ロストミュージアムの天使

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ロストミュージアムの天使

1.
 暗闇の中で、じっと身を潜める。
 外では大きな音がするけれど、ここではほとんど聞こえない。
 そこは巣のように温かく、安全なのだと分かっている。
 すべすべした布が頬に触れる。香水の良いにおいがぷんと漂う。
 手を延ばすと、指先に何かがぶつかった。
 固くて蓋がある。学術本くらいの大きさで、少し持ち上げるとずっしりと重い。
 目の前の扉をほんのわずかに開けて、光を入れる。
 固いものは箱だった。胸の動悸を抑えながら、蓋を開けようと手を伸ばす。


 瞼に朝の光を感じる。
 ライザは目覚めると、粗末なベッドから身を起こした。
 さきほどまで浸っていた夢の世界を思い返す。明け方によく見る、自分が暗闇に隠れている夢。いつも、箱の中身を確かめる前に終わってしまう。
 あれはどこなのだろう。何を意味しているのだろう。そんなことを考えながら、ベッドから抜け出して窓を開く。春先のまだひやりとした空気の中、ライザは窓から顔を出す。
 ここはアパートの最上階で、屋根裏の狭い空間を格安で借りている。下を向くと、壊れた塀や不法投棄が激しい空き地、蓋が開いたままのごみ箱、路面が破壊された道路などが目に入った。
 ごみごみした地上から、空へと視線を移す。明るく爽やかな青空の下、複数のビルが立ち並び、ニューヨークの象徴であるエンパイア・ステート・ビルがそびえている。
 ライザは大きく息を吸い込むと、肩の辺りで切りそろえた赤毛の寝ぐせを抑え、大きなリュックをつかんで家を出た。道行く人に軽くぶつかって舌打ちされたが、小柄な体を駆使して駆け抜ける。
 ごみだらけのスラム街を通過し、甘酸っぱいにおいのトイレの前を駆け抜け、落書きまみれの地下鉄に乗り、大分治安が良くなったものの、未だにどこか薄暗いハーレム地区で降り、ニューヨーク市民病院に入っていく。
 エントランスには、血を流している子ども、立ったまま器用に船を漕ぐ老人、視線の定まらない若者などでいっぱいだ。ライザは群れを通り過ぎ、エレベーターで上階に向かう。そして「ベロニカ・ソロチンスキー」というネームプレートが出ている個室に入っていくと、ベッドで本を読んでいた女性がこちらを見つめた。漂白されたような白い顔に華奢な身体。もとは褐色だったであろう髪は、半分以上白くなっている。そしてその顔立ちや表情はライザに似ていた。
「叔母さん。着替え」
 ライザが、ぶっきらぼうな口調だが丁寧な手つきで荷物を置くと、相手は軽く頷いた。
「本当に、いつもありがとう」
 ベロニカと呼ばれた女性は包みを手に取る。
 骨ばった手が痛々しい。それを見たライザは、医師から聞いたベロニカの病名を、思わず心の中で反芻した。
 膵臓がん。
 手術すれば治りますよね、と言葉を重ねるライザに、医師は首を横に振って告げた。

――今は西暦二〇四二年、二十一世紀も半ば近くになるけれど、未だにがんは克服できていない。君の叔母さんは、周囲の血管を巻き込んで進行しているから切除不能なんだ。化学療法でも放射線療法でも対処は難しい。

ライザはそれを聞いた時の強烈な胸の痛みと、宣告してきた医師の思慮深い褐色の顔を思い返した。優しい人だった。ベロニカがここに入院できたのは、恐らくその医師の配慮のおかげである。とてつもなく医療費が高いこの国で、難民であるベロニカが、医療費が安いこの病院の個室に入れたのは奇跡に近い。
「無理しなくていいから、自分の生活を優先させて」
 ベロニカの言葉に、ライザは笑顔を浮かべようと努力しながら答えた。
「平気。この病院、バイトに行く途中の道にあるから」
「それならいいけど。あと、またグラフィティをやってるんじゃない? 画材の匂いがするみたい」
 鋭い指摘だった。ライザは焦って口を開く。
「安全な場所でやってるから問題ない」
 言ってから後悔する。
 焦って尖った声を出してしまった。そんなつもりはなかったのに。
「危ないことをしないでほしいの」
 ベロニカはライザをまっすぐに見つめると、真剣な眼差しで、
「あなたに手をかけられなくて、申し訳なかったと思ってる。でも、あなたは自分の考えを持っている子だということも分かってる」
 と告げた。
 俯くライザに、ベロニカは続ける。
「私はあなたの行動を尊重したい。でも、私の姉、つまりあなたのお母さんは、グラフィティのせいで命を落とした」
 全身に緊張が走る。自分の心臓の音が聞こえる気がする。
 ライザとベロニカは、ライザが幼少時に祖国を出て、数か国を経由してアメリカに移住した。その時、ライザはほんの子どもだったので、祖国のことは何も覚えていない。
 ベロニカからは、母は祖国で亡くなったと聞いていた。それ以上のことは、今までライザがどれほど聞いても教えてくれなかったのだ。それなのに。
「もしかして、グラフィティのライターだった? どんな人だったの?」
 震える声を懸命に押さえながら尋ねると、ベロニカは視線を落として告げた。
「姉と私は二卵性の双子で、顔は似ていた。でも似ていたのは外見だけで、姉は私よりもずっと勇敢だった。気をつけてほしいから、今はそれだけ伝える。誰かがが死んだ時、残された者ができるのは、覚えていることだけ。詳しいことは、あなたがもう少し大人になってから言うわ」
「私はもう大人だ。十九歳でこの州の選挙権もある。もっと教えてほしい」
 思わずベッドの枠をつかんで抗議するライザを見て、ベロニカは微笑みかける。
「自分で大人だと言う人は大人じゃない。あと、私の方も伝えるべきことを整理したいの」
 ベロニカはそう告げると、疲れた様子でベッドに身を静めた。
 これ以上粘ってもベロニカの気持ちを変えるのは難しそうだ。それに負担になりたくない。ライザは病室を出たが、帰りがけに見たベロニカの顔が妙に青く見えたのが気がかりだった。

病院の近くにあるスーパーで仕事を終えると、ライザは帰り支度をした。治安が保たれている店であればレジ作業や清掃はロボットが行うが、ライザの働いている場所は荒れている地区にあり、人間の従業員が残されている。
 清掃や力仕事はロボットたちが人間以上にうまくやってくれるので、ライザたちは彼らの集めたごみなどを管理するだけで良かった。キャリアにならない仕事を嫌って転職する同僚もいたが、お金を貯めたいだけのライザにとって、仕事内容に不満はなかった。
 道端のスタンドに立ち寄り、チリとチェダーチーズを挟んだホットドックを買い、齧りつきながらバスに乗る。行き先はダウンタウンだ。人気もまばらな車内で、ライザの頭にのぼるのはベロニカとの会話だった。
 グラフィティのせいで命を落としたという母。
 どんな人だったのか。なぜ亡くなったのか。
 何としても聞き出したい。しかし同時に、身を横たえたベロニカの、静かに目を閉じた姿も思い返した。
 食費にも事欠く中、ベロニカは懸命にライザを育ててくれた。なんとか無事に高校を卒業できたのも、生活を整えてくれたベロニカのおかげだ。戦争から逃れてきた難民である二人は、表面的な同情と隠しえない好奇心、それに隠された差別にさらされてきた。出国から入国、国を渡ること、難しい手続き、生活基盤の確保など、ベロニカが負ってきた苦労は、ライザの想像を遥かに超えているはずだ。
 停留所に降りた。ライザは歩きながら考える。
 険しい環境の中、叔母さんは静かな温かさと節度を持って接してくれた。煩わしいと思うこともあったけれど、いつからか、負担を軽くしようと思うようになった。入院してからは、更にその思いが強くなった。でも、私にも譲れないことがある――
 夕刻が迫る。ライザは足早になった。軒を連ねる店舗は空き家になって放置されている。その奥に、巨大なコンクリートの廃墟があった。
 そこはかつて私営の美術館だった。街の衰退と連動して所有者の会社が経営不振に陥り、美術品は売りに出され、最終的に建物だけ残して廃墟になったのだ。景気が良かった時代につくられたその建物は、白いコンクリートを横に流したような流線型の形が話題になったらしいが、今は壁に亀裂が入って歪んでしまい、見る影もない。
 ライザは建物の正面に歩み出た。白い色がところどころ剥げてまだらになった壁に触る。
 ここではグラフィティは許可されていないので、顔が見えるとまずい。ライザはパーカーのフードを目深に被り、顔が見えないようにする。
 リュックを下ろして画材を取り出すと、壁の前に立った。
 何も考えずに画材を手に取り、アイディアが沸いてくるのを待つ。話しかけてくる通行人を受け流しながら、まず線から描いていった。
 壁の色を活かしたかったので、今回はモノトーンで描くことにした。線を描いていると、体にリズムが生まれてくる。ざらつく壁の凹凸に触れると、今この場所にいるのだと実感する。踊るようにライティングしていった。
 夕刻の時間も過ぎ、空気が冷たくなってきた。時間と闘っているうちに、だんだん自信がなくなってくる。しかしそろそろ姿かたちが見えてきた。牙が四本ある猛獣がこちらを向いている。
 絵の全体像が見えてくると、手足に充実感がみなぎってきた。画題の顔はライオンに似てきた。二つの目と、額にあるとびきり澄んだ目がこちらを見つめる。その瞳はどこか理知的で、ライザは唐突にベロニカの静かな瞳を思い返した。
 母の命を奪ったというグラフィティと、気をつけてほしいというベロニカの言葉。
 安全な場所でやっているというのは嘘だ。
 ライザは時間の制約がある時や、禁じられた場所で行うグラフィティのスリルが好きだった。切迫した感覚の中で手を動かしていると、何かに挑んでいるという充実感を味わえる。グラフィティを描いている時は、自分自身の核を、自分の進む道を感じることができた。この瞬間は譲りたくない。
 あの嘘は、ベロニカを安心させるためのものだ。そう自分に言い聞かせても、嘘をついたという事実が、小さくライザの心に引っかかる。
 日が落ちて、辺りは薄暗くなってくる。ライザは幻獣を描き切る作業に集中した。あと少し、あと少しで完成する。そう思って集中していたライザは、遠巻きに見ている群れの中で、近寄ってくる人物に気づかなかった。
「ここでのライティングは禁止されている」
 言いながら、その人物はライザの腕を握ってきた。鋭い目つき。隙のない身のこなし。とっさに警官だと判断して逃げようとしたが、相手は二の腕を強くつかんで離さない。もがいても叩いても、相手がびくともしないことを知ったライザは、抵抗をやめて従った。観客のブーイングの中、車に押し込まれそうになったところで、相手を振り切って車から飛び出した。
 逃げ切れるかと思った瞬間、観客の中から飛び出してきた男が体当たりしてきた。うつぶせで道に倒れ込んだライザは、二人の警官に両手を取られ、再び車の中に押し込まれた。

出生や住所など、車の中でさまざまな質問に答えた結果、着いたところが拘置所だと知ったライザは抗議した。
「暴力のない犯罪は拘置所に入らず、裁判が終わるまで追跡用のデバイスをつけるだけでしょう」
 そう告げると、最初にライザを捉えた男が首を横に振る。
「デバイスの初期費用が値上がりしたんだ。大体の奴は払えない」
 相手の提示する金額は、いつもぎりぎりで生活しているライザに払える金額ではなかった。色が変わるほど唇を噛みしめて俯くと、相手は重ねて告げる。
「それに、デバイスは裁判までつける必要があるが、君の場合、時間がかかると思う」
「時間がかかるって、どういうこと」
 ライザが尋ねると、相手は黙り込んだ。
 理解した。
 自分は難民でよそ者だから、あらゆる手続きが遅延するのだ。
 心臓がきゅっと縮む。怒りと憤りの中で、ライザは冷静でいようと試みる
「倒れた拍子にスマートフォンが壊れた。代替品が欲しいんだけど」
 警官に告げると、相手は気だるそうに言った。
「我慢しろ。多分明日には仮釈放されると思うから」
 言い募ろうとするライザを、相手は無言で狭い拘置所に押し込めた。薬物のむっとするような甘い香りと、風呂に入っていない人間の据えたにおいに耐えながら、ライザは一睡もせずに過ごした。
 取り調べが終わり、出てもいいと告げられた時、翌日の夕方になっていた。ライザはまず壊れたデバイスを修理店に持っていったが、完全に壊れているので修理できないと言われた。舌打ちしながら新しい機種を購入すると、複数の通知が入っていた。ベロニカの入院している病院からである。
 かけ直しても通話中だ。嫌な予感に苛まれながら病院の受付に行くと、顔見知りの看護師が駆け寄ってきた。相手の緊迫した表情を見たライザは、何か良くないことが起きたのだと悟った。
「叔母さんの身に」
 何かあったの、と言葉を続けようとするライザに、看護師は早口で告げた。
「昨日の晩、容体が急に悪化して……」
 病院は走ってはならない。そんなことは頭から吹き飛んでいた。息せき切って階段を駆け上がる。病室に飛び込むと、目を閉じて横たわるベロニカの姿があった。
 眠っているかのように穏やかな顔。しかしライザが近寄っても、凍り付いたように動かない。
「……叔母さん……?」
 手を取ると、ひどくひんやりしている。その氷のような冷たさが、ライザの心に突き刺さる。
「ベロニカ叔母さん!」
 叫びながら、ライザの膝が崩れた。
 改めてベロニカを見つめる。
 彼女が着ているのは、ライザが先日渡した服だ。優しいアイボリーの色味は、ベロニカの肌のトーンに近い。
 ゆっくりと手を伸ばし、白い顔に触れる。
 昔は丸みがあった頬は、今は薄くなって冷たい。きめ細かい肌は蝋のようだ。薄い唇はわずかに微笑みを浮かべているように見える。
 取りすがって手に触れると、ベロニカの白い手は、ぱたん、とシーツに落ちた。
 その反応は人の、生命の宿るものの反応ではない。
 目の前の情景が凍り付く。
 傍らの椅子に座りこみ、冷たくなってしまった彼女の手を握り締める。
 感覚をぴんと張り詰めた糸のように緊張させていないと、全て崩れてしまう。
 近くに灯っていた温かい光が、消えてしまった気がした。

