ハローとあなた、さよならと私
Since I left you
I found the world so new
(The Avalanches “Since I left You”)
”あ〜あ〜、マイクチェック。マイクチェック、あ、あ〜〜。
聞こえますか?聞こえますか?みなさん、聞こえますか?
さっきは間違ってサイレンを鳴らしちゃって、ごめんなさい。びっくりさせてごめんなさい。怖がらせてごめんなさい。
みなさんは安全です。繰り返します、みなさんは安全です。
戦争は終わりました。空襲はありません、戦闘もありません。
こちらはノアです。「人類の方舟をつくる」でおなじみのノアです。
そして担当は私、崩月アリア。「不死身の崩月博士」です。褒められてるのか悪口なのかわからないけど、とにかく私は元気です。
初めての進捗状況の前に、この場を借りて御礼とご報告をさせてください!
え〜〜この度、私、なんと母親になりました!いえ〜〜い!パチパチパチ。
名前は小鳥。可愛くて元気でちっちゃな女の子です。自宅で産気づいてそのまま出産したので、不死身の私があやうく死にかけました。いうて、妊娠中から死にそうだったけどね……。
安村さん家のツトム君以来、7年ぶりの島の子ども。すでにたくさんの方からおめでとうの言葉や、お祝いの品がありました。ほんと〜〜〜〜に、ありがとうございます!夫の樹くんともども、心よりありがとうございます!
お祝いはいつでも受け付けていますので、みなさんどうぞお気軽にバードヴィラ208号室までお立ち寄りくださいね。
崩月アリアでしたっ!はいっ、ここからが本題ですよ〜〜。
あ、あ、マイクチェック、ワン・ツー。マイクチェック。
聞こえますか?
あらためまして、崩月アリアです。
第三次人類相転移計画の進捗状況と、この度私を中心に発足した第四次人類相転移計画実行委員会についてご報告させて頂きます。
第一次人類相転計画で開発された特異点をもたない高密度の物体(以下「量子ブラックホール」)を大容量情報ストレージとして応用するところから始まった第二次計画において、同時多発的に観測された仮想現実内での人格解体についての最終報告書が先日提出されました。当初の予測通り「量子ブラックホールからの情報の吸い出しが未だ完全ではない」という技術的な問題の解決を目指し、「目的の情報が量子ブラックホールのどの領域から輻射されいるかの厳密な同定」と「ホーキング輻射の解析技術の向上」に目標を定めた第三次計画に大きな変更はありません。しかし地球情報の吸い出しが現実比93.7%という精度まで向上しても尚、人間の意識情報という非常にヴァルネラブルなデータでは依然として容易に変容してしま……。
……ねぇ。
こんなお硬い原稿を防災無線で聞かされても絶対何も伝わらないって!
やめやめ。一旦やめよう。
これは破棄。私の言葉で説明します。
私がいつも近所のおじいやおばあにしている説明をします。
そもそも相転移計画はおじいやおばあのための計画なんだから!
あの世に行く前に、もういちどショッピングモールや音楽フェスで賑やかだった頃の島がみたい人のための計画なのよ〜〜。
おじいやおばあにも馴染みがある言葉で説明するとね、戦争で壊れる前の地球をメタバースにコピペする計画がそもそもの始まり。コピーする技術はあっても、保存したりペーストするための容量がなかったから、人工ブラックホールを実用化したのが第二次。思い出とか性格とか、脳の情報もブラックホールに保存はできるんだけどうまく取り出すことができなくて、それは第三次計画でも結局無理ってなった。
ごめんね。頑張ったんだけど……。
だから第三次計画では最終的に「方舟」のなかで脳をリアルタイムにスキャニングして、それを活動させる方法を選びました。昔のVRゴーグル時代と同じじゃん!って声もあるけど、全然違うから!意識がそのまま仮想空間に送られるんだから。すごいよ〜。現実に戻ってきたくなくなっちゃうよ。ぜひぜひノアまで体験しにきてください、っていうのが報告でした。
もちろん外から島へ移住してきたおじいやおばあでも大丈夫。ブラックホールは島だけじゃなくて、地球全部を保存してもまだまだすっからかんよ〜〜。
昔の地球が懐かしい人は、だれでも方舟で運ぶことができます。
ただし、子ども以外。子どもはだめです。地球が懐かしくなるまでは、地球で大きくなってもらいます。
でね、仮想現実が老人会にならないようにサステナブルな空間を目指すのが第四次人類相転移計画なんです。まだ計画中なんだけどね。
どんな計画かっていうと、って、後ろのボスがめっちゃ焦ってるから詳しくはまだ言えません〜〜。でも必ずオープンにするので、それは約束します。
あ〜〜でも、これは言った方がいいんじゃないですか?いいニュースなんだから。
なんと、仮想現実に、うふふ、子どもが生まれます。
みんなが大好きな、みんなが愛してやまない子どもが、新しく生まれるんです
今回はここまで〜〜。情報インフラの整備もしなきゃですね……。
では、崩月アリアでした。えっと「鹿の王の御加護がありますように」。
それより、出産祝いに遠慮はいらないからね!!!”
*
鹿肉のソーセージを一口サイズに切り分けながら、鹿の王が死んだって報せを俺は反芻していた。腹を裂かれた状態で発見されたそうだ。
冷めるのを待つあいだにベランダの鹿の糞を片付けておく。ちょっと前に窓の内鍵を締め忘れたせいで家の中が糞だらけになった大事件があった。絶望した俺とアリアが「何でも願いが叶う宝物だよ」って嘘をついて小鳥を手伝わせて以来、鹿の糞をみると「たからもの〜〜」って拾おうとする。
全部地面に蹴落としたつもりが、排水口のところに何個か残っていた糞をやっぱり拾おうとする小鳥を羽交い締めにする。
「た゛か゛ら゛も゛の゛〜〜」と腕の中でジタバタ泣きわめく小鳥を空中で一回転させて、目の奥をじっと覗き込む。嘘を信じさせるときと同じやり方で、本当のことを言う。
「小鳥、ごめん、パパが嘘ついた。それは宝物じゃなくて、鹿のうんち。うんちは汚い。だから触ったら手を洗わないといけない。でも最近は雨が少なくて、家に水があんまりない。パパは小鳥にのどが渇いてほしくないから、鹿のうんちは触らないで欲しい」
わかった、って小鳥は涙を拭う。すぐに「おなかぺこぺこ〜〜」って笑う。「ソーセージ食べる?」「そーせーじたべる」「外で食べる?」「そとでたべる」
外で食事をすることが、3歳になったばかりの小鳥の最新のマイブームだった。アリアが家にいればサンドイッチを作って3人で海で食べることもあったけれど、俺と小鳥だけの朝はそんな余裕はない。
それに俺は自分の家、バードヴィラ208号室、がいたく気に入っていた。実を言えば、海なんて行きたくなかった。ベランダに鹿が上がってくるし、昔はあんなに鮮やかな青だった外壁は見る影もないし、島は空き家だらけなんだから引越し先には困らない。それでも俺はここに根を張る。アリアとふたりでこの部屋を選んだのはまさに単なる偶然なんだけど、俺はそれを運命として引き受ける。この部屋でするセックスでなきゃ小鳥だって生まれなかったかもしれないのだ。
道を一本挟んで海が見える。沖の方で空の青と海の青が混ざりあって群青色になっている。
「たのしい〜〜!」って何でもない時間でも小鳥はよく笑う。
今も笑っている。俺もつられて笑ってしまう。
「何が楽しいの?」って訊いても「たのしい〜〜!」としか教えてくれない。
きっと子どもは、生きているのが楽しすぎるんだ。
笑う小鳥をみてアリアが「死ぬなんてずっと知らないでほしい」と泣いた時、どうして彼女が仮想現実にあそこまで入れ込んでいるのか漸く俺は理解できた気がした。死のない世界と同年代の友達を小鳥にプレゼントすることがアリアの願いだった。死はともかく、小鳥がお手製のお友だち、──大好きな『大どろぼうホッツェンプロッツ』のゼッペルとカスパールおばさんとペトロジリウス・ツワッケルマンとその他色々のコラージュ、と健気に遊んでいる姿は俺たちの涙を誘った。兄妹という選択肢もふたりで何度も話しあった。だけど打ち捨てられたこの現実に招く罪悪感や、何よりあのアリアが妊娠中にみるみる痩せてお腹の小鳥に殺されかけたことを思うと躊躇せざるを得なかった。そんな事を考えずに、アリアとまたファンタジックなセックスができたらいいのに。でも俺にはできない。セックスと生殖は分けて考えるべきなのはご尤もだが、少子化の極限のようなこの地上で俺たちのメイク・ラブは人類の絶滅問題と直結せざるを得ない。アリアを愛撫しながらそんな事を考えていると、俺のちんちんは途端に萎えてしまう。
昼寝から目を覚ました数秒後。「おえかきするの」とパステルの入った籠をひっくりかえし、支給品の画用紙をみるみる消費する。「これはまま」とアリアを書いて、その中にまた輪郭を書いていく。「ねえねえ、ことりだよ」と絵をみせてくれる小鳥に「パパは?」と訊いてみる。「ぱぱはこれ」とアリアの外の黒いくるくるを指差すので、俺は普通に傷つく。「それ、ただくるくる書いただけじゃん」の言葉に反応して、「くるくるきくの〜〜!!!」って小鳥は全力疾走で床に積み重ねられたレコードの山へと突進した。
俺はときどき商店街の跡地からレコードを拝借してくる。ノアから支給された音楽プレーヤーは家の電源だと電圧が足らなくて充電もままならない。レコードは回せさえすれば、あとは針を落とすだけで耳をすませばちゃんと音が聞こえる。石碑やレコードみたいに物理的に情報を保存するアナログな方法が、何周もまわって今の俺たちにはものすごくハイテックな技術のように感じられる。ノアの最先端の技術に一切のときめきを示さなかった小鳥がうっとりと回転するレコードを眺めている。
「くるくる〜〜たのしい〜〜くるくる」
「小鳥、しずかに。ぜんぜん聞こえない」
「しーだね、しー、あはははは!」
「うるせ〜〜」
それから『リボルバー』のB面に取り替える。ビートルズ史上最悪の駄曲のあとに、最高の名曲が流れだした。小鳥の名前の由来だった。俺がまたその話をしようとしたら、小鳥はベランダで空を見あげている。
「なにあれ?」
小鳥が指さす方を俺もみる。
なんだ、あれ?
スプーンでくり抜いたみたいに、ぽっかりと黒い穴が青空に開いている。
それだけじゃない。ノアの方角が赤く燃えている。その炎はみるみる大きくなり、黒い煙が空の穴に吸い込まれるみたいに立ち上っていく。不死身の崩月博士。咄嗟に俺はそう口にしている。「ママはぜったい大丈夫だよ」とか言わなくてもいいことを小鳥に言ってしまう。俺は落ち着きなく家の中をうろうろして、その後ろを小鳥がついてまわる。「おでかけするの?」とか「うみいくの?」とか小鳥は穴のことはすっかり忘れてはしゃいでいる。とりあえず外に出かける準備をしながら、でもどこに行くつもりなのか自分でも分からない。3歳にしては多すぎる髪の毛をゴムでまとめ、オリーブオイルを染み込ませた櫛でとく。小鳥は嬉しそうに鏡のなかの自分を見つめている。「おひめさまみた
どんどん!!どんどん!!
なにかがバードヴィラ208号室のドアを叩いた。
俺は咄嗟にキッチンのナイフを手に取る。ドアの向こうにいるのはアリアではない。アリアはノックなんてしない。ただいま〜〜ってがさつに家に帰ってくる。玄関に鍵なんてかけない。だって鹿はベランダからしか入ってこないからだ。俺の足にしがみついている小鳥を「離れなさい」と振り払おうとする。やだやだ!って離さない小鳥の頭を叩いてしまう。「うわ〜〜ん!!!たたかれた〜〜!!!」って泣いてる小鳥を奥の部屋へと押し込み、俺は他の武器を探す。ノアから支給されたピストルが寝室のクローゼットの奥にある。だけど寝室は玄関のすぐ左手にあって、ピストルを探している隙に侵入されたら小鳥が危ない。俺はドアを凝視する。
どんどん!!どんどん!!どんどんどんどん!!
さっきよりも大きな音を立ててドアが叩かれる。やっこさん、遠慮ってものを知らない。力まかせに叩かきゃこんな音は出ない。だとしたら人間ではないのか?まさか鹿?最近の鹿は喋るだけじゃなくて、マナーまで身につけているのか?だけどドアは一定のリズムで叩かれ、やはり向こうにいるのは人間だ。
喉が渇き、すべての毛穴から冷たい汗が流れる。暑いのに寒く、寒いのに暑い。誰だ?と俺は大声で問いかける。「ことりだよ〜〜」って小鳥の声が俺を脱力させる。
またドアが叩かれる。軋むのがドアポストの高さであることに俺は気づく。
子ども?
まさか!小鳥が島で最後の、そして唯一の子どもだ。ありえないと思いながらも、俺は変に気が大きくなる。身体のサイズや筋肉量の違いがいかに暴力を誘発しやすいか、実感として俺は知っている。子どもなら負けることはない。俺はナイフを握りしめ、歯を食いしばり、ドアを内側から思いっきり蹴り開けた。蝶番が壊れて、反対向きに開いたドアがそいつを吹き飛ばした。
そいつは裸のまま、尻もちをついていた。
前についた男性器が、後ろの女性器らしき穴の奥に収納されている。両性具有だった鹿の王みたいに。俺が反射的にペニスをナイフで切り取っても、そいつは痛みを感じないのかきょとんとした顔のままだ。ペニスは黒く壊死して、その断面から凝固した血と精液がぼろぼろとこぼれ落ちる。
この首も切り落とすべきなのだろうか?
躊躇させたのはそいつが子どもみたいだったから、だけじゃない。その異形の存在に俺は確かに見覚えがった。左右で大きさと色が異なるうるんだ瞳、つぎはぎだらけの皮膚、見間違いようのない完璧な均整がとれた安村ツトムの六本指の右手。
どん!と奥の部屋の引き戸が開かれて、どどどどど!と足音が背中から聞こえてくる。
「小鳥、こっちきちゃだめ!!!」と叫ぶ俺の足元を全速ですり抜けた小鳥が「ねえねえ!!!ことりだよ!!!」って叫びながらそいつの胸元へとダイブする。
「かっっわいい〜〜!!!」
いきなりギューッと抱きしめられて、そいつはちょっと戸惑っているようにも微笑んでいるようにもみえる。あ〜〜、でも、わかるわかる。全然わからんけど、わかる。うんうん。似てるものね、小鳥の「お友だち」とも。
ずっと裸のままでいさせるわけにもいかず、黒にピンクの花模様のワンピースを着せる。
つぎの誕生日のためにアリアが縫ったものだから今の小鳥にはちょっと大きく、小鳥よりもちょっと大きな「お友だち」には丁度いいサイズだった。ぼさぼさの髪の毛も俺が整えた。アリアほど器用にはいかないけれど、結構うまく切れた気がする。嬉しそうな「お友だち」のまわりを「かわいいね〜〜」って小鳥が走っている。
急に気が抜けた俺はこれからのことを考えるより前に、とにかく煙草が吸いたくて玄関に立つ。ベランダで吸わなきゃアリアに怒られるんだけど、さすがに小鳥と「お友だち」をふたりきりにするのは不安だった。そもそも、そういえば、アリアは生きてるのか?と窓へと目をやると、小鳥と「お友だち」と目が合う。手を繋いで並んで立っている。
俺は眩暈がする。ふたりの姿はまるで姉妹だった。そのうしろでは空に黒い穴が開いて、煙と炎が流れ込んでいる。
頭がパンクしそうだ。冷やさなきゃ。煙草に火をつけると、窓の外がピカッと真っ白に光った。逆光でふたりが真っ黒な影になる。
思い出すより先に俺は爆発を察知し、家の短い廊下を全力で走る。子どもの頃に同じ光をみた。記憶とおなじくらいの時間差で、轟音と衝撃波がバードヴィラを揺らした。ベランダの窓が砕け散り、俺はふたりに覆いかぶさる。現実を根こそぎ破壊するような震動のなかで、ふたつの細い腕が俺の両腕に必死でしがみついている。子どもを守るんだ。なぜなら俺は大人だから。精一杯優しい声を出す。
「大丈夫、パパがなんとかする」
「ありがとう」って返事をしたのは小鳥じゃなくて「お友だち」だった。喋れんのかよ!ていうか、俺はお前のパパじゃねーよ!!!
