なる才能を持ってメゾン・ゲランを発展させていった。
「わたしは何も生み出していない。父が遺した教えをただ守っているに過ぎないのだから」
エメは二代目調香師としての誇りを失いかけていた。そこそこの香水は作ることが出来る。そこにガブリエルが息を吹きかければメゾン・ゲランは大きくなる。
若い頃のエメは何度失敗しようとも、ガブリエルが呆れ顔をよこそうとも、名香を生み出すことを諦めなかった。しかし二十六年もの歳月はエメの熱意を気付かないうちに薄めていった。
エメは灯りの傍にそっと手のひらを近づける。節くれ立った指に細かく刻まれた皺が影となって、手を染める。お前はもう枯れたのだという事実が否応なく突きつけられる。木机の上にはピエールが産みだした〈オーデコロン・イムペリアル〉が置いてある。ピエールがナポレオン三世の妃であるウージェニー皇后へ献上した品、この名香にて皇后陛下御用達調香師としてピエールは栄光をきわめた。
鼻の調子を確かめるためにエメは部屋の空気を細く長く吸い込んだ。幼い頃のパリ、医学を学ぶために渡ったイギリスで感じていた不衛生な臭いはずいぶんと弱くなった。オスマンによるパリ改造によってパリはスクラップアンドビルドを繰り返している。臭いの留まる曲がりくねった小路は数を減らし、光と空気の突き抜ける大路へと姿を変えた。衛生的な空間はエメの鼻にはどうも寒々しく感じられる。
臭いに遅れてジャスミンとローズが届く。浅い眠りの代わりに身体を回復させるために枕元へと垂らしたグラース産の精油。鼻の調子は悪くない。エメは腕を回す。身体の調子も悪くないようだ。ただただ精神が病んでいるのだ。ふっと鼻から息を吐く。それは幻覚に向けた覚悟だった。
エメは蜂のデザインがあしらわれた〈オーデコロン・イムペリアル〉を手にとる。ガラスの蓋をしわがれた指でつまむ。そっと鼻を小壜の口へ近づける。
まずベルガモットとシトロンのフレッシュな柑橘類の香りが鼻を刺激する。はっと目が覚めるような爽やかさ。その刺激と戯れるかのように遅れてやってきたローズマリーやオレンジフラワーのフローラルな香りが刺激と調和し和らいだ香りへと変貌していく。洗練されたフローラルシトラスの高貴な香りはまさに王道、イムペリアルの名にふさわしい。
まどろむように視界が揺らぎ暗転していく。ピエールの香水は病を引き出す。エメはもう幾度も繰り返した体験にあらがうことはせず、力を抜いて心身を任せる。闇は光を取り戻していく。ぼんやりと浮かび上がったのはまだ生きていた時のピエールの顔だった。穏やかな表情だ。今回はエメに調香を教える厳しい師の場面ではなかった。
「おっ今日はエメが俺の香水を見繕ってくれるのか?」
野太い声がエメの意識を混濁から引き上げた。声の主はバックヤードに入ってくるなりエメに近寄り、声質と似た太い手でエメの頭をくしゃくしゃに撫でる。
「やめてよ」
五歳のエメはその男、文豪オノレ・ド・バルザックの手を振り払い、父ピエールの足元に隠れる。 これは夢なのだろうか? いや夢であるはずがない。この場面は三度目になる。過去の二回、全員が同じ振る舞いをしている。三回目も同じようだ。エメ自身も身体の自由が効くことはない。好きな言葉も発せない。幼い自分にすべての言動を任せるほかない。
ふっとピエールの足元から苔の香りがした。唯一、鼻だけがこの演劇のような世界で、大人のエメの経験と精神を引き継いでいた。匂いと臭いが夢ではなく現実であることを強く訴えている。確かこの時期のピエールはさまざまな土地を訪ねてはまだ香水に使われていない香りを持ち帰っていた。苔とパチュリの香る〈シプル〉が作られたのはこの時から一年も経たないうちだった。
「ほら、大丈夫だから出ておいで。バルザックもエメにちょっかいをかけるな。泣いたり叫んだりしたら他の客の迷惑だ。みなメゾン・ゲランの雰囲気までも楽しんでいるというのに」
「香水は香りを堪能するための商品だというのに。フランス中の貴婦人が魔術師ピエールに踊らされていることに気づいてさえいない」
憎まれ口を叩いたバルザックは眉間に皺を寄せ口ひげを指先で揉む。妙だがなぜかこの豪快な男に似合う癖だった。
「最先端のビジネスだ。そうだろう?」
ピエールの言葉にバルザックは口角をあげ、満足そうな笑みを浮かべた。
「ところで、今日は何が欲しいんだ?」
「また同じやつにしてくれ。あれのおかげで『セザール・ビロドー』が書けたんだ。ピエール様々だ」
ピエールは原稿が進まないバルザックのために専用の香りを調香した。そのおかげかバルザックは瞬く間に香水商を題材にした長編を書き上げた。
「全部読むのも面倒だが、まさかあれは私のことじゃあるまいな」
きっと睨んだピエールを相手にバルザックは豪快に笑う。
「まさか。魔術師ピエールはセザールほどおろかじゃないだろう」
ピエールは溜め息を吐くと、原料を取ってくると扉の奧へ姿を消した。エメはその後ろをついていく。
「お前はここで待ってなさい」
振り返り腰をかがめたピエールがそうエメに告げるのとバルザックがエメの腋に手を差し込んで抱え上げたのは同時だった。
「ほら、嫌なことはしねえから、親父が戻ってくるまでおとなしく待ってろ」
バルザックの顔が近くにある。でっぷりと太った顔にコーヒーで黄ばんだ歯、とうに病に冒されていたのかもしれない。晩年のバルザックは失明しずいぶんと早くに亡くなった。幼いエメは空中で身をよじらせる。バルザックは落とさないように慌ててエメを椅子に放る。
「エメ、そう嫌わないでくれよ。俺は悲しいぞ」
「……別に嫌いじゃない」
「じゃあ、好きか?」
エメはぷいとそっぽを向くとピエールとは逆、店舗側の扉に寄って木枠にぺたりと張りつく。店舗に入らないことを安心したのか、バルザックはエメが座っていた椅子に勢いよく腰を落とし、太く短いひとさし指でテーブルをリズミカルに打った。
広々とした店内をきらびやかなシャンデリアが明るく照らす。天井まで届く意匠にこった棚に囲まれ、中には彩り豊かなゲランの香水壜がところ狭しと並ぶ。カウンターには貴婦人が店員に自身に最も似合う香りを選ぶように指示を出している。その隣の貴族男性は合う香水がなかったようだ。店員は男性から要望を聞き出している。誰しもがピエールの香水を求めてメゾン・ゲランへ足を運んだ。
部屋の中央に設けられた三つの椅子すべては貴婦人で埋まり、何かを語り合っている。
「あーあ、ピエールの術中にはまって。きっと意味のない会話をしながら、メゾン・ゲランの風景になることに極上の喜びを感じているんだろうよ」
気がつくとバルザックがエメの後ろに立って三人に悪態をついていた。落ち着かない男だ。バルザックは度々客のいなくなった夕刻から夜にかけて小説家仲間を呼び寄せてはあの中央の椅子で酒と女と創作談義に花を咲かせていた。時折、その輪にピエールも加わった。自由な振る舞いにぶつくさと文句を言うことが多いが、ピエールはバルザックを好いていた。
開放された店の入り口の外、懐かしい昔のリヴォリ通りが視界に入る。通りは陽光を一心に浴びて白く輝いている。コンコルド広場から始まるパリの中心となる通り。ピエールはこの一等地のホテル、ル・ムーリス一階に香水店を開いた。それまでの香水店とは輸入したイギリス香水を売るか、革手袋用の単純なフローラル調の香りを売るか、酢を売るかだけだった。だからこそ他の香水商はピエールが始めた豪華な店構え、貴族に場を提供するような商売の方法に眉をひそめた。
来年にはピエールはパリ中の最高級店が並ぶラ・ペ通りの十五番地にメゾン・ゲランを移転する。
「また俺の悪口を言っているんだろう。よしいい子に待ってたか」
ピエールはあきれ顔を浮かべながらエメの頭に手を乗せる。五十を過ぎた自分より若いピエールに子供扱いされるのをどこか気恥ずかしく、そして懐かしく感じた。
ピエールは二つの香水壜を手に持っていた。一つは試作用の小さな小壜に詰められたほんのわずかに黄緑みを帯びた透明な液体。エメはその正体を知っている。
「どうだ?」
ピエールが小壜をバルザックに渡す。バルザックは蓋を引き抜く。フローラルシトラスの香りが立つ。この場面から十数年後にピエールがウージェニー皇后へ献上した香り。ピエールは既にその試作品を完成させていた。バルザックは小壜の口を嗅ぐと、鼻筋の通った巨大な鼻に皺を寄せる。
「気に食わん」
バルザックはピエールを睨む。鋭い視線に思わずエメは唾を飲んだ。ピエールはバルザックを睨み返す。ほんのわずかな間だったが、ぴりりとした緊張がバックヤードを支配した。
「しかし」
厳しい顔とは裏腹に、話しはじめたバルザックの声は温かく力強い語り口だった。
「メゾン・ゲランに名声を与える最高の香りだ。俺は気に食わんがね」
バルザックの言葉にピエールは表情を緩めた。
「君の鼻はメゾン・ゲランの雰囲気に左右されず香り単体で正確な評価をする。安心した。これは貴族相手に大々的に売りに出すことにする」
バルザックは首を横に振る。
「ピエール。お前のことだ。他にも素晴らしい香りを生み出すだろう。その香りはもっと洗練させることが出来るんじゃないか。ただ貴族に売り出すのではなく然るべき機会が訪れた時に出すべき香りだと思うぞ。俺は気に食わんから手伝ってやらんが」
ピエールは目を瞬かせた。
「気にくわない香りをそこまで褒めるなんて珍しいな。なるほど。もう少し練り上げて機会を待つことにする」
名香であることに間違いなかった。しかしバルザックもピエールも皇后に認められることになるとはこれっぽっちも思っていなかっただろう。バルザックの言葉のせいでピエールはこの香りを世に出すタイミングを逸したとも言える。しかし、そのことが十数年後のピエール最大の栄誉に繋がることになる。エメはその真実に驚いていた。
「まあ、好きにするといい。それよりも俺の香水は?」
ピエールが持ったもう一つはバルザックのための香水だった。
「たっぷりとシベットは入れてくれたんだろうな」
バルザックはひと昔前の動物性香料のムスク、シベット、カストル、アンバーグリスを好んでいた。特に霊猫の分泌物であるシベットを大量に入れた香水が最も執筆が進むと愛用している。
「あまり単体で入れすぎると下品になるぞ」
薄めて使用するものだが、糞尿臭くてかなわないとピエールはシベットの原料を店舗から最も離れたところに保管していた。
「シベットはグラース産のジャスミンにほんのわずかに入れるのがよいんだよ。こんなたっぷりと入れる古くさい使い方では人々を魅了できない」
香水壜を受けとったバルザックは蓋を開ける。濃厚でコクのある香りが立つ。五十四のエメの頃になるとシベットはほとんど使われなくなった。濃くするにしたがって糞尿感が強くなる。
「この方がたぎる。だが他の香水商に作らせると鼻がひん曲がって最悪の品が出来る。ピエールのシベットがいいんだ」
バルザックの言うとおり、ピエールの香水はシベットがたっぷりと使われている割に不快な糞尿の香りが確かに存在するが目立たなかった。トップノートにシベットの不快感を打ち消すようになんらかの花が混ぜ合わされているようだ。グラース産のジャスミンではない。エメはその秘密が知りたかった。
「大衆を惹きつける現代風の香水にするには、足りないパーツが多すぎるがな。バルザックくらいの変わり者しか気に入らないだろう」
嗅ぎたい。強く願うが幼いエメにとってシベットに宿る獣の存在がどうも苦手だった。バルザックから距離を取って鼻をつまんでいる。一度目はこのことに関心を持たなかった。二度目は香りが立ってすぐに距離をとった。
嗅ぎたい。ピエールはシベットに何を加えたのだろうか? エメは鼻をひくつかせようと何度も試みる。嗅ぎたい。強く願う。幼いエメではなく五十のエメの経験があれば、ピエールとバルザックの香水の秘密の欠片を見出すことが出来るかもしれない。嗅ぎたい。
すん。小さい音がエメの耳に届いた。バルザックが鼻をすする音だろうか? 二度の過去旅行ではそんな音は聞いていない。そしてバルザックとピエールは今、動物性香料の魅力と可能性について語り合っている。
すん。二回目が聞こえた。音の出所はエメの鼻だった。大人のエメの意思に応えて、幼いエメがバルザックの手元をめがけて空気を吸う。多少の距離はエメの鋭い鼻にとってはなんら影響なかった。香りは目や耳よりも雄大に語る。鼻を通った香りはエメを快感で満たす。
脳裏に浮かび上がってきたのは薄紫の花群れ。ラベンダー。シベットの強烈な臭い届くまでにいくつかの花の香りが立っている。エメはその花園に咲いているラベンダーを見つける。花の快感がやがてくる臭い惑溺までの道筋を見事に演出していた。他の調香師ではこうはならないだろう。ピエールの手腕がなせる技だった。あらためて父の偉大さを目の当たりにする。
三度目にして初めてこの世界で任意の行動ができたことにエメは驚きを隠せなかった。もっと嗅ぎたい。シベットとラベンダーの他にもなにか秘密があるかもしれない。しかし、幼いエメが老いたエメの意思通りに鼻をこれ以上動かすことはなかった。
