世田谷天然酵母パン

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世田谷天然酵母パン

あやかは初夏の日差しの中を歩く。見渡す限り続く高級住宅はどれも住民が掲げる「憲章」の定める通り背が低く、塀や生垣に囲まれた敷地の奥にどっしり佇んでいる。要するにこの道には影になるものがない。
家から徒歩20分でおしゃれな商店街に辿り着く。春先に派遣の職場をやめて充電期間中の今はこうして日中に買い物に出るのが楽しみの一つだった。
今日の目的地は自家製酵母が人気のパン屋だ。しかし店の前には長い列ができていて、やっと店に入れた時にはもう商品は残り少なかった。しかも前の女性がどっさり買い占めてしまったので、結局残ったのは黒い窯焼きパンのスライス数切れだけだった。

がっかりした気分が顔に出ていたと思う。
「ねえあなた」
声をかけられて振り向くと、品のいい老婦人が立っていた。手にはタッパーを持っている。
「これ、あげるわ。この店のよりもっといい酵母よ」
婦人の格好がきちんとしていたので思わず差し出されたものを受け取ってしまった。容器を渡すと婦人はそそくさと目の前から姿を消した。中身は普通のパン種のようだった。

夕飯の支度後に、試しに生地を作ってみる。今日仕込めば明日焼くことができるだろう。生地を捏ねながら、考え事をする。そういえば先月の私の誕生日、何もなかったな。本当なら旅行の一つでもしたかった。夫のあっくんがもっとやる気を出したら手当も増えるのに。あ、愚痴っぽくなったらダメだ。捏ねた生地を寝かせる。酵母にも水と薄力粉を足して冷蔵庫に戻した。

初めて焼いたパンはうまくできた。気を良くしてまた仕込みをする。酵母は昨日の二倍くらいに増えていた。今度は二つ作って友人にも持っていく。友人のともみは隣のC市に住んでいて、猫と暮らす独身だ。丁寧な暮らしをアップしているSNSはフォロワー一万人を超えている。このパンも載せてくれるといいな。本当は私のこともフォローして拡散してくれるといいんだけど。

異変に気がついたのはその日の夜だった。あっくんが帰って来るなり「旅行に行こうか」と言い出した。「次のプロジェクトの担当引き受けることにしたんだ。忙しくなる分、残業代は出るから」とやる気満々の顔だ。責任、って言葉がムカデの次に嫌いだと言っていた人とは思えない。
スマホには通知が来ていた。ともみからだ。昼に持って行ったパンを投稿をしてくれていた。さらに、16人しかいないフォローの中にあやかも入っていた。

全部パンを捏ねながら、そうなったらいいなと思ったことだ。でも、そんなことって……。

まさかと思いながらもまた生地を仕込む。種がタッパー限界まで増えていたので、半分を新しい容器に移した。明日は義母に届けよう。最近の義母は、孫はまだかと口うるさかった。それさえなければいい人なのに。そう思いながら生地を捏ねた。

翌日の晩、義母から電話が来た。友人が、孫の世話の最中に転んで怪我をしたが、自分はそうはなりたくないなどと言う。これで確信した。この酵母は捏ねながら願ったことを現実にしてくれる。以来、一心不乱にパンを焼くようになった。自分自身も食べて、減量や資格の取得など今までできなかったことを叶えていった。あっくんは異例の抜擢で秋から管理職になる予定だ。

ただ、パン種はなぜかどんどん増えていった。冷蔵庫に入りきらなくなった分を常温保存していると何かがうごめいているのに気付いた。中身をちぎって丸めてみると、まるで生き物のように動く。手足を作ってやると、床の上に置いた途端に走ってどこかに消えてしまった。
思わず叫び声を上げたが、深呼吸して考え直す。どこかに行ってくれるなら、パンを食べさせなくても願いが叶うかもしれない。あやかは顔見知りの不動産営業の男のことを考えながら捏ねた生地をベランダからそっと放した。するとあの憧れのあの住宅街の一軒が、破格の条件で売りに出される予定だと男から電話をもらった。

あやかは一握りを残してすべての種を捏ねて、家の外に放った。

しかし数日後、酵母たちが玄関前で黒くカビた姿で力尽きていた。ひとつ、ふたつと目で追っていくと、酵母たちがどんどん戻ってくる。
「何これ!」
家の中に入らないように酵母を必死に箒で叩き潰す。箒がベタベタになっても殺虫剤、洗剤、掃除機とあらゆるものを使って自分の願いを載せた酵母たちを始末した。いや、よく考えたらそれほどしっかり願いを込めなかった気もする。だから帰ってきてしまったのだろうか。あやかは自分の願いの数の少なさに自分でも呆れた。
ガスバーナーの火で燃え立つ香ばしい匂いを嗅ぎながらあやかは今までのことを思い出していた。最初の願いが叶った瞬間の喜びは本物だった。それに、もうすぐ一軒家への住み替えも決まっている。酵母たちは何も悪くない。悪くはないが……。

「あのう」
あやかは肩を落としてパン屋から出てきた若い女性に声をかけた。手にはタッパーを持っている。
「もし、よかったら……」

文字数:2000

内容に関するアピール

今回、自分の住んでいる土地のことを考えるにあたって、身の回りの好きなものより、ちょっとやだなとか、心に引っかかるもののことばかりに目を向けて考えてしまいがちなことに気がつきました。創作の種を見つける時に、そういう姿勢で世界を見ていていいのだろうか……ということが自分自身に対して少し気になりました。

世田谷区は暮らしやすいですが、地方出身者だからなのか、どこか自分がよそ者であるという感じがずっと拭いきれません。東京のどこに住んでもそれは同じかも知れません。不思議な都市だなと今でも思っています。

文字数:247

課題提出者一覧