ホモ・ミグラティオの伝令
# 1
夕闇に近づく空を覆う、薄い、巨大な布を思わせる極光。
深い紫から燃えるような紅まで、幾重にも変化し続ける極彩色の見果てぬゆらめきが、天空一面に広がっている。
太陽から放たれた電子が、地球の混濁した磁場に衝突して生まれるオーロラ。
古地図に残る国の名でいえば、おそらくイラクあたりの、ひび割れた大地の上に広がる絶景。
漂泊する放浪者にとっては、ありふれた景色だが、磁場街から出ないで一生を過ごすような、永住民が見れば、心を奪われる者も多いはずだ。
だが、そのときの僕には、その大迫力の景色を楽しむ余裕など、一塵もなかった。
「畜生!まさか、ここらがやつらの縄張りだったなんて」乾いた土砂が舞い散る中、僕は吠える。
ハンドルを持つ手が震える。恐れと緊張で発汗する掌、手を滑らせないようにと必死に握力を込める。
「運転、誤るなよ!」
後部座席から、同行者のヤジが飛んでくる。その声色には、切迫している感じはない。むしろ楽しんでいるようにすら思える声色。
「わかってますよ!」
苛つく気持ちを抑えながら、膚に感じる疼きを必死に読み取る。
僕が動かしているのは、八つの車輪が備え付けらた電磁舟。操縦者の感覚を頼りに、地表を這う磁力波を補足し、捕らえた地磁気を電気駆動力に変える。まるで、海で波を捉えるように。
故に、地上を走る舟と呼ばれるマシン。その船体は先頭が窄んでいて、後ろになるほど膨らんでいるから、後部座席が見えづらい。
だから、僕は思いっきり半身ごと振り向き、追跡者の所在を確認する。道に残る轍の跡と土煙。果たしてこの煙幕で撒けたかと暫し凝視し続ける。
だが、祈るような気持ちと裏腹に、煙霧からは巨大な影が幾つも現れる。
一、二……三匹。体長が最低でも二メートルはある猛獣が、一心不乱に僕らを追いかけてくる。
一切の容赦すること無く加速し続け、いよいよ僕らと並走してくる犬型の食肉類の獣。その種の名前は知らない。そもそも、学名があるかも不明だ。
「おい、左隣だ!」
その怒声で、反射的に捩れた半身を戻す。瞬間、息が止まる。
左を向いた途端、目の前には群れの一匹が、野生の匂いを感じるほど間近に迫っていた。獰猛な牙の先からは、てらてらと涎が滴っている。
至近距離で見れば、顔の中心の、本来ならば眼球が位置するところが窪んでいる。恐らくは、超磁気時代前に生息していた生物が、環境に適応し生まれた獣たち。
舟には、日射を防ぐ柔い鉄板の屋根があるだけで、装甲は付いてはない。その巨大な顎を防ぐ術は一切ない。
突如として現れた、生と死の境界。
いざその境を目の前にすると、途端に周囲の喧騒が耳に届かなくなって諦観が心を蝕み始める。これから十何年もかけて、太陽の光に嬲り殺されるのに比べたら、こいつらの生きる糧となったほうが、よっぽど価値のある死に方じゃないのか。そう思い始めている自分に気づく。
「こっちだ!」突如、後方から響く野太い声。
先頭のその一匹がその声に反応して、途端に速度を落とす。
「そっちに行きましたよ!」
再び、周囲の騒がしさが復活する。僕はすぐに平静を取り戻し、後部座席の髭面の男に向かって叫ぶ。
「わーかってーるよ!」
後部座席に座す巨漢が、大声で返す。僕とは対照的に、この事態を楽しんでいるかのようなひどく間延びする声で。
だが旅を振り返れば、その空っぽの余裕こそが、放浪者として生きる上で必要な資質なのだと、今更ながらにわかる。
電磁舟の後方に座っている男が片手に握っているその得物は電磁銃。電線を螺旋状に巻いて作り上げた駆動装置で、電磁気力を運動エネルギーに変換し射出させれば、どんな鉄屑も弾丸となる。
それを可能にするのは、後部座席の荷台に積んである、大量の荷電基だ。彼は舟を駆動させるためのその電力源と、全長一メートル程の銃とを接続させる。
「一匹目!」
空を裂くような高周波が耳に刺さる。耳鳴りだけが響く無音の中、一匹の獣が崩れるように倒れたのを目端に捉える。
「次!」
男は左足で巧みに銃身を挟んで固定し、空いた左手で次弾を装填する。そのなめらかな銃捌きが彼――”アトラス”の地図屋としての経歴の長さを示していた。
そのまま男は宣言通り、残り二匹の眉間にも見事に当ててる。
「おう、もういいぞ」とアトラス。僕はブレーキを踏み、舟を停止させる。完全に停止したら、ゆっくり息を吸って吐き出し、照射する熱波から膚を守るための 外套から顔を出す。
汗ばんだ皮膚に、熱と静電気を存分に湛えた大気が襲ってくる。額の古傷の部分に染みて、少し涙が出る。
「お前、なかなか、操舵が熟れてるな」
この舟の本来の持ち主であるアトラスが、僕の操舵の腕を讃えてきた。
「偶然よい磁場波が来ただけですよ。乗ったことがあるのも、数える程ですし」
地磁気の波――磁場波を捉えることで、蓄電と放電を繰り返しながら移動する。電磁舟の底に大量に取り付けられた、電線を巻いて作られたコイルの中に磁場が通過すると電動流が発生し、荷電基に蓄電される。その誘導電流によって、エネルギーを蓄電し、長期の移動を可能にするわけだ。
磁場と電力は相互に連携した表裏一体の物理現象であることを利用した移動方法。うまくその波を捉えることができれば、電磁誘導によって運動を電力に変換し、その電力でまた移動できる。動力源となる電池の機構は、反応度の高い二枚の金属板に導電性液体を満たすだけ。あらゆる部品が石油ベースの燃料式のエンジンよりも遥かにシンプルだから、整備インフラが失われた中でも、そこかしこで活用されている。
「それに、あなたも、見事な腕ですね」
僕も彼に向かって、心からの賛辞を送る。僕の育ての親であるガウスが死んだ翌日、突然工房を訪れた地図屋、アトラスを名乗る男に。
僕の言葉に大男は赤黒く灼けた皮膚を輝かせながら、大きく笑う。
「オーケー。舟も大事に至ってない」
舟を降り周囲を点検しているアトラスに僕は近づこうとする。と、彼は掌底を向けて僕の動きを制してきた。
また危険が迫っているのかと身構えると、アトラスは、直立不動で天を見上げ、左の掌を垂直に掲げた。
眉間に皺を寄せ微動だにしないその懸命な姿には、特別な信仰を持たない、僕のような者にもなにか迫ってくるものを感じる。
「その祈り方は?」アトラスが姿勢を戻したのを確認して、僕は問う。
「さっきやっつけた化け犬共への弔いだ。太陽神、アポロン様への祈りよ」
アポロン。古代ギリシャの一神。光明の神であることから太陽神とも同一視され、同時に、生命、医療など、人々が生きる上で不可欠なあらゆる概念を統括する神。
だけど、僕はその神の名が、どうしても許せない。
「太陽なんて、僕らをただ苦しめるだけの存在じゃないですが。なんでそんなもんを崇める教えがあるんですかね」
舟の中に設置してある簡易計に目を向けると、針が振り切れているのがわかる。磁場街からかなり離れたせいで、危険域に入ってしまったことを知らせている。
「まあ神様なんて、大昔からそういうもんよ」挑発するような僕の言葉に対して、アトラスは面白がるように言う。
そこで、僕は大きく息を吸ってから、肝心な事を尋ねる。
「で、ここ、どこなんです?」
標となるべき明星は、オーロラの光に隠れてしまい、指針のアテにはまったくならない。磁場の影響で生育が歪んだ植物も、僕たちに大した示唆を与えてくれず、自然から読み取れるのは、せいぜい、太陽と月を基準とした、大まかな方向のみ。
僕の切実な疑問に、アトラスははぐらかすように肩を竦める。
「ところで知ってるか?数百年前の超磁気時代の訪れ以前は、”迷う”なんてことは、人々の頭からすっぽりと消えていたらしいな」
地球の地磁気は、すべての生物の共通言語だ。だけど、超磁気時代以後、地球の語る言語は北と南だけではなくなった。揺蕩い続ける方角は、もはや簡単には読み解けない。
地球に流れる磁場は三百年前を境に突如発狂したように、まるで大嵐が渦巻く大海の流れの中のように混沌とし始めた。
その結果、世界を覆っていた通信網は、強力な磁気嵐が引き起こす誘導電流によって一瞬でクラッシュし、更に、磁場が薄くなったことで高エネルギー粒子が地表にまで飛来し、あらゆる精密デバイスに電磁パルスを引き起こさせた――でも、そんなのとても些細なことだ。
本当に問題なのは、こうした宇宙災害が、人の身体に多大な害を及ぼすこと。
宇宙放射線の人体への被爆は、白内障やがんなどの身体的な異常を引き起こし、場合によっては代謝異常などの遺伝的異常が生させ、後世にも多大な影響を与えてしまう。
宇宙から振り降りる災害から盾となってくれた磁場は、超磁気時代には一部を除いて存在しない。
ひとつの迷いが、死につながる世界。磁場の乱れによって一切の通信が行えず、自分がどこにいるかも、誰かに助けを呼ぶことすら不可能な世界。
獣から必死に逃げることしか考えていなかった僕には、行く道も来た道も、一切判断がつかない。
「ひょっとしてアトラス、ここがどこか、あなたにもわかってないんですか?」
僕の切実な問いに対し、地図屋は目を細めて、「おおよ」と軽く首肯する。「残念だが、ここら辺はとっくに圏外だ。俺の記憶の中にも、覚えはないね」
彼はまるで他人事のようにあっけらかんと言いながら、アトラスは磁極舟の天井に備え付けられた、凹んだ鉄板に溜めた水を掌で掬って頭から被る。
「そんなわけないでしょ。あの人の遺した”文身”には、この付近の記憶が眠っているはずだ」
あのガウスの遺した記憶には、絶対にこのあたりの地理情報が眠っているはずだ。
そう僕は叫ぶように問う。砂が絡んだのか喉が痛い。冷静さを取り戻すために、アトラスを真似て水で口内を潤す。強烈な赤錆の匂いが混じっているが、強烈な紫外線が殺菌してくれているはずだから、飲料水としては問題ないはず。
「そうかも知れないけどよ。こんな危険な目にあっちゃ、案内料もまた上乗せだな」
アトラスは水を衣服に含ませながら、こちらを値踏みするかのように言う。
「ふざけるなよ。払いの話しは、あの文身で終わったはずだろ」
僕は濡れて透けた彼の胸を指す。大量の文身が移植されたアトラスの身体。その数が地図屋としての、経験の量と質を物語っている。
そのうちのひとつは、先日死んだ、僕の師であるガウスから受け継いだ文身。
僕にはガウスが遺した二つの文身のうちのひとつを、遺言どおりに駄賃としてアトラスに渡した。そしてその中には、絶対にこの辺の地形の情報も入っているはずだ。
「嫌だね、これは特別手当のひとつも貰わんと、到底、割に合わないね」
そこで僕はようやく、自分がカモにされたのだと察する。地図屋の中には、料金を上げてくる輩もいるという話を、今更ながらに思い出す。
「……わかりました。追加の駄賃は別途払いますよ」
ガウスが施術用具を売れば、残りの駄賃もきっと工面できるだろう。どうせここまでわざわざ来たのも、ガウスに対する、最後のけじめのために過ぎないのだから。
彼の要求を呑んでから、僕はそっと額にある古傷を撫でる。子供の頃、ガウスに無理やり除去された箇所を。
「はいよ。そこまで言うなら、まあ、やってやりますかね」
アトラスは尊大な口調で宣いながら、先ほどと同じ祈りの姿勢をとって、目を瞑る。ここまでの旅路の記憶と、文身に宿した他者の記録が交錯させ、現在地を見定めるために。
磁気が言葉なら、地図とは、その言葉を書き記したイメージだ。
たとえば、イヌイットのような文字を持たない民族は、己の頭の中にある地図を、口伝で子孫に伝え、子孫はその地図を頼りに、厳しい自然の中でも危険を避けて生活を営むことができた。
この世界で、皮膚に刻まれた文身を受け継ぐのと、まったく同じように。
皮膚。その臓器には、人の一生が宿る。その色には生まれを、その起伏には老いを、その肌理には豊かさを。
身体を覆う膚は、総重量約七キロ、僕たちを取り巻き、世界と接続する唯一の臓器。表皮は、温度、気圧、大気成分、音、匂い、そして磁場、あらゆる情報を伝える巨大な感覚器。
生物は、自分たちの環世界の中に、それぞれの得意な感覚器で各々独自の地図を構築し、脳の中に格納する。鳥は眼、犬は鼻、ヒトならばその膚に。
さらにその皮膚に刻まれた文様には、先人たちの記憶を宿す。
「見つかったぞ」
アトラスが刮目する。先程、獣を仕留めたときと同じような、狩人ならではの微笑み。その満面の笑みを浮かべたまま、彼は言う。
「さあ、見に行こうか、おまえさんを育てた人間が最後に遺したはずの、そのお宝をな」
# 2
僕の最初の記憶は、この”宝探し”の時点から約十年ほど前の、八歳の頃から始まる。
最初に蘇るのは、顔の皮膚が焼かれる激痛と、薬品と自分の体液とが混じり合った鼻を刺す匂い。そして、自分がこの世から消失していくような、不気味な浮遊感だけだった。
ほんの一瞬、時間にしておそらく数秒ほど。だが、体感時間としては永遠をも覚悟するような、強烈なフラッシュバック。瞬間、激痛で意識は消え、記憶は途切れる。
「やっと目覚めたか」
その次に起きたのは、黴臭い湿気が充満した暗い部屋の、ベットの上でのこと。
自身の顔を触ると、包帯が巻かれている。強烈な痛みは表層からは既に過ぎ去っている。身体の回復の具合で、前の目覚めから、おそらく数日は経過しているのだとわかった。
「さて、ここがどこだか、わかるか?」
朧気な意識を、その声の方向へと向ける。幽かな光源の中に、男が座っていた。半裸のその背中にも、薄汚れた包帯が巻かれている。
暗闇に目が慣れると、やっと少しずつ、淡い像を結び始めた。
大柄な男。筋肉質だが、両腕で太さが異なる、アンバランスな体つき。その身体が、男が何らかの専門に長けていることを物語っていた。
男は、ゆっくりと立ち上がると、片手に鉄製の椅子を携え、僕の横たわるベットの近くに腰を落とす。
そこで初めて僕は、男の顔をまじまじと見る。
退色した短い髪、整えられた髭。理知的な顔ながらその表情は厳しく、まるで鑿で刻まれたような皺が這っている。
「いったい、どこまで覚えている?」改めて僕に、そう問う男。
「どこまでって……」
狼狽える僕は、とっさに窓に視線を向ける。外には居住区らしいバラックが段差上に永遠と重なり、堰き止めれらた泥のようにうず高く積み上がっている。景色が遠くまで見渡せるから、自分が今いる場所も、かなり高い箇所に位置しているはずだ。
