Negentropy For Two(ふたりでネゲントロピーを)

印刷

Negentropy For Two(ふたりでネゲントロピーを)

 

 

ドトール。

 

ルノアール。

 

スターバックス。

 

タリーズ。

 

 

いちばん近くの交差点の四隅には、それぞれ喫茶店があった。

 

 

赤面症の君はドトールが好き。

 

煙草が吸えるルノアールがあなたのお気に入り。

 

革製のソファー。黒い焦げ跡。

 

檸檬味のおいしい水。

 

本が薫る通りを風を切って歩く。

 

ためらい傷を隠さないメイドたちの間を駆ける。

 

 

万世橋を渡る。
(橋の下の謎の空間から何かが出入りしている)
(都市の伝説)

 

 

青い電波塔が見える。

 

右翼街宣車が走る。

 

老舗の蕎麦屋と、新しいコインランドリー。

 

屋上に庭園があると噂の新築マンション。

 

 

東京は、ずっと、完成しないね。
(駅の階段を登ったところ)
(白いチョークで地面に書いてある)
(水道、ガス、不明、不明4、不明2)
(得体のしれない配管が地下に張り巡らされている)

「不思議だ。そんな大事なことを忘れていたなんて。」

 

 

君は笑う。

 

あなたは訝しむ。

 

どんどん都市はその姿を変えていく。

 

初めて一緒に食べたラーメン屋さんもなくなった。

 

昼間からレコード屋。新入荷からチェック。

 

真夜中に映画を観にでかける。

 

君は煙草をやめた。

 

あなたは銘柄を変えた。

 

ベランダには時々鳩が来て糞を落としていく。

 

連れてきた兎はお月さまに帰ってしまった。

 

僕はチョコレート色の団地で生まれた。

 

私は海のちかくで生まれた。

 

逃げるようにそこを出た。

 

追われるようにそこを出た。

 

 

気が付いたら、東京にいた。
都市の密度がふたりを衝突させた。

 

 

僕は標準語を習得した。

 

母親からの電話は一回目では出ない。

 

うどんの出汁は好きになれない。

 

お醤油は甘くないと満足できない。

 

ここの風景はとどまってはくれない。

 

生まれた町は、今もそのままなのに。

 

 

今日は、何しよっか。
その気になれば、何だってふたりはできた。

 

 

金持ちになりたいな。あきれかえるくらいの。

 

あなたはいつも、怪しい儲け話で私を笑わせる。

 

アイスを溶かしながら歩いた暑い夜に。

 

爆撃みたいな雹が降る晴れた日に。

 

 

「今は忘れてしまった、たくさんの話をした。」

 

 

宇宙空間で、星同士が邂逅する確率について。

 

私たちを構成する分子はかつて、ある星の一部だった。

 

計算しながら、僕はくしゃみをする。

 

ドラマを撮影している。顔しか知らないアイドルがいた。

 

路上喫煙の過料を二千円札で支払う。取立人はニコっと笑う。

 

百年後にはこの人たちはみんな死んでいる。

 

風景は僕らを忘れ、都市は風景を忘れ、宇宙は都市を忘れる。

 

慢性的な健忘症ね。

 

 

はちみつが入った甘いコーヒーが運ばれてくる。
コップの中で氷が音を立てて崩れ、カランと鳴った。

「時々、あまりに一瞬で、悲しい気持ちになるの。」

 

 

だけど怖くない。

 

子供みたく泣くこともない。

 

僕が君を覚え続ける。

 

私があなたを忘れない。

 

はなれわざを、きめたい。
この宇宙で。

 

 

古い万年筆を買う。

 

新しい日記帳を買う。

 

 

「愛とは、記憶の別名である」と記す。

 

 

けれど、もし記憶が質量を持つとしたら?

 

きっと地面はその重さに耐えられない。

 

 

そんな事を考えていると、息を切らしてやってくる。
待ち合わせはいつも、交差点の喫茶店だった。

 

 

 

一つの時間の流れの中にあって速度も質量も異なるものが凝集して穴が穿たれる。その穴は縁取りだけで、どちらの側からも何もみえない。
その穴の半径はシュワルツシルトがかつて導出した解に従っていた。何もその穴を通過することはできない。

 

 

 

虚数たちはここではない場所からきた。少なくともその逆ではなかった。虚数は固有の質量と速度をもち、際限のない空間内にあった。

 

虚数たちは互いに走査して、それぞれの映像と音声をホログラムとして空間内に投影していた。それらは時に重なり虹色の塊になった。

 

虚数たちの増殖は加速する一方だった。際限のない空間のなかで、虚数たちが遭遇する確率はまるで上がったようにみえた。

 

虚数たちが遭遇すると、ここではない場所からも走査されるようになった。虚数たちだけがそのことに気がついていた。

 

虚数たちはここではない場所にまずは言葉となって顕れた。それら言葉は文字へと複製され、流通され、消費された。

 

虚数たちの言葉や文字は、次に映像や音声として複製され、原型を失い、そして新たな虚数を招き入れた。

 

虚数たちの総質量は増え続け、際限のない空間は、その重みで歪んでいった。幾重にも虹が重なった。

 

虚数たちは固有の寿命をもつようになった。ふるい虚数からその姿を消して、後にはなにも残らない。

 

虚数たちのアポトーシス。虚数たちの拡散。虚数たちもエントロピーの増大則から逃れられない。

 

虚数たちが互いに遭遇する可能性は、均された空間でやがて天文学的な確率になる。

 

ゴーイング・ゼロ。

 

それは、穏やかに、ひどく穏やかに。
ゆっくりと、ひどくゆっくりと。
はなればなれに。

 

(けれど、まだ)
(少なくとも、まだ)

 

 

 

あっ、虹。

 

 

 

虚数たちは潜伏している。

 

虚数たちは地下にいる。

 

東京の無意識。

 

都市の虚数。

 

記憶

 

 

i

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文字数:2000

内容に関するアピール

 SNSで少し話題になった近所の歩道の書き込み(画像からリンクに飛べます)

 

舞台の神田淡路町(の交差点)は秋葉原と神保町と御茶ノ水に囲まれた場所にあります。

東京生まれの娘は上京という通過儀礼を経験できない。それが幸か不幸なのか分からないね、と夫婦で話をした。こんなお喋りを覚えているのはこの世界で二人だけ。東京はそんなさびしさを強く抱かせ、同時に宥めてくれるように思う。東京の地下はもはや手がつけられない状態と聞いた。残留思念の氾濫。忘却への抵抗。参照先は小沢健二や七尾旅人などの90年代のポップ音楽。ブラックホールを大容量情報ストレージとして利用する研究に触発されこれを書いた。もし人間の記憶が保存できたとして、記憶装置としての地球の容量は果たしてそれに耐えうるのだろうか?と熱心に考える。

タイポグラフィと呼ぶにはあまりに素朴ですが、スマートフォン等で閲覧する場合はこちらから読んで頂ければ幸いです!

 

文字数:400

課題提出者一覧