梗 概
星を飲む、手のひらの中の宇宙で
ブラックホールの強力な重力は星々の構成物質を粉末状に挽く。挽きたての彗星は瑞々しい柚子のように薫り、恒星は化学組成ごとに香りを変える。粉末状の星は抹星とよばれ、点てて飲む作法の起源は遠い惑星の古都だそうだ。空間を回して清める作法が伝わると聞くが、いつからあるか定かでない。食料の乏しい宇宙でヒトは鉱物や岩石を代謝するように進化し、茶と同じ様に星を飲むようになった。抹星は飲む者に居住した生命の蠢きを含む星の記憶を喚起するが、真の記憶に至るための正しい作法は限られた者のみが知る。嗜好品である抹星は銀河の富豪たちに好まれた。
幼い宗汰と両親が生まれ育った青い惑星ハナダは、ある日から灼熱の地獄と化した。蒸発した雲の向こう、見知らぬ2つ目の太陽が見えた。抵抗の甲斐なく、住民達は星を捨て宇宙へと逃げたが、宗汰の母は逃げ遅れて死んだ。数十光年逃げた父子は宇宙船の窓越しにハナダに似た色を見て泣いた。
10年後、父はハナダの抹星が流通していると聞く。飲んで妻の記憶に触れようと、付近の小惑星帯を統治する三条に師事し作法を学び仕えるが、招かれた晩餐で供された星を飲んだ直後、行方を眩ませた。宗汰は三条周辺を調査するが、父の手かがりは見いだせない。父を思いながら抹星の作法を真似ると、不意に空間が微小に回転した。孤独な夜に一人、彼は父を見つけ出すことを誓う。
青年となった宗汰は星間の運び屋稼業を生業にする。父の伝手で三条は良き顧客だ。父の残したメモを元に作法を再現し、時たま手に入る抹星を飲むのを好んだ。惑星の輪の上で3つの月を眺めながら彗星を飲んでいると不時着した旅人、映里と巡り合う。ハナダを含め数百の惑星を旅した映里は、抹星の作法についても詳しい。2人が逢瀬を重ねる度、点星の様式は洗練され、映里の旅行記と共により鮮明な星の記憶を楽しむようになる。やがて宗汰は抹星の製法についての残酷な秘密を知る。正統に近づいた所作をなぞると、星々は軌道を変え、空間は歪んで像の結ばれ方を変えた。
三条の依頼で新鮮な抹星を運び終えた宗汰は御礼の一席へ招かれる。三条が点てた星は、恋敵と駆け落ちした女の逃避行の果てだった。昔の女への執着を捨て得ぬ三条は、女の記憶を味わい上機嫌になり、宗汰の父が訪れた日の出来事を明かす。父は妻の記憶を味わうさなか、ハナダが三条による抹星の新製法の犠牲になったことを知らされ、悲しみ、狂い、ハナダを飲みながら宇宙へ消えたのだ。宗汰は三条に星を点てる振りをして、正統な手法により引き起こした回転と時空の歪みを用いて復讐を遂げる。
三条の残したハナダの抹星に湯を注ぎ点て、父母を想っていると映里が現れる。彼女は宗汰の飲む抹星に含まれる星の記憶の中に残滓としてのみ存在した。宗汰は掌の中に星々の脈動を味わい目を瞑る。
彼は映里の記憶を求めて旅に出る。彼女の訪れた星を滅ぼしてでも彼女に会いたいと昏く願った。
文字数:1199
内容に関するアピール
裏千家茶道に入門して10年ほどになります。入門したての頃、四方さばきと呼ばれる清めの作法には東西南北、宇宙を回して清める意味があると聞き(実際にふくさと呼ばれる布をハンドルのように回します)ポカンとしたのを覚えています。また、茶碗は手のひらの中の宇宙とも言われます。茶の楽しみは重層的で、空間、掛け軸(禅語・言葉)、道具の取り合わせ(モチーフ、色合い)、火を熾す炭、花(刹那の美)、食事、全てを一碗の茶のために設えます。学ぶことは数多ありますが、茶席でお客様にお楽しみいただくことはなんとかできるようになりました。
まだ数百年の文化ですが、その奥深さを見出した今は、人類が宇宙に飛び出した後も受け継がれると信じています。願わくば非人類にも伝えたいものですが、茶室や道具が人間サイズなため、すぐには難しそうです。
幾つもの月を見ながら、惑星の色合いと輪を愛でながら、今宵一席設けましょう。
掛け軸は「宇宙無雙日」(うちゅうにそうじつなし)たった1つの故郷の星、どのような気持ちで飲めるでしょうか。
宇宙無雙日:https://zengo.sk46.com/data/uchusoji.html
文字数:491
抹星
1
最終的に天下を取ることになる歴戦の武将は、たった二畳、極小の茶室で泣いた。おいおいと泣いた。見晴らしの良い斜面に建てらてた茶室は南向きであったが、深い庇に阻まれて光はほとんど入らないから、昼間なのに手元すら覚束ないほどに。ああ暗いのだ。俺はなんのために、いつまで戦うのだ。小部屋を満たす深い内省を導く薄闇は、心地よく音を立て弾ける炭に焚かれた紅沈香の香りと混じり合いながら、ぬめりと母の衣を抱く幼い日々のような肌感覚を残すのだった。古の時、奈良の時代から東大寺の正倉院に大切に保管されていた紅沈香を、猿とも呼ばれたその武将は、東大寺に詣でた際に密かに切り取ってきたのだ。
そうだ。自分を猿と呼び取り立ててくれた信長公も、足利公を滅ぼした折に、俺と同じ様に切り取ったのだ。憧れの信長公が存命なら、茶を差し上げることができるというのに。パチリと一際大きく炉の炭が鳴り、香木が強く香る。微生物が練り上げた数多の時間の香りを孕む。ああ、俺も、こんなにも熟したのだ。武将は闇に溶けそうなほど暗い手捏ねの茶碗で茶を点てた。自分が切腹に追い込んだ男、千利休の考案した黒茶碗の中、宇治の外れの茶園より取り寄せた抹茶が気高く薫る。ああ、その一碗だけで、あの日、夭逝した跡取りが生まれた折の、祝の宴の食事が思い出される。
黒い茶碗を白く照らす薄光は、寒空に線を引く星屑に似ていた。質素な茶釜を見ると、貧しかった幼少期の飯釜が思われた。藁を埋め込まれた侘びた土壁に入れられた一輪の朝顔は、瑞々しく笑うように、武将の方に花弁を垂らす。母と遊んだ野が思い出される。信長公から拝領した茶入に蓋をして、利休に教えられたように茶に感謝してから、点てた茶を口に運んだ。
今、極小の部屋は彼の全てが詰まった宇宙であった。母の人生、母から生まれた日、信長公に士官を始めた日、築城、戦、すする茶が喉を通るたび、あらゆる光景が心のなかに駆け巡るようだった。それで彼は、悲しいのか悲しくないのか分からないまま、ただ泣いた。何度も泣いた。
それから、千年ほどが過ぎた。かの武将に愛され、大粒の涙を促したお茶の文化は受け継がれていた。家元と呼ばれる絶対的な師が統制する流派が幾つも存在した。流派の一つである裏千家流の話をすると、その時の家元は名前を星忘斎といった。お茶の家元は禅寺で修行をし、僧侶としての位と斎号を賜るのだ。例えば2021年時点で言うと、16代家元は坐忘斎といった。坐忘とは心身を脱落して道と合わさり、外物と自己が一体化した境地を言うのだった。星忘斎の号は星、しいては宇宙と一体化する境地のことを指した。おもてなしを愛しすぎた彼は、家元の地位を早々と息子に譲り、地球中を飛び回り、茶の文化を伝え、イギリスやタイ、スウェーデンの王室、それからローマ教皇庁を生涯もてなし続けた。
