霊能者・毛塚クオンの葬送
〈1-1〉
お前には霊能力がある。髪を介して、他人の意識を取り込めるんだ。父、毛塚初継はよくそう言って、誰かの遺髪をぼくの口に突っ込んできた。気持ちが悪かった。ぼくが食べたいのは、干乾びて死臭にまみれた白髪などではなくて、キューティクルが艶やかでシトラスの風味が効いた黒髪なのだ。ギブソンタックのクルクルしている部分であると、食べやすくてなお好ましい。しかし、これは話が逸れた。
とにかく、ぼくは父の横暴を止めたかった。死人に──亡き母に執着する父が、見るに堪えなかった。彼は霊媒ができない自身の代わりに、ぼくの身体を使って母を降霊しようと考えている。だからこうして、“鍛錬”と称して出所の知れない遺髪を食わせるのだ。
グルメ的な視座から父を説得するのが難しいと判断したぼくは、科学知識によって対抗しようと考えた。オカルトの申し子みたいなぼくが、こんな手を使ってくるとは父も思わなかったことだろう。
「ねえ、父さん知ってる? 髪って食べちゃいけないんだよ。ケラチンっていう頑丈なタンパク質でできているから、ウッカリ飲み込むと大変なんだ。だから、ね。もう止めようよ。ぼくの胃袋は人間の胃袋なんだ。消化なんかできっこないよ」
「違うぞ、クオン。お前の身体は霊能者のそれだ。髪を食むことで他人の意識を、生命を得ることができる。命の枯れた髪はおのずと分解されるのだから、なにも心配することはない」
「でも、もし上手くできなかったら? 胃腸の中に、髪が永遠に取り残されることになったら、どうすれば良いの……」
勿論、上手くいかないなんてことはない。ぼくは、毛塚一族で随一の霊媒師だ。その点についてはプライドがある。
髪の毛一本で二分間──それだけの間、霊媒を維持できる人間はこの世に数えるほどしかいないだろう。しかしそれでも、齢十二の子どもが親に泣き落としを仕掛けちゃいけない理由にはならないはずだし、ある程度の効果があるはずだ。
そう見込んで打った芝居だったが、しかし父には通用しなかった。
「永遠。永遠か。結構なことじゃないか」
父は心底嬉しそうな様子でそう返したのだ。
ぼくは予想外の反応に、思わず硬直してしまう。
「消化できないのなら、それもまた一興だ。遺髪の持ち主はみな、お前の中で生き続ける。お前の胃袋の中で、永遠に。さあ、いっぱい食べて立派な霊媒師になるんだ」
お残しが許されないのは、給食だけで十分だ。ぼくは食べたいものを食べ、興味のある人間だけを降霊する。遺髪入れや骨壺の代用品にされるのはウンザリだ。
母さんは死んだ。母さんは死んだんだ。子どものぼくに分かることが、父さんに分からないはずはない。フランケンシュタインの真似事なら、一人でやってくれ。ぼくはアンタの怪物になんかなってやらない。
そう思っていても、ぼくはそこまで言い切ることができなかった。
なぜって。母さんが、ぼくを産んだために命を落としたと知っているから。
霊媒をしないぼくは、父さんにとって無価値な人間だと理解したから。
ぼくはこの日から、渡された遺髪を隠れて始末するようになった。飲み込んだものを吐き出して、アルカリ性の配管洗浄剤で溶かすようになった。
遺髪に付いた消化液を洗い流していると、ぼくは虚無感に苛まれる。「死者たちはみな、霊媒によって“復活”させられる日を心待ちにしているのだ」と、父さんはよく言うけれど、ぼくにはどうしてもそうは思えなかった。
大抵の遺髪は、死に対する恐怖ばかりを記憶している。死が焼き付けられると、生前の思い出は呆気なく掻き消えてしまう。まるで、記憶する意味がなかったかのように。
今まで色んな人間の意識を味わってきたけど、多くの者は「死にたくない」とは思っていても、「生きたい」とは思っていないように感じる。それは、ぼくだって同じだ。人生なんてものは、一回きりでも腹いっぱいだ。好き好んで二度三度と味わおうとする奴は余程の幸せ者か、想像力の足らない阿呆だろう。
誰だって、二度目の生がぼくの人生だったらクーリングオフを望むはずだ。
親に才能だけを望まれる子どもなんて、不幸以外の何物でもない。
「永遠なんて願い下げ、だよな」
洗い清めた遺髪をパイプクリーナーに落とすと、ぼくは取り敢えず手を合わせてみる。信心深さなんて欠片も持ち合わせていないけど、眼前で消えゆく命の残滓に対して思うところはあった。
この髪は、この人は、ぼくの手によって二度目の死を迎える。
ちゃんと死ねるだけ幸せだ、とは言わない。
この世に生を受けることが不幸だ、とも言わない。
ただ、死んだ奴は死なせておけという話だ。
霊媒もなしに死人の気持ちを代弁する奴は、詐欺師か単なる卑怯者だ。死人にとって何が幸せかなんて、誰も知らない。だから、ぼくは誰かを葬ったという事実だけを負う。それがせめてもの誠意であり、死者に対する償いだった。
ぼくは毎夜、パイプクリーナーを抱いて眠る。
そうしないと、死人が恨み言を言いに来るような気がしたから。
母さんが化けて出ると思ったから。
〈1-2〉
遺髪を食わせるとき以外、父はぼくとの接触を持たなかった。屋敷の中に押し込めて、外界から隔絶することだけに注意を向けていた。そうすることで、ぼくが死者の降霊に打ち込むようになると思ったのだろう。まったく的外れも良いところだ。ぼくは、伯従父の至さんに頼んで、生きた人間の髪を方々から集めてもらっていた。
ある日は地元少年団のエースになり、またある日は有名キッズモデルになる。
色んな記憶を追体験することで、ぼくは己の孤独を慰めていた。しかし、至おじさんはこの状況を歓迎していない様子だった。定規で引いたみたいな眉を、√状に歪めて彼は言う。
「クオンくん。我々に霊媒を頼みに来る人間は、それこそ掃いて捨てるほどいます。恐らく、君に髪の毛を提供し続けることはそう難しくはないでしょうし、これから先も色んな人の頭の中を覗けることでしょう。しかし、それだけで満足できますか」
彼はいつも、毛塚宗家の人間には敬語だ。
それは、ぼくのような子ども相手でも例外ではない。根っから堅物なのだ。
「……質問の意図が分からないな。それより、おじさんも一本どう?」
そう言ってぼくは、咥えていた毛髪の束を突き出した。
キザったらしく、タバコでも薦めるみたいにやって見せたのだが、ウケはいまいちだった。おじさんは渋面を崩さずに答える。
「いや、結構。そもそも私は、他人に意識を“送信”することしかできませんからね。クオンさんみたいに、受信することはできないのです」
「へええ。ウチの人はみんな、どっちもやるものだと思ってたよ」
「とんでもない。私が知る限り、〈誘起霊媒〉ができる人間はクオンさんくらいですよ」
「ゆうき、れいばい?」
なんだ、それは。有機栽培の間違いか。
ぼくの反応が思わしくないのを見て、おじさんはいよいよ呆れた表情になった。
「どうやら初継さんは、君を霊媒師として自立させる気はないようですね。良いですか、クオンくん。誘起霊媒というのは読んで字の如く、他人の意識を誘い出し己の内に起ち上げるものです。悪用すれば他人の秘密を好き勝手に暴くことができますが、正しく使えば相手のことをより深く理解することができる」
「それ、言ってることは同じじゃないの?」
「同じですよ。要は、使い手次第ということです」
じゃあぼくは落第だな、と思った。
ぼくは他人の頭を覗き込むことを娯楽にしている。モノとして消費している。そこには多分、他者への慈しみというものがない。まるで説教されている気分だ。実際、誰かに説教された経験なんてぼくには無いけれど。
「おじさんは霊媒するとき、そういうことを考えていたんだね」
「そう、ですね……いや、違うな。私にはできなかった。〈侵襲霊媒〉はその性質上、他者に対して攻撃的な面しか持たないから」
「攻撃的?」
「他人の頭に押し入って、肉体の主導権を奪おうというのです。これ以上、攻撃的な行為があるでしょうか。クオンくん、私はね。君が羨ましいんですよ。君は誰かを操って罪を犯した経験もないし、その能力も持ち合わせていない。君はまだ、まっとうに生きていくことができる。それは君自身も望んでいることじゃないですか?」