まるでゆりかごのように、揺れはだんだんと緩やかに、そして振幅を大きくしていく。眠気と嘔吐を誘う揺れのあいまに人間ではない気配を感じ、俺はおそるおそる顔をあげる。
鹿だ。
ベランダに鹿の姿があった。しかも、ただの鹿じゃない、神聖な喋る鹿だ。地面まで膨らむ腹は丸みを帯びている。
魚みたいにぱくぱくと口を動かしている。
──はやくにげて
そう俺たちに忠告していた。鹿の分際で。
俺もアリアも、鹿が嫌いだ。食い物としての鹿だけが好きで、あとは普通の鹿も、喋る鹿も、鹿の王も、みんな嫌いだ。戦争のまえは鹿の王なんていなかったし、喋ることもなかった。「戦争で現実の底が抜けて、そこからやってきたのよ」とアリアが言っていた。あいつらは落ちていれば何でも食うようになった。人間の死体も。俺もアリアも小鳥も死んだら鹿に食われる。最後は鹿の糞になる。祝女の連中が信じるみたいに、俺も生まれなおしを無邪気に信じられたらいいのに。
だけど今は緊急事態だ。俺はふたりを両脇に抱えたまま、おとなしく鹿の後ろをついていく。エレベーターホールの屋根をつたってお尻から地面に着地する。痛みに悶絶している最中、バードヴィラが音を立てて崩れる。俺はもう笑うしかなくて、「ありがとう」なんて鹿に礼まで言っている。だけど鹿からは返事はない。気がつけば揺れはおさまっている。「ねえねえ、ぱぱ。あめだよ」。煤けた空から何週間ぶりの雨が降りはじめた。
鹿は「お友だち」へと顔を寄せると森の方へと踵を返した。でかい尻と腹を揺らして遠ざかっていく姿を眺めながら、俺は考える。「お友だち」のパーツであきらかに右手が最も新鮮そうで、「喋る鹿」のなかであきらかにこいつは最も若そうだ。
「小鳥!目つぶっとけ」
怒られていると思ったのか小鳥は目をぎゅーっと力いっぱい瞑る。何かを察して「お友だち」が小鳥の前に立つ。小鳥を守ってくれようとしているんだ。暴力から。惨劇から。同じ子どもなのに。
膨らんだ腹を地面に引き摺って歩く鹿の後ろから俺は襲いかかる。
右腕で首の骨を折り、左手のナイフでその膨らんだ腹、──神聖で不可触とされていた腹を、掻っ切る。裂く。俺はついさっき思い至った仮説を確かめたかった。今度こそ本当に世界が終わりそうだから、罰なんて怖くなかった。そもそも最初から信じてなんかない!
俺は肉の裂け目へと躊躇なく手をつっこむ。中はぬるくてびしょぬれだった。
指先にあたった膜のようなものを爪を立てて破る。ごぼごぼと液体が溢れ、次の瞬間には裂けた腹が塞がっている。鹿の膣に腕が飲み込まれている。引き抜くのではなく、突き上げるように俺は腕を最深部へと突き刺す。鹿が人間の女みたいに高い声であえぐ。折れた首を真後ろに反り返し、真っ赤な目が逆さまに俺をとらえる。俺は目的の左手をみつける。鹿の口がぱくぱくと動いている。
──ハッピー・バースデイ
鹿は確かにそう言った。俺は臍の緒を、鹿と安村ツトムを繋ぐ臍の緒をぶちっと引きちぎる。そうしたら何の抵抗もなく外へと引きずり出すことができた。そしてまたすぐに死んでしまった。いや、ツトムはとっくに死んでいたに違いない。鹿の中で生まれなおして、その中で再び死んだんだ。安らかな顔をした死体には右手だけがなかった。俺は驚かない。だけど考えることが多すぎて、深い溜め息をつく。目の前に真っ暗な産道が開きっぱなしになっている。俺は自分が射精していることにやっと気付く。
夜。ツィカラフサの草を集めて作ったふかふかの寝床で、小鳥と「お友だち」は身を寄せ合って眠っている。津波を警戒して抱護林に逃げ込んだけれど、結果的に津波はこなかった。茅葺きの高倉はあの震動でも崩れることなく、床下に保存されていた水もそのままだった。
俺は念願の煙草を吸いつつ、この長い一日を思い返していた。
不老不死の鹿の王の死体が回収されたと、アリアが興奮気味に話していたのが昨日の夜。それから空に穴が開いて、「お友だち」がやってきて、爆発があって、家を失った。今になって喪失感が襲ってくるが、俺も小鳥もまだ生きている。
夜の海を挟んでノアはまだ赤々と燃えている。爆心地もノアだったと考えるべきだろうか。人間が生きているとは思えないけれど、だとしたらアリアが死んでいるなんて一層思えない。否認ではなく経験則として、こんな状況だからこそ俺はアリアの生存を信じられる。目的地はノアだ。アリアを探そう。世界が終わる前に。海沿いに子どもをふたり連れて歩けば数日はかかる距離だ。その間に雨がノアの火を鎮めてくれるかもしれない。
この雨はさらさらと暖かく、透明で、雲もないのにどこからか降り続けている。もし毒性があれば俺たちはとっくに致死量を浴びているだろう。むしろ世界を浄化する雨のように俺には感じられる。
戦争のあと降り続いたタール色の雨は爆弾よりも多くの人を今も殺し続けている。たとえばすぐに俺の両親を殺し、ゆっくりと安村ツトムを殺した。子どもが生きていくには、この世界に染み付いた毒は強すぎるそうだ。小鳥が生まれた時におじいやおばあが泣いていたのは、祝福からだけではなかった。心のなかではごめんなさいと胸を痛めていたに違いない。アリアも感傷的になりながら、同時に現実的な解決方法を考えていた。アリアは小鳥をそのまま仮想現実へと送り届ける技術を開発した、つもりだった。だけどそれは失敗した。
人間のかけらを組み合わせるアリアのやり方、絵本をコラージュする小鳥のやり方、そして恐らく鹿の王の中で死んだ子どもをミックスするやり方。その3つのやり方はそれぞれ、仮想現実、現実、仮想現実と現実のあわい、に拠って立っている。
もしアリアが鹿の王を利用して、仮想現実と現実の入れ替えを企てたとしたら?
彼女の巨大な母性ならやりかねない……。そうすれば小鳥をそのまま仮想現実の住人にすることは可能だ。現実にしがみついている俺に何も言わないのも(人類相転移計画についても俺は人並みにしか知らない)、というか現実のみんなに黙っていたのも、何ら不思議じゃない。「お友だち」は現実を奪取するために仮想現実から送り込まれた刺客で、だとしたら転送装置=鹿の王のことをノアの連中が「特殊臨界生物」と呼んでいたことも合点がいく。
雨を浴びながら、俺はなんとかもう一本湿気った煙草に火をつけた。アリアに言いたいことはたくさんあるけど、怒りは微塵もない。小鳥を想っての計画だろうし、何より俺は生理的にアリアが好きだった。
だけど問題は穴だ。空に口を開けたあの黒い穴も、アリアの想定内なのだろうか?
俺は考えるのをやめる。欠けたパーツが多すぎて、時間の無駄だと感じられた。とにかく、アリアに会うんだ。俺はアリアを止めない。止めたとことろで世界はもう取り返しのつかないところまで進んでいる。空に穴が開いて、鹿が生き返って、小鳥に姉ができたのだ。
酔いつぶれた女王様みたいな支離滅裂な小鳥の寝相のせいで、狭いスペースに追い込まれた「お友だち」は小鳥のお腹に手を添えてすやすやと眠っている。傍若無人な妹、世話焼きな姉。やってきたのは姉が後だけど、ふたりはありふれた姉妹にしかみえない。目を覚ましたら「お友だち」に名前をつけてやろう。小鳥の妹か弟のために俺たちが考えていた名前を無駄にしたくない。なにより、仮説とはいえ、この子はアリアの子どもに違いないのだ。大切に思う理由は、俺にはそれで十分過ぎる。
「倫」
目の奥を覗き込んで名前を伝える。嘘を信じさせているのか、それとも本当のことを言っているのか、俺には見分けがつかなくなる。だけど倫は本当に嬉しそうで、なぜか小鳥も死ぬほど嬉しそうにしている。「りんちゃん〜〜」と「ねえねえ、ことりだよ」と「かわいい〜〜」を壊れたみたいに交互に言い続け、倫もそれをニコニコみている。
穴もお天気雨は相変わらずだけど、空も海も透き通るようなブルーだし、気温もぽかぽかと暖かい。小鳥が生まれた日もこんな完璧な天気で、まるで世界から祝福されてるみたいな気分になった。それから今日まで、小鳥はずっと幸せそうで、基本的に楽しそうだ。俺たちの心配や罪悪感をよそに、小鳥は自分の欲望のままに今を生きている。
「よかったな、小鳥。お姉ちゃんができたじゃん」
走り回っていた小鳥がピタッと止まる。さっきまであんな無邪気に笑っていたのに、はぁ?って不服丸出しの顔を俺たちに向けている。
「ことりがさきでしょ。ことりがおねえちゃんでしょ」
アリアの生き写しみたいなドヤ顔で倫ににじり寄り、胸を張って威圧している(つもりなのだろう)。
「ことりが、おねえちゃん、でっしょっ」
むふ〜〜って鼻息を荒くして、再び私こそが姉だと宣言する。
「ああ、うん……お、お姉ちゃん」
小鳥はにんまりと笑い、「よしよし、いいこね」と倫の頭を撫でると何故か俺にもドヤ顔を向けてくる。勝ち誇った顔のまま怪獣みたいな足取りでどんどん一人で歩いて、轍に足を取られて転び、そしてこの世の終わりみたいに「い゛た゛い゛〜〜!!!」と泣き叫ぶ、という一連の因果応報を俺はにやにやと眺めている。
「ごめんな、倫。あんな姉で」
「ううん。大丈夫です。順序って大事だもん。お姉ちゃんすっごい泣いてるけど、いいんですか?」
「あれは嘘泣き。本当に悲しいときはしゃっくりが出る。かまってもらえないとわかれば、けろっと泣き止む」
「あ、ほんとだ、もう泣いてない。わ、またあの顔してる……」
「ていうか……かなり喋れるんだね」
「うん。だんだんと整理されてきた。あるべきところにあるべきものが収まって、何だか気持ちいいです〜〜」
倫は深呼吸して、蛇が孵でるみたいに思いっきり身体を伸ばした。
「思い出す、とは違うんだな」
「思い出みたいなのはないと思います。だって、私、脳がない」
髪の毛をかき分けて、倫は自分の頭を指でとんとんと突く。小さな空洞を予感させる鼓音が響いて、「ほら」と倫が微笑む。アリアが人間のかけら、遺体の一部だとか遺品だとか個人の記憶だとか、を量子ブラックホールに無選別に大量に放り入れた。そこから任意の領域を切り取り、名前をつけてアバターが付与されたのが、仮想現実の「子どもたち」。彼や彼女も脳はなかったんだろうか?
