ヤグーの首飾り
1998年8月 イギリス
卓上の燭台にたてられたロウソクに灯る炎がゆらゆらと燃えている。ふいに、ひとすじの蝋がたれ落ちた。暗闇のなか、目の前のテーブルだけがぼおっと照らされている。
ここはどこか。どうやってここに来たのか。書いていた原稿を仕上げて、映画を見るために車で家を出たはずだ。映画館で居眠りをしてしまったというわけではなさそうだ。ポケットを探ってみると車のキーも財布も入っていない。どこかで無くしてしまったのだろうか。まずいことになった。
暗闇に目がなれてくると、少しだけまわりが見えるようになった。厚ぼったい絨毯が敷かれ、いくつかの古い家具がある。知らない場所だ。周囲は闇になっていて壁が見えず、部屋がどこまで広がっているのか分からない。窓はなく、嗅いだことのないほこりっぽい薬品のような匂いがする。地下室なのかもしれない。
気配を感じて正面を見ると、私はおどろいてさけび声をあげた。暗くて気づかなかったが、テーブルの向こうに座る何者かの目がこちらを見ていたからだ。
それは髪も髭も伸びきった男だった。ボロボロのシャツを着て不潔な感じもただよっているが、その目は知性を湛えている。老人のように見えなくもない。男は祈るように両手をにぎり、両手の人差し指を互いのまわりを回すようにくるくると遊ばせている。
立ちあがろうとすると、足首に何かがひっかかった。屈んで足をさわってみると、錠がついた金属の輪で足が椅子に固定されている。手でさぐると、椅子の先端のところだけ絨毯が切り取られていて、椅子と床の境目が荒くつながっている。わざわざ溶接か何かをして固定したようだ。
指先に感じた金属の冷たさによって、私は監禁されていることを悟った。頭の中に混乱と疑問がやってきた。なぜ監禁されているのか。この男は誰なのか。私をどうするつもりなのか。それから次に、疑問を追いこすようにして恐怖が湧きあがった。
私は大声を出して助けを呼ぶために、勇気をふりしぼって息を吸い込んだ。
「大声でさけんでも助けは来ない」
不意をつくように男が声を発した。低くてしゃがれた声だった。
「お前はダミアン・オーデン、有名な小説家だろう」
男は口のすみをゆがめて不気味な笑顔をつくった。その通りだ。この男が自分の顔や名前を知っていたとしてもおかしくはないはずだ。
「ええ」私は相手の様子をうかがい慎重にうなずいた。私のことを狙った身代金目的の誘拐だろうか。たしかに金は持っている。小説で稼いだ金は映画と本、ブランデーを買うぐらいにしか使わない。
「金なら出します。ここから出してください」
「いいや、目的は金ではない」男はゆっくりと口を動かし、鼻から息を吸った。
「私の名前はブランドン」
男の灰色の目が炯々とかがやいた。ロウソクの炎が一瞬、揺らいだせいかもしれない。暗闇がいっそう静まった。
「お前が書いた小説をいくつか読んだ。よく書けている。お前は、小説自体が嘘だと思いながら書いているか」
小説家に対する質問にしては奇妙だと思った。小説が嘘の出来事のつらなりだというのは作家も読者も知っている。しかし私は、小説家として直感していることを答える。
「私が小説を書いているときはそれが嘘だと思いながら書いてはいません」
「そのはずだ。だからお前をここに連れてきた」
そのはず? 私の小説を読んでそれが分かったというのだろうか。眼識があるとでもいうか、誘拐犯にしては妙だ。
「一体何のために私は監禁されているのですか」
「私が作った首輪、リングを試してほしいんだ」
そう言ってブランドンはテーブルの上に黒い輪を乗せた。直径はにぎりこぶしよりもひとまわり大きく、親指ぐらいの太さがある輪だ。拳銃のような、ものものしい雰囲気がある。
「それは一体……」
「現実と虚構の境界をなくす首輪。私は単にリングと呼んでいる」
「現実と虚構の境界をなくす……」物語の中に入ってしまうような小説ならいくらでもあるが、実際にはそんなことはありえない。何かの比喩か隠語だろう。
「ひとつ話をしてやろう。虚構と現実が区別できなくなったあるオオカミの話だ」
ブランドンは右手をオオカミに見立て、口を閉じたり開けたりする様子を真似した。そうしてブランドンは語りはじめた。
ある農場の陰で一匹のオオカミが家を見張っていた。何か獲物にありつこうというわけだ。その家にはデルフィーヌとマリネットという二人の姉妹が暮らしていて、二人の両親が今まさに家を留守にしようとしているところだった。誰が来たとしても扉を開けないようにと二人に言いつけ両親は家を出た。オオカミは両親がいなくなったのを見計らい家の窓に近づいて、寒いから家に入れてほしいと二人に頼んだ。オオカミは二人を食べるつもりだった。
デルフィーネとマリネットは、オオカミを家に入れてやるかどうか迷った。外は寒く、オオカミが凍えそうにしていたからだ。しかし物語に出てくるオオカミというのはいつも嘘をついて家の中に入りこみ、哀れな羊や豚を食べてしまう。
二人の意見は食い違い、ついに言い争いをはじめてしまった。それを見ていたオオカミは、もしかしたらほんとうは自分は心やさしいオオカミなのではないか、という気分になってきた。そう考えるとだんだんほんとうにそうなのだと思うようになった。オオカミは自分のせいで二人が言い争っているのを悲しく思い、家をはなれて森へ帰ろうとした。
すると、それを哀れんだ二人はついにオオカミを呼びとめ、家に入れてあげることにした。オオカミはもはやあの物語に出てくる凶暴なオオカミではなかった。遊びというものをはじめてしたオオカミは大いに笑い転げ、三人はまるで前から仲が良かったようにすっかり親しくなった。色んな遊びをし、最後は馬乗りごっこだ。もちろん馬役はオオカミだ。なんたって背中に女の子を乗せる役はオオカミがぴったりだからな。
いつしか両親が帰ってくる時間になり子供たちは泣きたい気持ちになった。両親はオオカミのことを凶暴で狡猾な生き物だと考えているので、オオカミと遊んだことを知られてはいけないからだ。来週また遊ぶことを約束して、二人はオオカミと別れた。
デルフィーヌとマリネットはオオカミに会えないあいだの寂しさをまぎらわすため、オオカミごっこという遊びを思いつく。それはこういうものだ。『オオカミさんそこにいる? 何してる?』とマリネットが問いかける。そしてオオカミ役のデルフィーヌが『今、シャツ着てる』と答える。『オオカミさんそこにいる? 何してる?』と再びマリネットが問いかければ、『今、ズボン履いてる』とデルフィーヌが答える。この遊びは『オオカミさんそこにいる? 何してる?』という問いかけに対して、オオカミ役が次々と服を着ていき、好きな瞬間、相手の予想のつかない瞬間に相手に飛びかかり、相手を食べてしまうというものだった。二人はこの遊びにのめりこんだ。遊びをやめるように両親から注意されてしまうほどだった。
ようやく次の週になり、両親はふたたび家を留守にした。前回と同じようにオオカミは家にやってきて、三人は会えなかった時間を取りもどすように大いに語り合った。
やがて、オオカミごっこをしようとデルフィーヌが言い出した。二人はオオカミに遊び方を教える。もちろんオオカミ役をするのはオオカミだ。なんたってまさにそのオオカミが遊びに参加しているのだからな。
『オオカミさんそこにいる? 何してる?』二人はお決まりの文句を繰り返す。『今、ズボン履いてる』オオカミははじめは楽しく答えていた。だがしかし、チョッキ、靴、バンドと服を着て、遊びがすすむにつれオオカミの様子がおかしくなっていった。ついには苦しそうな顔をしながら台所の床をひっかいている。オオカミは何がなんだか分からなくなり、うなり声を上げはじめた。
『オオカミさんそこにいる? 何してる?』次に問いかけが行われた瞬間、オオカミは爪をむきだして女の子たちに飛びかかり、二人を食べてしまった。
オオカミは家の中で一人になった。家の扉の開け方を知らなかったので両親が家に帰ってくるまでオオカミは閉じこめられてしまった。
両親が帰ってくると、二人の娘がいない。そのかわりに、あの恐ろしいオオカミがいる。両親はすぐにオオカミの腹を切り裂き、デルフィーヌとマリネットを助けだした。
デルフィーヌとマリネットはオオカミのことを恨んでいたが、楽しい思い出をくれたお返しに、逃してやってくれと両親にたのんだ。オオカミは腹を大きな針で縫いつけられると、涙を流して二人に謝り、森へと帰っていった。それ以来農場にオオカミがあらわれることはなかった
ブランドンは話終えると、反応をうかがうように私の顔をのぞきこんだ。
「ときには現実と虚構の区別がつかなくなることもあるものだ。やさしいオオカミが恐ろしいオオカミの真似をしてしまえば、やはり恐ろしいオオカミとなってしまう。だが、この話で最も興味深いことは、話の中での虚構が何かということだ。オオカミごっこが虚構なのではなく、オオカミが自分のことをやさしいと思い込んだこと、それのほうこそが虚構かもしれない。そうだろう?」