どうだろうか。ぼくは普通の人間として生きていけるだろうか。今でさえ、おじさんが何故こんなことを言い出したのか、霊媒で確かめたくて仕方がないというのに。ぼくは霊媒師の道を捨てられるだろうか。
ぼくには分からない。
分からないが、霊媒能力さえなければ、こうして辛気臭い屋敷の中に囚われることもなかったし、死人の影に怯える必要もなかった。その点は確かだし、ぼくが誘起霊媒を使えてしまうということもまた紛れもない事実なのだ。
ぼくに選択肢はない。才能がぼくを呪縛するから。
「霊媒をやめるなんて言ったら、父さんは許さないと思うよ」
ぼくは意図して、会話の主題をすり替えた。自分の問題から、父さんの問題に。
しかし、その程度の浅知恵は霊媒など使わなくともお見通しだったらしい。おじさんは確信を得たように頷き出した。
「やはり君は、やめたがっているように見える。当然と言えば当然のことです。君は遺髪での霊媒を繰り返すたび、他人の死を追体験する。初継さんはそのうち、生前の記憶までも覗けるようになると期待しているようだが、それまで君の精神が保つとは思えない」
「そんなこと、父さんは気にしないよ。だからぼくは一生、この家で飼い殺しにされる。それで納得するしかない」
「では何故、君は隠れて遺髪を溶かしているのですか? 何故、私に生きた人間の髪を求めるのですか?」
見られていた。ぼくは思わず黙り込んでしまう。
まるで、イタズラがバレた悪ガキの気分だ。これも実物を見たことはないけれど。
「別に責めているわけではありません。言ったでしょう? 死人を霊媒し続ければ、君はいつか重大な心的外傷を負うことになる。それを避けることに後ろめたさを感じる必要はないし、外に憧れを抱くのは当然だ」
君は自由になるべきなんだ、とおじさんは締め括った。
それは長年ぼくが憧れた言葉であり、同時に否定してきた言葉でもあった。
自由自由と言うのは易いが、この世に自由な人間などいるわけがない。ぼくらは生きている限り、過去からは逃れられない。生きている限り。
「母さんはぼくを産んだばかりに死ぬことになった。だから、ぼくの命は母さんのために使われるべきなんだって」
「初継さんが、そう言ったのですか?」
「うん」
ぼくが頷くと、今度はおじさんが沈黙する番だった。
救いようのない父子。そう思ったんだろう。むしろ思ってくれ。そうすれば、この話は仕舞いだ。ぼくは自室の六畳間に戻って、恵まれた子どもたちの記憶に耽溺することができる。放っておいてくれ。ぼくたち父子の関係は、始まった瞬間から末期だった。せめて、QOLくらい守らせてくれ。
しかし、ぼくの望みを他所におじさんはなおも食い下がった。
「クオンくん、ハッキリと言っておきますがね。君のような子どもが青春を棒に振ってまで果たすべき責任なんて、この世にありはしませんよ」
「あの世にあるって話でしょ。これは誰にも否定できないことだ。生きている人間には」
「そうかな」
そうなんだよ。ぼくは段々、イライラが抑えられなくなってくる。
なんでも良いから、髪の毛を噛みたい気分だった。誰でも良いから、他の人間に成り代わりたかった。どうして母さんは、ぼくを連れて行ってくれなかったのだろう。
「じゃあ、君はこう言いたいわけだ。君の母親は、自分が生き返るためなら我が子が苦しむのも厭わぬ、冷徹な性悪女だと」
「母さんはそんな人じゃ――」
言い掛けてから、ぼくは自分が知りもしないことを口走ろうとしていたことに気が付いた。霊媒もせずに死人の代弁をするのは悪だと散々言ってきたのに。母さんはぼくを咎めないだろうと、心のどこかで期待している。
おじさんはそれを暴くために、わざと口汚い言葉で挑発をしたのだろう。
綺麗な顔して、とんだタヌキだ。
「そう。実際、君のお母さんは善良なひとだった。彼女が侵襲霊媒を使って見せたのは、毛塚の家に嫁ぐと決まったときの一度きり。我々と違って、濫用しないだけの良識があったんだ。君の期待通りにね」
「そんなの、勝手な期待だよ」
「それを言うなら、初継さんのも勝手な期待だ。君が犠牲になるという期待、奥さんが復活を望んでいるはずだという期待、それらは全て彼が勝手に考えていることだ。君を縛り付ける理由にはならない。そうでしょう?」
「そう、かもしれないけど」
ぼく自身、母さんの死に責任を感じていて。
でも、死人を霊媒して廃人になるのも怖くて。
そこから逃げ出すしかない自分が許せなくて。
そうして雁字搦めになって、疲弊していく生活にウンザリしていた。
おじさんに話すうちに、ぼくは状況のどうしようもなさに涙していた。
「どうしようもないねぇ」
おじさんは溜め息交じりにこぼした。ようやく、共通の見解に至れたらしい。
そうして長い長い沈黙のあと、彼は脱力した口調でこう付け足した。
「どうしようもないならどうしたって良い、ってことにはならないかな」
「ええ?」
「今の君は、誰がどう見たって立派にドン詰まりだよ。私くらいの年齢の人間が言うんだから間違いない。君はどうしたって必ず後悔することになる。請け合うよ」
また、おじさんが意図の読めないことを言い出したので、ぼくは茫然としてしまう。
一度、この人の髪をくすねておいた方が良いのかも知れない。理解しきる頃には、頭の上に巨大な不毛地帯が出来てしまいそうだけど。
「おじさんはぼくを追い詰めたいの? そうなの?」
「とんでもない、その逆だよ。良いかい。“人間に残される最後の自由は、自分の態度を選択すること”って言ってね。君が責任に殉じたいならそうすれば良い。この家から逃げ出したいのならそれもまた良し。ただ、どうあっても悔いは残るものだと心得ておくべきだ。君は超一級の霊媒師だが、所詮はただの人間だ。神様じゃない。自分も、ご両親もそれ以外の人間も、みなが満足のいく選択なんて人間風情に取れるはずはないんだ。それを思い悩むのは、いっそ傲慢とさえ言える」
「……もしかして、慰めてる?」
「ようやく気づいてくれた。やはり、クオンくんもまだまだですね。霊媒に頼りすぎると、言語コミュニケーションに支障が出ますよ」
あなたにだけは言われたくない。言おうか言うまいか一瞬悩んでから、ぼくはそれを口にした。おじさんはフフとお上品に笑って、ぼくの放言を許した。
怒ったり泣いたりして気が抜けたせいか、ぼくもつられて笑ってしまう。
自分の身体で笑ったのはいつぶりだったろうか。
「つまり、開き直れってことだよね」
「まあ、平たく言えばそういうことになりますかね」
「酷いアドバイスがあったもんだ。もし母さんが夢枕に立ったら、なんて言えば良いの」
そうですねえ、とおじさんは天を仰ぎ見て、
「『遅かれ早かれ我々もそちらに参るのですから、こちらにいる間はとやかく言うのはお控えください』とでも言ってはどうでしょう?」
「ぼくは、おじさんに唆されたって話そうかなあ」
「おやおや。なんとまあ」
おじさんはぼくに“許す”とは言わなかったし、“間違っている”とも言わなかった。ただ、ぼくの抱えていた罪悪感を引き受けようとしてくれた。おじさんが共犯でいてくれたお陰で、ぼくは十代を生き延びることができた。
だから、ぼくの命はおじさんのものでもある。
もう母さんだけのものじゃないって、思えるような気がしたんだ。
〈2-1〉
齢二十を迎えて、ぼくは毛塚の屋敷を出た。
父さんは学費を出してくれなかったけど、ぼくには十分な貯蓄があった。四年目まで、自力で大学に行ける公算があった。しかし、大学デビューがぼくの計画を狂わせたのだ。お酒に服にサークル代。学業と関係ないところでお金を擦り、気が付けば口座残高は家を出た時の半分以下。さりとて生活水準も下げられず、自力で稼いだ経験もない。
有り体に言えば、ぼくは世間知らずのボンボンだった。
バイト代だけでは満足できず、結局、霊媒師としての才に縋ったのだ。
「なあに、髪占いって?」
やや呂律の怪しい調子で、筒状の図面ケースを背負った女性が話し掛けてきた。時間帯や身なりから察するに、この辺りに通う学生だろう。襟足全体を染めるピンクレッドのインナーカラーが目に鮮やかだ。
大宮駅の周辺では、日の入り辺りから露店をやっていると、こういう酔っ払いの若者が面白がって絡んでくれる。ぼくは緊張を押し殺して説明を始めた。
