そばにいる怪
スマホが通話を求めて振動したのは真夜中の午前二時ごろだった。いつもはメールで連絡してくる佐伯教授からだった。
「篠原君、こんな時間に、すまない」
「大丈夫ですよ、先生、まだ起きてましたから」
「そうか」そう言ってから、しばらく、沈黙が続く。教授の息遣いだけが聞こえてくる。僕のほうから問いかけた。
「どうしたんですか? 先生が通話の電話をかけてくるなんて、よっぽどの事ですよね」
「私は奴を捕まえた」
「え? 何を捕まえたんですか?」
「前に話したこと、覚えてるか?」
「あの話ですか? 見えない犬のような狼のようなものに追われている、という」ひと月ほど前に教授から聞かせれた奇妙な話を僕は思い出した。
「私は奴らが見えるようになった。そして、罠を仕掛けて奴を捕獲することができた」
「その奴は、今、そこに」
「ああ、すぐそばにいる。私のことをじっと睨みつけてるよ」
「写真を送ってください。どんな姿をしているのか僕も見たい」
「ダメなんだ」
「ダメって、どういうことですか?」
「写らないんだよ。コイツは私にだけしか見えないようだ」
「そんなことってあるんですか?」
「私を疑っているようだね。幻想に悩まされ頭がいかれてしまった教授だと、思っているんだろう」自分を嘲笑するよように教授は言った。
「いえ、そんなことないです。僕は先生の言うこと信じてますよ」しかし、僕はこのときはまだ教授の話を信じ切っていはいなかった。
そのとき、今まで聞いたことのない音がスマホから聞こえた。人間の声ではない。獣や鳥の声でもない。甲高い音と低い音が混在して、耳にするだけで背筋が寒くなるような音だった。
「コイツは仲間を呼んでいるようだ」教授の声が異音の隙間から聞こえてくる。
それから、いくつもの衝撃音が聞こえて電話は切れた。僕は真夜中の誰もいない道を自転車で突っ走り佐伯教授の研究室に向かった。
佐伯教授の部屋は破壊されていた。ドアは蝶番から引きちぎられ通路に投げ出されている。部屋の中の壁は力任せにハンマーで叩いて出来たような穴がいくつも穿たれている。机は床に叩きつけられたかのように変形して転がっている。書棚も倒されて床一面に本が散らばっている。そして、佐伯教授の姿は見えない。そんな見るも無残な状態の研究室から僕は佐伯教授が残した手記を発見した。
篠原君、これを読んでいるということは、私は失踪したか、奴らに捕まってしまったんだろう。
手書きのノートに記しておくことにする。電子データにすると奴らに感づかれてしまう恐れがあるんでね。
なぜだか分からないが、奴らはネット上の電子データを自由に操ることができるようなんだよ。ちょっと前に研究室のパソコンに保存しておいたデータをめちゃくちゃに壊されたことがある。
奴らとしか言いようがない。考えれば他にいい呼び名を思いつくかもしれないが、今のところは奴らと呼ぶことにする。私が奴らのことに気がついたのは今から三十五年前の十歳のときだ。
私は交通事故にあった。横断歩道を歩いて いるときに右折してきた車にひかれたのだ。もちろん、私は青信号で渡っていた。私を引いた車はそのまま逃走して、警察は捕まえることができなかった。
私は十メートルほど飛ばされた。そして、頭を道路に激しく打ち付けられて十日間ほど意識不明の状態が続いたらしい。
轢かれて十メートルも空を飛んだときの記憶は全くない。頭を強打した痛みもなかった。意識が回復したとき、朝目覚めるように私は病院のベッドで目を開いた。
奇跡的に骨折することもなく強い衝撃を受けた脳にも異常が認められなかったのですぐに退院することができた。
ちょうど夏休みだったこともあり家で療養して九月一日からは何事もなかったかのように普通に登校した。
異変は十月になったころに感じられた。
誰もいない部屋で一人でいるとき何かの気配を感じる時がある。獣のような臭いがして荒い息遣いを感じる。咆哮のような声が聞こえる時もある。親に言っても友達に言っても担任の教師に言っても、誰にも信じてもらえなかった。
私は、できるならば奴を捕獲したいと計画している。目に見えない奴をどうすれば捕まえることができるのか。私は何年も考え続けた。幸いなことに奴は私に危害を加えるつもりはなさそうだ。今のところは。
しかし、何か目的はあるのだろう。こんなにも長い時間、私に付き纏っているのだから。私はそれを奴に問いただしたい。
奴と言葉が通じ合うとは思えないけどね。捕らえることができたとしても、奴は普通のゲージに閉じ込めても逃げてしまうだろう。この世界とは異なる次元の抜け道を自由に行き来できるようだから。
最近、私はある考えが頭から離れない。もしかしたら、私は奴らと
佐伯教授の手記は唐突に終わっていた。
僕は警察に連絡した。近くの交番からきたおまわりさんは、研究室の惨憺たる状況を見て、暫くのあいだ呆然と立ち尽くしていたが、気を取り直して本署へ連絡した。数分後、複数のサイレンの音が聞こえてきて警察官が大量にやって来た。僕はありのままを警察に伝えた。佐伯教授の手記も警察に渡した。果たして警察はあの手記の内容を信じるだろうか?