「でもそれは寓話です。実際に現実と虚構の境界をなくすことができるかどうかは別の話です」私は言った。
「そうか、ならば」
ブランドンがとつぜん立ちあがってリングをつかみ私の首に無理やりそれをはめようとしたので、私は抵抗してブランドンを押しのけた。ふらついたブランドンはふたたび向かってきて私の頬を殴りつけ、有無をいわせずリングをはめた。殴られた痛みと得体の知れないリングをつけられた恐ろしさで私はみじめな気持ちになった。
首筋に重々しい金属の冷たさがする。両足と首、これで金属の輪をつけられるのは三つ目だ。これ以上何をされるのだろうかと考えると背中が震えあがった。今夜は映画を見るはずだったのにどうしてこんなことになってしまったのだろうか。
ブランドンは部屋の奥の闇へと消えると、おもちゃのパッケージのような四角い箱を持ってもどってきてそれをテーブルの上においた。パッケージにはSFの映画やドラマの登場人物のようなスーツを着た人間と、奇妙な肌の色をした宇宙人や宇宙船が描かれている。どうやらテーブルの上で遊ぶゲームのようだ。このようなゲームは何度か友人と遊んだことがある。
ブランドンは箱のふたを開けると中から二枚のカードを取りだして、一枚を私の前に、もう一枚を自分の前においた。
私の前に置かれたカードには私そっくりのキャラクターが未来的な服装をしていて、その上に「ダミアン・オーデン」と、私の名前が書かれている。
ブランドンの方に置かれたもう一枚には、ブランドンの顔をしたスーツ姿のキャラクターが描かれ、名前には「ブランドン博士」と書かれている。
「銀河連邦を救うために宇宙を冒険するボードゲーム『フェデレーション』だ。リングをつけたお前にこのゲームを遊ばせるのが私の目的だ。私とお前をゲームに登場させるために特別にこれらのカードも作った。このゲームはゲームマスターとプレイヤーに分かれて、プレイヤーがゲームマスターに勝利することを目指す。私がゲームマスター、お前がプレイヤーだ」
どんな恐ろしいことをされるのかと考えていた私は拍子抜けした。遊び相手がほしくて私を誘拐したというのか。馬鹿げている。
「ボードゲームを遊ぶために私を拉致したと」
「まあその通りだ」ブランドンは鼻を鳴らした。
「お前はこれから銀河連邦のエージェントになる。エージェントになりきって遊ぶんだ、いいな」
ブランドンは箱の中からカード、コマ、ボードやチップを取りだしてテーブルの上に並べはじめた。今からほんとうに、ただのボードゲームがはじまる様子だ。
「よし、準備が完了した。ダミアン・オーデン、そのエージェントになりきって、さっきの話の中に出てきた姉妹のように、私に向かって『ブランドン博士そこにいる? 何してる?』と言え。それがゲーム開始の合図だ」
この男は気が狂ってるのかもしれない。遊びが終わったら解放してもらえるのだろうか。とにかく今は、この男を刺激しないようにこの遊びに付きあうしかない。
「ブランドン博士そこにいる? 何してる?」私は仕方なくその言葉を言った。
その瞬間何かが起きた。ロウソクの炎が大きく揺れたように見えた。
「ここにいるよ。今ジャケットを着たところだ」ブランドン博士はブラウンのジャケットの袖に腕を通しながらにやにやとした笑顔で私を見ている。何かうれしいことでもあったのだろうか。
「ブランドン博士、何があったんですか」
「あれを見てくれ」ブランドン博士は顔つきを変え、天体観測室のドーム状になっている大きな天井を指さした。見上げると、天井の天球で光りかがやく星の中で、ある一つの星が赤く明滅している。
「あの星から銀河連邦職員のものとみられる救難信号を受けとった。至急あの星へ向かって保護してもらいたい。エージェントダミアン・オーデン」
嫌な予感がした。ただの救難信号ではないような気がした。
「引きうけました、ブランドン博士」
博士に背を向けて天体観測室をあとにする。
ブランドン宇宙天文台は、規格外な大きさを持つ巨大な天文台だ。電波を受信するためのパネルが球体状に数百万台ならべられ、その中心にすえられた天体観測室まで、とてつもなく長い空中通路がのびている。博士に会いにくるたびこの通路を通らなければならないのは骨が折れることだった。とはいえ全方位に並んだパネルを裏側から見るのは壮大な光景で心がおどった。
私はようやく通路をわたり終えると、デッキに停めていたスターシップに乗りこんだ。救難信号が発せられた星を目的地にセットし、イオンエンジンを始動すると船は急加速で飛びあがった。
さっきブランドン博士が笑っていたのが気になる。なぜだか胸騒ぎがした。
森の動物たちはみな、地中に潜んで息を殺している。今は真夜中だった。私はスターシップを降り、緑色の胞子がふりつもる森を歩きすすむ。名前も生態も知らないねじくれた木々たちが森の奥深くへとすすむ侵入者を拒んでいる。平らな森林がどこまでもつづく妖しげな地形だった。
橙色にあわく光る鬼火のようなかたまりが、枝の上をジグザグにすすんでいくのが見えた。端末によると救難信号はあの光のほうから出ている。
木々をかきわけて歩みを早めたが、光は追いつけないほどの速さで逃げ去っていく。しばらく追いかけると、とつぜん光が動きをとめた。どうやら奥が切りたつ崖の袋小路になっていて、逃げ場を失ってしまったようだ。敵意がないことを示すために両手を上げて近づくと、光は地上へと降りてきてその姿を見せた。
人間の身長の半分ほどもない、小さい猿のような体を持つ生き物。頭はカボチャのようにまるまると大きく、表面が透きとおっていて奥のほうから漏れるように光があふれている。この特徴的な見た目はディンクリー星人だ。
ディンクリー星人は緊張した面持ちで、首をかしげながら私のことを眺めている。まだ警戒しているのだろう。
「銀河連邦のエージェント、ダミアン・オーデン。救難信号を受けとって助けに来ました」
ディンクリー星人は喜ぶようにウィウィーと鳴き声をあげた。
ディンクリー星人は首にかけたポシェットから何かを取りだし、私にそれを手渡した。映像が入ったメモリだ。すぐさまそれを読みとって、映像を中空に投影する。
画面がゆれて息を切らした音が聞こえる。灰色の床、積み上がった容器、どこかの建物の物陰から撮られた映像のようだ。何人かがせわしなく作業している様子が写っている。人間に似た見た目だが少しちがう。バダ星人だ。バダ星人たちの背後には、数十メートルを超える巨大な何かがそびえ、ところどころに青黒い輝きのスリットが走っていた。
映像が暗転して切り替わった。宇宙空間から、海が広がる星を撮影している映像だ。画面のすみから巨大な物体があらわれた。さっき見たのと同じく青黒いスリットが走っている。物体は星の重力にひかれて落下していく。どんどん物体は遠ざかっていき、ついには小さくなって見えなくなった。数十秒ほど映像が変わらない時間がつづくと、突然映像が光ってノイズまみれになり、再び画面が見えるようになると、美しい星は消え失せ何もない宇宙空間だけが写されていた。
また映像が切り替わった。青い体をしたパーセプト星人がカメラの正面に立っている。
「銀河中の星々が人知れず消滅しています。バダ星人は狡猾で、連邦政府にそれを悟られないように工作しています。これに気づいた同僚の職員はバダ星人によってすでに殺されました。今私はバダ星人の追跡を受けています。アシスタントのワケチャ、彼とともに二手に別れてこの映像を運びます」
カメラが傾いてディンクリー星人が映った。私の目の前にいるこのディンクリー星人だ。
「助かる可能性はわずか。もしもこの映像を入手したのなら、バダ星人に気づかれぬよう銀河連邦に報告をしてください。バダ星人の一斉攻撃がはじまる前にそれを止めなければいけません」
映像はそこで終わっていた。ワケチャと呼ばれたディンクリー星人は目に涙を浮かべ、映像が消えた中空を見つめている。パーセプト星人の彼はもうこの世にはいないかもしれない。何があったのかは分からないがワケチャは命からがら逃げだして、どうにかこの星に潜伏していたのだろう。
「ワケチャ、私と一緒にこの映像を銀河連邦本部まで届けよう」ワケチャは鳴き声をあげてうなずいた。
私はワケチャを連れて森を戻り、スターシップへと乗りこんだ。いつもは一人で乗る船に旅の仲間ができた。イオンエンジンが噴射する青い光の尾は長い軌跡を描き、船は真夜中の星をあとにした。
私にはおぼろげなもう一つの人生の記憶がある。銀河連邦のエージェントとして働く私ではなく、人間たちの故郷の星、地球で作家として暮らす私の記憶だ。この記憶が何なのか私には分からない。いわばもう一人の私のことをときおり思い出しては、不思議と懐かしい気持ちになることがある。
