陽光の尽きるところ

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梗 概

陽光の尽きるところ

網代あじろは、入眠の準備に取り掛かった。部屋の隅に置かれている一辺が二メートルほどもある檻の中に入り、自ら鍵をかけ、毛布にくるまって、日没を待つ。日が沈むと同時に網代は気絶し、翌朝目覚めた時には、夜の記憶はない。
 あらゆるヒトは、例外なく日没時に気絶し、夜の間だけ、誰も見ていないところで、動物の姿になる。
この現象は<獣化>と呼ばれており、気絶はあくまでも<獣化>の副作用なのだと考えられていた。どんな動物になるかは、生まれた月日によって決まり、肉食から草食まで、皆さまざまな動物を内に秘めている。
 自分がどの動物なのかによって、性格や適正が決まり、それらの情報は、学校の入試や会社の採用、結婚相手の選出から友達選び、学習法、睡眠時間、食事、運動量など社会生活のあらゆる側面で参考にされる。
 しかし、誰もヒトが動物になるところ目撃した者はいない。なぜなら夜に目覚めていることのできたものがいないからだ。そして、そのような情報を記録しておける媒体もまた存在しなかった。

網代の勤める研究所では、植物の光合成を促進する特殊なライトの開発が進められていたが、そのライトが<獣化>を防ぐ作用を持っていることが発見されると、研究部門のリーダーでもある網代は自らの身体を使って、人体実験を行った。その結果、体にライトが当たっている間は夜でも気絶せず、彼は世界ではじめて夜を目撃したヒトになった。
この実験以降、彼の所属する部門では、極秘で<獣化>を防止するライトを研究することになった。実験と開発が並行して進められ、最初の携帯型ライトが完成すると、網代は、同僚の留原とめはら南沢みなみさわらと共に、それを装備して研究所の外で使用実験を行った。街中は、明かり一つない暗闇に包まれており、人影は皆無のはずであった。しかし、網代らはそこで自動小銃で武装した小隊を目撃する。危険を感じた網代は同僚らとともにすぐに研究所に引き返す。留原が、「あいつら、私たちのようなライトを携行していませんでしたね。」と指摘する。その後、武装集団のことを報告した網代らだったが、そのような存在はあり得ないと無視された。

実験を続行する網代だったが、奇妙な事実が発見される。それは、日没と日の出が、まるでスイッチをオン・オフするかのように瞬時に切り替わること。それから、夜を迎えたヒトは直ちに気絶するが、その後ヒトを観察しても一向に<獣化>、つまりは動物に姿を変化しないことだった。

ライトの量産化と世間への発表に向けた最終実験で事件は起こった。夜になって実験が始まった時、突如として例の武装集団が研究所を襲撃した。研究員たちは次々に殺されていった。網代は、留原、南沢と命からがら車で逃げるが、追手もまた車で追跡してくる。銃撃を受けるうちに南沢は被弾し、留原はライトが破損して気絶してしまった。網代の車は激しい銃撃を受けてパンクし、ついに捕まってしまう。

網代は手を拘束され、麻袋を被せられた。彼がなぜこんなことをするのかと問うと、機械的な音声が応答した。
ここは巨大な地下空間で、網代らが開発したライトと同じものが天を覆い、その点灯と消灯によって管理されている。地上の人類によって開発されたヒトは、特殊な波長の光を浴びていなければ気絶してしまう。ここでは、それぞれのヒトが自らが定められた動物の属性を背負って生きる。ヒトは、ある種のステレオタイプを一つだけ受け入れることで、他のあらゆるステレオタイプ、偏見を退けることができるのだ。そのような仮説から導き出される新しい社会モデルをここでシミュレーションしている。網代らが開発したライトは、そのような目的を阻害する恐れがある、だから排除する必要があった。

網代は怒りに身を任せて身体を激しく動かし、拘束から抜け、追手から逃れた。麻袋を外し、永遠に続くかと思われる長い階段を登り、ドアをこじ開けると、強い陽光と青空が視界に入ってきた。

文字数:1621

内容に関するアピール

動物占いをもとに、人がある種のステレオタイプを背負って生きる社会を考えました。動物占いでは生年月日によって動物が決まります。この世界では動物占いが公共サービスとして実装されているため、その動物の性格・適性・相性の診断によって、社会的な立ち位置も決まってしまうわけです。

