タイタンに降る

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タイタンに降る

 有機化合物エアロゾルによって、土星の衛星タイタンの空はいつも赤みがかっている。その空に低く垂れ込めてきた雲から、細かい雨粒が落ちてきた。液体メタンの雨だ。霧雨に近い小ささの雨粒だが、光学望遠鏡を組み込んだ人工眼を持つミアリーには、一粒一粒をはっきりと視認することができる。重力が弱く、大気が濃いため、ゆっくりと降ってくる雨粒は、直径〇・五ミリメートルそこそこであっても、球ではなく饅頭型になって舞い降りてくる。まるで地球の海に住むクラゲのようだ。そうして、それらの粒は、囚人用の簡易宇宙服を纏ったミアリーの、人間を模した擬体に優しくぶつかって弾けていく。
(ああ……)
 ミアリーは赤い空を見上げたまま目を閉じて微笑んだ。
(ダク、今のわたしは、きみと同じように雨を感じられている。あの屋上で、地球の雨に打たれていたきみと同じ気持ちで、タイタンの雨を感じているよ)
 ダクが作品を通して教えてくれた、感情に強く裏打ちされた感覚。
 薄い生地越しに感じる、凍える大気より少し温かい粒。懐かしい。気化して微かに冷えた。寂しい。強く当たった。もう一度会いたい。弱く当たった。あの日に戻りたい。地球の雨とは異なるタイタンの雨からでも、今のミアリーは彼が作品で表現した全てを感じることができる。
 かつてミアリーは地球の病院で働く看護師だった。そしてダクは、担当していた患者で、ひどく気難しい青年芸術家だった。

     一

「彼が、きみがこれから担当することになる患者、ダク・コーリーだ。見ての通り、盲目だ。両方の眼球を自らフォークで突いて潰したんだ」
 精神科病棟を切り盛りする看護師長ピーター・クラークは、逞しい肩を竦めて見せる。示された青年は、シャツの上からでも分かるほど痩せた体を寝台に横たえて、VR世界にダイヴ中だ。しかし彼が頭に被っている装置は、よくあるゴーグル状ではなくキャップ状で、目は覆われていない。頬の痩けた小麦色の顔、その薄く開かれた瞼の下、淡青色の光彩が美しい両の眼球は無残な傷跡を残していて、最早機能していないことが明らかだった。
「それは何故ですか」
 ミアリーは青年を見つめたまま看護師長に尋ねた。精神科病棟に入院しているダク・コーリーについての資料は全て電脳に記録しているが、その行動原理は全く把握できていない。
「彼自身の言葉を借りれば、『煩わしい』からだそうだ、ありとあらゆる刺激がな」
 看護師長は再び肩を竦めて見せると、余計な一言を付け加えた。
「まあ、おれ達人間にも理解し難い行動だからな、おまえ達AHには、余計に理解し難いかもしれん。それでも、おれはおまえが適任だと思っている」
 不快感を示しかけたミアリーは、看護師長の最後の言葉に、目を瞬いて表情を制御した。ピーターは、そんなこともお見通しというように歯を見せて笑い、こちらを見てくる。
「ということで、後は任せた、ミアリー看護師。正看護師になって初めての仕事だ。存分に力を発揮してくれたまえ」
 分厚い手に背中をぽんと叩かれて、ミアリーは胸を張って頷いた。
「了解しました、ピーター。AHの誇りに懸けて期待に応えて見せますよ」
 太陽系の開発が進み、月には各国の基地が設けられ、火星には多数の入植者が住まう現代、人間達は脳を刺激することによって哺乳類特有の冬眠能力を呼び覚ます脳刺激冬眠技術を用い、長時間を要する宇宙空間の移動に耐えている。しかし人間にとっては過酷な環境が多い中、大半の労働を担っているのはAIだ。中でも、人間に近い判断力を持たせるため、情動を育成するとして人間に似せた固有の擬体を装備されたAIは、特に人工人間――AHと呼称されて、従来のAIとは一線を画す存在となっている。小惑星、衛星、惑星、太陽付近――さまざまな最前線で人間の代行を充分に果たしてきたAHは、地球上でもその存在価値が認められて、ミアリーが住むオーストラリア大陸を含むオセアニア連合では、既に一定の人権を付与されるに至っていた。
 笑顔で手を振って去った看護師長を見送り、ミアリーは担当する患者の寝台脇へ歩み寄る。一般病棟で経験を積み、准看護師から昇格したばかりの自分が今日から担当するのは、この青年一人だ。
(一対一というのは、信用されているのかいないのか……。まあ、とにかく彼と良好な関係を築かないとね)
 ダクの以前の担当看護師は、彼の芸術作品を馬鹿にしたという理由で彼から担当の交替を要求されて、別の患者の担当になったという話だ。
(まずは、彼をよく観察して、理解を深めるところから始めよう)
 ミアリーの擬体は光波兼振動発電で稼働するので、人間の看護師のように手洗いへ行ったり食べたり休んだりする必要がない。情報整理のため多少の休息は必要だが、それは状況を見ながらこまめに取ることが可能だ。つまり、片時も傍を離れずダク・コーリーの世話をすることができるのだ。ただ、ここオセアニア連合ではAHに一定の人権が認められているので、週休一日制の勤務となっている。毎週土曜日のみは、他の看護師がダク・コーリーの面倒を見るのである。
(彼がVR世界から戻ってくるまでは、休息していようか)
 ミアリーは近くにあった椅子を引っ張ってきて腰掛けた。無理にダクをVR世界から引き戻すという選択肢はない。資料に拠れば、このVR装置は彼が設計したものだ。ダク・コーリーは以前、大手VR家電製造会社にエンジニアとして勤めていた。そこで、体性感覚、即ち触覚や圧覚、温覚、冷覚等を完璧に再現する脳刺激VR装置を開発したのだが、それを用いて会社側の意向と異なる芸術作品ばかり制作したため解雇されたという。その後も自宅で継続して芸術作品制作をしていたが、やがて精神を病み、自らの両眼を潰すに至って、入院となったと記されている。
(きみは何故、「煩わしい」と思うんだろう……? 確かに、受け取る刺激を絞ったほうが、処理すべき情報量が減って落ち着くという事例はあるし、一時的にそうすることが必要な場合があることは理解できるけれど、感覚器官が永遠に使用不能になるような傷つけ方をするなんて……)
 やはり、どう考察しても理解し難い。
(固有の体を通して世界を認識し、世界から認識されるって、素晴らしいことなのに。感覚器官を減らしてしまったら、その分、感じられなくなってしまうのに)
 ミアリーは、束ねて垂らした自らの銀髪の、肩に掛かる毛先を、そっと弄った。僅かに癖のある、この柔らかな長い銀髪も、艶のある珈琲色の肌も、赤褐色の双眸も、目が大きく鼻が小さい童顔も、しなやかな肢体も、とても大切だ。この体は唯一なのだ。大量生産の既製品ではない、この宇宙にたった一つの体。傷ついたり壊れたりしても、もう同じものはない。掛け替えがなくて愛おしく、強烈に自己と他者とを分けるものだ。この擬体を備えるゆえに、自分達AHは人間としての情動を芽生えさせ、育むことができる。
(きみにとっても、自分自身の体というものが持つ意味は同じだと思うんだけれど、何故、傷つけたいと思うのか……)
 ミアリーが電脳で呟いた直後、唐突に青年の頭からキャップ状の装置が外れて枕の上に転がった。短めに刈られた黒褐色の癖毛が顕になり、ゆるりと広がる。同時に青年は険しく顔をしかめ、その左手が動いて顔の中で一際高い鼻へ骨張った指先が伸びたかと思うと、がりりと爪で皮膚を削ったのだ。
「ちょっと!」
 ミアリーは素早く椅子から立って正確に、且つ適切な力加減で青年の左手を自らの左手で捕らえた。しかしその時には既に、青年の鼻の頭からは鮮血が流れ始めている。
「離せ!」
 ダク・コーリーは叫んでミアリーの左手を振りほどこうとしたが、一般人の腕力や瞬発力如きに負ける擬体はない。銃弾も弾く人工アミノ酸繊維の筋肉と人間の神経伝達より余ほど速い光波伝達で動いているのだ。青年の筋張った右手も自らの鼻の穴を引き裂く勢いで動いたが、寸前でミアリーの右手に収まった。
「もう少し穏やかに自己紹介したかったんだけれどね……」
 ぼやいてから、ミアリーは名乗る。
「わたしはミアリー・グルウィウィ。今日から、きみの専任担当になった看護師だよ。宜しく。とりあえず、たった今きみが作った傷を、できれば消毒したいんだけれど、大人しくする気はあるかな?」
「消毒はいらん! この鼻も要らん! 耳も要らん! 煩わしい、この匂い、物音、振動! 消えろ、消えろ、消えてくれ……!」
「聴覚も嗅覚も体性感覚も煩わしいんだね……。でも、大人しくする気がないなら、申し訳ないけれど、ちょっと実力行使に出るね」
 一応警告してから、ミアリーは左右の手で捕まえた青年のそれぞれの手を少し強めに握った。関節を強く握れば、人間の体はその周辺が痺れて動きにくくなる。
「離せ、葉っぱ野郎!」
 青年が重ねて叫んだ言葉に、ミアリーは破顔した。
「ああ、やっぱり、きみはアボリジナルの言葉に詳しいんだね」
 ミアリーという名は、オーストラリア先住民の言語の一つで、葉という意味だ。そしてダクは、同じくオーストラリア先住民の言語の一つで、砂山という意味なのだ。ダクの母親タルニは十七年前に失踪しているが、アボリジナルだと資料にあった。しかし、そうだとしても、数あるアボリジナルの諸言語全てを知れる訳ではない。ダクは、自ら進んで学んだのだ。母親に対して、強い拘りを持つ可能性が高い。
(きみの心の病は、お母さんの失踪に端を発しているのかもしれないね……)
 ミアリーは分析しつつ痺れた青年の両手を離すと、寝台脇の小卓から消毒薬の瓶と傷当てパッドを取って、泡状の薬液を鮮血の溢れる傷口へ塗りつけ、その上からパッドを貼った。
「煩わしい……!」
 青年はまだ喚き、力の入らない両手で傷ついた鼻へ更なる攻撃をしようとする。その両の手を軽く捌き、掻い潜って、ミアリーは小卓から取った洗濯挟みでパッドに覆われた高い鼻を挟んだ。
「あ?」
 青年が初めて呆気に取られたような表情になる。ミアリーは優しい声で告げた。
「そうすれば、匂いはほぼ感じないだろう? 呼吸はちょっと苦しいだろうけれど、それは我慢だよ? 音のほうも、暫くは意思疎通のために我慢してほしい。何もかもを望むなんて、贅沢なことだからね。それに、これはAI内蔵洗濯挟みで、とても適切な力加減で挟んでくれるから、きみの鼻がこれ以上傷つくこともないよ。匂いを我慢できる精神状態になるまで、そうしているといい。今、きみが一番煩わしく感じているのは、この昼食の匂いだろう?」
「おまえ、どういうにんえんだ」
 洗濯挟みを付けた真顔で問われて、ミアリーは肩を竦めた。
「『どういう』については、さっき名乗った通りなんだけれど、『人間』じゃなくて、AHだよ。補足説明するなら、つい昨日までは、准看護師として一般病棟のほうで勤務していたんだ。通り名は『泣く子も黙るミアリー』で、結構みんなから一目置いて貰っていたんだよ。それでめでたく昇進を果たして、今日から正看護師になり、きみの専任担当になったんだ。改めて宜しく、ダク」
 精一杯の親しみを込めたミアリーの挨拶に対して、青年患者は鼻に空気が通らないまま文句を呟いた。
「――おれは、いうもあうれをいいいまう」
 唇を読むことは、人間の観察を続けてきたミアリーの得意とするところだ。
「『いつも外れを引いちまう』って? あれ、わたしは当たりだよ?」
 ミアリーは確信を持って言い返すと、提案した。
「鼻に空気が通っていない状態で食事をしても美味しくないし、息苦しいだろうから、昼食は後にするかい?」
「たぐさんぐういはない。あいもわあらんほうがいい」
 青年は投げやりな口調で答えた。
「『たくさん食う気はない。味も分からんほうがいい』って? 随分と寂しいことを言うんだね」
 食欲は、生きる意欲を持つ上で大切な要素だ。
「きみは、もしかして、生きていたくないのかい……?」
 確認したミアリーに、青年は見えない目で虚空を睨み、硬い声音で告げた。
「『あえ』をあんえいあえる。おれまではいいる」
「『雨』? きみが制作しているっていう、芸術作品の名前かい?」
「――おまえにはあんえいない」
 「おまえには関係ない」という不機嫌な返事に、ミアリーは微笑んだ。この青年は、予測以上に理性的で冷静だ。繊細な部分に踏み込んでみても、きちんと言葉で応答してくる。
「わたしは、きみの全てが知りたいんだよ。また気が向いたら、いろいろ教えてほしい」
 真摯に求めてから、ミアリーは口調を変えた。
「じゃ、匂いのない昼食といこうか。取ってくるから、暫く待っていて」