警察から解放されたのは朝の七時ごろだった。僕はとりあえず家に帰った。眠ろうと思ったけど眠れない。ラジオのニュースでは、佐伯教授の研究室が何者かに荒らされて佐伯教授は行方不明になっていると伝えている。残されていた手記については触れられなかった。警察は手記の公表は控えたようだ。僕は第一発見者の大学院生になっていた。
十時ごろ研究室にいってみると、警察の捜査のため立ち入り禁止になっている。仕方がないので図書館で調べ物をして午後一時ごろ学食に行った。日替わりランチを食べたら今ごろになって睡魔がやってきた。今日はもう自宅に帰って寝てしまおうと思って立ち上がると、目の前にやさぐれ感の漂う中年の男が立ち塞がった。
「佐伯研究室の篠原君だね。ちょっと話を聞かせてくれ」やさぐれ男はそう言いながら警察手帳を見せた。
「僕が知っていることは、もう全部話しましたよ」と僕もやさぐれ感を出して言ってみた。全然出ていなかったようで、やさぐれ刑事は紙片を僕に見せて言った。
「これについて詳しく聞きたい」
佐伯教授が残していった手記だった。睡魔は退散した。
「先週の日曜日の夜、男性の死体が発見された。この近くの公園で」僕とやさぐれ刑事は学食で話をすることにした。男は田所という名前で階級は警部補だった。
「全身を切り刻まれ肉体の一部も損失している」
「この近所で。そんな事件知りませんでした。僕はテレビのニュースは観ないし、新聞もとってないので」
「報道はされていない」
「え、どうして。そんな酷い事件なのに。犯人は捕まってないんですよね。だったら地域住民に気をつけるように警告しないと」
「この数年のうちに犠牲者は他にもいる。犯人は人間じゃない」
「え、どういうことですか?」僕の頭は混乱した。
「報道規制が敷かれている。上からの指示だ」
国の強い力が働いているということか。でも、いったいどうして
「理由は聞くな。俺も知らない」
「その手記に書いてあること以外、僕もあまり知らないんですよ、佐伯教授のことは」
「君と教授はどんな研究していたんだ?」当然と思っていた質問がきた。僕が答えようとすると
「難しいことは分からん。簡単にひとことで言ってくれ」仰せの通りに僕は答えた。
「多次元世界についての研究です」
「つまり、佐伯教授に付きまとっていた見えない怪物は、多次元世界の生物ってことか」
「はい、そうです。佐伯先生は、そう考えていました」
「その怪物を捕まえることはできた。が、仲間が助けに来て教授も連れていかれたってことか」
「そんな話、誰も信じないですよね」
「俺は信じるよ。また連絡する」
そう言って田所警部補は帰っていった。僕も帰ることにした。
家に帰り着いたのは午後二時ごろだった。睡魔はまだ退散したままだったけど、少しでも寝ようと思ってベッドに横になって目を閉じた。でも変な奇怪の夢を見て三十分ほどで目が覚めてしまった。もう眠れそうもなかったので考えることにした。
田所警部補によると、ここ数年の間に六人の犠牲者がいるらしい。佐伯先生だけが何故生きたまま連れていかれたのだろう?奴らにとって佐伯先生だけは利用価値があるっていうことか? いったいどんな利用価値なんだ? 佐伯先生の両親は、先生が交通事故にあってからすぐに行方不明になっている。あの交通事故は、もしかしたら不慮の事故ではなく、佐伯先生は故意に轢かれたのではないのか? そんな考えが何故か突然僕の頭の中にひらめいた。突拍子もない考えは続いていく。もしかしたら佐伯先生は、こちら側の世界の人間ではなくて、奴らと同じ次元の人間なのかもしれない。佐伯先生の両親は、奴らの世界からこちらの世界に逃げてきた。奴らから見たら裏切り者なのかもしれない。佐伯先生は何も知らされずに育てられて、奴らから狙われた。まさか、そんなことある筈がない。僕は、ありえない考えを振り切るように頭を強くふった。佐伯先生が子供のころの交通事故から三十年以上も経過してるんだ。今になってどうして・・・・・・。そうか、奴らの次元の世界では時間の進み方が違うのかもしれない。