椅子に座るエメの前で、バルザックとピエールが話し込んでいる。ふたりの輪郭が徐々におぼろげになっていく。瞼がゆっくりと閉じられる。幼いエメは疲れ果ててしまったのだろう。一度目、二度目と同じく、ここで現代に戻されるようだ。バルザックの豪快な声が薄れていく。ピエールの苔の匂いが離れていく。暗闇の中、エメは意識を失った。
椅子の背に体重をあずけた状態でエメは目を覚ました。木机の上には〈オーデコロン・イムペリアル〉が口を剥き出しにして置かれてある。エメの右手にその蓋がしっかりと握られていた。エメは蓋を壜口に押し込む。五十四年分、しっかりと枯れた手だった。
この〈オーデコロン・イムペリアル〉を嗅ぐたびに意識を失う訳ではない。しかし時折、父の名香は過去の父の元にエメを導いた。
石油ランプの灯りをじっと見つめているうちに、眠気がエメを襲ってきた。エメははっとして、頬を張る。慌ててペンと紙を取り出す。シベット、ラベンダーと上部に大きく書き出すと、その下に小さく原料の名を書いては横線を引くことを繰り返した。
神が何を目的にエメに過去の映像を見せているのかは定かではない。しかし今回の旅では、ほんの一瞬エメは鼻をうごかすことができた。ここに神の意志が宿っているのではないか? 神は老いたエメに鞭を打ち、名香を作らせようとしている。そう考えるのは都合のよい解釈かもしれない。しかしエメはすがることに決めた。
「神に感謝しよう。わたしは何も生み出せていない。しかし、まだ生み出せていないだけなのだ」
***
十九世紀のフランスを代表する文豪オノレ・ド・バルザックは著書『セザール・ビロトー』の中で、セザールは新しいコンセプトの香水店――従来のパリの香水店とは異なり、ただ香水単体を売るのではなく、香水のイメージを表現したシックな店構え――を計画している。このような店舗を現実世界で初めて作りフランスを世界一、最先端の香水市場にした人物こそピエール・フランソワ=パスカル・ゲランである。セザールはピエールをモデルとしたともいわれている。
バルザックをはじめ、数々の名士がピエールのメゾン・ゲランにオーダーメイドの香水を注文した事が記録として残っている。おそらくピエールとの交流の中で『セザール・ビロトー』を書き上げたのだろう。
バルザックはどのような香水を好み、ピエールに依頼していたのだろうか? 残念ながらその記録は残っていない。
ピエールはメゾン・ゲランの跡継ぎとして息子エメ・ゲランを厳しく育て上げた。やがて二代目調香師となったエメは経営を担う弟ガブリエル・ゲランとともにメゾンを発展させる。
一八八九年、四回目のパリ万博が開かれる年にエメはゲラン最高傑作ともいわれる名香〈ジッキー〉を創り上げる。〈ジッキー〉は香水の世界に革命をもたらした。その誕生前後では香水の概念が全く異なる。これまでは草花や野良猫といった自然界の香りを人間に従属させる手段だった。しかし〈ジッキー〉以後の香水はセクシャルな魅力を獲得し、まるで自我を持った存在となった。人々は自身の香りを是として引き立たせようとするのではなく、香水の香りこそ自身が放つ香りだと主張するようになった。
なぜエメ・ゲランにそのような香水が生み出すことができたのだろうか? エメは神に愛された天才であることは間違いない。しかしながらその誕生、および処方には不可解な点が多い。
一八八九年というと、エメ・ゲランが五十五歳
のときである。五十五、エメがピエールから調香師の座を継いで二十七年の時が流れている。天才の鼻はそれまでどこをさまよい歩いていたのだろうか。
ラベンダー、ローズマリー、ベルガモット、バジル、ローリエが〈ジッキー〉の香り立ちを支える。匂いは音楽を奏でるように変化する。やわらかいサンダルウッド、温かいシナモン、ここでこの香水のベースとなる臭いが現れる。ありえない量のシベットである。鍛え抜かれたパリの調香師たちは〈ジッキー〉を嗅ぐことでセンスと困惑を感じただろう。よりによって半端ない量のシベットである。たしかに十九世紀半ばまでは使われていた。しかしこの原料は病理と衛生に目覚めたパリの住民たちが忌避したはずの香りだった。老いたはずのエメは霊猫の糞尿を大量に入れる冒険を試み、成功した。エメ・ゲランは天才である。しかしその天才性が発揮された、つまり鼻と勇気が晩年に直行したきっかけがあるのではないだろうか。
『ゲラン帝国とゲルリナーデの謎』第三章「ピエール・フランソワ=パスカル・ゲランのバトン」より抜粋
2
メゾン・ゲランの二階にはエメのための調香部屋が設けられていた。入口扉から最も離れた壁際には調香台が置かれ、その棚には数百種類にも及ぶエキスやチンキが入った壜が大小様々に並べられている。
エメは調香台の傍で腕を組み唸っていた。周囲にはエタノールが入った大瓶、これまた大容量のフラスコ――中にはラベンダーエキスを含んだシベットが入った――がある。大瓶とフラスコの隙間を埋めるようにたくさんの香料の小壜や硝子ピペットが乱雑に転がっている。
エメは隣の台に移る。調合した試作品入りのフラスコが横一列に十二個並んでいる。フラスコを重しとして、処方――エタノールが何グラム、エキスが何グラム、チンキが何グラムと、それぞれの配合量が紙に書かれてある――が挟まっている。 エメは右端のフラスコを手に取って蓋をとるが、すぐさま蓋を閉めて、台の奧へと追いやった。そして右端のフラスコの処方を手にすると、手でくしゃくしゃに丸める。臭すぎる。霊猫の糞尿をそのまま鼻に突っ込まれたような嫌悪感そのものだった。
二つ目、シベットの臭みはほとんど感じられない。しかしエメはこの処方もくしゃくしゃに丸めて床へ放った。何も調和を生み出していない。シベットを抑え込むほど強烈にジャスミンを加えただけだ。
三つ目、四つ目……と繰り返し、十の試作品は無能な調香師であっても作らないだろう駄作ばかりだった。当然だ。大量のシベットを使うこと自体、現代の調香の常識から外れている。
残り二つ。エメは特に理由もなく目に付いた左端のフラスコに手を伸ばす。これも駄作だった。
「さて、最後一つは果たして」
蓋を取る。悪くない。フローラル調から濃厚なシベットへ印象の受け渡しに一本の線が通っている。それはあまりにも細く雑で到底成功とは言えない程度の品質であったが他の十一の駄作とも違う可能性を秘めていた。処方を見る。どの香料が効いているのであろうか?
「くそっ、これだけではさっぱり分からん」
エメは慌てて、床に散らばった十一の処方を拾い広げると台に押しつけながら皺を手で伸ばす。椅子を引き寄せてどさりと座る。一枚の皺のない処方と十一の皺だらけの処方を無言でじっと見つめる。どの原料が効いているのか、どの量が正しいのか。ずいぶんと時間が経った。
「……ローリエか!」
適量のローリエが与えるスパイシーさがシベットの香りの頭をうまく潰している。
ピエールとバルザックの過去を見て名香を作ると決意してから一週間が経っていた。百以上の処方を試してようやく掴んだ成果だった。二週間のあいだに二度、過去を見ようと試みたが一度はピエールの死の場面に飛んだ。
そして昨夜、四度目のバルザックとの対面を果たしたが、結果はエメを落胆させるものだった。三度目と同じようにエメは過去の場面でわずかに鼻を動かすことができた。しかし二週間の試作を経たエメの鼻は、敏感にピエールの処方を嗅ぎとった。
バルザックのための香水は蠱惑的ですばらしい。しかしそれはピエールの時代にあってこそだった。パリの香水は進化している。それは調香師の技術とともに顧客の鼻が洗練されていることを意味する。ほとんど嗅いだことがなかったシベットと二週間をともに過ごしてきた。バルザックの香水は
まだシベットの魅力を最大限に引き出していない。あのままではエメの時代の名香になり得ない。
エメが先ほどの十一番目の試作品をフラスコからいくつかの香水壜に分注している最中のことだった。調香部屋の扉が叩かれる。
「なんだ?」
「エメ様、ミツコです。手紙を出してきました。それと頼まれていた精油を持って参りました」
エメの小姓であるミツコの声だった。心なしかいつもの快活とした声ではなく、ややくぐもっていた。
「ミツコか。入ってよい」
エメの了承から間を空けずに扉が音を立てて勢いよく開かれる。姿を現したのはエメよりも頭ひとつ低い黒髪を携えたミツコだった。その胸に貴重な精油が入った壜をいくつか抱えている。精油を受けとろうとミツコに近寄ったエメはぎょっとして動きを止めた。ミツコがこちらを睨んでいる。
「何事ですか、この臭いは」
ミツコはエメに詰め寄ると精油を放るようにエメに押しつける。ひと壜でそこらの香料の百倍はくだらない高価なものもある。エメは落とさないようい必死で抱きかかえる。
「ミツコ! 精油がどれほど貴重なものか分かって――」
顔を上げた先にミツコはいなかった。きい、と両開き窓が開かれる音がした。パリの風が窓から入り込み、シベットのこもった調香部屋の空気を扉の外へ吐き出した。馬車が巻き上げた土や建材の石の臭いを運びながら、風はメモをとったばかりの十二の処方をふわりと巻き上げる。
エメはミツコがいる窓ではなく、風の力で少しばかり重くなっている扉を閉める。処方は床の上にはらりと落ちた。エメは数回に分けてしゃがんでは処方を拾い上げた。エメが痛む腰をさすっている間にミツコは二つ隣の両開き窓を開けていた。部屋を突き抜ける風はなくなった。エメは握りしめた処方をミツコに突きつける。
「ミツコ、聞いてくれ。ようやく一歩前進だ。ラベンダーだけでなくローリエも大事だったんだ」
ミツコは目を輝かせる年老いた調香師を見て溜め息を漏らした。ただし、つり上げていた眉をハの字に変えて、まるで子供の好奇心にあきれ果てた親の顔のようだった。
「シベットの香水を作るとは聞いておりましたがこんな高濃度で使うだなんて。鼻がひん曲がって落ちるところでした。扉を開けずに帰ろうかと思いましたよ」
シベットとの格闘に夢中で、室内が臭さで満杯になっていることなど気にもしていなかった。
「なに? それはまずい。メゾンの客は大丈夫だったのか」
「ご安心ください。誰も気づいておりませんでした。メゾンよりもご自分の心配をしてください。あまりに濃い霊猫の分泌物と遊びすぎますとエメ様の精神が病んでしまいます。今、このお部屋は公衆トイレットと変わりありませんよ。いやそれ以上かも」
エメはメゾンに影響がないことを知って胸をなで下ろす。
「それにしても公衆トイレットとは……主人の仕事部屋に対してその物言いはないだろう?」
「ちゃんと手紙も運びましたし、ちゃんと精油も持ってきました。なんて立派な小姓でしょうか。エメ様、そんなことよりもシベット香水の試作品、ぜひわたしにも嗅がせて下さい」
この小生意気な小姓ミツコと出会ったのはわずか一年前、エメがグラースの精油蒸留会社へメゾン・ゲラン専用原料の製造方法のいくつかを検討しに行った帰りのことだった。
ミツコはグラースの入口でひと仕事終えたエメが出てくるのを待っていた。これから速度を上げて走り出そうとする自家用馬車の前に立ち塞がり「エメ・ゲラン様」と叫んだ。そして首をかしげるエメに向かって小姓になりたいと告げた。
メゾン・ゲランに取り入ろうとする者は多い。エメは無視をして立ち去ろうとしたが、ミツコは突然叫んだ。それは驚くべきことにエメの荷物の中に入っている香料を余すことなくひとつずつ言い放っていたのだった。たった今グラースから持ち帰ろうとしていた、まだ世に出ていない精油までをも言い当てた。
――私は鼻がいいのです。あなたの調香を手伝わせてください。
エメの中で恐ろしさと好奇心が戦い始めた。エメと同等の嗅覚を持つ人間は父ピエール以外には周囲には存在しなかった。目の前の人物をじっくりと観察する。次いですん、とエメは鼻を吸い、目を見開く。およそ人間とは思えない不可思議な魅力を放っている。
パリ中を探し回ってもここまで臭いの少ない人間はいないだろう。蒸れた汗に垢、口内の食物、尿などの臭いがほとんどない。ほのかな甘い匂いがした。果実だろうか。杏、いや桃のような。エメがこれまでに嗅いだことのない香りだった。
髪の色は明らかに東洋人にも関わらず、パリの少年少女よりも肌が白く見える。肌の色にムラがないのだ。まるで白磁器のようにつるりと均一な肌をしている。本当の天使は黒髪に黒い瞳を保有していると言われれば、そっくりそのまま信じてしまいそうな危うさがあった。
つまりは好奇心に軍配が上がった。エメはミツコに馬車に乗るように伝えた。
それから一年、ミツコは対外的にはエメの小姓として振る舞い、生活を共にした。周囲には中国人の少年だと告げている。ミツコと初めて会ったグラースからの帰路にて、二十代後半の日本人だと訂正された際は、思わず目をしばたたかせた。日本人など新聞でしか見たことがない。見た目も女性には見えない。周囲から奇異な目を向けられることは間違いなかった。そこで近年パリにも増えてきた中国人を小姓として雇い入れたことにし、連れだって歩かせた。