さて、星忘斎にうってつけの出来事が起こる。彼が50歳の時、見知らぬ船団が地球を来訪したのだ。米軍と中国人民解放軍が慎重に調査した結果、来訪者が遥か遠い惑星から訪れたことが分かった。彼らに敵意はなく、インターネットのプロトコルを解析し、英語を瞬時に理解し、有効的なメッセージをソーシャルネットワーク上に英語で書き連ね人気を博するほどの知性があった。地球人より遥かに高度に発達し、感情も豊かであった。
しかし、問題があった。個々の個体の体積は人類と同等であったとはいえ、彼らはアメーバ型生命体であった。地上で国連の使者との対談が行われた際に事件は起こった。使者が彼らと握手をした際、彼らは皆、擬態し、使者と全く同じ姿に変身したのだ。
友好的なふりをして、やはり侵略に来たのではないか。疑念が駆け巡る。アリゾナ州、フェニックスのほど近くの砂漠地帯に降り立った宇宙船は一個大隊に包囲され、ロシアと中国は万が一に備え、秘密裏に宇宙船へ弾道ミサイルの標準を合わせていた。
誰もが接触を避ける中、星忘斎が手を上げた。種族は違えど知性にのある生命体同士、喫茶の文化は普遍的であるから、もてなそうではないか。歴史教科書の編纂にまで関与する偉大な文化人である星忘斎に押され、日本政府も重い腰を上げ、彼らを日本へ招くことにした。
異星人たちは日本というががあらゆるものに神を見出すことや、式年遷宮のような作っては壊す文化に感心した。彼らは十分賢かったから、説明を聞いた結果として、作り方を伝承するために20年に一度壊してはまた作るという目的をおおいに理解した。モノではなく方法論を残していく。その考え方に共感したのだ。東京、長野、名古屋、伊勢と移動した後、旅の終着地として京都に訪れた。茶席でのもてなしのため、星忘斎は万事を整えて待っていた。
四畳半の端正な茶室で、異星人たちはおいおいと泣いた。西日に濡れるように輝く窓から差す光を受け、床の間の掛け軸が白く輝く。墨跡に込められた流れがそのまま立ち現れるかのように。掛け軸には宇宙無双日とあった。それは禅の言葉で、同じ星が二つとないように、あなたという存在はただひとつだという意味であった。石を削り出したゴツゴツした灰色の茶入は、地球人から見ればみすぼらしかったが、彼らからすると、どこか、とても、懐かしかった。
おもてなしのため、星忘斎は調べて知っていたのだ。大学の同窓の天文学者や物理学者、付き合いのあるNASAの研究員にコンタクトし、彼らの全てを調べ上げていた。彼らの母星が遠い昔に滅んだこと。そして、滅んだ彼らの星の一部が隕石として、彼らに先んじて地球に訪れていたことを。隕石マニアの好事家から買い上げた惑星の欠片を削り出し、千年以上を存続する茶園の抹茶の容れ物とした。茶室という狭い空間、その設え、炉にくべられた炭、茶釜に沸き立つと湯と香、飾られた花によって、母星を喪った彼らへの深い同情と、彼らの旅の無事と末永い幸福を祈ったのだ。末広型の水指にたっぷりと張られた名水が太陽の如く煮えたぎる茶釜に差されると、湯音が下がり、沸き立つ音は消え、一同の穏やかな息遣いの谷間には、音の失せた茶室は、あの絶対零度に近い真空の空間、宇宙の気色を帯びた。かの泣きぬれた武将が口をつけた黒茶碗で、かの時代と同じ土、同じ味を伝える茶園の抹茶が尊く香り、宇宙に満ちた。
さてその異星人たちは、星忘斎には悲しいことではあるが、、正直に言えば茶の味は殆ど分からなかった。なぜなら彼らは鉱物を代謝する生命体であったからだ。それでも、彼らは大きく感情を揺さぶられ、茶の作法の内面への作用を理解した。茶席に込められた思い、道具に込められた思い、伝来、歴の大いなる流れ。茶席が終わる時、ひとりが星忘斎と握手を交わし、擬態して彼に瓜二つとなった。最高級の絹の和服、黒の羽織。姿は似たが、絹の衣擦れまでは真似できんようだな、しかしそれも一興。星忘斎は笑った。異星人曰く、このまま地球を旅立ち、喫茶の作法を持っていくと言うのだ。
茶の道が宇宙へとつながると、星忘斎はおおいに喜んで、家に伝わる多くの道具を持ち出し、さらに四日ほど彼らをもてなした。その中で彼らに、中華、朝鮮、南蛮、京都の逸話、それから茶の作法の多くを伝えた。基本的な事項、例えば、客にお茶を出す前に、客の前で全ての道具を清めること、清める際には袱紗と呼ばれる正方形の布を用いること、清め方にも幾つかの型があり、四方さばきと呼ばれるやり方では、90度ずつ四回回すことで、空間全体を清めることも伝えた。
贈り物にと、貴重な道具の幾つかを桐箱にいれ、道具の銘と自らの名前を墨で書きつけた。これらは箱書と言われ、箱に収められた道具の鑑定書である。後世、道具が伝わった時、箱を元に中身の正しさが保証され、価値が判断されるのだ。
星忘斎は書きつけた文字の意味を聞かれ、答えた。道具の銘はそれぞれ、富士、福寿、龍田姫、無尽蔵、主人公。それから、自らの名前、星忘の由来を話した。何度も話した。
茶を通じ、自己と星、ひいては宇宙と一体化する境地があることを。
茶を通じ、星と一体となれることを。
異星人たちはすっかり満足し、ひとりは星忘斎の姿のまま去った。
星忘斎は生涯、異星人をもてなしたことを謙虚に話し続けたという。15代家元の考案した「一碗からピースフルネスを」という平和主義の標語がいまや、他の惑星に済む異星人にも通じることを肌で感じ、茶の道の普遍性を魂に刻み込み、茶寿まで立派に生きて死んだ。茶寿というのは、茶という字を分解すると八十八の上に十が二つ並んでいるように見えるから、百八歳のことを示す。
アメーバ型異星人たちは旅を続けた。星忘斎の姿をしたひとりは、作法を教え伝えた。同時に星忘の境地へ憧れ続けた。懐かしい母星と一体となりたい。失われた母星の残骸を見つけ、喫することで母星の心とひとつになり、母星の数多の記憶を思い出す術を見出そうと、作法を洗練させ続けた。やがて彼らは、彗星、恒星、惑星を飲むようになった。
そして、118億年、つまり、茶億年が経過した。
2
俺は仕事帰りに戯れに彗星を追っていた。速度を上げる。しかし、星図によると、近場に現れたブラックホールせいで、燃費はクソみたいに悪い。彗星の輝く尾がここからだとまだ白く見える。いまより真面目に、もっと速く追いかければ、煽り、誘うように赤く見えてくるはずだ。初めて彗星を飲んだ時のあの香りを忘れられない。切りたての柚子みたいに香って、喪われた俺の故郷、縹の夏の大きな白い雲を思い出させてくれる。でも決して縹の香りじゃない。彗星を飲めば、俺は楕円軌道を支配する法則についてもっと理解を深められるってのに。