最小限の嘘が、ここでは「ヒトは夜になると動物(の姿)になる」、作中の言葉で言えば<獣化>であり、それが日の出と日没に関係しているところから話を発展させていきました。

文字数:216

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休暇はコアラで

網代 あじろは盗み見るように観察していた。目をくまなく動かし、髪や耳、首や肩を見る。そして、手のツメが黒く長く、かつ異様に湾曲しているのを見逃さなかった。鋭くたくましいそれは、むかしみた恐竜映画の、ヒトを切り裂くおそろしいツメと同じだった。

南沢 みなみさわが大学に顔を出さなくなって二週間、心配した網代と留原 とめはらのふたりは、なかば強引に家に押しかけた。提案したのは留原で、彼女は「ぜひ一度は直接、家に行くべきだと思うね。」と言って、しかもそれを当然のこととして考えていて、網代はためらいを口にすることすらしなかった。網代が留原を他人に紹介するとき、彼女は早い人だよ、と説明する。それは歩行スピードが異常に速い、という点が分かりやすい特徴として挙げられるからだったが、それゆえに彼女は集団で歩いていても、自然と先頭に立ってしまう。彼女は決断するのも行動に移すのも早かったから、大学のグループワークにおいても、歩行と同じように、気づけば先導者になっている、ということが多いようなのだった。

このような彼女の早足に引っ張られて、網代は留原とともに、南沢の家にアポなしで突撃した。二回目のインターホンのあとにドアが開いて、無精髭を生やした南沢が眠たそうな顔で出てきた。彼はすぐに微笑しふたりを迎えたが、一瞬、彼の顔がこわばったのを網代は見逃さなかった。どうぞどうぞ、入って。彼の部屋は前に来たときよりも散らかっていたが、それについては誰も触れなかった。

来客者のふたりが腰掛けたソファは、この部屋で最も重要な家具の一つだ。南沢が半年前にこの家具を購入したとき、網代と留原はこの家に真っ先に招待されて、お酒を飲んだ。南沢は、このソファはふたりを家に呼ぶためでもあるのだと、得意げに紹介していた。網代が酔ってビールを少しソファにこぼしたとき、しみにならないように南沢はすぐさまタオルで拭きはじめた。しかしその様子に神経質さはなく、「さっそくヘビー・ユーズしてくれているな!」と言って、場を和ませた。しかし、いま自慢のソファにはところどころ不気味な引っ掻き傷がついていて、中の白い綿がやや飛び出している状態だ。そしてその傷を作ったと思われる恐竜みたいなツメが、南沢の手についていた。大きなツメのためにコップに麦茶を注ぐ動作が不自然だ。

網代はゾッとして、目をそらした。一方で留原はツメをじっと凝視している。彼女は躊躇しなかった。

「そのツメ、どうしたの。」

少し間を置いてから南沢は答えた。

「いや、大したことじゃないんだけど、最近よく伸びてね。」

「伸びても、そんな風にはならないと思うけど。」

そう言って留原は自分の手と比べている。彼女の爪は、ネイルのためにカラフルだ。それぞれの指が信号機のように赤・黄・緑と隣り合っている。

「そのツメ、よく見せてよ、ヤだ?」

南沢は、少し恥ずかしそうにしながら、しぶしぶ応じた。よく見れば、黒く鋭いツメは、厚み、形状、色、どれをとっても人間ばなれしている。さらに奇妙なことに、手の甲には灰色の産毛が生えている。くるりと返した手のひらは、浅黒く分厚い皮に覆われ、谷のような深いしわが刻まれていた。

網代は「まるでケモノの手みたい。」とつぶやいて、

「ケダモノ、みたいだろ。」と皮肉を返されるところまで想像したが、いまの南沢は玄関を開けたときの眠たい顔のまま、口数が極端に少ない。網代のつぶやきへの反応はなかった。

留原が質問すると、網代は直立姿勢のまま、短く返答する。

「ヤバそうな見た目だね、痛かったりはしないの?」

「痛くない。」

「それはいつからなの?兆候なども含めて。」

「一ヶ月くらい前。」

「学校を休んだことと、そのツメは関係してるの?」

「うん。」

「病院には行った?」

首を横に振る南沢だったが、眠気のためか、フラつきはじめている。微笑はやがてなくなり、彼の顔は眠気に覆われた。倒れそうになるところを二人で支え、ソファの上に横たわらせた。そのような状況で、留原は眠りに落ちる前の南沢に、「食べ物に困っているでしょう。買い出しに行こうか?」と質問して、彼が曖昧にうなづいたのを確認するとすぐに、「よしわかった!」と言って、南沢のための実際的な任務を引き出したのだった。