「思い出はないけど、世界の情報だけは知ってるってこと?」
「そういうことです。人工知能をイメージしてもらえればいいかと。あ〜〜でも好きなものとかもありますよ。私はパンダが好きで、芋虫が嫌いです」
俺はパンダなんて見たことないし、小鳥はその存在自体を知らないだろう。それはきっと他の誰かの記憶、他の誰かのかけらなのだ。そして、だからといって、かけらをつなぎあわせただけじゃ倫にはならない。パンとレタスとマヨネーズとハム、とサンドイッチがイコールではないのと同じように。「どこから生まれてきた?」とか「お前は何者なんだ?」とか訊いてもよかったのかもしれない。だけど俺はそうしない。彼女は倫という名前がつけられ、俺たちの家族としてこれから生きようとしている。たとえ短い時間だとしても。
前の方で小鳥が癇癪をおこしている。はやくいくよ〜〜!!!って。どこに行くかもまだ伝えていないのに。
「思い出はこれから作っていけばいいさ」
「そうします」って先に歩きだした倫の後ろを俺もついていく。
等間隔に並ぶ青いビーチパラソルのなかに、ひとつだけ黄色が混ざっている。
「ほら、走ってこい」と小鳥を抱っこからおろすと、ミニカーみたいにピューッと白い砂浜を笑いながら駆けていく。かつてリゾートホテルだったこの敷地は周囲に有刺鉄線付きのフェンスが張られて鹿が入り込まない。だからここは他のビーチみたいに人間の死体を屠る鹿とその糞で汚されていない。小鳥が生まれる前はヘリじゃなくて今日みたいに歩いてノアに行くこともあった。あの黄色いパラソルも俺とアリアが刺したものだった。
ふぅとため息をついて身体を反らす。「疲れました?」と倫。「ああ、うん、でも大丈夫」と強がりつつ、ところどころで地面が崩れて死ぬほど遠回りするはめになり、知らない道を嫌がる小鳥は出発早々に抱っこを強請り、あれはなに?これはなに?と質問攻めの倫に気の利いた返事をして、腰も腕も気力も限界を向かえていた。
降り続ける雨も地味に俺の体力を削り、微動だにしない黒い穴のほうがよっぽど無害に思えてくる。
「おなかぺこぺこ〜〜」ってひもじそうに訴える小鳥を真似て、倫も「おなかぺこぺこ〜〜」って俺の方をみる。はいはい、とリュックからカップラーメンをふたつ取り出して魔法瓶からお湯を注ぐ。
「100秒数えるんだぞ」と俺に言いつけられて小鳥は1から数え始める。普段はできるのに空腹のせいなのか40くらいで「むずかしい〜〜」って投げ出して、「りんちゃんやって」って倫が残りの60秒を数える。「はいどうぞ」と使い捨てのフォークを渡すと、ふたりは勢いよく麺をすすりだす。大人っぽい倫もこのときばかりは年相応(?)の子どもにみえる。よっぽどお腹が減っていたんだね。
俺はふたつ隣のパラソルの下で煙草を吸いながら、道中で見た死体の数を数えていた。
「17人」
建物に潰されていた1人を除けば、おそらく全員が祝女でおそらく全員が自死だった。顔に見覚えがあったのは4人。実際にアリアを襲撃したり、バードヴィラに乗り込んできた連中だった。祝女にとってアリアは老人たちを拐かした異教徒の魔女であり、祝女の母親から生まれた俺は裏切り者だった。
小鳥が生まれた直後、つまり第四次計画が始動して地上からどんどん人間が離脱していった頃。何でも量子ブラックホールに吸い込ませようとするノアに乗り込み、彼女たちは方舟で息絶えた遺体の引き渡しを要求した。ピストルで武装した彼女たちにノアは屈し(「最終的な目的は同じなんだから」とアリアは笑っていた)、大量の死体が海辺に並べられた。最初の頃はひとりひとり骨を洗って厨子甕へと詰められていたが、単純なマンパワー不足で骨たちは海へと流され回収できなくなってしまった。
そのころから祝女の自死が増えた。仮想現実へと逃げ込んだ祝女もいた。
「ぱぱたべる?」
小鳥が汁しかないカップラーメンを俺に渡してくれる。ああ、また俺はいらぬ罪悪感を抱え込むところだった。「ありがとう」とそれを飲もうとすると「やっぱりかえちて」とまたひったくる。「お姉ちゃん、パパ可哀想」って非難の表情をたたえた倫に小鳥がつっかかる。
「ぱぱは、ことりのぱぱ」
言われた倫の顔がちょっと悲しそうにみえた、が、どうしようって俺が静かに狼狽えているうちに倫が言い返す。
「お姉ちゃんは倫のお姉ちゃんなんでしょう?だったらお姉ちゃんのパパは倫のパパじゃん」
3歳にそのロジックが通じるわけもなく、小鳥は「ことりのぱぱなの!!!」ってラーメンの汁を倫にぶっかけた。しばらく呆然としていた倫がおもむろにその腕を振りかざし、思いっきり小鳥の頬へとビンタをかます。砂の上へと吹っ飛んだ小鳥が「りんちゃんにたたかれた〜〜!!!」と号泣している。泣き声ににひっくとしゃっくりが混ざる。その姿に頭に血がのぼって、俺は気がつけば倫の細い腕を強く握っている。指が6本。そういや安村ツトムはわんぱくなだけの愛想も小磯もない全く可愛くないガキだった。俺は腕に込めた力を容赦なく強めてしまう。倫は泣き出しそうな表情になって「ごめんなさい……」と震える声で呟くと、そのまま俯いてしまう。
ああ、ごめん。泣かないで、って泣かしたのは俺か。
倫の腕を離す。真っ赤になっている。
小鳥も倫も泣いている。あ〜〜俺はどうすりゃいい?ひとりでも難しかったのに、いきなり子どもがふたりになってその関係性を調停しろなんてタスクは難しすぎる。俺はあの爆発以来、もっとも切実にアリアに会いたくなっている。アリアとこの問題について話し合いたかった。でもここには俺しかいない。とりあえず俺は泣いてる倫の脇を抱え、突っ伏している小鳥の傍へと運んでいく。「ああ、うん、なんていうか……」。考えろ、俺、とにかく考えろ。「いっせーので、みんないっしょに謝りましょう」。無言。「ね?」って俺は小鳥を座らせようとするけど、「いやっ!!!」って砂の上を転がっている。「ごめ……」って言い出そうとした倫を俺は目で制止する。彼女に伝わっているかはともかく、怒ってないよって顔をしながら。
俺は小鳥を膝に乗せ、倫はその前で膝を抱えている。
いっせのーで!って俺の掛け声のあとに、俺の「ごめんなさい」だけが砂浜に響く。
それからちょっと遅れて倫の「ごめんなさい」、結構遅れて小鳥の「ごめんなさい」。結果的には年配者からのかたちになる。俺はもう一回、倫にちゃんと謝る。そうしなきゃ倫だけ一回だか二回だか謝った回数が多くなってしまう。もし倫が家族じゃなくて小鳥の友達なら、もしくは、小鳥が倫を叩いたのであれば、俺はここまで家族の問題として考えなかったかもしれない。それが正しいのか、それとも戦争を引き起こした元凶なのかとか、今は考えなくていい。子どもたちはもう忘れたみたいに砂のお城を作って遊んでいる。俺もそこに混ぜてもらう。
完成した頃には既に日が暮れかけていた。
「お父さん、これ」
悪戯っぽく笑いながら、倫が俺の背中にオカヤドカリをひっつける。でっぷりと太ったオカヤドカリが俺の首筋まで這い上がってきて、うひ〜〜って俺は本気で怖がる。あははははって小鳥が倫の後ろで笑い「たのしい〜〜」っていつもの口癖のあとに「あ〜〜」と叫んで全身をぶるぶる震わせている。アリアが好きな『ちびまる子ちゃん』に似たコマがあった。喜びのあまり無意味な叫び声を出すまる子と同じポーズに小鳥はなっている。俺はオカヤドカリを引っ剥がして、ふたりを追いかけ回す。きゃ〜〜って子どもたちの笑い声にフェンスの外にいた鹿たちが反応して薄暗い闇のなかで赤い目が光る。
お城のてっぺんに貝殻を突き刺し、パラソルを移動させて雨から保護する。名残惜しそうにしている小鳥の腕を「朝にまた見にこようね」と倫が引っ張っている。「ありがとうな」って小鳥を抱きあげる俺を、倫が見上げている。彼女も抱っこしてあげるべきなのか迷う俺を残して、軽い足取りで倫は砂浜に足跡を残してゆく。
俺とアリアはラブホテル代わりによくこの廃ホテルの客室を使っていた。久々に忍び込んだ客室のベッドはアリアが整えた時のままで、ちょっとかび臭いけれど眠るには問題なさそうだ。懐中電灯をライト代わりにテーブルに置いて、支給品の缶詰をその傍に並べる。いただきますってふたりは勢いよくそれを平らげて、あっという間に深く眠ってしまう。
強烈な眠気に抗いながら、皮の破けたソファに深く腰掛けて俺は煙草に火を付ける。鞄から鹿肉のジャーキーを取り出して、マッチで炙って口へと放り込む。噛めば噛むほど旨味が爆発して、悶絶するほど美味い。こんなに美味いもの、子どもには絶対わけてあげない。
大きな揺れで目を覚ました俺たちは、だけど怯えることにも慣れていた。ビーチの様子が家族の最大の心配事だった。
お城はほとんど跡形もなかった。かなり浸水していたところを、揺れに襲われたみたいだ。俺はまだ白みが残る空を確認する。やっぱり月は出ていない。新月だったから当然なのだけど、それにしては明らかにこの潮は高すぎで、あの穴がブラックホール、──とにかく潮の満ち欠けを変化させる程の強力な重力をもった物体、である可能性に漸く俺は気付く。だとしても、俺が考えるべきことは目の前の悲しんでいる小鳥をどう元気づけるかだった。
小鳥は泣いてないのに、ひっく、としゃっくりをしている。
初めてみる小鳥の様子に戸惑った俺は、「抱っこしてあげたら?」という倫のアドバイスに従うことにする。抵抗するだろうなって俺の予測に反して、小鳥はおとなしく抱き上げられ、ぴくりとも動かない。
「生きてる?」
「多分。目は開いてる」
「どんな顔してる?」
「……夏休みが終わったみたいな顔」
そりゃ相当悲しそうだけど、そんな悲しいのか!俺は信じられなくて、脇腹をくすぐってみる。どうせ笑うだろうと思っていた俺の鼻を「やめて!!!」って小鳥のパンチが砕く。いってえ……。涙目の俺を無視して、倫が小鳥の顔を屈んで覗き込む。
「お城、みんなで作ったもんね」
「う゛ん」
「なくなったら悲しいよね」
「う゛ん〜〜」
「もう一回作ろう!お城。もっとおっきいの」
「〜〜!!!つ゛く゛る゛〜〜」
正解を見せつけられて凹むひまもなく、砂を集めてくる係に俺は任命された。
天守閣付きの立派なお城が完成した頃には辺りは暗くなっていた。「今日もホテルに泊まるか!」って俺の一声に子どもたちが「わ〜〜い!!!」ってはしゃぐ。持ってきた食料も尽きそうなので、高潮の影響で海に戻れなくなった極彩色の魚を焼いて食べてみる。小鳥だけが「おいしい〜〜」とにこにこ食べているが、俺と倫はまったく食が進まない。
「ちょっと待ってろ」
俺は焚き火の周りにふたりを残し、岩場から適当な石を拾い上げ、炎のあかりに吸い寄せられた子鹿の頭をフェンス越しに砕く。奥にいた母鹿らしき鹿が甲高い泣き声をあげるので、赤黒い血の染み付いた石を投げつけて追い払う。こじ開けたフェンスの穴から、首を掴んで子鹿をこちら側に引きずり込む。鉄線に引っかかって、皮膚がずたずたに傷つく。ナイフで頸動脈を切り、ちょうどいい高さのガズマロの木に首を下にして吊るしておく。
俺が焚き火に戻ると小鳥が倫の膝の上で眠っている。しーっ、と倫が口に人差し指(に相当する指)をあて、左手で髪の毛を撫でてくれている。「変わろうか?」「このままでいい。お姉ちゃんきっとすぐ起きる」「ありがとう」「何してたの?」「食料の調達」「鹿でしょ」「鹿は食べたくない?」「ううん。別に。お腹すいたし」「そっか」。
「それよりさ、お父さん」倫の目がキラキラしてる。
「博士との話、続き教えて」
ひそひそ声の倫が俺の血だらけの袖をひっぱる。今日の倫の関心はもっぱら俺とアリアの馴れ初めで、俺も最初は気持ちよく話していたものの、だんだん恥ずかしくなった、というか明らかに娘に話す範疇を超えていた。
「お姉ちゃんが寝たら話してくれるっていったじゃん」
渋る俺を倫が恨めしそうに見ている。どうせすぐ寝るって思ったんでしょ、と俺の目論見も見透かされていた。
「……どこまで話したっけ?」
「「樹くんがいない世界には私もいない」って崩月博士が逆プロポーズしたとこまで」
……。本当はそれは俺の台詞で、アリアには俺からプロポーズしたんだけど、今更そんなこと絶対に言えない。
「それで終わりだよ。それから結婚して、家を探して、小鳥が生まれて、それから──」
それから、倫がやってきた。
たった二日前の出来事なのに、家族の歴史に書き加えることずっと昔から倫を知っていたみたいな錯覚が生じ、俺はそれに身を任せる。はにかんでいる倫の頭を撫でると、ちょうど小鳥が目を覚ます。
「おなかが〜〜ぺこぺこ〜〜」
小鳥の訴えで、湿っぽい空気が一変する。
「え〜〜もう、いいとこだったのに。お姉ちゃん、さっきお魚いっぱい食べたじゃん」
しめしめと俺はまたその場を離れ、血抜きを終えた鹿を木に吊るしたままナイフで解体する。切り離した肉塊を今度は違うナイフでできるだけ薄く切っていく。常にリュックに忍ばせている秘伝のオリジナルスパイスを塗り込み、木の枝に巻きつける。これを焼けばシシケバブ、もといシカケバブの出来上がり。全員が大好きな我が家の大定番だ。
ミスト状の雨が焚き火で完全に霧になり、俺たちをすっぽりと包み込んでいる。その内部は鹿の肉と香辛料が焼ける匂いが充満していた。まだかまだかと小鳥がもどかしそうに見つめ、我慢できずに火の方へと伸ばした手を俺がはたく。たたかれた……と意気消沈する小鳥はだけど泣いていない。倫の方を見ては笑っている。きっと自分の大好物を倫にも食べてほしくてウズウズしてるんだろう、とその時は思っていた。
「はい、完成」
小鳥はシカケバブを二本手にとって、一本を「りんちゃん、はいどうぞ」って渡す。
「パパには?」という俺の疑問はスルーされ、小鳥は倫が口にするのをじっと見ている。
「わ、わ、これ美味しい〜〜」
「だろ?」って俺まで嬉しくなって、身体の芯から満たされた気持ちになる。
「本当に美味しぃ〜〜しあわせ〜〜」って頬を押さえる倫を真似して、小鳥もその両手をほっぺたに当てている。
「りんちゃんのだいこうぶつ」
「初めて食べるけど大好物確定だよ〜〜」
「だいこうぶつなの」
「小鳥、倫はシシケバブ食べるのはじめて」
「ちがうの」
「こないだもいっしょにたべたの」
「ままもいっしょにたべたの」
「みんなでたべたの」
「だ〜〜いすきっていってた」
「私が?」
「うん、りんちゃんがいったの、だ〜〜いすきって」
「お父さんやお母さんじゃなくて?」
「りんちゃんがいったの」
苦笑いの倫が俺に助けを求めている。だけど俺は助けない。小鳥に加勢する。
「そういえば言ってたな、小鳥。パパも思い出した」
「ええ〜〜みんなどうしたの?」
「うみにもいったの」
「ああ、そうだな、4人で海に行った」
「おえかきもしたの」
「したした。倫は意外と絵が苦手なんだ」
「ままもいたの」
「アリアは、ママは小鳥も倫も大好きって言ってたな」
「ことりもままだいすき!」
「倫は?」
「りんちゃんもだいすき!」
「パパは?」
「おなかぺこぺこ〜〜」
ガクッと俺はずっこける。
「お父さん可愛そうだよ〜〜」って倫が笑っている。泣いているようにもみえる。
「いいんだよ、いつもこんなだ」
俺も泣きそうになっている。
「そうだね」
倫がシカケバブに手を伸ばす。「いつもこんなだったね」
翌朝。俺たちのまどろみを強烈な揺れが醒ました。
俺だけじゃない、鈍麻していた危機感を子どもたちも取り戻し、小鳥は俺からしがみついて離れない。倫も俺の手を強く握っている。「逃げよう」。俺は荷物も全部置いたまま、小鳥と倫を両脇に抱えて軋む館内を走る。出口まで続く階段が崩れていて、仕方なく俺はテラスへと避難する。そこからの光景に言葉を失う。既のところまで海が迫り上がってきていた。砂のお城は完全に海の下に沈んでいるに違いないが、小鳥は理解が追いつかないのか呆然としている。
逃げなきゃ。
だけどどうやって?泳ぐ?子どもたちを抱えて?
不可能だ。
足元がぐらつく。床が揺れている。海はどんどん高くなって、俺たちを飲み込もうとしている。
──アリア。
この期に及んで俺は子どもたちのことじゃなくて、妻のことを考えている。死にたくない。怖くなんかない。もういちどだけでいいから、アリアに会いたい、アリアに小鳥を会わせてあげたい。死にたくない。せめて子どもたちだけでも助けたい。
揺れはどんどん大きくなり、立っていられなくなる。海へと流されてしまわぬようにありったけの力で小鳥と倫を全力で俺の近くに抱き寄せる。なにかが折れる音。なにかが崩れる音。ホテルの床と天上が同時に迫ってくる。
小鳥を守るように身体を丸めた瞬間、俺たちはホテルの敷地外にいる。
小鳥は俺の腕の中にいて、倫は目の前で倒れている。その向こうでホテルは完全に海に飲み込まれてしまった。
「倫!」
息はしている。呼びかけにも反応がある。ただひどく疲れて、高熱の時みたいに彼女はうなされている。今は不思議がっている時間はなかった。もっと高いところへ!
「倫、おんぶさせてね」
俺はしゃがんで、倫の腕を首へとまきつける。「頑張れ、離すなよ」。前に小鳥を抱きなおして俺は歩き出す。昨日までとは違う激しい雨が降り、土砂を含んでいるのか泥水のように濁っている。ぬかるんだ地面に足をとられながら、とにかく俺は坂を上へ上へと登る。登ってみる。傾斜は段々と緩やかになり山道へと変わる。やっと後ろを振り返ってみると真っ黒な海面が揺れていた。空では黒い穴が何も変わらず口を開けている。
ノアまでどれくらいかかるか、もう見当もつかなかった。ただ時間が足りないことは確かそうだ。遊んでる場合じゃなかったな、と俺は自嘲する。それでも揺れと雨足が弱まってくれば、希望が、アリアと会いたいって気持ちが、また首をもたげてくる。
俺の寄す処はさっきのテレポート現象。
仮想現実が現実に侵食しているのならば、という前提で俺は考える。絶体絶命のときにゲームみたいにご都合主義的なイベントが発生した。恐らく倫の何かしらを犠牲にして。俺たちが救われたのはアリアがプレイヤー、あるいはプラットフォーマーだから。辻褄はあっているように思う。だとしたら俺たちは何も怖れる必要はない、が、確証もない。縋るにはあまりにか細い。何より。もしもこの場所からノアへのテレポートが発生すれば、移動距離と倫の負担が比例するとして、倫は無事でいられるのだろうか?