三条のやつは作法を教えるのを随分もったいぶってやがる。昔から伝わる茶の師のすがた、人類とかいうのの形をしているくせに、最近はめっきり喫星の作法を教えたがらない。親父が習っていた頃はそんなこともなかったのに。お陰で俺は、親父のメモを元にやり方を学ぶしかない。もう少しまともな作法で飲むことができれば、俺はもっと星について知ることができるし、親父が目指していたように、縹を飲むことができれば、縹と一体になって、母さんの記憶に触れることもできるかもしれない。縹はどんな風に、香るだろうか。
俺と彗星の距離が開く、空間の歪み、不規則な重力場を検知して警告が鳴る。重力、行方知らずになった父は恐らく、何か重みに負けて、ブラックホールみたいに潰れて消えちまったんだなと、流れながら削れ、いつか蒸発して影も形も消えてしまう彗星の尾が、一際大きく輝いているのを見ながら思った。ちょっと追いつけそうになかった。
どのみち、あの軌道のまま進んだら、俺みたいな運び屋にすぐに見つかって撃ち落とされて、圧縮されてブラックホールに叩き込まれる。そしたらもう、戻ってはこれない。狂ったみたいな重力がうまく押しつぶしてくれると粉末になる。抹星の出来上がりだ。金持ちの奴らに高く売れる。運悪く重力が不均一にかかるとスパゲッティ化して、間延びしてぺったんこになっただけで終わっちまう。抹星を作るにはゆっくり丁寧にやるのが良いらしい。
小惑星帯に着陸して船を降りる。俺の住処の月は下の方に見える緑の惑星を挟んで反対側だ。ヴェルデは今日もどろんと妖しく緑色に輝いてる。重金属のガスの交じる黄金の雲が時たま渦を巻いて、地上では甘く輝く雨を降らせているだろう。
削った地面を舐める。苦すぎて食えたもんじゃない。月の小さなクレーターに潜むモグラたちは好んで食うかもしれないが、俺はゴメンだ。ここら一体はずいぶん痩せた小惑星しかないから、美味いのに当たる確率は相当に低いのは知っていたが、ここまで乾いて、変な臭みと雑巾を凍らせたみたいに毛羽立った食感だと、空きっ腹をただ埋めることすら出来ない。
俺は三条の所から盗んできた抹星を取り出して、飲む準備をする。からだの形を整えて、きちんとした二足歩行に近くする。かたちを忘れかけてる。人類と言うらしいが、この当たりの星系にはあんまり住んでいないから、酒場で見つけたらまた手をつないで形をコピーしなけりゃならない。星を飲む準備をしていると、親父のことが思い出される。
「宗汰、今日は母さんに会えるかもしれないぞ」
あの日、親父はいつになく浮かれ顔で帰ってきた。力仕事ばかりした日だったのか、昼飯に食べた鉄鉱石みたいな汗の匂いがしたのを覚えている。ヒトの形になるように言われて、俺は従った。
「ほら、寒いかもしれないから何か着ろ、屋上に行くんだ。縹がどっちか覚えているな?」
「覚えられないよ。星が多すぎる」
「特徴的なやつだけ覚えりゃいいんだ。ほら見ろ、あれは龍に見えるだろう?あれは縹にたくさん生えてた青い花みたいじゃないか?覚えてるか?母さんもあの花が大好きだった。逃げ出す時お前は小さかったから、もう忘れちまったかもしれないけどな」
屋上に出た俺はずいぶんと狭い所に座らされた。足元は乾燥した草を編み込んで作った、ヒト二人ぐらいが入れる正方形の床で、九つ並べたら四畳半と言うんだよ。親父が言ったのをよく覚えてる。親父はカンカンに沸かした湯を持ってくると、自慢の土塊みたいな黒い器を持ってきて床に置いて、俺に座れと言った。
「縹は青かった。縹から逃げる時、宇宙船の窓から見たのを覚えてるか?」
「うん。もちろん、すごく青かった。あの時は、とても悲しかったから、ほとんど何も覚えてないけど。色だけは覚えてる。全部真っ暗な中に浮かんでた。少しずつ離れて、少しずつ小さくなって、太陽が二つ見えて」
「あの後、縹は焼けちまった。お母さんを助けられなくてごめんな、宗汰」
「まだ、青く見えるよ。この前覗いたら、焼けてなかった。母さんもまだきっと元気に暮らしているよ。そろそろ、戻れるんじゃないの?今日はそういう話だろ?」
親父の冷え切った水晶のように光を通す達観した目が忘れられない。俺はあの時はまだ何も知らなかった。知る由もなかった。俺がこの宇宙のことや、光の速さのことを知ったのは、親父や三条から教えられて星を飲むようになってからのことだったんだから。
親父は哀しさを隠せない性質のくせに気丈に振る舞おうとして、酷くぎこちなかった。10年前の、と言いかけてやめた。俺が見ていたのが、光の法則通り、昔の姿だったなんで、一言も言いやしなかった。
黙ったまま、親父は俺の拳くらいの飴色の小物入れを取り出して、白い蓋を、二本の指で丁寧に、俺たちの身体よりもでかい銀鉱石の塊を持ち上げるみたいに重たそうに開けた。弱い空調の音だけがゴウと鳴って、親父は息を止めていた。俺は足の痺れを感じ始めていた。でも、母に会えるなら。そう思って耐えていた。
薄く延ばされた白金細工をあやすように、飴色の小物入れが優しく回される。両手で包めるぐらいの大きさの黒い碗の底に、親指ぐらいの山になった粉末がふわりと舞った。親父は手で抑えて、不敵な笑みを浮かべた。緊張しているようにも見えた。俺から見るとなんだか、中身よりも、粉末の入っていた飴色の小物入れのほうが美味しそうに見えた。碗の方は縹の土でできた物だと、親父は大切にしていた。
「いいか、一緒に、飲むんだぞ。ほら、もう少し、こっちに寄れ、そこにいたんじゃ碗が手渡しできないだろ」
「父さん、汗臭いから。嫌だよ」
「二人で並んで、母さんを見るんだ」
「なんだよ。それ飲むだけだろ」
「正直、父さんもちゃんと理解してないが、一座建立の作法と言って、そうすることになっているんだから。さあ、来るんだ。二人で一緒に飲むんだよ」
姿勢を正して親父の指先の方を見る。
碗の中、手のひらくらいの闇の中に青い水晶の霞が流れるのを見た。
「抹星というんだ。星を挽いて、粉にしたものだ」
あの時のオヤジの手付きを思い出しながら、青銅製のおたまで湯を掬い、こぼれぬように碗に注ぐ。熱で解かれた恒星の粉末が碗の中の暗闇でぼうと、流れながら冷やされ止まったマグマみたいに、赤く輝いては息を潜め、また灼熱に輝くのを繰り返した。水素とヘリウムの核融合の成す弱い熱放射。見えないほど弱いから、これじゃあいくら赤くても、サソリの心臓なんかを演じるには不適格だろう。含まれる酸化チタンの香りが芳醇に鼻元に届いた。
チャセンとかいうブラシをそっと差し入れて、赤い抹星と湯をよく混ぜる。泡が多ければそれだけクリーミーに口当たる。持ち上げた碗を口元に運ぶ。赤い放射光が冬前の霧のように揺れる。碗の中はほとんど黒い。熱と闇、水素にヘリウム、それから金属を含む大気の対流の繰り返し。生きた暗闇が祈るように真っ赤に光り、黒い雲がそれを覆う。一見不吉な光景にも見えるが、耐えない祈りを繰り返すようなその穏やかな様が俺は好きだ。音を立てて三口半、飲む。