窓の縁から顔を出して真上を仰ぎ見ると、天上は妙に退色していて、反対に遠くのほうは多彩な色に偏光しているのが分かった。
「ねえ、あの空はいったいなんなの?」僕は、遠くの天の端を指差す。
太陽はまだ高い位置にあるにも関わらず、灰色の空が周辺を覆っている。よく見ると、辺り一帯に帳を垂れ下げたかのように、薄暗い膜で覆われていた。
「不動磁気双極子による局所磁場だ。あのおかげで、ここら一帯は太陽による太陽の紫外線や有害な宇宙線から守られている」
そこまで説明してから、話す相手が子供だということを思い出したのか、
「……といっても、ここらは街の端で磁場も弱いから、オーロラもよく見えるな」
と言いながら、男は遠くの景色を指し示した。その位置には、赤く染め上げ始めた、絹のようなふっくらとした色の帯。その朧気な輪郭が流れるようにたゆたっている。
「大昔、地球を守っていた磁場という名の皮膚が、まだらに剥がされた結果だ」
”皮膚”という言葉に釣られ、僕はつい、男の半身をまじまじと見てしまう。
包帯が巻かれたその背中には、ところどころ赤紫の痘痕で彩られている。
次第に、先ほどの違和感に僕は行き当たる。
「ねえ、なんで僕に、記憶が無いってわかったの?」
でなければ、”どこまで覚えているか”などとは、決して最初に訊いてこないはずだ。
だが男は、見抜かれたことを特別気にすること無く、
「それだ」と、僕の額の怪我を指し示した。
それでもまだ状況が飲み込めない僕に、
「そうか。やはり累代文身の記憶も無いか」
そう彼は独り言のように言ってから、初めて僕と目を合わせた。定規で引かれたかのように鋭利な目の輪郭――
「あなたは、いったい誰なんです?」僕は問う。彼のその瞳の上で踊る、奇妙な生物の文様を見つめながら。
「俺はガウス。いいか、おまえの父親だ」
”父”を名乗る男の声は、どこか嬉しそうに響かせて、会話にピリオドでも打つかのように、舌を口内で巻きつけ鳴らした。その仕草はガウスの無意識の癖なのだと、長く一緒に暮らすうちに知ることとなる。
そう、奴が本心を偽った時に、必ず響かせる音なのだと。
「これが……?」
「そうだ、コラクス。これが、累代文身だ」
未だベットに横たわる僕に、男――ガウスは自分の額を示した。
彼が言うには、僕の名は、”コラクス”と言うらしい。
僕は額を眺めながら問う。「なんでわざわざ、こんなものを?」
僕の疑問に、ガウスはさも当然のように応える。
「無論、世界をいつか再復させる時の糧として」
数百年か数千年先に、いつか地球が平静を取り戻した時、人々の培ってきた叡智が、再び花開くように。どこかに文明の残滓を少しでも多く遺しておかなければいけない。
だが、磁場の混在する世界は、人々からあらゆる情報の伝達と保持の手段を奪った。
混沌とする磁場の中で無線通信を行うのは、荒れ狂う大海の中、小壜が相手の島に偶然届くよりも難しい。更に磁場の乱れは鳥や魚など、生物たちの方向感覚にも多大な影響を及ぼし、動物を使った伝達手段も行えない。
「加えて、大量の情報を秘めておくのに、過去使えたような磁気媒体は既に無いし、もし、残っていたとしても中身は狂っていて、使い物にならない。だから先人たちは、自身の身体――皮膚の中に自分の培った技術を、経験を、人生を記録し、次世代に引き継ぐようにしたわけだ」
磁場の膜がなくなったこの世界において、ヒトの寿命は平均すれば、おそらく四十年程度。その短い生の中では、知識を次世代へ伝承させるのに使える時間はほとんど存在しない。
だから、断絶する直前の最後の世代の人々は、遺伝子情報と同じように、個人の感じた感覚や経験を皮膚に彫った文様の中に詰め込む術を生み出した。
人工生物ムニミメリア。ミトコンドリアのように、皮膚細胞の中で人体と共生する微生物。
皮膚は第二の脳。皮膚感覚の分布を表す脳の領域は、非常に複雑に絡み合っている。文身師は文身のインクの中に、この微生物を配合し、皮膚に流し込むことで、ヒトの記憶の概念を拡張する。
ミトコンドリアがエネルギーを蓄える機能ならば、ムニミメリアは記憶を貯蔵し、貯めたその記憶を体験や感覚をそのままに、その文身を受け継いだ者へと移植させる。そして、引き継いだ者は、その文身の中に、更に己の生きた経験を追加し、また次の世代に託す。過去から知見が少しずつ紡がれ、確実に次の世代へと託されていく。
「そうして、この文身は、たった一人の生よりも、遥かに長い歴史を紡ぐことができる」
そこまできいて、僕は目の前の男の額を指し示す。
「じゃあ、頭の、その文様は?」男の額には、艶めかしい生き物が彫られていた。
「この生き物は、蛇だ」
「蛇?」
その言葉に反応したように、一瞬だけ、脳内に痛みが奔る。初めて見るはずなのに、強烈な既視感が襲ってくる。
「こいつは、脱皮、自身の皮膚を脱ぎ捨てることで、成長し続ける生物だ。だから、俺は文身に関わる者として、この生物を身を刻んだんだ」
ガウスはそう言うと、舌を鳴らす音を響かせた。
「そろそろ、外に出始めてもいい頃合いか」
意識が戻ってから更に数週間後、朝方にガウスが僕の容態を確認してから言う。
僕は意識が戻って以来、ずっと閉じ込められていたから、この鬱屈とした作業部屋を出て、外に出れることを僕は少なからず喜んだ。
だが、一歩外に出て、いままで自分がいた場所が、如何に恵まれていたかを知ることになる。
外の街は、淀んだ水が醸し出す腐臭、血液や鉄錆の鼻につく匂い、腐った肉のような酸っぱさ、泥のような熱気。それらが混ざりあった、淀んだ空気が一帯に漂っていた。
「ここらは、街の縁側だからな」
地磁気が混沌としたこの世界では、その磁気のパターンは大きくふたつに大別される。ひとつは、まるで海の潮流のように、勝手気ままにうねり続ける、磁場波。
もうひとつは、土地に根ざし何百年も変わることがないとされる不動点双極磁場。
数十キロから数百キロにわたって固定されたこの磁場のおかげで、地表には点々と、太陽から身を守れる箇所が存在した。
安定した磁場が作る一帯は、まるで大海に浮かぶ小島のような存在だった。当然、その不動点双極磁場のある場所に人々は集っている。ガウスはこのような磁場街で生きる者たちを、永住民と呼んだ。
「だが仮に永住民でも、皆が皆、磁場の恩恵を存分に享受できるわけじゃない」
街の縁を行き交う人々は人種や性別、年齢は多岐にわたりながらも、骨ばった身体の輪郭、赤黒く灼けた膚が目立つ。皆、少しでも太陽の熱線の影響をさけるため、なるべく外套で身体を覆っていた。
そして、この縁に住まう者は、誰しも皆、皮膚を病んでいた。
不動点双極子磁場の膜が中心から離れるほど薄くなるのに加え、インフラや物資などが極めて制限されているからだ。
纏う服が血や黄疸で汚れた者、太陽の影響を少しでも避けるため、衛生環境が劣悪な裏路地で必死に暮らす者。足を引きずりながら必死に歩く者。この街の貧富の差は――
「持てる技術と職能。つまり、受け継いだ累代文身によって決まる」
所有する文身の中身によって職業が決定されると、その知識は子に受け継いでいくため、貧しいものと富める者の差は広がり続ける。結果、社会階級が何代にも渡って固定化されていた。
故に、磁場街に住まうならば、託された文身によって比較的安全な中央に住むか、危険な縁に住むかが決定されてしまう。
そして、ガウスの持ちうる技能は、文身師だった。高度な技能が求められる仕事。しかし、他の文身師とは異なり、ガウスは誰からも文身を受け継がず、たった一代で技を磨いてきたという。だから、この縁に居を構えているのだと。
どうしてそのような生き方の選んだかを僕が知ったのは、だいぶ後のことだった。
僕は十五歳になると、ガウスに見習いとして働くようにと命じられた。
「センセイ、オレのこの身体、あとどれぐらい持ちますか?」
ある時、診察所を訪れた男は、どす黒い背中を露わにして、恐々とガウスに問うた。
「正直、オレ、なんも残せずに死ぬんだと考えると、すごく怖いんです」
ガウスは患者の前でしか見せない、朗らかな表情を浮かべる。
「大丈夫だ。腫瘍のせいで文身に欠損が見られるが、別のところに新しい文身を構築すれば、お前の記憶は、子にちゃんと受け継がれるよ」
文身は、新しく彫られた方に記憶を優先的に宿す。だから、複数の文身を入れることで、古い文身の記憶を新しい方に移したり、さらに自身の記憶を分散させたりする施術が可能だった。
ガウスは若い男の背中を触診しながら、柔らかに言う。
「だから、お前が死んでも、ちゃんと文身が残る」
「……ありがとうございます。センセイ」
ガウスの励ましに、男は憚ることなく泣きじゃくった。まるで病が全快すると告げられたかのように。
でもその実、進行度合いから、彼があと五年も持たないだろうことは、当時の僕でもわかった。
それなのに目一杯泣いた後、その男は、とても安らかな顔をしていた。
その救いの表情を目にするたびに、僕は心のどこかで、かれらのことを無性に妬ましく思った。なぜ、この人たちはちゃんと託し託された文身をもっているんだろうか、と。
――いや、本当は僕にもあったはずなのだ。誰かから引き継いだ文身が。
累代文身を生きている身体から分離するのは、かなり危険が伴う行為だ。皮膚と記憶を司る脳の部位は密接に絡まり合っているから、文身を無理やり分離すれば、記憶障害を引き起こす可能性が高い。初めて目覚めた時の僕のように。
僕は額の爛れた額にあったはずの文身について、一度、たった一度だけ、ガウスに尋ねてみたことがあった。
彼の、その時の答えは、
「治療だ」
ただ、それだけ。
文身どころか、僕の出自――母親についても一切黙して語らない。
自分が本当に、僕の父親なのかも。
だからこの時の僕は、どこの誰との繋がりも曖昧なまま育ったせいで、この時代に生きる誰しもが持ちうるはずの、”誰かに何かを託す”という、誰しも持つべき欲求――生存本能よりも強烈であるはずの欲求が、極端に希薄だったのだと思う。
ガウスとの思い出は、アトラスと出会う三日前の、死の床での言葉が最後となった。
「もう……伝えたいこと……る」
彼の全身のいたる箇所には、黄味がかった膿疱が蔓延っている。幸いというべきか、もはや痛みを感じるだけの体力すらも残っていないはずだった。
文身の移植の際に、何人もの患者の最後を看取ってきた僕には、彼があと数息で絶命するのだと、直感的にわかっていた。
爪は剥げ、節も自由に動かせず、乾いた泥のように固まった右の人指し指で、用具の入った棚を示す。
彼の人生の最後から数えて三つ目の言葉は、誰かに向けた伝言。
「麻酔の……壜、奥、男、アトラス、渡せ……ある場所に、迎えに……」
そして、次の最後から二つ目の次に続いた言葉は、
「おまえは、俺の息子だ。だから、文身を……継いで……れないか」
その今生の願いを、僕は躊躇いで返してしまう。
嘘でもいい。頷いて、彼を楽にさせてやれ。頭の中では何百回も理性がそう説いてくるが、どうしても口からその一言が出てこない。
何の意味も証も残せないかもしれない僕が、自分の過去を灼いた彼の、一体何を受け継げばよいのだろう?
人生の最後の一息を吸いこむガウス。だけど、口からはただ涎が滴るだけで、肝心な意味を結ばない。
「っふぅう」
結局、彼の最後の言葉は、鬱屈とした部屋の空気に混じって消えてしまった。
僕は育ててくれた彼との決着をつける時を、永遠に逃してしまった。
その後、僕はなにも考えることができないまま、ただ彼の示した通り、作業部屋の棚の奥深くを探って、一つの小瓶を見つける。
その中にあったのは、地球を抱える男の文身が描かれた皮膚の一部。土地に纏わる情報を宿す際によく使われる文様。なにか引っかかるものを感じ、すぐに、ガウスの遺体を仰向けにし、背中の一部を検める。
身体から吹き出ているどろりとした粘液を拭き取ると、腰に近いほんの一部だけ、赤黒い楕円形の痕を見つける。
「……やっぱり」
彼の皮膚の一部、昔に切除を試みた痕。そう、僕が、幼い僕が目覚めてすぐ、ガウスはここを怪我していたじゃないか。
生きている人間からの文身の除去は、極めて危険かつ難しい施術のはず。だが、ガウスはあえてそのリスクを犯してまで、アトラスという男に記憶の一部を託した。
ならば、この地図の示す場所に、ガウスが隠したなにかが眠ってるに違いない。
その場所に眠る何かを見定めてから、ガウスの身体にある文身を継ぐか決めるのも遅くはないはず。
ガウスの遺体に眠る蛇の文様を、この身に宿すべきなのかを。
# 3
「蛇だ」
ガウスの遺言の場所に、電磁舟でやっとたどり着く。
アトラスに示されたその泥濘んだ地面を、二人で何時間もかけて掘り返し続け、地平の先が淡い紫に染まりかけた明朝。やっとなにかが顔を出した。
埋められていたのは、両手で抱えなければ取り出せないほどの大壜。
その壜を持ち上げ、半透明の月に透かせば、その中には、劣化防止ための溶液で満たされている。
その液体の中には、女の頭部が沈んでいた。
腐食を抑えるためか、髪や瞳は無く、あるのは頭蓋と、それを覆う皮膚のみ。
眠るような死顔の、その蒼白い額に彫られていたのは、蛇の文身。
「ひょっとしてガウスと同じ……?」
「いや、違う」
横から覗き込んだアトラスがそう素早く否定する。たしかに彼の言う通り、ガウスの形状や大きさとほとんど同じものの、ガウスのものとは向きが反転していて、更によく見ると、その蛇の中心には杖のようなものが描かれていた。
その杖を螺旋状に取り巻くように描かれた蛇。
「アスクレピオスの杖の意匠だよ」アトラスが言う。
「意味は?」文身の意匠には、中の情報を表すモチーフが選ばれることが多いからだ。
アトラスの応えは、たった一言。
「医療」
いわく、アスクレピオスは、ギリシャ神話に出てくる一神。数多の神であったアポロンの、医療神としての側面を引き継いだ息子のひとりだという。
それを知った僕は、暫しの思案に耽ける。もしも、本当にこの文身の中にあるのが治療に関わるものならば、この世界で一番高値がつく知識のはずだ。
だけど、それを十年間にわたって秘した、ガウスのその意図はなんだ?