「ええと。その髪を……髪を切ってですね。ぼくの口に含むわけです」
「え、なに。どういうこと?」
「ですから、貴女の髪を食むんです。そうすれば、貴女の全てが分かります」
途端に女性は、呆れたような笑みを浮かべた。
こういう反応は、既に何百回と見ている。
「いわゆる髪フェチってやつ? 髪を食べるための方便でしょ、違う?」
「方便などではありません。そういう能力なのです。第一ぼくは、インナーカラーは好みじゃない。オーガニックな感じがしないから」
「やっぱり、フェチでしょ」
女性は人目もはばからずケラケラ笑った。
そしてひとしきり笑った後、彼女はおもむろに自分の髪を一本引き抜いて見せた。
「面白いから付き合ってあげるよ。ほら、何か占って見せて。外れたら『変質者だ』って交番に駆け込むかも知れないけど」
「望むところだ、と言わせてもらいましょう」
髪の毛とお代を受け取ると、ぼくはブリーフケースから書類を取り出した。
女性が怪訝な表情をしたので、まずそいつの説明から掛かることに決めた。
「これは秘密保持誓約書です。占う相手には必ず手渡しています」
「え、毎度これ渡してるわけ? なんで?」
「逆に訊きたいのですが、なぜ世の占い師たちは秘密保持契約を結ばないのでしょうか。今は情報保護がどうのと五月蠅い時代です。それなのに、なぜ然るべき対応を行なわないのか? 答えは明白です。彼らはみな、知りもしないことを口にしているからです。当てずっぽうを言うから責任を負う意識もない。それが行動に現れている」
「……きみ、友達少ないでしょ?」
あまり残酷な真実を口にしないでほしい。泣き喚くぞ。
ぼくは質問には答えず、受け取った髪のお清めを始めた。ラーメンの粉落としの要領で、サッと水に通すのがポイントだ。こうすると、香味が落ちなくて良い。
さて、まずは観察から入る。
「ふむ、ノンシリコンシャンプーですか。良いものを使っていますね。ラベンダーの匂いは好みですよ」
「うわ、当たってる――って、シャンプーソムリエじゃないんだからさ。はやく占いをやってよ、占いを」
「結構ウケるんですがね、これ。残念です。では、お望み通り本題に入りましょうか」
いざ実食、である。
ぽいっと髪を口に放り込むと、女性はゲッと小さな悲鳴を上げた。ぼくは瞼を閉じて、舌先に乗っかったか細い気配に集中する。周囲から音や匂いが消え失せて、ぼくの意識は深い闇へと落ちていく。
最初に見えるのは、いつも同じイメージだ。暗がりの中で七色の光を放つ、巨大な球状の浮遊体。ぼくら霊媒師は〈虹天球〉と呼んでいるが、こいつは無数の毛髪で編まれたような様態をしている。ぼくが手を触れると、虹天球はお目当ての記憶を見せてくれる。
思うに、これは人類の意識の集積だ。食べた毛髪は、そこへ至るアクセスキーだ。
気が付くと、ぼくは女性の意識に同期している。
彼女が求めているもの、聞きたがっている言葉がすぐに分かった。
口の中で髪の舌触りが消えて、ぼくの意識は現実へと引き戻される。
ぼくは、自分が毛塚クオンであることを思い出す。
「おーい、もしもし? 大丈夫?」
そんなに私の髪はマズいか、などと女性が間の抜けたことを言うので、ぼくは思わず吹き出してしまった。不味そうな髪は念入りに洗うから、心配など要らないのに。
「問題ありません。それより視えましたよ、葛城フジカさん」
名前を言い当てられて、その女性は――葛城フジカはまた小さく声を上げる。
これが、生きた人間の憑依をやった時の醍醐味だ。ぼくは調子づいて、自分が目にしたことを話し始める。
「まず、貴女が探している人物についてお話しましょう。その人は二十一歳、男性で、髪は茶色のツイストパーマ。身長は貴女より二回りくらい大きくて、肩幅もかなりあるようだけど……かなりのなで肩のようですね。名前は芳賀ヒロキさん。貴女と同じゼミで、年齢は一つ下だ」
「驚いた。事前調査でもしてるの、これ?」
ここで遮られても面白くない。ぼくは構わず、続きを口にする。
「芳賀さんが失踪したのは、今から二日前のことだ。学校にも、寮にも姿を見せず、実家にも戻っていない。だから貴女は、彼がよく出歩いていたこの街を探すことにした」
「そう、その通り」
「しかし結果は、空振りだった。そのまま帰るのが癪だった貴女は、二ブロック先の居酒屋でコークハイを一杯飲み、ここへとやって来た。それは偶然じゃない。貴女はもともと、ぼくの評判を耳にしていた。占いに頼るなんて馬鹿馬鹿しいと思ったから、酔っ払いのフリをしていただけだ。そうですね?」
ぼくが訊ねると、葛城はお手上げのジェスチャーをして見せた。
「一昨日、友達が言ってたんだ。『若干アレだけど、優秀な占い師を見つけた』って。単なる不審者だったらシメてやろうと思ってたけど、どうやら意外とやるみたい」
「ああ、あの子ですか。覚えていますよ。実に美味しそうなおさげをしていた」
「……『かなりアレだけど優秀』に修正した方が良さそうかな。まあ、それは良いや。話を戻そう。次に私が何を頼むか、もう分かるでしょ?」
「芳賀さんの居場所、ですね」
葛城はぼくの問いに頷き、リュックからフリーザーパックを取り出した。中には、使い古されたヘアブラシが一つ納められている。曰くそれは、寮長に頼み込んで彼の私室から回収したものだということだった。なんと言って説明したのか気になるところだが、生憎とその辺りの記憶は視られなかった。
知らないことは口にしない。口にすべきではない。
ぼくは会話もそこそこに、ブラシに付いた髪の毛の観察を始めた。
「デッキブラシみたいな髪ですね。髪というよりヒゲのようだ…………ヒゲじゃないですよね?」
「ヒゲにブラシを掛けるとは思えない。ていうか、ヒゲだったらマズいの?」
「大いにマズいですね。髪以外では、意識にアクセスすることができない」
これを聞いて、葛城は怪訝な表情を浮かべた。大方、妙な拘りのせいだとでも思っていたのだろう。やむなくぼくは、誤解を解くことから始める。
「数ある体毛の中で、なぜ毛髪だけが特権的に成長を続けているのか。葛城さんはその理由を考えたことがありますか?」
「さあ、脳を刺激から守る為じゃないの。熱とか、衝撃とかからさ」
「まあ、そういった副次的な効果もあります。ですが、本来の役割はむしろ逆です。髪の毛は刺激を拾う為の器官。即ち、感覚器として備わったものです。もっとも、多くの人間はその能力を退化させてしまったようですが」
「トンデモ科学の世界だね。きみはつまり、私たちの頭にはゴキブリの触角が植わっているようなもんだと言いたいわけ?」
ゴキブリ怪人のように言われるのは癪だ。猫のヒゲとか、他の喩えがあったろうに。
ぼくは何となく、このひとの人となりが分かってきた気がした。
彼女相手には、ツッコミを入れるだけ無駄らしい。
「まあ、触角というのは的を射た表現ですね。ぼくたちの界隈では、髪はまさに触角そのものだ。意識を発し、受信し、記憶する。アメリカン・インディアンたちもそれをよく知っていた」
「インディアン? 口に手を当ててアワワワーってやる、あの?」
イメージが貧しすぎる。
「……彼らは目に見えぬ罠を見破り、待ち受ける敵の気配を感じ取ることができた。ところが、軍隊に徴兵されると、途端に超感覚的知覚を喪った。入隊時に行なわれる断髪によるものです。彼らは、伸ばした髪を介して他人の意識を感じ取っていた。髪には不思議な力があるんです」
「そんな与太話、普段なら笑って聞き流すところだけど、さっきの占いを見た後だとそうもいかないか。正直、ちょっぴり信じそうになってる」
「まあ、信じるか信じないかは貴女次第です。なんにせよ、ぼくには髪の毛が必要だ」
言いながらぼくは、フリーザーパックに手を突っ込んだ。ブラシに付いた体毛からは、ほんのりと意識の残滓が感じられた。どうやら、髪の毛で間違いないらしい。しかし、抜け落ちて何日も経過した髪というのは、ぼくといえど抵抗がある。
「好き嫌いは良くない。お母さんに教わらなかった?」
「子に髪を食わせながら、そんなことを抜かす母親がいますかね?」
父親ならいますけどね、という台詞はギリギリで飲み込むことにした。
ぼくは、いつもより念入りに洗ってから芳賀の毛髪を口に含んだ。
