女神の死を待つ女

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梗 概

女神の死を待つ女

老いを嫌悪している十六歳のあたしは、学園の外れの墓地で薬草を数える老婆と出会う。食事係手伝いだという老婆はよぼよぼに老いて醜いが、憧れの女神さまの学友と知り興味を持つ。女神はこの国を守る、巨大で美しい存在だ。あたしの言葉に応え、老婆は「あの女」のことを語り始める。

女神の世話係を育成する学園の生徒である孤児のカンナは、同級生で家柄も頭も良い美人なアーサに憧れていた。だが成績が拮抗していたため彼女に目の敵にされる。教師の覚えもめでたいカンナは、報復のつもりで女神候補としてアーサを推薦する。

同級生らも賛同し、アーサは本当に女神候補になる。女神は巨大な体と重い体重に比例して遅い時間を生きており、ゆっくりとしか年を取らない。国内では女神様が眠っている時期、立っている時期などで時代を区分している。一方、体が大きいとはいえ人間であり突然死することもある。そのため毎年十七歳の少女が候補に立てられている。

アーサは地下にある特別室に隔離され、カンナはその世話係に任命され隣室で寝起きすることになる。アーサは我儘に命令し、カンナはストレスをためていく。アーサは女神になるくらいなら死ぬと口にするが、女神を崇拝するカンナは理解できない。部屋を出られないカンナと違い、カンナは女神の歯磨きなどの実習にも励みながら忙しい日々を過ごす。

ある夜、カンナは逃げようとしたアーサを見つけ、見逃してくれと頼まれながらも密告する。アーサはカンナに「死ぬまで恨む」と言う。カンナは教師たちに感謝されるが、そこまでしてアーサが女神になりたくないのを不思議に思う。アーサを心配して様子を見に来た家族に会ったカンナは、彼女の帰りを待つ家族の愛情に触れる。女神になると家族や友人と人生が分かたれ、人としての気持ちもいずれ忘れるという。老いた女神は不吉なので早めに交代させられるのだとカンナはアーサから聞かされる。女神になるための儀式は地下深くで行われており、その詳細は誰も知らない。

カンナは罪悪感を抱えつつもまさか現女神が死ぬことはないと思っていた。だがまだ老いたというほどでもないはずの現女神は突然に崩御する。カンナはアーサの髪留めと、カンナを世話係に任命したのは自分だという言づてを受け取る。カンナは儀式に向かうアーサに、死ぬまで恨んでくれ、自分はあなたより長生きするからと告げる。

現在に戻り、あたしは老婆の身に着けている髪留めを目にする。女神アーサはまだ若く、老婆のそばにある墓に入るのはずっと先だ。老婆はそれまで生きられないだろうと言うあたしに老婆は「百年経った」と笑う。学園の外れは広大な薬草畑だった。女神を殺すのに必要な毒の量も体重に比例して桁違いだが、この百年、カンナはひたすらに畑を開墾して育て、毒を女神に与え続けていたのだった。あたしは日が陰るのを感じ、女神が倒れるのを見る。目の前では老婆が事切れていた。

文字数:1193

内容に関するアピール

得意なのは女性の感情を描くことです。犬猿の仲から始まり深く結びついた二人の女性の因縁をその終わりまで描きます。モチーフは卒塔婆小町。

若く美しい永遠の彼女、物語の中ではそうした存在によく出会います。だけど、彼女本人が本当にそれを望むでしょうか? ヒロインの時は止まり、主人公は好きに「あの頃」を語ります。彼女たちは永遠に若さに閉じ込められている。でも、「十七歳の時の自分が一番好き」なんて女性は実際にはめったにいないと思います。
そうした物語の多くは男性視点であり、かつそのことに無自覚と感じます。時間を止めたヒロインの裏側には、老いて誰にもまなざされない女性がいる。だからこの物語では老いた女性の側からすべてを語ります。

文字数:309

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女神の死を待つ女

私を美しいと云った男はみんな死んじまった。 ――三島由紀夫「卒塔婆小町」『近代能楽集』より

 

 