少しずつ身体が蝕まわれていく彼にしてみれば、この世でもっとも渇望している文身だったはずなのに、それをなぜ、あえて死んだ後に明らかにしたのだろうか。
「おいおいおい、これ、ちょっとやばいんじゃねえのか!?」
アトラスの騒ぎ立てる声で、僕は我に返って、壜に目を向ける。
溶液の中は先程までと違って、中は大量の不純物で濁っていた。沈殿しているのは、表皮組織の破片だ。
「嘘だろ……」
十数年間ずっと暗所に保存されていた人体が、曙光に晒されて、わずかな時間の間に劣化し始めていた。
皮膚は太陽に弱い。
その当然すぎる事実を見逃していたのは、僕が女の表情に見入ってしまったから。
彼女の相貌には、彫像のような静謐さが宿っていたのだ。まるで、神話の神々を象ったような美しさが。
「おい、ひとまず、舟の中に移動すんぞ」
アトラスの声に促され、大急ぎで移動する。そのさなか、どこか遠くで乾いた空に雷鳴が響き渡る。大規模な放電現象も、この世界で突発的に襲ってくる災害の一つ。
舟に戻るとありったけの衣を集めて、急ごしらえの暗所を作る。だが、こんなのは時間稼ぎにしかならない。
「で、どうする?」
アトラスの問いに、僕は自分でも驚くほどはっきりと応える。
「僕に、この人の文身を移植する」
活性のある表皮へと移植すれば、恐らく文身内部の細胞も生きながらえることができるはずだ。
「でもおまえ、まだ師匠の文身、移してないんだろ?」
「あの人ほどでなくとも、僕にも簡単な施術ならできます」
生体から文身を分離するのは極めて難しい技術だが、死んだ人間の皮膚を別の人間へ移植するのはさほど難しくはない。実際、ガウスの遺した地図の文身をアトラスへと移植したのは僕だ。
布を被ってできた暗闇の中で、僕はありったけの力を込め、錆びた壜の蓋を開ける。内部の保存液が一気に気化したせいで、強烈な刺激臭が鼻を突く。
吐き気を必死に抑えながら、僕はアトラスに命じて、用具入れを後部座席から持ってくるように命じてから、浅く呼吸をし、壜の口に手を添え、一気にひっくり返す、女性の艷やかな頭頂部がひやりと掌に触れた瞬間、凍りつくような感覚が全身を貫いた。
悪寒と焦燥に駆られながらも、なるべく余分な部位が入らないように、文身の縁から数ミリ程度余白を残しつつ、頭部から丁寧に切除する。
作業が終わったら、電磁舟の中央に横たわって足を伸ばして、椅子の背もたれに寄りかかる。
「もし僕が移植時拒否反応を引き起こして、意識を戻さなかったら、電気でも打撃でもなんでもいい、とにかく起こしてください」
文身の移植時の拒否反応は、精神、肉体両面に影響を及ぼす。特に、受け入れ側が文身の中身を知らないときに起きることが多く、容態が酷ければ死ぬことすらある。
アトラスにそう告げてから、僕は万が一のショックに備え、水を含ませた布切れを口に押し込み、口内を誤って傷つけないように備える。
無言で頷くアトラスを横目に、僕は念の為持参していた、文身を移植する際に、呼び水として役目を持つ薬液を額に塗る。そして死者の皮膚を、火傷の後の残る部分と重ねる。脳の構造から、一般にもっとも移植に適しているとされる箇所に。
すると少しずつ、累代文身の微生物が、新たな宿主の皮膚へと移動していくのがわかる。次第に僕の意識が途切れ、呼吸が浅くなっていく。
人生で初めて――いや、二回目の文身を身体に灯す。感情の起伏、交雑する風景、皮膚の感覚、匂いすらも一新される――
最初に脳に飛び込んできたのは、頭上に浮かぶ巨大な浮彫。
月桂冠を被った男性神――アポロンが、獣のような男の足を持ち上げている。
持ち上げられたその男の悶絶した表情でわかる。獣の男は、皮膚をアポロンに剥がされているのだ。
その次に脳に蘇るのは、純白の外衣を纏う人々の集団、黒い板に描かれた、無限に続くアルファベット――A、T、G、C、Uの記号の連なり。
その次の記憶も、同じように白衣を纏った人々が、なめらかな白い壁の前で乱雑に文字を書き連ねている。
大量のギリシャ文字の羅列……?
けど、僕の脳には、意味不明の羅列としか伝わらない。ずっと前から引き継がれ続けた大昔の情報だからか、視覚情報以外の主観情報が抜け落ちている。
ただ一つわかるのは、建物の至るところに、女の文身と同じ蛇が彫られているということ。
さらに時間が跳躍する、先程までの無味乾燥とした感覚と異なり、確かな肉感と彩りを伴った記憶。
自分は――彼女は、見たこともないような沢山の動物たちに囲まれて、その一匹一匹を慈しむように世話している。
これは一番新しい宿主である、この女性の記憶だ。
そう理解すると、次の瞬間、目の前には柔らかそうな赤子が現れる。それが誰かなのかも一瞬で理解できる。
僕だ。
同時に、目の前に設置されている鏡に、この文身の宿主の顔が写る。壜の中に浮かんでいた女が、にこやかに笑顔を向けてくる。
この人は、僕の母だ。僕は今、自分の母親の意識を読み取っている。
彼女の隣には、朗らかな表情を向けてくる男の姿。二人の間で交わされる柔い表情で、この人が自分の父だとわかる。
ガウスとは違い、青白い膚をした、小柄な男性。
男の身に宿る文身の、その文様自体は母と同じなものの、彼女とは向きだけは逆で――ガウスと同じ向きの蛇。
文身は迎え合わせに重ねて転写するから、代を重ねるごとに文様は反転していく。おそらく、ふたりはその祖先が同じ文身をしているのだ。
さらに、時間が跳んだ感覚のあと、場面は移り変わり、砂上を真っ二つに啓くように突き進む、巨大な船首が映る。
僕がここまで乗ってきたのと比べることもできないような巨大な電磁船が、陸路を滑走している。
続けざまに、あらゆる光景がフラッシュバックしていく。
刻々と変化する磁場で捻れた木々、赤々と燃えるような草木が繁る渓谷、未だ完全に朽ちぬ巨大な廃城、無限の連なりを見せる砂丘、夕闇のオーロラと広がる野火、純白の肉食動物の群れが放つ咆哮、道の、旅の、大地の、地球の記録。
僕は、この文身の真の意味を読み解けた。これは、地図だ。
それも一大陸を縦断するほどに、巨大な地の情報を縮約した地図。
その煌めくような莫大な旅の記録に圧倒されていると、突如、強烈な光によって断絶した。
周りには父と母のふたりだけ、船の中にいたはずの多くの乗組員の姿はない。逸れたのか、あるいはなにかの理由で別れたのか。
平野にいるふたりを取り巻くように犇めく、山羊のような動物達が一気に四散していく。雷撃が父と母がいた場所に直撃したのだとわかる。
身体は焼けてない。だけど爆傷で、身体の中の器官は徹底的に破壊されていることが感覚でわかる。心臓も肺も破裂して、おそらく頭蓋にもヒビが入っている。隣では父も同じように倒れている。ふたりとももう長くは持たない。
母の目線の先には、無骨なシルエットをした、一人の男が見える。その男の両腕には子供がはしゃいでいる。
あの子は無事――
意識が途切れる寸前、母の思考が巡る。身体をじわじわと侵食していく、この世から消えてしまうような浮遊感。これが、死にゆく人間の感覚なのか。
死に侵されながらも、母は近づいてくる目の前の男に最後の願いを託した。
『夫の文身を、この子に、どうか、お願いします』
その願いに男は無言で頷き、幼い僕を今一度しっかりと抱きかかえた。
記憶が暗闇の中に遠ざかるさなか、その虚を満たすように、ガウスの唇を鳴らす音が谺した。
# 4
「ガウスの文身の具合はどうだ?」
街に戻ってから一週間後、ガウスが遺した工房を訪れたアトラスは、僕の額を指し示して問うてきた。
「後遺症もなく、無事引き継げましたよ」
僕はさも当然のように彼に応える。
すると、アトラスはらしくもなく表情を曇らせ、僕に問うてくる。
「そうか。なら、あいつの身体の秘密について、もうわかっているよな」
その言葉に、僕はほんの少し首を縦に傾げると、アトラスは弱く笑って、諦観したような表情をした。
「ガウスは、子を為せない身体だっただろ」
そう。それが、ガウスの抱えていた恐怖の本当の根源。
そのあと暫し続いた沈黙を払うように、僕はアトラスに口火を切る。
「ガウスのあの蛇の文身は、僕と会ってから入れたんですね」
「そうだ。ちょうど十年ほど前な、夫妻がこの街を突然訪れて暫くしてからだったよ」
僕はガウスの文身は、てっきり昔から入れていたと思ったが、実はそうではなかった。僕に残っている記憶と、ガウスのあの文身の記憶は同時期から始まっていたからだ。
つまり、僕が目覚めた時と、ガウスのあの蛇の文身は、ほとんど同時だったということだ。
僕はアトラスに母の文身の中身について語る。彼が僕がどこから来たのかを知っているのではないかと期待して。
「たしか……夫妻は自分たちのことを動物学者だと言っていたな。その二人のあいだには、小さな子供が居たのもちゃんと、覚えてる」
アトラスは訥々と続けながら、僕を指し示す。
「けど、まさか、それがお前だったなんて、俺は今の今まで気づかなかった。夫婦が居なくなってから、突然彼と暮らし始めた子供の存在は知っていたが、その頃からガウスは今まで仲がよかった奴らと、距離を取るようになっていたからな」
その理由はおそらく、僕にガウスの過去をあまり明かさないためだったのだろう。自分が本当の父親だと、できうる限り僕に信じてもらうために。
母の記憶にあるうちに、父は確かに死んでいた。だけど、頭に残った文身だけは無事だった。
だから、ガウスは母の遺体を埋葬したあと、遺言通り、父の遺体に残った文身を幼い僕の額に移植した。
だが、移植してから彼は突然、その文身を僕の皮膚ごと灼ききったのだ。
その理由は――
「あの時、幼い時に父の文身を移植された僕は、移植時拒否反応を引き起こしていたのだと思います」
文身の移植のリスクは高い。情報の内容と量次第では、極端に脳に負担がかかり、最悪の場合、目覚めなくなってしまうこともある。
だからこそ、人々は自分との差異が少ないことが期待できる、自身の子供に文身を移植するわけだ。
だが、たとえ血の繋がりがあっても、特に海馬がまだ未発達な幼児の場合、そのリスクは計り知れない。
僕の父の方の文身が何を封していたのかは、今となっては不明だが、母と同じ程の大量の情報を宿していたとすれば、確かに、拒否反応を起こす可能性は大いにあったはずだ。
だから、ガウスは本当の父の文身を僕に移植して、すぐに僕の容態が悪化したのを見て、劇薬で文身を拭おうとした――
僕がすべてを話し終えると、アトラスは言う。
「ガウスがおまえの親と同じ文身を入れたのは、あいつなりの贖罪の形。父親代わりになるための――本当に自分の子供と思ってのことだったのことだろうよ」
ガウスの文身は当然、僕の本当の父のものではない、偽物。
だけど、そうまでして、父親代わりになろうとしたのは、自身の施術のせいで、僕に記憶の欠損をおこしてしまったのを悔いていたのだろうと、アトラスは語った。
その言で僕はアトラスが、僕の思ったとおり、ガウスのことをどこまでも信頼しているのだとわかった。なぜなら彼は、昔、ガウスに治療され、一命をとりとめることができたのだと言っていたから。
故に、アトラスがガウスの”治療”を疑うことなど、アトラスにとってはありえないことなんだと。
そうして、お互いを強く信頼し合っていたから、ガウスもまた危険を犯してわざわざ皮膚を分離してまで、アトラスをメッセンジャーとして選んだ。
だけど――ガウスが僕の額の皮膚を焼き切ったのは、アトラスの言うように、本当に治療だったのだろうか?
そう考えるには、どうしても拭いきれない違和感が残り続ける。
一番引っかかるのは、文身の記憶の中では、母が死んだとき僕はまだ赤子で、ガウスが僕に文身を入れた時よりまだずっと小さかったことだ。
ここからはすべて僕の想像だが、誰からも文身を引き継ぐことなく、また子を作れなかったガウスは、僕と同じように、生来、何かを引き継ぐという欲求が極端に希薄で、跡継ぎなんて考えることはしなかった。だから弟子も取らないでその一生を終えようとしていた。
だがガウスは、不意に授かった僕を文身を入れても問題ない年齢になるまで育てていくうちに、自分に死んだ後の後継者がいないことについて深く考えてしまった。
だから、ガウスは、僕の記憶を両親から切り離し、身の子供として育てるために――本当の親の記憶を抹消し、”自分の子供”として育てるため、無意識的にせよ意識的にせよ――十分な年齢に育つ前に、まだ身体も精神も未熟な幼い僕に対して文身を移植を強行し、そして想定通りに拒否反応を起こして、わざと粗野な施術を選んで除去したと、そうは考えられないだろか?