手のひら。星を飲んでいる俺。今、俺が宇宙の中心だ。
赤い星、宇宙に数多に存在する赤色矮星、光はたしかに弱いから、見ようとしても他の恒星に邪魔されるばかりだ。それでも、それらは何兆年も存続する星々だ。この小惑星帯より、小惑星帯をつなぎとめてる惑星より、この辺の星系の太陽よりの何百倍も長く生きる。だから長寿への祈りとして、友や愛する人と星を飲み座を囲むときは赤色矮星の抹星が振る舞われるらしい。
俺が飲んだ星の記憶が僅かに脳裏を掠めていく。弱い穏やかな光、恒星の重力に引かれ、徐々に周回を始める惑星たち。一つの系をなし、ハビタブルゾーン生まれる水と大気。不規則なフレアが始まる。そこで、記憶の再現は終わる。おそらくフレアにより、惑星を守る大気は直ぐに削り取られて消えたのだろう。今の飲み方では星と一体になることはできなくて、全部の歴史を俯瞰することも、多くの知識を得ることもできなかった。
三条は言った。生命のいる惑星の味は格別だと。住まう生命の幸福は甘みとなり、苦しみは苦味となる。そのバランスの違いを楽しむため、数多の星を飲むのだと。
残滓、恒星の系に生じた命の気配に感じ入りながら、俺は父の残した碗を優しく拭いて、丁寧に包んで箱にしまう。あの日、結局俺と親父は母さんに会うことなんてできなかった。親父は道具や作法が正しくなかったんだと言って、教えを請うために三条の所に足繁く通うようになったけれど、俺は未だに疑っている。親父の手に入れた抹星は、俺の生まれ故郷の縹のものじゃなかったんじゃないかって。
その後も親父は、正しい道具を揃えるように三条に言われ、運び屋稼業で稼いだわずかながらの金を注ぎ込んだ。ある日、三条から日頃のねぎらいという名目の宴に呼ばれ、沢山の正しい道具にお目にかかれると言って喜んでいたが、その日から俺の住む家に帰ることはなかった。
大丈夫だ。俺は少しずつ理解し始めてる。星の飲み方と、星を飲んだ時に何が起こるかを。きちんと整えれば星の記憶が俺の中に蘇る。恒星なら核反応と系を成すまでの歴史。流れて消えちまう彗星は儚げで。惑星ならその活動の歴史、火山活動や海ができるまで、それから僅かな命の誕生の気配を感じられる。星を飲むことで、宇宙のことをよく知ることができる。
俺が水を差すと湯の沸く音が消える。全くの無音。尊い太陽の光、小惑星帯の輪の上で、ヴェルデの大気が蠢いて玉虫みたいに輝いた。
「そうじゃない。手順も。取り合わせも。もっと工夫のしようがある」
声が聞こえた気がして振り返るが。誰もいない。
3
俺は三条の屋敷にブツを運び。次の仕事までの間はだらだらと場末に入り浸り自堕落な生活を送ることに決めていた。酒場で特急の緑青ビールを注文する。純度の高い銅を蝕む心地よい酸が喉を潤す。
「おい。三条がまた一人葬ったらしいぞ。宗汰、お前は気に入られてるからまあ大丈夫だと思うが、気をつけろよ」
「中身を見ちまったんだとよ」
別の男が言う。錆で心地よくなった男三人が口々に噂話に華を咲かせる。
「三条の野郎、遊んでやがるから。いかにも中身が気になりそうなモノばかり運ばせやがるんだ。液状の生き物だとか。この前なんて箱からうまそうなウランの匂いが漏れ出してやがった」
「あんなだから、緑の惑星に居づらくなったんだろ」
「この月には流されてきたとか」
「他の刑じゃなく流されるってことは、噂通りたいそう高貴な身分なんだろうな。血は青いとも言うぜ」
「ガキの頃、ママに読んでもらった本みたいなこと言うんじゃねえよ」
親父もやはり、三条に殺されたのか?親父と同じように、三条の元で働くようになってからずっと調べているが、未だ確証はない。最後に親父を見たあの日、親父は縹の抹星を手に入れた時と同じように喜々としていた。母さんを犠牲にして、俺を連れて縹を逃げ出したあの日から、働き詰めでいつでも憂うような顔をしていたあの親父がだ。俺が駄々をこねると、親父はよく俺を殴った。飯がまずいと言ったら、しばらくこの月の地面を食わされた。
「遊んでるよ。あいつは。多少の盗みには目をつぶるが、罠にかかった時は容赦ない。いかにも破りそうなルールを課して、破るか見てるんだよ。神を気取ってるからな」
「宗汰、お前、おもしれえこと言うな」
錆だけが妙に強い安酒、零強鉄赤錆を何倍も飲んだ男の口から漏れ出す匂いは生き物の血みたいで、吐き気を催しそうだった。
「だが、そいつの言ってることは本当だろ。俺たち、色々くすねてるが、三条は何も言わねえよ。おかげで少しは暮らしが楽になったな。ほら、この上物の水銀は高く売れるぜ、自分でヤッても、良いトリップができそうだ」
「宗汰、お前も一人前になったな。親父さん。きっと見つかるさ」
酔っていい加減なことを言いやがってと腹が立ったが、怒りを顕わにしても何にもならない。俺は作り笑いをして、安酒を代わりに飲み干して、緑青ビールを二杯持ってこさせて男に奢って、肩を出して感謝を述べた。親父が消えた後、俺の面倒を見てくれたのも、俺にガメてきた抹星を分けてくれたのもこの男だった。酒に中毒してるから、もう何度も事故を起こしているし、このまま多分、酒で死んでしまうように思う。それは少し、寂しいことに思えた。まだ小さな男の子がいるはずだ。
ヴェルデの衛星、俺達の月のクレーターはその日も相変わらず乾燥しきっていて、陽が翳り、酒場が影に入っている時は気持ちよく飲むことができたが、陽が照ってくるともう駄目だった。熱されたせいで土の中の硫化鉄が腐ったような匂いを放ちはじめて耐えられなくなり、俺はクレーターの外れの自室に戻った。叩きつけるような強い風が拭いたせいで表側に野ざらしになっている倉庫が歪んで、戸が開きかけていた。
親父が縹から持ってきたままの緊急避難キットが顔を覗かせていた。地震、洪水、ごく普通の災害に対処するための、食料や医薬品、毛布などの一式が詰められているはずだ。縹を襲った厄災に対してはまるで役に立たなかった。ある日急に、太陽が二つになって、まともな生活なんて送れなくなったんだから。灼熱、焼かれる大地、地下に潜る人々、脱出手段が公表される。生き残るものを選別しなければいけなかった。俺は選ばれ、母は選ばれなかった。父は宇宙航行技術を持っていたから、近隣の住民を逃がす役回りになり、うちの娘を、うちの父を、恋人をこっそり乗せてくれ、お礼はいくらでもする、脱出のその日まで、そういった懇願をされ続けた。生真面目な父は懇切丁寧にひとりひとりに言葉を返したが、お願いに応じることはなかった。密かに母を乗せることもなかった。
俺は脱出のその日、はじめて知ったんだ。母さんが乗らないことを。
俺なんかじゃなく、母さんが助かったほうが良かったんじゃないか。
別れ際の姿が思い出せない。でも、母さん、納得していたのか?