網代は留原の勇み足に今回ばかりは違和感があって、二人のアクションがかえって南沢にとってマイナスにならないかを心配していた。網代は、商店街へと通じる踏切で電車が通過するのを待っているあいだ、留原に質問をした。網代が何度も逡巡して、やっと最初の質問を繰り出したのに対して、留原は即答した。

「ほんとうに買い出しが必要だったのかな。」

「本人が自覚していなくても、あの状況じゃ必要でしょうね。」

「でも、お金とかはどうするの。」

「そんなの、足りなきゃ私が出すよ、細かいことはあとで考えればいいじゃん。」

「南沢はひとりになりたいんじゃないのかな、迷惑じゃないかな。」

「二週間、ひとりだったのだから、たまにはいいでしょう。」

「本当に必要なのは、強引に医者に連れていくことだったんじゃないか。」網代がそう言おうとして、ホ、と口を開けたときに電車がやってきて、会話は打ち消された。踏切が開いて、向かいからやってくる歩行者や自転車を縫うようにしてかわしたあと、二人はまったく別の話を始めた。

 

 

一週間後に再びふたりが南沢の家を訪れたとき、彼は前回と違って眠たそうではなかった。そこでここ一ヶ月ほどの間、何をしていたのかを質問した。彼は調子がいいのか、この生活になる以前のように機嫌よく答えた。

聞けば、南沢は二週間ものあいだ、眠るばかりの生活を繰り返していたのだという。全く外出しなかったわけではなく、必要に応じて買い出しをしたが、バイトはやめて、親からの仕送りだけでなんとかやっているようだ。気絶するような眠気が急にやってくるので、バイトや大学には行きたくない。網代がお金はあるのかと訊くと、

「ほら、眠ってばかりだろ、収入と比例して、食事の回数も減ったのでいまのところは問題がないのさ。」と言った。

「どうもね、一日じゅう眠っているんだよ。それでたくさん眠ったとしても、六時間も経てばまた眠くなる。困っちゃうよね。」

ほんとうに困っているのかどうか、網代には汲み取ることができなかった。南沢は眠気よりも、ツメの方が気になるらしく、

「ツメがけっこう不便でさ、細かいことができないよこれじゃ。」と言った。スマートフォンの操作からトイレに至るまで、あらゆることに支障が出ているようだった。留原がツメを切ればいいじゃん、と言うと南沢は、

「爪切りが役に立たないのはわかるだろ?こんなに分厚くて固いんだから。」と返した。留原は、

「ちがうちがう、爪切りだって人間用のだけじゃなくて色々あるでしょ?」と言った。動物用の爪切りを試す、というのは実用的な案だったが、それは南沢を人間と認めていないようにも感じられて、網代は血の気の引く思いだった。南沢は微笑を顔に張り付けたままにしていた。

犬用の爪切りのなかでも、最も強力な力を備えていそうな、工具のような見た目のものをペットショップで見つけてくると、実家で犬のツメを切ったことがあるという留原が南沢のツメをカットした。それは成功して、ひととおり切り終えると、ヤスリで切断面の鋭利な部分を削った。南沢は喜んで、

「これなら、トイレットペーパーを引き出そうとするたびに破かなくて済むよ。」と言って、

「精神的にも安心だよ。鋭利なツメが手元にあると、オレが常に他人を脅かしているのじゃないかと心配だからね。実はね、オレはオオカミ人間になるんじゃないかと不安だったんだよ。やがて満月の夜がやってきて、人を襲い始めるんじゃないかってね。でもね、ツメさえ切っていれば問題ない気がする。いまはそう思えるんだ。」

「これからはこうしてツメ切り係として定期的に来るよ。どのくらいで伸びるの?」留原は自身の提案の成果に満足している風だった。網代は南沢が楽観視したように、ツメを切っただけで彼の奇妙な変化が止まるとは思えなかったが、その懸念は口にしなかった。