だからこそ、それまでの人生で一度も入れなかった文身を、僕に会った後に入れたんじゃないだろうか。記憶が僕に本当の父親と勘違いさせるため。
なにより自分で自分のことを、本当の父親だと信じようとするために。
だから、自分が死ぬ最後まで、母親の文身を明かすことはなったんじゃないのか。僕が放浪者としての記憶を取り戻し、自分の元から去ってしまうのが恐ろしくて。
無論、彼が死んだ今となっては、真実はわからない。
それでも、確かなことがひとつだけ。
文身は、その性質上、人生の最後に近ければ近いほど、より精緻な感情が保存される。
だから死の間際、最後にガウスが結べなかった言葉が、文身を通して嫌というほど、僕に伝わってきていた。
『すまなかった』
ガウスが僕に最後に伝えたかったのは、強烈な懺悔だった。
その感情の源は、両親を救えなかったことか、あるいは、幼い僕の記憶を意図的に消そうとしたことについてか。
僕を引き取ったのが、愛なのか、あるいはエゴだったのか、果たして、どちらだったのだろう。
「……で、お前は、どうすんのさ」
答えのない堂々巡りを頭の中で繰り返していると、ふと、アトラスの声が聞こえてきた。
「どうって?」
「とぼけるなよ」するとアトラスは口元に皺を滲ませて、僕の頭上を指し示す。「本当の母親の文身の話しさ」
アトラスには、これが、母親の文身であることと、中身が巨大な地図であることは既に伝えていた。
その終点のエーゲ海の島に、今では失われた、医療を可能にする施設であるかもしれないことも。
そして、父と母が、その場所を目指していたときに、死んでしまったことも。
「もしも、お前の言う通り、ここからヨーロッパ大陸まで結ぶ、電磁街道を全部収録しているって言うんなら、そりゃお前、俺もきいたこともないような、最大級の地図だぞ」
電磁街道は、アジアからヨーロッパまでを結ぶ大陸路だ。ここから、ヨーロッパの北大陸まで、磁場の流れが比較的一律で、長距離の移動も可能だとされていた。
「本当に未だ北の理想郷の民がいるってのか?」力強く言うアトラス。
「それ、また神話ですか?」
そう言うと、アトラスは少し笑う。
紀元前の時代、電磁街道と軌を一にし、ヨーロッパで採掘された琥珀を輸出する大陸路は琥珀街道と呼ばれた。その終点は、アポロンが訪れる理想郷。その地に住まう人々は、老いること無く、永遠の生を謳歌できると、古代の神話では語られているという。
そして同時に、電気の語源は、琥珀。アトラスは、母の文身を神話になぞらえているのだ。
「当たり前ですけど、そんなおとぎ話は到底信じられない」
僕は屹然と返す。
けど、先人たちが神話になにかを仮託し、あえて何かをその地に遺したとしたら――
「ならば、一生を、少しでも永らえさせる術があるならば、僕はそれに縋りたい」
このまま、永住民としてこの地に引きこもって、ただ死を待つようなことはしたくない。
そしてそれ以上に、父と母が真に託したものがなんだったのかを、僕は知らなければならない。
僕がそう断言すると、アトラスは満足したように頷く。
「ならば、餞に俺の相棒を託そうか」
それから一ヶ月の朝方。夕闇に一帯が染まり、太陽に変わってオーロラが辺りを染め上げようとする中、僕は街の外れの、電磁舟が繋留してある箇所に赴く。
「今から出るのか?」後ろから、アトラスの声。
「はい。磁場の波の感じもいいんで、今から、旅に出ようかと思います」
「そうか」と短く応じるアトラスに、最後までどうしても気になっていたことを尋ねる。
「アトラス。あなたは、ガウスから僕が彼の蛇の文身を受け継ぐように説得してくれと、請われていたんじゃないんですか?」
そのために、ガウスはわざわざ文身をふたつに分けたのではないかと。
だけど、僕の想像は簡単に覆される。
「違ったよ。ガウスの願いは一つだけ。お前がこの先、何を選んでもどう生きたとしても、できる限り後押しをしてやってくれ。それだけを、文身の中のアイツは、俺に頼んできていたんだよ」
僕は言葉に詰まる。この十年間、僕だけでなくガウスも、ふたつの葛藤の中で揺れていたのかもしれない。
それでも死の淵で、母の文身が眠る地図の在り処を示したのは、最後は僕にすべてを託し、自分で決めてほしいと願ったから。
ガウスの文身を受け継いだ時、懺悔とは別の、蘇った彼の思いがもうひとつ。それは嘘と沈黙で塗り固められた共同生活の中でも、彼が徹底的に貫き続けたことでもあった。
『コラクスが少しでも長く健やかに、この世界で生きていけますように』
そして、その思いは、もう一匹の蛇に宿った母とまったく同じ。
「そういうことならこの電磁舟、餞として、ありがたく頂戴します」
声が震えるのを無様に誤魔化しながら、僕はそう応じる。
「おうよ。いずれにせよ、俺にはもう満足にこいつを運転できはしないしな」
痛々しいほどに明るい声で、彼は右腕を挙げながら言う。アトラスのその腕は、肘の部分から先が途切れていた。
皮膚の腫瘍の侵食を抑えるために、ガウスによってやむを得ず切り落とされたという二の腕。この世界で縁に住むものには、そんな野蛮な治療しか選択肢が残されていない。
だから、僕は母の文身に残る、あのギリシャの島にある施設に一縷の望みを託したかった。そこに辿り着けた暁には、ひょっとしたら、アトラスやガウス、この街に住む名も知らぬ人々のように、あっけなく死んでしまう人を無くせるんじゃないかと。
そこまで考え、僕はどうしても堪えきれずに、アトラスに言ってしまう。
「だけど、もし僕が成し遂げても、そのことをあなたに伝える術がないのは、本当に悔しいです」
たとえ、僕の旅が終着を迎えたとしても、あるいは道半ばで野垂れ死んだとしても、その事実を伝えることはできない。
僕らの生きる世では、一度別れてしまえば、二度と交わることは許されない。だから、この世界では、別れることと、死ぬことは同じ。
「そうだ」と短く言ってから、それでも、アトラスは笑う。
「でもな、だからこそ、俺たちは別れを慈しむんだよ」
このときのアトラスの言いたかったことは、幾重の邂逅を重ねた今になって、ようやく理解できるようになった。
ここまで散り散りになった世界になる前でも、別れてからそのあと、一生出会わないことは日常茶飯事だったはず、むしろ出会いが多いだけ、意図せぬ別れもまた多かったはずだ。
ならば、こうしてお互いが二度と会えないと覚悟し、その上で、これほど丁寧に、別れを慈しめることこそ、この世界だからこその、特別な出来事なのだと今なら思える。
ぼくが最後の別れの言葉に逡巡していると、アトラスは不意にアポロン信仰の祈りを捧げた。僕も見様見真似で、アトラスと同じ姿勢を取る。
「祈るときに大切なことは?」そう僕が訊く。
「相手のことを絶対に忘れまいと、ただ一心に願うこと」アトラスが応える。
心に刻めることを願うは、アトラス、名も知らぬ父と母、そして――
正直、ガウスの行いに納得できたかどうかは、旅のすべてが終えた今をもっても確信がない。
だけど、確かなことは、ガウスから引き継いだ文身の技術によって、僕はここから先の旅路で、数え切れないほどの人々に携わることができた。
だから、ガウス――あなたが僕を介して、この世に遺したかったその思いは、僕は然と受け継ぎました。
互いに祈りが終わると、別れの侘しさを誤魔化すように、僕は髪を掻き分ける。
そこには、母とガウス、生まれの親と育ての親の、二双の蛇が対になって重なり合っている。
露わになった僕の額のその文身を見て、アトラスが別れに相応しい、盛大な笑みを浮かべてくれる。
「最後にな――」
そう言って、彼は僕に神話に纏わる、旅のおまじないを授けてくれた。
そして別れ際、僕はアトラスと抱擁する。彼の皮膚からはその下に流れる確かな血潮の温もり。その熱さは、あれから時が経過した今でも、まったく違わぬ熱量で思い起こすことができる。
僕は、すべての旅を終えた今でも、ふとした折に、旅立ちの時のアトラスの言葉を思い出す。
今の僕の額には、大きさはやや不揃いながら、ガウスと母の、二対の蛇が顔に宿っている。その蛇のそれぞれの頭には、翼の文身が輝いている。アトラスに言われて、僕が文身師として初めて彫った、両翼の文身。
アトラスいわく、二匹の蛇が杖に絡み合うシンボルには、医療とは別の意味が宿ると言う。
ケーリュケイオン杖。かつてアポロンが持ち、ヘルメスに託したとされる杖。商業や交通のシンボルとしても祀られ、所有者を守り、旅を寿ぐとされるお守り。
そして、その文様が象徴するのは、旅立ち、生命、平和、そして、伝令。
アトラスは別れの間際に、そう教えてくれたのだ。
「――だから時間がある時に、その杖により似せるために、ぜひ蛇に翼を描き足すといい。縁起がよいぞ」
# 5
旅が始まってから、最初の二年ほどは孤独との闘いだった。
向かう先向かう先、永遠と飛び込んでくるのは、干上がった砂地や、背丈ほどもある雑草、コンクリが溶解した大都市の跡地や、なにか巨大な力によって拉げた家々、放置され変形したアスファルト、荒廃した地を奔る、いまだかつて見たこともないような動物たちの群れ。
おおよそ数十キロ単位で点在している、細々とした集落で補給を行う以外は、誰もいない広大な大地を、たった一人で駆け抜ける日々。
加えて、いくら地磁気の流れに恵まれた琥珀街道とて、順調に目的地に向かって移動できるような吉日は、そう多くあるわけじゃない。一キロか、二キロ、あるいはほんの数百メートルしか進めない日や、良い波を待ちながら、何日も同じ場所に留まる日も多くあった。
そのように旅を続けていると、自分がこの世界の中で、如何に孤独でちっぽけな、取るに足らない人間であることかと打ち拉がれた。そんな自分が本当に、遥か彼方の地にたどり着き”人々を治療する”なんてだいそれたことを叶えられるのかと考えてしまい、絶望に何度も苛まれた。
故に、たまに見かける野営の跡や、地に刻まれた轍を見つけるだけで人の気配を感じ、誰のかも知らないものに対して、無性に愛しさを感じてしまう。
だが、同時に警戒を怠ってはならない。その先行者がどういった人間かは、まったくわからないのだから。
旅を始めてから三年目。場所はアジアとヨーロッパの境界あたり。場所の詳細ははっきりとわからない。なぜなら文身の中の地図が、この辺りで途切れていたから。
そのせいで僕はここ半年ほど、ほとんど先に進めないでいた。何度も没入を繰り返しても、何の手がかりも手に入れない日々。とはいえ、一か八かで移動するのはあまりにも危険すぎる。
そんな日が続くさなか、ある折に、電磁舟の移動した痕跡を見つけることができた。轍の深さから見て、数十人が一気に移動する、中型の船であるとわかる。
その痕跡をたどっていけば、地平の先の拓けた地の上で碇泊している舟が見える。明らかに不自然だ。
僕はあえて距離を詰めずに、その周辺の様子を望遠鏡越しに見つめる。
見えてきたのは数十人規模の移送船と、その舟のまわりを取り囲む黒ずんだ服装の三人。武装したかれらは、乗客を拘束している。やはりだ。
僕たちが衣で顔を覆うのは、決して太陽の光から身を守るためだけではない。この世で、知識はもっとも価値のある財産。故にその知識を保存している、文身を狙う輩も大勢いるからだ。生皮ごと奪おうとする皮剥とよばれる者共が。
磁場で守られることの無い地では、死体ですら一瞬で消し去ってしまう。肉は獰猛な肉食類がかっさらい、強烈な太陽光は骨を漂白して砂に変える。自然の圧倒的な暴力の前には、人は影すら残さない。
だから皮剥たちは蛮行の痕跡を消すため、被害者を確実に殺めて野ざらしにする。
「けど、その現場に鉢合わせなんてのは、さすがに初めてだ」
僕は風雨によって堆積した土塁の裏側に舟を止め、影から顔を覗かせ、三十メートルほど先の、荒野の光景を凝視する。幸いにも、まだ乗客は無事なよう。
緊張で陽で灼けた首筋に痛みが走る。ここでかれらを助けないという選択肢は、存在しない。もし見捨てたら、人々を救うために旅に出た僕にとって、道を違うことになってしまうから。
だけど、このとき、僕の電磁銃に入っている弾は、たった三発のみ。一発でも外せば、打つ手が無くなり、すぐさま向こうから反撃を受けてしまう。
僕は、浅く息を吐いて、撃鉄に指をかける。
人を救うために、人を殺める。相反する覚悟を込めてから、先端から弾を放つ。
一発目――無事、肩に弾が命中する。隣の奴が狼狽えるのを見計らい、そいつの足に当てる。
だが、その時間差をついて、皮剥の足元にいた黒い獣が僕に向かって突進してくる。
残りの敵はわずか一人。だがこちらが再充填するよりも、あの猟犬が距離を詰めるほうがはるかに早い。
間に合わない――
「こっち!」
刹那、荒野に響きわたる甲高い声。
囚われて砂地に伏していた女が、僕に向かってくる獣の方向になにか――金属の塊を放りなげた。
その一瞬、猟犬がそちらの方向に気を取られる。僕はその好機を決して見逃さない。
浅く呼吸をし狙いを定めてから、人差し指に今一度、力を込める。
一瞬の間があり、破裂音が平原に響く。頭蓋が内圧に負けて裂け、放たれた鈍い音。狙い通りに命中したのだ。
僕は照準器から標的の様子を確認する。射線の先の皮剥から、血と脳漿が混ざりあった薄紅色の体液を吹き出す。その液体が、男の目の前にいた、獣の注意を引いてくれた彼女へと降りかかる。
だがその女は、一切微動だにせず、逃げることなく白みがかったその赤い体液を存分に浴びた。
いや、逃げなかったんじゃない。逃げられなかったんだ。
彼女の身体には、腰より先の半身が無かった。
僕の不安をよそに、その女は外套の頭巾を下ろして、まるで何事もなかったかのように、頭を左右に振る。肩まである金色の髪が揺れ、髪の色に太陽が反射し辺りが眩く輝く。その金糸には赤い血が絡みついている。
目の前で凄惨な情景が繰り広げられたにも関わらず、その整った大きな眼には、まったく怯えが写っていない。もしも半身があったとしても、決してその場から逃れずに、敵の最後を見届けたのだろうと、その場にいる者に確信させるほどに。
そして僕は、彼女の顔を見て、更に驚愕する。