それでもいいから、なんて、俺は考えている。そのことが俺を落ち込ませ、ダウナーな気分を免罪符に奇跡を願っている。倫の体温や吐息を直に感じながら。
また大きな揺れ。地鳴りが響き、少し下の斜面で土砂が崩れ始めた。俺は奇跡の再来を確信する。
だけど何も起こらない。俺は泥の上に取り残されている。
足がずぶずぶと沈み込んでいく。怒りが俺の内部で湧き上がる。アリアに?倫に?この現実に?俺自身に?とにかく俺は腹が立ってしかたがない。
「アリア」
とうとう俺は声に出して神に懇願している。しかし返事はない。
もういい。とにかく逃げるんだ。でもどこへ?分からない。数歩だけ前に進んで、俺は生きることを諦めたくなる。
「しかさん」
小鳥があたりをきょろきょろと見渡している。
鹿だ。
鹿の大群が俺たちを取り囲んでいる。群れの中に右目が潰れた雌鹿がいる。あの母鹿だ。俺は腑に落ちる。
あっはっはっはっは!俺は声をあげて笑っていた。
報復でもしにきたのか?この緊急事態に乗じて?畜生の分際で?
死ね。
殺してやる。
殺してやる。殺してやる。殺してやる。
鏖だ。
倫が落ちないように背中を丸め、震える手で取り出したナイフを鹿へと向ける。
倫が優しく耳うちする。俺の怒りを宥めるように。
「お父さん、大丈夫。この子たちについていって」
鹿たちに導かれて、俺たちはだだっ広い広場にたどり着く。
奥まりに白塗りのアーチ形の門があった。門のてっぺんには真っ赤な太陽と白い月が描かれている。
門の向こうがどういった場所か、俺は母親から繰り返し聞かされてきた。あそこは祝女しか入ることを許されない聖域だ。異教徒の妻を娶り、神聖な鹿に暴虐の限りを尽くしながら、その境界線を越えることには本能的ともいえる忌避感を抱いていることに俺は驚く。母親がついた嘘が、物語が、この期に及んで俺を縛り付けている。
鹿たちはまた円形に陣取り、俺を取り囲んでいる。
張り詰めた空気のなかで、気がつけば、雨はやんで、揺れも止まっている。真上に黒い穴がみえる。その縁の青空が歪んでいることに俺は初めて気がつく。
鹿たちは門をくぐれとも促さない。夥しい数の赤い目が俺たちを、俺を、ただじっと見つめている。
門の向こう側からこつこつと蹄の音が聞こえてくる。
鹿だ。
はちきれんばかりにその腹部は膨張している。鹿が口を開く。その口から溢れ出たのは御神託でも呪詛でもなく、透明な水だった。
──孵で水をかければ大丈夫
忘れていた母親の声。忘れていた記憶。一度だけ、母親に抱かれて聖域に入ったことがあった。そのときも俺は水を浴びせられた。今みたいに。だんだんと水の勢いが弱くなり、視界が再び開けてゆく。へこんだ腹部はだけどぶよぶよとした皮が余り、それを引き摺って門の方へと鹿は踵を返す。
──なかにおはいり
鹿の声。やはり喋る鹿だった。だとすれば、あの平坦なお腹のなかには子どもがいるのか?俺は敬虔な気持ちで鹿の後ろをついていく。恐怖はない。大丈夫、俺は孵でたんだ。
孵でる。その言葉が意味するのは母胎を経ない誕生、あるいはある容れ物からの出現。
門のなかへと足を踏み入れた瞬間、俺は性器が失われていることに気がつく。
入ってすぐの小径で、孔雀たちがその美麗な羽根をひろげていた。
「かわいい〜〜」って小鳥が俺から飛び降りて、孔雀へと駆け寄る。「私もみたい」と元気を取り戻してきた倫も地面に足をつける。久々にひとりになった俺は、自分の身体の軽さに驚く。ぴょんぴょんと跳ねていると、小鳥と倫も俺を真似して跳ね始める。「たのしい〜〜」と小鳥、「トランポリンみたい」と小鳥。鹿はこちらを振り向かない。そのかわりに俺が後ろを振り返ると、門は遥か彼方へと遠ざかって黒い点のように見える。
聖域の最深部にあったのは茅葺きの拝殿だった。バードヴィラの裏にあった高倉に似ている気がしたけど、それが偶然なのか必然なのか単なる気のせいなのかはもう考えたくなかった。
Let It Be。あの曲のピアノが頭の中でリフレインしている。
はじめて鹿が俺たちを顧みて、そして拝殿の中へと入っていく。
「ここで待ってて、ってことかな」
倫に「気長に待とうか」と答え、俺は地面に大の字に寝転ぶ。
ずいぶんと久しぶりに安全が確保された場所へと、俺は戻ってこれた気がする。両手両足に然るべき重力を感じ、じんわりと暖かい。心臓は規則正しいリズムで全身に血液を送り出している。何も呼吸を妨げるものはなく、お腹の芯からぽかぽかして首から上だけが風に吹かれて涼しい。
そういえば。
弛緩しきった俺を、にたにたと嬉しそうな小鳥が覗き込んでくる。
「ねえねえ、ぱぱ。なにこれ?」
小鳥の腕にリング状のものが引っかかっている。蛇だった。蛇が自らの尻尾を飲み込んで、そのまま死んでいる。地面に目をやれば同じものがたくさん、それに白く透き通った蛇の皮が、あちこちに落ちている。
「それは、ウロボロス」
「うろぼろす?」
「ああ、違うか。それは、へびさん。落ちてるのもへびさん」
「へびさん?これ?へんなの〜〜きれい〜〜」
皮を宝物みたいに拾い集めながら、小鳥がウロボロスをぶん回すから遠心力で円環が途切れる。「うわぁなんか罰当たり……」ってドン引いいている倫をよそに、「たのしい〜〜」って小鳥はどんどん落ちているウロボロスを解いていく。俺は笑ってそれを見ている。罰当たりとは思わなかった。鹿の前、つまり戦前の祝女たちが祀っていたのは蛇だった。今でも巫女たちがウロボロスを作っていても不思議ではない。彼女たちが信じる、円環状の、死と生が見分けられない世界。そこでみられる母胎回帰の夢。だけど蛇は卵から生まれ、そして孵でるのだ。円環ではなくリニアな時間軸が引かれた宇宙の、その調和のなかで小鳥は遊んでいる。
俺は恍惚とした気分で、鹿が招き入れてくれるのを待っている。
──なかにおはいり
どれくらいの時間が経ったのだろう。鹿の声で俺は目を醒ました。小鳥と倫も俺の傍で安らかに眠っていた。「いこうか」。俺は眠たそうな子どもたちの手を引き、躊躇することなく拝殿の中へと入っていく。
その途端、俺の鼻先を強烈な腐臭が掠めた。弛緩していた胃が急速に縮まって、その場で内容物をすべて吐き出してしまう。粘性の胃液がまとわりついた赤黒い鹿肉。そこから少し目線をあげると、小さな人間が床に転がっていた。胎児というには既に完成されていて、子どもというには小さすぎた。その腹から伸びる臍の緒をたどると、さっきの鹿へと突き当たった。
鹿は仰向けの状態で開脚し、その空っぽの腹部と産道を俺たちに向けて露出していた。
──なかにおはいり
鹿の赤い目がちろちろと動き、俺をとらえる。
何を期待していたのだろう?何を待ち望んでいたんだろう?
だけど少なくともこれじゃない。母胎回帰や、ウロボロスから抜け出したつもりだったのに。小鳥を抱き上げて後ずさろうとする俺の背中を、なにかが押し返す。
「はいって」
倫の手だ。仄暗い闇の中で、彼女の目も赤く光っている。
俺と小鳥は気がつけば真っ暗な鹿の腹へと詰め込まれている。テレポート現象。俺は自分の仮説が間違っていたことに気がつく。少なくとも倫は、アリアにとって想定外に違いない。こいつは人間であり、同時に鹿でもある。人間をこよなく愛するアリアが、そんなキメラを生み出すはずがなかった。
倫が微笑む。切断された臍の緒がその手に握られている。俺の娘、小鳥の妹、だけどアリアの子どもではない。
「大丈夫。私もいっしょに行くから」
倫の手で内側から腹が閉じられ、一切の光が途絶える。目の前に真っ暗な産道が開きっぱなしになっている。母胎を母性と切り離し単なる容れ物として、たとえば「方舟」みたいな名前で呼べば、これも孵でると言えるのだろうか?
「ただいま」のモノフォニー。
倫だ。
「おかえりなさい」のポリフォニー。
ひとつは、アリア?
最初にノアのラボラトリーに招かれたのは量子ブラックホールが完成し、そこに地球のコピーを放り込んだ時。黒い円は極僅かに大きくなったようにみえた。「ブラックホールの情報量はその表面積に比例するの」。アリアが嬉しそうに俺に腕組みした。
二度目は「子どもたち」が生まれた時。横長のスクリーンに最初の子どもが映し出され、俺たちに向かって笑いかけた。アリアは泣いていた。小鳥が生まれた時と同じくらい嬉しそうだった。それから17人の「こどもたち」が生まれた。
そして今回が三度目。内側から小鳥が蹴り破った穴から、人工的なのっぺりとした光が入り込んでくる。眩しがる俺と倫を残して、穴から這い出た小鳥が駆け出す。ここからはみえないけれど、きっと満面の笑みで。あいつは超がつくほどのママっ子だから。俺だって今すぐここから出て走り出したい気分だ。アリアが手を振っている。でも俺が通るには穴は小さすぎるし、倫のことも心配だった。
「まま〜〜〜!!!」とロケットみたいにアリアの胸元へと飛び込んだ小鳥は、アリアの身体をすり抜けて金属製の床に不時着する。びぇぇぇぇぇぇんんん!!!ってしゃっくり混じりに小鳥は泣きだす。あらら……鼻血まで出てる……。俺も倫もかわいそうと思いつつ笑ってしまう。どうみてもアリア(らしきもの)は半透明で、こうなることは予測していたからだ。もちろん、3歳の小鳥がホログラムなんて技術を知っているわけもない。
感動的なはずの再会は、だけど実際にはこんな風にグダグダでだらしなくて、だからこそ俺は覚えておきたいなと思う。というか……。アリアはアリアで小鳥を抱きかかえようとして、うまくいかないなぁみたいな困り顔でこっちを見ている。穴越しに目が合い、俺たちは笑いあう。
「大丈夫か、倫?」「うん」「この穴、広げちゃっていいよな?ずっとなかにいるわけにもいかないし」「うん、お好きにどうぞ」「そっか。じゃ、遠慮なく」「私はもうちょっとここにいるね」
俺は両手で穴をこじ開ける。鹿の王の腹が再び裂ける。
アリアの方へと歩いていく。アリアも、後ろから小鳥も、こちらへと近づいてくる。
”樹くん?”
なんで疑問形なんだよ、と俺は思う。そしてすぐに理解する。流石「不死身の崩月博士」。死んでもなお、こうやって生きている。少なくとも彼女は慣れ親しんだ肉体を失ってしまったようだ。その事実は俺をちゃんと悲しませる。だけど目の前の存在は、紛れもなくアリアその人で、力づくではなくて水が染み渡るように納得させる説得力が漲り、俺を嬉しくさせる。
「そうだよ」俺もはにかんで答える。
”ねえねえ、時間がないから。大切なことからお願いするね”
”樹くん、私をフルネームで呼んで。ゆっくりと、大きな声で”
半透明のアリアの、色素の薄い透明な瞳の覗き込むと、俺の視線はちゃんといちばん奥へと着地する。
「崩月アリア」
”ほうげつ、ありあ”
「そう。それが君の名前。忘れたのか?」
”名前以外は全部覚えてるよ〜〜”
名前と結びつかない記憶は、覚えていると言えるのだろうか?
「で、こいつが小鳥」
”しってる。私のたいせつ。私のたからもの”
俺に抱っこされて機嫌をなおした小鳥が、アリアに投げキッスする。で、もうひとり。アリアのリアクションは想像できないけれど、きっと受け入れてくれる。
「そろそろ出ておいで」
俺の声に促され、名残惜しそうに鹿の王のなかから倫が這い出てくる。鹿の王の大木のような性器は背部のもうひとつの性器に挿入されていた。
「倫です。……は、はじめまして」
”倫って、ああ、なるほど。うんうん。わからないけどわかった気がする。倫ちゃん、よろしくね”
アリアが差し出した手に、倫の手が触れる。
「やわらかい」
”うふふ。ありがとう。えっと、小鳥のお姉ちゃん、でいいの?”
「ことりがさきだから、ことりがおねえちゃん!!!」
「そこ、小鳥が絶対に譲れないとこらしい」
”よかったね〜〜小鳥。倫ちゃんのこと好き?”
「りんちゃんすき〜〜」
”ママは?”
「ままもすき〜〜」
小鳥の両手が今度はちゃんとアリアの頬に触れる。
「どうなってんの?」
”みんなの相が不安定なの。とにかく今はまだ、触れたり、触れなかったりするわけ。倫ちゃんは、たぶん私と同じ相だからいつでも触れるね”
アリアのハイタッチに倫がこたえる。ぱちん!ってふたつの掌が触れる音がラボラトリー内で響く。俺もアリアとハイタッチをかわす、もちろん小鳥も。
「死ぬほどたくさんアリアに訊きたいことがあるはずなんだけど、なにから訊けばいいか考えてなかった」
”そうね〜〜それはあとでゆっくり話そう。とにかく時間がないのよ〜〜”
アリアは小走りでノートを手に取りこちらに戻ってくる。アリアが迂回した格納器はかつて、といっても数日前までだが、地球上の発電量の99%が動員することで強力な磁場を発生させ量子ブラックホールを制御していた。それが今や明らかに大破している。
量子ブラックホールは霧散してしまった。ならば、そこに保存されていた情報も失われてしまったのだろうか?仮想現実も?ラボラトリーの頭上はぽっかりと空洞になっており、そこには砕け散った無数の方舟の残骸がみえる。
”さてさて、みんな。よ〜〜くきいてね。あ、小鳥は遊んでていいよ。うん、えっとね、なんとなく気がついていると思うけど、この世界は、え〜〜っと、いけない、なんか泣けてきちゃった。あはは。何ていうんだっけ?ほら、この世界は、そう蛇みたいに”
「うろぼろす!」
返事をしたのは小鳥だった。ポケットから取り出した蛇の半透明の皮をアリアへと差し出している。ありがとう、とアリアがそれを受け取る。蛇は円環的時間を象徴すると同時に、それが孵でるときには直線的時間を象徴するのだ。そして、アリアが言いたかったのはきっと後者の方だよね?