それから留原は予定があるからとすぐに帰り、網代は少し残って雑談をしてから、南沢に眠気が訪れたところで部屋を出た。階段を降りているとき、山高帽に黒の外套という場違いな格好の男とすれ違った。網代が彼を盗み見ると、マスクをつけたその顔は紛れもなくコアラだ。白い領域を一切もたない眼は網代を無視して進行方向を見ている。一瞬のことだったが、あまりの不気味さに、網代にはその光景が連続する静止画のように見えた。ようやく振り返ったとき、コアラの姿は消えていた。足音もしなかった。

 

 

GON GON GON!! ドアが激しく叩かれた。こんにちは、と声が聞こえる。インターホンは鳴らなかった。網代が覗き穴をみると、山高帽に黒い外套の男が見える。おそるおそるドアを開けると、コアラの顔をした男が立っていた。

「おっと、こんにちは。南沢くんはいらっしゃいますか?」

丁寧な言葉遣いとは裏腹に、態度は威圧的に見えた。開かれたドアはすでに網代の手によってではなく、相手の黒い爪でホールドされている。セールスマンが得意とする微笑はない。ドアを開けたのは失敗だったと網代が考えていると、コアラは先回りするように、

「ご心配には及びません。この顔をご覧になればわかると思いますが、ワタクシは南沢くんの、いわば同志ですよ。」と言った。南沢くん?一体何ものなんだろう、このコアラは。網代は警戒して半歩下がった。それに乗じるように、コアラはドアの内側に肩を入れてくる。

「それで、南沢くんはご在宅でしょうか。ワタクシの考えでは、ご在宅だと思うのですがねぇ。」

「いますよ、取り込み中ですが。」網代とさっきまで雑談をしていた南沢は、いまは寝室でグーグーと眠りにいそしんでいる。コアラは笑って、

「ハハハ、取り込み中ですか、眠っているんでしょう?それなら問題ありませんよ。あなたにお話ししますから。いいですか?少し上がっても。」

網代は、目の前の不審な訪問者を家にあげるのは嫌だったが、この状況を第三者に見られるのはもっと嫌だった。平穏な南沢の生活を脅かすものがあるとすれば、それは近所からの視線だった。彼に訪れた奇妙な変化を目撃されたら、あっという間に噂が立ってしまうだろう。そして、いま目の前にいる男の顔はコアラそのものなのだ。それは近くに住む者にとって南沢以上に怪しい存在に違いない。

「ええ、立ち話もなんですから、中にお入りください。」

こうして網代はコアラを家にあげてしまった。コアラはソファに腰かけるなりいきなり態度を柔和にした。それは慇懃ではあるが、邪悪さを感じさせる。

「いやーどうも、お邪魔しちゃってすみませんねえ。」

そのように言いながら、ハンカチで汗を拭っているこのコアラは、南沢とは違って完全にコアラの顔をしている。その口でどのように発声しているのかは、よくわからなかった。

「いきなり本題に入りますがね、率直に申し上げますよ、南沢くんは、コアラになろうとしています。」

網代は隙を与えないように、なるべく平静を装って、

「アア、やっぱりコアラなんですか。毛が灰色なんで、最初はオオカミかと思ったんですが。」と言った。

「ハハハ、オオカミね、まさか。オオカミ人間なんているわけないでしょう。ご冗談を!」コアラは、網代が不愉快に感じるほど盛大に笑いつづけた。

「まったくおかしい冗談を言いなさる、それにしても、実は驚いているんじゃありませんか?だって、コアラになるなんて、前例がないでしょう。」

「オオカミ人間はいなくても、コアラ人間はいるんですね。あなたもそういった類の一種ですか。」

「コアラ人間ね、まあ否定はしませんがね。とにかく、ワタクシどもは、あなた方を助けにやってきたのですよ。」

「そういうのは、いりません。僕ら、これでもうまくやっているんで。」

「でもいずれ、南沢くんがコアラになったらどうするんですか、時間の問題ですよ。」

「もしコアラになるとして、それを止める術はないんですか。」

「もし、なんて言わないでくださいよ、これは仮定の話じゃないんですよ。現に南沢くんのツメは、コアラのようになっているでしょう?それに、ワタクシのようなのがいるわけですし。」

「いいですよ、別に南沢がコアラになったって。あなたみたいに言葉で話すことができるんだから。」そう言いながら網代は、本人の意向も知らず、勝手に南沢の意見を代弁している自分をけがらわしく感じた。それでもこの場では、一歩も引いてはならないと考えていた。