親父にもし会えたら。まずそれを問いただしたい。
4
それからしばらく、親父のことなんて考える間もないくらい忙しかった。三条がヴェルデからの客人をもてなすため、ひと月後に宴を催すらしく。俺を含む運び屋一同はその準備に明け暮れることになった。普段は俺たちの仕事の質になんて興味のない三条は宴の準備のときだけ口うるさい。数も細かく確認するし、中身を破損させたら奴がいたらそいつとはオサラバだ。今度はそいつの封液瓶を捨てに行くことになる。
俺の小型宇宙船の倉庫はほとんど一杯だった。燃費が悪くなるから、一度月に戻って荷降ろしをしたいところだ。それに、貴重な積荷を長い時間持ち歩きたくない。ならず者に出くわす可能性もある。箱の中身の一つは宴のメインディッシュのダイヤモンドで、ヴェルデの辺りは炭素が乏しいから、わざわざ近くの星系から取り寄せたものらしい。俺はその星系に行ったことはないが、往復すれば当然、1、2年じゃ済まない。その他の積荷は黒ずんだ古びた木箱だった。三条が小惑星帯の倉庫に保管している喫星の道具類だ。
警告音。太陽嵐が強いエリアに差し掛かった。俺は身体をよじり加速度に耐えられるように壁に張り付き、航路を変えるために三つのレバーを同時に引っ張った。月、三条の屋敷まではまだ遠い、このまま行くのは単に危険だ。ヴェルデの重力を手繰り、スイングバイで向きを変える。加速と逆噴射を見誤った。積荷は大丈夫だろうか?
土煙、不味そうな鉱物が匂い立つ。小惑星帯への不時着。降り立つ。十分に広い。右向こうにヴェルデの緑の海がエメラルドに輝く、植物オイルをに包まれて、これから焼かれるかのようだ。時折、巨大な龍のような金の雲が現れて蠢くが、今日は数が少ない。左向こうに月がよく見える。
損傷した船底、一番下に積まれていたダイヤモンドの梱包が破れ、ゴロゴロと中身が漏れ出したのを拾って積み直す。翠、橙、白、与えられた光を跳ね返して輝き、高温高圧のマントルの名残がトリュフのように心地よく香った。見ているだけで、自分が溶けて唾液になっちまいそうだった。この小振りで不味い小惑星も、俺の唾液でリンやカドミウムを分解して、ダイヤモンドになっちまえばいいのに。
道具類はみな無事だった。箱も開いちゃいない。中身を見たと知られれば、三条に何をされるかわからない。いなくなった親父は多分、中を見ちまったのかもしれない。だが、箱の数を変えるとどうしても一つ足りない。焦りで固くなった身体を捩って探すと、箱はごろりと丸いダイヤモンド原石の脇に転がっていた。
箱は開き、木箱の蓋が誘うようにこちらを見ている。
黄色い布に包まれた中身が影に転がって、薄暗がりに混じっていた。
なんだかとても恐ろしかったが、もっとガチガチに固まるほどじゃなかった。箱が開いただけ。中身は無事だ。
木箱には流れる水のような字で星忘と書かれていた。他の文字はよく見えない。中身は本当にあるのか?影の中に転がったからよく見えない。黄色い布だけが誘うように、落ちた衝撃の残滓のまま靡いていた。俺は闇の中に身体を伸ばして、それを拾い上げた。
黒い土塊。星を飲む器。親父が持っていたものに似ている。
俺は思い出しながら姿を変える。二足歩行、二本の手、不便な身体。
黒い碗はヒトの二本の手によく馴染んだ。黒く、軽く、頬を擦り寄せるとあまりにも冷たい。肌に吸い付くようだ。手の形がそのまま器になったようだから、恐らく手で捏ねたのだろう。その手のひらで愛でられているようで、そう思うと温かい。黒い土塊を通じて、作り手と通じるように思えた。掲げる。表面で生き生きと光が跳ね、また直ぐに影の中へと戻っていく。ああ、なんて美味そうなんだ。俺はダイヤモンドを見たときよりも柔らかく、唾液まみれに溶けそうになった。溶けかけた身体を、ヒト型に戻す。
碗に導かれるように湯を沸かす。
船室に戻り、丁度一碗分くらいの抹星を持ち出して、待つ。
静かだ。この碗で星を喫すれば、どういう味わいだろう。
星を注ぐ、花崗岩の甘い香りが立つ。プラチナの穏やかな丸みが香る。
湯を注ぎ、碗を持てば、俺がまた、宇宙の中心だ。
青銅のおたまに手を伸ばす俺を、伸びてきた手が制止した。
「少し待て。それでは足りない。もったいないであろう。湯をいれるな。星を戻せ」
「なんだよ。水を差しやがって。これからがいいところなんだ」
「いいから、それを置きなさい。それに水など差しておらん」
大体、お前は誰なんだ。俺は手を引いて足に力を入れた。ヒトの身体でこの体制を保つのは無理がある。曲げ続けると膝が痛くなる。正体が分からない。本能的に、声の主に従おうと想った。
「いささか道具も不足してはいるが、大事なのは心持ちだ。まず。指はきれいに揃えなさい。いつお客さまに見られてもいいようにね」
「お客?何言ってやがる」
俺が顔を上げると。老いかけのヒトが立っていた。長い一枚の布を纏い、腰のあたりを別の布でぐるりと巻いて結んでいる。固く止められた結び目は整えられた幾何学をしていて、垂れた端が宙に揺れている。
「誰か星を差し上げたい人はいないのか?」
「いつも自分で飲んでるからな」
「普段はそれでいい。しかし、誰かをもてなし、その方に捧げることが、喫星の作法の真髄だからね。星を飲むために集まった一座がそれで一つになるんだ」
そいつは俺の横に座った。形を保つのに疲れた足先が少し緩んで輪郭を失った。俺たちと同じだ。どこかで覚えてヒトの形になったのだ。何より俺が驚いたのは、そいつが三条と同じ姿をしていたことだ。三条に出会い、握手でもして擬態したのか?いやしかし、三条はおいそれと他者に自分を触れさせはしない。擬態されることを嫌うからだ。
「お前、三条?じゃないよな。どうしてそんな身体をしてる」
「随分と乱暴な物言いじゃないかね。三条?知らないね。多分私と、擬態の元が一緒なんだろう。私も、旅のさなかで出会った者に合わせてこうなった。元はひとり、遠くの青い星に訪問した際にこの形になったんだそうだ」
老体は優しい口調でそう言って、黒い碗から俺の手を退けて微笑んだ。黒ずんだ木の板を持ってくるように言われて、俺は渋々従った。
「これは、貴重なものを」