地球で暮らすもう一人の私が生まれた日、地元で列車強盗事件が起きた。ロンドンへ向かう列車から二百六十万ポンドが奪われた事件だ。父は新聞の記者をしていて、そのとき陣痛が来ていた母を病院にのこし、なんと強盗事件の取材へと出かけてしまった。私が生まれ、一日経ってから父は病院へとようやく戻ってきて、私の顔をのぞいて「元気そうな赤ん坊だな」と言ったらしい。父は取材だといっていつも家を留守にしていた。
小さい頃、母はこの出来事を何度も私に話して聞かせ「新聞記者には絶対になるな」と言いつけた。まだ幼かった私には、強盗事件の取材というものがさぞや楽しいものなのだろうと思えた。
はじめて小説を書いたのは九歳ぐらいのことだ。そのころには母はすでに父と離婚をしていた。書いた小説を母に読ませると、母はなぜだか吐きそうな顔をして「文章の才能があるかもしれない」と言った。そして涙ぐみながら「こういうのをもっと書きなさい。もっと書いたらお金をあげるから。でも絶対に新聞記者じゃなくて作家になりなさい」と言った。母がどういうつもりでそれを言ったのかは私には分からなかったが、「もっと書きなさい」という言葉は私にとって大いに励みになった。
私が新聞記者にはならずに喜んでいた母も膵臓がんで亡くなった。母が亡くなったその年はちょうどウィンザー城が火災になった年で、エリザベス女王が「今年は最悪の年だ」とスピーチで語っていた。私も同感だった。母をなくすこと以上に辛いことはないのだ。
私はときおりこう考える。地球で作家として暮らしている自分は、銀河連邦のエージェントとして働く自分のことを知っているのだろうか。知っているとするなら自分のことをどう思っているのだろうか。そのことを想像するとなぜだか涙がこぼれた。それがなぜなのかはよく分からなかった。そして、もう一つよく分からないことなのだが、自分に二つの人生の記憶があるということがなぜかブランドン博士に関係があることのような気がしてならなかった。胸の奥で誰かがそうさけんでいるような、奇妙な感覚を私は持っていた。
宇宙では光の速度はおそすぎる。ここから銀河連邦本部がある星域までの距離は九千パーセク。光による通信がとどくまでには約三万年、ロマンティックとまでいえる悠久の時間が必要だ。スターシップに搭載されたワープドライブはそれを解決する。大量のエネルギーと一日がかりのチャージによってワープドライブを起動すれば、三百パーセクにも及ぶ空間ジャンプができる。三十回ほどジャンプをくりかえせば銀河連邦本部の星域に到着だ。
ジャンプの合間にはエネルギーを補給するため星間ステーションへと寄港する。燃料切れは航行をする上で何としても避けなければならないことのうちの一つだ。気にかけるべきことのもう一つは宇宙海賊や乱暴者たちによる襲撃だ。茫漠とした宇宙空間では、道理がきかない暴力行為から助けてくれるものは己以外誰もいない。
一回目のジャンプを終え針路を再確認しているときのことだった。センサーの前方に大きな機影が映った。銀河航行法に則り通信で呼びかけてみても反応がなくこちらへゆっくりと近づいてくる。
瞬間、スターシップを球状に取りかこむ青色で六角形のグリットが光った。船内にアラートが鳴ると同時に船に衝撃がはしった。相手の船から発せられたビーム攻撃がシールドに当たったのだ。
「ワケチャ、攻撃されてる。位置につけ」私は大声でさけぶ。ワケチャは何かを喚きながら銃座に飛び乗った。ワケチャはどこで覚えたのか兵器の使い方をすでに知っていた。
操縦桿を大きくたおすと船が急旋回して、コックピット前方にとらえていた敵の船が視界から消える。レーダーを見るとこちらの船を追いかけてきている。事前の脅迫なしの攻撃、強奪狙いの海賊ではなく、私たちを追いかけてきたバダ星人の追っ手かもしれない。
ワケチャの放ったイオン兵器が敵の船へ目がけてまっすぐ飛んでいった。ワケチャは即座にタイミングを見計らい続けざまにビーム攻撃を放った。敵のシールドにイオン兵器が着弾し、一瞬シールドが消滅する。針の穴を通すようなその一瞬で、ビーム攻撃はシールドをすりぬけ敵の船体に直撃した。ワケチャは凄腕の射手だったのだ。
「ウィウィー」ワケチャは片目を吊りあげ、したり顔で鳴き声をあげた。
「まだ終わってないぞ、ワケチャ、集中しろ」私はワケチャを軽くこづく。
そのとき、またもや船内にアラートが響いた。センサーに未登録乗員が検出された。侵入されたのか。一体どうやって。船同士は離れている。
テレポーター。
私の頭の中にその装置の名前が浮かんだ。直接敵の船にワープできる装置のことを武器商人たちが噂していたのを聞いたことがあった。敵がテレポーターを使ってこちらの船に乗りこんできたのだ。船内マップを見るとシールドシステムが攻撃を受けている。船をオートパイロットに切り替えて私とワケチャはシールドシステムがある部屋まで急行した。
部屋に飛びこむと、鈍色の大きな工具のような形をした生き物が装置を破壊しにかかっていた。私の予想は外れ、それはバダ星人ではなかった。体を変形させることができるナノマシン機械生命体、ポレイ星人だ。
こちらに気づいたポレイ星人はすぐさま戦闘用の形態へと変形し、私とワケチャをたたきつけた。鈍い音がして、床にワケチャが吐いた血が飛び散った。体が動かない。ポレイ星人は私たちのことは見向きもせず再び変形し、シールドシステムを破壊しはじめた。私は無力感につつまれながらそれを見届けるしかなかった。
ポレイ星人はとつぜん光の筋だけを残して跡形もなく消え去った。シールドシステムの破壊という任務を終え、テレポーターを使って自船へと帰っていったのだ。
突然視界が大きくゆれた。シールドが破壊されて無防備になった船が敵に攻撃されたのだ。光の衝撃とともに私は大きく吹き飛んだ。視界のすみでワケチャの光る頭と体がバラバラになっているのが見えた。私は宇宙空間へと投げだされ、死ぬのだと悟りながら意識を失った。
宇宙空間に浮かぶテーブルの上でロウソクの炎がゆれている。見たことがある光景だ。
いや、ここは宇宙空間ではない。私が監禁されている暗闇の部屋だ。
私はもうエージェントではなかった。私は作家のダミアン・オーデンだ。
テーブルの上に置かれた様々なチップやボード、カードの束。ダミアン・オーデンのカードのとなりには猿型の宇宙人のイラストが描かれたカードがおかれている。まるで今までボードゲームを遊んでいたかのように散らかっている。
宇宙船のイラストが描かれたボードは、シールドシステム、ワープドライブ、エンジン、兵器、コックピットといった単語で区切られていて、どの部屋にも赤いチップが乗っていたが、特にシールドシステムの上には一番多くのチップが乗っていた。チップの中に埋もれるようにして人間と猿型の宇宙人を模した二体のプラスチックの人形が並んでいる。
私はまだ茫然としている。首元をさわるとリングがない。無意識に外したようで床に落ちている。
「残念だったな、ダミアン」ブランドンはあごに手をあてて、馬鹿にするように唇をつきだした。
ブランドンは立ち上がって、床に落ちたリングを拾った。
「虚構的事実が消滅すれば、リングの効果は失われる」ブランドンが言った。
とつぜんむかつきを覚え、喉元までせりあがってくる感覚と共に胃の中のものを床に吐きだした。絨毯が汚れてすっぱい匂いが広がった。
ショックで何も話す気にならない。ワケチャがバラバラになった場面が頭の中でフラッシュバックする。あれは何だったのだろうか。映画やドラマのような映像とは違う。あれは本物だった。あれからどれぐらいの時間が経ったのだろう。私には何日もの出来事のように思えた。誰かが通報して警察が助けに来てくれることを願った。
「腹が減っただろう。ケーキを食べないか」
食べる気にはなれず、私はその質問に答えない。
するとブランドンが闇の中へと消え、しばらくいなくなった。ブランドンが戻ってくると、その手にはケーキと紅茶のポッドを乗せたトレーがあった。
「お前が食べなくとも私は食べる」
「さっきまでのあれは何だ。このリングは一体何なんだ」私は吐き捨てるように言った。
ブランドンは私のほうを見ずに黙ってポッドからカップに紅茶を注ぎ、フォークをケーキに突き刺して口に運び、それから紅茶をごくごくと音を立てて飲んだ。
「人は通常、物語から得た記憶と現実の記憶を混同してしまうことはない。それは記憶がどうやって生み出されたのかというメタ記憶を持っているからだ」ブランドンはケーキを口にほおばりながら話した。