 あたしは老人って苦手。腰が曲がって、よぼよぼのシワだらけになるくらいなら、さっさと死にたいって思う。
 その日、あたしはくさくさした気分でいた。学園に入るのはあたしのずっと前からの夢だった。何しろあたしは女神様に憧れてたから。
 だけど同級生のマヤに、アーサ様は前の女神様よりきれいじゃないって言われた。あたしは前の女神様のことはよく知らないけど、でもアーサ様が一番きれいだと思う。マヤだってあたしより半年年上なだけで、前の女神様のことなんて知らないくせに。マヤは単にあたしに文句をつけたいんだと思う。あたしが好きなものをけなしたいのだ。
 あたしは一人になりたくて、学園の外れに歩いてきていた。そこに、まだ新しい大きなお墓があった。普通の家よりもはるかに大きい、立派な石造りのお墓だ。
 先代の女神様のお墓は確か、西の山の麓にある。じゃあこれは誰の墓なのだろう。
「ちゅう、ちゅう、たこ、かい、な……」
 幽霊? どきっとしてあたしは立ち止まり、墓に腰掛けている人がいることに気づいた。
 あたしはその人ほどの年寄りを初めて見た。たぶん九十歳は超えてる。顔はしわくちゃで目は埋もれてて、腰はほとんど直角だった。
「墓参りには早いよぉ」
 そう言って老婆はけたけたと嫌な感じに笑った。
「墓参り? これってお墓なんです?」
 これほど巨大な墓となったら……入るのは女神様くらいしか考えられない。老婆はそこに我が物顔で座り、何か草を数えている。
「そうさ。私はここであの女が墓に入るのをずっと待ってる」
「『あの女』って……。アーサ様のことですか? そんなの、ずっと先じゃないですか」
 アーサ様はまだお若い。お墓に入るのなんてずっと先だろう。
「あのクソ女さ」
「何でそんな風に言うんですか」
 今もアーサ様の大きな頭は学園の象徴である塔の向こうに見えている。女神様は、この小さな国で一番高い塔より更に高い。
「そうだったからそう言ってるだけ。鼻持ちならないクソ女だったよ」
「知り合いなんですか」
 この国で女神様をこんなに悪く言う人なんて初めてだった。学園の先生たちが聞いたら卒倒してしまいかねない。
「同級生だったよ。私はあいつが女神になった後もずっとここで薬草を育てて、健康管理の手伝いをしてきたのさ」
 まさか女神様の同級生が生きてるなんて思わなかった。歴史上の遺物って感じだ。よぼよぼの老婆が、途端に魅力的な存在に見えてくる。
「アーサ様って、どんな方だったんです? きっとお美しくて、賢くて、素晴らしい方だったんでしょうね」
 あたしはわくわくしてきた。そんなあたしを見て、老婆はまた嫌な感じの笑い声を立てた。大事そうに薬草を握る老婆の手の、短く切った爪にはびっしり泥が詰まっている。健康管理と言ってもきっと主に畑の世話をしている人なのだろう。下っ端だ。女神様の偉大さとはかけ離れたちっぽけな存在。
「あの女のことか、いいよ。話してやろうか。あのクソ女のことなら、今でもよぅく覚えてるよ」
 そうして老婆は話し始めた。