彼女の髪の毛の間から垣間見れるその額には、僕と同じ、蛇の文様が刻まれていた。
「この文身は、薬理」
エキゾチックで顔立ちの整った、好奇心に満ち満ちた不思議な表情を輝かせながら、その女は語った。
見間違えでなく、やはり彼女は太腿より下が途切れている。部位は違うが、切断された四肢は、否応にも僕に別れたあのアトラスのことを思い出させた。
「それが君……”トリヴィア”の知識なのか」
彼女の名前はトリヴィア。場が一段落してから僕が尋ねると、そう名乗ってきたのだ。僕はこの時、彼女が雑学人間を自称するのは、たぶん自虐のようなものだろうと考えた。
なぜなら、彼女は僕が近づくと助けてくれた礼もそこそこに、僕が誰か、どこから来たのか、その銃はなにかについて、矢継ぎ早に質問してきたからだ。
その応答にやや面食らいながらも、僕の方もまたトリヴィアに何者か問うた。すると自分は、この辺りを巡回している薬師で、別の磁場街に巡回する際に襲われたのだと説明してきた。
幸いにも、トリヴィアと同様に拘束されていた人々に皮剥による外傷は見受けられなかった。かれらは次の日に発つことにして、今夜は遠くの小高い丘で一箇所に固まって、夜を越す予定だという。
舟に乗っていたその永住民たちは、おざなりの感謝を僕に述べつつも、僕が放浪者であることを警戒してか、はたまた、目の前で人を殺めた人間に対する生理的な恐怖からか、事態が収まった後も未だに僕と距離を取ろうとしていた。
だが周りが僕を敬遠する中、トリヴィアひとりだけは、僕を煙たがるどころか、血だらけの外套の着替えのために、わざわざ僕に助けを求めてきた。
「ありがと。わざわざ危険を犯してまで助けてくれるお人好しなんて、初めて会った気がする」
着替え終わると、彼女は前髪を掻き上げる。そこにあるのは――
「この一家秘伝の文身は、”ヒュギエイアの杯”を模したやつなの」
ギリシャ神話に出てくる女神の一神。アポロンの息子、医神アスクレピオスの更にその娘、ヒュギエイア。
そのヒュギエイアは、薬が入った杯をシンボルとしており、父神と同様に蛇を従えていたことから、その杯の脚には、蛇が巻き付いている。
僕の母親の文身、アスクレピオスの杖とまったく同様に、
「気になる?」
ニヤつきながら、尋ねてくる彼女。気になるか?なるに決まっている。
偶然かもしれない。だが、僕の両親と同じモチーフのその文身ついて、此処から先の旅を続けるための大きなヒントになるのかもしれない。
話しながら僕は電熱線を使って火をつけ、炎の上に鉄鍋を置く。夜食の準備を淡々と続けるふりをしながらも、彼女から如何に情報を引き出すかについて、必死に頭を回転させる。
文身を見せるのは、信頼の証。文身の中身は、それこそ強盗が襲ってくるほどに貴重な資産なのだから、本来は心を開いた身内にしか見せないものだ。
たとえこのお喋り気質な彼女といえども、訊かれたからと言って、すぐに教えてくれることは無いはず。
おそらく、僕は彼女に見定められているのだ。この文身を狙う者なのかどうかを。
だから僕は代わりに、別の気になっている事を尋ねてみる。
「なあ、君、どうやってあの獣の注意を引いたんだ?」
「あれ?よく見てたね」トリヴィアは、こちらを面白そうな目で見てくる。「でも理由は簡単よ。あの仔達、目の代わりに磁場の感覚器に頼っていたのがわかったから」
「磁場?」
「イエス」
彼女曰く、超磁気時代後、視覚や嗅覚ではなく、”磁覚”によって、世界を捉える動物たちが出始めたのだという。確かに僕がここに至るまでにも、目や鼻が退化した野生動物を時々見かけていた。
「でも、決して超磁気以前に、そうした磁場を読み取る動物がいなかったわけじゃないよ。たとえばコマドリの目の中では、地磁気に反応する生化学反応が起きていて、視覚的に磁場を感知できたの。その鳥は磁場を文字通りその目で”見て”、北から南に季節ごとに、移動していた」
今は存在しない動物たちの生態について、慈しむようにトリヴィアは語る。
「元来どの生物にも、遺伝子によって、向かうべき場所、行うべき方向が、生まれた時から、ちゃんと定められているの」
その話を聞いて、ふっと湧いた疑問がつい口から出てしまう。
「だとしたら、僕たち人間にも、向かうべき場所はあるのか?」
すると、少しの沈黙が降りてから、彼女は僕に別の質問をぶつけてきた。
「ねえ、どうして人類は、世界中のあらゆる場所に住むようになったのだと思う?」
「そりゃあ、大昔は今と違って、磁場が安定していただろうし、高速な乗物あったし、自分の位置の確認も、簡単だったからじゃないか」
僕が当然のように言うと、トリヴィアは、「違う違う」と笑って手を振り、「文明が絶頂期を迎える、遥かずっと昔の話よ」と言ってから教えてくれる。
「数多いる生物の中でも、移動という点において、人間は突出している。私たちホモ・サピエンスは数万年前には、既にオーストラリアを含めたほとんどすべての大陸に生息していたのだから」
僕は驚く。「そんな昔から、海を越えた大陸にも住んでいたっていうのか」
「そう。なのに、私達がどうしてここまで動き回っているのかについては、ほとんどわかってない。なぜ、温暖で資源や多いアフリカという故郷を捨ててまで、寒く暗いヨーロッパや、空気の薄いヒマラヤの山脈、更に、最寄りの陸地から数千キロも離れた島々に散ったのか、その理由はわかってないに等しい。私たちのご先祖様は、なんでそこまでして、ずっと移動してきたのかは、人類史に纏わる巨大な謎なの」
ギアがかかったトリヴィアは、更に早口で伝えてくる。
「人類は、地球上の、どこか特定の場所で誕生したわけでは決して無い。人類は移動しながら、永い時間をかけ、少しずつ遺伝子を交換しあいながら変化して、ゆっくり進化していった……けど、四足歩行から直立二足歩行になる過程の中間種の化石は、見つかってはいない。現生人類よりはるか先祖の初期の人類は、まるである日、急に立ち上がろうと決めたかのように、突然二本の足で立ち上がった――この世に数多いる生物の中で、知能が高い生物も、道具を使う生物も数多くいるけど、二足歩行で生活するのは、ヒトだけ」
一気呵成に喋り終えると、彼女は満足したように深く息を吐き、僕の電磁舟の縁にゆったりともたれかかる。
僕は当初の予定とは違い、すっかり彼女の話に魅入られていた。
トリヴィアはそんな僕の様子を面白がるように暫し眺めると、またすこし息を吸う。
「それに、あなたはこの超磁気時代が、四十六億年の中で初めて訪れた異常状態みたいに語るけど、でも、ひょっとしたら、こうした時代はヒトが生まれてから、何度もあったの、かも」
彼女の話は、僕が今までの人生で、一度も想像もしたことが無い事だった。こうした災害が、過去何度も地球に訪れていたなんて。
だけど同時に、納得できることでもあった。
地球磁場の南と北が逆転する磁場逆転現象が、地球で数十万年に一度起きていたことは、大昔の地層に残った古地磁気によって確認された科学的な事実だ。
昔から分かっていること故に、北と南が入れ替わることしか起きず、こうした超磁気時代の磁場の流れは、例外的な、異常な事態だと、僕はそれまでずっと考えてきた。
だが真実は逆だったのかもしれない。そうやって綺麗に南北が逆転することのほうがむしろ稀で、混沌とする磁場が地球を覆う今のような時代は、実は過去にも非常に高い頻度で訪れていた可能性は大いにある。
なぜなら、地質の中の地層や岩石に刻まれる過去の磁場の流れは、あくまで長期的に一定の方向に流れた場合のみしか記録されないからだ。乱雑な磁場の履歴は長期間で見ると平均化されて、後世になんの痕跡も残せないはず。仮に後世で地質調査がなされても、この時代の記録はおそらく残らないだろう。
トリヴィアは満足気にじろじろとこちらを眺めてから、また話し始めた。
「現生人類は、ネアンデルタール人よりも、紫外線の影響を受けにくかった。というものね、紫外線に対する影響は、アリール炭化水素受容体に関わる転写因子が大きく関係しているからなの。事実、種間のDNAをそれぞれ解析すると、この因子には大きな違いがあって……」
彼女が早口で捲し立ててくる語彙の、その半分以上は訊いたこともないような単語だった。
「――そして、ネアンデルタール人が滅びた約四万年前は、ちょうど、地磁気強度が極端に低下した、ラシャン・エスカレーションが訪れた時代と同じタイミングだった」
だが、不思議と言わんとすることは伝わってくる。絶滅した過去の人類であるネアンデルタール人は、超磁気時代に対応できなかった。だから滅びたのだと。
もしもそれが本当だとしたら、こうした超磁気時代を何度も迎えながらも、生き抜き旅を続けた。現生人々、そしてそれに連なるという二十三種の過去の人類たち、かれらは一体、何を見て感じながら、歩き続けたのだろう?
「さ、私はいっぱい喋っちゃったから、次は、あなたの話を訊かせて」
彼女は調子を変えるように促す。少し逡巡したものの、僕が灯した、目の前でくゆる炎に催促されるように、少しずつ語り始める。自身の生い立ち、ここまでの旅路、目指す場所について。
そして、最後にそっと頭巾を脱ぎ、前髪で隠してた額の傷と、そこに刻まれた、二対の蛇の文身を見せる。
「僕の生業は医学……それと、文身師だ」
そこに、駆け引きのような打算はなかった。ただ当たり前のように、僕は彼女に、己の印を見せるべきだと直感したのだ。
すると、予想外の事が起きた。
僕が強張った心を開いたのが周囲にもなんとなく伝わったのか、遠巻きに見ていた人々が、少しずつ僕の周りに集まり始めたのだ。
人が集まってくると、トリヴィアは反対に、急に無言になって目を閉じた。あまり丈夫でないにも関わらず、喋りすぎて疲れたのかもしれない。
僕は集まってくるかれらを近くでまじまじと見ると、トリヴィアほどでないにしても、誰しもが皮膚の色が変色していたり、施しようの無いほどに深い傷を負っているのがわかる。こうして危険を犯して外に出なければならない永住民たちなのだから、その暮らしも、決して裕福ではないのだろう。
青みがかった淡い焚き火を囲む、その人々の環は、闇が深まるほどに次第に狭まっていき、オーロラの輝く夜半の中、黒い砂地の上にまっ白い灰が積み上がるころには、誰しもが、あんなにも隠していた文身を露わにして、ひとりずつ自身の文身の物語を熱く語った。ひとりが話し始めると、他の者らは話に無言で真摯に耳を傾ける。そうして、各々が紡いできた生を交換し、お互いを理解しあおうとした。
久々にこんなにも多くの人々に囲まれているうちに、僕は、先程のトリヴィアの話が頭に残っていたからか、ふと、自分が大昔にいたはずの、数万年前に地球を旅した人間のひとりになったような、不思議な錯覚が芽生えた。
我々の先祖も、アフリカの森を出ると決めた時から、ずっとずっとずっと、険しい土地を旅し、狩りをして、肉を分け合い、互いに勇気づけあいながら、時にはこうやって語り合い、絆を深めあっていったんじゃないかと、そう思えたのだ。
「まだ起きてるの?」
夜が明ける頃にトリヴィアは目覚め、穴だらけの羊毛に包まったまま、近くでそっと火にあたる僕に、ある提案をしてきた。
「ねえ、明日から暫くの間、私の伝令役になってくれない?」
答えを返す前に、彼女は自身の文身を指し、僕のすべてを見透かしたような一言を放つ。
「あと何年かして私が死んだら、その時にはこの文身、あなたにあげるから」
# 6
「コラクス、あなた磁場を捉えるの、なかなかうまいよね!」
それから二年ほどの間、僕は彼女の”足”となり、僕たちは暫くのあいだ、一緒にいくつもの磁場街を渡り歩いた。
トリヴィア曰く、自分はもう永くはない。ならばせめて、一族の役目を少しでも多く果たすため、一つでも多くの街をめぐり、自分の知識を提供したいと語った。
だが、トリヴィアは肝心の文身の由来について、それ以上深くは説明はしなかった。
だけど、僕には確信があった。おそらくその中には、僕が旅を続けるための地図が入っていることに。
だから申し出を受け入れ、トリヴィアの導きに従った。
そうして訪れた磁場街は、どれも規模は非常に大きいながら、どこも他とはまったく異なる街並みだった。ほとんど交流を絶たれた世界では、住まう人々や街を織りなす文化は、少し離れただけで独自の発展をしていた。
だが、それでも、どの街も恐ろしいほどに完全に共通している特徴があった。中央集権的な統治と、街を訪れたものに対して極めて排他的な点。どの街も一つの例外もなく、中に入る際の審査は厳格だった。
だけどそれでも、僕らが街の中に入れたのは、外部から齎される恩恵を、どの街も十分に理解していたからだ。
別の言い方をすれば、そうでなかった街は、すべて滅びたのだ。
遺伝的均質性が進行し、集団内で特定の形質を発現する遺伝子が濃縮され、その結果、元来、ほとんど起き得ないはずの病気や疾患が蔓延し、その地に住まう人々が全滅した街の噂はいくらでもある。
街の外部との循環が、放浪者によって齎されるモノや概念は、孤立した集団を、良くも悪くも撹拌させる効果がある。だから、外からの異物を定期的に取り入れることで、起こりうる災厄に対して、ある程度の耐性を獲得することができた。
街を人間に喩えれば、弱毒化した毒を体内に入れるのに近いだろうか。捉えようによっては、僕ら放浪者は、流入と流出を繰り返すだけで、街自体を治療しているのだ。
勿論、比喩としてだけじゃない。僕らの文身が秘めている医術と薬理は、直接的にも人々を治療する事ができた。
「筋肉の緩和剤は、こっちに記した方式に従って調合すること……比率は絶対に間違えないように。あと、鎮痛効果や冷却効果がほしいなら、別のロードマップに従って、素材になる植物から作ってみて。こっちの化学物質は、このあたりに生息している草食性の動物の膵臓からも取れるはずだから……」
トリヴィアに託された伝言を、足が不自由な彼女に変わって、僕はそのまま伝える。
どこの磁場街にもある、”換金所”と呼ばれる場所で、僕は、街に停留するごとに、トリヴィアの知識と物資の両替を行った。