どちらにしろ、このまま何事もなく終わるとは思えない。佐伯先生はこちらの世界に戻ってくるような気がする。別の姿をした生き物になって。その姿が先生の本来の姿かもしれない。ダメだ。妄想ばかりしてしまう。もっと現実的なことを考えないと。これから僕はどうすればいいのだろう? 指導教官の佐伯先生がいなくなったのだから、この研究室で今の研究を続けるのは困難なような気がする。違う研究室に移って研究課題を改めて見つけて・・・・・・、そこまで考えたとき、獣のような咆哮が聞こえた。
どうやら僕にも奴らが見えるようになったようだ。
奴らの目的は何だろう? こちらの世界を支配・征服しようとしてるのか? 奴らはどんな姿をしているんだ? 奴らの知識レベルはどれくらいなんだろうか?全然ダメだなぁ。僕は奴らについて何も知らない。もっと佐伯先生に奴について聞いておくべきだった。まあ、いまさら仕方ない。奴が僕を襲うというのなら迎え撃つしかないか。
僕は田所警部補に連絡した。他に頼る相手が思いつかなかった。
「田所さん、次の犠牲者は僕になりそうですよ。僕の言うことを信じてくれるのなら今から僕の家に来てくれませんか?」
「急ぐのか?」
「はい、できる限り大至急お願いしたいです。間に合わないかもしれない」
「すぐ行く」
「あ、ひとつお願いがあります」
「なんだ?」
「拳銃、持ってきてください」
「わかった」
田所警部補は電話を切ってから十五分ほどでやって来た。僕は自分の考えを伝えた。
被害者たちは同じ夢を見てしまった。それは、夢ではなく現実だった。そこに生息している奴らに見つかった。奴らは自分たちの次元世界に迷い込んだ人間を、面白半分に追いまわして殺した。その面白さを知ってしまった。奴らは遊んでいるだけなのかもしれない。
僕も今日の午後帰ってきて三十分ほど昼寝をしたとき、その夢を見てしまったんですよ。そして、奴にみつかってしまった。
「どんな夢だ?」
「それは聞かないほうがいいですよ。あなたも夢を見て奴にみつかってしまう」
僕は田所警部補に自分の妄想を全部話した。
「その異次元の奴らが大挙してやってきて、こちら側の人間狩りを楽しんでいると、というわけか」
「大挙してかどうかは分かりませんけど」
「それを止める方法は?」
「全くわかりません」
「妄想するなら、そこまで妄想しろ」
僕と田所警部補は佐伯先生の自宅に向かった。先生は都内のマンションで一人暮らしをしていた。僕の妄想通りになれば佐伯先生は別な生物に変貌して自宅に帰ってくる。佐伯先生のマンションは警察が何か手掛かりになる物はないかと調べていた。今は警察は引き上げていて誰もいなかった。先生の自宅内に入ることはできた。一人暮らしにはちょっと広すぎる3LDKのリビングのソファーに僕と田所警部補は座った。時刻は午前三時になろうとしている。夜明けまでまだ時間がある。
僕は三十分ほど昼寝をしただけで、いったい何時間起き続けているのだろう? もう分からなくなった。不思議なことに全然眠くなかった。
「これからどうする? 何が起きるんだ?」田所警部補が言った。
「たぶん、佐伯先生が。いや、佐伯先生だったものが現れると思います」
「どうして、そんなことが言えるんだ。それは、おまえの妄想、いや、願望だろ」田所警部補が投げやりに言う。
「ええ、そうですね。でも、この部屋に入ってきてから感じるんですよ」
「何をだ?」
「獣の気配を。臭いや息遣いを感じます」
「俺には分からん」田所警部補がぶっきら棒に言う。