「しかしそのメタ記憶が働かなくなる場合がある。脳動脈瘤やアルツハイマー病などの神経性の疾患などを発症した患者にあらわれる「作話」と呼ばれる記憶障害がそのひとつだ。「作話」とは、欠如した記憶を埋めあわせるために脳が無意識のうちに物語を作りあげるという症状だ。しかも脳は欠けた記憶を埋めるとき、現実とつじつまを合わせた物語を作り出す。患者は実際には起きてない出来事をまるで体験したかのように話す。本人たちはそれを自覚はしていない。脳が物語をでっちあげたこと自体が、意識にのぼってくることはない」ブランドンは紅茶を飲み干し、ポッドの残りの紅茶をカップに注いだ。それを見ているとだんだんと私ものどが渇いてきた。
「これはお前にとってはおそろしい事実だ、ダミアン・オーデン。記憶や認識というのは脳が作りだしたものであり、人間はただただそれを信じることしかできないのだから。もしも脳が虚構を作り上げてしまえばそれが現実になる。教えてあげよう。お前はただボードゲームを遊んでいた。そう、ただボードゲームを遊んでいただけなんだ。お前の頭の中ではちがうだろうが、私にはそのように見えていた」ブランドンはケーキの最後のかけらを口に入れた。
「そんな……信じられない」私はうなだれた。ボードゲームを遊んでいた感覚はない。カードを持った記憶も、コマを動かした記憶もない。あれはほんとうに現実の出来事のようだった。
「簡単に科学的な説明をするなら、そのリングは前頭葉と後頭葉の特定の機能を阻害し、人工的に虚構と現実の区別をつかなくさせる。作りあげるまではほんとうに苦労したが、言葉にすればたったそれだけだ。しかしこのリングにも欠点はある。人間の想像力が現実の感覚を上回るほどには強くないことだ。子供がするごっこ遊びに必要なものは何か知っているか」
なんと答えればよいのか分からない。私は黙っている。
「それは小道具だ」
「小道具?」
「別の何かに見立てられた道具、それが小道具だ。お医者さんごっこに使われる聴診器、ままごとにおける食器。たとえ小道具が、見立てられる物を模倣するために作られたものでなくとも構わない。木切れを剣に見立てたり、毛布をマントに見立て遊ぶこともできる。今お前の目の前にあるカードやボード、コマがボードゲームにおける小道具だ。小道具は虚構的事実を立ちあげる。たとえば邪悪なドラゴンに見立てた枯れ木を、剣に見立てた木切れでたたけばそれはドラゴンを剣で切ったことになる。しかし、そこで木切れが折れてしまったとしたら、それは剣が折れてしまったことを意味する。想像の中の剣は木切れの存在に依拠し、制限されている。このことによって剣を想像することが容易になるのだ。リングはそれを利用している。お前が体験したもの全ては、ボードゲームの小道具によって立ちあがった虚構的事実にすぎない。これらのカードやコマ、ステージボード以外の存在はあらわれなかったはずだ」
私はテーブルの上を見回してたしかめた。その通りだというしかなかった。あの宇宙天文台やワケチャと出会った森ですら、イラストが描かれたステージボードとして用意されていた。
「残りの細部はお前の脳が想像によって作りだしたものだ。木切れの剣がどういう見た目をしているのか思い浮かべるのが自由なのと一緒だ」
ブランドンは深く呼吸をした。
「小道具というのは遊びだけではなく、色々なことに使われている。たとえばお前たちが使っている紙幣や硬貨もそのひとつだろう。経済とはごっこ遊びのようなものだ」
ブランドンは話終えて満足したのか沈黙した。ブランドンの説明を理解することを私の頭は拒否していた。
「こんなことをして私をどうしたいんですか」私は泣きそうな声を出した。
「クリアしたら分かるさ」ブランドンはただ素気なくそう言った。
「ゲームは終わりました。私を解放してください」私は懇願した。こんなことに関わるのはもう嫌だった。
「いいや、クリアするまでダメだ」ブランドンはきっぱりと言った。
ゲームを遊べば解放してもらえるという望みが絶たれ、私の中にひそひそと絶望感がやってきた。あんなことはもう体験したくはない。悪夢を見ているようだ。気が狂いそうだった。
「もうゲームのルールはつかんだだろう。もう一度チャレンジしようじゃないか。さあ、リングをつけるんだ。そしてあの合言葉をもう一度言うんだ。『ブランドン博士そこにいる? 何してる?』とな」
あの世界へもう一度戻ることが恐ろしい。こんなことになるなら映画を見に出かけなければよかった。
天体観測室のドーム状になった天球を見上げている。見覚えがある。デジャビュというのだろうか。まるで前世の記憶のようだ。記憶の中のブランドン博士は救難信号を受信したことを私につたえる。
「あの星から銀河連邦職員のものとみられる救難信号を受けとった。至急あの星へ向かって保護してもらいたい。エージェントダミアン・オーデン」
記憶の中と同じセリフだ。不思議な感覚、予知のようなものだろうか。天体観測室を出て長い通路をすすむ。
ここを通るのはほんとうは何度目なのだろうか。そんな疑問が頭の中に浮かぶ。ほんとうは? 一体どういう意味だろう。自分の考えていることなのに、疑問の意味が理解できない。
スペースシップのコックピットからのながめは素晴らしい。深淵の中に浮かぶ星々のかがやきが、私を静謐な気持ちにさせてくる。イオンエンジンを始動させると船は急加速した。
これから酒を飲みながら映画でも見ようか。映画? 一体何のことだろう。さっきから自分の頭に変な言葉が思い浮かぶ。任務の連続で気が滅入ってるのかもしれない。今回の任務が終わったら休暇を申し出よう。
落ち着こうと思って星をながめていると故郷の星を思い出した。私の故郷の星のかがやきはここまでは届かない。宇宙はあまりにも広い。銀河連邦の職員になり、私はあまりにも星々を飛びまわりすぎた。休暇を取ったら地球に帰ってみるのもいいかもしれない。地球? 私の故郷の星は地球だっただろうか。思い出せない。何かがおかしい。
私の頭の中で言葉同士がつながっていく。原稿の締め切り、映画、暗闇の部屋。ブランドン博士、スターシップ、ワケチャ。何かを思い出しそうな気がした。私が忘れてしまった大切な記憶だ。エージェントの私、作家の私、前世の冒険の記憶。もう少しで何かを思い出す。だが思い出してはいけないことのような気もする。だがもう考えることは止まらない。脳が勝手に暗い闇の奥底から記憶をひきずりだす。ボードゲームのコマ、カードの束、首につけられた黒いリング、ブランドン。
私は恐ろしい真実にたどり着いた。寒気を覚えて震えが止まらない。
この世界はボードゲームの中だ。
私は今、ボードゲームを遊んでいる。地球で作家として暮らすあの私こそが本物で、今この私は脳が作り出した虚構なのだ。心臓が高鳴って呼吸が苦しい。
私にはこの世界が現実に思えて仕方がない。首元を触ってみるがリングに触れることはできない。リングはボードゲームに使われる小道具ではないからだ。この世界にあるのはカードやコマ、チップ、ステージボードなどのボードゲームに使われている小道具と、私の想像力が生み出した世界のディティールだけなのだ。
私の頭の中にさらなる疑問が浮かぶ。今何回目のゲームなのだろうか。そうだ、すでに私は何度も命を失っている。スターシップを破壊された阿鼻叫喚の光景が数えきれないほど頭の中に流れこんでくる。未知の生物に体内に侵入されて死んだ仲間のパーセプト星人。体術で敵を圧倒したミレグロン星人の仲間は、燃えさかる船の中で命を落とした。ゲームの中で訪れた様々な星。塔がそびえ立つ星。砂漠に地下都市が広がる星。雨が止まない星。
そして私は敵の船を何度も沈めている。数えきれないほどやってくる敵の船を沈めた。沈めた船からスクラップを回収し、星間ステーションにいる武器商人たちに売りつける。商人たちからはいくつもの武器を買った。私の前にはにいくつもの選択肢があらわれていた。ミレグロン星人を助けるか、ポレイ星人を助けるか。エンジンを強化するべきか、武器を買うべきか。
命を失えば全てがはじめからやり直しだ。順調に思えた冒険のときほど終わりはあっけなく訪れる。まるでボードゲームの出来事だ。
これらはやはり全てボードゲームの中での出来事だ。私はこの悪夢を終わらせるためにゲームをクリアしなければいけない。
それから私は数えきれないほどの冒険をくりかえした。そしてついに、その時がやってきた。銀河連邦本部の星域まであと一回のジャンプ、クリアまでもう目前だ。私はゲームのコツをつかんでいて、どうやったら優秀な仲間が船に加わるか、何が有効な武器かを知っていた。
スターシップには四人の仲間が乗っていた。地球人の賞金稼ぎアラスター、ミレグロン星人の若い戦士エルゥ、パーセプト星人の盗賊トレラント、猿型のディンクリー星人ワケチャ。スターシップは装備も十分で、船員はみな経験を積んでいた。
ワープドライブのチャージを待っているときだった。宇宙空間の奥深くで真円の形をした虚無があらわれた。虚無の内側に稲光がすると、その中からゆっくりと巨大な何かがやってきて姿をあらわした。バダ星人の超大型戦艦だ。四方八方に流線形が飛びだす異様な形をしている。これが最後の戦いになるだろう。