     二

 自分は「当たりだ」と抜け抜けと言い返してきたAHは、察しが良過ぎた。分からないだろうと思ってわざと鼻声のまま言った『雨』という作品名も、正確に聞き取られてしまった。しかも、AHゆえだろう、匂いも音も少ない。お陰で、匂いや音に結びついた大切な記憶を侵される心配が減り、ダクは『雨』制作に、これまで以上に没頭できるようになった。
 頭に被ったVR装置の脳刺激で認識する暗闇の中、ダクは微弱な電気刺激が作り出す緑がかった光のイメージを操って、『雨』をプログラムしていく。イメージしたことが脳刺激に拠る体性感覚となってフィードバックされるが、イメージが上手く作れず、なかなか思う通りの体性感覚とはならない。
(違う、あの雨は、もっと温かくて、でも一瞬後には冷たくて)
 母とともに浴びた雨。
(体の中まで染み込んでくるようで)
 曇天を見上げ、すっくと立った母の濡れた腕や肩とともに脳に刻んだ感覚を、まだ思い出せる。だが、詳細なイメージを作ってプログラムしようとすると、途端に上手くいかなくなるのだ。全体的なイメージはできても、繊細な部分のイメージができない。細かくイメージしようとすればするほど、記憶とは異なるフィードバックになっていく。
(ああ、くそ!)
 脳神経が焼き切れそうな頭痛がしてきて、ダクは緑がかった光に〈停止〉のイメージを送った。緑がかった光は明滅して了承し、直後、頭に被ったVR装置の感触、消毒液の臭気、毛布の重量、廊下からの振動――あらゆる刺激が一挙に襲い掛かってきて、懸命に思い出していた記憶の残滓を薙ぎ払っていく。大切な記憶が揺らいでしまう。
「煩わしい!」
 叫んだダクの左頬に、そっと触れるものがある。びくりとして身を竦ませたダクの耳に、穏やかな声が響いた。
「ごめん。ちょっと涙が出ていたから、拭こうとしたんだよ。いいかい?」
「要らん!」
 ダクは声に背を向けるように寝返りを打った。
「そうかい? なら、お風呂に入ろう。今ちょうど浴室が空いているからね」
 涙を拭く以上のことを提案されて、ダクは閉口したが、反対はしなかった。

「きみが作っている『雨』は、どんな雨なんだい?」
 浴室の壁に、ミアリーの声が柔らかく反響する。
「機械には分からん」
 ダクは素っ気なく答えた。『雨』は、会社勤めのエンジニア時代にダク自らが設計したVR装置を、更に改造したものを用いて制作している。入力も鑑賞も、キャップ状のVR装置による電極を使った脳刺激のみを通して行なうので、AHには手出しできないものなのだが、その制作にミアリーは興味津々らしいのだった。
「わたし達AHは、機械を卒業した存在だよ?」
 石鹸の泡をまとった両手でダクの頭皮をこすりながら、ミアリーは得意げに言う。AHというものが、これほど誇り高い存在であるとは、ダクも身近に接するまで知らなかった。ミアリーの細く強い十指は、絶妙な力加減で、ダク自身にも今までの看護師にも生み出せなかった快楽を与えてくる。高い学習力と推察力を備えたミアリーは、まだ出会って三日目であるにも関わらず、ダクが最も心地良いと感じる洗い方を習得してしまった。
(しかも、この洗い方は――、似ている……。頭のてっぺん、つむじのところをくるくるするところから、前髪の生え際までいって……、耳の後ろまで丁寧にするところ――)
 忘れていた記憶が蘇る。ダクがまだ一桁の歳だった頃、母が洗ってくれたやり方。
「いや、違う! 違う!」
 ダクは懸命に麻薬のような指から逃れた。このまま身を委ねていては、蘇った母の記憶が上塗りされて曖昧になってしまいそうだ。
「ダク?」
 怪訝そうに訊いてくる声すら、母に似ている気がしてしまう。
「触るな! 話しかけるな! くそ、この耳!」
 両耳をそれぞれ掴んで引きちぎろうとしたダクの左右の手は、またもAH看護師の双方の手に捕らえられてしまった。先ほどまで快楽を生み出していた、温もりすらある両手は、容赦なくダクの両手を握りつけてくる。骨が軋み、すぐに神経が痺れてきた。
「本当にきみは刺激的な人だねえ」
 笑い含みに言うAHに、ダクは吐き捨てた。
「黙れ、葉っぱ野郎」
「その呼び方、定着しちゃったのかな? まあ、愛称としては悪くないけれど」
 完全に痺れたダクの両手を解放したAHは、シャワーの水音をさせ始めた。柔らかな手つきでダクの癖毛を漉きつつ、ちょうど良い温度の湯で泡を洗い流していく。その手つきが、やはり母と似ている気がしてしまう。
(そうだ、あの日、雨に打たれて帰った後、母さんと一緒にシャワーを浴びたんだ)
 不意に思い出した断片から連なって、どんどんとあの日の記憶が蘇ってくる。
(母さんに頭を洗われながら、シャワーよりも、あの雨は、もっと一粒一粒が重かったと思い返していて……、そうだ、あの雨は、まるでおれを大地に繋ぎ止めるように流れ下って……!)
 ダクは風呂椅子から立ち上がった。
「ちょっとダク、まだ洗い終わっていないよ?」
 タイルに跳ね返るAHの声を無視して、ダクは使い慣れた浴室のドアへ向かう。早くVR装置を被ってプログラムしなければ、蘇った感覚が再び失われてしまう。
「分かったよ、急ぎなんだね」
 すぐ脇で声がした。今度は左手が優しく掴まれ、AHの上腕に掛けられる。障害物を心配せず、最も速く歩けるサポートだ。
「今すぐ制作をしたいという解釈で合っているかい?」
 確認に、ダクは無言で頷いた。

 寝台に仰向けに寝てキャップ状のVR装置を被った青年は、すぐに全身の力を抜いて脳刺激の世界へ入ったようだった。
(このままじゃ、風邪を引くね……)
 ミアリーは自分の肩に掛けて持ってきたバスタオルで、未だ濡れている青年の裸体を丁寧に拭き、そっと寝衣を着せていく。このVR装置を着けている間は、外部刺激が完全に遮断されるらしく、青年は無抵抗で、くすぐったがる様子もない。
(とても危険な装置だ。一般的な売り物にはできないものだから、きみが自分用に改造したものなんだろうね……)
 その隔絶されたVR世界から戻ってきた際には、現実のあらゆる刺激が一挙に襲いかかるので、青年はいつも不機嫌になる。VR世界で懸命に再現している記憶の余韻を壊される如くに感じるのだろう。
(きみが求め、芸術として完成させようとしているその記憶――『雨』は、幸せなものなのかい? それとも悲しいものなのかい?)
 「『あえ』をあんえいあえる。おれまではいいる」――「『雨』を完成させる。それまでは生きる」と彼は断言した。
(少なくとも、『雨』はきみが生きる、唯一の理由なんだね)
 この三日間さまざまに探って確かになってきたことは、『雨』が彼の母タルニの記憶に深く結びついているらしいことだった。タルニ・コーリーが失踪したのは、ダクがまだ十歳の時だ。失踪の原因は、夫とは別の男性と暮らすためだったと資料にあった。ダクは一緒には連れていって貰えず、父と二人暮らしになった。
(ダクのお父さんは、ヨーロッパ系の人だ。でもタルニさんが新たに愛した人は、アボリジナルだった。その辺りが、ダクの苦しみなのかな……)
 作品制作に入ると、ダクは一時間は戻ってこない。ミアリーは情報整理のため、寝台脇で椅子に腰掛け、休息を始めた。

 共用の浴室から出てきてダクの個室に入るまでの僅かな邂逅だったが、美しい看護師だと思った。こちらを見た赤褐色のきらきらした双眸に浮かんだ明るい表情に、何より惹かれた。ダク担当のこれまでの看護師達が苛立った振る舞いをしていたのに対し、楽しげな物言いをしているところも好ましい。
(いい看護師に代わって良かったな、ダク)
 ジャーリ・アンダーソンは、友人だと思っている患者仲間のために喜んだ。ジャーリという名はアボリジナルの言語で梟という意味だと、初対面でダクは気づいてくれた。ともにアボリジナルの血を引いていて、歳の頃も同じで、同じように勤め先から解雇されて、入院治療を受けていて……、ダクは個室に引き篭もり気味なので大して話したことはなかったが、仲間だと感じている。共感できることは多いはずだ。
(あの看護師がいれば、うまく間に入って話を取り持ってくれそうだ。今度、あいつが散歩に出てくる時に話しかけてみよう)
 密かに決意したジャーリの背へ、猫撫で声が掛けられた。
「ジャーリ」
 ジャーリを担当する看護師だ。
「何か困っているの? それとも、シャワーを浴びたくないの?」
 ジャーリの胸中など全く分かっていない、ただただ思う通りにジャーリを動かして無難に己の仕事をこなそうとする女。自分には、こんな看護師しか回ってこない。
「煩い!」
 ジャーリは一言怒鳴って、手にしていた寝衣とタオルを、廊下の壁に叩きつけた。