ミツコは人前ではきっちりと小姓を演じきっていた。しかしながら、ひとたびエメとふたりきりになればミツコはエメと同じ視線で真摯に香りに向き合った。エメはことあるごとにミツコと香りについて語りあった。ふたりにとって見ることや聞くこと以上に嗅ぐことが世界を彩っていた。ふたりの間には年齢も性別も国籍さえも存在していなかった。
「ちょっとエメ様、聞いてます? ローリエ入りの試作品を嗅がせて下さいよ」
「すまない。ちょっと昔のことを思い返していた。これから試香紙で確認するところだったんだ」
エメは調香台のひきだしから試香紙を二枚とり出す。分注した香水壜のひとつを手にとり蓋を開けようとした。その時、階段をかけあがる音が響いてきた。エメは香水壜を開ける手を止める。待たされる羽目になったミツコは露骨に眉間に皺を寄せる。
「エメおじさん、ご挨拶に参りました」
エメの弟ガブリエルの息子ピエールだった。ガブリエルは長男にゲラン創業者の名をつけた。
「ピエール、久しぶりだな。ちょうど今、調香の途中だ。あまり話はできなさそうなんだ」
本心ではピエールとゆっくり話をしたかったがあまりミツコを待たせるのも悪い。
「いえ、ジャックを追いかけないといけなくて。私もすぐに失礼させていただこうと思います」
「なんだ、ジャックも来ていたのか。顔ぐらい見せてくれたらいいのに」
「当初はふたりでエメおじさんにご挨拶するつもりだったのですが、先ほど突然ジャックが走り去ってしまいまして。顔色が悪いようにも見えたので、家に戻ったのかと。歩みはしっかりとしていましたので大事には至らないかと思いますが、念のため私も戻ります」
ピエールが頭を下げる。その拍子にハンカチーフがはらりと宙を舞った。エメとミツコはふたりしてハンカチーフが床に落ちるまでをじっと見つめていた。ピエールはハンカチーフを拾い上げようとしたが、目の前のふたりがハンカチーフに向かって鼻を鳴らし始めたことにぎょっとしたのか伸ばした手を引っ込める。
「どうかされましたか?」
「ピエール、珍しい香水を持っているな。ゲランじゃない。ウビガンの――」
エメの言葉にピエールは大きく目を見開く。
「分かるのですか? 染みこませたのはほんのわずかで、それもかなり時間が経っているというのに……。さすがはメゾン・グランが誇る調香師です」
エメはゆっくりと首を横に振った。
「ただ鼻がよいだけだ。お前と同じ名の初代が創った〈オーデコロン・イムペリアル〉のように時代を代表する名香を生み出してこそゲランの調香師だよ」
「そんなことありませんよ! 〈フルール・ディタリ〉も〈ロココ〉も素晴らしい香りです。メゾン・グランが誇るべき商品です」
ピエールは素直で優しく、それでいてきっちりと残酷な男だった。誇るべき『香り』ではなく『商品』と言い換えた。嘘はつけない性格なのだ。エメの香水が良作ではあっても傑作には届いていないことを理解している。鼻こそよくないが、ピエールであればガブリエルの商才を継いでメゾン・ゲランを大いに発展させるであろう。必要なのは伴侶となる優秀な調香師だ。
「ありがとう。未来のゲラン代表にそう言ってもらえてほっとしたよ」
「ご冗談を」
エメの穏やかな態度に促されるようにピエールは強張った表情を緩めた。落としっぱなしであったハンカチーフをミツコが拾う。ほこりを払うとピエールに差し出す。
「トンカビーンのあたたかな甘み。ウビガン社の〈フジェール・ロワイヤル〉ですね」
ピエールはミツコをじっと見つめた。
「知らなかった。君も鼻がいいのですね」
「エメ様ほどじゃないですけどね」
エメの見立てではおおよそ鼻のよさで言えばエメとミツコに遜色はなかった。知識の量でいえばどこで学んだのか、ミツコはエメの知らない香りまでをも知ってた。
「その〈フジェール・ロワイヤル〉はどこで手に入れた? それなりに高価なはずだが」
「ジャックが持っていたのです。もう不要になったからと押しつけられるような形で渡されまして……」
ピエールは首をかしげた。
「ジャックが?」
次はエメが首をかしげる番だった。
「はい、おそらく父が購入したものだと」
「ガブリエル?」
エメの頭の中にいくつかの可能性がよぎったが、あまり納得のある結論には至らなかった。既に〈フジェール・ロワイヤル〉の空壜をガブリエルは持っているはずだった。五年以上前の他社商品をふたたび研究しようというのだろうか? そうであるならばエメに相談があって然るべきだろう。不要になったとしてもこちらによこさず、ジャックに渡す理由が思いつかない。
「エメおじさん、私はそろそろジャックを追おうかと思うのですが」
「ん、ああ。顔を出してくれてありがとう。またいつでも遊びに来ておくれ」
ピエールは頭を下げるとそそくさと去っていく。階段をかけおりる音とわずかな揺れが調香部屋に届く。エメは鼻先をつまんで考え込む。
容器開発のためでないのなら、なぜガブリエルは〈フジェール・ロワイヤル〉を必要としたのか? 売れている商品ではある。しかしゲランが向かうべき香りとしては足りない。まさか、ガブリエルは調香に口を出すつもりなのか? 不文律を破り市場を見ろなどと馬鹿げたことをいいだすのではないか? もしくは、一向に弟子をとらないエメに変わる調香師を探しているのか?
エメは頭を激しく横に振った。考えすぎだ。あり得ない。ガブリエルはそんな思慮の浅い男ではない。まだ嗅いだことのない未知なる香りは無限に近く存在する。それを生み出すのがメゾン・ゲランの使命であり、父の教えだ。
「エメ様、お顔がまるで怪物のようですよ。ピエール様がびっくりして逃げ出しちゃったじゃないですか」
ミツコがあきれ顔で指した先には鏡があった。そこには眉間に皺を寄せた気難しそうな男が映っていた。
「情けない顔だ」
「全くもってその通りです。エメ様は卑屈過ぎますよ。おそらく鼻がいいことを自覚しているから余計に名香を生み出せていないことに引け目を感じているんでしょうけど」
ミツコはシベット香水の試作品が入った小壜を掴むとエメに押しつける。
「ほら、名香を作るんでしょう? というか、エメ様の悩みとかはどうでもいいです。わたしが嗅ぎたいので早くしてください」
ミツコの勢いに押されるようにエメは試香紙の準備を始めた。のろのろと作業を進めている内に目の前の香水もどきがどんな振る舞いをするのか、心の奥から期待と快楽が漏れ出してきた。エメは溜め息をひとつ吐く。
「ミツコの言う通りだ。ガブリエルがどうとか、メゾン・ゲランがどうとか、もっと言えば私が老いてなお名香を生み出していないことなど関係がないな。これからの私が満足する香りを生み出せるかどうかだけが、ひたすらに調香のために鼻を向け続けるかどうかだけが重要な気がする」
ミツコは無言でしっかりと頷きを返す。エメは香水壜の蓋をあけると、その口に一枚目の試香紙を差し込む。試香紙の先端が十分に濡れたことを確認すると、そっと引き上げて壜口で余分な香料を落とす。数回振ってほんのわずかにアルコールを飛ばし、ミツコに差し出す。同じようにもう一枚を準備する。
顔を見合わせたふたりは試香紙に鋭敏な鼻を近づける。ふっとラベンダーを含んだフローラル調の香りが立つ。しばらくするとローリエのスパイシー調が目立ってくる。そしてシベットが濃い臭みを主張し始める。ミツコは顔をしかめながらも何度も試香紙を近づけては離してを繰り返している。「確かにローリエが効いてますね。シベットの臭みの中の不快な部分だけをうまく抑えている。ラベンダーともわずかながらに繋がっている」
ミツコは試香紙挟みに嗅いでいた試香紙を保持させると新しい試香紙を取り出してもう一度シベット香水につけた。
「ラベンダーが主張しすぎている気がするんです。柑橘系の香料を入れた試作品はありませんか?」
エメは試作品中から二本、ライムとオレンジがそれぞれはいったフラスコを取り出した。
「こっちがライムで、こっちがオレンジだ」
エメはフラスコの蓋を開けて嗅いだ後にミツコへ渡す。嗅いでいる最中のミツコにエメが話しかける。
「ローリエが入っていないからシベットへの繋ぎは無視したとして、ちょっとフレッシュネスが強すぎるんじゃないか」
「そうですね。もう少しだけ量を減らして、かつビターにしたいところです」
「なるほど。一理あるな」
エメは調香台へ戻ると新たに試作品を作り始める。二つの香料を試す。一つは香料棚の二段目にあるビターオレンジの果皮エキス、そしてもう一方はミツコが先ほど持ってきた精油の中から一つを選ぶ。
シベット、ラベンダー、ローリエの混合物にそれぞれの香料を数滴だけ混ぜる。そこへエタノールを注いで混ぜる。完成した試作品ふたつを持ってミツコの元に戻る。
「こっちがビターオレンジ果皮エキス」
ミツコが嗅ぎ、エメが嗅ぐ。
「苦みが強すぎますね。それにオレンジとラベンダーがそれぞれ別にいる感覚がします」
エメは首肯する。そしてもう一方のフラスコを差し出す。ミツコは嗅ぐと目を見開いた。
「ベルガモットの精油! 確かにこちらの方がまとまりがいい。ラベンダーとうまく調和しています」
エメは紙とペンを取り出すと新しく処方を書き起こす。シベット、ラベンダー、ローリエ、ベルガモット、エタノール――
「まだ改良の余地はある。ベルガモットとラベンダーはよいが、そこからローリエへ移る線が細すぎる」
ミツコは深く二度頷きエメへの同意を示している。
「そして何より問題なのは」
エメの言葉にミツコは試香紙挟みに保持してあった試香紙をふたたび手にして嗅ぐ。ミツコは顔を大きくしかめ、手に持った試香紙をエメに渡す。エメはそれを嗅いで肩を落とす。
「残ったシベットが臭すぎる。終わりの印象が糞尿そのものなど、最悪でしかない」
壜から直接嗅ぐ場合は絶えずトップノート、ミドルノートの香料もラストノートのシベットと一緒に供給される。しかしある程度飛ばしてラストノートだけが残った時、他のラストノートを構成する原料よりもシベットの存在感が明らかに強すぎた。シベットのみ残っていると言っても過言ではない。
「そもそも強烈なシベットを、それも大量に入れているのですからこうなるのはある種仕方がないとは思いますが。配合量を下げることは――」
「しない」
エメの脳裏に父ピエールとバルザックの姿が思い浮かぶ。〈オーデコロン・イムペリアル〉のような名香を生み出すには、バルザックのシベット香水を進化させるべきだと、不遇な調香師の本能が告げていた。
ミツコはなぜか満足げな笑みを浮かべていた。
「まだ時間もありますし、ふたりで頑張りましょうか」
その後はもっとも大きな問題であるシベットの糞尿感を抑えるための方法に取り組んだ。
まずはウッディ系の香りを加えていく。サンダルウッド、シダーウッド、パチュリ、モス、シナモン――どれも効果が見られない。ならば、とエメはシベットと同じ動物性香料を混ぜていく。ムスク、カストル、アンバーグリス。これらはいくら配合量や組み合わせをいじってもシベットを引き立たせるのではなく競合相手としか振る舞わなかった。
「もう一度」
エメはペンを走らせる。記されていたのはこれまで試した香料をより複雑に組み合わせたものだった。ミツコはそれをみて唸った。
「なんだミツコ、もう諦めるのか?」
「エメ様ほどの人が気づいていないわけないかと存じますが、その組み合わせにどれほどの意味がありますか? あなたは平凡な調香師ではないのです。その処方はすでに頭の中で香っているはずです」
やはりミツコには見透かされている。エメは深く目を閉じる。音を世界から遠ざける。鼻に集中する。たった今書き上げたばかりの処方が非実在の、だが確かな匂いとなって鼻を刺激し始めた。幻の試作品たちは全てシベットを活かしきれていなかった。
「ああ、全部失敗だ」
窓の外を眺めると、太陽が頂点を過ぎて傾きはじめた頃合いだった。まだ試作する時間は十分にあったが、失敗の連続でエメの心は疲れ果てていた。
「今日はこれで終わろう」
ローリエとベルガモットを見つけたことでシベットへ繋ぐバトンは今日一日でずいぶんと進歩した。時間はかかるだろうが、やがて答えにたどり着くだろう。
問題はいくつかの香りが去った後のベースだった。大量のシベットが生み出す恍惚を保ったまま
鼻が曲がるかの様な悪臭を変貌させなければならない。花束のような香料ばかりが世に溢れていて、主張の強い香料はそこまで多くない。そのほとんどを今日試しきったのだ。完成まで途方もない試作を繰り返さなければならないことは明らかだった。
「大丈夫ですよ。エメ様は間違いなく非凡な調香師ですから」
ミツコの言動は心の底からエメの力量を疑っていない態度に感じられた。彼女はなにを根拠にしてエメを信頼しているのだろうか? 強い励ましはむしろエメの心を存分にえぐった。『これからの私が満足する香りを生み出せるかどうかだけ』と思う心に偽りはない。今やらなければ、何も生み出せなかった調香師としての死が訪れるのみ。覚悟を持ってやりきるしかないのだ。分かってはいる。しかし気力は試作を繰り返すごとに否応なしにすり減っていく。
「ミツコ。私は名香を作るぞ」