「ここからは別料金で頼みますよ」
再び瞑目すると、ぼくはまた虹天球のもとへと引き戻される。
芳賀ヒロキの意識に接続したとき、はじめに感じたのは寒気だった。
まだ八月も半ばだというのに、芳賀の身体は凍えたように震えている。ぼくは何だか嫌な予感がして、もっと古い記憶に遡ろうとしたが、芳賀の意識がそれを許さなかった。記憶がぼくを掴んで離さない。この感覚をぼくは知っていた。
「『助けてくれ』」
芳賀のかすれた声が、ぼくの口を介して発せられる。
ここは人里離れた山の中だ。助けは来ない。助けは来ないんだ。
「『やめろ、頼む』」
ぼくは懇願せずにはいられない。眼前には、振り上げられた血濡れのナイフ。
鼓動に合わせて、身体から血液が漏れ出ていく。もうやめてくれ。ぼくは泣きそうになる。
胸の肉がナイフを柄の手前まで飲み込んだところで、頬を衝撃が打った。その感覚は、先に負った刺し傷よりも強烈で、生々しくて。
再びぼくは、自分が大宮にいることを思い出す。毛塚クオンであることを思い出す。
「ちょっと、大丈夫? ねえ」
葛城が覗き込んでくる。ぼくはいつの間にか、地面に転がっていた。
どうやら、頬を張って引き戻してくれたのは彼女らしい。
ぼくは努めて冷静に、霊媒の結果を伝えた。
「――この人、もう亡くなっています」
〈2-2〉
店じまいもロクにせず、ぼくと葛城はタクシーに飛び乗った。
運転手のおっちゃんは、手ぶらで秩父山地に向かおうとする二人組を大いに不審がっている様子だったが、葛城はさらにそこへ油を注いでしまった。
「大急ぎで向かってください。高速でも何でも使ってくれて結構なので」
「そりゃ構わないけどさ。お二人さん、こんな夜更けに何しに行くの? 目的地のところ、完全に山中だよコレ」
「実はさっき、この人がうらな――」
ちょっと待て。ぼくは慌てて、葛城の口を塞ぎに掛かった。
そして、あっさり反撃に遭って腕を捻じり上げられた。
「なんの真似?」
「『なんの真似』じゃありませんよ。なに口走ろうとしたんですか。それ言ったら、完全に危ない人じゃないですか」
一瞬考えこんでから、葛城は小声でこう切り返した。
「いや、危ない人でしょ」
「え」
「髪は食べるし、おさげが美味そうとか言うし、芳賀は殺されたとか言うし。完全に危ない」
危ないのは三つ目だけだと思う。
そんな私見は脇に置いて、ひとまずぼくは腕の拘束を解き、
「そう言う割に、タクシーには乗ったじゃないですか? ぼくのことが信じられないなら、付いてくる必要もないはずだ」
「現状、唯一の手掛かりを逃せるはずないでしょ。それに付いてくる必要がないっていうのは、むしろきみの方じゃない?」
「ぼくが行かなかったら、貴女は独りで行くことになってましたよ。『霊媒で殺人の様子を目撃した』なんて、警察に言ってもイタズラだと思われるのがオチだろうし」
とにかく覚悟しておいた方が良い。ぼくが念を押すと、葛城はやや納得いかない様子ながらも首を縦に振った。こうなると、落ち着かないのは蚊帳の外になっていたおっちゃんだけになる。ぼくは余所行きのトーンで、運転席に声を掛けた。
「心配しなくても大丈夫ですよ。この女性のご友人に会いに行くだけです」
「ああ、そう? そんなら良いんだけどね。送った先で失踪とか心中って話になったら、こっちは堪らないからね。事情聴取とかされそうだしさ」
「お察ししますよ」
人が死ぬと寝覚めが悪くなる。よく分かる話だ。ぼくも相変わらず、パイプクリーナーが無いと悪夢を見る。いま眠ったら、芳賀の末期を夢に見るのは確実だろう。
ハイウエイのジョイントが奏でる単調なリズム、等間隔に過ぎ去る白線と照明灯のすべてが憎かった。高速道路催眠現象とはよく言ったものだ。寝息を立て始めた葛城を他所に、ぼくは延々とおっちゃんに話し掛け続ける。
タクシーが秩父山中に到着したのは、大宮を発って1時間半が経過した頃だった。
〈2-3〉
芳賀の記憶で見た場所とはいえ、世闇の中、山道を行くのはそう楽なものではない。
スマホのライトを使っても照らせる範囲はごく限られるし、片手が使えないとなると動きがかなり制限される。せめてもの救いは、ゴール地点のアテがあることだ。木々の隙間から、僅かだが光が漏れている。それは人工的な光。照明の光だ。
「丑の刻参りにでも鉢合わせそうな雰囲気だね」
先を行く葛城が、ゲンナリした調子で言う。
しかし、その口ぶりには怯えの色はなく、また息が上がっている様子もない。こちらは既に疲労困憊だというのに。
「殺人現場より、丑の刻参りの方がまだマシですよ。なんせ、そっちは犯罪行為にあたらない。いや、器物損壊罪には問われるかもしれないけど、少なくとも殺人未遂にすらならないわけですから」
「そうなの?」
「因果関係が証明できませんからね。呪いや超能力で人を殺せる人間がいたとしても、そいつを裁くことはできないというわけです。 “不能犯”ってやつですね」
「詳しいんだ」
それは、家庭の問題だからだ。
他人の肉体を乗っ取れる人間――即ち、侵襲霊媒師に掛かれば“呪殺”のような真似も容易いことだ。ターゲットに意識を入り込ませ、飛び降りなり割腹なりさせれば良い。そうすれば、疑いの余地なくその人間の死は自殺として処理される。
毛塚一族はそうやって、家を大きくした歴史があるのだと至さんは言っていた。
いつの時代の話なのか、訊く勇気はなかった。
「静かに」
明かりの出処が近いことにかこつけて、ぼくは話を遮った。
ランタンが放つ明かりの中で、一人分の影が揺れている。よく見れば、そいつはぼうぼうとした茶髪の持ち主で、見上げるような体躯の大男だ。ぼくは、この男を知っている。
この男の名は、芳賀ヒロキ。二時間前に刺殺されたはずの男だ。
そいつが、シャベルで穴を掘っている。己が眠るべき墓穴を繕うように。
「芳賀くん」
制止する間もなく、葛城が芳賀のもとへ走り出す。
ぼくは思わず凍り付いてしまった。あれは、芳賀ヒロキじゃない。
あの遺骸を動かしているのは、芳賀の意識ではない。
「やあ、葛城先輩」
振り向きざま、芳賀がシャベルを振り上げた。そして、勢いそのまま葛城の脳天に向けて振り下ろす。
逃げろ。間の抜けたタイミングで、ぼくの口が言葉を発する。
逃げろ。身体は霊媒を受けているかのように言うことを聞かない。
葛城の頭蓋が打ち砕かれようとしたとき、不思議なことが起きた。彼女を殴打しようとしていた芳賀の腕が、バネ仕掛けのように跳ね上がった。シャベルは直撃の寸前で、もと来た軌道を急速に折り返した。
無理な挙動が、反動となって芳賀の上半身を襲う。彼の骸は、サバ折りでも食らったような態勢で地面に倒れ込んだ。近くの木陰からは、男の悲鳴がこだまする。
「今のは?」
「芳賀くんを動かしていた霊媒師でしょ、たぶんね」
事もなげに葛城は応え、口に含んでいた何かを引っ張り出した。
見間違えでなければ、それは芳賀の毛髪のようだった。
「そうじゃなくて、貴女がしたことだ。今のはまるで……」
「侵襲霊媒。その通りだよ」
教えていないはずの単語が飛び出した。それでぼくは、彼女が霊媒師であると気付かされた。彼女は初めからすべてを知っていたのだ。霊媒の仕組みも、虹天球の存在も。
「なぜだ」
なぜ、誘起霊媒をしたときに見抜けなかったのか。
なぜ、こうなることを読めていたのか。
なぜ、ぼくに近づいたのか。
「君の言うところの“不能犯”を秘密裏に取り締まるのが、私たちの仕事だからね。霊媒師を欺く術も持っているし、倒す術も知っている。芳賀くんはそれが上手くできなかったみたいだけど」
「ぼくも捕らえる気か?」
「とんでもない。きみは稀有な能力の持ち主だ。そのうえ、経歴もクリーンだしね。今日はそれだけ確認できればと思っていたんだけど。結果的にこんなことになってしまって、本当に申し訳ない」
申し訳ないの一言で、こんな惨事に巻き込まれるのは御免こうむる。
それこそ、警察は要らないってやつだ。
「――そうだ、警察。警察に通報しなきゃ」
「どうするつもりなの?」
「決まっているでしょう。起きたことを洗いざらい話すんです。人が死んでいるんだ。少しはまともに取り合ってもらえるはず」
「それはちょっと頂けないな」