隣の寝室から物音が聞こえた。僕はソファーからゆっくり立ち上がり音を忍ばせてリビングを出て寝室に向かった。田所警部補も音を立てずについてくる。僕は寝室のドアの前に立ちドアノブを握る。背後の田所警部補を見ると拳銃を構えている。僕はドアノブをゆっくり回してドアを開けた。薄暗い寝室のベッドの傍らにそれは立っていた。二本足で立つ身長二メートルほどの大きな狼みたいな姿をして悪臭を放っている。
「見えますか?」
「いや? 何かいるのか?」
田所警部補には見えないようだ。
「佐伯先生ですか?」僕はそいつに聞いてみた。そいつは大きな口を開けて牙を見せながら、空気を震わすような咆哮を上げて部屋の壁の角に消えた。
「今の咆哮も聞こえなかったのですか?」
「何も聞こえなかった」
ということは空気は震わせていないってことか。どうして僕の耳にだけ聞こえてきたんだ? それに僕を襲うこともなく消えてしまった。やっぱりあれは佐伯先生だったのだろうか?
「確かに獣のにおいがする」いつのまにか田所警部補は寝室に入って、さっきまで奴が立っていたベッドの横にしゃがみこんでいる。
「明かりをつけてくれ」
僕は壁にある電灯のスイッチを見つけてONにした。室内が蛍光灯の白い光に満たされた。
「これ、何だか分かるか?」田所警部補が床から見つけたのは小さな鍵だった。
何の鍵だろう? どこかの家の鍵? 部屋の鍵か? 不思議な形をしている。 佐伯先生はこれを僕に託して、僕に何かをして欲しいのだろうか? これが何の鍵なのか調べないと。 でも、どうやって。
「佐伯教授の研究室に、その鍵のヒントがあるんじゃないのか?」田所警部補のその言葉で僕はある事を思い出した。
「そうですね。研究室に行ってみましょう」田所警部補の車で大学へ向かった。東の空の色が変わってきている。もうすぐ夜が明けようとしていた。
夜明け前の研究室は静まり返っていた。警察の鑑識の人たちも帰ったようだ。立ち入り禁止のロープを乗り越えて僕と田所警部補は研究室の中に入った。僕が最初に発見したときの惨状がまだ残されている。
「田所さん、鍵を見せてください」
証拠物件としてビニル袋に入れてある鍵を田所警部補から受け取る。
「この鍵は佐伯先生が捕まえたやつを閉じ込めておいたゲージの鍵だと思うんですよ」
「そのゲージはここにあるのか? 捕えたやつの仲間が助けに来て教授は襲われて連れていかれたんだろ。ということは」
「そうですね。その捕獲用のゲージは破壊されているでしょうね」
僕は荒らされている研究室を探した。警察の鑑識の人たちが証拠になるようなものはほとんど持ち去っているだろうから、捕獲用ゲージが見つかるとは思わなかったけれど。田所警部補も研究室内を歩き回って探している。しかし、それほど広くはない研究室だから二人で数分歩きまわれば探しつくしてしまう。
「それらしい破片もないな」
「そうですね。警察の鑑識が、怪しい物は全部、採取してますよね。警察署に行って見せてもらうわけにはいきませんよね」
僕は田所警部補に自分の考えを話した。
「おそらく佐伯先生は奴を球体に閉じ込めたんだと思います。奴は角度のある部屋の壁の角からしか出入りができない。だから、先生は捕獲するときは立方体のゲージに捕えて、それを球体に変化させた」
「そんなゲージどうやって作るんだ?」
「僕には分かりません。でも佐伯先生なら作れたんでしょう」
外は明るくなっていた。もう数時間もすれば学生や職員たちがやってくるだろう。捜査が続いているのだから警察関係の人たちも。
「ひとまず帰って寝ます。奴は昼間には現れないようだから」そんな確信は何もなかったけれど忘れていた睡魔が襲ってきていた。
「それがいいだろう。俺は署に出勤して仕事だ」
「すみません。夜中に呼び出しておいて、何も成果がなくて」
「そんなことないだろう。篠原君は奴の姿を見て、この鍵を手に入れた」
僕は家に帰りベッドに倒れこみ暗い闇の中に落ちていった。