おもわず口にせずにはいられなかった。しかし気力を補うはずの力をその言葉は持っていなかった。
***
名香〈ジッキー〉はまさに歴史の転換点となる香水であった。〈ジッキー〉誕生から二百年以上続く現代の香水が始まったといわれている。
エメ・ゲランは①古くから使用されていた動物性香料、②エメ・ゲラン時代に最盛期を迎えていたフローラル系香料、③当時香水にほとんど使われていなかった合成香料の三種を採用した。それはまさに過去、現在、未来のすべての要素を有していた。香水は奥行きを手に入れ、香りの変化で物語る芸術的な側面も持つこととなった。
エメは五十五歳を過ぎてようやく才能を開花させた。弟のガブリエル・ゲランはこの時を待ちわびていたのかもしれない。当時、香水は簡素な薬瓶に入れられることが多かった。しかしガブリエルは〈ジッキー〉のためにバカラと組んでシャンパンボトルのような栓の付いた美しい青色のガラス容器を作った。そこに込められた祝意を想像するに難くない。
エメが〈ジッキー〉の完成によってゲラン社にもたらしたものは二つ存在する。ひとつはゲルリナーデ(ゲラン風)と呼ばれる秘伝の処方である。ゲルリナーデは〈ジッキー〉以後のゲラン製品にたびたび配合され、独特の香跡を与えている。ローズ、アイリス、バニラ、トンカビーン、ベルガモット、ジャスミンが含まれるといわれているが、その詳細な配合原料と配合量は明らかにされておらず一子相伝でゲラン専属調香師のみに伝えられた。
もうひとつはゲラン帝国の三代目専属調香師としてガブリエルの息子ジャック・ゲランを起用したことである。一八九〇年、〈ジッキー〉誕生の翌年にエメは弱冠十六歳のジャックを後継者として育て上げることに決めた。そして五年間の英才教育を施したのち、二十一歳のジャックに調香師の座を明け渡す。エメが六十一歳の時のことだった。エメはその後、設立した全仏香水製造組合の議長を務めるなど、精力的にフランスの香水業界の発展に貢献し、一九一〇年にこの世を去った。
『ゲラン帝国とゲルリナーデの謎』第四章「エメ・ゲランの開花」より抜粋
3
エメ・ゲランのシベット香水の調香は遅々として進まなかった。ローリエの発見を喜んでから、すでに三ヶ月が経っていた。ミツコもしばしばエメの調香を手伝ったが、エメがシベットを制御する術を見つけられずにいた。
「エメ様、今日は調香をやめて散策に出ませんか? 気分転換もたまには必要ですよ」
名香を作るという意思の炎は絶えずエメの心の中心にあったが、火は点いた頃よりも小さくなっていた。
ひとりになった時には何度も〈オーデコロン・イムペリアル〉を嗅いでは父ピエールとの過去に飛んだが、わずかに鼻を動かすことしか出来ず、どの場面においてもシベット調香の完成を助けるアイデアを得ることが出来なかった。
「それに街でなにか足がかりになる発想を得るかもしれませんし」
「そうだな、今日はパリ散策といこうか」
しばらく調香部屋を離れた方がよいかもしれない。最近はガブリエル家、もしくはメゾン・ゲランの誰かしらが頻繁にエメの元に顔を出すのも気が滅入るひとつの原因だった。間違いなくガブリエルの指示だろう。
ミツコはエメの同意に笑みを浮かべると、急いでハットとステッキを持ってきてエメに手渡した。 乗合馬車や辻馬車を乗り継いでサンジェルマン大通りを東にぐるりと回りながらモンマルトルのある北へ向かうことにした。
サンジェルマン大通りは人と馬で溢れていた。馬は太い足で地面を蹴り上げ、時折いななく。人々は馬と車輪が立てる騒音の中を叫ぶように会話を交わしている。サン・ジェルマン・デ・プレ教会の鐘楼を背に、馬車はエメとミツコを東へ運ぶ。
パン、コーヒー、ライム、杏、皮製品の匂いが交互に香ってくる。前方の馬を避けた反動で座席が跳ねエメは尻を強く打つ。
老紳士たちが持つステッキの持ち手にたまった垢、貴婦人たちの開いた胸元の皮脂と汗、人間からも臭いは立ち上がる。エメが手がけた香水の匂いもかなりの頻度で感じることが出来る。
「名香も大事ですが、こうしてエメ様の香りがパリを満たしていること自体とてもすごいことだと思いませんか?」
「ガブリエルの商才のおかげだ」
ミツコは鼻に皺を寄せた。これは恥ずかしさから来た言葉だったが、ミツコは卑下だと捉えたようであからさまな溜め息を吐いた。エメは慌てて取り繕う。
「だが、思ったよりも私の香水をつけているのだな。知らなかった」
「エメ様は調香部屋にこもり過ぎなんですよ。ちゃんとご自身の影響力を知ってください。ゲランを立ち上げたお父上よりもずっと多くの人がエメ様の香水を使っているのですから」
エメは無言で頷いた。
東へ進む馬車は十字路を北に曲がり、サン・ミシェル通りに入る。ふっとセーヌ川の水分を含んだ湿った香りが吹いてきた。カビや石の臭いを存分に含んでいる。しかし、エメが幼い頃の汚泥と糞尿の混じった臭いと比べると随分と川の水を構成する臭いが少なく清潔に、そしてどこか冷たく感じられる。
すぐにセーヌ川が姿を見せた。サン・ミシェル橋からシテ島へ渡る。右手にはノートルダム大聖堂の尖塔がパリの空を突く様にそびえ立っている。「パリ中に鉄の匂いが増えましたね」
ミツコの視線の先には若い貴族の青年が自転車を華麗に乗り回していた。
「自転車が欲しいのか」
「違いますよ」
ミツコはからからと笑う。
「言葉そのままの意味です。もちろん自転車も増えましたが、木や石がどんどんと鉄に置き換わっていて、感慨深いものを感じまして」
鉄という素材もそうだが、オスマンによるパリ改造はパリの構造そのものを変えてしまった。このシテ島にあっても、ここにいたはずの貧民たちはどこかへ姿を消してしまった。シテ島は清潔の象徴のような場所へと変貌してしまった。
「日本から来たというのに惜しむものなのか?」
「ほんの数年でがらりと姿を変えますから。それ以上にエメ様の感覚を受けとっているのかもしれませんが」
たしかにエメはかつての無秩序なパリを甘美なものとして懐かしむ傾向にあった。しかしそれはオスマンのスクラップアンドビルドを目の当たりにした多くパリ市民が抱いている感情であった。
「しかし、過去が良いものである一方で、未来も良いものだという考えも同時にわたしは持っています。パリは不思議な街で、壊されなかった場所は積み重ねるように新しいものを受け入れて古さと融合している」
馬車はシャンジュ橋に入りシテ島を後にする。少し直進した先でふたりは予定通り馬車を降り、次は北西へ向かってリヴォリ通りを歩き出す。
「話は変わりますがウビガンの〈フジェール・ロワイヤル〉についてエメ様はどう感じていますか?」
三ヶ月前、甥のピエールがハンカチーフに含ませていた〈フジェール・ロワイヤル〉の香りを思い出す。
「決して悪いものではない。しかしトンカビーンの甘い香りを合成香料のクマリンで出しているせいか全体のバランスを欠いている。結局はラベンダーに頼る処方だ。濃く単純化された合成香料に利点があるのは分かる。しかし本来調香とは複雑な原料を制御してこそ到達する領域があるものだ」
「なるほど。概ねわたしも同じ感覚を持っています。わずかなアンバランスさを感じます。しかし、ラベンダーの中であれだけの存在感を放っているという点ではクマリンも優秀な香料なのではないかと考えています」
「実は〈フジェール・ロワイヤル〉が発売される前のことだが、クマリン香水の開発に着手したことがあった。しかし失敗に終わった。どうも合成香料を主体とした香水は音楽を奏でるには単調過ぎるらしい」
左手にルーブル美術館、右手にパレ・ロワイヤルが見える。リヴォリ通りを挟んで隣り合う二つの施設はまるで別世界の様相を呈していた。ルーブルの中庭からは絶えず人々のざわめきが聞こえる一方で、パレ・ロワイヤルからは身体の大きなハトが地面に降り立つ音しか聞こえない。左右の鼻が感受する匂いの量は全くもって異なった。
数十年前はパレ・ロワイヤルにも多くの人がいたというのに。人々は最先端ではなく過去に魅了されるものなのだ。過去のパリのような無秩序な美しさを香水は持たなければならない。クマリン香水ではなくシベット香水こそ、名香に値するはずだ。
調香部屋にこもりっぱなしで、なまりきった身体にずしりと疲労がのしかかる。ステッキを握る手に思わず力が入る。
「ただ新しいものを入れればよいというわけではないのですね」
エメは首肯する。息が上がり、言葉を返すことが出来なかった。そんな様子のエメを思いやってか、ミツコはしばらくの間、エメに言葉を投げかけることを控えた。リヴォリ通りをエメの歩調でゆっくりと行く。
エメはぴたりと歩みを止めた。疲労でこれ以上歩けないからではない。目の前に絢爛豪華なホテル、ル・ムーリスが現れたからである。ミツコはエメの傍に立つと、ステッキとは反対側に回ってそっと腕を支える。
「ここに、父ピエール・フランソワ=パスカル・ゲランが、メゾン・ゲランを開いてフランス香水を起こした」
エメは何度か過去に飛び、バルザックを背にして店内からリヴォリ通りを眺めた。今はリヴォリ通り側からル・ムーリスを見ている。改修によってレストランの一部となったが、エメの視線は確かにメゾン・ゲラン一号店に注がれていた。
神はなぜこの場所に飛ばしたのだろうか? エメが何度も考えたことである。あれから幾月が経ってもエメの精神が冒されることなく、むしろ活力が湧いた。エメの中に調香師としての誇りと使命が芽生えた。エメは顎を引いた。その行為は改めて固めた決意が起こしたものだった。
「エメ様」
エメが今は無きメゾン・ゲラン一号店に存分に視線を注いだ後に、ミツコが口を開いた。
「せっかくですので向かいのチュイルリー庭園を歩きませんか?」
調香部屋を離れて、この場所を訪れることができて良かった。枯れかけた意思の炎に新鮮な空気を送り込むことができた。
「ああ、寄っていこう」
エメは止まっていた足を一歩前へ出した。今の今まで棒のような足に不思議と力が入っている。
十七年前にテュイルリー宮殿が焼失し、焼け残った外壁をようやく撤去したのがいまから五年前、チュイルリー庭園には中央にある大きな噴水を除けば草木以外何もなかった。しかし人々はパリの喧騒を忘れるためにしばしば庭園に足を運んだ。
エメとミツコに関していえば、人々の臭いはあるとはいえ、石や土、馬の臭いが少なく、多様な植物の香りあふれる庭園は心休まる場所であった。すん、すんと鼻を吸ってはゆっくりと歩く男と小姓の姿は奇怪に見えることだろう。
「彼らは何をやっているのですか?」
ミツコの視線の先には三人の少年がいた。彼らは噴水のある池の中に棒を刺している。
「ああ、浮かべた船を突いて競争をしているのだろう」
ひとりの少年が地団駄を踏み始めた。勝負に負けたのかもしれない。足を踏みつけた拍子に少年がシルクハットを落とす。それを通りかかった紳士が拾って少年の頭へ被せた。
広葉樹の下を女性が乳母車を押しながら進んでいく。老夫婦がその女性のために進路を変える。
人々の行動ひとつひとつに木々や草花の心地よい香りがついて回った。エメとミツコはそれを堪能する。
ふっとエメの鼻が特徴的な香りを捉えた。エメは匂いの線をたぐり寄せるように進んでいく。やがてたどり着いたのはリヴォリ通りとは反対側にあり、あまり人々が寄らない場所だった。
「よい香りですね。ハーブグリーンとスパイシーの両方の香りを持っている」
「あそこだな」
エメが顎をしゃくった先にはバジルの群生があった。ミツコが駆けていき、ひとつまみのバジルを持って戻ってきた。それをさらに二つに分けて一方をエメに差し出す。
「バジルだな。シベット香水に使えるかもしれん。ローリエの繋ぎのところだ」
ミツコはバジルを睨んでは嗅ぐことを繰り返す。「確かに。ローリエのスパイシーな部分と相性がよいかもしれません。しかし、まだ不十分です。ラベンダーとの間にまだ谷がある」
「ローズマリーを使いたいと考えている。ラベンダー、ローズマリー、バジルと段階的にハーブの強度を上げることができる」
エメをミツコは目を閉じて、空想世界で調香を始めた。ミツコは小刻みに何度も頷く。
「うん、よさそう。いいですよエメ様! バジルとローズマリーが正解かもしれません。ラベンダーとローリエの間の線を太く繋げる」
「配合量はいくつか振ろうと考えていて――」
「産地は――」
「エキスと精油の組み合わせも――」
ふたりは存分に実験計画を練るとチュイルリー庭園を後にする。ふたたびリヴォリ通りを北西へと歩いてコンコルド広場へ出る。ここから馬車を使ってきたのモンマルトルへ向かう予定であった。
「どうしますか? 今日は調香をしないでおきましょうと言ったのですが、バジルとローズマリーを試したいのでは?」
コンコルド広場からであれば、ラ・ペ通りにあるメゾン・ゲランまでは遠くない。ミツコの言うとおり、すぐにでも試したい気持ちではあった。しかしエメは首を横に振った。
「実験は明日以降でいい。バジルとローズマリーの在庫は確認したいが、モンマルトルの後に寄れば大丈夫だ」