一一〇番を入力し終えたところで、葛城の手がぼくのスマホを掴んだ。
慌てて距離を取ろうとしたが、その前に上着の襟首も捕まえられていた。
「知らないことを口にしない、っていうのは美徳だけどね。知っていること全部を話すのは困りものだよ」
襟を引っ張られたのとほぼ同時に、カチンと歯と歯が当たる音がした。
前髪を噛まれていると気付いた時にはもう手遅れで、ぼくは微睡むように意識を失った。
〈2-4〉
気が付くとぼくは病院にいて、ただ一人の第一発見者として事情聴取を受けていた。芳賀ヒロキとは友人関係で、ぼくが彼を探し当てたのはおおよその行き先を聞いていたから、ということになっていた。もちろん、そんな事実はない。ぼくらは会話したことはおろか、生前に対面したことすらない。そのはずだ。
しかし、そう話したのは他ならぬぼく自身だという。それらを証明する通信履歴や証言、写真などの物的証拠まで揃っていると担当刑事も言っていた。
なにか大きな力が裏で働いている気配がある。
ただ、その正体はようとして知れない。
不自然なくらいに、あの日の記憶は曖昧だった。芳賀の毛髪を口にした経緯すら、いまいち判然としない。不自然に欠けた前髪の一部が、誰かに身体を乗っ取られていたのではないか、という疑念を強くする。ぼくがこうした不安を口にすると、医師は「まだ、ショックが癒えていないようですね」と可哀想なものを見る視線をぼくに送った。
身を守る術が必要だった。誰かに口封じされる前に、自分の正気を信じられなくなるより前に、自身の声を伝え広める必要があった。だからぼくは、病室にやって来る記者たちにこう告げたのだ。「自分は霊媒能力によって、芳賀ヒロキを発見するに至ったのだ」と。
ぼくの語った話は、瞬く間に収拾不能なレベルで広がりを見せた。“占い”を実演して見せたのが効果的だったのだろう。髪を食んで占うという珍奇な手法と、驚異的な的中率が面白いくらいに世間の関心を煽った。
ぼくは、黙殺される恐怖から解放された。才能を活かす悦びを知った。
しかし一方で、別の問題が起きてしまった。至おじさんだ。
「折角、毛塚の家を離れたというのに、どうしてまた霊媒に関わるのですか? しかも、あんなに目立つマネをして」
見舞いに来て開口一番、おじさんは咎める口調でそう言った。
らしくもなく、余裕がなかった。
「『好きにやれ』って言ったのはおじさんじゃないか」
「その結果がこれですか。私は『真っ当に生きてほしい』とも言ったはずですよ。毛塚の家から自由になってほしいと」
「自由になりたかったら、霊媒は止めろって? あれは毛塚の家のものだから?」
冗談じゃない。ぼくは十分、この才能に奪われてきた。
学校生活とか、交友関係とか。少年時代に謳歌できたであろう、ありとあらゆる“普通”から疎外されてきた。普通なんてものは、誰かの髪を介してしか観測できない夢物語に過ぎなかった。だから今度は、ぼくが奪い返す番なんだ。
ぼくは、この才能を自分の幸せの為に使い潰す。
そうすることで、奪われた全てを取り戻して見せる。自由になるのだ。
ぼくは、こうなることを待っていた気さえする。
「……自由に振る舞った結果、得られるものが自由とは限りませんよ」
返ってきたのは、奥歯に物が挟まったような物言いだった。
おじさんが帰った後、ぼくはその言葉の意味するところについて考えていたが、翌朝になるとスッカリそのことを忘れていた。退院スケジュールに、その後の取材、番組出演のことで頭が一杯になっていたからだ。
〈3-1〉
有名人になって気付いたことがある。それは、霊媒はテレビに向かないってことだ。
あなたは不倫をしているとか、クスリをやっているとか、隠し子がいるとか、間違えても言い当ててはならない。相手の意識を取り込んだ時に、ウッカリ睦言を口走るのも駄目だ。今は番組基準とか、都条例とか、色々とうるさい。だから、相手がどんなにいけ好かない野郎でも、社会的に抹殺しかねない記憶については言及してはならない。
そうなると、もうスタジオで霊媒なんかできたものじゃない。霊媒をした途端に、放送事故リスクの塊になるからだ。ぼくには、アドリブが許されない。要求されるのは霊媒能力でなく、演技力、体力、それに鈍感力。父さんの次は、放送作家の奴隷ってわけだ。
まったく冗談じゃない。『霊媒! サイトスプーク』はぼくの番組だ。ぼくが主役だ。
「あのう、カミハミ様。あなたは本当に霊が視えるんですか? 幻覚剤などの影響ではありませんか?」
「そこらに漂っているものが視えるわけではありません。私はただ、他人の意識に共感することができるだけ。それ以外は、いたって普通の人間です。それと、これ以上なく正気です」
ぼくこと、カミハミ様は挑発には乗らない。そういうキャラ付けだ。
七色のロングヘアーの奥で、常に悠然と微笑みを浮かべる謎めいた青年。和製メディスンマン。視聴者が求める“カミハミ様”はそういうものなんだ。そんなことをディレクターは熱弁していた。こんな戯けた番組名をつけたヤツの言うことなど、腹の底ではアテにならないと思っているが、とにかくぼくは役割に忠実だった。
目の前の学者崩れ――宇城兼近に、噛みつくことなく笑みを向ける。この一年で、アルカイック・スマイルもかなり板についてきた。
「ほら、この指が何本か分かります? 二本です、二本」
「ご心配なく。視覚に異常はありませんよ」
「らりるれろ、って言えます?」
ブチ転がすぞ、この野郎。台本と違うじゃないか。
演出助手にそっと目を向けると、彼女は必死の形相でバッテン印を掲げている。ぼくだけでも、筋書き通りに喋れということらしい。
良いですよ。ぼくはあいつの秘密を知っている。いつでも、致命打を与えることができる。その事実さえあれば、ぼくは誰だって仏の心で許すことができる。やってやるさ。
「らりるれろ、らりるれろ。さて、場も温まって参りましたし、そろそろ本題に入りましょうか。今回のゲスト、宇城さんです。なんでも、宇城さんは霊能力に対して否定的なお立場を取っているのだそうで……」
「はい。この番組は何度か見させていただいてますが、どうも客観的評価が足りていないと感じています。この前、行方不明者を探していたら、白骨体が見つかった回がありましたね。アレなんかもね、正直疑っています。ヤラセじゃないかって」
笑えよ、毛塚クオン。ほら、スマイルだ。
「アレを仕組むのは、至難の業だと思いますが……」
「そうでもありません。たとえば、カミハミ様。貴方が死体を埋めたのなら、何の不思議もありません。元から場所を知っているわけですから」
「それだと、私が殺人鬼のようですね」
「ええ、そう申し上げたんです」
仏の顔も三度、だ。お前は四度、ぼくを侮辱した。
ぼくはもう、演出助手の方を見ていなかった。微笑みを浮かべたまま宇城の頬にゆっくりと手を伸ばし、それからそっと髪の毛を一本抜き取った。途端に宇城が、ギョッとした表情でこちらを凝視する。
「失敬」
「なにすんだ、アンタ!」
「失敬と言ったでしょう。さて、いざ実食とまいりましょうか」
ぼくは宇城の毛髪を、口にポイッと放り込んだ。
舌の上で整髪料の味が広がって、思わず咽そうになる。髪を清める手順を飛ばしたせいだ。乱れかけた呼吸を押さえつけて、舌先に意識を集中させる。瞬間、ぼくは虹天球のもとへと落ちていく。
手順を違えたせいか、あるいは気が立っているせいか、いつもより時間が掛かる。仕事とはいえ、こんな奴と繋げるのは抵抗があるのかも知れない。
とっ散らかった思考を置き去りにして、感覚が宇城のものと同期を始める。
まず目の前に瞑目するカミハミ様、即ちぼくが見えた。七色そうめんみたいな頭しやがって。お腹が減ってきたじゃないか。早くこんな収録は終わりゃ良いのに――クソの役にも立たなそうな思念が流れ込んでくる。次だ。取り敢えず、手近な記憶を漁ろう。
今朝の記憶まで遡ったところで、ぼくはやっと当たりを引いた。
「『私のお皿を同じスポンジで洗うの、やめてくれない?』」
ぼくの口が勝手に言葉を発する。これは宇城の妻、サツキの言葉だ。
最近は、髪の持ち主以外を霊媒してしまうことも少なくない。ちょうどレギュラー枠を得た辺りから、ぼくの能力は右肩上がりに成長を続けている。いっそ怖いくらいに。