ワケチャが照準をにらみながらイオン兵器を速射した。敵船の周囲を旋回する迎撃ドローンがそれを撃ち落とす。まずはドローンを止めなければシールドを破ることもままならないだろう。敵船からの攻撃を予知したエルゥがクローキング装置を起動すると、スターシップは数秒のあいだ不可視になり追尾するビーム攻撃を避けた。
クローキングが切れると敵の本格的な攻撃がはじまった。スターシップの周囲に貼られた二重のシールドがあっという間に消滅した。敵の攻撃サイクルにシールドを再展開するまでの時間が間に合っていない。敵への攻撃をあきらめたワケチャが、敵が放った弾をビームで撃ち落とす。このままでは防戦一方だ。
はげしい敵の攻撃によって一向に攻勢へ転じることができなかった。シールドのエネルギーが減っていき、再展開するまでの時間がどんどんおそくなっていく。ワープドライブのチャージを確認すると、あと少しでチャージが完了することが分かった。私たちの目的は映像をとどけることであって、敵を倒すことではない。攻撃を耐え、逃げ切れば私たちの勝ちだ。
それを察知したのか、敵の戦艦は全ての迎撃ドローンを攻撃に転用し、一斉攻撃をしかけてきた。シールドが消滅した瞬間をぬって船体にビームが直撃する。船体に応急処置をするためアラスター、エルゥ、トレラントがコックピットを飛びだした。
まずはじめに、兵器管制室に向かったアラスターごと部屋がビーム攻撃によって破壊された。船内マップで完全に部屋が破壊されたことを示すランプが灯る。次に、トレラントが向かったクローキング装置のランプが灯った。呼びかけても応答がない。
エルゥが向かったシールドシステムは数秒の間だけ持ちこたえていた。ミレグロン星人のエルゥは形を保ったエネルギー生命体で、小さなシールドを張ることができたからだ。しかしすぐにそれもむなしく終わった。
もうだめだ、スターシップがバラバラに破壊される。あきらめて目を閉じようとしたその瞬間、ワープドライブのチャージが完了したことを伝える甲高い音がひびいた。私は右手でワープドライブを起動するボタンをたたきつけた。円筒の形の空間がスターシップの前に開き、青い光の中へと船は吸いこまれた。
土の冷たい感触がした。体が重く地面に押しつけられるようだ。時間をかけてよろよろと起きあがり、土汚れを払う。そこは宇宙空間ではなく、木々が生い茂る森の中だった。ワケチャとはじめて出会ったあの奇妙な森に見える。となりでワケチャがそわそわとしている。
私とワケチャがいるところから一本の道が伸びていて、庭のようなものがあり、その向こうに大きな屋敷が見えた。まるで私たちを出迎えるかのようだ。宇宙を舞台にしたボードゲームには似つかわしくない中世の英国に建てられたかのような建物。静けさのなか、屋敷の後ろの空では月が妖しくかがやき私たちを見ている。ゲームをクリアしたのだろうか。嫌な予感がする。
私は導かれるようにして屋敷までの道を歩き、重い玄関扉を押して開いた。屋敷の中は天井まで突きぬける広間になっていて、部屋を取りかこむ壁一面が本棚になっている。中央の床にだけ赤い絨毯が敷かれ、テーブルがおいてあった。誰かがぽつんと椅子に座っている。嗅いだことのある薬品のような匂いがする。私とワケチャはおそるおそるテーブルまで歩みよった。
「ようやくここまで来たな、ダミアン・オーデン」それはブランドン博士だった。
「ブランドン博士、なぜこんなところに……」
ブランドン博士をよく見ると、いつも着ているスーツ姿ではない。ブラウンのジャケットではなくボロボロのシャツを着ている。ゲームの中の登場人物が着替えることがあるだろうか。
いや、これはブランドン博士ではない。ボサボサの髪の毛と髭、現実世界で私を監禁している方のブランドンだ。ここはゲームの中なのではなく現実世界なのか? いいや、ワケチャがいる。これは間違いなくゲームの中だ。一体どういうことだ。
「ワケチャ、よくこの男をここまで連れてきた」
ブランドンはワケチャに向かって言った。ワケチャの方を見ると申し訳なさそうな顔でこちらを見て、背中を丸めながら魂を失ったようにふらふらとブランドンの方へ歩いていく。ブランドンがワケチャの頭をなでた。
「はじめに質問をしたが、もう一度聞こう。お前は、小説自体が嘘だと思いながら書いているか」ブランドンは言った。
現実でブランドンからされた質問だ。だが質問の意図が読めない。私はゆっくり呼吸しながら黙っている。
「虚構をしりぞけようとしたある男の話をしよう」ブランドンは私の答えを聞かずに話をつづけた。
「あれはたしか二千四百年前ぐらいのことだ。ギリシアのアテナイという都市に体格がよくて傲慢な男がいた。レスラーや詩人、色々な職業に就こうとした男だ。男ははじめは詩というものをほめる態度をとっていた。なんせ詩人を目指したこともあったぐらいだからな。しかし人間とは変わるものだ」
私はテーブルの上の燭台でロウソクが燃えていることに気がついた。
「男が四十歳ぐらいのころ、シチリア島へと旅行に出かけ、そこでピュタゴラス学派という秘密結社と出会うことになる。ピュタゴラス学派は数学を研究する結社で、男は彼らから数学の教えをうけた。数学というのは計算のための理想的なモデルを扱う。たとえば円だ。実際には完璧な真円はこの世には存在しない。男はこれについて自分なりに考えようとしたのだろう。その結果、イデアというものを考えるようになる。イデアというのは目で見ることができる物体ではなく、その物体の原型となる真の姿のことだ。男はこう考えるようになる。この世界に真に実在するのはイデアであって、我々が見たり感じたりしている現実というものはイデアの低級な模倣である、と。ここまではよかったのだ」ブランドンは額にしわをよせ憎々しげな顔を作った。
「その時代、詩を含む全ての芸術、虚構と言いかえてもよいが、それらは全て現実を真似たものであると人々はとらえていた。つまり、虚構は現実よりももっと低級なもの、模造品の模造品であるというわけだ。人間が思いつきそうないかにも愚かな考えだ。男の名は思い出したくもないが、まわりからはプラントだとか呼ばれていたはずだ」
それはまるでプラトンに会ったことがあるような口ぶりだった。
「虚構が現実よりも低級だというのは間違いだと思わないか、ダミアン・オーデン。小説を書いている君なら分かるだろう」ブランドンはニヤリと笑った。
「君はすでに気づいているのだろう。私がブランドン博士ではないことに。その通りだ。しかし私はブランドンという名前でもない。はじめから私はブランドンではなかった。この体の持ち主の名前を借りて名乗っただけなのだ」
一体何を言っているんだ。
「私の名前はヤグー」
広間にその声が響きわたった。ブランドンの顔がみるみるうちに崩れ去り、ヘラジカのような角を持つ奇妙で毒々しい化け物の顔になった。ヤグーと名乗ったそれは両手をにぎり、両手の人差し指を互いのまわりを回すようにくるくると遊ばせている。どこかで見たことがある仕草だ。
ヤグーの目が灰色に光ると、私の足がとつぜん私の意志に反して動き、テーブルのそばまですすんだ。テーブルの上には黒い宝石の首飾りがおいてある。あのリングよりもさらにものものしい雰囲気を感じる。これに触れてはいけないと直感が告げている。
それを手に取って首につけるんだ。
私の頭の中にヤグーの声が響く。私の腕は意志に反して首飾りをつかむと、それを首へまわした。身体中に電撃のような寒気が走る。
「ダミアン・オーデン、そこにいる? 何してる?」ヤグーは言った。
「今首飾りをつけた」ヤグーにあやつられた私の口が言葉を発した。
体の中から何かが出ていった感覚がして、腕を自由に動かせるようになった。首飾りを外そうとするが取ることができない。
「それは呪いの首飾り。決して取りはずすことができない恐ろしいアイテム」ヤグーが言った。
私は首飾りを強くひっぱったがそれでもだめだった。
「安心しろ。その首飾りの効果は、ただたんに取り外せないというだけだ」
ヤグーはにやにやと笑っている。
「取りはずせないだけの首飾りに何の意味がある」私は言った。
「その首飾りは、一体何を小道具にして存在しているとお前は思う?」ヤグーがおどけるように言った。
「コマか何かを私のカードの上に乗せたんじゃないのか」
「いいやちがう。その首飾りは、お前の首についているリングを小道具にして虚構世界に存在しているんだ」ヤグーの口がさらにゆがんだ。
私はリングにさわるために首に手をのばしたが、そこにあるのは首飾りだった。
「考えてみろ。その首飾りはリングを小道具にしている。そして首飾りは決して取りはずせない。分かるか? この二つの事実が知恵の輪のように噛みあって、お前は首飾りはおろかリングすら外すことができないのだ。このゲームが終わったとしても、首飾りとリングの輪になった因果関係は生きつづけ、お前は虚構の世界から抜けだすことはできない」