ここで”目利き”と呼ばれる知恵者たちは、提供する内容の真偽を推し量り、僕らの与える知識に応じた物資と交換してくれるのだ。共通基軸を持たない世界では、情報のみが資産であり、同時に物資と交換可能な通貨にもなるというわけだ。
だけど、情報が金や銀の貨幣と大きく違うのは、量を簡単に増やせてしまう、という性質だ。
だから、市中の一般市民に無償で知を与えすぎると、価値の希薄を引き起こし、統率が取れていた磁場街の治世に影響を与えてしまう――と、どの街でもさも当然のように語られていた。故に、財産の価値を暴落させないために、中央で一律管理し、適宜、市中に還元しているのだと。
本当に皮肉なことだと思う。せっかく過去の文明が築いた知識を失わせないようにと作られたはずの文身が、むしろ本来の目的とは反対に情報の格差を生み、歪んだ形で秩序を与えているわけだから。
「お金の語源が、進言を表す、”モネータ”から来てるのって、なかなかに示唆的よね」
いつしか、トリヴィアは皮肉を込めてそう語った。
僕は薬理については疎かったため、トリヴィアの提供している情報が正しいのかは判別できなかったが、どの街でも当分は困らないほどの大量の物資と交換できたのと、なにより彼女のその文身のモチーフで、僕はその知識が紛れもない本物だと確信していた。
女神ヒュギエイアは、薬の他に、健康や衛生も司っているからだ。
トリヴィアは代々受け継いだその薬理の知見を、あらゆる街で、さまざまな物資に変えていった。
けどそれ以外では一切、薬事の知識を売り渡すことはしなかった。たとえ、貧しい永住民たちが、生きるための薬剤を手に入れることができず、目の前で野垂れ死んでいてもだ。
「野生の動物の群れの中に、老獣はいない」
会ってからまだ日が浅い頃、トリヴィアが語ったことだ。
「それは本来人間でも同じだったはず。贅沢に治療されて、老いるまで生きながらえるのは、何百万年と続く人類史においても、極めて特殊な状態だと思うの。”治す”ってのは、ある意味、最も自然に反する行いなんじゃないの」
そのときの僕は自分の旅の大目的が否定されたように感じて、つい反論してしまう。
「だけど、君だって、その医療の力で、生き永らえているんじゃないか」
言ってすぐしまったと思う。明らかに言い過ぎたからだ。
仲間との争いは、旅では絶対に避けるべきものだ。たとえ最初は小さな諍いだとしても、それが原因となって、最悪、殺し合いにまで発展したという話は、そこかしこできく。
だが、焦る僕とは反対に、トリヴィアはなんでもないかのように嘯いた。
「私、本当に死ぬってときは、できるだけ、あっさりと死にたいな」
彼女は俯き、視線を下に向ける。目線の先に、まるで幻の足先を見るように。
その所作に、僕は黙ることしかできなかった。
だけど、今にして振り返ると、この時のトリヴィアに僕は詰め寄っておくべきだった。
もしそうしていたならば、僕らがあんなにも大勢の人々を殺めてしまうことは、なかったかもしれないのに。
「ほら、コラクス、見て見て!」
麻酔を使って僕が鹵獲した、ハイエナのような獣の群れのうちの一匹を、嬉々として指さすトリヴィア。彼女がわざわざ屠殺しないようにと麻酔薬を調剤した理由は、「なるべく、かれらの生き方に手を入れたくないから」らしい。磁場街に住まう人間には冷淡なのに、動物に対しては、過剰なほどに篤く振る舞うのは、僕にはどうにも歪に思えた。
だけど、彼女にしてみれば、元永住民の、僕の価値観のほうがよっぽど歪に感じていただろう。人は生まれ育ったときに培われた性が、人生のどこまでも追いかけてくるものだ。
いや、生まれや育ちだけが問題じゃない。受け継いだ文身の影響ということもある。拒否反応を引き起こさず、無事に受け継げたとしても、累代文身は多かれ少なかれ、受け継ぐ者の精神に影響を与えるからだ。
そうした気質の違い故に、お互いに倫理観が衝突しそうになることは幾度となくあったものの、それ以上に彼女との旅は、驚きと発見、それに今までの孤独とは程遠い、充実した毎日の連続だった。
その旅の途中、トリヴィアの趣味に付き添い、一緒に動物の生態を調べていくうちに、いくつか不可解な特性が判明していった。
「ね。これ、なんでだと思う?」
眠らせた獣を指差すトリヴィア。目の前にあったのは、肋骨が浮き出るように痩せこけた矮躯。
にもかかわらずこの亜成獣は、先程まで、電磁舟でも追いつくのがやっとのスピードで地平を走り回っていたのだ。
そう、謎のひとつは地を駆け回る動物たちの、エネルギーの出どころの謎について。かれらは明らかに捕食できる食物を超えたエネルギーを、どこかしらから得ていた。
そうした個体の出現は、旅を僕の最後の目的地である、エーゲ海に近づけば近づくほどに増えていった。だから、僕にしてみれば、旅が進むほどに、まるで時が早回され、進化が加速していってるように感じたのだ。
「かれら、一体何を動力に変えてるんだろうねぇ」
そうした例を見るたび、トリヴィアは目を輝かせて、嬉しそうにそう言うのが常だった。
地理に絡む不思議はそれだけではない。
海や山脈など、地理的な要因によって分断されるはずの境界線を挟んだ別の場所に、なぜか、色や歯の形など、まったく同じ形質をもった個体がいたからだ。
無論、収斂進化や、平行進化の可能性もありえる。だが、まったく別の環境に生息していても、どうにも説明がつかないほどに、酷似したパターンも多く見受けられた。なぜだ?
「そんなの、わからないよ。そこまで深く調べるには、機材も技術もまったく足りないしね」
僕が気になり尋ねてみれば、彼女はにべもなくそう返してきた。
「……けど、あえて仮説を投じるなら、自然界では、複数の局所個体群が移住によって相互に結びつくことで、ある場所で絶滅した個体群が再新生されることがあるの。動物たちはほとんどの生息地では滅びてしまっても、他の生息地に辛うじて生き延びている個体の流入があれば、また個体数を増やして絶滅せずに種を存続できる」
エンジンがかかってきたのか、すらすらと話し続けるトリヴィア。
「――だから、ひょっとしたら、自然界では私たちが見逃した経路を伝って、全体で結びついているのかも。そういう移住によって結びつく個の総体を、”メタ個体群”っていうのよ」
調子が良い日だったのか、上機嫌に語る彼女。そんなトリヴィアとは正反対に震える僕。
移住によって結びつき、全体で絶滅を逃れる自然界のシステム。まさに今の人類の生存の仕方そのものじゃないか。
人々は絶滅を避けるため、知ってか知らずか、自然が何億年もかけて導き出した方式を踏襲しているのかもしれない。
ならば、知を伝えるための累代文身にもなにか大きな自然の導きの、一つが顕れなのだろうか。
そんな調子で、旅の途中に彼女は機嫌が良いと、時々、さまざまな知識を僕に授けてくれた。
そのおかげで、僕は砂地に埋もれた多肉質の根で乾きを癒す方法を知った。植油を塗ることで、突如襲ってくる熱波を和らげる方法を知った。
そして、彼女は実用的な事の他にも、過去の巨大な学問の片鱗を教えてくれた。
「昔の識者は、この世のすべての物質は波によって存在を許されてる、って考えていたそうなの」
彼女が、”量子物理学”と語る、その学問体系で表現された世界観を僕に教えてくれた時の話だ。
その雲を掴むような内容に対し、そっけない返事しかできなかった。せいぜい、平和な時代の人間たちはなんと酔狂な事を考え出すのかと思ったぐらいだ。
「そんなの、神話世界の伝説みたいなもんじゃないか」
そう僕が軽口を叩くと、トリヴィアは予期してたかのように「実はそうでもないのよ」と笑う。
「この現象は、ちゃんと実証が可能なの。実際、このおかしな性質を使えば、距離も条件も関係なく、もつれ合ったふたつの粒子同士は、お互いに生じた変化を伝搬できるの」
”距離に関係がない”。その言葉に僕は反応する。「じゃあその性質を使って、磁場の影響を受けず、通信をすることってできないのか?」
だけど、トリヴィアの返答は、僕の期待に応えるものではなかった。
「あなたと同じことを昔の人々も考えていたみたいで、特殊な条件でならば、実際に通信に成功した例もあったよう。だけど……残念だけど、これはミクロでの、とてもナイーブな現象だっから、実験環境を超えて普及させることは、結局はできなかった」
残念そうする僕を見てか、トリヴィアは「だけど――」と続ける。
「ある鳥は、眼の中でその量子もつれを引き起こして、磁場を見ることができる種もいたらしいの。恐ろしいことにね、悠久の中での自然選択によって、かれらは巨視的な量子現象を利用する術を獲得していたの。生物は時として、人の叡智の限界を容易に超える」
トリヴィアはそこで区切ると、半身を無理やり折って、なにか文字を地面に書き連ねていた。
「私も深くは理解してはないけど、そうした非常識な量子の振る舞いをを表すため、こんな感じに、特殊な記号を使っていたらしいよ」
それを見て、僕の半信半疑の思いは吹き飛ぶ。彼女が描いた記号の中には、僕の、母の文身の中に現れていたものがあったからだ。
赤い土の上に行儀よく並んでいたのは、ギリシャ文字の羅列。
文身の記憶の中で、人々が討議を重ねていた光景の中、目の前の白板の刻まれていた記号の羅列にそっくりだった。
その記号の意味について、僕はトリヴィアに尋ねてみる。
が、彼女から矢継ぎ早に出る単語……シュレディンガー方程式や不確定性原理、ベルの不等式の破れ、EPRパラドックスなど、あまりにも馴染みのない言葉の羅列で、途中で完全にギブアップした。
だがのちに僕はこの時の話を真剣に訊いておけばよかったと後悔することになった。なぜなら、この話には、僕の出生に関わる、大きな秘密が、深く深く関わっていたのだから。
一切合切すべてこのように、旅の始まりから終わりまで、トリヴィアは聞き手にはあまり気にせず、自分が話したいことを話したいだけ話した。だから、高い頻度で難しい話も出てきた。
けど、僕は最初と違って、こうして旅する時間を何よりも愛しく感じるようになっていった。ずっとトリヴィアとの旅が続けばよい、彼女が死んで、その文身を受け継ぐぐらいならば、彼女が永遠に生き永らえてくれればいい。僕は少しずつ、そう考えるようになってしまった。
そんなことが、許されるはずもないのに。
# 7
「……知ってる?基督教では、皮膚を剥ぐことによって、肉体から放たれて、精神が自由になれるって信じられてたはなし」
彼女が口を開けると、腐った肉の匂いが鼻についた。死を予感させる、饐えた匂い。ここまでの旅路で、何度も嗅いできた匂い。
「まさか、君はこんなときまで、雑学を話すのか」
僕は緩やかに動かし続けた舟をついに止める。この地で、彼女の最後を看取ると決める。
日が沈みかけた曠野を吹き抜ける風が、乾ききった膚に突き刺さる。
僕はトリヴィアの包んでいる毛布を剥がし、転がる石を退けてから、柔らかい土の上に布を広げ、その上に彼女を、少しでも安らかな姿勢が取れるように寝かせる。
彼女の、かつて輝いていた髪はとっくにすべて無くなっている。尾骨の辺りに炎症を起こし赤黒く変色している。背中を穿ったような凹みは、体内組織の奥にまで達し、その傷口からは黄色がかった膿が出ている。その褥瘡が、血液循環に支障を来して、身体を更に腐らせていた。
抗生物質は既に切れている。何日も交換していないガーゼは、既に緑色に変色しきっていた。
僕は水を布で湿らし、彼女の口元に当てる。山間のどこかで、獣の咆哮が谺する声が響いた。おそらく、ヨーロッパオオカミの亜種の鳴き声。
かれらは声帯を震わせ、圧縮した空気を打ち出し、遠くまで雄叫びを届ける。その空気の震えは、電磁舟の金属と共鳴し、車体を小刻みに振動させた。
すると、死にゆくトリヴィアも、それに呼応するかのように、すべての空気を押し出すように腹部をへこませ、唇の間に隙間を開けると、獣の叫びに合わせるように、残った力を振り絞り、無音の咆哮を虚空に放った。
そして、ゆっくりと残った息を吐き出し終わると、彼女はついに絶えた。
それから少しして、遠くで雷鳴が轟く。何日も降っていなかった雨の粒が、僕の背中に降りてくる。
僕はトリヴィアを両腕に抱えて、消え去ろうとする最後の熱を膚で感じながら、もう一度、彼女の身体を見つめる。もう二度と動かない饒舌な口、褐色の膚、数多の生物たちを捉え続けた眼。
そして、僕と異なる形の、蛇の文身を。
彼女が死ぬ間際に吐き出だしたその空気の束は、死後もまるで魂のように、ずっとその場に留まり続けているように思えた。
僕は立ち上がり、宙に浮いたままのその透明な塊に向かって、アポロンの祈りを捧げる。雨粒に打たれながらも、微塵も姿勢を崩さずに。
暫く経って、ゆっくりと祈りの形を崩すと、僕はナイフを取り出し、トリヴィアの身体から丁寧に文身を引き剥がし、自分の首筋に薬品を塗り、彼女のその文身を移した。
その記憶にべったりと付着してきたのは、悍ましいほどの痛みと後悔の幻覚だった。
そうして僕は、トリヴィアが死ぬまで語らなかったすべての秘密を知ることとなる。快然たる旅の裏側で行われていた、トリヴィアの悲惨な行いについて。僕が知らず知らずのうちに犯してしまった罪について。トリヴィアに言われるままに、磁場街で情報を売り続けた自分のその愚かさについて。
怒りが身体を支配し、僕は絶えきれずに没入を解く。
だけど現実の、彼女の死を目の前にすると、その気持は永くは保てなかった。
僕は凍える手で、雨に打たれ冷たくなった彼女の膚を、優しく撫でてしまう。さっきまで、彼女に向かっていたはずの怒りが、周りを囲むこの雨霧の中に散逸していく。
その代わり、途方も無い虚が、僕の心の内側に訪れた。
「……これが、君の行っていた、治療の正体なのか」
調節する者。
それが、自身の本当の生業だったのだと、僕の身に宿した膚の中で、トリヴィアは語った。
「私の先祖はね。超磁気時代が起きてから、生き残った計算資源を使いシミュレーションして、未来に人々が生き残るための道筋を求めたの」
記憶の中の彼女は無表情のまま、僕に滔々と語り続けた。
本来、文身の中の人間と対話することはできない。だけど、トリヴィアは、最後に僕にすべてを伝えるため、遺言代わりに、真実を語る自分の思いを込めていた。