葬儀は簡素だった。
 ベロニカは自分の死を感知していたようで、彼女のタブレットにパスワードなしのアカウントで入ると、亡くなった際の手順が書いてあった。
 ライザが指定された手続きを踏むと、ベロニカは白い小さな箱に入って戻ってきた。
 物言わぬ小さな箱を見つめていると、彼女が亡くなったのだという実感が押し寄せる。
 ベロニカのスーツケースが視界に入る。その上にへたり込んでしまった。
体は丈夫ではなかったが、あまりにも早すぎる。
 グラフィティで捕まったせいで、死に目に会えなかった。もう二度と話せない。
 自分が悪いのか? 罰にしても、こんなのはあんまりだ――
 ずっと我慢していた涙がこぼれ、堰を切ったように流れだす。
 泣くことに慣れていなかったが、泣き始めると涙がとめどもなく流れた。思うまま、時の過ぎるままに、老婆のように泣いた。
 そのまま数日間ぼんやり過ごしていたが、やがて空腹に襲われてはっとした。このままでは体力が落ちてしまう。頼れるものがない今、自分が弱ったら何もできなくなる。
 我に返ったライザは、家にあったものを食べ、遺品を整理した。葬儀関連以外の遺言はないかと探してみる。ベロニカは几帳面な質だったので、タブレットの中のフォルダ構成も整然としている。しかし遺言らしきものは見つからない。
 きちんと整頓されたベロニカの部屋で、タブレットの中身を参照していると、ライザは失ったものの大切さを唐突に実感した。
 いつもベロニカがいたから安心して生活できていたのだ、これからは一人で生きていかなければならない。そう思うと、急に不安に見舞われた。
 ふと、ベロニカの生前の言葉を思い返した。

――誰かがが死んだ時、残された者ができるのは、覚えていることだけ。

ライザは思った。
 私はベロニカのことは忘れない、ずっと覚えているだろう。
 でも、ベロニカから聞けなかった母のことは、知りえないままなのだろうか――

ライザは仕事を再開した。なるべく毎日外に出るようにし、労働をこなし、その日一番安い食材を買って簡素な食事をとる。やがて以前の生活サイクルに戻ったが、一つ違う点があった。
 ライザはフラフィティを描けなくなった。描きたい画題を思いつくことはあるが、外で描こうという気持ちになれない。体を押して壁の前に来ても、手が止まってしまう。
 自分では意識していないが、無意識のうちに怖気づいているのだろうか。
 そう思ったライザは一度、画材を持って壁に赴いたことがあった。そこは合法的にグラフィティを描くことができるエリアだった。画材を握り締めて壁を前にすると、インスピレーションが消え失せた。懸命に気持ちを振るいたたせようとしたが、あの日つかまれた二の腕の感触と、病院で物言わず横たわるベロニカの姿が思い浮かび、スプレー缶を取り落としてしまった。
 地面に落ちる缶の、がたり、という音を聞きながら、ライザは怖くなった。それは、母がグラフィティのせいで命を落としたというベロニカの言葉に対する惧れ、そしてその言葉にずっと囚われるかもしれないという恐怖だった。
 そんなある日、ライザのもとに令状が届いた。差出人は裁判所で、先日捕まった件で出頭するようにとのことだった。ベロニカの死に目に会えなかった元凶。思わず破り捨てたくなったが、そんなことをしても状況を悪化させるだけだという理性はあったので、指定された日に赴いた。
 裁判所に着くと、高校ハイスクールの教室くらいの広さの部屋に通され、大きな椅子に座らされた。目の前にはスーツを着た、白髪で柔和な顔立ちの男性が座っているから、それが裁判長なのだろう。傍らにはライザを捕らえた警官二人が立ち、周囲にはわずかに傍聴人もいる。質問に対してライザが淡々と答えると、裁判長が改めて尋ねてきた。
「拘置された日、君のデバイスが壊れ、たった一人の身内に会えなかったと聞いている。だから今、独りぼっちになってしまったんだね」
 ライザが反応すると、裁判長も頷いた。
「許可なき場所でグラフィティを行うのは違反だ。それは事実だが、君の境遇を考えると同情の余地はある。従って社会奉仕を持って終わりにしよう」
 ライザが驚いて視線を上げると、裁判長は微笑んでいる。警官らも目を見開いて動かない。
「社会奉仕って、小学校で講習をしたりする、あれのこと」
 ライザは思い出しながら尋ねた。念頭にあったのは、飼い犬を射殺した被告人に対し、安全パトロール犬のコスプレをして小学校を訪問し、交通安全とドラッグの危険性に関して講習をすれば刑を減らすとした有名な裁判である。
 裁判長が告げた。
「そういう事例もあるけれど、君に提案したいものは別だ。ALS筋萎縮性側索硬化という病は知っているかな?」
「筋肉がやせて動かなくなる病気ですよね。物理学者のスティーヴン・ホーキング 博士が罹患していた記憶があります」
 思い返しながらライザは答えた。栄えある大英帝国勲章を獲得したホーキング博士は、学生時代にALSを発症して絶望したが、五十年以上もの間研究活動を行い、量子宇宙論に大きく貢献したと、学校のテキストで読んだ記憶がある。
「そう、そのALSの患者を手伝うというのが君の社会貢献プログラムだ」
 安堵した。仕事内容は分からないが、日常生活が不便な患者の手助けをするか、ALSを研究している病院で患者と対話するか、その辺りだろう。犬のコスプレよりもずっとましだ。
「……分かりました」
 ライザがそう告げると、裁判長は微笑んで頷いた。