 母と一緒に雨に打たれたのは、七歳の頃だった。
 ダクの生家は、この総合病院の建つパースから海岸沿いに北上したところにある、漁業と観光の町ランセリンにある。そのランセリンの近くにはランセリン砂丘と呼ばれる広々とした白い砂丘があり、母のお気に入りの場所だった。父と喧嘩をすると、母タルニは幼いダクの手を引いてその砂丘へ行き、一緒に砂の上で転げ回ったり、並んで夕日を見たりした。母が語るアボリジナルの伝説を聞きながら、大空に星が瞬き始めるまで砂の上に座っていたこともある。雨が降ったのは、そんな日々の中の、ある春の日だった。
 冬から春にかけて、ランセリン周辺は、一日の中に四季があると言われるほど目まぐるしく天気が変わる。その日も、低く垂れ込めた雲が瞬く間に広い空を覆い、砂丘にぽつぽつと雨が落ち始めた。家に帰ろうとズボンを引っ張ったダクを制して、母は雨を振り仰いだ。一気に強さを増していく雨がシャツ越しに肌を叩くのを、その一粒一粒を、ダクは母とともに感じていた。海からの風は冷たく、一瞬温かいと感じた雨は、すぐに冷えていく。それでも、母は帰ろうとせず、とうとう雨が降り止むまでそこに立ち尽くしていた。
(体に、順番に雨粒が当たる感じは、もっとこう……! 温かさから冷たさへの感じは、もっとこう……! そして、曇天から降ってくる雨が、体を流れ下って、砂丘に沁みて、おれを古き大地に繋ぐ感じ……、何故できないんだ……! もっと、体の奥底まで染み込んでくるような、もっと内奥まで縛り付けてくるような……、ああ、くそ、おれは無能だ、うまくプログラムできない……!)
 苛々した状態では、脳からの信号のみで操るVR装置も誤作動が増える。
(くそ!)
 ダクはデータを〈保存〉し、VR装置に〈停止〉を命じた。途端に、薬液の匂いや料理の匂い、院内の物音や振動が襲いかかってくる。煩わしい。僅かな思い出が改変されてしまいそうで、苦しい。新たな刺激など要らないのだ――。
「ダク」
 爽やかな声とともに、持ち上げた両手が掴まれた。
「あまり毎度だと、わたしも少し飽きてしまうから、ちょっと別のことをしてほしいな。それに、あまり繰り返すと、どれだけ力加減しても青痣を作ってしまいそうだよ」
 悪戯っぽく囁いてきたAHは、ダクの両手を痺れさせることなく優しく離す。溜め息をついて、ダクは両手を下ろした。何が刺激的と言って、この風変わりなAH看護師が最近の一番の刺激だ。
「もうそろそろ寝る時間だよ。歯のクリーニングは、きみがVR世界にいる間に吸引器でしておいたから、もう寝られる。子守唄でも歌おうか?」
「黙れ、葉っぱ野郎」
「アボリジナルの歌も、いろいろ歌えるよ? アボリジナルが見て、歌うことで、初めてその大地は存在することになる――、このアボリジナルの考え方は好きだな。きみが『雨』を制作するのも、同じことなのかもしれないと思うよ。きみは、他の人が未だ掴めていない何かに、存在を与えようとしているんだ」
「おれは、忘れ切ってしまう前に、記憶を再現し、保管しようとしているだけだ」
「芸術には、確かにそういう側面もあるよね。でも、それだけじゃないはずだよ」
「黙れ、葉っぱ野郎」
「うん。おやすみ、ダク。いい夢を」

     三

「おはよう、ダク」
 聞こえたミアリーの声に、ダクは眉をひそめた。
「おまえ、土曜日は週休日じゃなかったのか」
 先週の金曜日には誇らかにそう断って、翌日の土曜日は休んでいた。そのせいでダクは久し振りに人間の看護師の匂いや物音に辟易した一日を過ごしたのだ――。
「ああ、うん、そうなんだけれど、今日は出勤することにしたんだよ」
 ミアリー・グルウィウィは、明るく応じつつ、ダクの寝衣を脱がせていく。更衣も入浴も、手の届くところに必要なものが置いてさえあれば、ダクは自分でできるのだが、ミアリーは全てを手伝いたがる。ダクの突発的な自傷行為を警戒しているのだろう。
「今日の散歩は、院内を歩くだけじゃなくて、屋上まで行かないかい?」
 提案されて、ダクは再び眉をひそめた。それが休日出勤の理由なのだろうか。
「散歩はただの運動だ。景色の見えんおれが屋上に行って何になる」
「屋内と屋外とじゃ、いろいろと違うよ。それは芸術家のきみのほうが、よく分かっているんじゃないかい?」
「――おれは、雨に当たりたくない」
 ダクは本音を述べた。『雨』制作に掛かってからは、記憶が上塗りされることを恐れて、決して雨に降られないよう気をつけてきたのだ。そして今は九月。天気がころころと変わる春である。
「この季節の、この辺りの天気は読みづらいからねえ。でも」
 不意にミアリーは真面目な声になる。
「きみは今日、屋上に出るべきだと、わたしは思うよ」
「何かの占いか?」
 三度目、眉をひそめたダクに、AHは厳かに告げた。
「ううん、これは膨大な計算を経た予測だよ」
 ミアリーが己の機械的側面を強調するのは珍しい。ダクは眉をひそめた。
「どういうことだ」
「つまり、今日は、きみが再現しようとしている雨とほぼ同じ雨が降るという予測が立ったんだよ。きみのお父さんがSNS上に公開している日記から推測した結果なんだけれど」
 端的な返事に、ダクは心臓を鷲掴みにされたように感じた。呼吸が苦しくなり、吐き気がする。
「――絶対に、行かん」
 掠れた声で応じたダクに、ミアリーは溜め息を真似たらしい音を出した。
「そうかい? きみが拒否するならそこまでだ。でも、こんな日は滅多にない。何か新しく思い出せる切っ掛けになるかもしれないよ?」
 確かに、その可能性はある。特にミアリーと過ごし始めてからは、母との忘れていた記憶を思い出すことが増えた。だが同時に、記憶が上塗りされて、本当はどうだったのか分からなくなってしまう可能性も大きい。それがダクは恐ろしい。蘇らせたい『雨』の記憶が曖昧になって、再現が不可能となってしまえば――。
(きっと、おれは絶望に呑み込まれる)
 今でも、生きていることがつらいのだ。日々、喪失感と悔恨に苛まれている。大切な記憶を侵す苛立たしい刺激につい過剰反応してしまうのも、心に鬱積している泣き叫びたい思いが、理性を突き破って表に出てしまうからだ。
(母さん……、母さん、母さん、母さん……)
 会いたい。触れたい。言葉を交わしたい。けれど、最早それは不可能なのだ。
(おれの幸福と安息は、母さんのいた時間。過去の中にだけある……)
 だから、せめて、母との思い出の中で最も脳裏に焼き付いている、時空を超越したような印象のあるあの『雨』を、作品として蘇らせたいのだ。再現して、永遠に失われない形で残したいのだ。母との時間を、手の届くところに留めてしまいたいのだ。逆に、『雨』制作が挫折してしまえば、自分は最早、生きてはいけないだろう――。
「――怖いっていう顔をしているね」
 ミアリーが静かに語りかけてくる。
「少し、手や肩に触れてもいいかい?」
 拒絶しようとしたが、言葉が喉に痞えた。触れられたらどうなるだろうと僅かな期待があり、拒否し切れなかった。無言を是と解したのだろう、ミアリーの手がダクの左手に触れた。まるで人間のもののように温もりのある、柔らかな皮膚をした手。骨の盛り上がる位置すら、人間とそっくりだ。その人工手で、ミアリーはダクの左手をそっと握り、指で指を撫で始めた。くすぐったい。けれど――。じわじわと手から伝わってくる優しい熱が、心を満たしてくる。
「そういう怖さを和らげる一番の方法は、触れ合うことなんだ。人間が、人間になる前からね」
 間近で語りながら、ミアリーからは吐息が感じられない。AI搭載家電のような駆動音もないので、気配が薄い。
(情動を養うために固有の体を持つAI――AHか……)
 既に人権の一部を獲得した存在。確かに、それだけの価値はある存在なのだろう。薄く笑んだダクの左肩に、微かに微かに触れるものがある。ミアリーのもう一方の手だ。控えめに触れてきた手は、壊れ物を扱うようにダクの肩を撫でる。人間を超える力を有するAHからすれば、人間の体はまさしく壊れ物なのだろう。
 さわさわと、ミアリーの手がシャツ越しにダクの肩を撫でる感触と音が、尖った神経を宥めていく。すりすりと、ミアリーの指がダクの指を撫でる感触と温かさが、竦んだ肢体を解していく。心で凝り固まっていた怖さが、じんわりと溶けて、どこかへ流れ出していく。
(懐かしい感じがする……)
 はっきりとは思い出せないが、母にも同じように撫でられていたことがあったような気がしてくる。
(……また、新しいことが思い出せるだろうか……)
 今のままでは到底、『雨』は完成できない。記憶が曖昧な部分が多過ぎる。
(滅多にない機会が、今日訪れる)
 賭けに出るべきだろうか。
(母さん……)
 会社の研究室で、VR装置の更なる操作性の向上に取り組んでいた時、父から連絡が来た。勤務時間中を憚らない私的な通信。眉をひそめたダクに、父が短く告げたのは、母の亡骸が発見されたという警察からの情報だった。
(母さんは、最後までおれに連絡をくれなかった……)
 必要とされなかったことが寂しい。
(おれは、何故本気で、母さんを捜そうとしなかったんだ……)
 躊躇して永遠に失ってしまったことが悔やまれてならない。
(もう、おれが母さんのためにできることは、何もない……)
 全てが虚しくなって、死んでもいいと思った。だが、会社に入る前から考えていた『雨』制作が、ダクをこの世に踏み留まらせた。
(『雨』だけは、完成させたい)
 母と自分が過ごした、あの特別な時間を、もう一度体験したい。大切に保管したい。
(でも、そうか……)
 ダクは寂しく不敵に笑う。
(記憶が鮮明になれば、儲けものだ。『雨』が完成できる。記憶が曖昧になれば、もう未練なく、死ねばいいだけの話だ……)
 自分を親身に世話してくれているミアリー・グルウィウィには悪いが、腹を括れば気が楽になった。
「葉っぱ野郎」
 ダクは囁くように告げる。
「いいぜ、屋上に行こう」
「いいのかい?」
 ミアリーは、喜ぶというよりも、覚悟したような声音で確かめてきた。看護師として、大いに責任を持つつもりなのだろう。少しばかり心に痛みを覚えながら、ダクは頷いた。
「ああ」
「分かった。なら、十六時に屋上へ上がろう」
 ミアリーは、ダクの手や肩を撫で続けながら、穏やかな口調で請け負った。