”そう。世界は孵でたの。だからここは、この薄い皮みたいなもの”
半透明のアリアが俺たちに告げる。
「あの、崩月博士、それじゃ「蛇」はどこ行ったんですか?どうやってそこまで行くんですか?」
”ママ、でいいよ、倫ちゃん。小鳥のお姉ちゃんなんだもん”
小鳥の癇癪を察して、「じゃあ、お母さん」と倫は改めてアリアに尋ねた。二度目の彼女の質問は二つ目の疑問、私たちはどんな方法で蛇の場所まで移動するのか、により重点が置かれていた。
”うんうん、いい質問。頭がいいね。ちょっと複雑だから私も確認させてね”
崩月博士はご満悦な表情でノートを開く、が、ノートは彼女をすり抜けて床に落ちてしまう。拾い上げたノートを誰に渡せばいいか俺は一瞬分からなくなって、だけどすぐに考えを改める。
大人の俺が読むんだ。そして然るべきかたちで、子どもたちに伝えるんだ。
”ゆっくりでいいよ。だけど、最大限急いでね”
あ、そうだ、ってアリアは何かを思い出して微笑みながら指でバツをつくる。
”後ろ半分は日記だから樹くんは読んじゃダメ〜〜”
ノートを閉じる。
俺は自分の仮説が尽く間違っていたことに安心していた。俺はノートに挟まれていた万年筆で鹿の王に関する記述をすべて黒塗りする。アリアはそれを止めない。塗りつぶしながら、俺は倫への回答を考えていた。
「蛇」の行方については、ノートの「量子ブラックホールの中心はカー・ニューマン解に従い、回転した「リング状」の穴であり、多元宇宙を繋ぐワームホールの存在が導き出された」がそれに相当する記述だった。
「放り込めば何だってブラックホール相に変化させる量子ブラックホールは、情報ストレージであると同時に本当にただの穴でもあったんだ。その穴の向こうはもうひとつの宇宙に通じている」
「そこに新しい地球があるの?」
「そういうこと。地球みたいに巨大でデータとして保存するしかなかったものや、「子どもたち」みたいなこの現実では実体を持たないものも、ちゃんとその宇宙で「再演」されている」
だけどそれは「再演」であり、そのものではない。
「きっとその目でもっとよく見たいんだろうな。本物のブラックホールを開けて、あっちの地球がこっちの地球を引っ張っている」
もしかしたら、「子どもたち」だって同じように。
「じゃあ「蛇」は空のあの黒い穴の向こうにいるってこと?」
”ちっちっちっ。違うのよ〜〜倫ちゃん”
ウインクしながら博士が補足する。
”特異点の代わりにワームホール構造を持つ量子ブラックホールとは違って、モノホンのブラックホールはやっぱり特異点を持つの。つまりあの穴はどこにも繋がっていない”
「蛇」の場所まで行くには、だから「方舟」が必要とされてきた。これまでも、これからも。
「方舟は鹿の王だった。それでオッケー?アリア」
”うん!オッケー牧場”
「牧場?」
「倫、気にしなくていい。アリア、ややこしいからやめて」
”この世の終わりにおこられた……”
「えっと、ちょっと待って……やっぱり変だよ、順番が変」
名探偵みたいに倫が腕を組んで考えている。
「……だって、鹿の王は最初からいたよね。お父さん言ってたもんね、戦争のあとからって……戦争、鹿の王、量子ブラックホール、あっちの地球、モノホンのブラックホールって順番だから……」
「あ〜〜倫、ごめん、だから多分、鹿の王はもっと最初からいたはず。戦争よりもずっと前から」
何なら、人間の繁栄よりも前から。
「そうなの?そうなんだ?そっか……う〜〜ん、でも一緒だな……時間軸が……鹿の王のあとにもうひとつの地球が生まれたのよね……なのになんで……」
倫ちゃん、ってアリアの指先が倫のつむじをノックする。
”世界には不思議がい〜〜〜〜つぱい!!!”
……。俺も倫も沈黙している。小鳥だけが爆笑して「い〜〜〜〜っぱい!!!」ってアリアを真似て両手を広げている。
”この世の終わりにくそスベった……”
「くそとか言わない……」
”またおこられた……。倫ちゃん。とにかく、今はまだ不思議は不思議のまま受け入れてちょうだい。順序なんていくらでもひっくり返るし、辻褄はあとから合わさってくる。だってほら、お姉ちゃんが妹よりもあとに生まれることだって現にあるんだから”
小鳥はうまれてから長いあいだ、アリアのおっぱい以外はなにも口にしなかった。だから俺に抱っこされても小鳥は泣いてばっかりだった。やっと食べられるようになっても食べられる種類はちょっとだけで、家ではアリアが握ったおむすびしか食べてくれなかった。家でアリアと小鳥の帰りを、今日こそはってごはんを作って待ってた。小鳥がはじめて「おいしい」って食べてくれて、それからはふたりで過ごせるようになった。抱っこも添い寝もさせてくれた。言葉を覚えてから、小鳥は俺に色々なことを教えてくれた。
──怖かった夢、海までの近道、ティンプヌキとカザンガーの見分け方、たしかに雨のにおいがする不思議な晴れの日があること
走馬灯と呼ぶには遅すぎるし、懐かしむと呼ぶには速すぎる記憶の流れ。俺はきっとたくさんのことをもう忘れてしまった。だから、せめて、目の前の小鳥を感じていたい。
倫へ配慮する余裕を持たなきゃと頭では分かっていても、全神経を小鳥を感じることに注いでしまう。頭のてっぺんから変な形をした足の小指の爪先まで、小鳥はずっと全部かわいい。アリアにそっくりな鼻を撫ぜると、くしゅん、ってくしゃみまでかわいい。こんなかわいい存在とはなればなれになるなんて……。
鹿の王のお腹の中で、小鳥と倫が手を繋いで座っている。
天上から雷みたいな轟音が鳴り響いて、痙攣みたいな揺れとなってラボラトリーに伝わってくる。いよいよここもヤバそうだ。
”またチャンスがあるからね”
泣き腫らした顔でアリアが小鳥にキスする。さよならの瞬間が迫っていた。それなのにアリアは倫をみない。仕方ないことだけど、俺はちゃんと倫もみなきゃいけない。義務感からじゃない。俺は本当にちゃんと切なくて悲しい。
何を言おうか迷っている俺をもどかしく思ったのか、倫から話しかけてくれる。
「ねえ、」
意を決したように倫は言葉を続ける。
「お父さんも入れるんだよ?」
一瞬、アリアの表情が硬くなる。スペースにはまだ余裕があった。当たり前だ。喋る鹿からそこに三人でやってきたんだから。そこから三人で行くことも可能だった。
俺に迷いはなかった。問題はどうやってそれを倫を傷つけずに伝えるかだった。
「倫。お父さんさ、謝んなきゃいけないことがある」
「……なに?」倫は今にも泣き出しそうだ。
「あのさ……海でさ、アリアからプロポーズしてきたって言ったじゃん?あれ嘘なんだ」
……。皆の沈黙が痛い。何いってんだコイツって空気を全身で感じる。
「実際は、俺から頭をさげて頼み込んだ」
”それって土下座っていうんじゃ……”
「……じゃあ二回断ったっていうのも」
「あ〜うそうそ、めっちゃうそ」
”「なんでそんなうそついたの……」”
「なんかかっこいいかなって思って……」
”「……」”
突然、鹿の王のお腹が内側から縫い合わさるように閉じられてゆく。小鳥と倫はずっと手を繋いで離さない。
”え!あ〜もう。いってらっしゃい、倫ちゃん。どうか、小鳥のことをお願いします”
「博士もどうぞお父さんとお幸せに」
”うん、ありがとう”
「お父さんもね」
「倫こそ。小鳥も」
「ばいばい〜〜」
最後まで泣かない小鳥に俺とアリアは泣いてしまう。
”ふたりとも!大好き!”
アリアの叫びをかき消すように、「文字通り」空が砕けた。
散らばった空の破片は太陽の光を複雑に反射しながら俺たちに向かって降ってくる、ように見えた。実際には俺たちを乗せて、ラボラトリー全体が壊れながら上昇してゆく。方舟の蓋は完全に閉じられ、その内部でふたりが跳ね回っているのがわかる。がれきの中に浮かぶ無数の死体の中には祝女たちも紛れていた。俺は彼女たちを海辺へと並べてあげたいと思ったけれど、もはや海は地上を完全に飲み込んでしまった。
仮想現実も祝女たちの信仰も、どちらも母胎での生まれなおしの夢をみた。ノアの「方舟」も島の墓も、どちらも母胎を模したものだった。そして世界は今まさに生まれなおそうとしている。ただし母胎を経ることなく。鹿の王のお腹はだんだんと丸みを帯び、巨大な球体と化していた。
唯一、小鳥と倫だけが母親から生まれなおすのだ。俺はそれを祝いたくなる。
──ハッピー・バースデイ
「ありがとう」って返事をしたのは小鳥じゃなくて倫だった。
*
「いやあ、樹くん、間一髪セーフだったね〜〜」
「間一髪アウトだった気もする」
「大丈夫。ここにいないってことは、ここじゃない場所にふたりはいるの。本当に行っちゃったね〜〜。最後は蝋燭の炎が消えるみたいにフッて消えるんだもん。あっけなくない?次はもっと厳かで感動的にしてもらわないと……」
「アリアが「ちょっと待って!!!タンマ!!!」とか叫ぶからだよ!」
「あはは……。きっと前代未聞だよね、一回閉じた方舟の蓋を空中でこじ開けるなんて」
「ふたりも中でびっくりしただろうな」
「「たのしい〜〜」って言葉が最後だったのも小鳥らしくていいよね。慌てふためく私たちをみて笑ったんだよ、きっと。ねえ、ノートを渡せたのは良かったけど、ちゃんと私の名前も書き加えてくれた?」
「書いたけど、そもそもなんでアリアは名前だけノートに書かなかったんだ?」
「推察するに、生前の私は名前は誰かから名付けられるものだって、そう思ってたんじゃないかな」
「生前って、やっぱりアリアは死んだの?」
「う〜〜ん。便宜上?だけど、考えてみて。生前の私の最大のプロジェクトって「死を回避すること」だったわけで、見事に成し遂げたじゃん。さっすが私!」
「小鳥のドヤ顔って絶対にアリアの影響だよな。それはともかく、確かにどうやって今のアリアは今までのアリアを保ってんの?新技術?」
「ふっふっふ。驚くなかれ、なんと私は自分のゲノムを完全に解読したのさ」
「全くわからん」
「つまりね、私が私であるためには身体と思い出と名前が必要なの。で、いちばん厳密さが求められるのはきっと身体なの。思い出なんかよりもずっと」
「う〜〜ん、まあいいや、続けて」
「私のゲノム情報を三次元に展開したものを人工知能にセットすれば、思い出と名前以外は全て揃った私が出来上がるわけよ。ただまぁ、めちゃくちゃ大変だったけどね……。ホーキング輻射の解析よりもずっと大変だったわ……とほほ……」
「お疲れ様。それじゃ、思い出は?量子ブラックホールでどうにかしたの?」
「うふふ。思い出はね、超アナログかつ超トラディショナルな方法で残しました。さて、何でしょう〜〜?レッツ・シンキングタ〜〜イ」
「日記」
「うわぁ、ノリ極悪だね……。正解」
「いや、でもさ、日記じゃ全然足りなくない?」
「何がよ?」
「思い出の量。いくらアリアが筆まめでも」
「ちっちっち。思い出は量より質なのだよ、樹くん」
「……」
「納得できねぇって顔してるね。それじゃあさ、樹くん、私と初めてのデートで行ったレッドロブスターで頼んだドリンクは覚えてる?」
「ルートビア?」
「ブッブー。正解はスプライトでした。ちなみに行ったのもレッドロブスターじゃなくてトニーローマでした〜〜。でもほら、樹くんはそれでも樹くんのままでしょ?記憶なんて、それくらいあやふやで適当なの。コアとなるものさえ覚えていれば、案外大丈夫」
「つまり、アリアとデートしたってざっくり覚えていれば問題ないってことね」
「もっと言えば、「私の存在」だけでもある程度大丈夫なんじゃない?他人のことは自分ほどわかんないけど」
「でもさ、「人間の意識は非常にヴァルネラブル」なデータなんだろ?矛盾しない?」
「それはだから選択の問題。なにがコアな記憶かは自分で選択するしかない。そうじゃなきゃ人間は納得できないの。ねえ、樹くん、もう一回ちゃんと私にプロポーズしてよ」
「いっそアリアから俺にプロポーズしたってことにしない?」
「しない。ちゃんと、して。なんて言ってくれたの?」
「……」
「お願い」
「アリアがいない世界には俺もいない」
「んふふふふふ。私もだよ、樹くん。はぁ〜〜幸せ」
「自分がなんて返事したか覚えてる?」
「「私もだよ」」
「ぜんぜん違う。正解はこう。「私のことぜんぶ覚えていてね。私が死んだらすぐに追いかけてきてね」」
「うわ、恥ずかし!でも、うんうん、私の問題意識が集約されたらしい返事だね……。生前の私はかなり細かく日記に残してくれたんだけど、プロポーズの台詞は書かれてなかったのよね……。ああ、そっか、わかった!」
「あん?」
「私かわいい〜〜意外と古風〜おひめさまみた〜〜い」
「全然わからん」
「あ、そういえば、樹くん最後のページになんか書いてなかった?」
「話逸らされた……。書いたよ、贈る言葉」
「なんて贈ったの?」
「秘密」
「え〜〜なにそれ、教えてよ〜〜」
「あ、秘密って言えばさ」
「話逸らされた……」
「俺さ、ちんちんないんだよね」
「ええ……いきなり謎のカミングアウト……嘘でしょ?嘘だよね?」
「ほんとほんと、ほら」
「うわ!ほんとだ。つるんてしてる」
「いや、これ実はシリアスな話でさ。たしかにアリアがさっき言ったみたいにちんちんがない俺って、ちんちんがある俺とは決定的に違うんじゃないかって気になっちゃうんだよ。これって多分欠損なんてレベルじゃなくて、鹿に遺伝子レベルで書き換えられたと思うん、ってアリア?なんのポーズそれ?」
「ちょっと静かにして。集中してるから」
「ああ、うん、はい。わかった」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!!」
「???」
「はぁぁぁぁぁぁああああ!!ああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!!」
「うおおおおおお!!!すげえ!!!ちんちんがはえてきた!!!」
「はぁはぁはぁ、ほんとにできた……私すごい……」
「どうやったんだ⁉」
「つまりね……ブラックホールの重力で樹くんの次元は繰り下がって……まあつまり絵というか文字というかをとにかく書き足したみたいな感じで……」
「お、おう。ありがとう」
「これで私とエッチできるね。ねえ、ひさびさにしようよ。思いっきりさ。もしかしたら本当に小鳥に妹か弟ができちゃうかもよ」
「アリア、やっぱり倫のこと少し怒ってる?」
「ずいぶん優しいな〜〜とは思ってたよ。ノートを塗りつぶしたのも、きっと倫ちゃんのためでしょ?あの子なら賢いから、いつかぜんぶ分かるのに」
「でもまだ子どもだ。過酷すぎる」
「それに、樹くんは、なんやかんや鹿が好きなんだよ。好きっていうか、信じてる。私なんかよりもずっと。このマザコン」
「いや、アリアのほうがよっぽど信じてるよ。信じてるっていうか、体現している。アリアの母性に俺も小鳥も飲み込まれている」
「はいはい。もう、いいから。ほら、はやく挿れて。もう待ちきれないよ。私の母性とやらにとどめを刺してちょうだい♡」
「まさに腹上死だな」
「死ぬんじゃなくて保存されるの。ブラックホールの表面に張り付いたまま、永遠と同じくらい長い時間」
「アリア、願いは叶った?」
「うん。私の願い、ぜんぶ叶っちゃった。死ぬこともない、大好きな人たちを忘れることもない、大好きな人たちに忘れられることもない。やだ〜〜嬉しい、泣いちゃう」
「いつか、小鳥が俺たちを見つけてくれるかな?」
「チャンスはあるよ。とても難しいけれど、チャンスはずっとある」
「手でも振っておこうぜ」
「ここにいるよって?いいね、それ。素敵」
ハロー、小鳥。
ずっと会いたかったよ。ずっとずっと、永遠に。
●
私の前を倫ちゃんが歩いている。光を漏らすあの扉までどれほど距離があるのか私には見当がつかなかった。ふたりが何も話さないから、足音だけが暗い廊下に響いている。倫ちゃんに話しかけられたのはいつぶりだろう。久しぶりに「お姉ちゃん」と呼ばれたときのざわめきが、今も途切れることなく続いている。