バジルとローズマリーが解決したのはあくまでシベットまでの繋ぎであった。最大の問題であるシベットの糞尿感を緩和させるラストノートのアイデアは思い至っていない。
馬車は右へ左へ何度も道を折れながら坂道を登っていき、やがてモンマルトル地区に到着する。馬車を下りた位置から目的のモンマルトルの丘まではさらに入り組んだ道を歩いて行く必要がある。 パリでもっとも高い場所にあるモンマルトルは特有の香りが立っていた。それはオスマンのパリ改造で居場所を追いやられた芸術家たちの油絵の具や顔料、パンくずの匂いだった。はたまたムーラン・ルージュで絶叫する客たちの酒の混じった口臭だった。ブドウ畑のすっきりとした甘い香りやモンマルトル墓地の石や骨の臭いも混じっていた。街を彩る音楽家や娼婦たちの香水が香る。パリの中心地とは異なりゲランの香水の匂いはぐっと減った。
モンマルトルの香りに埋もれながらエメとミツコは石畳の坂を登っていく。途中、ルピック通りのカフェで遅めの昼食をとった。わずかばかり回復した足を気力で踏み出し、ふたたび坂を登る。
テルトル広場では若い画家たちが絵を描いていた。筆が走るたびに油と顔料の香りが走る。臭いが嫌いにはなれなかた。エメが鼻と香料で描く彩りを彼らは目と絵の具で描いている。広場を抜けて裏通りに入る。しばらく進むと急に視界を遮るものがなくなった。モンマルトルの丘だ。
「ひゃあ、きれいですね」
ミツコが呟く。ここからパリの街が一望できる。石でできた街は地平線の下にすっぽりと収まり、明るい空の青との間に美しい対比が生まれている。「後ろのサクレ・クール寺院ができればもっとパリの全てが見渡せるようになるらしいですよ」
エメはミツコの言葉に促されるように後ろを見る。そこには大聖堂が建てられようとしていた。エメの背丈ほどに白い石が積まれている。パリの全方位が見渡せる、パリで一番高い場所、全ての匂いが集まる場所。それは心地よいようにも怖いようにも思えた。エメは東に顔を向けた。
「あの木々の遥か先に来年にはエッフェル塔が建つのだな。石の中に鉄がそびえるとは奇妙な取り合わせにしか感じんが」
作家のモーパッサンをはじめとする芸術家たちはパリと調和しないであろう醜悪な鉄塔がもっとも高い位置からパリを見下ろすことを良しとしていない。
「かたや自然の丘に石の大聖堂を建て、かたや全くの平地にこの丘よりも高く鉄を積み上げようとしている。全くもってパリとは変な街だ」
ミツコは首を傾げる。
「そうですかね? どっちも素敵ならそれでいいではありませんか?」
エメは首を横に振る。エメの頭にはルーブル美術館とパレ・ロワイヤルがあった。それは動物性香料を用いたシベット香料と合成香料を用いたクマリン香水の対比に移り変わった。サクレ・クール寺院はまだ完成の目処が建っていないらしい。一方でエッフェル塔は来年のパリ万国博覧会ではお披露目される。
「ミツコ、決めたぞ。来年だ。鉄の塔が建つのであれば私はシベット香水をだしてやろう」
「今のエメ様が、古き良きものの価値をふたたび見出そうとしていることはよく分かります。しかしどうして、身体に鞭を打ってまでシベット香水を産み出そうとしているのですか? 出会った頃のエメ様からは考えられないほどの情熱です」
エメの決意の正体をつきとめようとする熱心な目だった。エメはじっとミツコを見つめ返す。
「決して出会った頃と今を比べてどちらがよいと言っているわけではありません。ただ不思議に思うのです」
エメは無言で頷いた。ミツコにはすべてを知ってもらいたいと思っていた。すべてを知った上でふたりで香水を作りたいと考えていた。父ピエールのもとに飛べるのだと言うと精神に異常があるとして、距離をとられるだろうか? 香水作りを止められるだろうか? いや、きっとミツコはそうでないだろう。
「どこから話したらよいものか。ミツコ、これから私が話すことをどうか信じて欲しい」
「もちろんです」
エメはぽつぽつと身に起きたことを伝えていく。〈オーデコロン・イムペリアル〉を嗅ぐと父ピエールとの過去が蘇ること、メゾン・ゲラン一号店のバックヤードでピエールがバルザック専用のシベット香水を作っていたこと、その臭いを嗅ぐことができたこと。
「過去の世界で動くことが!」
ミツコは目を大きく開いた。
「頭がおかしくなったと思うかもしれないが、実際に起きたことなんだ」
ミツコは頬に両手を添えて「まさか」「ピエール様の香水で」「過去に」などとぶつぶつ呟いている。
「信じてくれぬか?」
ミツコは勢いよく顔を上げる。
「いえ、信じます。エメ様はシベットとラベンダーの配合比だけは頑なに変えようとしませんでした。それはピエール様の香水を嗅いだからなのですね」
「自分でも香水を嗅いで過去に戻ったなんて馬鹿げたことを言っていると思っている」
「そんな事はありません。人は誰しも香りと記憶を結びつけているものです。マドレーヌが幼い頃の家族との記憶を呼び起こすように。いわゆるプルースト効果です。鼻のよいエメ様はその力が常人よりよほど強いのでしょう。まるで過去が現実として振る舞うかのように」
プルースト、ただのファミリーネームのようだが他に意味を持つのだろうか? ただ香りと記憶の関係性について日本はパリに比べてずいぶんと理解が進んでいるのだろう。
「香りの受け手側の力もありますが、香水の作り手側も記憶を蘇らせる香りを作ると言う点で力が必要になります。〈オーデコロン・イムペリアル〉、ゲランの歴史上、最初の名香ですね。ピエール様の香水にも既にその片鱗が……」
「ミツコ?」
ミツコの言葉の意味するところはエメの理解を超えていた。ミツコはエメに話しかけるのではなく、まるでひとりごとを吐いているようだった。
「あっ、申し訳ございません。とにかく、エメ様がおかしいということはないかと思います」
ふと気がつくと周囲の人間がふたりを怪訝な目で見ていた。妙な会話をしている、と思われたのだろう。もしくは東洋人の小姓がフランス人の主に向かってとうとうと語る様が異様に見えたのかもしれない。ミツコもエメの視線を追って、周囲の状況を察したようだ。
「メゾン・グランに向かいましょうか」
ふたたびモンマルトルの小道を歩き、辻馬車を拾ってラ・ペ通りのメゾン・グランへ向かう。揺れているほとんどの時間をエメとミツコは無言で過ごした。ふたりして今日一日の発見と決意を反芻しているかのようだった。
日も傾き、調香部屋は薄暗くひんやりとしていた。エメは石油ランプに明かりを灯す。ミツコと手分けをして香料棚をあさっていく。
「エメ様、ローズマリーは数種類ありました。量も申し分ないと思います」
「こっちはちょっと足らなさそうだな。バジルを配合した香水はしばらく作っていないから工場にも原料はないだろう。ミツコ、明日注文を頼まれてくれるか」
エメはバジル香料のいくつかの種類とそれぞれの必要量をメモにとり、ミツコに渡す。
「かしこまりました。楽しみですね」
「ああ」
窓から外に視線を落とすと一定間隔に設けられたガス灯が通りを明るく照らしはじめていた。これからあれらガス灯が電灯というより安定的で明るい光に置き換わっていく計画らしい。エメが幼い頃はぶら下がった灯油ランプが弱々しくもパリの夜を支えていた。
「古き良き、か」
モンマルトルの丘で、ミツコが発した言葉を思い出す。ナポレオン三世とオスマンに破壊される前のパリが好きなのだろう。無秩序で臭く、しかしあたたかい。光量の足りない灯油ランプは時折揺らめいて、パリをいっそう幻惑的で恐ろしい空間にしていた。ランプがつき始めた薄暗い中を父ピエールと手を繋いで歩いたことを今でも鮮明に思い出す。
「エメ様、お願いがあります」
「なんだ?」
「わたしひとりで調香させていただいてもよろしいでしょうか?」
ミツコがそう言い出すであろうことをエメは予感していた。
「この場所はメゾン・ゲラン専属調香師のための部屋だ。調香師でもない者に好き勝手使わせろと?」
「ならば専属調香師が指示すればいいのです。お前の好きに使ってよいと。それに――」
曇りのないまっすぐな視線で、ミツコはエメを射貫いた。
「わたしも調香師です」
エメは声を上げて笑う。小姓が調香師とはミツコも大きくでたものだ。しかし、それが冗談ではないことをエメは感じ取っていた。はなから反対する気などない。
「わたしも調香師か。よい。好きに使いなさい」
ミツコは丁寧に頭を下げた。ミツコが調香師でないのなら、果たして誰が調香師なのだろうか? 優れた鼻と香料への深い理解、ただの東洋人の旅人が持てるはずもない。パリともグラースとも異なる知識体系。ミツコは一体何者なのだろうか? エメは思わず頭を掻く。得体のしれないこの日本人を雇ったのは他ならぬエメなのだ。
「私も手伝った方がよいか?」
ミツコの作業する様子を見て、エメは思わず首を傾げた。これまでミツコと意見交換はしても作業自体をさせたことはなかった。調香師だ、などと言い放ったにも関わらず、やけにおぼつかない手つきで実験器具をあつかっている。
エメの提案に、ミツコは手のひらを突き出して断りの意を示す。
「いえ、エメ様はそこの椅子で休んでください。ちょっと使ったことがない道具が多すぎるだけです。基本は同じはずだから問題ないはず」
ミツコはたどたどしく作業を続ける。断られた手前でしゃばるわけにもいかず、エメは椅子に腰を落とし、背もたれに体重を預けた。
エメは想像の調香に興じることにした。ミツコが棚から取り出す香料を頭の中で混ぜ合わせる。
オークモス、ベチバー、パチュリ、シダーウッド、ブラックペッパー、シナモン。それは深い森と弾けるようなスパイスの組み合わせだった。ラストノートは男性的な土台を組むようだ。
しかし次にミツコが取り出した香料を目にして、エメは衝撃を受けた。アンバーグリス――抹香鯨から取れる動物性香料――。
エメがシベットを使おうと試みているように、ミツコはアンバーグリスを配合しようとしている。森は甘い官能を手に入れる。
続いてミツコはベルガモット、ローズ、ジャスミンを用意した。トップノートからミドルノートにかけては基本的なフローラルシトラスを採用するようだ。つまりミツコの狙うところはアンバーグリスを忍ばせた深く甘いラストノートが主役の香水。よい香水に思えた。エメは椅子にいっそう体重をかけ、じっくりとミツコの香水の完成を待つことにした。
香料たちが混ぜられていく。ミツコの背をぼんやりと眺めていた。ここで丸一日パリを散策した疲れがやってきて身体の自由を奪っていく。動けない中、漂う香りがただただ心地よい。ミツコの香水は完成に近づいている。エメの想像に近い香り、脳裏に深い森が茂りはじめた。あとはエタノールを加えるだけ。しかし、ミツコは最後の工程に入る前に胸元からひとつの小壜を取り出した。
香料だった。エメはその香りを過去に嗅いだことが一度だけあった。グラースでミツコに初めて会った日、ミツコから放たれていた杏のような桃のような熟した果物の甘さ。
「ミツコ、それは?」
おぼろげな意識の中で、エメはかすれた声で問う。
「この香料はわたしのとっておきです。まだこの世には広まっていないですから、何かは秘密です」
ミツコはわざとらしく人差し指を立てて唇の前に置いた。
「お疲れのようですね。完成したら起こしますので少しのあいだ、お休みください」
まぶたが重い。ウールの編み物がエメにかけられる。ミツコはふたたび調香へ戻っていく。香料というしもべを巧みに操り、調和させていく。夢うつつの境で、ミツコは香りの魔術師だった。エメはそこに父ピエールの姿が重なっているように見えた。
「――様、エメ様」
揺らされた拍子に椅子からずり落ちそうになって慌てて肘掛けを掴む。
「申し訳ございません。大丈夫ですか?」
声の主がエメの身体を支える。思考と視界が徐々に鮮明になってくる。声の主はミツコだった。思い出す。調香部屋でミツコの香水の完成を待っていたのだ。
「できたのか?」
ミツコは答えず、にこりと口角を上げてえくぼを作った。
「あちらに」
ミツコが促した先のテーブルには褐色の小壜がちょこんと置いてあった。エメは椅子から身体を引き剥がすと、強張った身体を伸ばし腰をさすった。意識ははっきりしても身体はまだ充分に起きてはいなかったようで、踏み出した一歩は思うところにいかず、エメはよろけた。ミツコは慌ててエメの肘を支えて、笑う。
「エメ様、ちゃんと起きて下さいよ」
「ミツコが待たせすぎたせいだろう。椅子で眠りこけるなんて。よし、もう大丈夫だ」
エメはしっかりした足どりでテーブルに向かい、壜を手にする。顔の高さに壜を持ってくる。中で液体がゆれている。褐色壜に隠されていて色は分からないが、エメには黄金色に感じられた。そっと蓋を開け、試香紙を濡らす。
トップノートは型どおりのフローラルシトラスではなかった。ベルガモットもローズもジャスミンも強烈に香る甘酸っぱいフルーティさを支えているに過ぎなかった。ミツコが隠し持っていた香料だった。