2.
 ライザは数日後、裁判所に指定された場所へ到着して驚いた。そこはセントラルパークを目の前にした敷地で、ニューヨークの中でも最も地代の高い場所だったのだ。
 瀟洒なマンションが立ち並ぶ一角の、高い塀に囲まれた家。
 インターホンがどこにあるのか迷っていると、突然壁の一部が開き、音が響いた。
「ライザ・ソロチンスキー、来訪を歓迎します」
 感じの良い中性的な合成音である。大理石らしき素材のエントランスから中に入ると、内部には流線型の椅子とテーブルが並び、大きな窓から明るい光が届いている。窓の外にある青々とした芝生に見入っていると、背後から声がした。
《はじめまして》
 振り返ると、移動式のベッドで上半身を起こした人物がこちらを見つめている。室内のどこかにあるらしきスピーカーから声が響いてくるが、まるで目の前の人物が語っているように自然に聞こえる。
《僕はイーハ・ニカイドウ。イーハって呼ばれてるので、そう読んでくれると嬉しい》
 ALSの患者に会うのは初めてではない。ベロニカが入院している際、集団の病室で一緒になることもあったし、高校で罹患した生徒もいた。しかし病院にいた患者は話さなかったし、学校の生徒はいつのまにか通学しなくなった。
 イーハはどうやって声を出しているのだろうか。ライザがベッドを見回していると、再び声が響いた。
《ご覧の通り、僕はALS患者だけれどエンジニアでもある。この家には、僕が便利に暮らすためのしかけがあるんだ。ベッドは僕の脳波と連動しているし、視線入力でも動かすことができる。声は唇の動きを拾っているんだよ。最初はびっくりすると思うけど、すぐに慣れると思う》
 イーハの方を見ると、確かに口はわずかに動いているようだ。彼は身体は動かさず、上半身を緩く起こした形で固定している。豊かな黒髪をまとめて背中に流しており、頭の下部には無数の半透明のケーブルが見えた。彼が動かせるのは顔の表情筋と唇の一部、それに視線のみのようだ。
 最も印象的なのは瞳だった。持ち主の理知と才覚と善意の全てが結集しているかのようなその黒い目は、一秒ごとに表情を変える。
「裁判所からは、社会奉仕の内容に関してはあなたに聞けって言われた」
 そう告げると、イーハは瞬きをして語る。
《うん、君に手伝いをしてほしいんだ》
 手伝いとは何のことか。ライザは家事などはそれほど得意でない。首をひねっていると、イーハは言った。
《まず、テーブルの上にある二つのパッチを、君の後頭部に貼ってほしい》
 見れば、子どもの掌より小さいくらいのパッチが、透明なパッケージに入って二つ置いてある。ライザは首を横に振って告げた。
「先にどういうものか説明して」
 その言葉に、イーハは反応した。
《そうか、いきなりつけてと言っても怖いね。ごめん。それは僕が開発しているVRVirtual Realityのプラットフォーム、「OpenHall」に入った時、感覚を活かして味わうためのデバイスなんだ。VRは使ったことあるよね?》
「眼鏡型のなら、学校で使ったことがある。プラットフォームは違うと思うけど」
 確か、中学校ミドルスクール時代の教室に、VR用の眼鏡が設置されたことがある。それは企業の戦略で、若者にVRを浸透させるためものだった。その頃は、複数乱立していたVRのプラットフォームが絞り込まれ、互換性を持ち始めていた頃だった。
 学校で使ったのは、眼鏡を配った企業が連携しているプラットフォームで、世界中の景色を眺めながら歴史を学ぶことができるというものだった。やり始めた当初は息を呑んだが、眼鏡は一クラスに数個しかなく、皆で体験できないため、すぐに飽きられていた記憶がある。
 現状VRは、空想型やリアル型など複数のプラットフォームもつくられ、それぞれの世界を行き来することができるなど、コンテンツはある程度整備されていると聞く。学校の教材としては標準的なもので、企業の実体験用のシミュレーションや新入社員教育用の教材としてもすっかり定着したと聞く。
 しかし昔よりはだいぶ改善されてきたとはいえ、デバイスには一定の重さがあって高額なので、奢侈品と実用品の間くらいにある位置づけだ。
《そのパッチは、VRの眼鏡を代替するものなんだ。眼鏡よりも機能はずっと高いけれどね》
 イーハの顔を見ると、澄んだ瞳でこちらを覗き込んできた。その目を見ていると、不安要素は何もない気がしてくる。ライザはパッチを手に取った。半透明の丸型で、手の皮膚にもすんなり馴染む。
《それにはミクロンスケールの神経電極が仕込まれている。耳の後ろにつけると神経活動計測を行い、脳の後頭葉の視覚野や側頭葉の聴覚野、前頭葉の嗅覚情報などの感覚野を感知して刺激する。VR世界の中で、見ることや聞くことだけではなく、においや感触、熱なんかも感じられるんだよ》
 ライザは思い出した。中学校で経験したVRでは、飛行機に乗って世界中の様々な場所に行くのだが、実際に飛んでいるわけではないのに浮遊感を味わうことができた。
「前にVRを体験した時、目で見て飛んでるだけで、実際に飛んでる時の浮遊感があった。あれで、視界はさまざまな感覚に働きかけるんだと実感した」
 ライザがそう告げると、イーハはいくつか瞬きをして告げた。
《そう、それが僕の研究のポイントの一つになる。すごく簡単に言うと、VRにあるものが、脳に働きを与えるんだ》
「それを聞くと、なんだか怖い気もするけど」
《怖くなんかない。君だって中学校で経験済じゃないか。もっとも、眼鏡だと視覚しか変えられないけどね。安全性については、僕が自分で実証しているよ》
 イーハの明るい笑い声。ライザは思い切ってパッチを後頭部に装着した。それは頭皮に貼りつくと、あっという間に薄くなり、どこが接着面か分からなくなった。
《デバイスは少しこすれば剥がれる。医療用の人工肌を元にした素材で、七十二時間で自然に溶解して消えるよ。身体の代謝のメカニズムに合わせているんだ》
 イーハの声とともに、ライザの視界に変化が訪れた。上部に現れた透過型のコントロールパネルに視線を合わせると、選択肢は「Real」と「Virtual」「Dual」があり、今は「Real」にカーソルが当たっている。ライザは「Virtual」を選択した。
 一瞬、暗闇の中で小さな無数の光が点在しているのが見えた。宇宙空間に似ている。その後、急速に景色が明瞭になった。ゆっくり周りを見渡すと、大きな劇場のエントランスに立っていた。周囲には人影が見え、開演前の劇場のような活気がある。明るい光の気配を感じる木製の劇場ドアを開くと、目の前には舞台ではなく、優しい乳白色の道が遠くまで伸びていた。
 道に一歩踏み出すと、自分の歩いた跡が柔らかな光の軌跡を残す。その光は複数の色が混じったパステルカラーで、足を出すたびに心が弾むようだ。歩みを進めていくと、澄んだ空気と涼しい風を感じる。新緑と小川のような、爽やかな香りも漂ってきた。
 ライザは大きく息を吸った。住んでいる場所はごみごみとした街にあるから、これほどきれいな空気を味わうのは初めてのように思えた。
「僕のVR、OpenHallは、視覚のみならず、複数の感覚に働きかけるんだ」
 背後から声をかけられた。振り向いたライザは目を見張る。
 そこにはイーハがいた。自分の足で立ち、目線はライザよりも高い。歳のころはライザより一回り上ぐらいだろうか、痩せぎすだが上背のある立派な青年で、理知的な瞳と、豊かな髪を後ろでまとめているのは現実と同じだ。
 ライザが驚きで何も言えずにいると、イーハは告げた。
「僕は現実では立って歩くことはできない。でも僕のデバイスは、脳のあらゆる部位のシグナルを集積してくれるから、この世界では何でもできる。デバイスを使えば視界も広げられるし、他言語も変換できるから便利だよ」
 いたずらっぽく微笑みながら、ライザの肩に手をかけてくる。触れられた感触も実感できた。
「びっくりする……前に体験したVRは、こんなにリアルじゃなかった」
 感慨を込めて呟くライザに、イーハは言った。
「それは嬉しいな。僕は、ALSに罹患したのを不幸だとは捉えていないし、病がなければ開発の道にも進まなかっただろうから、一つの道だと思っている」
 イーハの言葉は聞き手の心にまっすぐに届く。ライザにはその前向きさが眩しかった。
「だけど、現実では不便なこともある。だから、自由に動く身体と、豊かさをくれたVRに感謝している。この分野に恩返しをしたいし、いろいろな人に知ってもらって、さらに可能性を広めたいんだ」
「そうなんだ……あなたはここでの見た目も、現実と同じだね」
 ライザの言葉に、イーハは微笑む。
「キャラクターの外観は、カスタマイズしない限り、現実の外観を参照して一定のパターンに沿ってつくるんだけど、そこまで細かく再現しないようにしている。僕の容姿がリアルなのは、開発用に作っているからだ。君が望むなら、実際の見た目か、好きな姿にできるよ」
「いいえ、今の曖昧な容姿がいい」
 ライザが答えると、イーハは頷いて歩き始めた。ライザも歩みを進める。
 足の裏に触れる道の固い感触、澄んだ空気、柔らかな風、温かい日光。最初はそういった感触の一つひとつに違和感がないことに驚いていたが、あまりにも自然であるために、次第に気にならなくなった。
 やがて大きな建築が見えてきた。透明で巨大なつくりで、極薄のガラス素材のようだ。堅牢さや紫外線の被害といった観点から、今のテクノロジーでは現実でおおよそ作りえない建造物である。建物の周囲には人々の姿も見えた。
「ここは現実には存在しない建物だ。現実の博物館や美術館ミュージアムにあったものや、文化遺産や危機遺産に指定されたものの中で、盗難や紛失から一定時間たったものや、火災や事故でなくなった作品を置いているんだ。だから『ロストミュージアム』と呼んでいる」
 イーハと共に中に入ったライザは、想像をはるかに上回る広さと明るさに驚いた。ニューヨークにあるもろもろの美術館、例えばMOMAニューヨーク近代美術館METメトロポリタン美術館なども非常に広大だが、このロストミュージアムはそれらをはるかに上回る規模である。エントランスから左右を見渡しても途切れることがなく、遠くに小さな人影がわずかに見える。
 ライザたちは館内を周遊した。古代から中世、近代から現代といった順番で作品を鑑賞していく。無数にある絵画や版画、彫刻や工芸品やインスタレーションは全て、現実で失われた美術品なのだった。
 イーハはネックレスの前に歩み出た。中国の唐時代のネックレス、という説明が書かれたその宝は、水晶や翡翠や珊瑚らしき石が連なり、精巧な金の細工がなされ、小柄なライザであれば腹まで届くほどの長さがある。静かに煌めく宝石たちを眺めながら、イーハは言う。
「これは文革時代に行方不明になった。文献や写真には残っているけれど、恐らく金属と宝石はばらばらにされているだろう。現実の中でかたちを失った美術品は、いつか忘れられてしまう。石膏像は破壊されたら跡形もないし、彫金の宝飾品や刀、鋳型でつくった像なども、溶かされてしまえば跡形もない」
「だからこのミュージアムをつくったの。でも現実で復元できるものもあるんじゃない?」
 首を傾げるライザに、イーハは小さく頷きながら告げた。
「元に極めて近いものをつくることはできるかもしれない。でも現実だと、作者が違う場合、贋作や複製だと言われて過小評価され、つくることそのものや、過去の技巧が詰まっていることは無視されがちだ」
 もっともな話だ。物理的な美術品の場合、元のものとは違うわけだから、過小評価されがちになるだろう。
「このネックレスが作られた中国の創世神話には、伏羲ふくぎ女媧じょかという神が登場する。伏羲はさしがね(曲尺)を、女媧は(コンパス)を携えていて、この規矩きくという道具は、円形と方形を描くのに不可欠なものだ。女媧は人類をつくった。つくり手の性質を受け継いでいるのなら、人はつくることから離れられないだろう」
 そう告げると、イーハはガラスケースを動かしてネックレスに触れた。
「ちょっと、そんなことしていいの?」
 ライザの言葉に、イーハは微笑んで頷く。
「直接手に取って見ることができるのも、VRの美点だ。特に僕が開発しているVRは、複数の感覚に働きかける。他社のデバイスでも使えはするけど、僕の開発したデバイスを使えば、美術品の手触りやにおいも感じられる。もっともなくなってしまったものだから、見た目や文献から分析して再現した感覚だけれど」
 壊れないから、などといいながら、イーハはライザにネックレスを渡してきた。真珠の粒に恐る恐る触れてみる。滑らかだった。そのまま指を動かして、水晶のひんやりとした触感や、珊瑚の柔らかな感触、無数の小さな点が均一に打たれた金細工部分の繊細な手触りを堪能した。
「もっと感覚を楽しめる場所に行こうか」
 二人はミュージアムの地下に移動した。
 そこは壁画の空間だった。人々が歌い踊る祝祭、星座を形づくった世界、教会で見かけるような抽象的な文様などが、壁面、天井、床、四方八方に広がっている。壁に直接描いたものや、削り出したものなど、表現方法もさまざまだった。中でもライザが見入ったのはモザイク壁画だ。小さなテッセラ切片が無数に集結して形を成している。
「見事だろう?」
 ライザは思い切り息を吸い込んだ。湿り気のある、冷やりとしたにおいがした。
「温度が低いわけじゃないのに、鼻がすっとする」
 ライザが呟くと、イーハが頷いて告げた。
「それは漆喰のにおいだろうね」
 ひんやりと冷たいけれど、内側に何かを閉じ込めているような懐かしいにおい。ずっと昔に嗅いだことがあって、どこだったかは覚えていないけれど、様々な場所で味わった気がする。
「なんだか懐かしい。時間までも閉じ込めているような」
 イーハは壁に近寄ってテッセラに触れる。ライザも倣ってそっと触れてみた。小さな色ガラス製のテッセラは、色や艶など、一つひとつに個性がある。モザイク壁画は、近くで見ると小さな欠片の集合体だが、少し離れると鑑賞者に全体像を示す。その現れ方は、古いコンピュータの時代から存在するドット絵のデザインを思わせた。
「壁画も、においを嗅ぐことができて、実際に触れることができるんだ」
「そう。モザイク壁画には、無数の凹凸があって、離れてみると違う見え方をして、こんなにおいがする、ということは、画像では分からない。美術鑑賞は、極めて繊細で膨大な情報に満ちた体験なんだ。ここに来ないと分からないことは無数にある」
 言い切ったイーハは、モザイク壁画に向き直って告げる。
「君が見ていたこの壁画は、全体の画像と小さな欠片がわずかに残っているから、においや手触りは分かるけれど、成分が解明できていない。だから現実では再現できない」
 そう告げるイーハに、ライザは眉をひそめる。
「どういうこと? テッセラが壁にくっつけばいいんじゃないの?」
「多くの人の目に触れることが前提になっている壁画は、その場所の気候に最も適した方法で描かれる。このモザイク壁画があった場所で、いろいろな配合でつくってみたけれど、すぐに全体が退色したり、テッセラ自体が劣化したり、剥がれてきたりしたんだ」
 イーハはテッセラを撫でながら告げた。ライザの目には、その小さな切片が、無限の謎を隠しているようにも思えてきた。
「残念なことだけど、これほど見事なモザイク壁画は、今や現実では生み出せない。記録がないから制作方法が分からなくて、思いつく限りの材料を使って、一見同じようなものはつくれるんだけど、すぐに色褪せて壊れてしまう。環境の変化のせいなのか、今は手に入らない画材なのかは分からない。でも、現実では再現が難しいものでも、VRなら再現できる」
 イーハの言葉に、ライザは頷いてから言う。
「このモザイク壁画は、VRに残しておけば、技術が発達した未来に、もしかするとにおいや触感ごと再現しうる希望になる。それを聞くと、ロストミュージアムをつくった意義を実感できる気がする」
 イーハはライザの手を握った。温かい掌だった。
「嬉しいよ。実は、君にお願いしたいことがあるんだ」
 ここに来たのは社会奉仕の一環だった。ライザは思い出しながら頷く。
「何をすればいいの?」
「ロストミュージアムにある美術品作成を手伝ってほしい」
「データをつくるってこと?」
「君にお願いしたいのは、データをつくる前の段階の調査だね。新しくここに入れたいものはリストアップしているけれど、状況は常に変わるし、消える作品は増える。そのリストの更新だ。各美術館の情報や盗難情報を探すんだけど、いずれは他の方法も探してほしい」
 ライザは首を縦に振ってから尋ねた。
「美術館が情報をくれたりするの?」
「信頼関係を結ぶのは難しかったけれど、以前このミュージアムを見学した人が、現実で盗難品を発見したことがあって、今は協力してくれている」
 それなら話は分かる。
「心配ないかもしれないけど、ここのデータは盗難に遭ったりするの?」
「データは規格に沿って変換している。固有のIDを付けて管理されるから、一応の唯一性と整合性が確保されるんだ。その時、ブロックチェーン上で現行の所有証明書も発行されるから、作業履歴にもなるしね。もっとも、ここにあるものは販売目的ではないけれど」
 ライザは頷いた。内容は分かった。学校でもコンピュータ系の授業は得意だったから抵抗はないし、イーハの口ぶりからすれば手順は確立しているのだろう。
「分かった。美術品のデータを作る準備を整えればいいってことか」
「そうなんだ。それに慣れてきたら、できれば君にはグラフィティに携わってほしい。このプロジェクトには複数のスタッフが関わっていて、彼らは世界各地に散らばっている。でも、グラフィティは日々状況が変わるし、勘所が分かる人がいないんだ」
 ライザはぴくりと頬を動かし、強い調子で告げた。
「グラフィティには、関わりたくない」
「……この社会奉仕を行うきっかけにもなったから?」
 躊躇いながら告げるイーハ。ライザは胸が痛くなった。イーハは気を遣ってくれている。そのやさしさが、温かさが、今はかえって辛い。
「酷なことを頼んでいるかもしれない。でも考えてほしいんだ、グラフィティは壁画に連なるアートだ。古くて新しくて、素朴と洗練が共存し、懐かしくも斬新だ。その矛盾した魅力は、人を魅了し続けるだろう。君が一番分かってるはずだよね」
 よく分かっている。だから描けない今が苦しいのだ。俯いていると、イーハは静かに告げる。
「グラフィティはもともと違法だったけれど、今は合法のゾーンもあるし、名前を残すライターも増えている。でも君は匿名で行ってきた。自分の作品を残したいという気持ちはなかったのかい?」
「……多分、グラフィティの良さは作者が見えないのが良いところ。でも矛盾するようだけど、アイデンティティが曖昧になってしまうのは苦しかった」
「そう、現実では作者が分からない場合、上書きされると残らない、だからこそVRに残す意義があるとは思わないか? ここに残っていれば誰かが見る。モザイク壁画を見た君のように」
 イーハの視線の先には、さきほどまで見ていた壁画がある。
「実は、数年前に君のグラフィティを見たことがある。強烈な衝撃を受けた。凡庸な街並みや荒れた空き地が、グラフィティが加わることで景色が変わっていく、その鮮やかさに痺れた。あの時僕は、グラフィティが生きているものなんだと実感したんだ。それ以来、カメラや映像がとらえた君の作品を追ってきた。」
 イーハの言葉に熱がこもる。
「初期の君は植物の画題を多く手掛け、最近は神話をモチーフにした絵が増えたのも知っている。だから今回の社会奉仕の話は、自分で名乗り出たんだ」
 ライザの顔を覗きながら告げるイーハ。
 澄んだ黒い瞳に、そのまっすぐな告白に、ライザは強く揺さぶられた。
 自分自身を褒められることよりも、作品を認められることの方が、ずっと嬉しい。
 イーハの言葉が温かく浸透していく。それは心の芯の部分に触れる。ああ、匿名で描いた絵を、ずっと追い続け、肯定してくれた人がいた――
「……自分でグラフィティを描かないで、誰かの描いたグラフィティのデータをつくるだけなら、少しずつやれるかもしれない」
 ライザは意を決して、小さな声で告げた。
 イーハは目を輝かせ、ライザの両手を握り締めた。
 その空間にあるモザイク壁画の壮大なスケールが、懐かしい匂いが、残すための意義を示しているようだった。