「その不味そうな木の板は何なんだ?真っ黒じゃねえか。字が書いてあるが、意味も良くわからない」
「この文字は、この身体の擬態元の名前だよ。青い星に住む人類がこれを作ったんだ。光ですら何億年もかかる彼方かもしれない。母星を喪った私達の祖先の話は聞いたことがあるだろう。かつてはこの宙中を旅していた」
「そんな話は聞いたことがねえが、俺の生まれ故郷の縹も青かった。俺はまだ小さい頃に逃げてきた。親父は忙しくて、あまり多くを教えちゃくれなかったが、星の飲み方は教えてくれた。星を飲んで、俺は重力やら太陽のフレアやら、そういう法則を学んだ。さあ、黒い碗を返せよ。飲もうとしてたんだ」
「まあ待ちなさい。星の飲み方を心得ているのにもったいない。私が君に教えよう。もう一度ここへ来なさい」
5
宇宙船の破損箇所を補修するために、身体の一部を切って塗りつける。切り取る瞬間はいつだって焼けるように痛いが、戻って沢山食えば直る。俺の身体だったものはピンと張り、内部の気圧と温度を保てる程度に船体は手当された。
あの老体は星忘と名乗った。各所を回りながら喫星の作法を広めていると言い、三条の準備する宴にも興味を持っていた。俺は黒い碗を取り返そうと追い回したが、奴は速くて追いつけなかった。あの黒い碗で飲むのは格別だから、味わせてやるから待てと言って聞かなかった。俺は家に帰ると、親父が大事にしていた別の黒い碗を取り出して、黄色い布に包み、道具の箱にしまい込んで三条に収めた。太陽嵐が酷いせいで、運び屋はみな苦労していた。俺が積荷をほとんど無傷で届けたことに喜んで、宴の際に何か例をすると言って妖しく、見透かし、弄ぶように笑った。三条と星忘はすがたはほとんど同じだったが、三条の足元のほうがより溶けて、ヒトの形を忘れていた。
三条の邸の従者に聞くと、宴の準備を始めるのはまだ先らしかった。箱が改められて、黒い碗のすり替えに気づかれれば命はなかったが、予想通り少しの猶予があった。その間に、星忘から作法について聞きだそう。
俺はなぜだか星忘に惹かれていた。誰かに何かを教えてもらうのは久しぶりだったし、喫星の作法を知ることで、親父に近づける気がしたのだ。親父は縹の抹星を飲むことで、母さんに近づこうとした。三条の宴の末席で、縹が振る舞われると聞いて出かけて行って、行方をくらませた。俺も同じ様に、この世に居場所をなくすかもしれないが、母さんの思いに触れられるならそれでも良い気がした。とにかく今は、親父に近づきたかった。
運び屋の一人、幼い俺の面倒をよく見てくれた男が太陽嵐の影響で運送に失敗し、積荷を台無しにして三条に呼びつけられたと噂で聞いた。俺が家を出ようとすると、彼の幼い息子が零強鉄赤錆をからだ一杯に抱えて家に戻るのが見えた。血流の源がキュウと締め付けられるのを感じた。やめろ。俺のような者を増やすな。三条の機嫌が良ければ問題ないが、運が悪ければ、あの子の父親はもう、帰らないかもしれないのだ。
「いらっしゃったな。まずこちらへ」
小惑星に降り立つと、星忘は俺を小ぶりなクレーターに掘られた部屋に案内した。ヒトが5、6人くらいしか入らない狭い部屋だ。草で編まれた正方形の床が敷き詰められている。縦方向に三つ、横方向に三つ、合わせて九つで床全体の正方を成す。縹を飲もうと言って親父が用意したのと同じだ。右手側の小窓から差し込んだヴェルデの緑に染められて、つまらない土の床が珊瑚の絨毯のようになる。右手上方の丸窓からは三条の支配する月が青白く見え、落ちた光が床の上で月となる。
たっぷりと水の張られた器が持ち出され、一つの正方形の真ん中に据えられる。今度は左手に黒い碗、碗の上に真鍮の匙と、チャセンが乗せられている。右手には径がちょうど人差し指くらいの長さの、珠のような器。最後にたらいに似た金属の桶に、植物の茎の切り出された柄杓が持ち込まれ、部屋の入口が閉じられる。明るすぎた地上にひとつ、閉じられた影の世界が作り上げられる。小さく軽い各々の道具はいま、暗い正方の床に法則に従い並べられた、星々のように濡れ輝いた。星忘は両膝を付き、涼しげに坐った。
胸元から取り出された紺色の正方の薄布を、左膝で本を読むように開いた。聞くと袱紗と言うらしい。
「まず全ての道具を拭き清めるのだ。お客の前でな」
淀みのない川のように、一切止まることなく星忘の所作は流れた。正方形の布、袱紗を対角線で半分に折り三角を作り、それを左右から三分の一ずつ織り込んで握り込む。星の入った珠のような器を手にとり、握り込んだ袱紗で丁寧に拭いた。
刹那、俺は器に真空が出現する感覚を覚えた。弱い重力に引かれる薄い大気が一点に集まり、拡散の法則に従い部屋に満ちた。星忘は同じように匙を拭うと、また真空の感覚が訪れた。
「何をしてる?」
「星を感じるために、余分なものを全部落としている。清めているのだ」
「その布に、秘密が?」
「使うものに秘密などないさ。この所作が、我々が星を飲み、星と一体になるための手続きなのだ。滑らかに、止まることなく、急ぐことなく。行えば、行うものは空間そのものとなる。お客をもてなすため、空間全体を設えるのだ」
「親父のメモには、そんなことは一切書いてなかった。三条の野郎は、正しい道具を使えと」
「所作と一連の手続き、そして想いこそが本質だ。道具は、想いを掻き立てるための要素に過ぎん。例えばだ」
星忘は言って、星を飲むための所作を続けた。
黒い碗に湯を張り温め、湯の中でチャセンを振り、碗を白い布で三回転半回して拭う。拭う度、碗の周りに刹那の真空が現れては消えた。
珠のような器を開く。
鮮やかな濃青のスペクトル。爆ぜて回る巨人の息のごとき白。
重水素の孤独な香りがする。陰の中、ヴェルデの緑、月の白、珠の器の中に美しく山なりにもられた青い抹星。陰が今、宇宙のどこかの断面であり、膝を少しでも動かして横に動けば、瞬時に何百光年も移動できるようにさえ思えた。
「恒星同士がぶつかる時、このように孤独な青が生まれる」
「初めて見る色だ」
「こんな宇宙の外れではな、見ることはできんよ」