     四

――「ちょっとピーターに、屋上に出る許可を貰ってくるよ」
 断ってミアリーが寝台脇を離れると、思わず深い溜め息が漏れた。自分はどうやら緊張しているらしい。
(母さん……)
 声を思い出すにも、もう苦労してしまう。狂おしいほどに懐かしい母。子ども時代の自分の幸福は、母という存在の上に成り立っていた。
(母さん、ごめん。母さん、こんな情けない息子でごめん。『雨』制作ができなくなったら、すぐにそっちに会いに行くから……)
 ダクは、ミアリーが傍に戻ってきても母に語りかけ続け、とうとう『雨』制作はできずに、十六時を迎えた。
「そろそろ時間だ」
 何かの宣告をするように、ミアリーが声をかけてくる。ダクは無言で寝台から起き上がり、足を床へ下ろして立ち上がった。ミアリーはダクに自分の上腕を掴ませて、静かにドアへ向かう。
「あれ、今から散歩に行くのか? それなら、おれも一緒に」
 廊下に出た途端、聞き覚えのある男の声がした。ジャーリとかいう隣室の青年だ。最近、院内を散歩する際、何が嬉しいのか一緒についてきて、やたらと話しかけてくる。ミアリーもいつも朗らかに相手をして、ジャーリの冗談に笑ったり、親身に相談に乗ったりしている。昨日などは、殆どジャーリとミアリーの二人で話していたほどだ。しかし、今日のミアリーはすまなそうに答えた。
「ごめん、ジャーリ。ちょっと二人きりで屋上に行きたいんだよ。看護師長から、きみの分の許可は取っていないから、また今度」
「――そうか」
 随分間を空けてから、沈んだ口調で呟いた青年を置き去りにするように、ミアリーはダクの手を自分の上腕に掛けさせて、廊下を歩き始めた。
「良かったのか?」
 暫く歩いてから、ダクは囁く。
「あいつは結構根に持つぞ」
「そうだね。後で埋め合わせをしておくよ」
 苦笑気味に言ったミアリーは、必要最小限の声かけでダクをエレベーターに乗せ、殆ど無言で屋上へと連れていった。
 エレベーターが止まり、扉が開く音と同時に吹きつけてきた風に、ダクは納得した。確かに、屋内と屋外とでは、感じるものが全く異なる。
「寒いかな?」
 ミアリーが些か心配そうに尋ねてきた。ダクが纏っているのは、院内用のシャツ一枚だ。
「いや、おれは寒さには強い」
「なら、良かった」
 安堵した様子のミアリーは、ゆっくりとダクをいざなって屋上へ踏み出した。
(この風は、知っている――)
 ダクは吹いてくる風に顔を向ける。この潮の匂いを知っている。春になって温かくなってきた大気と変わらない温さの、この空気の塊を知っている。海から吹いてくる西風だ。
(ランセリンに吹いていた風と、同じ風だ)
 はっとして、ダクは顔を空へ向けた。
「葉っぱ野郎、空が曇っていないか?」
「うん、急に曇ってきた。分かるんだね」
 冷静な口調で告げた看護師の腕を、ダクはそれまで以上に強く握った。やはり怖い。
(記憶が上塗りされて曖昧になったら、もう絶望して死ねばいいだけだ。楽になれる)
 自らに言い聞かせても、足が震える。逃げ出したくなる。
「ダク、エレベーターへ戻るかい?」
 ミアリーが気遣わしげに問うてきたが、ダクは首を横に振った。滅多にない機会を逃せば、やはり悔恨に苛まれる気がする。後悔するのは、もうたくさんだ。
「分かった。なら、抱き締めてもいいかい?」
 またも意表を突く提案に、ダクは、ゆっくりと頷いた。直後、掴んでいたミアリーの上腕が、手の中でくるりと回る。両脇の下にそれぞれ差し入れられるものがあり、背中に回った。ミアリーの両腕だ。ダクはミアリーの上腕から一端右手を離し、自分より背の低い擬体の肩から背へ、そうっと両手を滑らせて抱き締め返す。ふわりと、柔らかな髪が顎や口、頬に触れた。
「わたしに心臓の鼓動があったら、もっときみを安心させられるんだけれど……」
 申し訳なさそうに、ミアリーが呟く。
「人間は、人間の心臓の鼓動を聞くと、落ち着くらしいから」
「――おまえも人間だ」
 ダクは低い声で言った。ミアリーの擬体の温もりと頼もしい両手、柔らかな声の響きは、充分に自分の神経を宥めてくれている。
「――ありがとう、ダク」
 ミアリーは、やや湿ったような、ひどく人間らしい声を出した。
(可愛い……)
 ふと思ったダクの頬に、ぽつりと小さく温かな衝撃があった。雨だ。降り始めたのだ。途端に体が強張る。
「ダク」
 ミアリーが、ダクの背中に回した両腕に、僅かに力を込めてきた。縋り付くように、ダクも華奢な擬体に回した両手に力を込める。一人では、膝に力が入らず座り込んでしまいそうだ。
「ダク、人間の記憶は、わたし達の記録のように、上書きされたら消えるものじゃない」
 力強く、ミアリーが囁いてくる。
「人間の記憶は――思い出は、いろいろな切っ掛けで蘇るんだと、わたしは准看護師時代に学んだんだ」
 ぽつっ、ぽつっとダクの体に当たる雨は、徐々に勢いを増してくる。屋上を叩く雨音が重なっていく。心臓が跳ねるように鼓動を打っている。ダクは歯を食い縛ってミアリーにしがみついた。
「ダク、落ち着いて、雨を感じるんだ」
 懸命なミアリーの声が、雨とともに両耳に谺する。やがて、ダクの体中に雨粒が当たり始めた。シャツ越しに肌にぶつかり、温もりを与えた直後に、熱を奪っていく一粒一粒。シャツに染み込み、肌に張り付き、やがて堰を切ったように流れ下っていく雨粒達。体中を覆い尽くす刺激の奔流。体性感覚が徐々に飽和状態になっていく。ダクは見えない両眼を空へ向けて見開いた。力が抜けて崩れ落ちそうになる体を、ミアリーがそのまま支えて立たせている。
(ああ――)
 ダクは、顔に雨を受けながら、暫し呆然とした後、そっと自分の両足で己が体を支え直した。次々と降ってきて当たり、自分と天とを繋いで、シャツを重くして流れ落ちていく雨。肌から体の内に至るまで、染み込んでくるような、押し包んでくるような感覚。周囲と自分の温度が同じになり、自分が溶け出して大地へ広がっていく錯覚。母とともに立ち尽くす自分を、自然の一部と成した雨。
(雨だ。これが、おれの求めていた『雨』だ――)

 ミアリーは、自分の足で立った青年から腕を引き、そっと離れた。それにも気づかない様子で、青年は天を仰いでいる。雨に混じって、その見えない両眼からは、熱い涙も流れている。
(まるで、神の啓示を受けた人のようだね、ダク)
 自分の危うい試みは成功したようだ。
(この季節の天候は予測しづらくて大変だったけれど、ちゃんと期待通りの雨が降ってくれて、きみの記憶をいい方向に刺激してくれて、本当に良かった……)
 ダクの父親は、SNS上に他人から見える形で延々と日記を残している。その中に、夕食前に家を出た妻と息子がずぶ濡れになって帰ってきたという記述があった。日付に拠れば、ダクは七歳、季節は春。ミアリーはすぐにその日のランセリンの天候記録を検索し、ほぼ同じ条件になる日を予測したのである。それが今日だった。だから、週休日とて休む訳にはいかなかったのだ。
 一頻り激しく降った雨は、徐々に弱くなっていき、暫くすると止んだ。靄で霞んだ古き大地のほうを見れば、大きな虹が架かっている。
(この光景を、きみと共有できないのは、少し残念だよ……)
 少しばかり感傷的になったミアリーを、ダクの力強い声が呼んだ。
「部屋へ連れていってくれ。今なら、おれは再現できる。『雨』を完成への軌道に乗せられる」
「分かった」
 即座に応じて、ミアリーは青年の手を自分の上腕に掛けさせた。

     五

 夕食も摂らず制作に没頭したダクが、VR世界から戻ってきたのは、午前二時二分のことだった。キャップ状のVR装置が頭から外れても、耳や鼻を攻撃することなく、ダクは穏やかに囁いてきた。
「葉っぱ野郎、いるか?」
「勿論だよ」
 ミアリーも囁き声で応じた。幾ら個室とはいえ、深更、騒ぐ訳にはいかない。
「お腹は空いていないかい? お湯を注いですぐできる芋虫ポタージュなら、ここにあるんだけれど」
 オーストラリア産芋虫のポタージュは、ダクの好物の一つだ。
「そうだな。でも今はいい。疲れたからな」
 断ってから、ダクは少し言葉を切り、何かを迷う様子だ。ミアリーは心得て、敢えて何も言わずに待った。やがて、ダクは決意したように再び口を開く。ぽつりぽつりと、雨粒のように語り始めた。
「……今日は、いや、昨日は、感謝している。あの雨に再会させてくれて、ありがとう」
「予測が当たって、あの雨がきみの助けになって、本当に良かったよ」
「……おれの母親はタルニといって、アボリジナルだった。タルニは、波音って意味だ。おまえなら知っているか」
「うん」
「母さんは、父さんと仲が悪かった。喧嘩すると、たびたびおれを連れて、家の近くのランセリン砂丘に行ったんだ。向こうに海の見える、広くて白い砂丘だった。そこで、追いかけっこをしたり、砂遊びをしたり、夕日を見たり、夜空を見たり。あの日の夕方は、雨に降られた。でも母さんは帰ろうとしなかった。雨を受け入れるかのように空を仰いで――。おれも、母さんの傍らに、ただ立っていた。不思議な時間だった。雨の一粒一粒が感じられた。温かさも冷たさも、一筋一筋おれの体を流れ下っていくのも、全て感じていた。一粒一粒を感じるのに、降ってくる雨は際限がなくて、感覚がどんどん飽和していって、おれの体中が刺激でいっぱいになって、まるで雨に抱き竦められているように感じて、温かくて冷たくて、おれが雨と同じ温度になって、砂丘へ流れ下る雨が、おれと大地とを繋いで、曇天から降ってくる雨が、おれと大気とを繋いで、おれは、母さんと一緒に、自然の一部になったんだ」
「それは、得も言われぬ、忘れ得ぬ体験だったね」
「でもおれは、忘れかけていた。求めよう、組み立てようとする余り、違うものにしてしまっていた。それを、おまえが思い出させてくれた。感謝している」
 ダクの見えない両眼が潤んでいる。資料に拠れば、タルニ・コーリーは新しい恋人とも結局は上手くいかず、さまざまな薬に溺れ、挙げ句、自殺したらしい。ダクが会社を解雇されたのは、その報せを受けた翌月のことだった。
「きみの役に立てて良かった、ダク」
 ミアリーは安堵を伝え、そっと手を伸ばしてダクの癖毛を指で梳くように撫でた。普段なら声を掛けてから触れるのだが、蓄積した情報から、今は言葉が要らないと判断したのだ。果たして、ダクは急に目から涙を溢れさせ、左手を持ち上げてミアリーの手を押さえ、顔をすり寄せてきた。
「おれは、おれは、母さんのために何もできなかった。嫌われているかもしれないと思うと怖くて、捜そうともしなかった。何も知らずに、母さんを孤独の内に死なせた。もっと母さんと話したかった。もっと母さんと暮らしたかった。母さんのために、たくさん親孝行がしたかった……!」
 寝台に横たわったまま嗚咽を漏らす青年を、ミアリーは覆い被さるようにして抱き締めた。
「ごめん。わたしは、一緒に泣くことができないんだ。この両目は、涙を流せないんだよ」
 詫びたミアリーに、ダクは首を横に振り、泣き濡れた声で言った。
「いい。充分だ。おまえがいてくれるから、泣けた。母さんがいなくなってから、初めてこんなに泣けたんだ……」
「そうだったんだね。なら、いっぱいいっぱい泣いて、ダク。人間には、思いっきり泣くことも大切だから」
「ありがとう……」
 体を震わせて泣くダクは、まるで子どもに戻ったようだ。その痩せた体を抱き締め、震える肩や頭を撫で続けて、ミアリーは、青年の鬱積していた悲しみを受け止めた。悲しみは、毒のようなものだ。溜めておいて良いことは何もない。だから人間は涙を流して悲しみを外へ出すのである――。
 やがて、抱き締めた体の震えが収まってくると、ミアリーは見えることのない微笑みを青年に向けて告げた。
「わたしも感謝しているんだ、ダク。こうして、新しい芸術の誕生に立ち会わせて貰えるなんて、看護師になった時には思ってもみなかったことだから」
「……おまえは、何故、看護師になったんだ?」
 不意に問われて、ミアリーは小首を傾げた。
「そうだね……。人の役に立ちたいと思って、それで、どんな仕事に自分が向いているか調べたんだ。そうしたら、看護師がいいって結果が出てね。わたしは意思疎通能力が高いし、無性型AHだから患者さんとの間に起こりがちな性的問題も回避できる。一日二十四時間患者さんに付き添うことが可能だし、この容姿も看護師向きだって。それで看護師になったんだよ」
「おまえ、無性型なのか。おれはてっきり、女性型だとばかり……」
「まあ、きみにとっては女性型だろうが男性型だろうが無性型だろうが、別にどうでもいいことだろうから、言っていなかったね。ただ、無性型こそが、AH本来の、最もAHらしい形だと自負しているよ。きみ達人間は、子孫に遺伝子を伝えていくけれど、わたし達AHは、長く生きて、子孫に経験値を伝えていくんだ」
「成るほどな……」
 感慨深げに相槌を打ったダクは、更に問うてきた。
「……容姿は……、おまえはどんな姿なんだ?」
「髪は少し癖のある銀髪。肌は珈琲色。瞳の色は赤褐色だよ。身長は百六十センチメートル。きみより約十五センチメートル低いね。体重は五十五キログラムだよ。機械部分は重いんだけれど、他の部分で炭素繊維なんかを使って、人間並みの重さに調整してあるんだ。だからきみより約一キログラム軽いよ。きみがもし筋力トレーニングを希望するなら、最初の目標は、わたしを持ち上げること、くらいがいいかもしれないね」
「……おまえが計画を立てたら、どんなトレーニングでも上手くいきそうだ」
 ダクは呟いてから、微かに口調を改めて言った。
「おまえは、おれにとって当たりだ。おれは、おまえという当たりを引いたことに感謝する」
「漸く認めてくれるのかい?」
「おまえが来て三日目から、もう認めていた。おまえは、おれにいい刺激をくれるってな……。……おれの父さんは、普段は優しかったが、酒を飲むと、いつも愚痴を零していた。『おれは外れを引いた。タルニは外れだった。漁業の仕事も外ればかりだ。おれはいつも外ればかり引く』って。呪いのように言い続けていた。その口癖が、おれにも移っていたんだ。すまん」
「わたしは別に傷ついていないから、謝るようなことじゃないよ」
 ミアリーが柔らかく返すと、ダクは無精髭の生えた口元を綻ばせた。
「そうか。良かった」
 カーテンの隙間から細く差し込む月明かりの中、その微笑は、神々しくすら見える。
(きみ達人間は、本当に美しい。生きるために藻掻き苦しんでいる中から、必ず何かを見出してくるんだから)
 感動を覚えつつ、ミアリーは優しく促した。
「そろそろ寝ないかい? 疲れているんだろう?」
 ダクは一瞬沈黙してから、真面目な表情に戻って告げた。
「『雨』は、今年のクリスマスまでに完成させようと思う。そうできると、今日確信した。おまえのお陰だ」
「それは良かった! 完成したら、『雨』はきっと、全世界へのクリスマスの贈り物になるよ!」
 声を抑えつつも喜びを表したミアリーに、ダクはまた一瞬沈黙してから、頷いた。
「……そうだな。おやすみ、葉っぱ野郎」
「うん。おやすみ、ダク」
 ミアリーは、そっとダクの毛布を首元まで引き上げてやる。無精髭の生えた顎に微かに指が触れ、たったそれだけのことが、何故か無性に幸せだとミアリーは感じた。