「懐かしいね」。私は思い切って声に出す。「何が?」。倫ちゃんは振り返らないし、歩く速度も落とさない。
あのときも、暗く長い道で、倫ちゃんの後ろを私は歩いていた。泣いているだけの私の手を引っ張って、ぐいぐいと光の方へと進んでいった。扉の向こうから海の匂いがしたことを、私はなにより鮮明に覚えている。外に出て、倫ちゃんは前を、私は後ろを見た。前には青い海が広がって、後ろにはお墓の入り口が見えた。それからしばらくして「みんな」が私たちを受け入れてくれた。
あれから随分と長い時間がすぎた気がする。身長が少し伸びた私とちがって、倫ちゃんの身体は小さいまま不思議な力だけが巨大化した。倫ちゃんが最初に私たちに教えてくれたのは、かつて私たちには『死』というとんでもない終わりが用意され、それに怯えて人間同士は奪い合ったり争ったりしていたことだった。倫ちゃんが話してくれる『歴史』は他のどんな物語よりも恐ろしくて同時に魅力的で、私たちは息を殺して歴史の話に耳を傾けていた。
倫ちゃんが私たちを導いてくれた。私たちも黙ってそれに従った。
「何が?」という質問にすぐに答えられなかったのは、そのタイミングで懐かしさの対象が状況から匂いへと移り変わったからだ。その匂いは扉に近づくにつれて強くなり、懐かしさもそれにつれて大きくなっていく。
『ラボラトリー』と倫ちゃんが呼ぶ空間は見たこともない、──はずなのに泣きたくなるくらい懐かしい匂いが充満した、景色だった。きょとんと立ちすくんでいる私に、倫ちゃんがようやく笑いかけてくれる。「懐かしいでしょ」
「これが、『鹿』」
『ホログラム』として投影された角が生えた生き物に、確かに私は親しみを感じていた。「可愛い〜〜」って撫でようとした手がすり抜けてバランスを崩した私をみて、倫ちゃんが吹き出す。「あのときと同じことしてる」。あのときって?と私が訊くよりも前に、「どうしてこの可愛い鹿がもういないのか、そこから説明するね」と倫ちゃんはまっすぐ私を見つめている。
「お姉ちゃんは、前の地球を覚えている?お父さんや、お母さんのことは?」
ごめんね、ぜんぜん、と私は正直に答える。私がママやパパと呼んでいた存在はうっすらと覚えているけれど、どんな顔でどんな声をしていたかはもう忘れてしまった。それに比べると、地球の記憶はずいぶん保たれている。あの地球も、この地球と同じように、青い海があって、四季があって、鬱蒼とした森が広がって、空には黒い穴があいていた。あの景色は、普段の私の目の前に広がる景色ととても良く似ていながら、決定的に違っていたと思う。たとえば、そう、あそこにはたくさんの鹿たちがいた。
「お姉ちゃんが生まれる少し前に、あの地球では大きな『戦争』があった。戦争っていうのは、地球のみんなを巻き込む争いごと。戦争があったから、地球はもう取り返しがつかないくらいに徹底的に壊されてしまった」
怒っているのか悲しんでいるのか、きっとその両方の感情が倫ちゃんの眉間に皺を作っている。
「その頃から、死んだ子どもは鹿のお腹でもういちど生まれなおした」
鹿のお腹、の部分以外は、倫ちゃんが歴史の話のときに教えてくれたことだ。誰かが「どうして子どもだけなの?」と訊いた。「逃がすなら、まずは子どもからなの」と小さな倫ちゃんが硬い声で答えたのを覚えている。
「それが『鹿の王』?」
なんで知ってるの?と倫ちゃんが驚く。私も驚く。でも私は鹿の王を知っている。倫ちゃんはすぐに落ち着きを取り戻して、知らない方が不思議か、と独り言みたいに呟く。
「ううん、でもそれは『喋る鹿』。そうお父さんは呼んでいた。喋る鹿のお腹にあいた穴は小さすぎて、子どもの身体でもそこを通ることができなかった」
その穴の先は?と倫ちゃんに訊きながら、答えはもう分かっていた。
「鹿の王のお腹のなか」
すると倫ちゃんは椅子から立ち上がり、ホログラムの鹿の周りをぐるぐると歩きだす。
「鹿よりももっと大きなヒトが選ばれた……選ばれた?」
お腹を両手でさすりながら、倫ちゃんは私に訊く。
「鹿の次がヒトだって、「なにか」がそう選択したの?それとも単なる偶然?」
急に真っ青な顔になった倫ちゃんを宥めたいけれど、質問の意味がさっぱりわからなくて、ごめんね、ごめんね、落ち着いて倫ちゃん、と私もぐるぐる回る。
「とにかく、鹿の王は、『方舟』は、人間の真似をした。ううん、人間のやり方にあえて従ったんだ」
──だから、私も従わないといけない。倫ちゃんの低い声に私はたじろぐ。
「倫ちゃん、ごめん、お姉ちゃん全くついていけてない……」
「崩月博士が、お母さんが、あなたのママが、ばらばらの人間の欠片をひとまとめにしたやり方を、鹿の王も模倣したの」
倫ちゃんだけが今生まれたままの姿で生きている。他のみんなは私を真似てこれが人間だって姿へと倫ちゃんに変えてもらったのに、彼女だけは右手と左手の指の数を揃えない。
私はそっちのほうが可愛いと思う、んだけどな。
「倫ちゃんは鹿の王から生まれたってこと?」
「この地球にはね」
「?あの地球には?」
私はちゃんと思い出していた。パパとふたりでいるときに誰かがドアをノックしたのだった。とても力強く。
「私のお腹も裂かれるんだ、私がやったみたいに」
倫ちゃんが震えている。私は力いっぱい彼女を抱きしめる。その言葉の軽さに悲しくなりながら、大丈夫、大丈夫って私は唱え続ける。倫ちゃんは逃げてきたのだ、鹿の王のお腹に伸びる暗い産道から。
なんとか落ち着きを取り戻した倫ちゃんの説明を私なりに噛み砕く。
「つまり、前の地球があるってことは、その前の前の地球もあったし、この次の地球もある、でオッケー?」
うん、と倫ちゃん。
「前の前の地球では鹿が方舟に乗せられ、前の地球では人間が方舟に乗せられ、今の地球では多分他の生き物が方舟に乗ることになる」
で、と私は慎重に言葉を選ぶ。
「この世界の鹿の王は、方舟は、倫ちゃんなんだね」
そう、と倫ちゃんは頭を抱える。
「やばいじゃん!」
「そうなの〜〜もうヤダ〜〜」
え、マジ無理なんだけど、と泣いている倫ちゃんは、さっきよりも随分柔らかい顔になって、私もふにゃふにゃと力が抜けて一緒にへたりこむ。
「どんなのがお腹にやってくるんだろうね……」「せめて可愛いのがいいな〜〜」「今のうちに贔屓しておけば?倫ちゃんならできるでしょ」「うん。森とか作れるようになった」「え、怖」「妹を怖がらないでよ……消すよ……」「姉を消さないで……」「パンダの森でもつくるか〜〜」「……トゲトゲして痛そう」「ああ〜〜そうだ〜〜こっちのパンダは棘があったんだ〜〜!!」「え?棘がないパンダもいるの?」「ほら、これみて」「可愛い〜〜、てか絵ホント下手だね、これが本物のパンダなんだ?!」「いや、とげとげパンダもモノホンなんだよ、お姉ちゃん。かわいそうなこと言わないであげて」「このパンダにしてよ」「だめだよ〜〜「パンダ」の枠はもう埋まってるの」「ぜんっぜん違うじゃん」「地球なんて『大陸』の数が少なかったりするんだから、それに比べたらほとんど同じ」「そういうものなの?結構雑なんだね」「言っとくけどね、あの地球からそっくりそのまま引き継がれたのは方舟に乗れたお姉ちゃんと私だけよ」「そっか……胸を張って生きよう」
もういちど鹿が見たいって、私はお願いする。
ラボラトリーの床から鹿のホログラムが浮かび上がる。
「「パンダ」の枠は埋まってるけど、「鹿」の枠は埋まってないから、この子を復活させるわけにはいかないの?」
そうすれば、もしかしたら、倫ちゃんの代わりになってくれるかもしれない。
倫ちゃんは首を横にふる。
「鹿だけは、無理なんだ」
「違う枠に入れたら?」
「どういうこと?」
「「シカ」じゃなかったらなんでもいいけど、たとえば「ティコ」とか」
「私が復活させたかったのは、でも、「鹿」なの」
「名前が重要なんだね」
「う〜〜ん。でも鹿だってね、Deerとか他の呼ばれ方をされてもいいんだよ」
「え、わかんない。倫ちゃんは何を復活させたいの?角が生えて、四本脚で、全体的に茶色い生き物なんじゃないの?」
「違う。私はね鹿とかDeerとかみんなが呼んでいた、呼び方なんてどうでもいいの、そうじゃないものから区切られたひとまとまりの領域としての「鹿」を回復させたいの。でもそれは、それだけは、どうやっても戻ってこないのよ。多分、お母さんたちが「みんな」をつくったのも同じ問題で……」
「倫ちゃん、そんなこと言ってたよね、鹿の王がママのやり方に従ったって。お姉ちゃん、「みんな」を作ったのがママだってさっき知ったよ」
「お母さんは、あの地球の脳をそのままこの地球に送りたかったんだけど、それはうまくいかなかった。脳は、脳のなかの記憶は、地球やパンダよりも遥かに繊細でこわれやすくて、だから領域を保つんじゃなくて、あとから境界線を引くことでその問題を解決しようとした。そして実際にそれは成功した」
ママは「崩月博士」であり「お母さん」であることに混乱しながら、私は倫ちゃんの説明を理解する努力をした。ママが考えて鹿の王が従った「人間の欠片をひとまとめに」するやり方で生まれたのが倫ちゃんと私以外の「みんな」で……、違う、反対だ、「私」だけが最初から「ひとまとまりの領域」を保ったままこの地球に生まれた。でも私にはパパもママもあの地球の記憶もおぼろげで、そんなに思い出って大切かなぁ?と素朴に思ってしまう。ああ、でも、もし私が死ねたなら、「私」の枠は空白になる。それを悲しんだ倫ちゃんが私を復活させようと、「私」の枠に私と姿そっくりの生き物をあてがったとして、私の「ひとまとまりの領域」は保たれたと言えるんだろうか?
ていうか。
「ねえ倫ちゃん」
私はすごく大切なことに気づく。
「お姉ちゃんの名前って、何だっけ?」
私には名前がある。そして「みんな」にも名前がある。覚えていないだけで、ママが(私の場合はパパかもしれないけど)つけた名前が。
倫ちゃんは何も答えない。その代わりに教えてくれたのは、ママのノートの存在だった。
「崩月博士のノートの大部分は『ブラックホール』のことしか書かれてないけどね」
残りは?って訊きたくなったけれど、私は倫ちゃんの言葉にじっと耳を傾ける。傾けるけれど、空に開いたあの黒い穴はブラックホールと呼ばれる物体で、その向こうにはあの地球があるなんて言われても頭がくらくらする。
「じゃあ、あの穴の中に、パパもママも鹿もいるってこと?」
「正確にいえば中じゃなくて、表面にいる」
「え?だって、「みんな」や地球やパンダもブラックホールの中を通ってこの地球にやってきたんでしょ?」
「そこがちょっとややこしいんだけど、ママがつくったブラックホールは『量子ブラックホール』で空に開いた穴とはちょっと違うの。量子ブラックホールはあくまで理論上の存在で、本当に実現できるなんて思っていなかった」
「誰が?」
「え?」
「誰が思っていなかったの?だってママはできるって思っていたんだよね?」
「えっと、『神様』?」
「なにそれ?」
「なんでもできる凄い存在」
「つまり倫ちゃんてこと?」
「ううん、私なんかよりももっと巨大で、大きなもの……」
「ブラックホールよりも?」
「……多分、きっと」
「じゃあその神様が空のブラックホールを開けたの?」
「そうか」
「え?」
「お姉ちゃん凄い!そっか、そうだよね。つまり、そう考えるしかないよね。神様はいるんだ」
えへへ、って私は照れる。
「何笑ってんの」
「倫ちゃんに褒められた〜〜」
「そんな嬉しいんだ……」
「お姉ちゃん、凄い?」
「うん。どんだけ考えても分からなかったことは、全部神様のせいにしちゃえばいいんだってことだよね」
「う〜〜ん?うん?うん」
「まず崩月博士が量子ブラックホールの穴を開けた。穴そのものが理論上の存在なんだから、穴の先に広がるものも理論上のものでしかないはずなの。なのに、量子ブラックホールより先に、現実に存在していた「鹿の王」=「方舟」の行き先は何故か同じ「理論上のものでしかないはずの」場所だった。空に開いたブラックホールは、もっと大胆なつじつまあわせなの。だって実際にあの地球を理論上の存在にして、この地球を現実の存在にしたんだから。超現実が顕れたときに、現実がそれにつじつまをあわせるように時間軸を曲げた。そんな破茶滅茶なことできたのは、神様がいたから」
「う〜〜ん、わかるようなわかんないような……」
「親がいない子どもなんていると思う?」
「いない」
「崩月博士は親がいない子どもを生みだした、だから、神様が親を立ち上げた」
「なるほど、でもさ、親だって、子どもがいないと親じゃないよね?」
「どういうこと?」
「ごめん、自分でもよく分からないけど……。えっと、親があるから子どもがいる。子どもがあるから親がいる。このふたつの「あるから」はぜんぜん違うものなのかな?」
「え〜〜わかんない、なんで話をややこしくするかなぁ……」
「ごめん〜〜」
でも、と私は頭を働かせ続ける。やっぱり、それはぜんぜん違う「あるから」なのだと私は思う。そしてそれは単純な時間的な前後関係じゃなくて、つまり時間軸を曲げてどうにかなる違いだけではないような気がする。つまり、子どもは「誰でもいい」けど、親は「誰でもよくない」っていう……パパとママから私は「偶然」生まれたけど、私から出発するとパパとママに「絶対」に突き当たること。
ああ、なんとなく私のこの感覚がクリアになってきた。
ブラックホールを通じて、親と子の関係が逆転してしまったんだ。だから最大の起点は私と倫ちゃんが方舟に乗ってふたつの地球を移動したあの時点だ。
『ママにとっての「この地球」』(親)から出発した無限の可能性の一つが『ママにとっての「あの地球」』(子)で、『ママにとっての「あの地球」』(子)から出発すると『ママにとっての「この地球」』(親)に必ず突き当たる。でも私とママの「あの」と「この」はブラックホールをはさんで真反対の位置になってしまった。
私と倫ちゃんにとっては、だからこうなる。『ママにとっての「あの地球」』があるから「偶然」に『ママにとっての「この地球」』があり、『ママにとっての「この地球」』があるから「絶対」に『ママにとっての「あの地球」』、つまり『私たちにとっての「この地球」』に突き当たる。
それはママからみれば足元が崩れる、まさに天変地異みたいなものだ。だって、それは、私にとってママが偶然(”あのママ”がいなくても”娘であるこの私”がいていい)で、ママにとって私が必然(”娘であるあの私”がいるから”このママ”である)になるってことだもの。
ふたつの意味の異なる「あるから」が、あらゆるふたつの存在を支えている。倫ちゃんが「神様」と呼ぶものは、もしかしたこのルールのことなんじゃないだろうか?それは時間軸を曲げたんじゃなくて、いや、時間軸を曲げることでふたつの「あるから」を私たちの側から保とうとしたんじゃないかしら?
「ちょっと、お姉ちゃん、きいてる?」
はっ、と私は我に返る。なんかすごく遠くまで行ったような。
「倫ちゃん、神様はね、ルールを守ったんだよ」
「?ああ、まあそうだよね、時間のルールを守ったというね」
ちっちっち。違う、違うんだよ倫ちゃん〜〜。その守るじゃなくて、存続させるって意味の、そっちなんだけどな。まあ、いいや。私はなんだか恍惚とした気分で、身体がポカポカしている。
「ブラックホールはいいからさ、私の名前、教えてよ」
「いきなり単刀直入だなぁ」
「教えたくないの?」
「うん」
「なんで?」
「なんとなく」
「ノートに書いてるんでしょ」
「書いてる」
「見せてよ」
「え、ヤダ」
「なんでよ」
「私がお母さんからもらったものだし」
「え〜〜私のママでもあるんだけど」
「う〜〜ん」
「そもそもなんで嫌なの?」
「そもそも今日なんでラボラトリーに呼んだか話したっけ?」
「話逸らされた……」
「いや、本題だから、ここからが」
「さっさと本題を教えてよ。長いよ」
「うん。お姉ちゃんの唾液と、髪の毛と、血と、あとは皮膚を、ありったけちょうだい」
え〜〜〜〜〜〜〜〜なんかキッモ!!!!!絶対にヤダ!!!!!!!!!