「この青は二つの星がぶつかってこのようになった。元の星のを回る惑星で取れた岩を用いて、碗を削り出したり、このような星の器を作り出したり、惑星の土でできた碗を用いたら、お客の心はどう動く?お前の場合、縹といったかな?その星の土で作られた碗で星を飲むことができたら、どのような心地かな?」
裸足で踏んだ縹の土、草の匂い、礫岩の舌触り、青い空、俺は思い返し、何も言葉を返すことなくただ頷いた。
星忘が濃青の抹星を器から掬い出し、碗の底に星屑の海を作る。
湯を注ぐ。揃えられた指先を湯に解かれた星のスペクトルが青く照らす。
青い。蒼い。白い。碧い。白い。
衝突し融合する前の二つの恒星の重心が碗に現れ、青の星屑のそれぞれが楕円に運動して揺らめく。元の二つの恒星に離れ、朱黒と薄黄蘗の核が輝き、また融合して一つの青に戻る。
差し出され、促され俺は飲もうとする。
「感謝しろ」
「アンタにか?」
随分横柄なやつだと思った。もちろんそうではなかった。
「星にだ。今日もこうして星を頂けることは、何にも変えたがたいことだ。それから、飲む前に碗を二度回せ。謙虚な心で正面を避けるのだ」
俺は言われるがまま、両手で包むように持った碗を少し持ち上げ、頭を垂れて息を吸った。重水素、高エネルギーで融合される金、銀、ルテニウム、貴金属類が極楽鳥が舞うように香った。ああ、ジスプロシウムにニッケル、ネオジムの原石も仄かに、長い夜の終わりの海のように優しく薫る。
心を鎮め、二度、右回りに回す。至福の三口半、永遠とも思える瞬間。
星団が生まれる。全ての恒星はほとんど同じ年齢で、共に時を過ごす。はじめ双子だった連星、朱黒と薄黄蘗のふたつが時間を掛けてぶつかり、別れ得ぬほど混ざり合い、高いエネルギーを得て巨大な青に姿を変える。仲間はずれの大きさ、仲間はずれの力、仲間はずれの色。強い重力、それは多くを引き付け、捕らえるが、どこから見ても異質で孤独だ。青いひとり星と呼ばれ。他の星たちが死にゆくのを見る。星団はやがて暗く落ち、ただひとり、広大な、あまりにも広大な暗闇に取り残される。
星を飲み、俺は今、宇宙の中心でひとりだ。
いつもより強く、それを感じる。俺は一つの星だ。
神経系で星団が弾ける。一斉に輝き始める。数多の重力の源が絡み合って軌道をなす。集会を始める惑星に、偶然生まれた水に宿った生命を残酷なフレアが滅ぼすのを見た。我流で喫星した時ときよりも遥かに長い時間。遥かに広い空間。やがて取り残される。一つの青いはぐれ星。
俺も孤独だ。父も母もいない。しかし、これほどではない。これほどの時間を耐えていない。勇気づけられるような。悲しいような。これは、どちらだ?
孤独な星は最後、ブラックホールに叩き込まれ抹星へと変えられる。
そこで全てが途絶える。
「見えたか?はぐれ星が生まれて死ぬまでの全てが」
「確かに見えた」
星忘は湯に水を差す。釜から立つ湯気が止む。青い繭のような静寂。
「これが神髄。星の道は、流れるように星と一体になることを目指すのだ。私も未だ極めてはいない。日々の所作の積み重ねと、こういった手続きを覚えることで、究極の境地へと近づいていくのだ」
「なあ、俺はさ、縹、俺の生まれ故郷の星を飲んで。母さんの思いが知りたいんだ。あんたに教えてもらえれば、知ることができるかな?」
6
俺は仕事終わりに毎日、星忘の元へ通い、基礎の基礎から喫星の作法を学ぶことにした。星を飲む際は食事をもってこいと言われた。空きっ腹に星を飲むと腹がもたれるから、腹をいっぱいにしてから飲むほうが良いらしい。小惑星帯の土なんて食えたもんじゃないから、俺は都度、三条の邸への納品を終えた後、地下の食料庫から適当な量の鉱物をくすねた。何種類もの酸化クロムは、酸化の度合いに応じて豊かな風味が楽しめた。宇宙から見ると、あの子、同僚の息子がひとりお腹を空かせたまま父親を待っているのが見えたから、いくつか食べさせてやった。
「お前のように、毎日通って学ぶ者は珍しい。こんな宇宙の外れに、教えを乞うものが現れると思っていなかったよ」
星忘は笑い、一通りを俺に教え終わった後は、また別の星系へ向かうのだと言った。飛び回り、より多くの者をもてなすことで、宇宙をより理解するためだという。
「お前は身体が柔らかい。筋が良いな」
「全部を理解するのに、どれくらいかかるんだ?」
「さあ、私もまだその途上だ。一生かかるかもしれん」
「縹の抹星が手に入ったら、すぐにでも試したいんだ」
「試すのは良い。お前も誰か、点てた星を捧げたい者、お客様としたい誰かを探しておくのだよ」
そう言って身体をよじり、二本足をまとめて長い一つの蛇の尾のような形に帰ると、砂煙を立てながら地面に文字を書き連ねた。一本の長い蛇のように足の形を変えた星忘が身体をよじり、土臭い大地に文字を書きつけた。蟭螟眼裏五須彌だと言った。意味は何だと俺は問う。
「蟭螟はごく小さな虫、我々には見ることができない小さな生命だ。その目の中にも広大な世界が広がっているということだ。お前の故郷には、数多の生命が住んでいたことだろう。飲む時はその生命の流れを全て味わうと良い」
恒星は宇宙の原理を、惑星は時に生命の原理を教えてくれる。
星への感謝の心を忘れるな。
生命の存在する惑星は珍しく。生命の多様さで味わいが変わる。星の道を勘違いしたものは、その味わいばかりを追求して、次から次へと惑星を抹星に挽こうとするという。
昨晩の眠りが深かったせいか、その日は体力が余っていた。学ぶのに時間がかかるなら、体力のある時は一度に多くを学びたい。俺が請うと星忘は微笑んで、同じように足先で喫星去と書いた。青白い惑星を丁寧に点てて俺に差し出した。
「星でも飲んで、落ち着くといい。少し、難しい手続きを見せよう」
星忘は正方の布、袱紗を取り出して、左膝前に重たく構えた。分厚い哲学書を見開くかのように、重たそうだ。広い背中に差し込むヴェルデの緑の光と、今日はよく照り輝く太陽の光。堂々と伸びた背筋は、軸のようだった。薄暗く狭い部屋はいつもの稽古と同じように、所作を通じて宇宙となった。
右回転に90度、袱紗を回す。
布が回ると、星忘を中心に宇宙が回った。
お客のため、空間全てを回しを清めるのだという。
所作を通じて宇宙と一体になり、それを回転させるのだと。