そして、あの夢を見た。そこには、奴の姿に変貌した佐伯先生がいた。
(ここは夢ではない、現実にある世界、君たちのいる世界とは違う次元の世界なんだよ)と先生は言う。いや、声に出して言うのではなく僕の頭の中に直接流れ込んできた。
(夢だからこそ、こんなありえないことが起きているんだろう)と夢の中の僕は思っている。
(夢の世界と現実の世界の違いは何処にあると思う? 違いなんてないんだよ)と先生の笑いながら言う声が頭の中に流れてくる。
(篠原君、君に頼みがある)と先生の声が言う。
目覚めたときは夜になっていた。僕は十二時間も寝ていたようだ。スマホを見るとメールが来ている。田所警部補からだった。今夜十時ごろ僕の家に来るらしい。何か新しいことが分かったのだろうか? 丁度よかった。僕のほうからも田所警部補に伝えなければいけないことがある。さっき見ていた夢の(いや、夢ではなく現実なのか)最後に佐伯先生から託された頼みごとについて話さなければならない。田所警部補は十時の時報に合わせるかのように来客ブザーを鳴らした。僕は熱いコーヒーと一緒に出迎えた。
「僕が妄想していた通り、佐伯先生の正体は奴らと同じ生き物です」
「妄想ではなく事実だということか。どうして、そんなにはっきり言える」
「夢の中で、あ、いや、夢の中の現実なんですけど、佐伯先生が言ってました」
「夢の中の現実? 何を言ってるのか全然分からん。それこそ、いい加減な妄想だろ」
「そう言われてしまうと、何も言い返せないんですけど。僕の言うことを信じてもらうしかないんです」
「とりあえず信じることにする。話を続けてくれ」
「ありがとうございます」僕は大きく大きく深呼吸をして佐伯先生から託された頼みごとについて話した。
「佐伯先生から、僕に、十歳の佐伯先生を轢き殺してくれ、と頼まれました」
田所警部補は、僕を強い視線で見つめながらしばらくの時間無言でいた。そして、
「どうすれば、そんなことができる? それに、なぜ教授はそんなことを篠原君に頼むんだ?」と、いつものぶっきら棒の声とはちょっと違う声で言った。
「この鍵を使えばできるんです」と僕はあの奇妙な形をした鍵を取り出してテーブルに置いた。
「その鍵が何の鍵なのか分かったのか?」
「はい。夢の中の現実には、いくつもの扉があるんです。その扉は、こちら側の世界のいろいろな時間と繋がっているんです。佐伯先生が十歳のときの時間にも」
「あのときの轢き逃げ犯は篠原君だったのか?」
「そうみたいですね。僕もまだちょっと信じられないんですよ。まだ実行してないから」
「どうして、教授はそんなことを篠原君に頼むんだ?」
「奴らがこちらの世界に来て、人間狩りを楽しむようになった原因は、佐伯先生なんです」
「分かりやすく話してくれ」
「佐伯先生の両親は、奴らの次元世界で暮らしていました。でも、何かの理由があって、こちらの世界に逃亡してきたんです。その理由は佐伯先生にも分からないそうです。子供だったから教えてくれなかったと」
「奴らは大きな狼みたいな姿をしているんだろ? どうやって人間に化けたんだ?」
「それについても佐伯先生はよく分からない、と言ってました。分かっていることは、佐伯先生が、奴らのいる次元世界とこちらの世界をつなげてしまった、と言ってました」
「それで、つなげる前の子供の自分を殺してくれ、と篠原君に頼んだということか」
「そういうことです」
「やるのか?」
「はい。そうしないと、奴らの人間狩りは終わらないでしょ」
「そのあと、篠原君はどうなるんだ?」
「わかりません。この鍵を使って、奴らが来なくなったこの世界に戻ってこられたら、いいんですけどね」
たぶん、戻ってくることはできないと僕は思っている。僕は十歳の佐伯先生を轢いたあとは、あの夢の中の現実世界を彷徨い続けるような気がする。きっと今までに何人もの僕が、十歳の佐伯先生を轢いているんだと思う。無数の無限の世界が存在していて、その全ての世界が、この夢の中の現実という世界と繋がっているんだろう。