「『あんたの唾液を吸ったスポンジなんて、汚物入れに仕舞うのがお似合いだってのに。それがどうして、シンクにあるの?』」
言い過ぎじゃないかな。このままでは掴み合いになりそうだ。
しかし、口は勝手に動き続ける。何かがぼくの意思を超えて、身体をコントロールする。スタジオでは霊媒のフリだけをしろ、とディレクターに言われていたのを思い出す。迂闊だった。身体が椅子から立ち上がるのを、他人事のように感じる。
「あ、あんた、ウチに盗聴器でも付けてんのか……」
「『このごく潰し! ごく潰し!』」
怯えた宇城の顔が見える。これは現実か、それとも記憶か。
現実だろう。握った拳の感覚も、宇城の身体を打つ衝撃も本物そのものだ。
血の匂いがする。ぞっとするほど興奮していた。
「『ごく潰し! ごく潰し!』」
サツキは止まらない。止めることができない。
ぼくは、テレビ局員に取り押さえられるまで殴るのを止めなかった――らしい。
〈3-2〉
あの時ぼくは、宇城サツキという女性に憑依されていた。
ぼくに落ち度があったとすれば、彼女を抑えることができなかった一点に尽きる。
こんな主張をすれば、当然、裁判官の心証は悪くなる。しかし、それが事実なのだから仕方がない。結局、ぼくは主張を曲げることなく、懲役刑を言い渡されたというわけだ。
丸刈りになった頭は落ち着かないし、いつも何かに身体を乗っ取られそうな気がして落ち着かない。ここにはパイプクリーナーも無いから、毎夜毎夜うなされることになる。
しかし、もっと酷いことがあった。それは刑務所に入ってから、誰も面会に来なかったということだ。父さんも、至おじさんも、学友も、テレビ関係者も誰一人訪ねて来ない。そういうもんだと納得しようとしたが、やはりどうにも人寂しい。
だから、葛城フジカが面会にやって来た時には心が躍ったものだ。
ようこそ、ギブソンタックの君。
「ぼくのファンかな?」
ファンだろう。皆まで言わないでくれ、分かってる。
続いて出そうになった言葉を、危うく飲み込む。この時のぼくは精神的に不安定で、ハイになっていた。だから、彼女がアクリル板越しに警察手帳を見せてきた瞬間、ぼくのテンションは一息に萎えてしまった。
「何の用です?」
「その様子だと、本当に私のことを覚えていないみたいだね」
「……やっぱり、ファンだった? 前にサインでも書いた?」
「残念、ハズレ」
言いながら、葛城は懐から髪の毛の束を取り出した。
太さや質感から見て、それは紛れもなくぼくの毛髪だった。こんなものを持っている理由は、ひとつしか考えられない。
「かなり気合の入ったファン?」
「違うったら」
葛城は勢いよく髪の束に噛みついた。
瞬間、ぼくの脳内に葛城の意識が侵入する。彼女がぼくを介して口にした言葉、ぼくに代わってしてきた行動が、記憶となって甦った。
そうだ、宇城サツキが最初ではなかったのだ。ぼくは前にも一度、侵襲霊媒を受けている。芳賀ヒロキの刺殺体を発見した、あの日に。思い出した瞬間、ぼくは葛城に対して怯えに近い感情を抱いた。
「げえっ、葛城フジカ」
「ご挨拶だね。きみが有名になれたのは、私のお陰みたいなものなのに」
「じゃあ、ぼくが捕まったのも貴女のせいってわけだ」
「それは違うね。きみがあんまりにも侵襲霊媒に弱いのがいけないんだ。他人に成り代わりたいという欲が強すぎるんだよ。だから容易く意識を乗っ取られる」
幼少期に軟禁されていたらこうもなろう、と言いたいところだったが、それを認めるのは大いに癪なことだった。見透かしたような態度を打ち崩したかった。
「知ったようなことを言わないでください。誘起霊媒もできないくせに」
「別に霊媒なんてしなくても、大抵のことは調べられる」
「どうだか」
「本当だよ」
葛城は取り澄ました笑みを浮かべる。ぼくはこの表情を知っていた。
これは占い師の笑み。暴く側が持つ余裕の表れ。嫌な予感がした。
「私たちは、きみがパイプクリーナーなしで安眠できないことを知っている。きみの好きなお酒も、行きつけの喫茶店も、講義でどの座席に座るかも全て把握している。パイプクリーナーを『シャーリーン』と呼んで可愛がっていたこともね。他にも聴きたい?」
「いや、もう結構。刑務官さん、今の書かないでくださいよ」
部屋の端で聞き耳を立てている青年に声を掛けてみるが、しかし彼はスラスラと筆を走らせ続ける。ぼくの吐いた溜め息の回数まで書きつけていそうな勢いだ。
「ああ書くのね、そう……まったく酷い辱めだ。それで、ぼくに何の用ですか?」
「霊能者らしく占ってみたらどう?」
そう言って彼女は、一口サイズに切られた黒髪をデスクに載せた。平時であれば、カットの仕方におもてなしの心を感じるところだが、生憎と今のぼくは霊媒を恐れている。それを察しながら「占え」と言っているのなら、随分と良い性格をしている。
「遠慮しておきます」
「どうやら、霊媒がトラウマになったというのは本当らしいね」
そら見ろ、知ってやがった。こうやって、掴んでいる情報を順繰りに確かめられるのは我慢ならない。檻に帰って、めそめそ泣きたかった。
言動を記録されているという状況だけが、ぼくの悟性を繋ぎ止めていた。
「あんな事件が起きれば、こうもなります。それに、今のぼくは見ての通り丸坊主だ。こうなっては、満足に霊媒できるかどうかも怪しい。ヒゲのない猫みたいなもんだ。誘起霊媒を頼みに来たのなら無駄足でしたね」
お帰りはあちら、とドアを指さしてやる。すると葛城は頭を振って、
「霊媒も良いけど、私がここに来た目的は別にある。まずは話を聞いてもらいたい。そして、もし協力してくれるなら見返りを用意する」
声のトーンが変わった。ようやっと、本題に入ってくれるらしい。
「見返りとは?」
「それを聞くと後に退けなくなると思うけど。良いの?」
「じゃあ、まず取っ掛かりだけ」
海の向こうじゃ、超能力捜査官なんてのが一瞬だけ流行って消えたが、日本はどうなんだろうか。“カミハミ様”効果で、オカルトブームは九十年代以来の盛り上がりを見せているが、果たして。
ぼくの期待をよそに、葛城はあまり面白くない話題から切り出した。
「きみが収監されてから、一週間も経たない頃。きみの所属会社は、早々にカミハミ様のグッズに関わる権利を全て手放した。そして、次に権利を手に入れたのがデネット・インダストリー。この会社が発売した、〈エクスピ〉という商品が外の世界では流行している。これのことね」
そう言って、葛城は虹色の髪束を差し出してくる。
安っぽい染色が施されているが、質感は本物の髪に似ている。よく出来た人工毛だ。
「カミハミ様の髪型を模した、いわゆるエクステだよ。きみが表舞台を去ってから、世間では『カミハミ様はホンモノ故に消されたんだ』なんて陰謀論が広がっていてね。お陰で、デネット社は大繫盛だ」
「ヒットを喜べって話じゃないですよね」
「もちろん。この商品には、いわくがあってね。なんでも、着けた人間が何者かに憑依されるとか」
話がどこに向かっているのか、分かりかけてきた。
スタジオでの暴行事件が、ぼくの脳裏に蘇る。
「まさか……」
「そう、きみの身に起きたことがそこら中で起きている。想像してみて。捕まった強盗が、痴漢が、誘拐犯が、口を揃えて『憑依のせいだ』って口にする様を」
「販売中止にできないのか?」
「おたくの商品は憑依を誘発するから、って? 冗談でしょ。現在も本邦の法体系は、表向きには呪いや超能力の実在を認めていない。面白がってエクスピを買う馬鹿がいる限り、今後も憑依による犯罪は起こり続ける。直に、この社会は崩壊を迎えるだろうね」
葛城の表情が少し曇る。
聞けば、憑依による被害者は加速度的に増加しており、確認されているだけでも日に百件は下らないという。揉み消すにも限界があるだろう。
「ぼく一人なら兎も角、数が増えると誤魔化しが効かないってわけだ?」
「それもある。でも何より我慢ならないのは、他人の身体で悪事を働いた人間が今ものうのうと塀の外で暮らしていること。許せないでしょ?」
「生憎、他罰主義にかまけるほど暇じゃないもので」
「そうも言っていられないと思うよ。この人、誰だか分かる?」