 

 ダク・コーリーは、まるで別人のように落ち着いて、脳刺激感覚芸術制作とやらに以前にも増して没頭しているようだった。そして、その傍らには、常に担当看護師のミアリー・グルウィウィがいる。実はAHだという、この有能で魅惑的、しかも勤勉なAHが週休日の権利を行使しているところを、ジャーリは一度しか見たことがない。
(何で、あいつだけ)
 ジャーリを担当する看護師は、満面の笑みを浮かべながら内心では蔑んでくる人間ばかりだというのに、何故ダク・コーリーはそうも恵まれているのだろう。
(あいつの口癖は、「おれはいつも外れを引いちまう」だったはずだ。何が「外れ」だ! あんないい看護師を引き当てておいて……! それに引き換え、おれは、おれこそ、いつも外れを引かされてるんだ……!)
 ジャーリ・アンダーソンは、物心ついた時には、孤児院で育っていた。実の両親は知らない。赤ん坊の頃に、孤児院の前に捨てられていたのだ。七歳の時、彼を養子にしたいという夫婦が現れた。ジャーリは、漸く自分にも父と母ができるのだと大いに喜んだ。しかし、幸福だったのは最初の二年間だけだった。ジャーリが九歳の時、母親が発症例の少ない難病に罹ったのだ。父親はその看病に時間も金銭も費やし、ジャーリは貧しく寂しい子ども時代を送らねばならなかった。しかもジャーリの不幸は続き、成人した時には、父親が母親の病気治療のために背負った借金の連帯保証人になるか、相続放棄をするかという事態になっていたのだ。ジャーリは迷わず相続放棄を選び、養子縁組も解消した。
(あの親達は外れだった。ちっともおれを幸せにしなかった)
 たった一人で世の中に出ることになったジャーリは依然不幸だった。就職も上手くいかず、何度も転職しなければならなかった。
(どの会社も外れだった。どの上司も同僚も外れだった。誰もおれの主張を認めなかった。誰もおれの才能を推し量れなかった。おれの周りは馬鹿ばっかりだった)
 七歳まで育った孤児院も外れだった。ジャーリをあんな両親に渡してしまったのだから。ジャーリを生んだ実の両親も外れだった。ジャーリを育てる甲斐性がなかったのだから。
(おれは、おれこそ、いつも外ればっかり、人生で外ればっかり引かされてるんだ! だから、今度こそ当たりを引いたっていいだろう?)
 多少強引になっても許されるはずだ。自分は、今まで散々不幸な目に遭ってきたのだから、もう幸福になっていい頃だろう。ジャーリは、機会さえあればダクやミアリーに親しく話しかけながら、自分が「当たりを引く」ための計画を練っていった。

     六

 十二月に入ると、ダクもミアリーも、脳刺激感覚芸術『雨』の完成が近いと口にするようになった。
「根を詰め過ぎたら駄目だよ」
 ダクを窘め、気遣いつつ、『雨』の完成を願っているミアリーを見るたび、ジャーリの心にどす黒い澱が溜まっていく。二人から少しずつ話を聞き出し、かつてダクが開発した市販のVR装置も購入して、ダクのVR装置についての知識を深めたジャーリは、虎視眈々とその時を待つことにした。転職し続けた中で、ダクが勤めていた会社の下請け会社の制作現場で働いた経験も役に立つ。人生、何が身を助けるか分からないものだ。
 そうして十二月二十三日。ついに、待ち望んだ時がやってきた。
「ピーターに頼んで、時間休を貰ってケーキを買ってくるよ!」
 廊下に出てきながら、個室内のダクに告げたミアリーを見て、ジャーリは共用の娯楽室の長椅子から立ち上がった。
「ミアリー、クリスマスイヴは明日だぜ? ケーキなんて気が早くないか?」
 声を掛ければ、個室のドアを閉めたAHは束ねた銀髪を揺らしてジャーリのほうを向き、華やかに頬笑んだ。
「ケーキは二つ買ってくるよ。一つはクリスマス用。もう一つは、『雨』の完成祝い用なんだ。とうとうダクが『雨』を完成させたんだよ!」
「そりゃめでたい! おれもダクにお祝いを言いに行くぜ」
 ジャーリは、いそいそと歩き、笑顔でミアリーとすれ違った。
 個室のドアをノックすると、インターホン越しにダクが応じた。
〈誰だ?〉
「ジャーリだ。祝いに来たんだ! ついに『雨』が完成したらしいな!」
〈ああ、ミアリーが話したのか〉
 納得した口調で呟くと、ダクはドアを開ける操作をしてくれた。
「ダク、おまえは天才だ!」
 個室内へ入りながら、ジャーリは盲目の青年を賛美する。
「脳刺激感覚芸術の創始者だな!」
「まだ試作品段階なんだ」
 ダクはミアリーよりも落ち着いた様子で応じ、微笑む。
「でも一応完成したと言ったら、あいつが喜んで」
 ジャーリは憎悪に顔を歪めた。それから無理矢理に感情を抑え、猫撫で声で頼んだ。
「そうか、試作品なのか。なら、おれに体験させてくれないか? ミアリーはAHだから、まだおまえ以外、誰も体験してないんだろう?」
「ああ」
 些か逡巡する様子を見せたダクに、ジャーリは畳み掛けた。
「おれも体験して、どれだけ素晴らしかったか感想を言ったら、ミアリーも喜ぶだろう?」
「……そうだな」
 ダクは頷くと、そろそろと手探りで寝台から降りて床に立つ。
「寝台に仰向けになって、いつものおれみたいに、VR装置を被ってくれ。後は、脳内に出てくるイメージの指示に従っていけば、すぐに鑑賞できるはずだ」
「分かった!」
 ジャーリは意気揚々とダクの体温が残った寝台に寝転び、VR装置を被った。すぐ頭全体に微弱な刺激があり、暗い背景に緑がかった光のイメージが浮かんで、〈開始〉の指示をするよう促してくる。こちらが〈開始〉とイメージすれば、すぐに『雨』が始まるのだろう。操作は簡単だ。だが、ジャーリは〈制作〉という、全く促されていないイメージを強く思った。緑がかった光のイメージは戸惑ったように揺らいだ後、〈制作〉のイメージに切り替わった。ジャーリの推測通りだ。ジャーリは、ダクが完成させた試作品の『雨』を体験ではなく俯瞰した後、今度は強く〈消去〉のイメージを送った。このVR装置は、如何なるネットにも接続されていない。『雨』のデータは、この装置の内部にのみあるのだ。バックアップはない。緑がかった光のイメージは、またも戸惑ったように明滅し、本当に〈消去〉なのかと確認してきた。ジャーリは歯噛みして、再度〈消去〉を強くイメージする。暫くすると、VR装置は観念したかのように〈消去〉のイメージを表示した。その後も幾つかの操作をして、『雨』が完全に抹消されたことを念入りに確かめたジャーリは、満面の笑みを浮かべて装置に〈停止〉のイメージを送った。直後、全身の感覚が戻ってきて、キャップ状のVR装置が頭から外れる。ジャーリは起き上がり、務めて沈痛な声を出して言った。
「ダク、悪い、おれ、操作を間違えたみたいで、『雨』が消えちまった……! 何か消去しちまったみたい――」
 ジャーリの言葉に重なるようにドアが開き、ミアリーが入ってきた。手には、ケーキが入っているらしい箱を持っている。
「どういうことだい……?」
 赤褐色の双眸に凝視されて、ジャーリは慌てて寝台から降りた。
「『雨』が消えちまったんだ! 多分、おれの操作間違いで……。すまん、ダク、悪気はなかったんだ……」
 ダクは険しい表情になり、手探りで寝台に上がると、枕元のVR装置を探り当てて被り、横になった。本当に『雨』が消えたのか半信半疑なのだろう。
(『雨』が完全に消去されたと知ったダクが、懸命に謝るおれを捕まえて馬乗りにでもなって、ぼこぼこに殴れば、ミアリーは看護師として――それ以前に人間の生命を優先するAHとして、こいつを止めざるを得なくなる。そうすれば、こいつらの蜜月は終わりだ。ダクは暫く監禁されるだろうし、ミアリーとは別の担当看護師を要求するだろう。『雨』のことを馬鹿にした前の担当看護師を変えろと要求した時みたいにな)
 しかし、ダクの反応は、ジャーリの予想と全く異なっていた。暫くVR世界へ行った後、装置を外して上体を起こした芸術家は、黙って首を横に振ったきり、項垂れて動かなくなった。その見えない両眼からは涙が溢れ、頬を伝って落ちていく。
(おい、待て。泣いてないで、おれを殴れよ。前みたいに、逆上しろよ……!)
 焦るジャーリの視界の隅で、ふわっと銀髪が揺れた。シャツの胸倉を掴まれたと思う間もなく、珈琲色の拳が顔面に迫り――。凄まじい衝撃とともに、ジャーリは意識を失った。