ありえない。ごっこ遊びの想像が、現実に影響をあたえるなんてことはあり得ない。私は奥歯をかみしめた。
「理解できたか?」
ヤグーは立ち上がるとワケチャを抱きかかえて撫でた。そして壁際まで歩いていくと、指先で本の背表紙にふれた。
「五十年前、私はある一冊の本を通じて子どもの頃のブランドンの無意識の中に入り込んだ」
「本を通じて入り込む……、お前は一体何者なんだ」
「私はヤグー。虚構の中を渡り歩く脆い存在。イデア、観念、あるいは呪いと呼ばれることもある。お前らの常識で言えば私の存在はブランドが思いついた、とされるのかもしれない。ヤグーという名前もブランドがつけたものなのだと。しかし私は元から存在していたのだ。ブランドンは私にとって天からの贈り物だった。やつは物語の中に恐ろしいほどのめり込む特性を持っていた。ブランドンは小道具なしでも強力な虚構を想像することができた。本を読むだけで私を頭の中に作りあげたんだ」ヤグーが語りはじめた。ヤグーはその存在をたしかめるうように本棚に並ぶ本一冊一冊にふれる。
こちらを振り返ったヤグーと目が合った。灰色の目があたかも万華鏡のように光を反射した。
「虚構の中を渡り歩く存在。たしかに物語やアイディアは人から人へと伝播する。しかしそんなものの存在は認められない」
「今まではその通りだった。私は人間に比べればはるかに弱い存在なのだ。ブランドンの無意識の中に入りこんだといっても、私が影響を与えられるのはほんのわずかのことだ。だが一度目の幸運が起きた。大人になったブランドンが私の思惑通り人間の脳について研究をはじめたのだ。リングを作り出すためだ。それは私がこの世に誕生して以来一番の成果になった。見事リングを完成させたブランドンは、自らを被験体にして装置を試した。そして私にとって二度目の幸運がやってきた! ブランドンが子どものころに読んだ、私が宿っているあの本を、なんと実験のために読みはじめたのだ。そして、現実と虚構の区別がつかなくなっていたブランドンの体を私は完全に乗っ取った!」
ヤグーは顔を醜くゆがめ、うれしそうに飛びはねた。
「一人の人間の体を手に入れて喜んだ私だったが、依然として非力で脆い存在だった。この体がなくなれば、本が消えるのと同じように私も消えてしまう。私が生き残るためにはもっとたくさんの体が必要だった」ヤグーはわざとらしく腕を天にかかげ何かをつかむふりをした。
「ブランドンは虚構を信じ込む天才だったが、他の人間はそうではない。あんなやつは何百年に一人しかあらわれない。物語に夢中になって現実と虚構の区別が分からなくなる瞬間はあれど、私が体をあやつれるようになるほどではない。だから、私を人間に知らしめるための強力な物語が必要だった。そこでお前の小説が必要だったんだ、ダミアン・オーデン。お前の小説はまるで本物かのように虚構が描かれている」
私は唾を飲み込んだ。ヤグーの腕の中でワケチャが小さく鳴き声をあげている。
「お前は目覚めることのない虚構の世界の中で永遠に、私が登場する小説を書きつづける。私の存在を人々に教えるのだ。お前の小説を熱心に読んだ読者たちとリングがあれば、私はもっとたくさんの身体を手に入れられる。おもしろい小説を書け、ダミアン。私のためにおもしろい小説をたくさん書くんだ」
私の頭の中には母の顔が浮かんでいた。「もっと書きなさい」母は私にそう言っていた。
ヤグーは唸り声をあげてオオカミの姿に変身すると、私に飛びかかった。私は床に倒れこむと、絨毯からすっぱい匂いがすることに気づいた。大きく開いたオオカミの口の中が見え、私は気を失った。
2000年4月 イギリス ロンドン
スコットランドヤードで働くナサニエル巡査部長は、小麦粉と砂糖が入ったお菓子だったら何でも口にした。特に好きだったのはドーナツだ。ドーナツの丸い穴ですら愛した。ドーナツの材料の半分は空間なのだ、というジョークを何度も口にしたが、それを聞いて笑う者は誰一人いなかった。
ナサニエルは毎朝起きるとカーテンを開けずにそっと寝室を出る。妻を起こさないためだ。妻のハンナは舞台女優で夜遅くまで稽古をしている。どうもクリエイティブな業界というのは普通の人と生活リズムがちがうらしい。ハムエッグを焼いて、スーパーで買ってきた安くてまずい野菜ジュースを飲む。家を出る直前にベッドで寝ているハンナに声をかける。ハンナはまだ眠っていて何も答えないが、ごくたまに返事を返してくれることがある。ナサニエルはそれがうれしくて毎朝そうしている。
ある日ナサニエルが書類に目を通しながらドーナツをコーヒーにつけて食べていたとき、一本の電話があった。二年前に失踪したダミアン・オーデンという作家の弟モーガンからの電話で、ダミアン・オーデン本人からを名乗る郵便物が家に届いたというのだ。ナサニエルは郵便物は開けずにとっておくようにと言って、次の日モーガンの家を訪ねる約束をして電話を切った。
ナサニエルはダミアン・オーデンという名前は聞いたことがあったが、失踪した事件については詳しく知らなかった。捜査資料にあたってみると、先週定年で退職した担当刑事が自分に引き継ぎをするのを忘れていたようだった。あの刑事のことだから、いなくなるのをいいことに引き継ぎの手を抜いたのだろうとナサニエルは思った。ダミアンは一昨年八月のある日の夜に車で家をあとにして、その後の行方が一切分からなくなっていた。車を含めて何の証拠も見つかっておらず捜査に進展がなかった。捜査メモによると有名な作家が失踪した事件として当時はかなり話題になりテレビにも取りあげられたらしい。
その日、ナサニエルは家に帰ってダミアン・オーデンについて知っているかハンナに尋ねると、ダミアン・オーデンはイギリスを代表する作家で、ハンナもダミアンが書いた小説を舞台化したものを演じたことがあるらしい。ナサニエルは妻の演じた作品すら知らなかったので、たまには妻の舞台を見に行こうと思った。
次の日、ナサニエルはモーガンの家を訪ねた。モーガンは約束通り届いた郵便物を開けずにとっておいたのでナサニエルは安心した。捜査をしていると、こういうささいな約束ごとをちゃんと守ってくれない人たちがたくさんいてうんざりしていたからだ。
郵便物は中がふくらんだ封筒で、たしかに差出人にはダミアン・オーデンの名前があった。どこから送られてきたのかについては封筒を見ても分からなかった。証拠として預かってもよいかモーガンに確認し、ナサニエルはそれを持ち帰ることにした。何か変わったことはないかとモーガンに聞くと、ダミアンが失踪まえに書き上げた小説がいまだに売れつづけていて最近さらに売れ行きがよいのだと言った。モーガンはダミアンの死亡が確定したら、作品の権利を相続して印税をたくさんもらえるのだといった。聞きたかったのはそういうことではなかったが、他に何もなさそうだったのでナサニエルはスコットランドヤードへと戻ることにした。
封筒を開封すると中に入っていたのは小説の原稿だった。
「ヤグーの首飾り」とタイトルがつけられた小説に、ダミアンのサインがしてあった。小説の中身を確認するまえに、指紋や筆跡の鑑定に回すことにした。モーガンにそれを伝え、筆跡鑑定のために必要だからと言って他に持っているダミアンの手書きの書類を送ってもらうことにした。その日はサディアス警部から頼まれていた書類作業を終わらせてナサニエルは家に帰った。
ハンナは稽古で帰ってくるのが遅く、ナサニエルは一人で夕飯をとった。食後はくだらないテレビ番組をながめながら、なんだか食べ足りなかったので冷蔵庫に入っていたブロッコリーと海老をそのまま焼いて胡椒を振って食べた。あの小説を読まなければいけないだろうと思ってナサニエルは憂鬱になった。小説なんてほとんど読んだことがない。しかし捜査のためには読まなければならないだろう。もしもあの小説が失踪後に書かれたものだとしたら、内容によっては何かが分かるかもしれないのだ。部署にいる他の者に読んでもらえないか頼もうと思った。
次の日の朝もハンナは返事を返してくれなかったが、寝顔を見れば十分だった。芸術というのは分からないが、ハンナが自分らしく活動しているならナサニエルはそれだけで誇らしかった。
出勤してまずは小説を読んでくれそうな者に目星をつけることにした。サディアス警部には頼めそうもない。ダスティン巡査はどうだろうか。本を読みそうな顔をしているし、今は厄介な仕事を押しつけられているわけでもない。適任な気がした。
午後には指紋鑑定の結果が出てすぐに原稿が戻ってきた。鑑識にダミアンのファンがいて他の鑑定を後ろに回して優先して作業したらしい。その鑑識に読んでもらえばいいのではないかと思ったが、面識がなさそうだったのでやめておくことにした。指紋鑑定の結果、原稿からはダミアン・オーデンの指紋が検出された。これでダミアンを騙ったイタズラだという線が消えた。