「お願い!お姉ちゃん!」
あの倫ちゃんが手を合わせて私を拝んでいる。
「この紐を解いてくれたら考える……」
「でも、どうせ解いても逃げるでしょ?」
「でも、どうせ逃げても扉開かないんでしょ?」
「『ロック』したからね」
「私、お姉ちゃんなのに……」
「私だってこんなことしたくないよ……」
倫ちゃんの言い分はこうだった。
ここ最近の倫ちゃんはラボに籠もってずっとブラックホールの蒸発を解析していたそうだ。「蒸発するの?」って私の疑問に倫ちゃんはむずかしい言葉をたくさん並べて答えてくれたけど、分からせようって気はなかったと思う。要はブラックホールの蒸気にはブラックホールの表面に貼りついた情報が、つまりあの地球の情報が、丸ごと含まれている。でもそれは『多次元』の情報が『二次元』に変換されたもので、その「文字みたいなもの」から本来の情報を吸い出すことはとっても大変だったらしい。倫ちゃんはその膨大な「文字みたいなもの」のなかでひときわ目が行く部分の解析を、ママのノートの力を借りてなんとか済ませたそうだ。
その部分が鹿の王についての情報だった。
内容そのものは倫ちゃんにとってショッキングなものだったけど、同時に倫ちゃんは「方舟」としての責任感やあの地球を我が手中に収めたって自信も芽生えたらしく(なんて強い心の持ち主なんだろう)、この地球をより良くする方法を考え、その結論が「お母さんとお父さんを復活させる」ことだった。たしかに「鹿の王」の情報を吸い出すだけでも相当な時間がかかったわけで、地球の情報を全部吸い出すなんて気が遠くなる作業だろう。あの地球にはパパとママ以外にも生き残った人間はいただろうけれど、確実に生き残っていたって私たちが言えるのはあのふたりしかいない。「復活させて、どうすんのよ」って私が訊いたら、キョトンとした顔で倫ちゃんは「いろいろ訊いて、地球のことを教えてもらうのよ」と答えた。
そして膨大な情報の中からパパとママの情報を探し出すのは「全宇宙から一粒の粒子をみつける」ぐらい難しいことだそうだ。その難しさに比べると、情報を吸い出す難しさなんて完全に無視できるものらしい。
倫ちゃんはパパとママは『塩基配列』のかたちでブラックホールの表面に貼りついているんじゃないかって、そう考えた。塩基配列は親子でほとんど変化しない。だから、倫ちゃんは。親子であり、何より唯一の純粋なヒトである私の塩基配列を解読したがっている。そのために必要なのが、私の表皮であり、体液であり、血液だった。
「どうしても、だめ?」
そんな縋るような目で見ないで〜〜。あなたは「方舟」なんだよ!もっとシャンとしなきゃ……、って、そうだよね、あなたは一人でその重圧を背負わないといけないのか、と私はハッとする。倫ちゃんの華奢な身体に、その平坦な下腹に、たとえば子牛が入ってくることがあるかもしれない。その子牛の意志とは無関係に、倫ちゃんのお腹は裂けてしまうにちがいない。え、でも、ちょっとまって。「喋る鹿」がいたってことは、「喋る人間」がいても、それが私でも全然おかしくないってことじゃん!私は自分のお腹に子牛が宿ることを想像して、吐きそうになる。物理的な圧迫感以上に、自分の中に自分以外のものがいるって気持ち悪い……。しかも私は牛の言葉を話すようになるのだ。え〜〜無理〜〜、キモい〜〜。
私は一気に同情的になる。私は逃れられるかもしれないけれど、倫ちゃんはそれから逃れられないのだ。それから逃れるには、だから、方舟が必要とされない地球にするしかないよね。そのためには地球をよりよくしなきゃだよね……分かるよ……、あれ、でも、前の地球で鹿たちは何かしてくれたんだっけ?
ねえねえ、倫ちゃん。私はロープに吊るされながら、彼女を見下ろして訊いてみる。
「倫ちゃんはさ、パパとママの言う通りにするつもり?」
「言う通りって?」
「そのままの意味だよ。パパとママのいた地球はさ、失敗したわけじゃない。それを真似してもまた同じように失敗するんじゃないの?」
倫ちゃんの表情が一気に硬くなる。
「お姉ちゃんには私の気持ちはわからないよ」
「うん、わかんないよ。大変だなって思うけど、でもさ、だからこそ、あんまり考えすぎないほうがいいって」
「お姉ちゃんはさ〜〜、ていうかさ、お父さんに会いたくないの?お母さんには?ふたりともあんなに可愛がってくれたんだよ」
──ことり、ことり、って。
しまった、って顔に倫ちゃんはなる。私はニヤリと笑う。
「それが私の名前なんだね〜〜」
私の勝ち誇った顔を見上げ、倫ちゃんは見たことないぐらい悔しそうな顔をしている。
私の名前は「ことり」。名前は「ひとまとまりの領域」を身体とともに規定する。私はその瞬間に「みんな」から区切られたような感覚が強くなって、すこし切ない気分にもなる。私の身体は塩基配列で再現されるとして、「ことり」だけではまだなにか足りない。私が「ことり」になる容れ物はあっても、その中身を私は知らない。そして、その中身は「この地球」にはないんだ。倫ちゃんが何に怯えていたのか私にはまだ分からないけれど、私にとって「名前」なんて大した意味をもたない。
私はまくしたてる。
「私は別に会いたくないかな〜〜。だって覚えてないし〜〜。てゆうかさ〜〜倫ちゃんはさ〜〜逆になんでそんなふたりに会いたいの?ちょっとだけでしょ、一緒にいたのなんて。それより私や「みんな」といる時間のほうがもうずっとずっと長いんだからさ、私たちの話をもっときいてよね!」
「うるさい!あんたたちなんて、あんたたちなんて……」
「そうやってさ、私たちをできそこないって決めつけてさ、勝手に一人で全部背負い込んでさ。そりゃ、私たちも倫ちゃんに頼りすぎたって思うよ。ごめんね。だ〜か〜ら〜、これからはさ、みんなでやってこうよ、やってくっていうか……ねえ、倫ちゃん、鹿もさ、なんにもしてなかったと思わない?」
え?って顔に倫ちゃんはなる。
「そりゃ、鹿なりにもしかしたら頑張っていたかもしれないけど。でも私が覚えている鹿たちって、好きな時に寝て、好きな時に食べて、好きな時にうんちして、すっごい気楽そうだったよ。鹿の王も多分そんな感じじゃないの?普段は。知らんけど……」
「無責任だよ、お姉ちゃんは」
「倫ちゃん、自分で言ったよね、「だから、私も従わないといけない」って。それって、人間に従うの?」
鹿は人間に従った。だから人間も、人間じゃない存在に従う番なのだ。それまでは私たちは楽しく過ごしてればいい。人間の役割や地球に対する責任は「前の地球」でおしまいで、あとは移行期のごたごたぐらいなんだ、きっと。そして、倫ちゃんはそれをもうきっちり果たしてくれた。
「だからさ、倫ちゃん、ちょっと休もう。頑張ったよ。全部ひとりでやらしちゃって、本当にごめんね。ありがとう。あとは人間じゃないなにかに任せようよ。そうするしかないって」
──それでも、って倫ちゃんの頬をつーって綺麗な涙が流れる。私はそれに見とれてしまう。
「もういっかい、もういっかいでいいから、お父さんにまた会いたいの」
「わーかった、わーかった。あげるから、お姉ちゃんの唾でも血でもおしっこでもなんでも倫ちゃんにあげるから。お願いだから泣きやんで……というかここから降ろして……」
しくしく泣き続ける倫ちゃんをなんとか説得して、私はなんとか縄をほどいてもらう。
「おしっこはいらないけど……」
そう言いながらポケットから『メス』と『ピンセット』を取り出した倫ちゃんを私は反射的に突き飛ばしてしまう。
「くれるって言ったじゃん〜〜!!!」
また泣き出してしまう。
「ごめん……やっぱり心の準備が……」
扉はまだロックされている。『くそ』、やっぱり逃げられない。
私は頭をフル回転して言い訳を考える。いや、あげちゃってもいいんだけどね……でも、なんか怖いじゃない……。
「じゃあさ、倫ちゃん、これだけ教えて」
何を?って倫ちゃんが泣きはらした目で私をみてる。
「どうして倫ちゃんは私に名前を教えたくなかったの?」
「……ずるいから」
「はい?」
「お姉ちゃんばっかり、ずるいから!!!」
「いや、ごめん、わからない……」
ずるいって?名前を授かったことが?でも倫って名前もパパがつけてくれたんじゃなかったの?もしかしてアホなのかな?
「たいして会いたくないお姉ちゃんがふたりに会えて、なんでこんなに会いたい私が会えないのか、マジ意味分かんないわ」
いつの間にか倫ちゃんの悲しみは怒りに変わったみたいで、メスを片手に私にじりじりとまた迫ってくる。怖っ。っていうか、不思議な力を使われたら私なんて手も足も出ないんだから、なんでこんなに調子に乗ってしまったの……。
「ちょうだい」
目の前にメスが突きつけられている。私は怖くて動けない。
「やろうと思えば、なんだってできるんだから」
そうだよね。本当にすいませんでした……。だってあなたは「人の王」なんだもの。
私は覚悟を決めて、この身を差し出そうとする、その前に、最後の抵抗を試みる。
「塩基配列だけで、本当にふたりに会えるの?」
倫ちゃんの手が止まる。でもすぐに動き出す。
「そんなの、やってみなきゃわかんない!」
「やんなくても分かるよ!だって、中身はきっと空っぽだよ」
倫ちゃんの両目に大粒の涙がうかぶ。それを見て、私は胸がきゅ〜〜〜〜〜って痛くなる。ごめんね、本当にごめんね。
酷いこと言って、ごめんね。
でも、私も倫ちゃんの言ってることがやっと分かった気がする。
崩月アリア。それがママの名前。崩月樹。それがパパの名前。倫ちゃんが教えてくれた。
ノートにはママの名前は書いていない。その理由も倫ちゃんは知っていた。「読んでいいよ」って私にノートが渡される。ページを捲る私の手がちょっと震えている。
ていうか「ノートの大部分はブラックホールのことしか書かれてない」なんてめっちゃ嘘じゃん!ママは小さい文字でびっしりと自分が生まれてからのことも書き留めていた。
「てかさ、赤ちゃんの頃にみた景色とか、パパと『恋愛』していたときの会話とか、さすがにママ何でも覚えすぎじゃない?博士ってこんなもん?」
ほっぺたがくっつきそうな近さでノートを覗き込んでくる倫ちゃんに思わず訊いてしまう。
「うるさいなぁ〜〜」
「なんでちょっとムスッとしてるの……」
「物語だと思って読んだらいいの!」
「ええ〜〜でもこれ『日記』なんでしょ?本当にあったことなんだよね?」
「それが本当か確かめようがないって意味では、日記も物語も変わらないよ」
「じゃあ、これ、ぜんぶ嘘かもしれないってこと?だめじゃん」
「も〜〜なにがよ〜〜」
「だって……これって、ママが「崩月アリア」になるために書いたものなんだよね?そこに嘘があったら、ママは「崩月アリア」になれなくない?」
「気の持ちようだって。お母さんが「自分は崩月アリアです」って納得できればそれでいいの。パンダと一緒。パンダだって見た目は随分変わったけど、それでも自分はパンダって信じていれば大丈夫なの」
それはつまり、自分と名前を結びつけるには容れ物と記憶が必要だってこと。だから塩基配列だけでは「崩月アリア」を立ち上がらせることにはならない。
「崩月アリア」の記憶情報は塩基配列情報の周囲を取り巻くように、あるいは内部に組み込まれた状態で保存されている、というのが倫ちゃんの予測だった。問題はその範囲をどう規定するかだった。「つまり厳密じゃなくてもいいの」と倫ちゃんは言うけれど、とはいえ記憶は「繊細でこわれやすい」ものだから、不必要な情報を読み込んだり、必要な情報を読み込まなかったりすると、ママが自分を「崩月アリア」だと納得できないかもしれない。
その問題を解決するには、私が自分の名前に納得する必要があるって、倫ちゃんは言う。
どうやって?と私は訊く。どうやって解決するのかって疑問でもあり、どうやって納得するんだって疑問でもある。だって、私には納得するに必要な記憶がそもそもないのだ。あったとしてもとても短く、この地球の記憶のほうがすでに長いのに。
「うるさい、黙れ。最後までちゃんと読め。読めば分かる」
倫ちゃんの手にはメスがまだ握られている……。怖いよ〜〜。これ以上彼女を怒らせないように、私は黙ってノートを読む。
「読んだ?」
うん。読んだ。
「分かった?」
うん。分かった。
「アイでしょ」
「うん、愛だね」
青は死の色。そうパパが教えてくれた。
死を知らない私は、青から死を想像するしかない。青いもの。海、そして空。でも空には真っ黒の穴があいて、その青さを汚している。死ぬことはだからお空に昇るのではなくて、海へと潜ることなのかも。
鹿の王のお腹は水浸しで、私はその温度や匂いをしっかり覚えている。ママのお腹にも水がたくさん入っていたそうだ。あの地球の最後の思い出は、いつの日も雨が降っていた。この地球へと通じるお墓の道はひどくぬかるんでいて、だけど外は見たこともないくらいカラッと晴れていた。
今日みたいに。
私はずっと不思議だった。
どうして私もこの地球に送られたんだろう?って。
倫ちゃんと違って不思議な力もない私が、ここにいる理由。別に理由なんてなくていいと私だって思うし、「親の愛ってことじゃん」という倫ちゃんの言葉も素直に嬉しくなる。
だけど、今ならわかる。私と倫ちゃんはふたつでセットなんだ。
私があるから倫ちゃんがあるし、倫ちゃんがあるから私がある。
倫ちゃんにとって私は偶然の存在だけど、私から出発すれば倫ちゃんにきっと突き当たる。倫ちゃんはつまり生きるってことを体現している、そして私は死を。死ぬことは生きることの否定としてあるけど、生きることは「死んでない」ことじゃない。死を回避するためじゃなくて、ただ「生きている」ことは可能だろう。今の私たちみたいに。あの地球の私みたいに死を知らずに生きることもできる。だけど生を知らずに死ぬことはできない。
でも死があるから生があるのだ。生へと突き当たるために、死は要請される。
「心の準備はいい?」
となりに立つ倫ちゃんも黒い穴を見上げている。
彼女の小さい手が、私の手に繋がれている。
「……まだ」
「……」
「……もうちょっと待って」
「……」
「……なんでそんな冷たい目ができるの?」
「……「お姉ちゃんは死を司る存在なの」とかドヤ顔で言ってたのにって思って……」
「……撤回します」
「……」
「……ぐすん」
「え、泣いてるの?嘘でしょ?」
「ひっく」
「うわ『しゃっくり』まで。マジじゃん」
「しゃっくり?」
「『横隔膜』の『痙攣』よ」
「なんか怖いよ〜〜ぜんぶが怖いよ〜〜」
「怖くないって、大丈夫」
「やっぱり倫ちゃんやって〜〜」
「できるもんなら私がやりたいわ!!!お姉ちゃんの百兆倍ぐらい会いたいんだから!!!」
「だってさ〜〜、お姉ちゃん、あそこに吸い込まれるんだよ?」
「うん」
「やばくない?」
「はあ〜〜〜?私なんかね、いつか『畜生』にお腹を突き破られる運命なの!お姉ちゃんはちょっとぺったんこになるぐらいで済むのに。だいたいお姉ちゃんは昔から『グズ』で『のろま』で『でくのぼう』なんだから!!!」
「ここにきて知らない言葉で罵倒をされてる……辛い……」
「はい、もう泣かないで。いってらっしゃい」
「ねえねえ、本当に戻ってこれるんだよね?」
「いってらっしゃい!」
「ねえってば」
「晴れてよかったね〜〜」
「倫ちゃん〜〜」
「大丈夫!私に任せなさい。道中もしっかりサポートしてあげるから」
私の身体がふわっと軽くなって、空へと浮かび上がる。往生際悪く空中でじたばたしてみても、どんどん地上は遠くなっていく。
「お母さんとお父さんによろしくね」
小さくなった倫ちゃんの声が耳元で響く。
「こっちの声は聞こえてるの?」
倫ちゃんが浜辺で手を振るのが、辛うじて確認できる。
ううう、心細い。観念して全身の力を抜くと私の身体はさらにスピードを上げて空をのぼっていく。
はじめて地上を空から眺めている。周りを海に囲まれ、パパが地上を『島』と呼んでいたことを私は思い出す。海には他にも島があり、地球は丸いって私はこの目で確かめる。背泳ぎするみたいに、私は身体を空へと向ける。太陽の眩しさに目が慣れると、私はしっかりとブラックホールを見据える。その縁の部分、青空がぐにゃりと歪んでいる。
私は浮かんでいるんだろうか?それとも吸い寄せられているんだろうか?