次に葛城が取り出したのは、デネット社の役員一覧だった。その中には一人、見覚えのある人物の顔写真が映っている。宇城サツキだった。
「まさか、ぼくの商品で稼いでいるとは。皮肉なもんですね」
「この人の旧姓は分かる?」
「さあ、あまり深く潜らない内にこうなりましたからね」
手錠のジェスチャーをして見せる。
葛城は、察しが悪いとでも言いたげな表情で話を続けた。
「毛塚っていうの。毛塚サツキ。我々はこの人物こそ、一連の憑依事件の首謀者と考えている。これはきみの家の問題でもあるってこと」
「確かに、毛塚の人間ならぼくの毛髪を手に入れることも容易いはずだ。筋は通る。しかし、それにしたって、一日に百人単位で人を操るのは流石に負荷が大きすぎる気がしますね。毛塚家を総動員したって無理があるような」
「そう、だから私たちはこれが霊媒師による憑依だとは考えていない」
葛城の言わんとするところは直ぐに分かった。
なにせ、エクスピから感じられる気配は、ぼくのよく知っているものだったから。
「――虹天球、か」
全人類の意識の集積体。ヒト以外で唯一、頭髪を持つ存在。それが虹天球だ。
人間業でないのなら、それは人外の業に他ならない。
ぼくの結論に葛城も頷いた。
「エクスピの中に、人毛とは異なった組成の毛器官が含まれていた。虹天球から採取されたものだと推測されている。ただ、アレが能動的にヒトに働き掛けるっていうのは、どうにも想像しにくいんだよね」
「そうとも限りませんよ。ぼくの家には、こういう言い伝えがあります。かつてヒトには個別の意識というものは存在せず、すべての人間が虹天球の制御下にあった。人体は、髪の毛を介して操られる端末に過ぎなかった。それが何らかの理由で制御を失い、一つに束ねられていた意識は分散を始めたと」
肉体が容れ物に過ぎなかった時代は、幸福だったかもしれない。
少なくとも、その頃には人の死は重大な意味を持たなかったはずだ。身体が死のうと生きようと、意識はすべて虹天球に収められている。その世界では、命に対する責任が限りなく矮小化されている。何かを思い悩む必要もなく、一つの言葉、一つの号令に従って生きていけば良い。それは見方によっては、理想的な世界のはずだ。
「さながら、バベルの塔の崩壊だね。スパゲッティ・モンスター教もビックリな仮説だ」
「でも、今の状況を考えるとまんざら与太話でもないように思えます。弱体化し、ヒトに働き掛ける力を失っていた虹天球が、ここに来て影響力を取り戻し始めた。エクスピに拠らずに人を操れるようになれば、虹天球による侵襲霊媒はさらに影響範囲を広めるでしょう。恐らく、日に数百人どころではなくなるはずだ」
「なるほど。どうやら思っていた以上に、状況は差し迫っているわけだ。やっぱり、話を聴きに来て正解だったよ」
「いやいや、そんな」
ぼくは特大の笑みで、葛城の謝意を受け止めた。
さて、見返りというのはまだか。まだらしい。では訊かねばなるまい。
「……で?」
「で、とは?」
「見返りですよ。それなりにお役に立ったつもりだけど」
ああ、と気のない返事をして、葛城は書類鞄から真っ赤な封筒を取り出した。いかにも重要文書が入っていますといった感じの外観だが、実際その通りで、封筒の表には〈特赦状在中〉と記されている。
ぼくは思わず飛びつきそうになったが、すんでのところで思い留まった。
「そう、正しい判断だね」
葛城はまた勿体ぶった笑みを浮かべながら、封筒を少しずらして見せる。すると、その下には『SKINs 初号作戦 概要書』の文字が並んでいる。
「赤い封筒を選べば、君は晴れて釈放となる。その代わり、きみには引き続き我々の作戦に協力してもらうことになる。エクスピ製造工場の急襲に同行するんだ」
「物騒なのは御免だ、と言ったら?」
「こっちの青い封筒を選ぶと良い。中には、きみの優遇区分を上げるよう記した推薦状が入っている。これで月二回は、嗜好品を買うことができる。まあ、この国が無政府状態にでもなったら無意味だけどね」
期待通りの展開だというのに、ぼくは何とも言えず硬直してしまった。
いざ自由になったとして、自分に何が残っているのか。そのことを考えると、途端に憂鬱になってしまった。
「赤いのを選べって言うんでしょう?」
「そうは言わない。きみが選びたいなら別だけど」
葛城はのんびりした調子で答える。
いっそ脅してほしかった。協力しなければ懲罰房に入れる、とかなんとかって。そうすれば、きっとぼくは役割を果たすだろう。なにせ、ぼくは他人に逆らい続けて失敗してきた人間だ。不服従の結果として、ぼくはこんなところに来てしまった。
命令してくれ。そうすれば、首を縦に振ろう。
見放してくれ。そうすれば、引き下がってやろう。
ぼくに選ぶ気はない。選びたくないのだ。
「きみが何を悩んでいるのかは知らない。だけど、きみが既に状況の一部になっていることは分かっているよね? “カミハミ様”という偶像が、霊媒ブームを作った。エクスピが出回るきっかけを作った」
「作ったのは、テレビ局と宇城サツキですよ。ぼくじゃない。それに正直言って、ぼくはもう外で生きていく自信がないんだ。しでかしたことは変わらないし、霊媒師として食っていくこともできない。遅かれ早かれ、ここを出て行くことにはなるけど、外に出て行ったって何も残っちゃいないんだ。ドン詰まりなんだ」
ドン詰まりなら、何をしたって良い。そう言って、おじさんはぼくの背を押した。
もしそれが正しいのなら、何もしないこともまた是とされるはずだ。
それが、自由というものじゃないのか。
「そっか。そこまで言うなら、仕方ないね」
葛城は溜息を吐くと、せかせかと身支度を始めた。
どうやら、話はご破算ということで決まりらしい。
「ここで大人しくしていれば良い。私たちが失敗したら、残った手は頭髪規定くらいだ。牢屋の外も坊主だらけになるけど、そこは我慢してよね。それじゃあ――」
「待て」
“自由に振る舞った結果、得られるものが自由とは限らない”。
そうか。そういうことか、おじさん。今こそ、貴方の言っていたことが分かった。
「その世界にギブソンタックはないのか? ツイストパーマは? おさげは?」
「なくなる、だろうね。それが……?」
「なら、ぼくが戦う理由はそれで十分だ」
ぼくは、頭髪規定のない世界を守る。そのためなら、虹天球だって壊して見せる。
赤い封筒を受け取って、ぼくは牢獄の外へ出た。
〈4-1〉
眠らない工場群。京浜工業地帯。かつて国内最大と謳われたこの不夜城も、過密に育った生産能力が土地と水源を圧迫し、今やその機能は各地へと分散されつつある。機能集約の権化に等しい虹天球が、こんなところに隠されているというのは皮肉な話だ。
そんなことを考えながらヘリに揺られていると、何度目かになるブリーフィングが始まった。話を仕切っているのは葛城だった。いつになく、口調が厳めしい。
「デネット社は最近、工場機能の一部を川越からこのエリアへと移した。材料の流れから見て、虹天球があるのはこちらと見て間違いないだろう。内偵によれば、工場内部で虹天球を搬入・格納できる箇所は一階南東の区画のみだ。まず第一班が工場に侵入し、この区画上部にある搬入口を開放。続いて、われわれ第二班が搬入口より侵入し、各区画を抑えていく」
質問がある者はいるか、と付け足して葛城が機内を見渡す。
ぼくはそろりと手を挙げる。
「この中に、操られている人間がいない保証は?」
こんな質問をしたら皆が疑心暗鬼になるのではないか、という不安もあったが、聞かずにはいられなかった。宇城サツキは、ぼくの身体を容易く乗っ取って見せた。資質のない者であれば、抵抗もできずに身体をジャックされてしまうだろう。
霊能者の前では、鍛え上げられた上腕二頭筋も意味をなさない。
必要なのは、霊媒の経験と精神力。後者については、ぼくの言えた義理ではないけれど。
「勿論、ある。ここにいるメンバーはみな、口頭試問による本人確認を受けているし、脳波測定で異常がないことも確認されている。君も検査を受けただろう?」
「そんなんで安心できるんですか」
「念には念を入れて、スキンヘッドにしている」
「それで組織名がスキンズなんですか?」
周囲のメンバーが、堪え切れずといった様子で笑い声を漏らした。