イーハはライザを伴ってミュージアムから出ると、爽やかな風の中、少し散策した。
 周囲にはさまざまな建物があった。ギリシャ風の円柱に囲まれた邸宅風の建物もあれば、ブロックが無数に積み上げられたようなモダンな形の建築もある。色も形も実に多様な建築物は、一定間隔で建ち、様式や時代に沿って集められているためか、集結していても違和感はない。
「ここは街か、何かの施設の集まり?」
 尋ねるライザに、イーハは歩みを進めながら説明する。
「現実ではなくなってしまった美術館を再建しているんだ」
「あのお屋敷みたいな建物も?」
 ライザの視線の先には、アーチ型のエントランスや、不規則な大きさの窓が美しいアールヌーボー調の屋敷があった。
 イーハは躊躇った後、ライザの様子を伺いながら告げた。
「あれはウクライナの港町、マリウポリにあったクインジ美術館だ。戦争で破壊されて今はない」
 その瞬間、ライザの全身に戦慄が走った。
 目の前が幕を閉じたように真っ暗になる。体を震わせてしゃがみ込む。
 手を差し伸べるイーハに、ライザは小さく手を振って制し、声を絞り出した。
「大丈夫、少し眩暈がしただけ」
 嘘だった。単なる眩暈などというものではなかった。
 もっと名状しがたい、闇に呑まれるような感覚。
「……ごめん、君のことは少し調べさせてもらった。故郷はウクライナで、君が生まれる前の年にロシアから侵攻された。三歳で難民としてアメリカに来て、五歳の時に休戦状態になった。十九歳の今、アメリカの受け入れプログラムは全て済ませているし、グリーンカードも持っている。今はこの国の住民だ」
 ライザは俯く。沈黙の後に、消え入りそうな声で呟く。
「この国に来る前のことは覚えていない。でも急に故郷の話が出ると、今みたいになることがある」
 ベロニカと話している時や、自分で話している時は、予想がつくせいか平静でいられる。他者の口から出た時に、強く反応してしまうのだ。昔はもっと顕著で、故郷に関連するニュースの映像なども苦手だった。今はだいぶ免疫ができたが、それでも予期せぬところで動揺してしまう。
「なんで反応してしまうのか、自分でも分からない」
 気持ちを落ち着かせようと。全身の感覚を鎮めようとイメージする。
 動悸がおさまるように。息を潜める。
「つらい思いをさせてしまって、すまない。あそこには近づかないようにしよう」
 イーハの言葉を聞きながら、ライザは彼の手をつかんで立ち上がろうとした。
 その時、ふと思った。
 自分が無意識に反応してしまう事実から、何か過去のことが分かるかもしれない。
 今までは、叔母がいつか教えてくれるだろうと思っていた。
 でも叔母はいなくなってしまった。その望みは絶たれてしまった。
 これからは、過去の手掛かりを、自分で探していかなければならない――
 ライザは意を決し、イーハに告げた。
「いいえ、もう大丈夫だから。それに私、中に入ってみたい」

平気だ、と言い張るライザにイーハは躊躇している様子だったが、結局ライザの言い分を通してくれた。
 ロストミュージアムで止めておけばよかった、と呟きながら、イーハはため息をついて告げる。
「今やめても、君は一人で入るだろうからね。少しでも調子がおかしくなった、すぐに言ってくれ」
 ライザは頷き、二人はクインジ美術館の内部に歩みを勧めた。
 富裕層が所有する別荘のような建物の内部では、油絵のにおいがぷんと漂ってきた。彫刻や工芸品なども多数展示されている。
「美術館の名前になっているアルヒープ・クインジは、ツルゲーネフに賞賛され、当時の大公に作品を所望された作家で、風景画の名手だった」
 イーハは一枚の絵を見つめる。画布に描かれているのは、闇の中で雲間に浮かぶ月と、その光を受ける水だ。水は黒いがぬめりがあり、光りが反射する水面は、宝石の表面が光を弾いているかのようだ。
「クインジの創作は、魔術とも、錬金術とも呼ばれた。でも彼の絵も含め、この建物全体と美術品は破壊された。現実の中では、もうどこにも見つからない」
 絵を見つめながら語るイーハ。言葉尻に悔しさが滲み出ている。
「これがもう、見られないなんて……」
 漆黒の水面を見ていると、意識が吸い込まれる。緑がかった金色の月の、超常の光に魅了される。その情景は、絵具で描いたとは思えないリアルさと、深い詩情を湛えていた。
「ここで見られて良かった。そうでなければ、クインジを知る機会もなかった」
 時を忘れて見入った後、ライザはぽつりと呟く。
 一度見ると、決して忘れることのできない情景。
 絵のもたらす余韻に浸りながら、消えてしまったことへの無念を実感する。
「そう、だから残したいと思った」
 深く頷いて語るイーハ。語調が強くなる。
「それにしても、なくなってしまった状態から、よくデータをつくれたね」
「あらゆるアーカイブを参照したよ。ネットに点在していた画像も利用した。現実では、かたちのあるものが消えると、そのまま存在しなかったことになりかねない。でも、そんなことがあっていいわけないと思ったんだ」
 ライザは一瞬、いなくなってしまったベロニカのことを思い返した。
 私はずっと彼女のことを覚えている。
 でも、私がいなくなったら、ベロニカがいたという事実は忘れられ、存在したことも曖昧になってしまうのだろうか――
 もの思いにふけるライザをよそに、イーハは続ける。
「人を、集団を、何の痕跡も残さず消してしまうのは大罪だという認識は、この数世紀で確立した。僕は、その先を考えた」
「……どういう意味?」
 言葉の意図が分からずにライザが尋ねると、イーハは強い調子で告げた。
「消し去ってはならないという思いは、人の精神性が投影された美術品にも適用したい。中国の古代神話が示唆するように、人とつくることは一体なんだ」
 消し去ってほしくないというのは、消されてしまうグラフィティをやっている者が共感しやすい事柄ではある。
 しかし人は、自分に関係ある事象以外のことには無関心なものだ。美術品の価値を、人の価値と同じように考えることができるだろうか?
 考え込んでいたライザは、イーハと共にクインジ美術館から出た。
 イーハは、通り過ぎていく建物を一つひとつ説明してくれた。
 それらは運営者が倒産して継続できなくなったり、火災で燃えてしまったり、内戦で破壊されて消えてしまった建築物だった。

3.
 ライザはイーハの家に通った。
 社会奉仕活動の期間が終わると、イーハはかなりの給料を払ってくれるようになった。それは今までの仕事の給料を軽々と上回っていたので、ライザは元の仕事を退職してロストミュージアムの業務に従事した。
 イーハとの仕事は楽しかった。ライザはイーハの家に出向くとまず自分のコンピュータに向き合い、ロストミュージアムに収蔵したい美術品を探し続けた。古代青銅器、中世絵画、神々の像、インスタレーションなど、平面や立体から不定形のものまで、多岐に渡る作品群。当初、ライザは失われた作品の多さに呆然としたが、それをVRの世界に新たな形でとどめる作業なのだと自分を納得させた。
 膨大な作品を知る中で、自然に美術品の歴史も頭に入ってきた。個人の作者という概念が確立する遥か前、集団がかたちや意匠を共有し、引き継いでつくった土器。渦や鱗の文様に、神や魔除けの力を見出した彫刻。もともと壁画や教会にあって共有されるものだったが、ペストの流行などでプライベートなものとなっていった絵画。ライザはそれぞれの作品が持つ、奥深い背景と物語に魅了された。
 与えられた作業ばかりではなく、さまざまなソフトウェアを試すライザを見て、イーハはデータの作成もやってみないか、と言ってくれた。すると、最初は平面で苦戦していたものの、だんだんとソフトを使いこなせるようになった。残されたデータから推測で数値化し、それを座標にしてかたちにしていく勘どころは良かったようで、見た目には元の画像と遜色ないデータがつくれるようになった。
 世界中に散らばっているという他のスタッフも、リモートでライザに知識を授けてくれた。彼らは視覚、聴覚、嗅覚、触覚などそれぞれに専門を持ち、特性を語ってくれた。
 視覚は最も情報が多い。聴覚はVR世界の没入に貢献し、距離感や反響も計算しつくす必要がある。嗅覚は脳の感情と記憶を司る扁桃体と密接に関わっており、将来的に最も強力な没入感を生み出す可能性がある。そのため嗅受容器ばかりではなく、味を感じる受容体にも働きかけることで効果を出す。触覚は非常に複雑で、振幅や振動数、位相などを計算し、実世界の脳波図と同じパターンをつくり出す。作品に近寄ることで得られる感覚は、作品のまわりに空間域をつくり、鑑賞者のいる領域が空間域と交差した時や、アクションによってトリガーされるようになっている。
 ある時、スタッフの一人がライザに説明した。曰く、かたちを参照するだけならば、画像データを自分のコンピュータやデバイスにダウンロードしておけばいいのかもしれない。しかし鑑賞経験を豊かにしなければ、記憶には残らない。中国画の墨の極めて繊細な濃淡、日本画の岩絵具の目に染みる鮮やかな色味、箔の生み出す渋み、雲肌麻紙のざらつき。切り取られた情報では決して再現できない経験を、OpenHallで提供したい。
 ライザは強く納得した。同時に、スタッフたちの持つ矜持は、残すことや鑑賞体験を意識せずにグラフィティを描いていたライザを強く刺激した。

仕事に慣れた頃、イーハはライザをロストミュージアムに誘った。ミュージアムは来場者も増え、広い会場にかなりの人影が見える。館内にはライザが携わった美術品が展示されていた。実際に目にすると、喜びがこみ上げる。
 自分がつくりだした油絵やデザイン画、シルクスクリーンや彫刻などに見入っていると、イーハはライザの手を取って建物の外に案内し、ミュージアムの外壁を指さしながら告げた。
「ここにグラフィティを再現したい。二十年近く前、ウクライナで有名だったライター、キル・アブストラクトの作品を。キル・アブストラクトの名前は知ってるかな?」
 ライザは頷いた。
「伝説的なライターだから、一応名前は分かる。作品は残っていないというから、本当に名前だけだけど」
「君にとっては、僕よりも身近な存在かもしれないね。キル・アブストラクトはロシア侵攻前から活動していて、戦争になってから活動を増した。アーティストはキャスという女性だったという。人がいなくなった街を一夜にしてグラフィティで埋め尽くしたり、砲撃された建物に大作を描いて住民や兵に勇気を与えたという。その絵を残したい」
 ライザの様子を見ながら語るイーハ。
「でも、絵が残っていないんでしょう。映像に残っているってこと?」
「あの戦争でドローンが多用されたのは知ってるだろう? その中にいくつか、キル・アブストラクトの遺作、〈キーウの天使〉の映像が見つかったんだ」
 イーハは空中モニターいっぱいに映像を映し出した。瓦礫の中、かろうじて残っている白い壁面に描かれているのは翼を広げた天使だ。
 絵に見入るライザに、イーハは説明する。
「これは大天使聖ミカエル。ミカエルはウクライナの首都キーウの象徴なんだ」
 イーハは画像を拡大していく。
「この絵はキーウ国立美術館の壁に描かれ、一時、架空の英雄パイロットである『キーウの幽霊』や、マグダラのマリアがジャベリンを持つ絵『聖ジャベリン』同様に抵抗の象徴になった。ただ、この絵はすぐに破壊され、ミーム化する前に消えてしまった」
 ライザは画像を見つめる。大きな翼を広げ、正面を見据える堂々たる天使。足元に大砲らしきものが描かれており、右手に剣を、左手に盾を携える。翼と光輪は金色で、細かい縁取りがなされた鎧を身につけている。
 ライザは天使の手元をじっと見た。右の小指にはめているのは金のシグネット印台リングで、台座部分には、青盾に三叉トルィーズブのウクライナ国章がデザインされている。剣の色も金色で、きっと青い空に映えたことだろう。
「この絵を再現するのを、君にやってほしいと思っている」
 ライザは固まってしまった。
 できれば頷きたかった。イーハのやりたいことに貢献したかったし、仕事に慣れたところでもあったから、自分でOpenHallのデータをつくってみたいという思いもあった。
 しかし、グラフィティのことを考えると、手が硬直した。
 あの日のことを、叔母の死に目に会えなかったことを思い返してしまう。
 グラフィティのせいで最期にベロニカと言葉を交わせなかったという事実が、ライザの心を黒く覆いつくしていた。ライザがオリジナルのグラフィティを描くわけではないにしても、心の中の障壁として立ちふさがった。
 硬直して立ち尽くすライザに、イーハは目を伏せて告げる。
「ごめん、苦しい思いをさせた。大丈夫、これは僕がやる」
 ライザはその言葉を聞きながら、ただ俯くしかなかった。
 悔しかった。
 自分自身を責めるイーハの顔を見るのが辛かった。
 
数日後、イーハは〈キーウの天使〉のデータをつくり上げ、美術館の白い壁に表出した。ライザとイーハはOpenHallに入り、出来上がった〈キーウの天使〉を鑑賞した。
 ライザはグラフィティを見上げる。目の前の大天使ミカエルは、ウクライナ国章をデザインした金のシグネットリングをはめ、金色に輝く剣を掲げている。堂々たる雄姿だった。
 しかし、絵を見た瞬間、ライザはどういうわけか既視感と奇妙な感じを覚えた。
 なんだろう。画像で見た時は感じなかったけれど、この大きさになると違和感がある――
「どうだい?」
 イーハの言葉に、ライザは曖昧に頷いた。
「うん……右手に持っているの、剣だったっけ」
 そう呟くライザに、イーハは怪訝な顔をする。
「ミカエルが持っているのは、昔から剣なんだよ」
 そうイーハは説明したが、ライザは何となく釈然としないままだった。