窓から差す光が失せている。小惑星の位置が変わったのだ。右側の窓から差し込む青白い月が妖しく、誘うように、憐れむように輝いていた。
「これは格式の高い場合にのみ用いる手続きだ。生半可に行えば回転の軌道が乱れて滅茶苦茶なことになる。しかし、これを喫星以外に用いる不届き者もいる。例えば、星の軌道を変えて、別の恒星の傍に置いたりな。空に見える太陽が二つになり、焼けてしまった星を幾つも知っておる」
7
星忘の去り際、俺は握手を求め、瓜二つの見た目になった。つまり、三条とも同じ見た目になったのだ。星忘はいつもと同じように穏やかに笑った。険しい顔しかしなかった父が、こういう顔を少しでも見せてくれていたら、俺の生き方も変わっていたかもしれないと思った。
俺はその姿のまま、三条の邸に潜んだ。借りっぱなしの碗を元に戻し、宴の日まで食物倉庫や宝物庫の手頃な場所を行き来した。通路で何回か従者とすれ違ったが、俺を見た奴らは仰々しく挨拶するだけだった。予想通りだ。従者から聞き出した抹星の保管場所は邸の奥深くだった。恒星、彗星、惑星、明かり一つない部屋が、瓶に詰められた抹星の数多の色の輝きで満たされている。俺の顔は青く、黄色く、赤く、全ての色のマーブルに染まった。
惑星の抹星も数多に存在した。その中に、縹を見つけた。
宴の当日。ぶよぶよとよく太った金持ち達が十人も二十人もやってきて、広間に通された。各所から集めた宝物が広間の棚に飾られた。豪奢で、華美で、放漫で、虚栄な、尊大な自尊心が見え透いていた。金持ち達は美しさへの感動と、三条への嫉妬が入り交じるうっとりとした暗い表情で宝物を見ていた。ダイヤモンド、アクアマリン、オパール、豪勢な食事が供される。宝石の反射する光が目を焼き切りそうな程だった。俺みたいな生まれの者が嗅いだことのないようなどす黒い血液のように野蛮で重たい、それでも本能的な食欲を駆り立てて止まない香りが満ちた。
「今日はどんな星が出るのか」
「この前の三種の惑星はどれも最高だった。一つは甘く、一つは苦く、一つはその中間だ。急激に陽に当てる量を増やしてやると、しまった味わいに鳴るようだな」
「今度は三つの恒星で急熱した惑星が出るとか。私はそれが楽しみで」
胸が痛む。急熱。俺の故郷は、母さんは、味のために焼かれたのか。
満腹になり、酒もたらふく飲んだ金持ちたちはみんな、だらしなく形を崩して、下衆な唾液と混ざり合って錆びきるような匂いを出した。
三条が星を振る舞う準備をするため、別室へ下がった。今だ。
俺は広間に入り、準備していた道具を持ち出す。金持ちたちは戸惑うが、誰も彼も俺が三条だと思って疑わない。
持ち出した一通りの道具。集中する。稽古の成果を見せる時だ。
俺は今、宇宙と一つになる。
星忘から授けられた袱紗を構え、深く息を飲む。
広間中の視線が俺の手元に集まっている。俺の宇宙に全員が乗っている。
袱紗を構える。右から左へ90度回す。
強い遠心力、加速度。宝物も、金持ちたちも壁に叩きつけられる。割れる音、ひしゃげる音、華美と虚栄で満ちた部屋が崩壊の音で満ちる。俺の付け焼き刃の作法では、雑に空間を回すことになるが、読み通り、この場合は都合がいい。
少なくともこの月は、どうにでもなってしまえばいい。
もう一度、90度回す。強い加速度。強い想い。
もう一度、天井から床へ、金持ち達が叩きつけられ呻く。
飛んできた三条と対峙する。
「あんた、こんなえげつないことしはって。えらく元気にしてはりますなぁ。あんたもお父はんみたいになったらよかったんに。その格好できはるとは、堪忍しとくれや。みんな怒ってはるよ」
奴の顔は至って冷静だ。語気も平たいが、それ故に却って、今にも、すぐにでも、殺されかねないと確信した。俺は無我夢中で袱紗を回し続けた。回転が続く、加速度に負けて邸の柱が折れる。
三条も床と天井に繰り替えし叩きつけられ、呻き気絶した。
俺は潰れた邸から這い出す。闇夜の中、遠くのヴェルデが美しく緑に輝く、ああ、あれが、縹だったら良かったのに。邸の火の手は止まない。三条の財産をかっさらおうと、運び屋たちも、他の住民もいっせいに押し寄せる。従者の中には抵抗するものもいたが、叩き伏せられていた。
俺は家に戻ると、座を整えた。
邸から手元にもどした黒い碗に頬を当てる。親父の想いを感じる。冷たい、でも温かい。これは確かに、縹の土で焼かれた器に思える。水、ああ、縹の水もあるじゃないか。俺は裏手に駆けていって、親父が縹から持ってきた緊急避難キットから水のボトルを取り出した。三条の邸から持ってきた、いや、取り返した縹の抹星を容器にいれる。
湯を沸かし、手続きに従い全てを清める。
親父、母さん、あなた達に星を捧げたい。
黒い碗に縹の湯を注ぐ。愛しい夏の香りがする。
俺は今、縹の回りの宇宙だ。
口をつける。俺は今、縹そのものだ。
長く続く雨、青い海が生まれ、偶然にも極小の生命が誕生する。数え切れないほどの母が生まれては、子を残して死んだ。時には子を守り死んだ。魚類も、地を這う爬虫類も哺乳類も、俺たちの祖先も。俺たち自身も。何世代も、何百世代も産まれては消えた、そして継いでいった。母と父から子へ、母は身代わりとなり、後悔はまるでなく。諦めでもなく。希望であった。
味の名残に母さんが見える。ほら、あなたが生きられて。良かったと。
星忘の形を保てないほど、俺はおいおいと泣いた。ただひたすらに泣いて、溶けた。釜も碗も湯も、全て飲みこんでしまうぐらいにだらしなく広がって、やっと会えた。
やっと、あの時の気持ちを知ることができた。母さんは決して、迷いはしなかった。決めることすらしなかった。必然とそれを受けれたのだ。それ故、俺は今、ここにいるのだ。
ひとしきり泣いた後、星忘の形に戻ることはできなかった。
俺の面倒をよく見てくれた運び屋の子が、少し離れた所で、虚ろな目で三条の邸の騒ぎを見ていた。俺は孤児になったその子を呼び寄せて座らせた。
ヒト型に戻って星を点てた。
今日から、この子に星を振る舞おう。時たま親父がしてくれたように。
了
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