「それじゃあ困るんですよ、南沢くんには、コアラになるにしても、ワタクシどもが最後のひと押しをしてやらなくちゃならない。それに、野生のコアラになるか、そうじゃないコアラになるか、選ぶ権利があるんです。」

「何を言っているのか、僕には理解できませんね。」

「そうでしょう、そうでしょう。ですから、こうしてワタクシが説明役として、来ているのですよ。」

網代は段々と返答が面倒になってきた。話せば話すほど、相手の術中にはまっていく気がして、目の前を早く追い出したかった。

「とにかく!僕らから頼みたいことはありませんから、帰ってください。もういいですから!」だが、コアラはそこを離れようとはしなかった。網代は、無礼な訪問者の襟をつかんで無理やり引きずり出そうとしたが、コアラの力は網代よりも強かった。その爪とたくましい腕とでがっしりとつかみかえされると、網代はそれ以上コアラを動かすことができなかった。しかし、すぐにコアラは力を抜いて、網代を解放すると、

「そうですか。残念ですが、今日は失礼しましょう。また来ますよ。南沢くんは、理解してくれているんですがねぇ。」

と言い残して、そのまま部屋を出ていった。

網代は、彼を黙って見送り、彼がどこへ行くのかを尾行しようと考えた。意外なことに、コアラは南沢の住む405号室のすぐ隣の、404号室のドアを開けると、中に消えてしまった。

 

 

夏休みが終わり、大学の授業が再開した。南沢が顔を出さないことに加え、留原も学校に来ない。連絡もつかず、心配になった網代は、授業のあとでに南沢の家に向かった。なんとなく、あの家に行けばふたりに会えるような気がしていた。

しかし、家のインターホンを押しても反応はなく、玄関の鍵は開いており、部屋には誰もいなかった。網代は、先日のコアラの存在が気掛かりだった。あのコアラが、何か関係しているのではないかという考えがよぎる。そこで、今度は隣の404号室のドアに手をかけた。

扉は開き、湿った、重たい空気が流れ出してきた。ドアの向こうは、南沢の部屋とは構造がまるっきり違っていて、長い廊下が奥まで続いている。網代は、土足のまま中を進んだ。黄ばんだ蛍光灯が、天井で明滅していた。突き当たりにたどり着くと、床の真ん中に円形の穴が空いており、梯子がかかっていた。下からは何やら話し声が聞こえてくる。

網代が慎重に梯子を降りると、三名のコアラが丸いテーブルを囲んであぐらをかき、UNOをプレイしていた。全員が網代の方を一斉に振り向き、そしてニヤリと笑った。一瞬戸惑った網代だが、そのなかに留原と南沢を見出した。すでに完全なコアラ顔になっている三名から、ふたりを識別可能なのは、着ている服に見覚えがあるからだった。南沢だけでなく、コアラになる兆候の出ていなかった留原までもがコアラになっている。黒いツメにはカラフルだったネイルの面影は一切ない。

「何が起きたのかわからないけど、誘拐されたわけじゃあなさそうだね。」

「うん、いまはこうして楽しくUNOをやってるよ。」留原が答えた。彼女は、隣に座っている外套のコアラと同じく、人間のシルエットを保ったままのコアラだったが、南沢は、サイズの合わなくなった服を着ていること以外は、もはや完全に野生のコアラと変わらなかった。

南沢、あんた、と網代が口にしかけたところで、南沢は、

「もう喋れないと思った?そんなことはないよ、だいぶぼーっとしてきているけど、まだUNOができるくらいには、意識はハッキリしているよ。」と言った。

「南沢はね、完全に野生のコアラとして生きることに決めたんだよ。でもそれは最初からそうだったのかもしれないね。」と留原が説明する。

「え、でもコアラは、日本じゃ野生で生きることができないよ。」

「そのうち誰かが保護してくれるよ、野垂れ死にってことは、ないと思う。」

「うん、まあ保護される前に車に轢かれちまう可能性もあるけれども、それは野生なんだから、俺はそういうことも含めてちゃんと覚悟しているよ。」

「動物園行きになるか、オーストラリア行きになるかわからないけど、それでもいいの?」

「いいんだよ、言ったろ?覚悟してるって。」

「でもでも、山火事で死んじゃうかもしれないよ。」

「それも、しょうがないだろう。人間だって、交通事故に遭うかもしれないわけだしさ。」南沢は、自分の言葉に、ゆっくり何度もうなづいていた。

「それで俺は、人間らしい最後の楽しみとして、UNOをやっているわけ。修学旅行のときに、楽しそうにUNOをやっている連中に混ぜてもらえなかったから。急に思い出したんだよ、それでね、どうしても、これだけはやっておかないといけない気がしてさ。今まではそんなこと、忘れてたのに!」