 ・ ・ ・

 私は孤児だったけれど小さい頃から勉強は得意だった。だから十歳になったときスムーズに学園に入ることができた。
 学園に入ってからも優等生で、先生達からの覚えもよかった。他にできることもないから必死に勉強したよ。
 学園の生活は、外にいたときには羨ましいと思ってた。搭の各階にある教室、揃いの制服、上品な女ばかりの生徒。給食まで出る。でも、入ってみたらきらきらしたばっかの場所じゃないってことはすぐにわかった。
「あら、カンナさん。ご機嫌いかがかしら」
「まぁまぁだけど、何」
「いいえ、この間の試験、調子が悪かったみたいね」
 アーサは私より少しでも順位がいいと必ず嫌みを言ってきた。そういうやつだったんだよ、あの女は。
 彼女はとびきりの美人だった。茶色がかった長い髪は柔らかそうで、彼女の白い肌によく合っている。すらりと背が高くて、家柄も頭もいい。
「カンナさんは昨夜もお勉強で忙しかったのかしら。目やにがついてるわよ」
 でも性格は悪かった。私の顔を見るたび、くすくすと彼女は笑ったもんだよ。
 同級生でもアーサに憧れている者は多かったし、最初は私もその一人だった。だけど、いい加減にうんざりしてきた。アーサは貧しい孤児の私の成績が良いのがよほど気に入らなかったんだろうね。
「順位なんてどうだっていいし、そんなに頑張ったりはしないけど」
 いつしか私も、アーサに対してはきつい言葉を返すようになっていた。
「そうかしら、まぁ確かに、あんなに低い順位だったらどうだってよくなるわね」
「前回は私の方が良かったじゃない……!」
 周囲の生徒たちが、またやってる、と遠まきにしているのがわかる。アーサにつっかかるのは私くらいだ。でも私にはもともと友達もいないからいいのだ。学園には女神様のお世話を学ぶために来てるんであって、友達を作りにじゃない。
「負け惜しみをありがとう」
 そう言って高らかに笑い、アーサは去っていった。恵まれた境遇で、どうしてあんな性格になるのだろう。いや、恵まれた境遇だからなのか。
 彼女は私とは全然違う。私は孤児で、見りゃあわかると思うけど若い頃だって地味な見た目さ。十人並も十人並。男に見初められて結婚、なんて最初から夢見てもいなかった。だから、女神様のお世話係になることだけが生きていく唯一の手段だったんだよ。

 学園は女神様の世話役を育成することを目的としている。あんたもそのために勉強してるんだろ? まぁ復習と思って聞いてくれればいい。
 学園は塔の中にあって、身分の高い者しか上の階には行けない。学園は十歳の少女のみが入学でき、一番下の階から始まって、八年をかけてあらゆる勉強をしていく。その中で選ばれた精鋭だけが、女神様のお世話係になることができる。
 女神様の神威については小さい頃から何度も聞かされてきた。私たちがこのちっぽけな国でも生きていられるのは、女神様のおかげだ。女神様がいるこの神秘の国に、喧嘩を売ろうというやつはいない。
 女神様の寿命は数万年にも及び、女神様の一日は私たちの百年にも匹敵する。かつては巨大な神々がこの世界にはたくさんいたという。だけどみな去ってしまい、今この世界にいる巨大な人は私達の女神様一人だ。
 外に比べれば学園は楽園のようだった。外では食べ物も不足してたし、夜盗に襲われたり失踪したり、それから奇病に冒されることなんかもしょっちゅうだったからね。
 私が先生からの呼び出しを受けたのは、もうすぐ十七歳になる早春だった。
「カンナさん、あなたは優秀ですし、仕事を着実にこなしてくれていますね」
 突然一人だけ呼び出されたので、何か問題でもあったかと内心びくびくしていた。だがどうやら、先生は私を叱るつもりはないみたいだった。
「はい、どうもありがとうございます」
「もうすぐみなさんは十七歳になる。そこで、女神様の候補になる人を、選ぶ予定です」
 私は一瞬、固まってしまった。今の女神様はまだ私たちの年齢に換算すると、四十歳前だったはずだ。まだまだお若いし、代替わりが必要とは考えられなかった。
「もちろん女神様の威光は末永く続かれます。しかし人のお体、何か突然のことが起こらないとも限りません」
 私の心を読んだかのように先生は言う。だけど女神様に「何かが起こる」なんてそれこそ一大事だ。この国には武力がないし、交易に多くを頼っている。その後ろ盾となってきたのが女神様だった。女神様お一人で、軍隊いくつもに等しい軍事力なのだ。
「私たちも万全のお世話をしますが、お風邪を引かれることもあります。もっと重いご病気になられたとしたら、女神様のご手術を行う手立てはほぼないと言ってよいでしょう」
 不敬を恥じるように先生は女神様の方向に向かって一礼をした。確かに、女神様がもともとは普通の人間だったということを、私たちは簡単に忘れてしまう。女神様はとても強いけれど、それは私達と比べればの話だ。あくまで人の体なので、風邪や病気になることもある。
「これは毎年行われているもので、あくまで念のための措置です。女神様の候補は十七の娘と決まっている。もし候補を立てるなら、あなたたちの代では誰がよいと思いますか」
 これは単なる一つのヒアリングに過ぎず、もっと他の人にも聞くだろうし、最終的に決定するのも先生たちだろう。
 女神候補になったら体を清めるため、一年間は塔の最上階にある部屋で生活するのだという。同級生とは会うこともできなくなる。もちろんテストも受けない。
 どうせ、今の状況で代替わりが起こることはないだろう。私にはひとつの答えしか浮かばなかった。
「アーサさんがぴったりだと思います」
 それがどんな意味を持つ答えなのか、そのときの私には想像もできなかったんだよ。