まだ寝ていたのかもしれない。まるでもう一段目覚めるかのような衝撃と感動がエメの胸を満たしていく。香調はゆっくりと変化していく。やがてエメは深く甘い森へと足を踏み入れる。それは暗澹とした森ではない。その森で生まれたかのような深い愛情と安心感がエメを包む。非の打ち所がなかった。男性と女性が共存するような、まるでミツコ自身を想起させるような名香だった。
「どうです? 素晴らしいでしょう」
驚くエメにミツコは自慢げに笑みを浮かべ胸を反らす。
「まさかここまでとは」
エメがこれまで生み出してきたどんな香水にも勝るだろう。
「ミツコは最高の調香師だ」
エメの賛辞にミツコは緩めた頬をひきしめ、エメの両手をとった。
「エメ様もです。エメ様も最高の調香師なのです。この先、なにがあっても絶対にわたしの香水の匂いを忘れないでください。今日のことを忘れないでください」
忘れるはずがなかった。不思議とミツコの名香に打ちのめされることはなく、エメはむしろ鼓舞された。
「ああ、決して忘れない」
エメは自らが生み出すであろう名香に思いをはせた。シベット香水は必ずこの世に誕生する。そう確信させる一日だった。
***
一八九五年にエメ・ゲランより専属調香師を継いだ弱冠二十一歳のジャック・ゲランはすぐに才覚を発揮し、次々と新作を世に発表していった。
成功の要因は先代エメの功績に他ならない。
十六歳からの五年という感度が高い時期に、ジャックの鼻はエメから与えられた多様な香料の差異を覚えていった。名香〈ジッキー〉の開発でエメが見出した動物性香料と合成香料をもちいた奥行きのある調香方法は余すことなくジャックに伝えられた。これらに若いジャックの好奇心と大胆さが加わり、他の調香師にはない独創性を獲得した。もちろんエメ秘伝のゲルリナーデはジャックの香水を下支えしたであろう。
ジャックの香水といえば、例えばベル・エポックを代表する〈ルール・ブルー(一九一二年)〉、エメの〈ジッキー〉をさらに進化させた〈シャリマー(一九二五年)〉、親友サン・テグジュペリが描いた夜空〈夜間飛行(一九三三年)〉などがあり、これら香水たちはゲラン帝国にさらなる発展をもたらした。
調香師としてのジャックはロマンティックな詩人とも言える感性の持ち主だったが、その視線は常に東洋に向けられていたとも伝えられている。
ジャックは一八九八年に東洋に対する憧れをイメージした〈ソウカ〉を発表した。そこから二十二年の長い歳月を経て発表されたのがゲラン最高傑作ともいわれる名香〈ミツコ〉である。
オークモスとアンバーグリスの深く官能的な森をイメージさせる香りと、合成香料アルデヒドC14(γーウンデカラクトン)による甘い桃の香りが合わさって、一九二〇年の開放された女性を見事に表現している。
ミツコという名は友人の小説家クロード・ファレールが発表した『戦闘』にインスピレーションを受けて、小説に登場するヒロインの名を借りたともいわれている。
『ゲラン帝国とゲルリナーデの謎』第七章「ジャック・ゲランの目線」より抜粋
4
もうほとんど身動きもできないほどに弱ってしまった。エメは近いうちに自分が死ぬのだということを悟っていた。
すん、と鼻をすする。汗や垢は衣服や寝具に付着すれば臭いを放ちだすはずなのに、今はその生きている臭いがほとんど感じられない。鼻が弱っている訳ではない。汗はもうはや分泌されなくなった。皮膚は垢となって剥がれることをせず厚く堆積し、ざらざらとした感触を残している。
枯れ果てているのだ。生物としての活動を終えようとしているのだ。エメはここ数年で起きたことを思い返す。
一八八九年、第四回パリ万国博覧会が開催された。エッフェル塔はわずか二年という短い工期にもかかわらず無事に披露され、多くの観光客が訪れた。
エメは目標としていたシベット香水を完成させ、発売させることができなかった。しかしながらエメは諦めが悪かった。あくる日もあくる日もシベットに適した天然香料を試しては捨てることを繰り返した。
パリ万博から二年が経った。エメの手で入手できるすべての天然香料を試したが、失敗に終わった。最後の香料で試作を行い、シベットの強烈な糞尿感が漂ってきた日、エメの心はぽっきりと折れた。ミツコの制止を振り切って、香料棚の小壜を床に叩きつけて割った。精油もエキスもチンキも一緒くたになって床を濡らした。
大小様々なフラスコやビーカーも粉々になった。ピペットの両端を握りしめてふたつに折って割った拍子に手のひらは切れて血の線が無数に入った。試香紙は燃やした。すぐにブランケットに燃え移ったが、ミツコが慌てて火を踏み消した。エタノールに火が点けばすべてが燃えて無くなったというのに。
エメは膝から崩れ落ちて頭を抱えて呻き、叫んだ。二千種類はくだらない香料と灰の臭いが部屋を満たしていた。エメはその臭いを鼻から目一杯吸い込むと、胃の中のものを全部ぶちまけた。吐瀉物のすえた臭いが漂う。
寄ってくるミツコが視界に入ったので、近寄らせまいと脇目も振らずに腕を振り回した。拳を床に叩きつけた。突き刺さるガラス片の痛みをもっと感じたいと思った。
エメは名香を生み出すことができなかった。
気がつくと全身傷だらけの状態で自宅のベッドで横になっていた。左頬がじんじんと痛む。おぼろげな記憶であったが、やってきたガブリエルに殴られたような気がした。
ふたたび起きた時、枕元にガブリエルがいた。悲痛な表情を浮かべている。メゾン・ゲラン専属調香師の解任を言い渡された。
回想を終えるとエメは窓の外を見た。エメが調香師を退いた日から、およそ一年が経っていた。メゾン・ゲランは新しい香水を出せていない。口紅やクリームにありきたりな香料を配合して、それらしい豪華な容器に詰めてなんとかしのいでいることは明らかだった。客も近いうちに気がつくだろう。専属調香師がいないのであれば、それはしごく当然のことであった。
「エメ様、食事の用意ができましたよ」
すべての使用人を解雇した。しかしミツコだけはエメのそばに残った。
「ありがとう」
ミツコが作った味の薄いビーフシチューを匙で三回だけすくうと腹は満たされた。
「ありがとう」
ミツコと香りについて膝をつきあわせて語り合うことも皆無となった。自宅中の香水がいつしかなくなっていた。エメの鼻は死んではいない。香水たちはミツコに与えた部屋で息をひそめていた。 思い返せば父ピエールのいる過去へ飛んだのは神様のお導きなどではなく、ただの気まぐれかやはり精神の病だったのかもしれない。きっかけとなった〈オーデコロン・イムペリアル〉もミツコのもとにある。
才覚のないエメが名香を完成させることができなかったのは仕方がない。後悔があるとすればふたつ。ひとつはエメのわがままに付き合わせてミツコの数年を無駄にさせてしまったこと。もうひとつはシベット香水づくりにかまけてメゾン・ゲランの次の後継者を育てることができなかったこと。ピエールから引き継いだバトンを継承させることができなかった。ガブリエルにはすまないことをした。
エメの命はあとひと月ももたないかもしれない。後悔ばかりが募る。エメは乾いた口を振り絞って声を発した。
「ミツコ、お願いがある」
「なんでしょうか?」
四年前の夜を思い出す。ふたりでパリをまわり、最後に調香部屋でミツコが名香を作った日のことを。あのときはミツコがエメに願いを申し出た。
「お前も調香師だ」
――わたしも調香師です。とミツコは過去にそう言った。今からその言葉を現実にできないだろうか。
「メゾン・ゲランの三代目調香師になってくれ」
ミツコは目を見開いた。
「ガブリエルに頼めばなんとかなる。調香師ではないがメゾン・ゲランの経営者だ。ミツコが作った香水を嗅げば否応なく納得するはずだ」
力を振り絞って視線の先のミツコの手をとる。
「ミツコならば、私よりも素晴らしい香りを生み出せる。メゾン・ゲランの誇りとなれる」
ミツコはエメの手をそっと包む。そしてゆっくりと首を横に振った。
「わたしはエメ様の小姓に過ぎません。パリの香水を日本人が作ったとなると、この時代の人々は納得いたしません」
「私はミツコの時間を奪った。生み出せもしない名香づくりに没頭し、父から受け継いだメゾン・グランを潰しかけている。すべて私のせいだ。私が年甲斐もなく名香、名香と酔いしれて夢をみたせいで……。償いたいのだ」
枯れ果て二度と流すことはないだろうと思っていた涙が溢れ、頬をつたう。それでもミツコは首を立てに振ることはない。
「エメ様、あなたは最高の調香師です。この時代のメゾン・ゲランの名香を誕生させるのはあなた以外に考えられません。次に託すのではなくエメ様が完成させるのです」
「いったい何の冗談を言っているのだ? すべてを隣で見てきただろう」
「本当にすべてを試しましたか? まだやれることがあるはずです」
ミツコの表情は冗談を言っているようには見えなかった。ミツコは半死人に名香を作れと鞭を振っている。ミツコはエメの手を握りしめる。
「ミツコ、痛いよ」
ミツコはエメの手を離すことはしなかった。
「私にやれることはすべてやった。信じてくれて申し訳ないが、私には土台無理な挑戦だったのだ」
「違います。やれることはあるはずです。わたしはそのことをエメ様から教えてもらったのですから。エメ様ご本人が気がつかなくてどうするんですか?」
ミツコの言葉の意味がエメにはまったく理解できなかった。しかし、ミツコはなんらかの確信を得ているらしい。
「私がシベット香水の作り方を知っている?」
ミツコはぶんぶんと首を横に振った。
「違います。これから知るんです」
訳がわからなかった。知らないことを既にミツコに教えているという。
「ありがとう。よく分からないが、ミツコの気持ちは充分伝わった。だが、調香しようにももはや身体が動かないのだ。おそらくあとひと月も――」
エメの言葉を遮って、ミツコが懐から褐色の小壜を取り出した。その壜口はきつく閉められていた。
「それは、もしや?」
「〈ミツコ〉という名の香水です。戻りましょう。あの夜に」
ミツコは〈ミツコ〉の蓋を開けた。桃の香りがエメの鼻を刺激する。意識がおぼろげになっていく。オークモスとアンバーグリスの森がやってくる。そして視界が暗転した。
「――様、エメ様」
揺らされた拍子に椅子からずり落ちそうになって慌てて肘掛けを掴む。
「申し訳ございません。大丈夫ですか?」
声の主がエメの身体を支える。思考と視界が徐々に鮮明になってくる。声の主はミツコだった。思い出す。調香部屋でミツコの香水の完成を待って――違う。
エメは勢いよく立ち上がり、ミツコの肩を掴んだ。全身に疲労感はあるものの、弱りきっているわけではない。エメとミツコは四年分若返っていた。名香をつくることを心に秘めていたパリの夜だった。
「いったいどういうことだ? ここは?」
エメはテーブルの上に褐色の小壜を見つける。
「その香水を君は〈ミツコ〉といった。それはなんなんだ?」
踏み出した一歩は思うところにいかず、エメはよろけた。ミツコは慌ててエメの肘を支えて、笑う。
「エメ様、ちゃんと起きてくださいよ」
もしやあの夜と同じ展開がふたたび繰り返されている? 父ピエールとの過去の場面と同じ現象なのだろうか? それにしては身体の自由が効くようだが。エメは手のひらを何度か握ったり開いたりを繰り返した。
ミツコに今の状況を説明しようと口を開いたが、何も語らずすぐに閉じた。精神がやられたと思われるだろうか? いや確かこの日にピエールのもとに飛んだことを説明して、信じてくれたばかりのはずだ。いやしかし――。
戸惑うエメの横で、突然ミツコが笑い出した。
「エメ様、申し訳ありません。ちょっとふざけただけです。次は名香を完成させましょう。我々はそのために戻ってきたのですから」
エメは目をしばたたかせた。
「覚えているのか?」
「ええ、名香づくりに失敗して弱り切ったあげく、わたしをメゾン・グランの調香師にすることで、ガブリエル様に許してもらおうとしておりましたよね」
呆れて物が言えない。目の前にいる人物はエメが狂い、調香師を辞めたことで献身的になった使用人ではなかった。元来の小姓に扮した小生意気な相棒だった。
「まさか怒っているのか?」
「まさか! ちょっとご自身の考えの範疇に答えがなかったからといって諦めて傷心中のご主人様相手に小姓ごときが何を言うことができましょうか」
エメは盛大に溜め息をついた。ついさきほどまで死にかけてベッドに横たわっていた。すん、と鼻をすする。香料壜の隙間から漏れ出る香りたちがエメの鼻に到達する。香りの世界はなんと芳醇で彩りに溢れているのだろうか。彼らを床にたたきつけた際についた無数の傷跡は、この手にはついていないけれども、決して忘れてはいけない。
「えっ、申し訳ありません。まさか泣くほど傷つけたとは」
「泣いてなどいない」
ふざけながら挑発を続けているのはエメをふたたび創作に向かわせるためのミツコなりの気遣いなのかもしれない。
「ありがとう」
「泣いている暇があったらこの一年で必ず名香を生み出してください。明日、バジルを頼んでおきますね」
バジルの種類と量が書かれたメモをミツコはひらひらと振る。エメが発注するように殴り書きしたものだった。