奴らの咆哮が聞こえてきた。
「田所さんにも聞こえますよね」
「俺に何をしたんだ?」
「すみません。話だけでは信じてもらえないと思って。コーヒーの中に睡眠導入剤を入れました」
「ここは? 俺は眠っているのか?」
「はい、ここは奴らの次元世界です」
僕のワンルームマンションの部屋は消え去り、僕と田所警部補は軍艦島のような廃墟にいた。周囲から奴らの咆哮が聞こえる。そして、迫りくる音も聞こえる。
「奴らは人間狩りという娯楽を失いたくないんです」
「だから、篠原君に十歳の教授を轢かせるわけにはいかない、ということだな」
「拳銃ありますよね。僕は十歳の先生を」
「分かった。俺が奴らをここで食い止める。行ってこい」
「お願いします」
僕は廃墟の奥に向かった。銃声が聞こえ始めた。大きな音を聞くだけで奴らは逃げる、と佐伯先生は言っていた。田所警部補は目が覚めれば元の世界に戻れる。一度ここに来てしまったから、これから寝るたびにここに来てしまうだろうけれど、田所警部補ならなんとかなるだろう、と僕は勝手なことを考えている。
しばらく歩き続けていると目の前に廃墟には似合わない奇麗な扉が立っている。僕は奇妙な鍵をその扉の鍵穴に入れた。鍵は吸い込まれるように入っていく。そして、扉を開けた。
佐伯先生に教えてもらった住所に行くと、十歳の佐伯先生をすぐに見つけることができた。僕はレンタカーを借りて実行しようとしたけど、一回目は失敗に終わった。タイミングを合わせて横断歩道を渡る佐伯少年に向かってアクセルを踏み込もうとしても、体が言うことをきかなかったのだ。いくら佐伯先生の頼みとはいっても、僕にはやっぱり人を、ましてや子供を轢き殺すことなんてできない。でも、今まで何人もの僕は佐伯少年を轢いている。それは本当に事実なんだろうか?十歳の佐伯教授が車に轢かれたことは紛れもない事実だ。でも、本当に何人もの僕が引いているのか? 車道の路側帯に止めた車の運転席で僕は苦悩していると、横をものすごいスピードで黒い車が通りすぎて、そして、横断歩道を渡る佐伯少年の小さな身体を突き飛ばして走り去っていった。
僕はその黒い車を追いかけようとした。けれども、あのスピードではとても追いつけない。誰かが通報したのだろう。救急車がすぐに駆けつけて佐伯少年は運ばれていった。
あの黒い車を運転していたのは誰なんだ? 違う世界の僕なのか? それとも、全くの別人なのか? 十歳の佐伯少年の命は無数の世界の様々な人から狙われ続けているのか? そして恐らく、佐伯少年の命を奪うことは誰にもできないのだろう。
僕は元の世界に戻るための扉を探した。奴らの人間狩りを止める方法は、佐伯少年を殺す以外に何かある筈だ。残念ながら今の僕には思いつかない。元の世界に戻って田所警部補と一緒に奴らと戦うしかなさそうだ。今のところは。
扉を見つけた。
了
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内容に関するアピール
梗概では佐伯教授を主人公としましたが実作では学生の篠原と田所刑事のバディ物として書きました。眼に見えない恐怖が迫ってきて、その恐怖の謎を二人で解いていくいうホラーサスペンス感満載のストーリーです。作中の奴は、クトゥルー神話にでてくるティンダロスの猟犬をイメージしています。と大々的にアピールしたいのですが、文字数も9,700くらいしか書けずに、プロットや設定もまとめきれずに自分の想像力不足・妄想力不足・文章力不足を痛感しています。長く講座を続けていますが難しいですね。でも良い経験になり面白いです。
1年間本当にありがとうございました。これからも書き続けます。
文字数:282