ダスティン巡査に小説を読んで調査書を作ってもらえないかと頼んだところ、スパイ小説ならよいとのことだった。それは実のところダスティン巡査がお願いを断るために言った冗談だった。しかしナサニエルは冗談というものに気づくのがおそかった。ナサニエルはスパイ小説が何なのか知らなかったのでダスティン巡査に聞くと、スパイ小説というのはスパイが主人公の小説だということだった。思っていたよりそのままだなとナサニエルは思ったが、ダミアンが書いた小説の主人公がスパイなのかどうかは分からない。ダミアン・オーデンという小説家が書いたのだとダスティン巡査に伝えると、ダミアン・オーデンはスパイ小説を書かないということだったので、結局自分で読むことになってしまった。
その日の夜、ナサニエルは「ヤグーの首飾り」のコピーを家に持ち帰り読んだ。
その小説は、謎の男に監禁されたダミアン・オーデン本人が、首輪のような装置をつけられて現実と虚構の区別がつかなくなり、宇宙を舞台にしたボードゲームを遊ぶのだが、まるでほんとうに宇宙に行ってしまったかのようになるという内容だった。ダミアンオーデンが失踪した状況を伝えるために小説の形を借りて書いたSOSのようなものに思えた。ダミアンの失踪に関する重要な手掛かりがこの中に書かれていると直感が告げていた。
読むのにはまだまだかかりそうだったので、ナサニエルはお湯を沸かしてコーヒーを飲みながら読むことにした。だんだん真剣になって読みはじめたナサニエルは、うっかりコピー用紙にコーヒーをこぼして黒い染みになってしまった。染みの形を見ると、先日買って棚にしまっていたクッキーのことを思い出してきたので、出してきて食べることにした。
夜遅くになって帰ってきてハンナは、ナサニエルが何かを読んでいるのを見てめずらしいと思った。その日はハンナよりもナサニエルの方が寝るのが遅くなった。
ナサニエルは捜査の一環としてダミアンの小説を読んだが、読んでみれば小説というのはおもしろいものだなとナサニエルは思った。
ナサニエルは次の日の勤務中に小説を読み切った。小説は、虚構の中から生まれたヤグーという怪物が、ダミアンに小説を書かせるために呪いの首輪をつけ、虚構の中に閉じ込めてしまうという結末だった。
あきらかに事件に関係があると思った。ナサニエルが読んだこの小説自体が、ダミアンがヤグーに書かされた小説なのではないかとも思えた。しかしそれはあまりにも現実的ではない飛躍した考えだったので、ナサニエルはそれを忘れることにした。
この原稿はなぜ失踪から二年もたって急に送られてきたのか。ダミアンオーデンはまだどこかで生きているのだろうか。ヤグーという怪物は何かの暗示なのか。謎はたくさん残されていた。
筆跡鑑定の結果、やはりこの原稿を書いたのはダミアンオーデン本人だということが分かった。あとはいつ書かれたものなのかということが知りたかった。紙の日焼けやボールペンのインクなどから書かれた日付を調査したが、確定的なことは何も分からなかった。
捜査に進展があったのは、小説に出てくる固有名詞を調べている時だった。まずはヤグーという怪物の名前について調べたが、特に何も引っかからなかった。次にダミアンを監禁したブランドンという登場人物について調べた。ブランドンは研究によって虚構と現実の区別をなくす首輪を作り出した人物で、結末では実はヤグーという怪物に操られていたことが分かる。ブランドンという名前でデータベースを調べてみると、なんと一昨年ダミアン・オーデンが失踪したのと時を同じくして、オックスフォード大学の医学科の教授であるブランドン・エバンズという男が失踪していたことが分かった。ブランドン・エバンズは脳神経学を研究していて、小説の中のブランドンその人だと考えても違和感はなかった。ブランドンの失踪事件についての捜査資料をあたると、ダミアン同様何の手がかりも得られていないようだった。担当刑事に話をしてみたが、小説のブランドンがブランドン・エバンズであるという確証は得られなかった。
小説の中でブランドンは「作話」という神経心理学の用語を使っていた。これが鍵になるかもしれない。
ブランドンにはエマという妻がいて、ブランドンが失踪した今、残された家に一人で暮らしていた。ナサニエルはエマに電話してブランドンの研究内容について知っているか尋ねたが、夫の仕事内容については何も知らないということだった。配偶者の仕事内容について知らないのはどこも一緒なのかもしれないとナサニエルは思った。そういえばハンナは自分の仕事について知っているのだろうかと、ナサニエルは思いをはせた。
ナサニエルは、今度はオックスフォード大学に出向いて、ブランドン・エバンズの研究について知っている者がいるかどうか聞き込みをした。ブランドンと同じ学科で働く教授たちに話を聞くと、ブランドン・エバンズは確かに「作話」について研究していたということが分かった。失踪した時期の一致と研究内容の一致。小説の登場人物のブランドンはブランドン・エバンズの可能性が高い。ブランドン・エバンズがダミアンを拉致誘拐した犯人だったか、あるいは二人とも同時に何かの事件に巻き込まれた可能性がある。
サディアス警部からは、お前が追いかけるのはダミアン・オーデンであって、ブランドンではないことを忘れるな、と注意された。しかしナサニエルの頭の中ではすでに二人の失踪事件はつながっていた。
小説の中の登場人物が実在したことで、小説の中の他の要素も実在するのではないかとナサニエルは考えた。たとえばダミアンが監禁されている暗闇の部屋だ。小説の中では、窓がなく壁が見えない広い部屋と表現されているぐらいで、他に手がかりはなかった。この場所を見つけられればぐっと真相に近づけるはずだ。
あれはもしかしたらブランドンの自宅だったのではないだろうか。ナサニエルはそう思った。そうなるとブランドンの妻エマも事件に関わっている可能性がある。エマが住んでいる家に行って直接話を聞くことにした。
その日の夜はハンナは早く帰ってきていて、白菜や鶏肉をブイヨンで煮た鍋料理を作り、二人で食べて一緒の時間に寝た。同じ時間に寝たはずなのに次の朝ハンナはいつも通りで目を覚まさなかった。睡眠時間は起きる時間に関係ないとハンナが前に言っていたのをナサニエルは思い出した。
ナサニエルがエマの自宅住所を尋ねてみると、予想外にそれは、二年前まで大学教授が住んでいたとは思えない小さなアパートだった。
エマに迎えられ部屋の中に入ると、ダミアンが監禁されたような広い部屋がありそうな様子は全くない、ただのアパートだった。
最近何か変わったことはないかとエマに尋ねたが、特に思い当たることはないと言われてしまった。ブランドンらしき人物が書かれた小説について話してみても、エマはピンと来ていない様子だった。
どうしてこんなところに住んでいるのか、いつから住んでいるのかとエマに聞いてみると、急にぶっきらぼうな声で、ブランドンがずっと不倫をしていたせいで金がないのだとエマは言った。大学からの給料をわざと低くエマに教え、週末もどこかへ出かけていたのだと言った。そのためエマとブランドンの結婚生活は破綻していて、ブランドンがいなくなってせいせいしているとのことだった。不倫だという証拠はあったのかと聞くと、何をしているのか聞いてもあんな態度ではぐらかすのは不倫以外にありえないとエマは言った。不倫ではない可能性がある、とナサニエルは思った。ブランドンが何のために金を使い、どこへ出かけていたのか気になった。大学や家族に内緒でリングの研究をしていたのかもしれない。
それから数週間後、捜査が行き詰まりを見せていたとき、ブランドンが何に金を使っていたのかが判明した。それは別荘だった。正確には、別荘というよりも文化財のような建物だった。中世に建てられた歴史ある屋敷で、文化保護のために収集された古い建築物の所有者リストにブランドンの名前が載っていたのだ。
このときにはもうサディアス警部はナサニエルの捜査には協力的だった。ナサニエルがどんな時でも書類仕事を手伝ってくれるやつだと分かったからだ。
ナサニエルとサディアス警部は捜査状を持って車でその屋敷へと向かった。屋敷はロンドン市街地から50Kmほど離れた森にあり、道路からもはずれほとんど誰も通らないへんてこな形の木がたくさん生えているような場所にあった。
屋敷の前には放置された庭があり植物は枯れきっていた。屋敷の扉をたたいてもやはり反応はなく、押しても引いても開かなかったので、裏口がないか雑木林の方へと回ってみた。途中、何かを埋めたような土の盛り上がりがいくつかあった。あとでシャベルを持ってきて掘り返して見ようとナサニエルは思った。