翌日、ライザはイーハが浮かない顔をしていることに気づいた。OpenHall内で話しかけても、どこかうわの空である。ライザはできるだけさりげなく尋ねてみた。
「なんだか浮かない風に見えるけど、なにかあったの?」
 悩みを抱えているようなイーハの顔。
「ねえ、私は頼りにならないかもしれないけれど、悩みがあるなら共有してほしい」
 言った瞬間、ライザはそんな言葉をかけられる自分自身に驚いた。
 動揺すると共に、なぜか恥ずかしくなり、耳が熱くなる。
 今までいつも、叔母以外の人とは関わらず、踏み込まないようにしてきた。
 余計なものに煩わされたくなかったし、傷つきたくなかった。それなのに――
 イーハは一瞬意外そうに目を見張ったが、やがて顔を伏せて口を開く。
「心配かけてごめん。嬉しいよ、そんな風に言ってくれて。実は、〈キーウの天使〉に誰かが上書きしたんだ」
「……え?」
「塗りつぶされていた。あれは単なるいたずらじゃない、明確なメッセージだ」
「……VRはログを取ってるんだよね。誰がどんなアカウントでそんなことをしたのか、分かるんじゃない?」
 イーハは首を横に振る。
「それが、新規アカウントで実施して、実行後にすぐ退会しているんだ。登録値もでたらめで特定できない。目的を持った人間の仕業だと思う」
 二人は早速ロストミュージアムの外壁まで見に行った。該当箇所が壁と同じ色で白く塗りつぶされていて、天使のシルエットが幻のようにうっすら見えるだけだ。
 グラフィティは昔から、よりうまい絵を描くことができるのなら、上書きしてもよいというルールはある。ライザも自分の絵が上書きされたことはあるし、その上からまた上書きしたこともある。しかし絵そのものの価値が認められつつあるせいか、最近はあまり行われていない。それに今回は、何か別の絵を描いたことにはならない。
 イーハを見ると、ショックを引きずっている表情だ。
「グラフィティで絵を上書きすることは、ルールとしてあることだから」
 ライザは慰めるように言ったが、恐らくイーハは納得しないだろうとも思っていた。
 その日、家に帰ったライザは、明け方にいつもの夢を見た。
 閉所に籠り、箱を見つける夢。
しかもその朝見た夢は、爆音が響き、硝煙の匂いがする、不吉なものだった。
そして、箱に手がかかったのだ。
 中身を開けるには至らなかったが、進展があったことになる。
 夢はいつもよりも、ずっと鮮明だった。
 緊張で掌にじっとりと汗をかいている。自分で自分の体を抱き締める。一体この夢は何なのか。
 イーハの家に行っても、仕事に集中できない。そんなライザに対してイーハは気遣いを見せ、ベッドから優しい視線を投げかける。
《どうかした? ぼんやりしているみたいだけど》
 イーハの顔を見ると、真剣に心配しているのが伝わってきた。
 ライザは迷った。イーハに打ち明けたい。解決策を探りたい。しかしこんなことを言っても困らせるだけかもしれない。何より、突き放されるのが怖い。
 思い悩んで思わず停止したライザに、イーハはきろりと目を動かして尋ねた。
《何かあったら、なんでもいいから教えてほしい》
 そしてイーハは、少しためらいがちに告げた。
《僕は君のこと、友達だと思ってるから》
 友達。その響きは照れくさくて、でも、とても温かい。
 ライザは意を決して、打ち明けてみることにした。
 昔から繰り返し見る夢があること。今朝見た夢はリアリティを増しており、起きた時にひどく緊張していたこと。
 そこまで言うと、イーハは告げた。
《何度も見る夢は、現実に関わりがあるだろうめ》
 言葉を選びながら、イーハは語る。
《思うに、夢の中は過去の経験で、君自身は思い出さないようにしてきたんじゃないかな》
 ライザが戸惑いつつも頷いた。予感はあった。無理に思い出さないようにしていたのは、多分、思い出すのが怖かったのだ。
《君が陥っているのは、多分健忘だ。もしも思い出したいのなら、今日見た夢と同じ状況をつくりだすと、何か分かるかもしれない》
 ライザは驚いてイーハを見た。眼差しは真剣だった。
 彼はなおも続ける。
《音や布の感触や香りを再現するのは、もともとVRが得意とする部分で、リラクゼーションや認知行動療法にもよく使われる》
 イーハの明瞭な説明が続く。
《君を苦しませたくない。でも今のままだと苦しいんだろう。夢とそっくり同じ状況をつくりだすのは、VRの技術がない限り、医師に任せても難しいだろう。でも、僕ならできる。不安を感じるなら、やめた方がいい。でも、もしもやりたいのなら、僕の全力をかけて協力するよ》

ライザは迷った。
 自分の過去のことを、いつか教えてくれるだろうと思っていた叔母はいない。
 だから自分の過去は、自分で探さなくてはならない。
 夢は多分、自分が何かの理由で閉じ込めてきた過去だ。
 自分の中に、知りたくなかった理由があるのだろう。
 恐い。事実を知るのが恐ろしい――

その時、かたりと音が響いた。
 見ればイーハがベッドを動かしながら、動きづらい唇を懸命に動かそうとしていたのだ。
 音にはなっていなかったが、口の動きは分かった。
 
――僕を、自分を、信じて。

ああ、と思った。
 今ここで、イーハ以上に信頼できるものが、拠り所があるだろうか。
 過去は怖かった。でも今はそれ以上に、先へ進もう
 何があっても、この人がいれば大丈夫だ――

ライザは、深く、ふかく、頷いた。そして夢の詳細を語った。
 数日後、準備を済ませたというイーハの言葉より、ライザはイーハの家で設定済のデバイスをつけ、ソファに深く身を鎮めた。
 オープニング場面に遷移する。一見、いつものOpenHallの広い会場に思えたが、全く人影がなくて静まりかえっていた。ダークグレーの重たい劇場ドアを開くと、人気のない客席が広がっている。
 奥には広い舞台が見えた。
 がらんとしたステージ上で、何かがスポットライトに照らし出されている。
 あれはなにか。客席側から近づいていくと、クローゼットだった。
 意を決してステージに上がる。
 静まりかえった劇場で、自分の足音だけが、妙に響き渡る。
 客席には誰もいない。舞台にも誰もいない。まるでベロニカと別れた直後の、ライザ自身の人生のように。
 誰も見ていないはずなのに、緊迫した空気が肌に痛い。
 恐れを感じながら、光の中に近づいていく。

舞台上で爆発音が鳴り響く。振動が伝わってきて、足ががくがくする。
 明るい場所、窓には近づくなと言われていた。誰に? ベロニカだ。
 周りに煙が立ち込める。人の叫び声。硝煙の匂い。
 クローゼットを開けて中に入り、扉を閉めて身を潜める。
 耳を塞ぐ。自分の中に引きこもろうと試みる。
 外で飛び交う爆撃音も、警報も、悲鳴も、ここではくぐもった音にしか聞こえない。
 鼻をつく煙のにおいも、肉が燃えるいやなにおいも、香水のにおいに隔てられる。
 息遣いが外に漏れるわけはない。しかし息を潜めると危険が薄らぐような気がする。
 音はやがて断続的になり、周囲のざわめきもおさまっていく。耳から手を外し、小さく身じろぎした。
 手を延ばすと、指先に、布とは違う何かがぶつかった。
 固くて蓋がある。中盤の本くらいの大きさで、少し持ち上げるとずっしりと重い。
 ほんのわずかに扉を開ける。外の音が入ってこないように。光だけが差し込むように。
 それは箱だった。手触りから、木の上に黒い天鵞絨ビロードが貼られている。
 黒い布は、暗闇に紛れるためのカモフラージュか。胸の動悸を抑えながら、箱の蓋に手をかける。
 そっと開けると、ウクライナ国章の指輪をした手と、英数字の断片が見えた。


 ライザはソファから飛び起き、気づくとデバイスをむしり取っていた。
 胸に伝う冷たい汗が、ここは現実なのだと実感させる。
 思い出した。間違いない、あれは過去に経験したことだ。
 故郷にいた日々が、断片的に思い浮かぶ。
 物心ついた頃には、母はいなかった。数日ごとに轟音と爆撃がやってきた。公園で花咲くライラックに心躍らせていると、すぐ近くで爆音が響き渡る。そんなことが繰り返される。日常と破壊が共存する、捻じれた日常だった。
 ある日、ベロニカと共に窓から外を見ていると、目の前で隣家が破壊された。そこには、目が合うと挨拶する間柄の老女が住んでいた。煙が一瞬引くと、半分残ったテーブルの奥に血しぶきと肉片が見えた。
 何が起きたか理解できなかった。心が凍り付いたのだ。
 それ以来、ライザは外出を禁じられ、窓に近寄ることも叶わなくなった。
 気持ちを押し殺していた日々。時折叫び出したくなるような抑圧。感覚を鋭敏にすると壊れそうだったから、極力無感動でいるようにした。そのうち感覚が麻痺した。そして故郷の映像を、印象を、記憶を、心の奥底に閉じ込めるようになった――
 深く目を閉じて、思い返す。まだ混乱している。自分の意識に潜りこむ。
 あの夢の出来事は、確か、隣家が吹き飛ぶ直前にあったことだ。
 ベロニカが不在の際、砲撃が始まり、クローゼットの中に入り込んだ。
 ライザはもともとその空間が好きだった。外は危険だが、この中は安全なのだ。そう思い込むことで、自分を守っていた。
 暗闇の中で、ライザはなにか小さな箱を見つけた。それは黒い布にくるまれていた。
 何か大事なものだろうか。扉を細く開けて光を入れ、胸を躍らせながら箱を持ち上げる。かなり重い。蓋を開けて中を覗き込んでみると、コンクリートらしきものの切片が入っている。そこには絵が描かれていた。指輪をした手が、英数字の入った何かを携えている絵だ。

現実のライザの意識に、戦慄が走る。
 箱の中の石片に描かれていた手。それは、イーハの〈キーウの天使〉の手にそっくりだった。ただ一点、イーハの絵が持っていたのは剣だったが、箱の中の手が手にしていたのは違うものだった。

周りを見渡す。手元にはデバイスの残骸がある。
 ライザは立ち上がると、固唾を呑んでこちらを見ているイーハに早口で話しはじめた。
 きっかけは、イーハの描いた〈キーウの天使〉への違和感だったこと。それが夢の解明と自分の過去を蘇らせたこと。そして絵は、過去に生家で見た石片と奇妙な一致を見せたこと。
 一通り話し終えると、ライザは声が枯れ、暫く喉を休めた。今まで生きてきて、こんなに長く熱を込めて話したことはなかった。
 聞き終えたイーハは、目を見張って告げた。
《まず、君の中の一部がはっきりして良かった。ウクライナは、休戦協定から十年以上経った今も、君みたいな人が一定数いると聞いている》
「どういうこと?」
 ライザの問いに、イーハは答える。
《一時的な健忘や、長い喪失感に囚われている人がいるんだ。先の戦争は、嘘と欺瞞と分からなさで満ちている。結果だけ見れば、ウクライナ国民の全員が犠牲を払う形でかりそめの終結を迎え、人も自然も土も傷ついた》
 イーハは考えながら語る。熟考しながら言葉を選んでいるのだろう。
《国外に逃げた人も多かった。望んで出たわけじゃないし、終わったという実感が持てないんだろう。気持ちの中で、故郷は遠のいたままになってしまっている》
 今までなぜ故郷のことを思い出さなかったのか。
 今思い出せるのなら、完全に忘れていたわけではない。恐怖で覆い隠したいのであれば、多分夢で見ることもなかったはずだ。それなのに。
「自分のことなのに、分からなくて混乱している。ただ、私は、難民でよそ者で孤独だった。でも比較的安全な場所で育ったことも、どこかで自覚していた」
 いつも自分はよそ者だと思っていた。疎外感から逃れられなかった。
 一方で、自分のいる場所が安全なのだとも、何かに比べるとましなのだとも、どこかで感じていた。
「よそ者であることに、免れていることに、疎外と後ろめたさを感じていだ。だから思い出したくなかったんだと思う」
 身を寄せる拠り所がなかった。しかし身に降りかかる恐怖から免れてもいた。
 その矛盾は、正体不明の闇として、ずっと心の中に在ったのだ――
 イーハはゆっくりと頷いて告げる。
《僕が言っても、響かないかもしれない。でも、君が後ろめたさを感じる理由なんてない》
 イーハが自覚している通り、それらの言葉は、まだライザの中で実感を伴わなかった。
 しかし、イーハの類まれな善意とやさしさは、痛いくらいに伝わってきた。
《伝えていなかったけれど、ロストミュージアムをつくろうと思った理由の一つに、君の故郷のことがあった。この先、破壊も略奪もなくならないだろう。現実で作品が消失することを完全に防ぐことはできないし、製法もデータも全て消えてしまうことはあり得ると思ったんだ》
 イーハの言葉に苦悶が混じる。現実における悲観的な、しかし限りなく確度の高い予測を、ライザに言うべきか迷ったのだろう。
 ライザは暫く考えていたが、やがて顔を上げてきっぱりと宣告した。
「ねえ、私、ウクライナに行ってくる。あの箱の中の〈キーウの天使〉を探してみるよ」
《……そんなことをして傷ついたりしないかい。あと、君の生家の場所は分かるのか?》
「大丈夫だと思う。ベロニカ叔母さんの残したタブレットに、引っ越しの履歴が残っていた。ただ今回は、家に行ってみるだけにしようと思う」
 そう告げると、ライザは強く頷いてみせた。イーハの黒い瞳はためらいの色があったが、やがて、わかった、という言葉をくれた。