「――そして、その結果、数百年の先に全員を支えるだけの資源は、もう人は生産できないことがわかってしまった。健常な人々だけならばなんとかなるかもしれないけど、負傷した者や、老いた者にまで分け与える余剰は存在しなかったの」
表情を崩さず淡々と彼女は言う。感情を一切発露させないまま、恐ろしい言葉を連ねていく。
「だから、人類を生き残らせるためには、人々を密かに間引くための、システムが不可欠だった」
僕は堪えきれず、応えるはずのない死者に尋ねる。
「だから、君は、人々の命の数を調整するために、磁場街を回っていたのか」足が無く移動できない自分の代わりに、僕を伝令として使ってまで。「そうやって僕を介して、無作為に大量の殺人を行わせたのか」
僕はようやく知った。トリヴィアが提案していた薬剤の素材として使われたのが、ジギタリスや、ケシなど毒性が極めて高い植物だったことを。
それらは、不整脈の改善や鎮痛剤に使われる一方、使用量を誤れば、簡単に致死量に達するものばかり。故に、彼女が伝えてきた薬理は、大多数に一定の効果は示しつつも、ごく少数の者たちにとっては、強い拒否反応を示す劇薬だった。
まるで僕の言葉が届いたかのように。トリヴィアは頷いて続ける。
「そう。そうして私は、街に住まう人の数を調節するため、街の健康状態、衛生レベル、人口比率を見極め、適したに配合量を調整し、致死レベルを調整することで、統計的に一定数の人間が死ぬように調整していたの」
僕は理解する。その事実をそれぞれの街の為政者だけは知っていたはずだと。自分たちが取引していたものが、薬ではなく毒だということを十分に知った上で、必要悪として、その知恵を拝借していたのだ。
それが彼女の――この文身を冠する一族の役割だと、トリヴィアは語った。情報という通貨の中に毒を混ぜ、街中に放つことが、その使命なのだと。
「薬理を司る、ヒュギエイアの杯。だけど私のその器には、いっぱいの毒で満たされていたの」
同時にその毒は、永住民にとってだけでなく、彼女にも牙を向いた。
「私は、結局、人々を間引きするような、その行いに耐えることはできなかった」
当然だ。大量の人を殺めながら旅をする生き方ができる者など、ほとんどこの世にいないだろう。
彼女はずっとずっと、文身に対する、拒否反応を患っていた。本来ならば、耐えられないほどの痛みをずっと。
その痛みを緩和するため、トリヴィアは、野生の動物たちを追って知識を増やしていた。多くの知識を手に入れることで、自分の文身のなかの記憶を希釈させ誤魔化していたのだ。
だけど、軽度な失調だけで収まっていたその不和は、次第に身体にも現れてきた。図らずも僕と会った時から。
そのタイミングは、偶然かもしれないし、あるいは、僕が意図せず、彼女の精神に何らかの影響を与えてしまったのかもしれない。
なぜなら、僕の額の杖の文身と、彼女の杯には、やはり神話の通り、深いつながりがあったのだから。
「ねえ、コラクス、私、あんな人を沢山殺したんだから、自分の番が来たときには、なにも言い訳しないで、潔く死のうって、ずうっと考えてたの」
膚の中の彼女はそこで初めて仮面の顔を崩す。歪んだその表情は、後悔と懺悔。
「でも、死にたくない、死にたくない、死にたくなかったよ」
トリヴィアは僕の膚の中で、それからずっと、か細い声で泣き続けた。
彼女を看取ってからは、僕は再び孤独な旅を迎えることになった。だけど、だからこそ、僕は、旅を続ける必要があった。
トリヴィアのヒュギエイアの杯の文身の記憶をくまなく調べると、その記憶の中に、僕の文身と同じ光景が現れたからだ。あの、皮を剥ぐアポロンの、あの巨大な浮彫の姿が。
つまり、このふたつの文身は、共通の文身から派生したものだということだ。
その理由について、記憶の中のトリヴィアは語る。
「数百年前の私たちの先祖は、ある情報をバラバラにして、各々の文身の中に情報を封じたの。もしも後世で意見が一致することがあったとき、累代文身を結集させ、一つの知識に集約することで、ある方法で人類を助けられるように」
そして、細かく分かれた文身たちは、約三百年のあとわずか三つのピースに集約された。僕の母のアスクレピオスの文身、トリヴィアのヒュギエイアの杯――
そして僕が目指す場所に保存されているという、”烏の羽の文身”のみっつに。
僕は、彼女がトリヴィアと名乗った理由を理解する。
トリヴィアの語源は、三つの道が結びつく場所から。彼女は旅をしながら、僕に少しずつ、断片的に真実を伝えてくれていたんだ。
だが肝心の、なぜ先人たちが、累代文身に知識を分け、判断を保留したのかは不明のままだった。その理由を明らかにするためには、僕はエーゲ海に浮かぶ小島を訪れなければならない。
そうして、トリヴィアの死後も旅を続ける僕の目の前には、あらゆる人々の死が降り掛かってきた。
皮膚を売る一族に出会った。何もできず、生皮を剥がされる人々を見殺しにした。街に入れないまま、衰弱死する子どもたちを何度も見た。数え切れないぐらいの、皮膚病で身体を病んだ人々を看取った。
そうした無念の死を迎える人々の裏には、永住民たちの無関心と排他的な振る舞いにあった。だけど、かれらの非情な行いは、決して悪意が本当の原因ではなかったと僕は思う。
その根底に流れていたのは、おそらく、交わらぬ他者への不安感から。
ヒトは何も知らない相手を、無意識に敵だと思ってしまう生物なのだと思う。だから、何の他意もなくとも、見知らぬ他者に対して、人間はその一挙一動に、勝手に悪意を感じ取ってしまう。
僕は放浪者として、死にゆく多くの人間と膚を重ねて触れ合うことで、ヒトの性について、次第にそう結論づけていった。
故にそう理解した僕だけは、死んでいったかれらを受け入れようと心に定めた。それが、死への旅路の何よりの餞になるはずだと。
僕の贖罪の道は、それしか残っていなかった。たとえ知らなかったとしても、訪れた街に死を振りまいていた僕ができることは、死者の無念を回収していくことぐらいだったからだ。
だから僕は、誰も継ぐ者がいない思いを引き継ぎながら旅を続けた。祈りを重ね、かれらが身に宿した行き場のない、誰にも語られることのない不帰の客の文身を、この身に宿し続けた。
文身の面積が増えれば増えるほどに、皮膚の感覚は鋭敏になり、磁場の波を捉える精度が上がって、一日で移動できる距離が少しずつ増えていった。まるで、かれら死者に誘われているように。
そうして旅を続けるうち、まるで、遺骸が無残に埋葬され続ける無縁墓の丘のように、僕の皮膚は、本来の膚の色がほとんど見えなくなるぐらい、さまざまな文身で真っ黒に染まっていった。
アルファベット、ローマ数字、知らない文字、実在しない生物、異国の神々、天使たち、揺らめく炎、輝く水滴、錆びた剣、装飾が施された槍、細やかな模様の盾、きらびやかな宝石、乱雑に積み上げられた本、水たまりに沈んだ煙草、刀、牙、弓、鎧、勇猛に戦う人々、狼の群れ、草を喰む鹿、疾走する馬、肉と骨に解体された家畜、一輪の花、蓮華、山茶花、百合、嗤う女、慟哭する男、無邪気に駆ける子供、古代文字の組み合わせ、曼荼羅、魔法陣、神聖幾何、手指で象る印契、祷る両手、人体図、心臓、肺、脳、頭蓋骨、乳房、目、天球、蝶、太陽、月の満ち欠け、あらゆる形の、あらゆる文身、そのすべてに、過去から現代へと連なる人々の生が流れていた。
その多様な記憶を受け入れたせいで、良くも悪くも特定の文身に囚われることなく、トリヴィアのように文身に操られることはなかった。
でもそのかわり、様々な記憶が交錯する中で、どれが自分の記憶で、どれが他人の文身なのか混乱するようになっていった。
荒野の途中、それまで海なんて見たこともなかったのに、突然、急に潮の匂いが鼻をつき、自分が海辺で育った人間であるかと思ったり、かと思えば眠りに入るすんでのところで、ある少年の磁場街に侵入しようとして守備兵に撃ち殺される記憶が蘇り、胃酸と血の味が口の中いっぱいに広がった。
その頻度は最初は数週に一回から、次第に週に一回、三日に一回、そして今では日になんども訪れるようになっていき、次第に記憶の中で死者が話しかけてきて、僕もその言葉に応えるようになっていった。
このままだとやがて僕はかれらと同じ、黄泉の国へと誘われてしまうのだろう。
だけど、まだ、その時ではない。
# 8
アトラスと別れてから実に七年後、僕はついにデロス島にたどり着いた。アポロンの生まれし聖域に。
海辺には小石に混ざってレンガの破片が散らばっている。この地が最盛期を迎えていたのは、二千年以上も前のことだ。今では棕櫚の木の一本すら生えてはいない、荒涼とした島。この地に訪れるものなど、僕以外にありはしない。
紀元前、さまざまな都市が参画したデロス同盟は、この地に金庫や重要な記録を保管した。陸地も遠く離れているからこそ、古来から重要な記録の保存場所に選ばれたわけだ。
聖地とは、古来から伝わる、巨大な記録装置だ。
訪れた者が、時間と空間を跨いで、感覚が再構成され、あらゆる記録を追体験できることが、聖地である条件のひとつ。
だが、それでも、すべての記録を永遠に保存できるわけではない。
僕は、横倒しになっている石柱の窪みを撫でてみる。真っ黒に染まった掌の上に舞う、白い砂を凝視する。この白亜の建物も、作られた当初は極彩色で彩られていたと伝わっている。いずれはこの巨大な石柱すらも、数万年後には見る影もなくなってしまうのだろう。
今なお存在する記録より、この時代まで生き残らなかった歴史のほうが圧倒的に多い。
僕は文身の標に従って、その絶えたはずの歴史が眠っている、地下の至聖所に足を踏み入れる。五重に閉じられた地下扉の下を降りていくと、だだっ広い空間が現れる。
四方の壁には、厚さ五十センチの鉛の板が埋められ、宇宙から照射してくる、あらゆる災害を退けるために。さらに地下深くには核廃棄物を転用した原子力電池が埋蔵されており、数千年はここの設備の維持が可能なはずだ。
当然、今は誰もいない。両親のさらにはるか前の代には、既に捨て去られていたはずだ。
誰もいない最下層の、伽藍堂の空間に降り立つ。僕を天から見下ろしているのは、何千回と文身の記憶の中で見た、あのアポロンの浮彫。
その直下には、三脚の鼎の椅子。
そして、さらにその上には、壜に秘された、一つの人皮。中に秘されているのは、黒い羽の文身。
僕は、その文身を迷うこと無く移植する。
すると、新参者を出迎えるように、僕の文身の中の人々の顔が浮き出てくる。ここに来るまで会ったあらゆる人々の顔が溶けあった姿が脳裏に浮かぶ。
途端に、まるで自分が神話世界に招かれるような感覚が訪れる。不意に、アスクレピオスが夢の中で人々を癒やしたという神話を思い出す。
朧が少しずつ、一人の女の姿を象る。
「半人半獣のマルシュアースは、神であるアポロンに勝負を挑み、その傲慢さ故に負けた。そして、生きたままを皮を剥がされたんだって」
虚空の口から響く声は、いつかの楽しそうな声――あの、トリヴィアの声色。
「この浮彫は、その逸話にあやかって、神に挑戦しようとした人間の戒めとして作られたの――ねえ、コラクス、私があなたと会ったとき話した、人が歩みを始めたきっかけについて覚えている?」
忘れるわけがない。僕は青銅製の椅子に座って、思い出の中の彼女と真摯に向き合う。
トリヴィアは満足気な顔で話し始める。
「もし歩き始めた時代が、私たちの生きる今のように、容赦ない紫外線に晒されるような時代だったとしたら、二本の足で立って、なるべく日光に当たる体表面積を少なくでき、さらに地面からも離れるため、地熱の影響もかなり防げるのは、生存にかなり有利だったはず。数百万年前のやがて人類に連なる種は、乾燥が極端に進んだ気候変動のさなか、砂漠化した世界に点在する森林を求めるために移動し、種としての記録を紡ぎ続けた――そう、私たちは、ただ立ち上がっただけじゃなく、アフリカから出て移動し続けた。貴重な日陰を求めてね」
トリヴィアは言う。なぜ人が素早く立ち上がり、歩くことができるようになったのか、それは、放射される宇宙線が、DNAに影響を与え、突然変異が起きる頻度を増大させた結果だと。その結果、人類の進化の速度を加速させたのだと。
「もうわかるでしょ?つまり、過去に何度も起きたはずの地磁気の乱れのおかげで、ヒトは進化してきたのよ」
なんという皮肉だろうか。この死の世界を齎した磁気の乱れにこそ、何万年もかけて、ヒトをヒトたらしめてきたものだなんて。
「それだけじゃない。過去の超磁気時代を生きた人類は、その皮膚に現生人類よりも、遥かに優れた形質を宿していた」
まだ磁場が安定していた頃、ある人類学者がヒトの化石の近隣に、強磁性の金属をすりつぶして脂肪と混ぜ合わせた塗料を発見した。さらに、スピン共鳴法によってその化石を解析したところ。かれらは皆、その塗料を使って、ボディーペイントを施していたことが判明したと、彼女は僕に伝えてきた。
「さて、なぜ、かれらはそんなものを、膚に塗ったと思う?」
僕に楽しそうに問うてくる彼女。まるで昔、一緒に旅した時とまったく同じように。
「それはね、磁場を少しでも強く、捉えるため。かれら私たちの先祖は、皮膚の中に共生していた微生物を使って、磁場をエネルギーに変換していたの。信じられないかもしれないけど、現生人類の祖先である大昔のヒトは、皮膚全体が電磁舟だったのよ」
彼女は言う。大昔のかれらには、今は失われたとされる第六の感覚、磁覚が存在したのだと。
僕は思い出す。旅を続け、文身を増やせば増やすほどに、より鋭敏に磁場を捉えることができるようになっていったことを。
「直立し歩き出せば、日光を最小化できると同時に、地球を這う磁束を受け止める面積も最大化できる。過去に存在した人類は 突然変異によって超磁気時代に最適化して、不毛な地を生き延びた」
「だけど……」と僕は思う。だけど当然だが、そんな能力をもった現生人類は存在しない。
だとするなら、なぜ、地球上にかつて存在したヒト属の中で、唯一、現生人類だけが生き残り、そのようなすばらしい形質を獲得していた、他のすべての種は絶滅したというのだろう?
