甲羅の上に

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甲羅の上に

兎と亀の昔話を読み終わってすぐ、こんなのおかしいと私は怒った。兎が油断して亀に負けるなんて、兎じゃない奴が適当に書いたに違いない、と。

お姉ちゃんは過保護で、毎朝「危ないから」と言ってわざわざ私のクラスまでついてくる。私の席は元から一人だけレストランの子供用みたいな高さのある椅子だけど、加えてふかふかのクッションまで敷いてある。お姉ちゃんはいつも、それを丁寧に均してから私を中心にそっと置く。そこまでしてようやく自分の高校に向かうのだ。毎日のことだからクラスの皆もすっかり慣れてしまって「おはよう」なんて声をかけてくる。お姉ちゃんも自分の友達みたいに元気に挨拶を返す。恥ずかしい。
 隣の席の坂本も同じような奴だけど、もはや椅子を使っていなくて、いつも机にそのまま座っている。その方が黒板見やすいしお前もそうすれば、って言うけど私は椅子を使わないなんて絶対に嫌だった。坂本は私と同じといっても根本的には見た目も考え方も随分違う。彼は常にボランティアの同級生に運ばれてやってくるし、何なら宅配便の荷物みたいに机の上に置かれる。寝てればいいから楽だとかあっけらかんと言うけど、本心からなのかは知らない。彼は諦めただけなのかもしれないとも思う。おどけたり、ひょうきんにふるまったり、それがこの姿で生きていくことの最適解なのだ、と。

この地図の中で学校はここです、と先生が指をさす。赤かったりピンクだったりする地図はこの土地に住む誰もが見慣れているもの――ハザードマップだ。巨大な荒川とその支流が氾濫すれば、このあたりは建物の三階近くまで沈むのだという。隣の席の坂本が、声を潜めて言う。
「ここらへん沈もうが俺は無事だな」
「泳げるから?」
「まあな。押上まで行ってスカイツリーに住んでさ、ひたひたの東京を見下ろすんだ。江戸川も浦安も沈んで、江東区もおしまい、亀戸もいよいよダメってなっても、俺だけは泳いで悠々自適に生きていけるんだよな。そこらの苔食ってても別に平気だし」
「東京がそんなになったらもう日本ごとおしまいじゃないかな」
「まあ、お前がまだ生きてたら俺の甲羅に乗せてやってもいいよ。サイズ的にいけそうなのお前くらいだからさ」
「無理だよ、そんな滑りそうなところ。私肉球ないから踏ん張れないし」
「二人とも、おしゃべりは休み時間に」
 いつの間に、先生がこちらを見ていた。クラスの皆のくすくす笑いが聞こえる。何だかんだ私たち二人は雑にセット扱いされがちだった。我らが地元、江東区亀戸の駅前の公園には、兎と亀の昔話にちなんだ銅像があって、少し前、お偉いさんたちがそれを私たち二人の見た目をモチーフにしたものに作り替えたい、と言ってきたことがあった。坂本は喜んでいたけど、私が足ダンして全力で拒否した。
 我が家は私が生まれてからずっと、私が滑って骨折しないよう床は一面カーペットだし、家具の高さも全部低い。色んなところに付き添ってくれるお姉ちゃんはあんたが世界で一番可愛いよ、としきりに頬擦りしてくる。そんなふうに無条件で甘やかされても、私はどうしてこう生まれついたのか、いつも考えずにはいられなかった。

 学校終わり、私はたまにお姉ちゃんに頼んで錦糸町公園とかの広い原っぱに放してもらう。後ろ足が地面を強く蹴ると、私はすぐ原っぱを駆け抜ける風になる。お姉ちゃんの制服に吹き込む風に。
 競走の途中で昼寝するなんて、ましてやその間、亀に抜かれるだなんて、そんなことはありえない。私があの兎なら、ゴールを超えてどこまでもいくのに。
 勢いのままバタンと原っぱに倒れると、お姉ちゃんは毎回焦って近寄ってくる。「大丈夫? 平気?」とこちらを覗き込むその輪郭は骨ばっていて、お母さんに似ている。お姉ちゃんが頬擦りしてくるとき、私はいつもお姉ちゃんを抱き返せない。そうなれたかもしれない姿に抱かれているというのはどうしようもなくて、自分のすべすべした毛の流れを見つめるしかないのだ。
 駆け回って気持ちが落ち着くと、私は決まって二本足で走る想像をする。それは、両手足があって背が高くて、椅子に座る十五歳の私だ。でも、そうやって思い描く人型が、私自身だとはどうしても思えなかった。あらゆることに怒りながら四本足で転がる兎。原っぱで耳を立てて空を見る私、私。
 人間が、人間以外の生き物の姿で生まれるようになったのはここ五十年くらいのことだ。それは世界中で混乱を生み、受け入れられたり、受け入れられなかったりした。私は何とかここまで死なないでやれている。それはこの錦糸町の原っぱのおかげかもしれないし、あの飄々とした亀のおかげかもしれなかった。東京が沈みきって人が誰も住めなくなっても、彼はここを泳いでいく。それが私は嬉しい。
 一度、滑ったとしてもあいつの甲羅の上に乗ってみてもいいかもしれない。そんなことを思いながら、私は瞬膜を震わせ目を閉じた。

文字数:2000

内容に関するアピール

亀戸舞台のうさぎと亀の話です。せっかく書いたのですが、ちょうど今週引っ越しをして亀戸から離れてしまいました。もともと都内育ちで、成人してからよく気分で引っ越しをしているので土地への愛着には縁遠いかもしれません。

まだ新しい部屋には段ボールがたくさん積まれているので、なんとかスペースを作って縮こまりながらこれを書いています。うさぎと亀の像があるのは亀戸駅前の「かめ・うさぎ児童遊園」です。かわいい名前ですが、喫煙スペースに近いため大人ばかりがたむろしていて、遊園の雰囲気からはなかなか遠いところです。こんなことを書いたら江東区の人に怒られるかもしれません。ごめんなさい。

文字数:284

課題提出者一覧