イーハは航空券の手配など、もろもろの手続きを行ってくれた上に、同時翻訳用のイヤホンと、装着に違和感がなく文字を認識すると翻訳してくれるコンタクトレンズを貸してくれた。
 ライザは電子パスポートなどの身の回りのものを整えて飛行機に乗り、ウクライナ最大の空港であるボルィースピリ国際空港に到着した。
 降り立つと、少し肌寒く、土のにおいがした。建物に入ると、著しく損傷を受けた二十年前と今の建物のジオラマが置いてある。自分が見ているものは、歴史の中のほんの一瞬を切り取ったものなのだと実感させられる。
 リムジンバスに乗り、いったん首都キーウに向かう。窓から見る景色は大分整っているが、むき出しになったコンクリートや、爆発したと思しき建物がそのまま残っているところもある。その傷跡は、時代も形状もさまざまだ。キーウに近づくにつれ店が見え、人影が増えていく。
 街中のターミナル駅に隣接するシティホテルに泊まる。イーハに無事到着したという一報を入れると、すっかり日が落ちたホテルの窓から外を見渡した。
 目前にペチェールスカヤ大修道院の黒いシルエットが見える。嘗てソ連に破壊され、それをナチスの蛮行として隠蔽された後、ウクライナ政府が再建したこの建物は、先の戦争で一部損壊したものの、街のシンボルとしてすぐに修復されたという。夜が訪れる一瞬前、金色の丸い屋根が、その日最後の輝きを見せる。
 その奥に流れるドニプロ川の上には、果物屋の店頭で見かけたサクランボに似た月が見える。川面には明かりの灯った小型船がゆっくりと進み、わずかな水流に揺られて光が踊る。
 ふと、イーハとOpenHallのクインジ美術館で見た、アルヒープ・クインジの絵を思い出した。あの絵のタイトルは、〈ドニプロの月夜〉だったろうか。今ここで見る川は、あんなに暗くなく、さざなみが光に照らしだされて緩やかな模様を描いている。
 街はまだ明るいが、この光はこの国に留まった人々は手に入れたものなのだろう。ライザはそう思うと、逃れた先で苦労したものの、ずっと安全ではあったことへの実感と、わずかな後ろめたさ、そして、説明のつかないうっすらとした恐怖感に襲われた。
 イーハによれば、戦争中、女性と子どもの多くは世界中に散らばったという。ライザのケースが特殊だったわけではないし、ベロニカも、母親をなくしたライザと共にできることで、最善の手段を取ったのだろう。ライザは暗い気持ちを心の隅に追いやってベッドに入った。その日は夢見ることなく眠りこんだ。
 翌日、ライザはホテルを出ると、駅前の売店で、小さなカップに入ったレンズ豆のスープと丸パンを買って列車に乗った。交通機関の手配は、全てアメリカからネットで済ませていた。
 車窓から、この国の景色が見える。
 草が生い茂り、果樹園には花が競うように咲きほこっている。吸い込まれそうな深い青の空の下、鳥たちが飛び交っている。停車駅で窓を開けると、薄墨色のキジバトがくぐもった声で何かを呼びかけている。時に辺りには霞がかかり、緑色の麦の穂を覆っている。
 遠くに見える家からは、細い煙が立ちのぼる。さっき買ったようなパンでも焼いているのだろうか。自分の家の畑で刈り取った麦からつくる食べ物は、どんな味がするのだろうか。土壌は黒々としており、植物のみずみずしい緑を引き立たせる。移り変わる景色の中、ライザは急に、この光景が、時に途絶えることがあっても、これまで何千回となく繰り返されてきた営みなのだと気づいた。
 ライザとベロニカが住んでいたのは、ウクライナ南部、ミコライウ州にあるユズノウクラインスク市の郊外である。衛星地図の画像を見たところ、住んでいた建物は残っているようだった。
 州都に到着し、更にローカル線に乗って目的の駅に到着した。プラットホームは比較的大きく、かつては一定数の人々がいたのだろうが、今はがらんとしている。駅に入っているほとんどの店は閉鎖されていたが、一軒だけ小さな花屋が開いていた。青みをおびた紫色のラベンダーの花がきれいだった。
 破壊された建物と、そのまま残っている建物、新しくつくった建物が入り混じる街。大きな建築物もあるが、空き地には残骸が累積している。更地は畑になっていて、濃密な土のにおいがする。時折、住民らしき人が通り過ぎた。
 ライザは歩みを進め、ベロニカのタブレットに残っていた住所にたどり着いた。ぼろぼろになったアパートがそのまま残っている。正面からミサイルが着弾したのか、ソファが見え、机が半分削り取られて、そこから手前が崩れ落ちている部屋もある。
 ライザたちが住んでいたのは二階の角部屋だ。そのあたりはどうにか破壊を免れた様子だった。周囲に人影がないのを確かめると、ライザは「立入禁止」と書かれた看板を無視し、内部へと進んでいった。
 アパートの中は家財などもそのままになっており、暮らしが切断されたまま時が止まっている。ライザは一瞬、挨拶を交わす人々、雨が降った時の建物のにおいなどが甦るような気がした。
 比較的安全そうな階段を選び、足元に注意を払いながら、嘗て住んでいた場所に近づいていく。足を踏みしめる度、床がぎしりと鳴る。崩れるのではないかという恐怖以上に、自分の過去が押し寄せてくるような重苦しさに囚われる。しかし、逃げてはいけないということも痛いほど分かっていた。
 住んでいた部屋に来た。扉は少しだけ開いている。力いっぱい押すと、ギイという嫌な音を立てて開いた。内部はほこりっぽくて、簡素な応接間と小さなキッチンテーブルがある台所、あとはベロニカとライザのベッドがある寝室だけだ。
 足元に気をつけながら、部屋の内部に踏み込む。
 生まれた時は、既に戦争は始まっていた。しかしここには、生活の時間があったはずだ。
 ライザは唐突に悟った。
 自分の過去がここにあると悟ってからも、ウクライナに来てからも、なお怖かったのはなぜか。
 自分の過去を知ることが怖かったのではない。知らないから怖かったのだ。
 今なら分かる。
 消えてしまったものは、最初からなかったわけではない。知っておきさえすれば、後から思い返すこともできるはずだ――

止まっていた時間が、熱を帯びて流れはじめる。

寝室の方へと歩みを進める。二つのベッドが並んでいる。布のたぐいは劣化しており、金属部分は錆びている。どちらもマットレスはぼろぼろで、スプリングはむき出しになっている。
 大きい方のベッドには引き出しがついており、そこに入っているものがライザの目にとまった。スケッチブックや筆、油画の画材などが押し込まれていたのだ。
 ベロニカは絵を描いていたのだろうか? しかしライザの記憶する限りでは、ベロニカはそんなそぶりは見せなかったし、絵の話をしたこともない。
 ライザはそういった痕跡を含め、記録として写真に収めていく。
 そして部屋の一番奥に、木製のクローゼットを見つけた。それは劣化していたものの、もとの作りが頑丈だったのか、外観が黒ずんでいるだけのようだ。
 ブロンズに細かい細工がなされた取っ手を引いたところ、そのまま取れてしまった。
 わずかな隙間に爪をたて、少しずつ押し開いていく。
 手前にあった布地が指に触れる。すべすべとした手触り。わずかな芳香と衣擦れの音。
 そんなわけはなかった。衣服は見る影もないだろうし、服地についた香水はとっくに飛んでいるはずである。しかしライザは確かに、夢の中で味わっていた、においと音と手触りとを体感したのだ。
 高鳴る心臓の動悸を抑えながら、クローゼットの内部をまさぐった。
 黒い箱がある。手に持ってみると、昔は重いと思っていたが、想像したよりもずっと軽い。
 箱の蓋を開ける。
 中を見ると、国章入りのシグネットリングをした指と、何かの英数字が描かれた石片があった。
 夢に見たのと同じものだ。