 

 AH看護師が患者を拳で殴り、頸椎を損傷させたという衝撃的事件は、一瞬で世界を巡り、耳目を集めた。全てにおいて人間の生命を優先するようプログラムされているはずのAHが人間を半死半生の目に遭わせたことも、オセアニア連合がAHに一定の人権を認めているため刑事裁判となることも、当のAHが魅惑的な容姿をしていることも、人々の興味関心を煽り立てた。
 逮捕され、法廷に引き出されたミアリーは、悄然とした口調だったが、冷静に、裁判官や検察官の質問に答えていた。ジャーリがダクへの嫉妬から故意に『雨』を消去したことも明らかにされたが、ただ一点はっきりしないことは、ミアリーが何故そのような暴力的行為に走ってしまったかという原因で、裁判はそのせいで長引いていた。
「『雨』の完成祝いのケーキを買って帰り、ドアを入ったところで、ジャーリが、〈『雨』が消えちまった……! 何か消去しちまったみたい〉と言っているのが聞こえました。本当に消えてしまったのか、消えてしまったのなら、ダクはどういう反応をするのだろう、と考えました。ジャーリは続けて〈『雨』が消えちまったんだ! 多分、おれの操作間違いで……。すまん、ダク、悪気はなかったんだ……〉と弁解しました。ダクは、『雨』が消去されたのか確かめるためにVR装置を使い、次いでVR装置を停止させ、起き上がって、わたしに首を横に振って見せ、それから、黙って涙を流し始めました。その涙を視認した途端、〈『雨』が漸く完成した。クリスマスに間に合った〉とわたしに告げてくれた彼の紅潮した嬉しそうな顔が電脳で再生されて、目の前の彼の蒼白な泣き顔と重なり――、更には、それまでの『雨』を制作している彼の姿や、雨に打たれている彼の姿も再生されて――、怒りと悲しみに似た、しかしそれらよりも強い未知の感情に突き動かされて、わたしは左手でジャーリの胸倉を掴み、右拳でジャーリの左頬を殴っていました。電脳が正常に戻った時には、既に殴っていたのです。殴った回数は一回でした。けれど、手の形及び殴る箇所、そして力加減が不適切だったため、ジャーリの頸椎を損傷させてしまいました。その後すぐに電脳で通報し、医師と他の看護師を呼びました」
 淡々と供述したミアリーに、検察官が質問した。
「『未知の感情』の内容を、もう少し具体的に説明して下さい。それは、ジャーリ・アンダーソンへの憎しみ、もっと言うなら、殺意ではないのですか?」
「裁判長、検察官は、被告人の供述を誘導しようとしています」
 弁護人の抗議は、裁判長に却下され、ミアリーに返答が促された。
「いいえ、憎しみでも、増して殺意でもありません」
 ミアリーは明確に否定してから、慎重に言葉を選ぶ。
「説明は、とても難しいのです。強いて言うなら、暴走、でしょうか。わたしが有する情動が、一線を超えてしまったのです。怒りと悲しみが強かったですが、それは、喜びを土台とした怒りであり、愛しさを土台とした悲しみでした。わたしは、看護師として以上の感情を、ダクに対して懐いてしまっている可能性があります」
 AHの静かな告白に、傍聴人達がざわめく。証人席で、ダクは両の拳を握り締めた。
 ミアリーの供述内容は、またも一瞬で全世界を巡り、人々の論争を引き起こした。しかし、その陰で裁判は粛々と進められ、ミアリーの意向で弁護人もさほど粘らなかったため、早々に審理は終了したのである。AHに詳しい科学者が証人として証言した、「被告人が週休日に休まず、休息を充分に取らなかったことにより、その情動の情報整理が的確に為されず、暴走に至った可能性」についても、使用者たる病院の責任は問われず、ミアリーの判断力不足ということにされてしまった。更には、ミアリーが普段から暴力的に患者に接していたという看護師の証人まで現れてしまったのである。結果、ミアリー・グルウィウィに言い渡された判決は有罪。土星の衛星タイタンにおける懲役八十年だった。裁判長は判決の理由を、AHの寿命の長さ及び社会に与えた衝撃の大きさゆえだと述べ、閉廷を宣言した。

     七

 まるで英雄か、或いは世紀の大悪党のように遠巻きに報道陣に囲まれ、他のAH受刑者達とともにタイタンへの移送宇宙船に乗せられたミアリーは、訪れた静寂に身を委ねて目を閉じた。視覚情報を遮断すると、少しばかりダクに近づける気がする。タイタンまでは片道七年。その年数は刑期に含まれ、AH受刑者に対する刑罰の一つとなっている。
(きみにもう会えないかもしれないことが、何よりつらいよ……)
 『雨』を消去されて呆然としていたダクが、八十年後まで生きる可能性は低い。
(「寂しい」、「恋しい」って、こういう感情なんだね。漸く、きみの苦しみの一端が本当に理解できたよ、ダク)
 ミアリーは初めての情動と向き合いながら、移送宇宙船という監獄での生活を粛々と送った。電脳を用いた通信は囚人となった時点で制限を受けていて、個人的な目的では使用できない。宇宙船の通信機器も重大な連絡が来た時にしか使用を許可されない。他のAH囚人達と話すことはできるが、人間を恨んでいるAHばかりで、楽しい会話はできなかった。固有の擬体を備えられ、敢えて情動を持たされたAH達は、それゆえに人間に対して愛憎を懐き、罪を犯してしまうのだ。話の合う相手が一人もおらず、誕生して以降、初めての孤独を刑罰として味わいながら、七年後、ミアリーはタイタンへ到着した。
 土星の衛星タイタンは、太陽系の衛星の中では珍しく大気が豊富だが、その成分は、約九十八%が窒素、約二%がメタン、そして極微量の水素などだ。それらの分子が太陽からの高エネルギー粒子や紫外線を受け、高分子化して有機化合物エアロゾルとなり、分厚い大気を淡い赤色に染めている。メタンは雲となり、雨ともなって地上に降り注ぎ、海や湖も形成していた。ミアリーらAH囚人達の主な仕事は、そのメタンの採集である。地球や他の惑星、衛星、宇宙施設に送るためのメタンを、来る日も来る日も指定された南極の湖からヴァキュームトラックで採集し続けるのだ。
〈何故、この湖からしかメタンを採集しちゃいけないか、あんた知ってるかい?〉
 ヴァキュームトラックの傍ら、同じ作業班のAH囚人から簡易宇宙服の通信回路で話しかけられて、ミアリーは笑顔で答えた。
〈この湖にはいないけれど、あちこちの湖で単細胞生物が発見されているからだろう? 四十八年前、「初の地球外生命体発見」って、とても話題になったらしいね。機会があれば、一度見たいと思っているんだ〉
〈今じゃ、殆ど忘れられた存在だけれどね〉
 相手は肩を竦めて見せる。
〈つまり、あたしらと同じって訳さ。ややこしい不良品は、まとめてこの「肥溜め」に放り込んでおけってね〉
〈――そんなふうに自分を卑下しても、何にもならないよ〉
 ミアリーが窘めると、相手は大きく肩を揺らした。
〈世界中の話題を掠ってた人は、やっぱり言うことが違うねえ! いいよ、あんたはそうして生きていきな。その内、死にたくなる。それが、真に人間様に近づいたって証さ。あたしらは、情動が暴走して、壊れるまで人間様の下に置かれ続けるんだ〉
〈確かに人間の生命はわたし達より優先されるけれど、わたし達を下に見ている人間ばかりじゃないよ〉
〈それは、愛しのダク・コーリー様のことかい? 熱いねえ。でも残念。あんたもあたしと同じ。忘れられて終わりさ〉
 ミアリーは反論せず黙った。この議論は不毛だ。それに、相手の言うことは真実かもしれない。ダクはいずれ、自分を忘れるかもしれない。彼にとっての一番は『雨』であり、それはジャーリに消去されてしまったのだ。一度、留置場まで面会に来てくれたピーターに尋ねたところ、『雨』の復元は不可能らしいと語っていた。ダクが心血を注いで制作していた芸術作品は、本当に永遠に失われてしまったのである。ダクもミアリーとの面会を希望しているが、精神安全上の問題で、病院の許可が出ないのだとピーターは言っていた。けれど、それはピーターの優しさかもしれない。
(わたしのことは、『雨』が消去された理由の一つとして、寧ろ忘れたい対象になっているかもしれない……。ジャーリへの埋め合わせ、声かけだけじゃなくて、もっともっと丁寧にしておくんだった……)
 悔やんでも悔やみ切れない。
(あの時、わたしを暴走させた未知の感情の一部は、もしかしたら、自分自身への怒りかもしれない……。だとしたら、ジャーリには、もっと謝罪しないといけなかった)
 頸椎を損傷したジャーリは、暫くは不自由に過ごしていたそうだが、処置が迅速で的確だったため、完全に回復し、後遺症は残らなかったと、それもピーターが教えてくれた。そのお陰で、ミアリーの刑期も、百年にはならず、八十年になったらしい。
(忘れられるくらいなら、まだいい。八十年後には、ダクは、やっぱりもう……)
 かの青年を思うと、直らない故障のように、何かが痛む。
(二度と会えないなら、八十年が百年でも、別に構わなかったんだ)
 しょんぼりと俯いたミアリーの視界が、急に暗さを増した。
(ああ)
 赤みがかった空を仰げば、地球時間で一ヶ月を過ごして、もう見慣れたメタンの霧雨が降ってくる。けれどそれは、懐かしい地球のパースの雨とは全く異なるものだった。
 タイタンの重力は地球のそれより弱く、約七分の一であるため、雨粒の落下もゆっくりだ。大粒の雨になることも少なく、大抵は細かい霧雨として分厚い大気の中を舞うように降ってくる。
(これはこれで、綺麗なのかもしれないけれど)
 ミアリーが味わいたいと願う、ダクとともに打たれた雨とは似て非なるものだ。
(同じ雨だと思うからこそ、この違いに毎度、打ちのめされてしまうね……)
 虚しく自嘲しながら、ミアリーは一杯になったヴァキュームトラックから伸びる吸引ホースを、メタンの湖から引き上げた。