 ・

 塔の中にいると、いつも窓から女神様が見える。女神様は、私たちとは喋らない。神なのだから当たり前だ。私の知る限りいつも、何もせずただ立っていらっしゃる。何か伝達することがあるときは、祭祀長がそのご意向を承り、みんなに伝える。
 塔からは、小さな町とその向こうの畑も見える。
 この国は大きく分ければ学園とその外から成っている。学園の外は多くが畑で、学園に立ち入れない男たちが暮らしている。もちろん、学園に入れなかったり世話係になれなかった女もね。
 その更に外はほとんど荒野だ。このあたりの土は質が良くない。だから麦を育てるのも一苦労だった。女神様はもちろん大量の食物を必要とされるし、食料は常に不足がちだった。
 女神様が指先ひとつ動かすにも、私たちには数日かかって見える。女神様と私たちでは、そもそも時間の流れが違うからだという。女神様にとっては、私たちは蟻のような存在なんだろうね。でも、とりわけ蟻を大事にしてくれる人間、ってとこだ。
 当時の女神様の髪は短くて、アーサよりもだいぶ小柄で細身だった。名前はエレーナ様。もちろんあんただって歴史は学んだろう? そう、何が起きたかあんたは知ってるだろうけど、もう少し我慢してくれよ。

 私は気がつくと息を潜めるようにしていた。はるかに遠い天井に窓がある、縦に細長くてひんやりと冷たい、狭い部屋だった。塔の最上階というから、よほど豪勢なところなのかと思ったけれどそんなことはない。どう考えても人が住むには向かない。
「なんで私が……」
 女神様の候補者は、体に不浄なものは入れられない。だから清められた水と食物だけを摂り、人との接触も最小限にする。いつ代替わりが起きるかはわからない。だから数えで十八になる新年の始めまで一年は、隔離されたこの部屋で暮らすのだ。
 多くの同級生たちも、アーサが女神候補に相応しいと賛同したらしい。だってアーサは美人で成績がよかったし……それに後になってわかったことだけど、取り巻きこそいても人望はなかった。
 そうしてアーサは、ここで一年を過ごすことになった。もう私たちと一緒に授業を受けることもない。勉強も、食事も全部一人だけでする。それは、私にとっては願ったり叶ったりだった。もう彼女に嫌みを言われることもなくなるのだ。
 さすがに少しは可哀想だと思ったけど、たった一年の辛抱だ。エレーナ様はまだ十分に若くお美しい。アーサが候補の間に、エレーナ様が崩御されることはないだろう。
 アーサがいなかったら、私が確実に一位を取れる。そんなふうに考えた矢先に私は再び先生に呼び出された。アーサの世話係に私を任命するということだった。
 女神候補の世話係は、話し相手も兼ねて同級生から選ばれるのだという。だけどそれならなおさら私は不向きだ。嫌だったけれど私に断る術はなかった。
「よろしく」
 初日に顔を合わせたとき、私があえて気軽に挨拶をしたのにアーサは無視をした。
 アーサはひどく機嫌を損ねているようだった。彼女にとって、女神候補になることは不本意だったらしい。でも女神様になれるかもしれないのだから、悪い話でもないはずだ。
 もし女神様になったらアーサは十七歳のその美しさのまま、私たちよりもずっと長い時を生きることになる。代替わりを望んでいるわけではないのに、私はいつしかアーサが女神となったところを想像するようになっていた。腹は立つけれど実際、アーサは私みたいな十人並みの外見の人間とは違う。だからこそ選ばれたのだ。
 アーサは最初、食事を取ることさえ拒んだ。アーサにあてがわれた小部屋は狭く、周囲の壁は黒かった。ごく上の方に明かり取りの窓はあるがそれだけだ。ドアは重く、その外側に更に大きく重い金属製のドアがある。
 私の仕事は、調理場からアーサの分の食事を運ぶこと、それから掃除や彼女の服の用意といった細々したことだった。行き来をするため、鍵も渡された。
「また今日も食べなかったの?」
 私の言葉にアーサは答えない。
 私はアーサと違い、授業は免除されない。早朝に世話係としての仕事をこなして授業に出て、また放課後にアーサのところに戻るので、負担は大きかった。拗ねられるなら私だって拗ねたいくらいだ。
 少しするとアーサは落ち着きを取り戻したらしく、食事をするようになった。
「そこ、汚れてるわ」
「え?」
「あなたって四角い部屋を丸く掃くことしかできない無能なの?」
 アーサは私をストレスのはけ口とすることを決めたみたいだった。
「……暗くてよく見えなくて」
「あなたの仕事なんだから、それくらいきちんとやったらどう」
 私はそれ以上は言い返せなかった。今まで、私たちはあくまで対等な立場だった。だが今や、女神候補である彼女の言うことを私はすべて聞かなくてはならないのだ。
「この服、汚れが取れてない」
「そこに埃がある」
「この食事、味が薄すぎ」
 私は反論したくなる口をつぐんだ。ただでさえ、普通の授業に加えての負担で睡眠不足がちになっている。私がそういう生活をしていることをわかっているはずなのに、アーサの要望は細かい。明らかに嫌がらせだった。
「……そのくらい自分で」
 私は耐えかねて言い返しそうになり、だけど言葉を飲み込む。アーサの部屋にはハサミひとつない。だから、服の汚れを落とすこともボタンをつけ直すことも、なにひとつできない。
 まるで牢獄だった。体を清めるためということだが、どうして外に出てはいけないのか。ここまで不便なところに閉じ込める必要が本当にあるのだろうか。
「塩、持ってきて」
「……わかりました」
 だけど私は言われた通り、彼女に塩を差し入れたことで先生に強く叱られることになった。いわく、アーサは体を清めるため特別な食事をしている。そこには何かを足したりしてはいけないのだと。アーサはその食事のことを、おばあちゃんのおかゆみたい、と語った。
「どろどろしてて味がない」
 まだ若く健康なアーサにとって、暗い場所でそのような食事をすることはストレスだった。アーサはもとから色白なのに更に白く、痩せているのに更に痩せていった。

