上手に笑って

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上手に笑って

トイレから戻ると正人が「ほらため息」と指差し、猪瀬が「まじやんけ」と笑った。
 
「なに?」
「いや今おまえらいつもふたりで来てくれて楽しそうでええなあ言うてたとこやねんけど」

厨房前のカウンター席に滑り込みながら僕も笑った。
 
「ああ、やらかしましてね。十二万とられました」

徹夜でネットフリックスのドラマを見終わったところへかかってきた営業電話。眠りたいとしか考えることができない状態で促されるまま申し込んでしまったSEO対策。完全に忘れていたところへ届いた請求書へ慌てて断りの電話をしたところ、違約金を求められた。行政書士として開業した僕は三ヶ月が経った現状、車庫証明を二件請負ったにすぎず収入はほとんどゼロだった。開業前に溜めていた資金も底をつき、来週の三十の誕生日からアルバイトへいくことになっているような経済状況の中、十二万、税込十三万二千円はでかすぎる。

中学の同級生である猪瀬は地元鈴鹿で飲食店を始めた。鈴屋という店名に彼のストレートで行動的な性質がよく表れていた。大きな中華鍋で大量のラードを溶かし、ぶつ切りのハラミを炒める。刻みニンニク、おろしニンニクを山盛り投入すると、特製だれを絡め唐辛子をくわえる。最後に荒く切ったキャベツを加え高火力で鍋を振ると、鈴鹿の新たな名物を目指すこの店の唯一のメニュー、豚焼きの完成だ。熱々の鉄板の上、キャベツだけでも果てしなく白飯がすすむ味付けはなかなか病みつきになり、開店してから正人と僕はよく昼飯に猪瀬の店へ足を運んだ。

僕らが勢いよく白飯をかきこむ横で、もうすぐ昼の営業時間が終わる猪瀬はレジの棚の下から引っ張り出してきたプロテインをシェイクする。夜の営業が始まるまでの間、ジムでトレーニングに励むのが彼のルーティーンだった。
 
「昨日脚の日やったんやけどさ、終わったら久しぶりに立ちくらみなって焦った」

そういや猪瀬は昔から貧血気味やったよな、と正人が笑う。僕も「やりすぎやな」と同じように笑うが、猪瀬が貧血気味だったというような記憶はなかった。
 
「卒業式の練習の時ぶったおれたもんな」
「あれはなあ、今やから言えるんやけどさ」

僕の覚えていないエピソードで会話が進んでいく。中学三年の冬、登校してきた猪瀬は当時付き合っていたひなたが朝から泣いていることに戸惑う。どうしたん、と机に近づくと、ひなたは顔を上げるなり大ぶりのビンタを繰り出した。隣の机まで吹き飛んだ猪瀬はなにが起こっているのか理解できないまま、ひなたの親友である美希にひっぱられ、教室の外でひなたが妊娠したことを伝えられた。

 
「整列しとったらさあ、みんな高校生になるのに、おれは就職しやなあかんよなあとか、一生ひなたでええのかなあとか、いやまずおれ入れてないよなあ、てことはどういうことなんやとかいろいろ考えとったら、ひっくりかえっとったわけ。結局生理不順やっただけなんやけど、そんなことそんときは知らんしさあ」

やり方も知らんからさあ、パンティとパンティ擦り合わせとっただけやし、と猪瀬がいうのでふたりして吹き出してしまった。水を取ろうとした僕の手が、鉄板の端に触れる。反射でグラスが弾かれる。すっと目の前が暗くなった。あ、きた。僕は思った。またか。

かたく鈍い音が体育館に響き、追いかけるように甲高い悲鳴。小さくなった学ランの袖の下から引き伸ばしたトレーナーの中で手を温めてうとうとしていた僕は、壇上から松田先生が飛び降りるのを眺めていた。松田先生は着地に失敗し、最前列の生徒の背中へ頭から突っ込んだ。僕はおもわず笑ってしまった。松田先生と一瞬目が合う。軽蔑するように睨まれた僕は口を閉じ、隠れるように隣の正人と同じ方を向いた。正人が「大丈夫か!」と隣のクラスの集団へ駆け寄る。僕もついていく。猪瀬の体を揺さぶりながら声をかけるひなたに、松田先生が「動かすな!」と怒鳴る。ひなたが泣き出す。他にも女子が数人啜り泣きを始める。僕は正人の背中越しに、ぼんやりとそれらを眺めていた。猪瀬を担ぐ松田先生に道をあける。松田先生は僕の方をいっさい見なかった。猪瀬の首がおもちゃのように揺れていた。

揺れる視界が定まって、転がるグラスを覗き込んでいる自分がいた。グラスは割れず、カウンターの下で水を撒き散らして止まった。
 
「ごめん!」
「ええよええよ、そのまましといて。あとで拭くから」
「なんか拭くもんある?」
「ええってええって」

ごめん、と呟く僕は、本当はそんなことより、またひとつ戻った記憶を味わった。僕はいつからか、昔のことを思い出すのが苦手になったらしい。しかしそれはふとした拍子にビジョンとして戻ってくる。再体験を果たした僕は、何故か自分が損なわれたような気持ちになる。妄想か。しかし、自分が本当に今まで生きてきた自分なのか、不安になる瞬間がある。この体に寄生した宇宙人、なんて。ねえ今どんな顔、すればいい?

文字数:2000

内容に関するアピール

同級生と話していると、そんなことまでよく覚えているなと思うことが多い。しかもみんながそれを覚えていて、僕だけが思い出せない。そういうときに、怖くなることがある。どうやって生きてきたんだろう。自分って本当にあの自分なのかなって。まあ、ただぼけーっと過ごしていただけなんだけど。思い出話がするすると出てくる友人が羨ましくて、僕は横でなんとなく笑っているだけで。

住んでいる土地の記憶は、だからそうやって語り直された、本当かどうか確認できない、友人たちからきいたエピソードとして、僕の中に残ることになる。僕はなにを見て生きていたんだろうなあ。

文字数:267

課題提出者一覧