4.
 アメリカに戻り、ニューヨークに着いたライザは、慣れた都会のにおいを味わった。
 甘ったるい薬物や酸っぱいごみ、南国の香りがするスパイスや取り澄ました香水などが混然一体となり、混沌が活気に感じられるにおい。
 ここは好きではなかった。しかし自分が育てられ、さまざまな衝突がありつつも、自分が活動してきた街だ。
 ここは故郷ではなかった。しかし故郷より安全で、多種多様な問題を抱えつつも、自分を受け入れた場所だ。
 外を知ると、自分がいる場所の輪郭もはっきりする。そう実感しつつライザは、旅で発見した箱を携えてイーハの家に行った。
 ライザがウクライナで撮った画像は全てホテルから送ってあったから、イーハはその画像を元に、ミカエルの手が持つ英数字が何なのか解析していてくれた。それはアメリカ製のGPS誘導砲弾、M982エクスカリバーの製造番号を示すロゴだったのだ。
 イーハはベッドで目を輝かせて説明する。
《エクスカリバーはアーサー王の剣の名前だ。砲弾のM982エクスカリバーは先のウクライナの戦争でアメリカが提供していた。ミカエルの足元にあるのはM777榴弾砲だろう。M777もアメリカ提供のヘリで運べる大砲で、M982エクスカリバーも使えるんだ》
「大天使ミカエルの剣にかけた持ち物だったってことか。イーハが元にした画像は、加工されていたってことかな」
《その可能性が高い。そもそも画像がほとんど残っていなかったからね》
 イーハは早速、新しい〈キーウの天使〉をロストミュージアムの外壁に適用した。ミカエルは剣ではなく、カーキと黄色のM982エクスカリバーを掲げている。堂々たる大天使に、ひときわ迫力が増した。
「どうだろう?」
 イーハの言葉に、ライザは黙って首を縦に振った。イーハはほっと息を吐き、安堵の表情を浮かべる。
 ところが数日後、再び絵は上書きされたのだ。今後は黒く塗りつぶされている。イーハは真っ黒になった絵を見て絶句した。ひどく気落ちしている彼の様子を見て、ライザは胸が痛んだ。そして、犯人のことを許せないと思った。
「この絵をまた直そう。そうしたら犯人がまた来る。そこで犯人を捕まえよう。こういう人は、何度でも同じことをすると思う」
 ライザが提案すると、イーハは気が進まない様子ではあったが、元の絵から新しいデータをつくり、黒くなった絵を消去して適用した。そして二人は、ロストミュージアムの外壁を常時監視し、同一人物が一定時間以上近くにいれば、警告が来るようにした。相手と遭遇できる機会を逃したくなかった。どんなわずかなことであれ、相手の手掛かりがほしかった。とにかく、なぜグラフィティを汚損するのかを知りたかった。
 数日後、ロストミュージアムにいたライザは、〈キーウの天使〉を長い時間じっと眺める人物を発見した。小柄な少年で、手に大きなバッグを持っている。イーハに連絡し、ライザたちは外壁を見ることができる位置で、その少年の動向を観察した。
 すると少年は、天使を睨みつけると、バッグから画材を取り出し、なめらかなストロークで描き始めた。今度はまた白塗りするつもりのようで、絵は見る間に蒼白になっていく。少年が一心不乱に書き始めた頃、イーハは相手の前に進み出た。
「聞きたいことがあるんですが」
 少年はとっさに逃げようとした。イーハはなおも言いつのる。
「僕はこの建物の所有者で管理人です。この〈キーウの天使〉は何度も汚された。あなたの目的を聞きたい。理由によっては絵を取り下げてもいいと思っています」
「そう、私達は何度でも〈キーウの天使〉を描く。何度抵抗しても同じこと。だったら今、理由を話した方がお互いに有益じゃない?」
 ライザがそう言うと、相手はスプレーを持っていた手を振り下ろした。柔らかそうな金色の短い髪にあどけない顔、華奢な体。恐らく無垢で攻撃性のない外観を選んでいるのだろう。
「では理由を言おう。私が上書きし続けるのは、この〈キーウの天使〉は本物ではないからだ」
 澄んだ声に似合わない、どことなく老成した話し方。OpenHallでは声や話し方も想定年齢を設定できるが、この人物はもう取り繕う気はないのだろう。
「この絵の実物を見たことがあるんですか?」
 イーハは尋ねると、相手は首を縦に振る。
「ああ、良く知っている。これを描いたライターのこともね」
 少年のような相手は語り始める。
 曰く、キル・アブストラクトは、キャスという女性一人だと思われているが、それはメディアに取り上げられた時の誤りで、実際はキャスとアルの二人組である。
 キャスとアルは大学時代からの知り合いで、開戦前から一緒に絵を描いていたが、アルが徴兵されると、キャスがアルと落ち合う形でさまざまな街でグラフィティを描いた。二人の絵は戦意を盛り上げ、周囲の兵もアルの活動を多めに見ていたという。むしろ敵兵やドローンがアルを検知しないよう、攪乱したり見張りを立てたりして協力したそうだ。
 戦争は続いた。生活の間に戦いがあり、誰しもが疲弊していった。死と隣合わせの生活の中で、人々は鈍感さや強さではなく、むしろ繊細さを際立たせた。
 ある時、大規模な破壊があり、キーウ国立美術館の作品が大幅に盗まれた。行方不明になったものの中には、古代民族の技術の結晶である黄金の副葬品や、ウクライナの神話の世界を色鮮やかに描いた民俗画家の作品、祈りのこもったウクライナ刺繍のタペストリーなども含まれていた。
 歴史上で度々起こった悲劇により、引き継ぐべき記憶が失われているという喪失感を共有する人々は、自分たちのルーツを示す美術品を奪われて怒りに燃えた。その中には勿論、キャスとアルも含まれていた。二人は略奪され、からっぽになった美術館の外壁にグラフィティを描くことにした。画題は、兵士を護り公正さを測る天使で、キーウのシンボルである聖ミカエル。美術館は砲撃を受けてところどころ破損しており、かろうじて建物の体を成している状態だった。キャスとアルは、コンクリート造りの広い壁面に、二人の〈キーウの天使〉を描いた。一人目には剣を、二人目にはミサイルを持たせた。
 そこまで語ると、少年の言葉は途切れた。
「〈キーウの天使〉は、二人の天使なのか。じゃあ、僕が参照したアーカイブ画像は、剣を持つミカエルの方しか残っていなかったってことか」
 イーハが呟くと、少年は頷いた。
「グラフィティは作者が認識されないことはあるし、それは構わないと思っている。でも絵が誤って認識されるのが耐えられない」
 その瞬間、ライザは、少年がグラフィティライターなのだと直感した。自分が描く側でなければ、こうした発想は出てこない。
 少年は遠い目をして告げる。
「そう。剣を持っている方はキャスの絵だったけれど、キャス自身は、アルが描いたミサイルのミカエルを気に入っていた」
 相手がグラフィティライターであるとして、なぜこんなことを知っているのか。
 ライザの中で、曖昧な推測が、確信に変わる。
「あなたは、キル・アブストラクトのアルなのでは?」
 問うと、少年はびくっと体を震わせた。顔をそむける相手に、ライザは静かに言った。
「私もあなたと同じウクライナの出身で、難民としてアメリカに渡ってきた。祖国からから逃げたんじゃないかという後ろめたさもあったし、何かを言う資格もないかもしれないと思っていた。でも今は思う、何かを言いたいからグラフィティをやっていたんだって」
 そう、今なら分かる。
 何かを言う資格はないと押し込めていても、抑えきれずにグラフィティ描くことという形で出ていたのだ。
「あなたがアルなら教えてほしい。なぜ〈キーウの天使〉を亡きものにしようとするの? 私達が描いたものが違うっていうのは分かった。だったら自分で描けばいいでしょう」
 そう言い募るライザに、少年は絞り出すような声で告げる。
「描かなくなったんじゃない。描けないんだ。キャスがいなくなったから」
 俯いて顔を上げない彼。ライザとイーハも、一瞬、声を出せなくなった。
「……キャスがいなくなったって、どういうことかな?」
 イーハの言葉に、少年はやっと答えた。
「そう、私はアルだ。アルトゥーラ・ヤヴァチェフ。キャスが私に愛称をくれた。カテリーナという名を持つ彼女を、キャスと呼んだのは私だ。短い学生時代、苦しい軍時代、彼女はいつだって一番の戦友だった」
 アルの言葉に力がこもる。
 キャスと一緒にキル・アブストラクトとして過ごした日々を思い返しているのだろう。
「あの日、キャスは美術館のバルコニーにいた。私はその時、自国の兵が銃を構えるのを見た。スパイだ、私は直感して相手を撃とうとした。ただその兵は、〈キーウの天使〉の前に立っていたんだ」
 少年の顔に苦渋を滲ませるアル。
 ライザの脳裏に、鮮やかな映像が思い浮かぶ。
 ぼろぼろにあった美術館のバルコニーに立つキャス。
 下の壁には、二人で懸命に描いた絵がある。キャスが誇りに思った絵だ。
 その前に敵がいて、キャスを狙っている。
「私が持っていたのはアサルトライフルだ。撃てば確実に絵を破壊する。別の角度から撃つべきか。結局、その一瞬のためらいが命運を分けた」
 少年は顔を歪める。噛んでいる唇は蒼白である。
 ライザは、そのあどけない顔に不釣り合いな、とてつもなく重く深い苦渋を見て取った。
「スパイは引き金を引いた。同時に私も撃った。敵は即死だったよ。でもキャスも深手を負い、その傷がもとで亡くなった。絵は破壊され、キャスは戻らない」
 絵を破壊したくない。
 大切な人を守りたい。
 どちらも大切で、だからこそ、どちらも失ってしまったのだ。
 ライザは声をかけられなかった。
 大切なものを失う経験は、痛いほど分かる。
 でも、だからこそ、言葉を選べない――
「……この言葉が適切か分からない。でも、あなたは悪くない」
 イーハは躊躇いながら告げる。
 目の前の少年、いや、アルは、ゆっくりと首を横に振った。
「私はそれ以来、グラフィティを描けなくなった。目標を失い、ただ敵を倒した。勲章ももらった。功を挙げて当然だろう、自分の命など惜しくなかったんだから」
 アルは半ば汚された〈キーウの天使〉を見つめた。
「休戦後、無事な部分と破壊された場所が入り混じる、混沌とした故郷の街を見て思った。ここを復興させよう、私の使命はそこにある。懸命に働いたよ。会社を興し、人を雇った。多分私は役割を果たしたと思う。でもそれだけだ、ずっとからっぽのままでいる」
 ライザには言葉が見つからない。
 空白の時間が過ぎ、アルはその場を去ろうとした。
 その背に向かって叫ぶ。
「〈キーウの天使〉を、あるべき形で見せたいなら、自分で描くべきだよ」
「もう美術館の壁はない。建物自体なくなってしまった」
 振り返って淡々と告げるアルに、イーハは言う。
「ここで描けばいい。このOpenHallでなら、現実と同じように絵を描ける。ここには破壊されたクインジ美術館もあるのだから」
「現実で描くのとVRで描くのは、わけが違う。ここで描く意義を見出せない」
「私も以前は似た考えだったけれど、今は違う。ロストミュージアムで残す意味は確かにある。それにあなただって、本当にロストミュージアムが無意味だと思っているのなら、ここにある絵を汚す必要はなかった。言ってることが矛盾してる」
 口調が激しくなってくる。
 深く傷ついている人間に、かけるべき言葉ではないかもしれない。
 しかしライザの言葉は止まらない。
「あなたは結局、こだわりから逃れられないんだ。〈キーウの天使〉への思い入れを消すことなんてできないんだ。あなたが囚われていることを、キャスは望んでいないのに」
 目に涙が浮かぶ。そんなライザに、アルも一瞬苦し気な表情を浮かべるが、やがて静かに告げる。
「私はキャスの妹から、絵がなければキャスは死ななかったと言われた。キャスの死は私のせいだ。私には、グラフィティを描く資格はない。あの記憶に触れたくない。一番大切なものを、自分で破壊したんだから」
 そう告げると、背を向けて去っていった。今度は何を言っても振り返ることはなかった。

「〈キーウの天使〉を展示するのは、難しいかもしれない」
 イーハは沈んだ語調で告げた。
「天使ミカエルが二人いたって分かったのなら、描くことはできるでしょう」
 ライザは言い募ったが、イーハは浮かない顔をしている。
「作者がああ言っているんだ。僕に展示する資格はあるんだろうか」
「あなたは、VRの世界に恩返ししたいって言ってたじゃない。私はむしろ、展示する義務があると思う」
 イーハはそれを聞いて、ありがとう、と礼を述べたが、まだ気持ちは切り替わらないようだった。
 このまま終わらせるのは嫌だ。そう思いながらライザが自宅に戻ると、イーハから長文のメールが入った。それは〈キーウの天使〉の件ではなく、ライザがウクライナの生家に行った際に依頼した調査結果が出た、という知らせだった。
 ライザたちが住んでいた家の、ベッドやテーブル、クローゼットなどの家財は欧米の量販店のものとのことだった。何か手掛かりが欲しかったのだが、ありふれたものであれば、そこから何かを知ることは難しい。
 リストを追っていたライザは目を見張った。ベッドの下に大量に残っていた画材には、スプレー缶のラベルが大量に含まれていたのだ。
 家財の染色などに使っていたのだろうか。そう思いながら色味のリストを確認すると、黒や白、茶色などに交じり、家財に使うとは思えない色が入っていた。鮮やかな青、高貴な金色、渋いカーキやくすんだ黄色。ライザの目には、それらの色は、グラフィティ用のものにしか思えなかった。
 色のリストを眺めていると、急に胸騒ぎがした。
 心の中の映像が、走馬灯のように駆けめぐる。
 意思とは離れた感覚の中、ライザの頭に一つの推測が思い浮かんだ。それは突飛としか思えない発想だ。全くの直感でしかなかったが、その時のライザには、どういうわけか的外れでもないようにも思えた。
 イーハにある分析を追加依頼すると、スケッチブックを取り出した。
 グラフィティをやらなくなってから、ライザは自分の絵を描いていない。平面の絵画の作業をするにしても、美術品のためのデータ作成だったから、物理的にある画材は久しく使っていない。久しぶりに線をひいてみると、やはりぎこちなかった。それでもライザは一心不乱に手を動かした。
 翌日、イーハから調査結果の連絡が来ると、ライザは心臓の動悸を抑えられなかった。何度も深呼吸して結果を確認し、推測が間違いなかったことを噛みしめる。高揚しきったその気持ちのまま、イーハの家に行った。二人でOpenHallに入ると、ライザは尋ねた。
「この世界で、現実の画材を使うことができる?」
「OpenHall上で、現実にある画材を使って絵を描くことができるかってことだよね? 立体をつくるのは加工の必要があるけど、平面に絵を描くのは問題ない」
 説明するイーハに、ライザは告げた。
「私、〈キーウの天使〉を描こうと思う」
「……なんだって?」
 イーハが急に歩みを止めた。
 いつも穏やかな表情の彼が、目を見開いている。
 そんなイーハに、ライザは努めて静かに言う。
「私、グラフィティを描くよ。〈キーウの天使〉は、この世界にいてほしい」
 イーハは、OpenHallの滑らかな地面を見つめた後、ライザの目を見て尋ねてきた。
「申し出はすごく嬉しい。君が過去と折り合いをつけたってことだから。でも、なぜあの絵に執着するんだ? グラフィティを描くにしても、画題はいくらでもあるだろう」
 イーハの顔を見た。寄せた眉根、真摯な瞳。心から心配している顔。
 ライザはその時、強く実感した。
 ああ、この人は本当に、どこまでもいい人だ。
「心配してくれてありがとう。実は、もらった調査結果から、自分の中で結論が出た」
「あの、〈キーウの天使〉の色を調査してほしいってやつかい?
「その調査で、ウクライナの私の家にあった画材と、〈キーウの天使〉の画材の色が一致することが分かった」
「ちょっと待って。それは……」
 再び目を見開くイーハ。
 今日は彼を驚かせてばかりだ。
 当然だろう、ライザ自身、予想はしていたものの、結果を知った時は驚愕したのだから。
「そう、グラフィティで命を落とした私の母は、キル・アブストラクトのキャスだった。つまり私はキャスの娘。だから私はあの絵を描く」
 言葉を噛みしめる。これは私の意志であり、この世界への希望だ。
「だから、〈キーウの天使〉の色を出せる画材を、このOpenHallで提供してほしい」
 イーハは目を丸くしたままだったが、やがて大きく頷いた。
 数時間後、彼はロストミュージアムの前で大きな荷物をライザに手渡した。中にはスプレー缶など、必要な画材が全て入っている。
「本当に、ありがとう」
 ライザは力を込めて礼を述べ、中身をじっくりと確認すると、ミュージアムの壁に向かった。
 イーハが準備してくれたおかげで、今、壁はまっさらだ。
 立ちはだかる白い壁の前、息を大きく吸い込んだライザはぎゅっと目を閉じ、心の中で叔母を、ベロニカの顔を思い浮かべ、強く祈った。
 ああ、叔母さん、お願い、最後まで描かせて。
 最期に会えなかったけれど、これを描きあげて、ずっと心の中で会えるように。
 私の記憶から消えることがなかった絵とともに、ずっと心に抱いているように――

最初のストロークで、翼を描く。
 青い空に映える、金色の羽。どこまでも飛んでいける、強靭な翼。
 さあ、二人のキーウの天使を、かつてウクライナの人々の心を支えたグラフィティを、ここにもたらすのだ。
 ライザは実感する。
 ベロニカが口にした、あなたのお母さんは、グラフィティのせいで命を落とした、という言葉。ベロニカが、ライザが大人になったら話してくれると言ったライザの母とは。キャスだったのだ。
 夢に悩まされ、夢に対峙し、故郷へ赴き、やっと答えに行き着いた。
 あの伝説的グラフィティ・アーティスト、キル・アブストラクトのキャス。ライザ自身がこれほどグラフィティに惹かれる理由は分からない。でもグラフィティは、ずっと身近であり続けたのだ。
 心の中で思い返す。
 ウクライナで生まれ、戦乱から逃れ、アメリカに渡った自分。
 祖国の歴史も言葉も知らなかった。知ることが怖かった。そんな自分は、祖国のことで、何かを発信する資格はないのだろうか?
 そんなはずはない。
 語りたければ、描きたければ、それを望むならば。
 アルが守ろうとしたのは、キャスと、彼女と共にあるはずだったグラフィティ。
 私はそれを、ロストミュージアムに、OpenHallというVRに残す資格があるはずだ――

壁面に向かうブラシやローラーは、ライザの手足の延長だ。
 いつもならとっくに強張っているはずの肩や首は、まったく疲れていない。
 描くのは久しぶりだが、体の隅々が描き方を覚えている。
 自分の奥底から無限に湧いてくる力を実感しながら、このミュージアムに初めて来たときの、イーハの言葉を反芻する。