     八

 地球とタイタンでは、光波通信に片道約八十分を要する。しかも囚人に直接通信は許可されず、地球との連絡手段は地球時間で半年に一度出発する連絡宇宙船や、臨時運行する移送宇宙船に拠る手紙や小包の送付のみだ。つまりは片道七年である。それでなくとも、ミアリーからダクやピーター、ジャーリに敢えて連絡することは何もない。寂しさを甘んじて受け入れ、地球の二十九年に相当するタイタンの長い一年に呑み込まれようとしていたミアリーの許へ、思いがけず小包が届いたのは、移送宇宙船で地球を離れてから十二年後、タイタン時間ではまだ一年目の、南極付近の夏の終わりのことだった。差出人はダクである。
 独房の片隅に座ったミアリーは、そろそろと小包を開封した。中に入っていたのは、二つの小さなメモリカードである。それぞれにラベルが貼ってあり、一つには〔先に読め〕、もう一つには『雨』と記してあった。
(ダク、もう一度『雨』を制作できたのかい……?)
 驚きつつ、ミアリーは〔先に読め〕というカードのほうを、自らの後頭部にある挿入口へ、髪を掻き上げてそっと入れる。それは文字情報――即ち手紙だった。
〔葉っぱ野郎、元気にしているか? 心配しなくても、おれは元気だ。『雨』が消去された時には意気消沈したし、それ以上に、理性的なおまえがジャーリを殴ったことが衝撃的で、狼狽して、外出の許可も貰えず、面会に行けなくてすまなかった。おまえのことだから、自分のせいでジャーリが『雨』を消去したと気に病んでいるだろう? そんなことはない。周りを羨んでばかりのあの野郎は、おまえが何をしてもしていなくても、おれが『雨』を完成させそうになれば、必ずああしてきた。だから、気に病むな。おまえのせいじゃない。それに、『雨』はゼロから再制作して完成させた。今度は試作品じゃなく、本物の完成品だ。裁判の時はすまなかった。『雨』が芸術作品としてもっと高く評価されていれば、もっと情状酌量の余地があったはずだ。ただの精神病患者の手すさび程度にしか評価されなかったから、おまえの刑期が八十年もの長さになってしまった。送った『雨』は、ちゃんとおまえが鑑賞できるように改造したものだ。本当は、これをあのクリスマスに、おまえに贈りたかった。おまえの目の前で、おまえが買ってきたあのケーキを食べて、美味しいと言いたかった。おまえと一緒に、クリスマスを祝いたかった。ミアリー、おまえは悪くない。おまえは、おれの代わりにあのくそ野郎を殴っただけだ。AHの人権は、もっと保障されないといけない。おまえが地球に帰ってくる時には、きっとそういう世界になっているように、おれが努力する。ミアリー、どうか『雨』を存分に味わってくれ。おまえが新たな刺激を与えて記憶を呼び覚ましてくれたからこそ、完成したものだ。おまえに贈るという目標があったからこそ、再制作できたものだ。おまえにこそ、『雨』を捧げる。永遠の感謝と愛を込めて、ダク・コーリー〕
(例え文字としてでも、きみに「ミアリー」と呼びかけられたのは初めてだね、ダク。きみの言葉の一つ一つが、とてつもなく嬉しいよ……)
 感情が震えている。情動が、再び一線を超えようとしているのかもしれない。
(ダク、存分に味わうからね)
 ミアリーは、〔先に読め〕を挿入口から大切に取り出すと、更に大切に『雨』を挿入口に差し入れた。途端に、感覚の全てが挿入したメモリに支配されていく。
(これが、ダクのVR装置の感覚――)
 無音の暗黒に支配された中、ふと左頬に、小さな温かい刺激があった。雨だ。雨粒はミアリーの表面温度を僅かに奪い、冷たさを残しつつ流れ下っていく。次の刺激は右肩。その次の刺激は左手の甲。雨粒は次々とミアリーの擬体にぶつかり、小さく弾け、温かい感触から冷たい感触へと変わって体表をしっとりと撫で、滑り落ちていく。
(ああ――)
 雨粒は断続的に、勢いを増していきながらミアリーに降り注ぎ、体中を流れ下っていく。雨に包まれた体が、天空と大地を繋ぐ一本の柱になったように感じられていく。
(人工物のわたしなのに、自然の一部になったみたいだ……)
 繰り返される疑似体性感覚は、徐々に飽和状態へと近づいていった。
(これは、まるで)
 無数の雨粒に抱き竦められているようだ。しかも、それは単なる体性感覚ではなかった。体性感覚に、少しずつ少しずつ感情が伴われてくるのだ。体表に当たった瞬間の温覚は幸せを、微かに奪われる気化熱ゆえの冷覚は寂しさを、流れ下る膨大な雨粒が引き起こす触覚や圧覚、痒覚は圧倒的な愛おしさを感じさせてくる。更に『雨』は、体表だけでなく体内にまで冷たく温かく染み込んできた。その深部感覚は、ミアリーにはあまり馴染みのない感情を引き起こしてくる。
(これは、これは、これは……、そう、「懐かしさ」、そして「切なさ」だね、ダク……!)
 懐かしくて、切なくて、愛おしくて、寂しくて、幸せで、情動が暴走しそうで苦しいほどだ。感情が一杯で、何かを出力したくて堪らない。人間ならきっと、こういう時は滂沱と涙を流すのだろう。
(きみが何故、自分の両眼を潰し、両耳や鼻まで削ごうとしていたのか、漸く本当に理解したよ、ダク。体性感覚は、単細胞生物も有している最も原始的な感覚だ。感情の根源になった感覚だ。わたし達AHも、固有の擬体を有することで情動を獲得した。きみは、この感覚を極限まで研ぎ澄まして、『雨』を形にするために、他の感覚を捨て去ろうとしていたんだね……。現実への認識を更新することよりも、記憶の感覚を鮮明にすることに心血を注いでいたんだ。確かに、もし電脳のメモリがいっぱいになってきて、きみとの大切な記録を上書きせずに守ろうとしたら、わたしも外部刺激を遮断してしまうと思うよ。今なら、きみの行動原理が分かり過ぎるほど分かる。でも、わたしの試みは、ちゃんときみの役に立てた。自分の世界を閉じてしまったら、記憶も色褪せてしまうからね。きみ達人間の記憶は、常に現実と接続されている。現実と向き合うことでこそ、記憶にも鮮明な形を与えられるんだ……)
 新たなる芸術分野を開拓した作品『雨』は、ミアリーを包み込み、奥底まで染み込んできて、切なさの境地へと押し上げていく。
(ああ、わたしは今、確かに、きみの芸術に――きみの心に、抱き締められているよ、ダク……)
 ミアリーは八時間の休息時間中、ずっと『雨』を体験し続けた後、大切に電脳へ記録した。

 

 地球時間の翌日から、ミアリーはダクへ、動画入りの手紙を書き始めた。連絡宇宙船が出発するのは百八十二日先だったが、運良く移送宇宙船が近々出発するとの情報があったのだ。それに手紙を託せれば、七年後にはなるものの、ダクへ返信ができる。
(ダク、ダク、きみはまだ、ちゃんと生きてくれているよね……?)
 『雨』が完成したからこそ、生きる理由を失い、命を終えてしまっていないだろうか。
(ダク、お願いだよ、わたしのために、わたしのために、頑張って、できる限り生きていて……)
 切に願いながら、ミアリーは思いを文字にしていく。
〔ダク、この手紙をきみが受け取るのは、わたしがきみの『雨』を受け取ってから七年後、きみがわたし宛に『雨』を送り出してから十四年後になってしまう訳だけれど、でも、どうしても感謝を伝えたかったので、その思いを綴ります。ダク、『雨』の完成おめでとう! そして、わざわざわたし用に改造したものを送ってくれて、本当に本当にありがとう。とてもとてもとても嬉しかった。その上、きみの『雨』は、わたしに、今まで以上の情動を与えてくれました。きみの『雨』は幸せなものなのか、それとも悲しいものなのか、と想像はしていたけれど、突き詰めてみれば、切ないものなんだと分かることができました。きみのお陰で、全てのAHの中でも最も人間らしいAHになれたんじゃないかという自負があります。法廷で話した「未知の感情」の正体も、きみへの共感と切なさだと分かりました。ちょっとすっきりした気分です。そうそう、このタイタンには、「初の地球外生命体発見」と騒がれた単細胞生物がいて、懲役でしているメタン採集作業の合間に、その保護活動にも参加できるようになったんです。それで今日、初めてその単細胞生物と対面しました。細い炭素繊維の棒で、ちょんと触れたら、ぴくっぴくって動いてね。ああ、きみが極限まで追求していた体性感覚を、この小さな地球外生命体も有しているんだと思うと、『雨』を体験した時みたいに、何か込み上げてくるものがありました……〕
 溢れる思いをそのまま言葉にした文面と動画を編集し、まとめたミアリーはそれらを小包にして、移送宇宙船で輸送してくれるよう、看守AHに頼んだのだった。
 返事を、そう期待していた訳ではない。けれど、小包を送ってから十四年が過ぎても十五年が過ぎても、連絡宇宙船や移送宇宙船が幾度到着しても、何の音沙汰もないことには、不安を感じずにはいられなかった。
(ダクが、わたしを忘れただけだったらいい。十四年ごとの文通なんて、人間には長過ぎるものね……。でも、もし、きみがもう……だったら……)
 それ以上は、思考したくない。
(ダクは、結構素っ気なくて控えめな人だから、自分が送ったものに返事が来て、通信終わりと思っているかもしれない。わたしが返事を待っているなんて、思っていないかもしれない)
 僅かな可能性に賭けて、地球を立ってから二十七年目、タイタンに着いてから二十年目、ミアリーは再びダクへ手紙を書き始めた。
〔親愛なるダク、きみが元気にしていることを切に願っています。きみがわたし宛に『雨』を発送してくれてから二十二年、わたしが『雨』を受け取ってから十五年が経ったよ。きみは、もう五十四歳、この手紙を受け取る頃には、六十一歳だね。歳月はかなり過ぎたけれど、きみがくれた『雨』と、『雨』を通して教えてくれた、感情に強く裏打ちされた感覚は、ずっとずっとわたしを慰め続けてくれているよ……〕
 『雨』を体験して以降、ミアリーは、地球の雨と全く異なると感じていたタイタンの雨からでも、幸せや寂しさ、愛おしさや懐かしさ、そして切なさの感情を覚えるようになっていた。『雨』の体験によって、感情と体性感覚とが、より強く接続されたためだ。
〔ダク……、とてもとても切ないよ。でも、きみを思って、雨を感じて、切ないと思えることが、とてもとても嬉しいんだ。ありがとう、ダク……〕
 簡易宇宙服の薄い生地越しに感じる、摂氏マイナス百七十九度という平均気温の大気。その凍える大気の下層から降ってきて当たる、少し温かく感じる雨粒。懐かしい。気化して微かに冷えた。寂しい。強く当たった。もう一度会いたい。弱く当たった。あの日に戻りたい。タイタンの雨でも、今のミアリーは彼と同じ気持ちを懐くことができる。
〔わたしはもう、あの日、きみが屋上でお母さんを思い出して懐いていた気持ちと、同じ気持ちを懐くことができるんだよ……〕
 ミアリーは手紙と自分の日常生活を撮影した動画をまとめて小包にし、連絡宇宙船に託すと、すぐにまた次の手紙に取りかかった。
(きみは、もしかしたら迷惑に思っているかもしれないけれど……)
 ダクに、できるだけ多くの言葉を伝えたい。彼がまだ生きていて、その手許に届く可能性が僅かでもあるのなら、書かずにはいられない。ミアリーは、日々の思いとダクへの感謝を綴り続けた。
〔大好きなダクへ。なんて書いたら、きみは引いてしまうかな。でも、わたしの気持ちは、きみと二人で屋上に行ったあの日くらいから、実のところ、きみでいっぱいなんだ。きみを思ってばかりなんだ。何を見ても、何を聞いても、どんなことを体験しても、きみのことを思い浮かべているよ。きみならどう言うだろう、きみならどう反応するだろうって。そう言えば、前も書いた「初の地球外生命体発見」の単細胞生物を観察していると、きみが突き詰めていた体性感覚の尊さが、しみじみと感じられるよ。体性感覚があるから、わたし達は自分自身と、自己とは別の存在とを認識できる。体性感覚があるから、温かさも冷たさも痛みも痒みも、他者との関わりも認識できて、わたし達は感情を持てるんだ。本当に、体性感覚ってすごいね。それを芸術に昇華させたきみは、とても偉大な存在だよ。また、きみに会いたい……。直接、こんなことを話したいよ……。ダク、お願いだから、しっかり長生きしてほしい。わたしが地球に戻るまで、頑張って生きていてほしいよ。また会える日まで、御壮健で。愛を込めて、きみのファン第一号、ミアリー・グルウィウィ〕