葛城はひとつ咳払いして、話を続ける。
「特種人類監視網の略だよ。まあ兎も角、私も含めてみな打てる手は全て打っているということだ。この事件では、内定調査中に行方不明者も出ているしね。何が起きるか分からない」
「え」
そんな。そんなことって。ぼくは愕然とする。
「葛城さんもスキンヘッドなんですか?」
「そうだ。面会に行った時はウィッグを被っていた」
「なんということを……」
許せない。髪は命なんだ。それを奪うというのなら、連中はやはりぼくの敵だ。
「葛城さん。ぼく、やります。失われた全てのものの為に」
「よく分からないが、その意気だ。さて、搬入口が開いた。降下するぞ」
ヘリが高度を下げる。ぼくたちはワイヤーを伝って、工場内部に舞い降りた。
手筈通り、区画内の照明設備はオンに切り替えられていたが、しかし、そこには待機しているはずの先行班がいなかった。あるのは、そびえるような虹色の球体、虹天球のみ。
「今日はお客様が多いな」
その声はSKINsのメンバーのものでもなく、宇城サツキのものでもなかった。
それは、忘れようもないあの男の声。
「……父さん」
ぼくの父、毛塚初継が物陰から姿を現した。彼の足元には、先行した面々が倒れている。
霊媒能力も持たないただの人間に、武装した隊員たちが制圧されるはずがない。そう思えば思うほど、状況の異様さが際立つように感じらえた。
「久しぶりだな、クオン。まさか、出所していたとはな。知っていたら、お祝いに行ってやっても良かったのに」
嘘だ。この男は一度だって、ぼくのお祝いをしたことがない。
誕生日も、入学式も、成人式も、一度だって。軽口にしても腹が立った。
「どうして、ここに?」
「決まっているだろう。虹天球に仇なす不信心者を一掃するためだ。お前もその一員だというなら、ここで消えてもらうことになる。さあ、どうする。私に従うと誓うなら、また手元に置いてやっても良いぞ」
ぼくはもう一度、転がっている隊員たちに目を向けた。みな、力なく震えている。
いや、違った。
震えているのはぼくだ。怯えているのはぼく。そんなのは冗談じゃない。
「父さんの作る世界にぼくの居場所はない。ぼくは、父さんの敵だ」
「そうか。では、サツキ。やれ」
視界の外から、ヒト型をしたバカでかい毛玉が降ってきた。そいつは弾丸をものともせず突進し、隊員たちを薙ぎ倒していく。そして、すぐさま照明の届く範囲内から離脱して見えなくなる。手には、奪い取ったヘルメットをぶら提げて。
「しまった、植えられた!」
悲鳴を上げた直後、その隊員はビクンと身じろぎする。そして、次の瞬間にはぼく達に向かって銃口を向ける。彼の頭頂部には、オシャレした波平さんみたいに虹色の毛が突っ立っている。
「恐ろしく速い植毛!」
「そうだ、これでこいつらは我々の操り人形だ。命が惜しかったら、仲間をその手で撃ち殺すのだな」
距離を取ったぼくたちを、父の声が嘲笑う。
葛城は舌打ちして、ぼくに言った。
「言いたかないけど、君のお父上はとんでもないクソ野郎だね」
「まったくだ!」
止めを刺そうと突っ込んでくるサツキの前に、ぼくは仁王立ちで立ち塞がった。
隊員たちが何事かを叫んでいるが、頭に入ってこない。
「馬鹿なひと」
ぼくの頭部を捕らえて、サツキが勝ち誇った声を上げる。
「――あんたがな」
ぼくはメットのバックルを勢いよく弾く。そして、植毛されるよりも早くサツキの腕に、虹天球で編まれた毛の鎧に噛みついた。それは、六カ月と十五日ぶりの食毛行為だった。
虹色の毛は、ケミカルな見た目に反して野性的な味わいをしている。まるで、生の川魚のようであり、酸っぱくなった牛乳のようでもある。ようは、冷蔵庫みたいな味ってことだ。
瞑目し、意識を集中させると、途端にぼくは落下を始める。自らの記憶の中へ。
まず見えたのは、ぼくが宇城兼近を殴りつけている姿だった。ぼくを見つめる全ての視線が告げている。あの男は狂人だ、あの男はやはり壊れている。その通りだと、ぼくは思った。思った瞬間に場面が変わり、ぼくは自分が壊れたきっかけに対面する。
それは、父さんがぼくの口に毛髪を捻じ込んでいる姿だった。記憶の中で、父は言う。お前が生まれて母さんが死んだ。だからお前は、母さんにならなくちゃいけない。代わりじゃなくて、そのものにな。幸運なことに、お前には才能がある。いっぱい食べて、立派な霊媒師になるんだ。お前の成長が、私の生きる望みになるんだ。
「ひどい記憶しかないね」
いつから傍にいたのか、母の姿をした何かが笑い掛けてくる。写真でしか顔を見たことがなかったが、それでも目の前のコレが母でないことは直感的に理解できた。
「あんたは……」
「私たちはずっと君を見てきた。君が私たちを知る前から、霊媒を身につける前からずっとね。だから私たちは、君の不幸を知っている。才能に呪われていることを知っている」
「だったら、ぼくがそういう見透かしたような物言いが気に入らないって知っているだろ。なあ、虹天球」
無論だ、とそれは――虹天球は微笑む。
「ぼくがここに何をしに来たかも分かっている。そうだな?」
「もちろん。けど、良いのかな。それをすれば、君は平凡になる。もう二度と、他人の意識を味わうことはできない。それで悔いはないのかな」
「いつか後悔するかも知れない。髪を食むのを止められないかも知れない。それでも、もう他人になりたいとは言わないよ。ぼくはぼくのままで生きていく。そこにしか、自由は存在しないから」
「そうか。もうとっくに、親離れの時期だもんね」
黙って頷くと、ぼくの意識は浮上を始めた。母の姿が遠のいていく。
そうして瞼を開くと目の前にサツキが転がっていて、憑依されていた隊員たちは訳の分からない様子で立ち竦んでいた。
「まさか、侵襲霊媒。この土壇場でモノにしたというのか」
狼狽える父のもとに、ぼくはゆっくりと歩を進める。
「これであんたの手駒は無くなった。大人しく投降しろ」
「私を捕らえて、どうなるって言うんだ。虹天球は既に、何万もの意識を取り込んでいる。これからも取り込み続けるだろう。それはお前の功績だ、クオン。お前のお陰で、みなが髪の力を認めるようになった。人々は虹天球による憑依を、集合意識を受け入れてくれるようになった。あと、もう少しなんだよ。もう少しで、ヒトは死者とも触れ合えるようになる。母さんにまた会えるんだぞ」
そうだよな。あんたはずっと、それだものな。
母さんがどう思うか考えもしない。自分のことばかりで、他人の気持ちなんか分からないはずもないって開き直って、ぼくには死人の髪を食わせてばかり。
でも、それはぼくも同じだった。
ぼくは、母さんからも父さんからも逃げていた。
もう逃げるのは止めにしよう。
「クオン。頼むよ、なあ」
「父さん」
この人はきっと、一人ではお別れができないのだろう。だから、ぼくがやるしかない。
父さんはぼくの仕打ちを恨むだろうが、それでも構わない。逃げ続けるよりはマシだから。
ぼくは夜空に向かって吠える。
「『シャーリーン』!」
それは、葬送の合図だった。輸送ヘリが搬入口の真上にやってきて、懸架していたバルーンをパージする。そいつは数秒の落下の後、空中で豪快に爆ぜた。
そうして空から、パイプクリーナーが降り注ぐ。
「さようなら」
気が付くと、ぼくは涙を流していた。
さようなら、虹天球。
さようなら、カミハミ様。
さようなら、母さん。ありがとう。
〈了〉
文字数:26743
内容に関するアピール
思えば、この一年は体毛を扱った作品ばかり書いてきました。今回書いた最終実作も、髪の毛がキーアイテムになっているので、そういう意味でも集大成と言えるでしょう。僕はずっと、毛のことばかり考えていました。
「抜け毛と穢れ思想」とか。
「頭髪の神聖視」とか。
「腹毛と男性性」とか。
「脱毛文化の興隆」とか。
あまり生存に関与しない部位なのに(関与しないからこそかも知れませんが)、これだけ多くの意味を与えられているんだから、毛というやつは本当に面白い器官です。
存在意義があやふやなものに、後付で意味を与えてやることが物語が負っている大きな役割の一つだと思うので、この小説がそれをうまく果たせていれば幸いに思います。
文字数:301