もう先にアガリになった留原に、網代が話しかけた。うしろでは、二名のコアラがそのツメのために持ちづらそうにカードを抱えながら、あ、UNOって言ってないですよ、などどいいながらバトルを繰り広げていた。

「なんだか話についていけないな、それじゃ、ホントに南沢はコアラになっちゃうんだ。留原は?留原も、野生のコアラになるの?」

「私は違うよ、ここで少し休むことにした。半分コアラになって、毎日グッスリ眠って過ごす!」

「え、じゃあここから出ないの?脱出しようよ。」網代がそういったときの留原の反応は鈍かった。

「いいや、私はまだここで寝るよ。いまはなによりも眠ることが大事なように思えるから。他のすべてがどうでもいいと感じるから。」

「本当にそれでいいの、いま出なかったら、一生出てこない気がする。」

「そんなに信用されてないの?ちょっと一休みするだけだよ。人生という長い単位で考えれば、そういう期間が設けられていてもいいでしょう?」

留原はいままで早歩きの人生を送ってきた、だから少し休息をとるというつもりだろう。網代は彼女の両親のことを口に出そうとして、やめた。そこから逃れることも含めて、人生の休息なのだ。

「とにかく!初めてじっくりと腰をすえて休むことができるというわけ。」

真っ黒な彼女の前が網代を見ている。その顔には、以前の面影は残されていない。

「それでね、私と交代するようにね、コアラを辞めるヒトがいるよ。ほら、このあいだ網代は会ってるはずだよ、そのヒトに。カオルって名前なんだけど。」

網代はまだ南沢とUNOをやっているコアラを見た。

「ちがうよ、あれはカオル・A。いま話したのはカオル・Bのことだよ。」

すぐに、カオル・Bと呼ばれるところの人物を思い出した。丁寧な口調が鼻につく、あのコアラだ。

「カオル・Bはこの辺には知り合いがいないみたいだから、網代がしばらく世話をしてやってよ。人間の生活に戻るための、リハビリが必要なようだから。」

UNOをやっているカオル・Aが振り返り、網代に目を合わせて、深くうなずいた。網代もまた、カオル・Aに対してうなずき返した。

「うん、何がなんだかよく飲み込めないけど、なんとなくわかったよ。うまくできるかわからないけど、やるよ。」

それからUNOはカオル・Aがビリで決着がつき、網代は残るふたりのコアラに別れを告げ、南沢を抱っこして、梯子を登った。あの部屋で起こっていることに対して、網代は異常な感じは抱かなかった、むしろ穏やかだった。そしてそれは、過剰な穏やかさでもなかった。南沢が覚悟、と呼んだもの、その緊張感も確かにあったのだ。廊下を戻ると、入り口の近くでカオル・Bらしきコアラ顔の男が待っていた。

「あなたが、カオル・Bさん?」

「ええ、ええ、先日は失礼いたしました。どうも齟齬があったようで、事情の説明を先にすべきでしたね。多少強引に感じられたでしょうか。」

「うん、あのときはかなり警戒しましたよ。怪しさ満点でしたからね。行きましょうか。」

二人プラス一匹は、ドアを開けて、マンションの廊下に戻った。カオル・Bは、南沢の部屋でしばらく過ごすと言って、廊下で別れた。別れ際に「南沢くんも、さようなら!」と言っていた。一階に着くと、南沢が暴れ始めたので、網代が彼を降ろすと、そのまま彼は四足歩行で駆け出し、路地を曲がって見えなくなってしまった。

翌朝、網代が自室で目覚めたとき、もしかしたら、すべては夢だったのじゃないかと考えた。しかし、インターネットのニュースサイトでは、野生のコアラ捕獲が記事になっていた。南沢は、無事に保護されたのだ。授業を終えたあとで、網代が405号室を訪ねると、カオル・Bが顔を出した。彼の顔には早くもコアラから人間に戻りはじめている、その兆候が現れていた。

文字数:8608

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