果たして、ふたたび名香に焦がれてよいのだろうか? 沼を抜け出す術をエメはなんら思いついていなかった。しかし、やるのだ。
〈ミツコ〉によってもういちど機会を得た。魔術師のようなミツコは、エメが名香を生み出すと信じてやまない。すべてに絶望し調香を離れたが本当の意味の絶望はそこから始まった。何もせず、心を殺し、傷をながめ、ただベッドに横たわるだけの日々は地獄でしかなかった。鼻をそぎ落としたかった。ミツコのために、メゾン・グランのために、なにより狂って調香を捨てた自分自身のために、もういちど鼻を使いたい。
「あとは死ぬだけだったのにな」
ミツコは笑う。エメは姿勢を正し、ミツコに頭を下げる。
「もういちど機会を与えてくれて感謝する。シベット香水を作り出す前に教えてほしい。ミツコが一体なにものか、〈ミツコ〉が一体なんなのか」
ミツコは首肯すると、ぽつぽつと自らのことを語り始めた。長い夜だった。
***
エメ・ゲランは〈ジッキー〉の開発過程でゲルリナーデを見出した。その詳細は不明であり、メゾン・ゲラン専属調香師のみに一子相伝される。
エメからスタートしたゲルリナーデは、三代目ジャック・ゲラン、四代目ジャン=ポール・ゲラン、五代目ティエリー・ワッサーへと引き継がれる。ティエリーは五代目にしてゲラン家以外から初めて選ばれた専属調香師である。
不思議なことにティエリーはゲランの新しい香水にはゲルリナーデを採用しなかったと言われている。ティエリーは決してジャン以前の名香やゲルリナーデを認めていないわけではなかった。真相は逆で、ティエリーはそれらを愛していた。過去の名香を維持することに勢力を尽くした。しかしティエリー自身はゲルリナーデを使わなかったのである。
晩年、ティエリーは六代目調香師としてオーストリア出身のマルティン・モラスを指名したが、彼は専属調香師として歴代でもっとも短命に終わった。七代目調香師はロシア系フランス人のオルガ・カンディンスキーが選ばれたが、彼女を指名したのは六代目のマルティンではなく五代目のティエリーという異例の形式をとった。
マルティンにしろオルガにしろゲルリナーデを使うことはなく、ティエリーが自らの意思で封印したのではないかという噂が経った。二代目エメ・ゲランが生み出した偉大なるゲルリナーデは失われたのだと。
そして二○八九年にオルガから八代目調香師に指名されたのが、初めてアジア圏から選ばれた日本人のミツ・コウザキだった。
彼女の専属調香師としての起用はゲラン経営陣も難色を示した。彼女は香料メーカーで調香師として働いた経験がなく若くして心理学分野で成功を収めた研究者だったからだ。ミツはいわゆるプルースト効果――香りと記憶――研究者だった。ミツの成果のひとつと言えば、香水の調香記録から調香師の人格と体験をコンピュータ上で再構築してみせたことだろう。ミツの鼻は特別で、常人よりも遥かに嗅覚の解像度が高かった。常人だけではなく、ミツは世界中のどの調香師よりも鼻が利いた。
世界はミツ・コウザキの最初の作品を首を長くして待っていた。オルガから調香の基礎を学んだ後にミツが初めて世に送り出した香水に世界は昂奮した。死んだと思われていたゲルリナーデが使われていたからだ。ティエリーはゲルリナーデを伝えていたのだ。何か事情があってティエリー、マルティン、オルガはゲルリナーデを使わなかった。しかしながらミツは使うことができた。
ゲラン社は否定をしているが、ミツは二十八歳からの数年間、失踪していたと噂されている。ネット上の物好きたちはミツの過去の研究テーマを引っ張りだし、香水を使ったタイムトラベル実験をやったのではないか? と噂話に花を咲かせていた。
もちろん、そのような冗談はメディア上にふたたび現れるようになったミツ本人によって否定されている。
『ゲラン帝国とゲルリナーデの謎』第十一章「ティエリーワッサーからミツ・コウザキ」より抜粋
5
エメ自身が過去に飛んだように、ミツコは二百年先の未来からこの時代にやってきた。
「『わたしも調香師』という言葉に嘘偽りはなかったわけだ。それもまさかゲランの専属調香師とは」
「信じてくださるのですか?」
「信じるもなにも、こうしてミツコとともに四年の歳月を戻ってきた。二百年も前からきたというのもきっと可能なんだろう」
ミツコは頷く。
「香水が描き出す物語の中に過去の記録が蓄積されているものがあることをわたしが発見しました。いわゆる『名香』と呼ばれる香水です」
「……〈オーデコロン・イムペリアル〉」
「ええ。エメ様やわたしのように優れた鼻を持つ者には名香が持つ過去を覗くことができます」
エメは何度も同じ動きをするピエールやバルザックを思い返す。あれはピエールが記録した過去だったのだ。
「本来、名香は点でしかあり得ません。過去を読み取ることができる優れた鼻の持ち主がその過去の中にいて、さらに優れた調香師で会った場合は違います」
ピエールの過去の中には幼いエメがいた。エメは幼い自分の視点からピエールの過去を体験した。「優れた調香師は、次の名香に過去に飛んだ経験を事実として蓄積します。つまり過去の点が未来の点に影響を与える線となる」
エメは首を傾げる。
「それは過去を体験した調香師だけの経験なのではないか? 例えば私が過去に戻った経験が込められた名香を作ったとしよう。一方でガブリエルは戻っていない」
「いえ、エメ様が生み出した名香をガブリエル様が嗅いだのであれば、その時点でガブリエル様は過去改変の影響を受けていることになります。名香は世界中で嗅がれますし、名香の影響下にある香りが無限と生まれる。優れた調香師が過去に戻ったという事実が拡散し、定着することと同義なのです」
「過去に飛んでも名香を生み出せなかったら?」
「未来で観測されないので、過去に飛んだ経験自体がなかったことになります」
「そんなはずはないだろう? 事実飛んでいるのだから。全くもってわからない」
エメは混乱し、頭を掻いた。二百年後の学者からすればエメなど猿と同等の頭しかないように思えるのではないか?
「程度の差はあれほとんどの人類が香りと記憶を結びつけています。仮に過去に飛んだ調香師が名香をつくれなかったとしたら、それはただの夢に終わるだけです」
「やはりよく分からないが、過去に飛んでも名香ができた未来とできなかった未来があるということか?」
ミツコは頷く。
「いえ、エメ様は充分に理解しています。おっしゃる通りです。そもそも過去を見た場合と見なかった場合に分けられますし、過去を見た場合も名香が生まれた場合と生まれなかった場合があります。すべてが起こりうる世界で、今ここにいる私はその中のひとつを経験しているに過ぎません。しかし、おそらくですが名香が残った世界は観測できると言う点で、遠くの未来見た場合にまるで正しい過去のように振る舞うかもしれません」
エメは紙とペンをとり、なんとかミツコの説明を理解しようと努めた。エメがピエールの過去から戻ってきて名香を産む。その名香にはエメが過去に戻ったという事実が記録される。それが名香として人々に広まり定着する。
「ん? ミツコの説明だと今の私は〈ミツコ〉が記録した過去を体感しているに過ぎない。現実世界の私はもう死にかけていて、名香をつくることができないのだから、この体感の中で名香を作り上げても未来に繋ぐことはできないのではないか?」
ミツコは首を横に振った。
「エメ様のおかげでその問題は解決します。正確に申し上げますとこれから先のエメ様ですが」
名香を作り上げたエメは、ピエールの過去に戻った経験から名香に秘められた事実を感覚的に理解した。エメは三代目調香師を育てる際に、名香の一部を共通化し、以降の調香師が歴代専属調香師の過去を体験できるための鼻を鍛え上げた。この名香の再生と記録をおこなう手法を一子相伝とし、専属調香師のみにその事実が伝えられる。
「それをゲルリナーデというのか」
「はい。ゲルリナーデとは香水の処方をさしているのではありません。強化されたプルースト効果、つまりは過去体験と過去改変の手法を伝えたのです。エメ様以降のメゾン・ゲラン専属調香師はゲルリナーデを用いて過去に学び、自ら名香を生み出しつづけました。未来では長く続いたゲランの繁栄を指してゲラン帝国と呼ばれています。しかし――」
六代目と七代目はゲルリナーデを引き継ぎはしたが、過去に飛べるほど鼻が良くなかったという。五代目ティエリーの遺言をもって七代目オルガがようやく探し当てたのが八代目のミツコだった。
「話を戻しますと、エメ様がこの過去世界で体験したすべてはわたしも体験しています。残念ながらエメ様の名香の処方は伝わっていません。しかし、エメ様がこの過去の中で名香を完成させたのならば、わたしが現実に戻った未来でエメ様が名香を作ったことを事実にします」
「先ほどまでいた私が調香師を辞した世界では後継者がいなかった。きっとメゾン・ゲランは衰退するのだろう。しかしミツコの世界ではちゃんと後継者がいて、メゾン・ゲランは存続している。つまり私が名香を生み出せる世界が必ずあるということだ。であれば今ここにいる私が完成させたい」
ミツコの話のすべてを理解した訳ではなかった。なぜエメの時代に二百年後のミツコが現れたのか、なぜ熱心に名香を作らせようとしているのかなど不可解な点も多かったが、ミツコはそれ以上自身のことを語ろうとはしなかった。
「ところで、ミツコの未来では三代目調香師がいたのだろう? それは誰なんだ?」
ミツコは目を丸くする。
「えっ、思い返せば分かるでしょう? わたしやエメ様と同じレベルの鼻の持ち主ですよ。名香づくりに没頭しているから育てる余裕がなかった訳ではなくて、まさか気がついていなかったんですか?」
深夜、ベッドに横になり三代目候補について考えていた。鼻のよい人物がエメやミツコの周りにいるという。頭を悩ませるほどに目が冴えてきて眠れなかった。エメはベッドから這い出る。精神を落ち着けようと灯油ランプの炎をじっとみつめたが効果はなかった。そこで部屋にある香りをじっくりと嗅いでいくことにした。
グラース産のジャスミンとローズの精油はそれぞれ壜の中でわずかなとろみを持って揺れている。そっと香りを嗅ぐ。花びらのフローラルな華やかさを萼のグリーンが締め、まとまりのある心地よい香りになっている。フランキンセンスのウッディスモーキーな香り、イランイランのミステリアスで官能的な香り……多様な香りは徐々に眠気を呼び込んでくる。
香料棚の前に移動する。父の〈オーデコロン・イムペリアル〉がある。もしバルザックのもとに飛べばむしろ疲れを増やしてしまいそうだったため、そっと棚の奧へと押しやった。
隣には〈フルール・ディタリ〉と〈ロココ〉があった。どちらもエメが生み出した良作だ。名香とまでは言えないが、気に入っている。ミツコとパリを回った時もつけている人々が多かった。ふと父ではなく甥のピエールがこれら香水を褒めていたのを思い出すと同時に頭の引っ掛かりがすっと取れた。ミツコはこのことを言っていたのだ。まだ若く調香師にしようなどと微塵も思わなかった。
「ジャックか!」
ピエールと一緒に来たはずのジャックは体調が悪いと調香部屋に寄らずに走り去った。ピエール曰く、足取りはしっかりしていたという。もし体調が悪くなかったとしたら、走り去る直前になにかが起きたはずだ。
あのとき起きたことと言えば、ミツコが調香部屋の扉を開けたのだ。シベットにまみれ、ミツコは鼻がねじ曲がるくらいの悪臭だったと言った。悪臭は扉を抜けて一階へと下りていった。そしてジャックのもとにたどり着く。
ジャックはシベットの臭いに耐えきれずに走って逃げ出したのだ。一階の店舗にいる客はシベットの臭いに気がついていなかった。そもそもピエールは換気をしたとはいえ部屋の中にいてもシベットの臭いについて気がついていなかった。ジャックは嗅覚が常人よりも優れている何よりの証左だ。
「確かピエールが〈フジェール・ロワイヤル〉を持っていたな。ガブリエルがジャックに買い与えたと」
エメは香料棚の最下段に目線を合わせて、目に付いた香水壜を避けていく。
「あった」
古くなっているのでトップの香調は変わっているかもしれないが、〈フジェール・ロワイヤル〉の特徴はラストに残る甘いトンカビーンの香りを合成香料クマリンで演出している点だ。
ジャックがあれだけ鼻がよいのなら香水を嗅ぎたくなるのは当然だろう。ガブリエルが買い与えたのではなく、ジャックが求めたとしたら? ジャックはクマリンに価値を見出したのではないだろうか?
さらに〈フジェール・ロワイヤル〉の強いラベンダーの中であれだけの存在感を放っているという点ではクマリンも優秀な香料であるとミツコはエメに告げた。
エメ自身も合成香料に対し、特徴だけを濃く単調にした香りだと評価した。クマリンであればラストノートの嫌というほどの甘さ。なぜ昔の動物香料と最新の合成香料を対立軸に置いていたのだろうか。クマリンであればシベットの官能的な部分を残しつつ、糞尿感をマスキングできるかもしれない。
――本当にすべてを試しましたか?