「お姉ちゃん、大丈夫?」
なんとか、って私は答える。黒い穴はまるで黒目みたいで、むこうも私をじっと見つめている感じがする。
「倫ちゃん、聞こえる?」
「うん」
「私って、いま吸い込まれてる?」
「え、どうだろう。私からはよくわかんない……。そんなに手応えは変わらないけど」
「そうだよね」
「まだ遠いからね」
「そうか〜なんか、思ったより吸い込まれる感じじゃないね」
「よかったじゃん」
それどころか、むしろ、穴からなにか浮かび上がっているような?
「ブラックホールってなにか出してる?」
「蒸気みたいなものが出てるんだってば」
「それ以外には?」
「理論上は何も出てこれない」
「なにか出てきてるよ、でも」
いや、穴の中から出ているんじゃない、やっぱり浮かび上がっているんだ。穴の表面から。
「倫ちゃん、分かった。鹿と同じだ」
「どういうこと?」
私は空中でターンを決める。丸い地球が浮かんでいる。
「ホログラムなんだ」
身体のフォルムを保てくなくなってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。倫ちゃんに相当に薄く押し潰されても、しっかりとまだ私は私の領域を保てている。
「お姉ちゃん」
暗闇にぼうっと炎が浮かび上がったみたいに、倫ちゃんの声が私を取り囲んだ。
「多分、もうすぐだよ」
もうすぐ。
もうすぐ私は完全な平面になって、文字のようなものへと『相転移』する、らしい。もはや恐怖もなければ、不安もない。私はほとんど止まったようなゆっくりとしたスピードで圧迫され、のっぺりと引き伸ばされていく。
一切をそれに任せている。
「お姉ちゃん、返事して〜〜」
「……うるさいなぁ……」
「眠たいの?」
「気持ちいいよ」
「本当に、もうすぐだから」
「それ、何度も聞いた……別にいいよ、もうすぐじゃなくても」
「お姉ちゃんはよくても、私が困るのよ……」
そうなんだ。そうなのか。
「すっごい時間がかかるのね、これ。流石に飽きてきちゃった」
「……どれくらい?」
「もう覚えてない。気が遠くなるぐらいの長い時間」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「お姉ちゃん。本当に本当にもうすぐ『臨界』するよ。だからその前に、もう一度お母さんの日記を読んであげるね」
ママの日記。ママの物語。
ママのノートには私が生まれてからのことも詳細に書かれていた。お腹の中に私を『妊娠』し『出産』し『育児』した記録。でもそれは記録で、私の物語にはなりえない。だからママは娘の物語を紡いだ。私があの地球を去ってからの記録なんて存在しないはずなのに、日記は私が『成人』するまで書き続けられていた。
ママじゃなくて倫ちゃんがお母さんになってその物語を私に読み聞かせている。
それは私の物語であって、同時にママの物語でもある。私はママの中にいて、ママは私の中にいる。そこに書かれていることは嘘に決まっているんだけど、真実よりも真実味のある嘘は本当よりも本当なのだ。私はそれに水が染み込むみたいに納得させられてしまう。
私はママの情報を同定する自信があった。倫ちゃんに鹿の王の情報がひときわ目が行く部分だったように、それ以上の精度と厳密さで。
「私と鹿の王は『入れ子構造』なの。お姉ちゃんとお母さんもね」
物語は成人した私が『結婚』するところで終わる。『保守的』だって倫ちゃんはこの終わり方には不満があるみたい。私は悪くないと思うけどな〜〜。
きっと私がママから脱出し、ママが私から脱出するシーンを最後に書きたかったんじゃないかしら?まあでも、結婚ってなんか窮屈そうよね。
「てかさ、パパは?」
「ん?」
「パパはどうやって見つけるの?無理じゃない?」
「あ〜〜……まあなんとかなるよ、お父さんは」
「うわぁ……適当……」
「きっとお母さんの傍にいるよ」
「そういうもんかしら」
「お母さんがなんとかしてくれる」
「ママ〜〜」
「会いたくなってきた?」
「まんまとね」
「ママだけに」
「うん?」
「なんでもない!ほら、集中してお姉ちゃん」
「さっきから集中してるよ〜〜あと、最後のページまでちゃんと読んで」
「あ、忘れてた。「アイとは、記憶の別名である」。これ、お父さんが直前に書き足したんだよ」
「何回も聞いた」
だから、その文字は少し震えている。
「「愛」だよね、きっと」
「「I」かもよ」
「「哀」説も出たよね」
「「eye」も、大穴だけど」
「オシャレというか、ちょっとカッコつけ過ぎだけどね〜〜」
「あはは、お姉ちゃんってお父さんに冷淡よね。あんなに仲良さそうだったのに」
「いつのはなし?」
「いつって、いっちばん最初。最初の最初」
相が異なれば倫ちゃんの声は私に届かないし、私の声も倫ちゃんに届かなくなる。というか私は既に声を失いかけて、『テレパシー』を送るみたいに語りかけるしかなかった。その瞬間は確実に近づいてきてた。時間切れになる前に、私は素朴で根本的な質問を倫ちゃんに投げかける。
──倫ちゃん、今更なこと訊いてもいい?
「戻ってきてからじゃだめ?途中で途切れちゃうかもよ」
──いま教えてほしい
「なに?手短にね」
──どうして倫ちゃんは、私たちのところに来たの?
あの日。パパと『レコード』を聞いていた日、倫ちゃんがノックしたのがもしもバードヴィラ208号室の扉じゃなかったら?少なくとも、私はここにいない。
なあんだ、そんなことかって、倫ちゃんの甲高い笑い声がする。
「生まれた場所から、いちばん近かったから」
ええ……私は拍子抜けする。
「お姉ちゃん?聞こえてる?臨界しちゃった?」
──ショックで臨界しそう……それじゃ、本当に単なる偶然ってこと?
「私にとってはね〜〜。鹿の王は分かんないけど」
──倫ちゃんって、お腹の中で鹿の王と会話したりしたの?
「したよ。こんな風に。なんたって『臍の緒』で繋がっていたからね。でも私が外に出ようとするのも止めなかったんだ。優しいよね、自分はお腹を裂かれちゃうのに。あ〜〜そうだ!私、子どもってこういう風に生まれるんだって、あの時そんなことを思ったんだよ。私も子どもなのに。うわ〜〜、なんかめっちゃ思い出した!」
──子どもは自分の意志でお腹から出てくるってこと?
違うよ、お姉ちゃん。それだけじゃないの。臍の緒を切るのもそうだけど、それ以前に臍の緒を掴んだのが子どもの意志なんじゃないかって、そういう話。鹿の王の臍の緒を私は自分の手でちょん切って、お腹の外に出てきた。外は眩しくて、賑やかで、お腹の中に戻りたくなった。でも鹿の王からは嫌な匂いが漂って、しかたなく私はとぼとぼと歩き出した。きっと後悔してたんだと思う。やっと森をぬけたら、たくさんの家がみえた。そしたら、ベランダでパパがお姉ちゃんを抱っこしていた。そこにしようって、私はもう決めていた。消極的な気持ちじゃなくて、とても積極的な気持ちでもう決めていた。適当に走り出したけれど、バードヴィラまでの道は迷わなかった。手すりを手繰り寄せるみたいに階段を登って、目の前のドアを私は力いっぱい叩いた!壊すつもりで!
ハローって気持ちを込めて。
「もしかしたら、お姉ちゃんも同じだったのかもね」
──私も同じって?
「お姉ちゃんもお母さんを選んで、そのお腹にやってきたんじゃない?」
そんなのは嘘だ。親にとって子どもは偶然だし、子どもは親を「消極的に」必然として受け入れるしかない。それはこの世界の理で、維持されないといけない。でも嘘のなかでは、その理を無視することだってできる。
本当に子どもが「積極的に」親を選ぶことだって、嘘でならありえるのだ。
私はその嘘を今だけは積極的に信じようと思う。私が私を引き受けるために。
いよいよ私の相が変化しようとしている。届くかわからないメッセージを最後に投げ入れた。
──ハッピー・バースデイ
「うわ〜〜お父さんの子どもだなぁ」
お姉ちゃんから返事はない。私の笑い声だけがラボにこだまする。私は自分が臍の緒を切り離したときの感触を思い出しながら、声を出して泣いてみた。人間が生まれるときみたいに。
あらゆる物質が強い重力下で極限的に至る状態、『ブラックホール相』に私はなっている。そんなとんでもない状態でも私はちゃんと私のままで、名前や記憶による領土化はひ弱な肉体に比べて相当に強固なものなんだと感心してしまう。
私の情報が保存されているように、然るべき領域にふたりの情報が保持されている。パパとママだけじゃない、あの地球のすべての情報がこの表面に保存されている。
記憶が愛だとすれば、ここが宇宙で最も高密度の愛だ。その愛は私たちへと向けられている。倫ちゃんが縋りたくなる気持ちも理解できる。倫ちゃんは歴史から学び、私たちの地球をより良い場所へと作り変えていくだろう。
だけど、それは人間がすべきことじゃないんだ。それは次のなにかが考えたり、考えなかったりすればいい。
私たち人間に残された使命は、倫ちゃんがその役割を果たす時まで楽しく幸福に存続できるようにサポートする、ただそれだけ。完全に普通の女の子にしてあげることはできなくても、倫ちゃんの重荷は最大限に取り除いてあげないといけない。
そのために、私は穴を切り離すんだ。
ブラックホールの表面からは霧のように光線が萌え立っている。
地球とブラックホールの関係は、今の私とママの関係と相似している。今の私はママの内部に取り込まれながら、ママを内部に取り込んでいる。地球はブラックホールの表面から浮かび上がるホログラムであると同時に、ブラックホールは地球から観測されるひとつの現象に過ぎない。
まるでしっぽを飲み込んだ蛇?
『ウロボロス』。これもパパが教えてくれた。
入れ子構造。ウロボロス。それらを解除しないといけない。それは私とママがふたつにもどることを、現実と空想がふたつにもどることを、生と死がふたつにもどることを、意味する。
私たちの世界に死の影がおりて、名前が「みんな」をはなればなれにする。地球に戻ったら私は名前も顔も変えるんだ。「みんな」も倫ちゃんもそうすればいい。でも、いまはまだ。
ああ〜〜こんな親不孝な娘を許して〜〜。倫ちゃんも絶対怒るだろうなぁ。表面は思いの外広くて、ふたりはまだ見つからないけれど、私とママは繋がっているから大丈夫。
それより!ママとパパと一体なにを話せばいいの???「そんなのその場のノリよ、ノリ」って倫ちゃんの言葉を真に受けたけど、ううう、やっぱり緊張してきた……。元気にしてますよ〜〜、とか、心配ないですよ〜〜、とか、そんな感じでいいのかな。でも、いくら久しぶりとはいえ敬語は変だよね。う〜〜ん、悩ましい……。
とにかく、倫ちゃんのことをまず教えてあげよう。私の可愛い妹は、あなたたちの可愛い娘はめちゃくちゃ頑張って、偉くて、立派で、パパとママのことが本当に大好きなんだよって、それだけはちゃんと過不足なく伝えなきゃいけない。私のことは、正直あんまり話すことないや。だって本当の私は、ママだって知らない私は、これから生まれなおすんだもの。
でも、いまはまだ。
広大な表面の、ほんの僅かな領域がまるでこちらに手を振っているみたいに感じられた。そこからまずママを領域を同定しようとするんだけど、どうしたってノイズの情報が混入してしまって私は焦る。だけどそのノイズを丁寧に読み解けばもうひとつの塩基配列情報が保たれていて、それはきっとパパだった。
パパとママは混ざりあい、ふたりでひとつになっている。
だけどそれは入れ子構造やウロボロスに陥ることなく、繋いだ手のように解こうとさえ思えば簡単に解けるものだった。ふたりはふたりの意志でひとつになっているのだ。結婚はつまりそういうことの教訓だって私は即座に理解する。固有の名前で隔てられた私たちは、こうやって近づくこともできるのだ。
お互いを飲み込むのではなく、身体を重ね合わせるみたいに。
私はふたりの領域を確定させる。多少の取りこぼしがあったとしても、少しぐらいならふたりはちゃんとふたりのままだ。だって記憶なんて、愛なんて、Iなんて、本来あやふやで脆弱で揺らぎやすいものなのだ。それでも「私」は「私」をイメージできるし、納得だってできる。
私の心は震え、それを跳ねっ返すみたいにふたりが立ち上ろうとしている。
ひっく。しゃっくりが出る。揺れているのは横隔膜じゃなくて私のすべてだ。
──ママ、パパ。私の領域が震動し、その揺れは言葉となって溢れ出す。
ねえねえ、「小鳥だよ」。
いまはまだ。
だから、ちゃんと、さよならを言うんだ。
〈了〉
文字数:49626
内容に関するアピール
私には3歳になったばかりの娘(まさに本日、2月4日=FAB.4が彼女の誕生日です!おめでとう!)がいます。
2019年の5月に妻の妊娠がわかり、育児の準備をわくわくしながら進めているときに東浩紀さんのこの記事を読みました。
「子どもを生み出すことへの躊躇いをいかにして退けましたか?」
https://www.genron-alpha.com/voice20190904_01/
娘がまだ母親のなかにいたあの頃は正直(最後の1文以外)あまりピンとこず。それでも心に引掛かっていたのか、スマホのリーディングリストに放り込んでいました。娘が大きくつれて”親にとって子が生まれることは偶然であるが子どもにとっては絶対的”という非対称性にビビってしまうことが増え、その度にこの文章を読み返しては腹を括るということをしています。この場を借りて、本当にありがとうございます。どんな育児本よりも僕にとっては指針となっています。
親と子供の非対称性がブラックホールで反転してしまったら?という戯言から出発してこの物語を書きました。円環的時間→直線的時間、だけではあまりに素朴すぎると思い、私淑する安永浩先生が私淑したO・S・ウォーコップという無名の哲学者の「パターン」=世界の全ては二項対立である(ある意味とても素朴な)概念を援用ししました。「パターン」は唯一分裂病患者においてはその関係が逆転するとした安永先生の「ファントム理論」とブラックホールを接続し、そこに琉球神道のフレーバーやら何やらをたっぷりまぶした荒唐無稽な作品となりました。
私の最初のマスターピースです。頑張ったね、俺。
(謝辞)
量子ブラックホールのアイディアにつきましては理研の横倉祐貴氏の論文や著作から多くを参照しました。
https://www.riken.jp/press/2020/20200708_3/index.html
作中の植物名や風俗等につきましては『沖縄の植物と民俗 玉置和夫遺稿集』と『竹富町史』第五巻から多くを参照しました。
文字数:845