僕を焦らすようにトリヴィアは黙る。夢の中の彼女は本当に本物にそっくりだった。
その幻が、やっと口を開く。
「――しかも、ヒトの進化はそこで止まらなかった。今回の超磁気時代に入った直後ぐらいに、北極付近で発見された、数万年前のヒトのミイラが見つかったの。既に絶滅した種である彼の身に残っていた皮膚を解析したところ、磁気にエネルギーに変える機構の他に、一つの事実がわかった」
瞳を大きく開き、楽しげに嗤うトリヴィア。
「皮膚に共生していたその微生物のなかに、人間の触覚を処理する領域と、記憶や感情を処理する感覚、特に触れた対象に係る感情を想起する情動的触覚とが密接に連携しあう機能が生み出されていた――つまり、かれらは人類は自分が死んだ後も、自身の移動した記録を宿した皮膚を、子孫に受け継いでいくことができた。そうして、自分の道程を後世に託しながら移動し続けたの」
生物は己の生き方を見合った生態的地位を獲得する。鳥は翼を、陸の獣は牙や爪を、魚は水中での呼吸を最適化させることで生き残る。
そして、人類は皮膚を進化させて、過去の超磁気時代を生き延びてきた。
「かれらは累代と呼ばれる、その形質を持っていた。この性質をもとに作られたのが、累代文身のインクに使われる微生物、ムニミメリア。これこそが、今の世界で誰しもがその身に秘めている累代文身の中身。あなたがインクとして使っているムニミメリアは、決して人の力でゼロから生み出されたわけではなく、大昔、かれらの皮膚の中で共生していた微生物なの」
超磁気時代以後に開発された累代文身。だが、累代文身は、過去の超磁気時代を乗り越えるため、過去の人類にあった仕組みを呼び起こしたに過ぎない。
そして、そのホモ・サピエンスよりも遥かに進化した人類の名は――
「移動することを定められたヒト――遊走人類」
僕はついに我慢できなくなり、幻の彼女に問う。
「ならなぜ、現生人類よりも優れていたはずの、その遊走人類は滅びたんだ?」
暗闇に中にトリヴィアは微笑みを象る。
「その理由は遊走人類が、物体も空気も光も媒介とせず、いかなる遮蔽物をも関係なく、たとえ宇宙の端と端の間でも瞬時に相互作用する、量子作用を身体の中で巧みに使っていたから。かれらは人間が最後まで解明できなかった未知の経路を通って、トライアンドエラーを共有し、個体間の遺伝子同士を相互作用させた。そうして、遊走人類は急激に進化した」
僕はいつかのトリヴィアの授業を思い出す。自然界は、量子の複雑な仕組みすら、時として利用するということを。
「かれらは、皮膚に宿る微生物による量子もつれによって、同じ皮膚を、同じ累代を継ぐ者たち同士で情報を相互に伝搬させていた。そうして、離れた個体同士が環境における成功と失敗を共有し、普通の生物ではありえない速度で環境に適応していったの」
トリヴィアがいつの日か語った。自然界は、さまざまな支流を介し、局所的に生き残った個体から、再び種を新生させることができるのだと。
そんなのありえない。だが、どうしても否定できない。
なぜなら実際に僕らは、そうした動物の実例をあまた見てきたから。あの動物たちはきっと、実証実験のために生み出されたんだ。
「それだけじゃない。遺伝子の変異だけでなく、かれらは自分たちの記憶すらも互いに共有していたの。遊走人類は、時間と空間を超えて変異を取り込んで、恐ろしいスピードで種を進化させた」
と、そこで、トリヴィアの語りが途端に小さくなる。
「――けど、その行いが同時に滅びへの速度も加速させたの。過剰に環境に適応しすぎたかれらは、むしろ些細な環境の変化に対して、非常に脆くなってしまった」
巨大な牙を持ちつつも、寒冷化する地球の変化に対応できずに滅びた剣歯虎や、支えきれないほどの巨大な枝角を得て絶えた鹿のように、進化を進めすぎて、絶滅した種も地球の歴史の中には数多く存在する。
トリヴィアは言う。遊走人類もそうした、進化の袋小路に陥ったひとつに嵌ってしまったのだと。
遺伝子情報を共有し、進化していくことは、加速的に進化を推し進めることができる反面、個体間の遺伝子のバリエーションが極めてゼロに近くしてしまう。結果、多様性が消失し、急激な環境の変化――過去の超磁気時代の終焉に対して、極めて脆弱になったのだと。
「そうして滅びた遊走人類とは反対に、現生人類は、過去の超磁気時代に築いた皮膚の形質をすべて捨て去った、磁場によるエネルギー変換もなにもかもね」
ホモ・ミグラティオとホモ・サピエンス、両種の進化の方向性は、皮膚の機能を高めるか無くすかで、大きく袂を分けた。
「そして、現生人類だけが生き残った」
僕の言葉に、トリヴィアは無言で頷く。
「超磁気時代を生き続けた数百万年の旅路を越えた恩恵は、結局今の現生人類には、二足歩行だけしか残されてない。ここ何万年間の安定した磁場が、せっかく獲得した人類の皮膚を特性を、遺伝子の奥底に追いやってしまった」
そこでトリヴィアは、自身の上半身をそっと撫でる。
「――だけど、現生人類にもまだ、遊走人類が袂を分かつ前の、太古から紡がれた歴史が宿っている。そのときの記録は、ゲノムの奥底にしまい込まれただけで、決して消失したわけじゃない――私たちのこの身体もね、ある意味では、太古の時代を記録してきた、ひとつの聖域なんだよ」
そうして、深く呼吸をする彼女。「冷凍保存されていたそのミイラと、私達の遺伝子を組み合わせることで、古代から蘇らせた生物はふたつ。ひとつは大昔にヒトと共生していたムニミメリア――」
そして、歪に変形した指を、そっと僕に向ける。
「そして、もう一つはあなた。もう気づいているでしょ。あなたは、喪われた人類、発見された古代の皮膚と、現生人類の遺伝子を解明することで作られた――唯一、復活に成功した遊走人類」
アポロンの息子、医神アスクレピオスは神話の中で、医術を研究する者の究極の夢、死者の復活をなした。
トリヴィアは言う。「ここで研究していたのはね。過去の超磁気時代に適応し、故に滅びた、人類の復活なの」
僕の父と母、いや、更にその前の世代からずっとかれらは、大陸全体を使った、壮大な動物実験をずっと繰り返していた。
そして、僕の両親はおそらく、ここ以外の実験施設で生き残った多くの研究者の末裔と共に、アスクレピオスの杖の文身に残る部分的な情報を紐解き、僕を復活させた。おそらく既に失われた、父親に文身にその設計図の情報が多分に含まれていたのだろう。
そして、かれらは各地をまわり、実験のため、さまざまな動物を放牧していた。その生物のリストには、ヒトである、僕も含まれていたんだ。
だが、復活できたのは僕だけ。たった一個体ではなんの検証もできない。だから、より巨大な施設があるこの地をかれらは目指していたんだ。
だとして、僕の父と母はなにを望んでいた?僕に何を託したんだ?
「なあ、教えてくれよ。僕を生み出した人々は、一体何がしたかったんだ?」
僕が嘆くように問うと、トリヴィアは断言する。
「現生人類たちの治療」
その答えに対して、なにも言えないでいる僕に、彼女は続ける。
「ここに残った設備と、あなたの知識と身体があれば、本当の意味で遊走人類が復活できる。あなたの皮膚を培養して、ここの設備と文身の知識を使って新たなムニミメリアを作り出し、その微生物を他の現生人類に入れれば、皮膚の中でかれらの遺伝子情報を編集し、現生人類は遊走人類に跳躍する」
「この世界の現生人類を全員、僕の仲間にするっていうのか」いったい、何のために?
「なぜなら、累代文身には遺伝子情報だけじゃなく、文身に記された人々の記憶をも共有できるから。つまり、あなたの身体の情報をもとにすれば、この世界の知識断絶をも是正できるの――あなたもここまで見た中で、凄惨たる街の社会を見てきたでしょう?」
忘れるわけがない。永遠に覆されない情報格差によって苦しみ続ける人々。僕が殺してしまった人々。
遊走人類と共通祖先を持つのならば、確かに現生人類にも、伝搬する累代を身に宿す素質はあるのだろう。
だが、遊走人類は、現生人類と枝分かれした種、あくまで従兄弟同士のような存在だ。だから現生人類の遺伝子情報だけでは、遊走人類のような皮膚は持つことができない。
そして、遊走人類はここ何万年もの間、世界中でただこの僕だけしか存在しない。
僕の皮膚から生み出した微生物を使った文身を、かれらの皮膚に彫れば、現生人類を遊走人類に上書きできる。だけど――
「それは、過去の人類と同じ轍を踏むことになる」
僕の脳裏に、巨大な浮彫の、皮を剥がされ苦悶にあえぐ獣人の顔が飛び込んでくる。
僕の皮膚から生み出した共通祖先のムニミメリアを世界中にばらまき続ければ、なるほど確かに、何百年か先には、知識と遺伝情報の格差はなくなるだろう。
だが、共通祖先となるムニミメリアがひとつならば、文身を宿した全員が同じ運命のもつれのなかに沈み込む。なぜなら、同じ知識、同じ身体、同じ速さでの進化を体験することになるのだから。
トリヴィアは僕の言葉をあっさりと肯定する。
「そう。だからどうするかは、あなたが決めて」
無限に繋がるような深い闇の中で、僕は沈黙する。その決断のためには、最後になんとしてでも、訊いておかねばならないことがある。
「きみたちは、僕にいったいどうしてほしい?」
問うた瞬間、トリヴィアのずっとぼやけたままだった輪郭が、途端に明瞭になり始める。
「私の、私たちの生きた証を後世に残してほしい」
重なり合う声が谺する。
古代のギリシャの死生観において、死とは、忘れ去られることを意味した。死なないはずの神々が唯一恐れたのは、人々から忘れられること。
そう、僕らにとって、”命を永らえさせる”のは、決して身体の治療を意味しない。
僕はここまで人々の治療のために旅をしてきた。そして、これからは、ガウスやアトラス、そして、ここまでの旅路で僕が宿してきた、名も知らぬ人々たちの物語を伝えるために。僕と同じ知識を、この世界の人々に託さなければならない。
「ならば、僕はこの文身を伝えるために、また旅に出なければならない」
なぜなら、僕は、放浪者として生まれ、文身師として育てられたのだから。
僕は目を開けて、ようやく立ち上がり、浮彫に向かって、高く祈りを掲げる。文身を授かった人々、殺してしまった人々、そして、かつて栄えたはずの、数え切れないほどの人類に向けて。
やっと僕は、父と母から託された自身の役割を理解する。
ふたりが僕に付けた名は、コラクス。
英語ならば、レイヴン。アポロンの遣わしたワタリガラスのことだ。神の伝令を掌る、御使の名。
そして自然界のワタリガラスは、遺伝的にふたつの系統が一つになり、分化が逆戻りした種だ。系統樹の枝が再び合わさり、ふたつの系統、異なる種へ分化する途中に隘路で出会った鳥。
ホモ。サピエンスと、ホモ・ネアンデルタールシスが過去に交わったように。あるいは、ホモ・サピエンスとホモ・ミグラディオの行く先のように。
そしてまた、ギリシャの古来の神々が名と姿を変え、身を転じながらも習合して、後世の異教の物語の中に身を潜めながらも、今まで生き残ったように。
僕は額に宿したケーリュケイオンの杖を文身をゆっくりとなぞって、最後、アトラスに言われ、自身で彫った翼を親指で強く捺す。
この文身の意味するところは、旅立ち、生命、平和――そして、伝令。
僕が今から行おうとすることは、言ってみれば、人類にとっての賭けだ。種としての生存をかけた、しかも一度は負けてしまった、分の悪い賭け。人々に画一的な知識を与え、多様性をなくしてしまう愚かな行為。一本道になった人類のその果てに、はたして、どのような未来が待っているかはわからない。
だけど、トリヴィアがいつか喝破した通り、医療の本質は自然に反する行為だ。伝令を治療とみなすならば、これもまた宿命なのかもしれない。
僕はこれから、自身の皮膚を使って人類を治療していく。その中に、旅の中での人々の記憶を込めて。その行為が人々を救うのか、あるいは滅ぼすのかはわからなくとも。
それでも僕は、この膚と触れた人々との思い出を、できるだけ永く守っていきたい。たとえエゴと言われようとも、ギリシャの神々の物語のように、数千年後の世界にも語り継がれるぐらい、強い物語にかれらを再び生まれ変わらせることが、僕の最後の望み。
だからもし、あなたにこの顔なき者たちの叫びが届いたのなら、叶うことならば、できれば、こう願ってほしい。
どうか人類の中で、かれらが少しでも長い間、生き永らえることができますように。
了
# 参考文献
旅する地球の生き物たち ソニア・シャー
直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足 ジェレミー・デシルヴァ
皮膚、人間のすべてを語る万能の臓器と巡る10章 モンティ・ライマン
サバイバルする皮膚 思考する臓器の7億年史 傳田光洋
宇宙災害 片岡 龍峰
地磁気逆転と「チバニアン」 地球の磁場は、なぜ逆転するのか 菅沼悠介
量子力学で生命の謎を解く ジム・アル=カリーリ,ジョンジョー・マクファデン
動物たちのナビゲーションの謎を解く―なぜ迷わずに道を見つけられるのか デイビッド・パーリー
進化の教科書 カール・ジンマー=ダグラス・J・エムレン
エーゲ 永劫回帰の海 立花隆
アスクレピオスの杖とヒギエイア(ハイジア)の杯 古川明
古代ギリシャのリアル 藤村シシン
聖地の想像力なぜ人は聖地をめざすのか 植島啓司
この世界が消えたあとの 科学文明のつくりかた ルイス・ダートネル
文字数:46695
内容に関するアピール
第六期で自分が書いた作品を読み返すと、”誰かに何かを託すこと”をテーマにした作品が多いことに気付かされました。
そのため最終の作品は、神話の物語にSFの物語を絡ませて、託すことが生きる上で、または死ぬ上で非常に重要となった世界を書きました。
縦書きPDFの方が読みやすい方はこちらから
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文字数:220