現実では、かたちのあるものが消えると、そのまま存在しなかったことになりかねない。でも、そんなことがあっていいわけない。
 消し去ってはならないという思いは、人の精神性が投影された美術品にも適用したい。

あの時は、確証が持てなかった。
 美術品の価値を、人の価値と同じように考えることができるだろうか?
 今なら分かる。知っている。
 つくりたいという思いは、人の原初的な欲求で、作品は人の歴史と共にある。
 例え個人の名を残さなくても、土くれでつくられた器に、集団の持つ芸術性を宿らせる。刻まれた一本の線、抽象的なかたちにしか見えないものに意味を見出す。壁や広場に描かれた絵で、見えざるものへの祈りを共有する。いずれも人ならではの行為だ。
 つくったものを消してもいい、与えた価値が消え去ってもいいと打ち捨てるのは、人の衝動を、人の輪郭を形づくるものを打ち捨てることだ。それは人そのものを、何の痕跡も残さず消し去ることにつながってしまう。
 そして思う。目の前の壁に誓う。
 つくることから離れられないならば、私は最期の瞬間までつくり続ける――

白い壁に、母が使い、イーハが確証し、つくってくれた色を吹きかける。
 ライザはその時、強烈に実感した。
 ああ、今の自分は、この情念は、イーハが、ロストミュージアムが与えてくれたものだ――

時に戦いを挑むように、時にダンスを踊るように、ライザは変貌自在に描き進める。
 無駄のないフォーム。当然だ、動きの一つひとつに意味があるのだから。
 画材のつんとする刺激臭、壁の小さなざらつき、スプレーの反動、自分の体の熱。
 研ぎ澄まされた感覚を、フルに稼働させる。
 恐れていたグラフィティは、曖昧だった自分の輪郭を明確にしてくれる。
 そしていつしか、ライザの眼前に、クローゼットの中にいる自分自身が見えた。
 意識の核が、闇の奥にいる幼い自分に憑依する。

暗闇の中で、じっと身を潜める。
 そこは狭いけれども、巣のように温かくて安全だ。
 目の前にあることだけ知っていれば、他のことは考えなくてよかった。
 外は危険、中は安全だと思っていた。自分が出ていくのが、自分を出すのが怖かった。
 でも、今は違う。空想の中の扉を、大きく開け放つ。


 扉の外にはイーハがいた。
 瞳を見つめる。暗闇の色ではない、この世のあらゆる色を含んだ、温かさに溢れた瞳。
 イーハはライザの手を取り、クローゼットの外に、暗闇から外の世界に引き出してくれた。
 このグラフィティの観客はイーハだけだ。しかし彼は、ライザにとってこの世で一番心強い味方だ。

闇は完全に消え去った。
 ライザとイーハ、二人の目の前の壁には、二人の天使がいた。
 金色に輝く大きな翼を広げ、重厚な鎧を身に纏う。
 頭の周りは光輪がとりまき、力強い顔は威厳に満ちている。
 死者を誘い、魂を計量し、境界を守護するその瞳は、遥か遠い空を見はるかす。
 ジャンヌ・ダルクに祖国を護る使命を与えた口は、今は固く結ばれている。
 そして、それぞれの手には、鋭く尖った剣と、強靭なミサイルを空高く掲げていた。

5.
 ライザは機上の狭い座席で、ゆっくりとタブレットを開いた。
 イーハと共に調査した結果、あの少年、アルトゥーラ・ヤヴァチェフは、大学を出た後にエンジニアになり、従軍中は地域防衛隊に入り、ドローン技術を活かした部隊にいたことが分かった。その時期に累積させたドローンの知識を生かし、戦争が終結してからは友人とドローンを開発・販売する会社を立ち上げたようである。
 アルは今、首都キーウ近郊の都市で働いている。会社は利益のかなりの割合を地元の復興に寄付、また所属メンバーも積極的にボランティアに関わっているということで、地元での評判も良いようだ。アル自身もメディアのインタビューなどに答えていた。
 ライザは昨年のアルの取材記事に見入った。
 写真は数人を撮影したもので、アルの像はかなり小さいが、それでも痩せぎすだがしっかりとした筋肉がつき、どことなく厳しい表情をしているのが伝わってくる。つい先日まで軍人だったと言われても納得できる体つきだ。だから従軍しながらグラフィティをやることも可能だったのだろう。
 ライザはアルに、ウェブメディアの取材と偽ってアポを取っていた。もっともらしいメールの依頼文はイーハが考えてくれた。
 アルはOpenHallで痕跡を残していなかったし、ライザが描いた〈キーウの天使〉が、OpenHall内ばかりではなく、世間的に一定の評判を得ても、上書きしてくることはなかった。そうである以上、アルとOpenHallで遭遇できる可能性はほぼないと判断し、実際に足を運ぶことにしたのだ。
 アルに実際に会うのは、正直怖かった。そもそも人と会うことも好きではなかった。しかし対峙しなければ、互いに前に進めないことも分かっている。
 ライザはタブレットを閉じた。
 出発前にイーハと交わした言葉が甦る。イーハは、ライザがキャスの娘であることを伝えるべきだと言ったのだ。
 ライザには、他にも伝えたいことがあった。
 そっと目を閉じる。心を鎮めようと試みる。

ウクライナに到着したライザは、目的地へと赴いた。
 アルの会社が入っているビルを見上げると、ゆっくりと深呼吸した。
 ずっと考えていた。
 果たして受け入れてくれるだろうか。どう反応されるだろうか。叱咤や激高、無視もありうるかもしれない。
 しかし、あらゆる反応をシミュレーションしたところで、いったん考えるのをやめた。
 相手がどんな態度を取ったところで、伝えたいことは伝えると決意したのだ。
 受付で記者を名乗ると、会議室に通された。簡素な机と椅子しかない空間で、ライザは鞄から包みを取り出し、中身の輪郭を確かめながら落ち着かない気持ちで座った。掌にじんわりと汗をかいている。
 扉が開いた。引き締まった身体、隙のない身のこなし。スーツではなくジャケットにチノパンというラフな格好だが、若干の威圧感が伝わってくる。
 ライザは顔を上げると、相手の顔をまっすぐに見た。
 この国の列車で見た、深青の空と同じ色の瞳。底知れぬ悲哀を湛えた色。
 彼はライザの顔を見ると、表情をぐしゃりと崩す。
 低い声で、呻くように呟く。
 何を言っているのか、デバイスでも拾えない。
 しかしライザは、試みの第一歩が成功したことを知った。
 賭けだった。
 ベロニカと母は二卵性の双子だ。ライザはベロニカと似ていると言われていた。そうであれば、ライザはキャスに似ているだろう。
 アルは立ち上がって去ろうとする。そのかっしりした手を、ライザは夢中でつかむ。
「待って。嘘をついてごめんなさい。私はライザ・ソロチンスキー、先日OpenHallで話した……」
 アルは目を反らしたままだ。ライザはなおも続ける。
「あなたに見てもらいたいものがある」
 そう告げると、先ほどから触れていた包みを持ち上げて彼の手に押し付ける。
 無反応の相手をよそに、ライザは包みを開けた。
 小さな石片。シグネットリングをはめた指が、ミサイルをつかんでいる。〈キーウの天使〉の欠片だ。
「ねえ、これは母と、キャスと二人で描いたんでしょう? あなたの絵はかつて、戦場で人々を勇気づけたんでしょう?」」
「……これをどこで?」
 石片に目を釘付けにしたまま呟くアル。硬直している。
 ライザは懸命に伝えようとする。
「私の家。私の叔母さん、つまりキャスの妹が、箱の中に保管していた」
「……ベロニカだな」
 ライザは思い返す。
 そうだ、アルはベロニカに、絵がなければキャスは死ななかった、と言われたのだ。
 その言葉は、棘のように胸に突き刺さったろう。どんなにか辛かったろう。
 不幸な事実は、時に当事者が望まぬ人を傷つける。
「それを最初に拾ったのが、母なのか、ベロニカなのかは分からない。でも少なくとも、あなたの絵を認めていなければ、大切に取っておいたりしない」
 アルは絵に見入ったままだ。彫像のように。
 ライザは願いながら、半ば祈りながら伝えようとする。
 聞いてほしい。届いてほしい。固く凍り付いてしまった心に。
「消えてしまったものは、かたちも残っていない作品は、そのままだと消えてしまう。最初から、なかったことにされてしまう」
 そう、消えてしまっていいはずがない。
 なかったことにしていいわけはない。
 何のために描いたのか。
 その気持ちを、衝動を、情熱を、どうか思い出して――
「お願い、母の、キャスの痕跡を消してしまわないで」
 目頭に熱いものがこみ上げる。
 声が震える。押し殺してはいるが、声がほとんど悲鳴に近い。
「母が死んだのは、あなたのせいじゃない。グラフィティを描く資格はないなんて言わないで。記憶に触れたくないなんて言わないで。壊れてしまったものは、取り戻せるはずだよ」
 アルのガラスのような瞳が、少しだけ光を帯びる。
 その様を見て、ライザの眼前で情景が閃く。

目の前に、暗闇の塊がある。
 自分がその中にいるわけではない。外側から見つめているのだ。
 闇はクローゼットの形を取り、扉がほんのわずかに開いている。
 奥に少年がいるのが見えた。
 彼が囚われているものは何か。
 愛する人が死んだ……自分を責めた。自分だけ生き残った……免れたことに苦しんだ。グラフィティを描けなくなった……自分自身の核を、道を照らす光を失った。
 今は分かる。彼は、昔の自分だ。
 扉がほんのわずかに開いた瞬間、ライザは少年の手をつかんで引っ張り出した。


 ライザはアルを抱きしめていた。
 強い、つよい力で。二の腕の辺りに、〈キーウの天使〉の固さを実感しながら。
 アルは身じろぎもせずにいたが、眼を閉じてライザを抱きしめる。
 会議室の時計の音が、静まり返った空間に響き渡る。
 長い時間が過ぎていく。
 いや、今までの空白に比べれば、ほんのわずかな時間だ。

数日後、ライザとアルは、ロストミュージアムでイーハと落ち合った。
 アルは相変わらず、華奢な少年の姿のままである。
 彼はライザが渡したイーハのデバイスを使ってOpenHallに到来し、その感度に驚いているところだ。
「私が今まで使っていたデバイスは一体何だったんだ。全く違う世界だな」
 驚きのあまり、勢いこんで話すアルに、イーハは小さく頭を下げる。
「そう言っていただけて、とても光栄です。僕はALSで体が動かせなくて、VRの可能性を広げたくて開発したので」
「それでこの世界をつくったのか。素晴らしい技術だ、私も学びたい」
 二人の会話を聞きながら、ライザは思い返した。
 視界にはイーハがいる。
 彼のこの世界OpenHallを知ってから、いろいろなことが起きた。
 過去を思い出せるようになった。
 現在の中で動けるようになった。
 そして今、未来に向かって委ねようと思っている。〈キーウの天使〉やロストミュージアム、現実では失われてしまった美術品の全てを。
 やがて壁の前に来た。アルは天使たちを見つめる。
 かつて彼とキャスが描いたミカエルは榴弾砲を携え、力強い鎧で武装し、金の翼と光輪を輝かせている。その手にあるのは剣とミサイル。瞳は空の彼方を見据えている。巨大な羽と強靭な肢体で、描かれた場所を守護するのだろう。
 アルに絵の印象を尋ねようとして、中断した。
 相手の瞳からこぼれ落ちるものを見て、言葉にする必要はないと悟ったのだ。
 その目に、記憶に、心の中に去来するものは何だろうか。
 それは多分、キャスと過ごした瞬間。
 グラフィティを描いていた時間。
 破壊され、蹂躙される日々。生き残り、抵抗し、戦い、描き抜こうとした――
「やっぱりこの絵は、空の下にあるのがいいね」
 イーハの言葉に、ライザは我に返り、強く頷いた。
 二人の思いに呼応するように、アルは一心に天使を見つめ、小さく呟く。
「天使を描こうと言ったのはキャスだ。天使に見守ってもらえるようにと」
 キャス。その名を耳にして、ライザは思わずアルの顔を見つめる。アルは天使を見つめたまま告げる。
「短い期間だったが、天使は街の心の支えになってくれた。でも天使は、実際に戦ってくれるわけじゃない。これからは、生きている私の方が守らなければ」
 ああ、と、ライザは実感した。
 もうアルは、からっぽではない。
 虚無に囚われることはない。
 〈キーウの天使〉とロストミュージアムがある限り――
 ふいに、アルの右手が空に上がった。何かをつかみ取る形を取っている。
 ライザはアルの、振り上げられていない左の手を強く引いた。驚いたようにこちらを見るアルに、ライザは話しかける。
「次は、どんな絵を描くの?」
                   〈了〉

文字数:43681

内容に関するアピール

 昨年の最終実作では、AIに伝承された工芸の技術を人が学ぶという話を書きました。今年は、物理的に形が残っていない美術品を残すにはどうすればよいか、という問題意識が話の源になりました。

また、上述とは別に、過去の美術品はその時代の人々の感覚に心を合わせないと理解できない、と感じる出来事がありました。作品がなくなるということは、つくられた時代や場所、そこにいた人々の考え方や手掛かりがなくなることであり、それをどうやって留めればいいか、という問題意識も話の源になったように思います。

ストーリーは、最近、数年前に観たウクライナの監督であるセルゲイ・ロズニツァの映画を思い出すことが多かったことに由来します。

 最後になってしまいましたが、講師の方々、一年間、本当にありがとうございました。

文字数:340

課題提出者一覧