屋敷の裏に面する部屋の窓を一つづつ見て回ると、一つだけ開くことが分かった。二人はそこから中に入って屋敷を探索することにした。
ほとんどの部屋は空っぽで何もなく、大きな扉をあけると窓からの明かりがない真っ暗な部屋に出た。
その部屋は嗅いだことのないにおいがした。懐中電灯を使って照らすとそこは広間だった。
広間の壁一面には本棚があり、中央にはテーブルが置かれている。小説の中でダミアンが入り込んだ屋敷に似ている、とナサニエルは思った。小説の中では虚構として描かれていた部屋が実際にある。それは不思議なことだった。もしやと思ったナサニエルは、入ってたきたのと反対側の扉を開けようとした。内側からかける鍵がかかっていたのでそれを外し、ドアノブを開くと外からのまぶしい光が入ってきた。玄関から入ってすぐに広間がある。小説の中の屋敷と構造が同じだ。ダミアンはここで事件に巻き込まれたに違いない。
広間の天井は丸天井になっていて、懐中電灯で照らすと何かがちらちらと反射して見えたが何なのかは分からなかった。
そして、テーブルのとなりに置かれていた椅子が床に溶接されてくっついていた。
ナサニエルは、さっき気になった林の中の土の盛り上がりを調べたかったので、近くの農家からシャベルを借りてきて掘ってみることにした。サディアス警部は何もせずにただ突っ立ってナサニエルが土を掘るのを見ていた。
土の中から出てきたのは骨だった。人間の子供ぐらいの大きさの骨だ。人間のものかもしれないと二人は思ったが、頭蓋骨を見つけてそうではないことが分かった。それが猿のような骨だったからだ。土が盛り上がっている他の箇所を掘ってみると同じような骨が出てきた。
サディアス警部が事件性があると判断し、応援を呼ぶことになった。その日の捜査は夜までかかった。
それから数日かけてブランドンが所有していた屋敷について調査が行われ、様々なことが分かった。広間はもともとあった構造ではなく、改築によってできていたこと。広間に漂っていた臭いの原因は、本棚に並べられた大量の本に、向精神作用のある違法な薬物が液化させて染み込ませられていたこと。見つかった骨は全てチンパンジーのもので、中には生きたまま首を切断された可能性のあるものもあったこと。広間の丸天井には細工した照明が埋め込まれていて、プラネタリウムのように使えるようになっていたこと。奥の部屋からは特撮のような宇宙人の衣装スーツがいくつか見つかったこと。しかし、それら全ての異常とも思えるものが何のためのものかは判明せず、ダミアンとブランドンに繋がるさらなる証拠は見つからなかった。
ある日の夜ナサニエルは、今度君の舞台を見に行くよ、とハンナに言った。ハンナはめずらしいことだと言って笑った。その日はハンナもナサニエルと一緒にドーナツを食べ、二人でくだらないテレビ番組を見た。
ハンナの舞台を見に行く日、ナサニエルは少し緊張していた。ハンナの演技を見るのは結婚前に一度見に行ったきりでそれ以来だったのだ。気合を入れてスーツを着て、公演前にはラウンジでカクテルを一杯だけ飲んだ。たくさんの人が見に来ていた。実のところハンナは人気のある売れている女優でファンもたくさんいた。ナサニエルはそれが誇らしかった。
席に着くとホールの照明が落ち、公演がはじまった。物語はホテルラウンジのバーを舞台にして、ハンナが演じているある女が、届くという手紙を延々と待ちつづけるという内容だった。演じているハンナはバーテンダー役の男から赤ワインをすすめられて飲んだ。いつもは白ワインしか飲まないのに、とナサニエルは思った。作りものの話だと分かっているのに、そこにいる妻のハンナの普段との違いに違和感を覚えてしまって仕方なかった。
この感覚が原因で、ハンナの公演を見るのを敬遠していたことをナサニエルは思い出した。自分は、虚構と現実の区別がついていないのだろうか、ナサニエルはそう思った。これは演劇で、舞台の中のハンナは今はハンナではない。
しかしそうではなく、虚構と現実の区別がはっきりついてしまうからこそ困っているのかもしれないとも思った。舞台の上にいるあの女性はたしかにハンナだったからだ。ナサニエルはどっちがどっちなのか分からずだんだんと混乱してきた。
ハンナが演技をしているのを見ること自体は楽しかった。それはハンナが自分自身がやるべきことをこなし、生き生きと輝いている瞬間だったからだ。芸術や文化というものは分からないが、ナサニエルはハンナを深く愛していた。
その日はナサニエルは先に帰って眠った。ハンナは夜遅くに帰ってきて、ナサニエルの顔を見ておやすみなさいと言った。ナサニエルは寝ぼけながらおやすみなさいと返し、ハンナはそれを聞いてやさしい気持ちになった。ハンナもナサニエルを愛していた。
ダミアン・オーデンは小説の中で現実と虚構の区別がつかなくなった。リングをつけたせいで、ただのボードゲームを遊んでいるはずなのに、目の前に宇宙空間や宇宙人が見えるようになった。しかし、もしかしたらあのリングは、虚構の世界をまるで現実のように見せるものだったのではなく、現実の世界に見えているものを虚構だと思わせてしまうものだったのではないだろうか。
ナサニエルにはそう思えた。
あの広間の天井のプラネタリウムは、小説の中でダミアンが宇宙天文台と呼んでいた天球に似ている。
ダミアンが救難信号を受けて向かった星の森は、あの屋敷の前に広がる森だったかもしれない。
ワケチャという猿の宇宙人は、もしかしたら本物の猿だったかもしれない。
ダミアンの仲間や敵の宇宙人は、着ぐるみを着て人間が演じたものかもしれない。
本に染み込んだ幻覚作用の薬は、現実を虚構に見せることを手助けするものだったのかもしれない
あの広間は演劇の舞台のような一つのセットで、ダミアンは物語のはじめから終わりまで、ただあの屋敷の中にいただけなのかもしれない。
それが何のためだったのか。ほんとうは何が起きたのかは今となってはもう分からない。
それ以来証拠があがることはなく捜査の進展もなくなった。
ナサニエルは「ヤグーの首飾り」の原稿をモーガンに返すことにした。モーガンは原稿を受け取ると、ダミアンの遺作だとして出版社に持ち込んでみると言い出した。やめておいたほうがいいとナサニエルはあわてて言った。小説の中に出てきた怪物ヤグーは、自分のことを信じる読者を増やすためにダミアンを監禁したからだ。出版してしまえばヤグーの狙いを満足させてしまうと思った。
しかしそれはあくまで小説の中の出来事で、現実の出来事ではない。モーガンが原稿を出版社に持ち込むのを止める権利はほんとうのところはナサニエルにはなかった。この約束ばかりはモーガンが守ってくれるどうかは分からない。
モーガンは、ナサニエルには止められたが、兄が書いたという小説をやはり出版社に持ち込もうと考えた。将来的には印税がモーガンのもとに入ってくることになっていたからだ。モーガンは一晩かけて「ヤグーの首飾り」を読み切った。
次の日の朝、モーガンの家のポストにまたもや兄ダミアン・オーデンからを名乗る封筒が入っていた。モーガンが封筒を開けてみると中には一通の手紙と、手のひらより大きいぐらいの黒い輪が入っていた。
手紙には「モーガンそこにいる? 今何してる」と書かれていた。
<了>
参考文献
「おにごっこ物語」マルセルエーメ著 鈴木力衛訳 岩波書店
「フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―」ケンダル・ウォルトン 著 田村均訳 名古屋大学出版会
「なぜフィクションか?:ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで」ジャン=マリー・シェフェール 著 久保昭博訳 慶應義塾大学出版会
文字数:28881
内容に関するアピール
2023年2月 日本 東京
テーブルの上で真っ白に光るディスプレイを見ていると、次に書くべき文字が見えてきます。私が物語を書くというよりも、物語自体が主体性を持ち私を利用してこの世界に侵入してくるという感覚です。もしかしたらこちらにやってくるのは、来てはいけない恐ろしい存在なのかもしれません。
この小説は以下のビデオゲーム/ボードゲーム/小説にインスパイアされて書きました。
・Inscryption
・FTL: Faster Than Light
・ペーパーマリオRPG
・Slay the Spire
・コズミック・エンカウンター
・小川哲「黄金の書物」
・H・G・ウェルズ「タイム・マシン」
・ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」
・ロバート・ルイス・スティーヴンソン「ジキル博士とハイド氏」
・千夜一夜物語
さて、原稿も提出したことだしこれから映画でも見に行こうかと思います。
文字数:375