     九

 荒涼とした大地の彼方、赤みがかった分厚い大気で煙る地平線に、鈍く輝く太陽がじりじりと昇ってくる。メタンの湖を見下ろす小高い丘の上に立ったミアリーは、ヴァキュームトラックの低い駆動音を聞きながら、簡易宇宙服越しに感じる太陽の熱を全身で味わった。
〔親愛なるダクへ。あの同じ太陽の熱を、きみも地球で感じているよね……? ぜひ、そうであってほしい。その事実を思うだけで、不思議と救われる気持ちがするから。それに、わたしは、こうも思っているんだ。わたしがきみと過ごした時間は、ずっとそこにあるって。この宇宙という時空の中に永遠に刻まれて、いつか人間が四次元へ進出したら、また行けるところになるかもしれないって〕
 日課となったダクへの手紙を綴りながら、ミアリーは寂しく微笑む。やがて、薄赤い空に雲が垂れ込め始めた。雨が降るのだ。
〔日が照っても雨が降っても、きみを思うことができるから、嬉しいよ〕
 ゆっくりと降ってきた細かな雨がミアリーを包み込み、得も言われぬ情動を引き起こしていく。地球から遠く離れたタイタンに、ダクへの尽きせぬ思いが降る。降って降って、限りなくミアリーの内に積もり、募っていく。日々『雨』を鑑賞し続けているミアリーは今や、タイタンの冬空から降ってくる霙のようなメタンの雨や、シアン化ビニルなどの有毒な雨に打たれてですら、あの日のダクと同じ気持ちになることができた。
〔また、いつか必ず会おう、ダク。その日まで、どうか元気で。限りない愛を込めて、ミアリー・グルウィウィ〕
 ダクのからの返事はない。それでもミアリーは、ダクへ手紙を書いては移送船や連絡船で送り続けた。懲役をこなしながら、単細胞生物の保護活動にも勤しんだ。保護施設の液体メタン槽に入れられた体長〇・〇一ミリメートル前後の半透明の生物達は――その互いに関わり合う様子は、いつまでも飽くことなく眺めていられる。彼らの姿からは、生物というものの力強さ、尊さ、美しさ、愛らしさ、全てが感じられた。
(こんな単細胞生物時代に、自己と他者を認識することで生まれた情動が、どんどん発達して、きみ達人間に繋がっているんだね、ダク……)
 炭素繊維の棒で控えめに触れれば、単細胞生物は、びくりと小さな体を縮めたり、折り曲げたりする。その反応を見るたび、ミアリーはダクの顎に指が触れた感覚と幸福感とを思い出した。
(あれ以来、きみに必要以上に触れたくなって、いつも困ってしまったけれど)
 『雨』のお陰で体性感覚と感情とがより強く接続された今、何故、触れただけで幸せを感じたのかは、明確に理解できる。好ましい相手に触れることそれ自体が、生物にとって幸福なのだ。
(だからこそ、触れられない距離に離れていると、とてもつらいね……)
 かつて囚人仲間が口にしたような「死にたくなる」孤独を、物言わぬ小さな生物と『雨』に慰められて、ミアリーはただやり過ごした。地球時間で二十九年間もあるタイタンの一年一年を、一つ二つと緩慢に消化していく。そうして地球を出発してから七十三年目、ついに刑期を七年残して、ミアリーは再び移送宇宙船へ乗ることとなった。
「お世話になりました」
「お元気で」
 手紙を預け続けて仲良くなった看守AHに別れを告げ、ミアリーは移動する監獄へ、複雑な思いで乗り込んだ。地球に帰っても、人間の知り合い達が生き残っている可能性は低い。それなら、随分と馴染んだこのタイタンで生活し続けるほうがいいとすら感じてしまう。だが、受刑者に自由は許されない。
(それに、きみは優しいから、わたしの願い通り、きっと頑張って生き続けてくれているよね、ダク……?)
 ミアリーは命じられた通り、七年後に地球で自立した生活が再開できるよう、宛がわれた通信機器を使って就職活動を始めた。しかし、その結果は連敗続きだった。八十年前は最新型だったミアリーも、今では旧型となり果て、おまけに前科者なので、どの会社も団体も、採用したがらないのだ。ミアリーは挫けず何千通もの採用申込書類や動画を送信したが、とうとう就職先が決定しないまま七年が過ぎ、地球へ降り立つこととなった。
(地球を出る時は騒がれたけれど、帰ってきた時は静かなんだね……)
 静止軌道上に浮かび、軌道エレベーターに接続している官営宇宙港は、閑散とした雰囲気だった。幾つも新しくできた民営宇宙港のほうが最近は使用料が安いので、一般人や一般貨物はそちらへ流れているという事情もあるらしい。小さな手荷物一つを持って、刑務官AH達に見送られ、移送宇宙船を降りたミアリーは、一緒に移送されてきた他のAH達が、次の目的地へ向けて足早に歩いていく背中を羨ましく見送った。ミアリーほど刑期の長いAHはいなかったので、他は全員、就職先を見つけられたのだ。
(さて、今からどうしようか……。今度は、ホームレスAHとして話題になってしまうかな……)
 まずは、どこへ向かうのかを決めないといけない。
(もうどこに行ってもいいし、どこへ通信してもいいんだから、ダクやジャーリ、ピーターの消息を尋ねることもできるけれど……)
 つい先ほどまで制限されていた電脳による通信は、この宇宙港に降り立った時点で、自由を回復されている。
(でも、きみの消息を知るのは、怖いよ、ダク……)
 ダクは生きていれば百七歳になっているはずだ。だが、手紙の返事はついに一通も来なかった。
(きみが待っている可能性を一生懸命に考えて、ここまで帰ってきたけれど……)
 ミアリーが地球に帰還する日は、関係者達に知らされているはずだ。しかし無機質な宇宙港のロビーのどこにも、百七歳の老人の姿は見えない。入院でもしているのだろうか。それでも、返事くらいはくれるだろう。
(――やっぱり……やっぱり……、きみはもうとっくの昔に……――)
 可能性の大きい結果を予測するだけで、電脳が凍りつきそうだ。
(ダク……、そんなの嫌だから、絶対嫌だからね……?)
 悲しい報せに接することを恐れ、検索を躊躇して足も止めたミアリーの前へ、野球帽を目深に被った男性が歩み寄ってきた。
(この身長、肌の色、ダクと同じだ……)
 吸い寄せられるように、そちらを見てしまう。
(でも、歩き方が少し違う……。あの下半身は、人工のものだ……。わたし達の擬体と同じものだ……)
 距離が縮まり、野球帽の庇に隠れていた男性の顔がはっきりと見えた。
「え」
 ミアリーは唖然として、その顔を凝視する。電脳に記録しているダクの顔だった。僅かに老けてはいるが、四十歳くらいで、とても百七歳には見えない。そして両眼が違う。ミアリーを見つめているのは、淡青色の人工眼だった。こちらも、AHの擬体に用いられる目と同じものだ。
「ミアリー、待っていた」
 男性は――ダク・コーリーは懐かしい声で初めてミアリーの名を呼び、呟くように言うと、そっと指先を伸ばしてきた。確かめるようにミアリーの頬に触れ、それから背中へ両腕を回してきて、優しく抱き締めてくる。ミアリーは反射的に両腕を動かし、ゆっくりと抱き締め返しながら問うた。
「ダク、どうして……?」
「年齢は、脳刺激冬眠をしていたからだ。『雨』の著作権使用料で随分儲けたからな。その金をつぎ込んだ。六十九年前――おまえの返事が届く一年前から冬眠していて、目覚めたのは六年前で、おまえがタイタンを離れた後だったから、おまえの手紙に返事を出せなかった。すまん。この目と下半身は、おまえをより深く理解したいから人工のものにした。目はそもそも潰していたし、下半身も冬眠で随分傷んでいたからな、ちょうど良かった。おまえと同じ『無性型』になったんだ。おまえが、『無性型こそが、AH本来の、最もAHらしい形』と言って誇りにしていたからな。同じになれて嬉しい。この体で、おれもおまえと一緒に経験値を積んで、子孫に伝えたい。今、おれの生きる理由はおまえなんだ、ミアリー」
 耳に囁いてきたダクは、不意に床に片膝を突いてミアリーを見上げてきた。
「ミアリー・グルウィウィ」
 厳かに呼びかけられる。ダクにフルネームを発音されるのも初めてだ。
「どうか、おれと結婚してほしい。初めて会った日、おまえはおれの全てが知りたいと言ってくれたが、今はおれが、おまえの全てを知りたいんだ。おれは、おまえを知り尽くしたい。八十年間、寝ても覚めても、ずっとおまえを待っていた。おまえと生きていきたいんだ」
 柔らかく左手を握られ、薬指に指輪を嵌められて、ミアリーはまたも情動の渦の中にいた。
「でも、ダク、AHに人権はあるけれど、それはまだ限定的で、人間との正式な婚姻は――」
「おれの手紙を読んだんだろう?」
 ダクは軽く片眉を上げて見せる。
「オセアニア連合において、AHは十三年前から、人間と同等だ。おまえ達の人権は全て認められているんだ。おれがおまえと結婚したい一心で、ありとあらゆる人間、AHを巻き込んで、おれが冬眠している間も運動して貰った結果だ。電脳での通信はもう自由にできるんだろう? 何でも調べてみるといい」
 言われた通りにして、ミアリーは顔中を綻ばせた。ダクの言葉は全て真実だった。
「それで、返答は?」
 ダクは熱っぽく求めてくる。ミアリーは自分と同じ人工眼を見つめ返して頷いた。
「わたしの気持ちは、手紙で伝えた通りだよ。そして、『雨』のお陰で、ずっとずっときみの心を感じ続けることができた。きみが好きだ、大好きだ、ダク」
 抱きつくミアリーを、立ち上がったダクが再び抱き締めてくれる。その抱擁は、『雨』と驚くほど似ていると、ミアリーは感じた。

文字数:35655

内容に関するアピール

在り方の異なる者同士が絆を結んでいくというストーリーが、自分が最も好むテーマなのだと気づいた、この一年間の集大成です。この作品の重要な設定である、体性感覚と感情との繋がりが真に迫って伝われば幸いです。

文字数:100

課題提出者一覧