ミツコは問うた。エメはまだ合成香料を試していない。せっかく呼び込んだはずの睡魔はまた遠ざかった。エメがようやく眠りについた時には朝日が顔をだそうとしていた。
ジャックを三代目にすると告げたときのガブリエルの顔ときたらなかった。冷静な男があまりに理解が及ばずに口を開けて固まっていた。その足でジャックを迎えにいった。説明を聞いたジャックとすぐ隣にいたピエールは父親と全く同じ顔をして固まったが、しばらくすると雄叫びを上げて抱き合って喜んだ。ピエールが経営を、ジャックが調香師をすることを夢みていたらしい。
「明日、頼んでいた原料が届く。手伝ってくれないか?」
ジャックは目を光らせ、まるでお辞儀をするかのように深く頷いた。
ミツコが頼んだバジルがようやく届いた。今、調香部屋にはエメとミツコとジャックがいる。二人の顔が険しいのは、予め準備していたシベットのせいだろう。
「今日はちゃんと換気してるから大丈夫だろう」
「目の前にシベットがあるだけで恐怖ですよ。絶対に雑に扱わないでくださいよ」
ジャックは目でミツコと同じ意見であることを告げる。
シベット、ラベンダー、ローリエ、ベルガモット、ローズマリーを混ぜ合わせる。バジルは三種類あるため、この混合物を三つのフラスコに等しく分ける。それぞれのフラスコにバジルを一種類ずつ入れる。三つすべてに同じ量のエタノールをいれると、エメ、ミツコ、ジャックでひとつずつフラスコをもち混ぜ合わせた。エメは自身がもっていた試作品を嗅ぐ。目を見開く。バジルは正解だった。シベットの香り立ちを魅せる補助線になっている。
エメはミツコとジャックからフラスコを受け取ると順番に嗅いだ。そしてジャックの前に横一列にフラスコを置く。
「ジャック、どのバジルがいいと思う?」
ジャックはエメの顔をちらりと窺い見る。唾を飲み、三本のフラスコに向き合ったかと思うと、ひとつずつ手にとることはせずに目を閉じた。すん、すん。ジャックが鼻をすする。フラスコの口から漏れ出す香りを余すことなく捕まえようとしている。一回嗅ぐごとにわずかに角度を変えてフラスコひとつずつと向かい合う。ジャックは真ん中のフラスコをとった。
エメは自分の顔が思わずほころんだことを自覚した。ジャックの見立て通り、真ん中のバジルが一番よい。ミツコに視線をやると、彼女も頷いていた。
「私も同じ考えだ。このバジルにしよう。さて、もしかしてバジルが奇跡を起こしているかもしれない」
エメは試香紙を三枚重ねると、フラスコの口に濡らした。扇をひらくように三枚をずらすと数回手首を振って余計な香りを飛ばした。一枚ずつミツコとジャックに渡す。ふたりはおそるおそる鼻を試香紙に近づける。
「くっさい」
ミツコがそう言って、試香紙を持っていない方の手で鼻をつまむ。その様子をみてジャックはそっと鼻を試香紙から遠ざける。
「あっ、もしかしてジャック様。嗅いでないですね! ズルいですよ。裏切りもの」
ジャックは声を上げて笑う。これまでまともに会話したことがはずなのに妙に馬が合うのか、互いにふざけあっている。
「まあ、バジルがシベットのラストノートを抑える訳がないか」
エメがわざとふたりにシベットを嗅がせたことを悟り、ミツコはエメを睨んだ。
「さて、バジルの効果は目論見通りだった。問題はこれだ」
エメは調香大の端に追いやっていた香料壜を引き寄せる。壜にはクマリンと書かれた紙が貼られている。
「ジャックは〈フジェール・ロワイヤル〉が好きか?」
エメの問いにジャックは首を横に振った。意外な回答にエメは目をしばたたかせた。ジャックはエメが持つ壜を指す。
「俺が好きなのはこの香りだ」
ジャックは〈フジェール・ロワイヤル〉からクマリンの香りだけを嗅ぎとっていたのだ。
「俺、こんなに凝縮した香りは初めてだった」
合成香料のよさは安価で安定供給されること。そしてほぼ匂い物質だけで構成されるいさぎよいほどの濃厚さだった。エメはただ純粋に香りを褒めたたえるジャックの様子に頭を殴られたような衝撃を感じた。
「トンカビーンの方が優れているだなんて誰が決めたんだろうか」
複雑な天然ものを制御することこそ調香だと思い違いをしていた。どんな香料であってもその利点を活かすような使い方があるはずなのだ。ジャックを見る。エメにとってトンカビーンが先にあって、模倣品としてクマリンが出てきた。ジャックにとっては違う。クマリンがあって、やがてトンカビーンという使い勝手の悪い古い原料があると知るのだろう。
エメは先ほどのバジルが入ったフラスコを手にとると、クマリンを三滴垂らして振る。
試香紙を濡らしてまた振る。トップノート、ミドルノートが飛んでいく。嗅ぐ。シベットの官能的な香りが漂ってきてこちらを魅了した。ここから糞尿感に、変わらなかった。
「エメ様、やりましたね」
「ああ、おさまりにクマリンの甘さがきて糞尿感をカバーしている。一歩前進だ」
喜ぶエメとミツコの様子をみてジャックが戸惑っている。
「えっ、確かに臭くなくなったけど、すごくいいかと言われたらまだまだじゃないの?」
ミツコはジャックの頭をくしゃくしゃに撫でる。
「おっ、天才様が生意気ですね」
「やめろよ」
「ジャックの言う通りだ。これで完成とするわけにはもちろんいかない。だが」
以前は三年以上も変化がなかった。一歩、それも大きな一歩を踏むことが出来た。
「ひとつ進んだ」
「合成香料の甘味が効きましたね。鋭く強いおかげでシベットの一番よい香り立ちをじゃましていない」
「しかし鋭すぎるのが難しいな。最後、ほんのわずかな時間シベットが顔を出しておわってしまう。なにかそこを塞ぐ方法を考えないと。ウッディ系で遅いものを持ってくるか」
「ウッディ系ですか、シベットに負けそうな気もしますけど」
エメはジャックが会話に入っていないことに気が付いた。じっとクマリン入りのフラスコを見つめている。やがて何かを決意した表情で頷くと顔を上げる。
「エメおじさん、俺に一日だけくれない?」
翌日、ふたたび三人は調香部屋に集まった。エメは昨日と同じようにクマリン入りのシベット香水を作った。いくつか作るか? とジャックに聞いたがひとつで構わないと言う。ジャックの前にフラスコを置く。ジャックは確かめるように試香紙で香りを嗅ぐ。
「最後に少しだけ出てくる臭さをなくせばいいんだよね」
エメは首肯する。ジャックはふくらんだ胸ポケットに指を突っ込むと香料壜を取り出した。壜には『バニリン』と記されてある。
「バニリン! ジャック、それはどこから?」
「実は父上が持っていたのを思い出して……」
ジャックは言葉を続けることはせず、黙って下を向いていた。
「盗んできたのですね」
ミツコの言葉にジャックは勢いよく顔を上げた。
「悪いかよ」
ミツコは首を横に振った。
「悪い? 何を言っているんですか、最高です」
ジャックは呆けた顔でミツコを見つめていた。
「ジャック、黙って持ってくるのはよくない。ガブリエルには俺から謝っておく。だがそのこととシベット香水にバニリンが必要なことはまったく関係ない。ほら、試してみよう」
合成香料をふたつ重ねることなど思いつきもしなかった。ジャックはフラスコに向き合うとピペットを微かに震わせながらバニリンを垂らした。蓋をしめ、そっと振る。ジャックは出来上がった香水を怯えたようにエメに差し出す。エメはそれを突き返した。
「ジャックが調香したんだ。一番に嗅ぎなさい」
ジャックは視線を泳がせてミツコを見る。ミツコは頷き返す。ジャックは決心したようにフラスコの蓋に手を伸ばす。先ほどピペットを持っていた時より震えていた。試香紙をたどたどしい様子で振る。嗅ぐ。ジャックの目が大きく開く。
「臭く、ない。臭くないよ、エメおじさん!」
エメはジャックから試香紙を受けとると、くん、と鼻をすすった。シベットからクマリンへ匂いが渡り、時間差でバニリンの濃厚なバニラの甘さがやってくる。完全に糞尿感がなくなっていた。エメはジャックの頭に皺だらけの手を乗せた。たしかにこの香水はエメの名香だったが、ジャックの名香でもあった。
「ありがとう。ジャックの手を借りて、私にも名香を生み出す事ができた」
「でもこれで完成じゃないよね? バニリンの甘さがくどい気がするし」
ジャックは首を傾げた。
「暴れん坊のシベットはもうやっつけたんだ。バニリンの甘さを弱めるなんてそんなに難しい事じゃない」
エメの言葉通り、二週間後にミツコがシナモンを、さらに二週間後にエメがサンダルウッドを加えることで最後のバニラをすっと治めるすべを見出した。そのひと月もエメにとって驚きの連続だった。ミツコは出会った時から香料の知識をふんだんに持っていた。一方でジャックは知識という面ではまったくの素人だった。エメが香料ひとつを試すたびにジャックはその香料は何か、どんな特徴があるのかを聞いてきた。ジャックは調香師としては赤ん坊のようだった。十分に瑞々しいにも関わらず次から次へと新しい水を吸収した。
「よし、完成だ」
エメはフラスコに入った名香をみっつの香水壜に分けた。ミツコに渡す。
「長かったですね、おめでとうございます。必ずエメ様は名香を作ることが出来ると言ったでしょう」
ミツコは恭しく頭を下げる。
「そうだ、この香水の名前は決まったんですか?」
「ああ、これ以外考えられない。〈ジッキー〉、これが私の名香の名前だ。そして」
エメはジャックに香水壜を渡す。
「君の名前だ。ジャック」
ジャックは驚きのあまりか、〈ジッキー〉を両手に包んだまま固まってしまった。
「い、いいの?」
「もちろん。ジャックがいなければ私の名香は誕生しなかった」
クマリンとバニリンという奥行きを発見することは出来なかった。すんという鼻をすする音が聞こえた。音の主はジャックだった。匂いを嗅いでいるのではない。溢れ出す鼻水と涙を止めるためにすする音だった。だが止まることはなく、ジャックは顔をすっかり濡らした。
エメはハンカチでジャックの顔を拭く。
「困るな。そんなに鳴いたら調香が出来ないじゃないか。これから厳しい特訓が始まるというのに」
「よろしく、お願いします」
エメはジャックの震える肩に手を乗せた。
「ああ頼むぞ、未来の専属調香師」
エメは泣きじゃくるジャックをそっと椅子に座らせて、ミツコのもとに戻ってくる。
「さて、ミツコ。名香は出来た。どうすればいい」
「本当にお疲れ様でした。完成した〈ジッキー〉を嗅げば過去の世界は終わるかと。ご心配なさらず。この世界のあなたは続きます。ジャックを三代目調香師として育て上げ、フランスの香水業界全体をより発展させる。それがわたしの名香が未来で決定づけるであろう世界ですから」
エメとミツコは〈ジッキー〉の蓋をとる。エメはそっと鼻を近づける。この香水を作るためにミツコと試行錯誤した日々が浮かぶ。作り上げることが出来ずに調香師として死んだ地獄を巡る。そしてジャックに出会った。短いが素晴らしい日々だった。世界が歪む。〈ジッキー〉の香りだけがくっきりと浮かぶ。音が聞こえなくなる。何も見えなくなる。
***
二〇九五年、ミツ・コウザキは名香〈ジッキー〉の復刻、および新作〈エメ・ゲラン〉を発表する。〈エメ・ゲラン〉は〈ジッキー〉をベースに〈ミツコ〉でも使われたアルデヒドC14の桃の香りが採用されている。〈エメ・ゲラン〉は全く新しい官能を人々にもたらした。桃、シベット、バニラと特徴的な香りをあえてひとつに調和させずに独立させている。まるでひとつの香水に三つの香水が含まれているかのような幻惑的な香りだった。
八代目専属調香師ミツ・コウザキと〈エメ・ゲラン〉によってメゾン・ゲランはふたたび帝国としての道を歩み出した。
『ゲラン帝国とゲルリナーデの謎』終章「ゲラン」より抜粋
(了)
参考
・ロジャ・ダブ(新間美也 監修)『フォトグラフィー香水の歴史』原書房,2010
・アンヌ・ダヴィス,ベルトラン・メヤ=スタブレ(清水珠代 訳)『フランス香水伝説物語 文化、歴史からファッションまで』原書房,2018
・鹿島茂『パリ時間旅行』中公文庫,1999
・パトリック・ジュースキント(池内紀 訳)『ある人殺しの物語 香水』文春文庫,2003
・オノレ・ド・バルザック(大矢タカヤス 訳)『セザール・ビロトー ある香水商の隆盛と凋落』藤原書店,1999
・マルセル・プルースト(ステファヌ・ウエ 画,中条省平 訳)『失われた時を求めて スワン家のほうへ フランスコミック版』祥伝社,2016
・ゲラン株式会社ホームページ https://www.guerlain.com
・guy jones, “Late 1890s – A Trip Through Paris, France” 2018 http://youtube.be/NjDclfAFRB4
文字数:44227
内容に関するアピール
香水の話を書こうと決めてから色々と調べていくうちに、ゲラン一族の中でもとりわけ二代目専属調香師のエメ・ゲランの周りには謎が多く、一体どんな人物だったんだろう? 彼に何があったんだろう? と惹かれました。彼について調べても分からないところを補うように妄想したのが本作です。
19世紀の初代ピエールの手によってパリに香水が生まれ、二代目エメの手によって近代的な香水へと進化し、三代目ジャックの手によって香水は不動の地位を手に入れました。
また19世紀はパリにとって激動の時代で、ナポレオン三世の命を受け街は徹底的に壊され、再構築がなされました。生き残った古さとゼロから生み出された新しさ、その両方の魅力に人々は揺り動かされた時代だと思います。そんな中でエメは古さと新しさの両方を使って香水を進化させています。彼の苦悩と喜びを少しでも描けたことはとても幸せでした。
テクノロジーや設定に耽溺せずに、ひたすら香料と香調のことをくどくどくどくど書いたことは果たしてよかったのかと書き終わった今でも悩んでいますが、好きな気持ちをこれでもかと込めたので楽しんでくださいませ。
SF創作講座の一年間はあっという間でした。元々SFのよい読者ではなかった私ですが、楽しくSFをに触れ、苦しくSFを書きました。今でも難しい、よくわからんと思っています。が、一年前の募集日に本講座のことを知り、直感を信じて慌てて参加表明して良かったと思います。
ありがとうございました。
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