梗 概
レフティ・ライティ
アルツハイマー型認知症の発症リスクを低下させる遺伝子群「RL3」が同定され、高齢者の認知機能は著しい改善を示す。遺伝子スクリーニング技術の発達により、RL3は的確に安全に除去される。しかしそれらの遺伝子は、些細ながらも確かな役割を有していた。ヌクレオチドの特異的なパターンが、利き手の割合にバイアスをかける。すなわち、RL3を除去した新生児の利き手の割合は、統計的にほぼ一対一となる。
生前遺伝子スクリーニングの第一世代が壮齢を迎える頃、左利きと右利きは争いを繰り返すように。左陣営は長らく続いた一方的な差別から「右利きの原罪」を主張。スープのおたまから改札、はさみ等の道具に至るまで、全てを左利き優位のデザインにするよう求める。補助金の請求も止まらない。もはやマイノリティではない左利きの人々は、かつて行われていた「右手への強制的な矯正」に対して謝罪を求め、右利き税を導入しようと企てる。対する右陣営は、差別は解決済みであると主張。
両利きの慎二は左利きの学校に通っている。彼は現代社会におけるディアスポラだ。共に左利きである両親の教えを律儀に守って静かに生活している。学校が二種類あるのは、習字教育が問題視されて以降、カリキュラムが分離されたからだ。慎二は学校で「新楷書」の学習を行い、課外活動として、左利きの優秀さを示すプロパガンダの普及に取り組んでいた。順調に成長していく彼だが、初恋の相手は右利きの女子で、無惨に振られてしまう。彼女は無理やり左利きに矯正させられそうになった過去を有していた。
家庭間での望まぬ矯正や、慣れない動作を原因とするストレスの蓄積により、前頭葉へ過剰な刺激が加わる。各人の判断力は低下し、引き起こされるのは憎悪の連鎖。人々は居住区を分け、利き手毎に固まって住むことを選ぶ。意義のないイデオロギー闘争は泥沼化する一方。脳機能の局在によるステレオタイプを打破するべく、左陣営は科学技術に力を注ぎ、右陣営は新たなるアートの勃興を図る。右陣営が現人神を擁立すれば、左陣営は利き手の浄化を計画する。その割合は随時更新され、勢力の拡大・縮小に一喜一憂。あらゆるポストで左右陣営が同数になるよう配慮されるが、それはかえって闘争を悪化させる。
慎二は決起集会に顔を出すものの、違和感を募らせる。しかし、利き手の熱が加速するにつれ、ランダムに均等に生まれる差異は、家庭や友情をも引き裂くようになる。左陣営は煮詰まる現状を良しとせず、大規模矯正という名の戦争を決意。ついに「左利きの日」と定義される8月13日が訪れる。左陣営は右利きの居住地区を強襲。一時は勝利を収めたかに見えたが、一次運動野を障害するガスを噴霧され、一帯の陣営は麻痺状態に陥る。右手も左手も使えなくなった慎二。周囲の人々も同様で、両手を見たまま放心する。彼らは皆同じことを考えていた。一体、何のために争ってきたのだろう?
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内容に関するアピール
左利きは、この世界における最大のマイノリティといえます。私自身、幼少期から先生に矯正を強いられた当事者です。左利きだから字が汚い、左利きだから天才肌だ。そのようなことを言われる度に、違和感を覚えます。日本はまだよい方で、矯正が義務と化している地域では、ほとんど左利きが存在しません。
なまじ数が多いからか、左利きの苦悩は軽んじられがちです。では、もし右利きと左利きが同数だったらどうなるでしょう。この妄想を試みてきたのは、何も私だけではないはずです。
本作では、疾患の治療というスタート点から、利き手の選択バイアスが消失し、空っぽの戦争へと疾走する人々の姿を描きました。利き手が偏っている原因は今に至るまではっきりしていません。しかし、一つだけ確かなことがあります。私たち左利き陣営は、右利き主体の社会に抵抗し続けるという決意を持っているのです。
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