新宿ラビリンス

印刷

新宿ラビリンス

どんな地下街にも旅人の神話があって、きわめて困難な探索に挑んでいる。探索それ自体を目的に、なにも期待するな。ただ迷え。そこはただの通路なのだから。

新宿地下街。それは、新宿駅だけの地下街ではまったくなく、いくつもの駅を飲みこみ、蟻の巣どうしがつながった巨大コロニーの様相を呈している。今年の7月現在、JRおよび私鉄、地下鉄各線の新宿駅を中心にしたその版図は、北の西武新宿駅から時計まわりに、花園神社、新宿三丁目駅、タイムズスクエア、西へまわると都庁と高層ビル群を大きくつつんで新宿公園の手前までひろがり、都庁前駅、西新宿駅駅、新宿西口駅をその内側に飲みこんでいる。東西1.5キロ、南北1キロの迷宮だ。
 それならばあと一歩先、ほんの数百メートル、新宿御苑、代々木、初台オペラシティまで、地下道をとおって行けないのか。あなたの願望は正しい直感だ。もちろん、公式の地図には載っていない隠し扉の向こうに地下道がのびている。あるいは、垂直方向にもっと深く秘密の空間へ降りていく階段が。

新宿駅乗降客は一日三百万人を大きく超える。その0.3%が他言無用の非公式ルートを利用しているという、非公式な統計データがある。

その世界へ進むためには、入り口を教えてもらう必要があって、いくつかの噂が囁かれている。ヨドバシカメラの本店で、名札に口外できないアイコンが印刷されている店員を探し、販売終了したとある銀塩フィルムの在庫を尋ねる。紀伊國屋書店の1階のレジの右端の店員に、(特定の)書物の検索結果を印字したシートを持って、そこに示された今は改装中でふさがっているフロアへの行き方を訊く。ルミネ地下2階の濱田屋で、季節限定の和風惣菜パンの中から三点正しい順番で選び「ところで三軒茶屋の本店にはどう行くのでしょう?」と問いかける。あるいは歌舞伎町の客引きから。あるいは階段にうずくまるホームレスから(警察官に排除されてしまうまでの短い時間しか出会う機会がないことに注意しよう)。
 あるいは、夕刻の西口オフィス街の地下通路。仕事から帰る都庁職員やビジネスマンを目当てにして、地下アイドルの少女が場違いなメイド服を着てチラシを配っている。家庭へまっすぐ帰ろうとする男たちは見向きもしないが、君は興味本位なふうでチラシを受けとる。そして今晩19時からのライブハウスの告知を見ながら、
「ところで、****の復帰ライブは再来週の金曜日だっけ?」
 ただしく合言葉を投げかけると(秘密なので、そのアイドルの名前は伏せておこう)、首から下げたネームプレート(彼女の名前も、同様だ)の裏に印字されたQRコードを見せてくれる。
 促されるままにQRコードを読み取るとスマートフォンにアプリがダウンロードされ、彼女たちの秘密のライブハウスまでの道順が示される。君が進む速度に合わせ、アプリ内の点が移動する。加速度センサにジャイロセンサを利用して、GPSの届かない地下でも案内可能なアリアドネの糸。
 西口か東口へ抜けて、右へ左へと案内に沿って進む。とある出口の階段の裏側に回って、鉄扉を開けて進む指示と4桁の数字。暗証番号を表示通りに入力すると、たしかに扉は開いて、下り階段がそこにある。
 下り切るとそこは三叉路で、どちらへ向かうべきか、案内表示は何もない。ただひたすら、アプリの案内にしたがうだけだ。そうして君は一本の道を進み、やがて辿り着いた上り階段を百段以上も登って、地上に出る。ライブハウスではない。そこは夜の森の中。あかりの見えるほうへ歩くと、池が見え、庭園が広がっている。営業時間外の新宿御苑を独り占めしながら、アプリにしたがって警備員に見つからないルートで散策し、裏口から外に出る。

君の初日はそんなふうに終わるが、毎日の通勤で君は経験値を重ねていく。秘密の通路はただ殺風景な通路ではない。ときに、公式の街からは消えてしまったパスタ屋、カレー屋、ラーメン屋を見つけて、君は久々の味を愉しむ。地下に何回層も伸びているパセラ裏本店では、区役所通りの店と同じように24時間歌声が響いていて、君もオールで叫び続ける。
 季節外れの、伊勢丹職員すら限られたものしか知らない裏サロン・ド・ショコラには、非公式ルートを知る0.3パーセントのなかのさらに先鋭的な淑女たちが行列を作る。幽霊船のようにあらわれる伝説の巨大喫茶店カトレアには、これもある種先鋭的な人々が数百人、大人数のグループをいくつも作って長居している。
 君の求めるものはすぐにはあらわれないかもしれない。しかし一年の出勤日数を数え、そして何十年働くのかを考えてみればいい。幾千の日々が待っている。

あの日のチラシをくれた少女のライブを、もしくは合言葉の、再来週の金曜日に****の復帰ライブを観る日がくるかもしれない。だから忘れずに、通勤カバンには彼女たちの色のサイリウムを忍ばせておくことだ。

文字数:1999

内容に関するアピール

私にとって最寄りのターミナル駅であり、かつての職場がある街が新宿です。お酒を飲まないので、歌舞伎町も、二丁目も、ゴールデン街も縁がなく、書店と映画館と喫茶店くらいしか用事はないのですが。それら地上のランドマークに向かうために、人々が太陽を避けて歩いているのが、巨大な地下街です。

隣の駅まで徒歩で行ける新宿で、地下街がさらに伸びたり、深く掘られていくことを夢見ないのは難しいことです。さらに、そこにオルタナティブな催し物や店があるのを想像しないことも。ところで最近残念なのは、紀伊國屋の耐震補強工事のおかげで、地下の食堂街がほぼ撤退してしまったことです。パスタ屋さんには、どこかで復活してほしい。

それから西口でチラシを配っている地下アイドルは実在します。歌舞伎町のほうにライブハウスがあるらしい。アリアドネは、英雄アキレウスがクノッソス迷宮へ入り、ミノタウロスを退治するのを助けた女性の名前です。

文字数:397

課題提出者一覧