 ・

 前にも言った通り、私は授業にも出席し続けていた。アーサが絡んでくることもなくなって、ただ黙々と勉強をするばかりだった。
 窓からはちょうど、立っている女神様の胸のあたりが見える。今、エレーナ様は何を考えているのだろう。女神様は何も直接語っては下さらない。正直、祭祀長のご宣託もどこまで女神様の意志を伝えているのか怪しい。
 普通の人間の二十倍以上の身長。女神様は私たちより遥かに長い時間を生きる。
 もしアーサが女神様になったら、言い争うことも二度とない。願ってもないことだと思っていた。この間のテストで、私は一位だった。だけど前に二位だったときよりも、嬉しくなかった。

「今日は女神様のご病気についての授業だった」
 かつてエレーナ様は虫歯になったことがあり、医者が自ら口内に立ち入って虫歯を削ったという。もちろん麻酔をかけなければ女神様といえど苦しまれる。だからまず麻酔の原料となる植物を大量に育てることから治療は始まった。このときの原料畑は今も学園の外れに存在しており、ささやかな規模ながら、万が一のために植物を育て続けているのだという。
「虫歯になると大変だ、とは聞かされたわ。今のうちにあらゆる治療をしておくのだって」
「大きな銀のかぶせものをしたっていうから、材料もきっと大変だったんでしょうね」
 虫歯ならまだ何とかなるだろう。だけどもし、女神様がより重い病気になったら、どこまで治療が可能だろうか。
 塩を持っていったことで私が叱られたあたりから、アーサは嫌がらせのような要望はしなくなっていた。代わりに、その日受けた授業のことを話すように言ってきた。
 私はノートを見返しながら、アーサに毎日の授業のことを語った。
「女神様が……食べているものって、足りているのかしらね」
 思い返すとこの頃のアーサは、様々な疑問に襲われていたようだった。もとから頭のいい子だったから、色々思うところがあったんだろう。やたらと私に対してあれはどう、これはどうなっているのかと尋ねてきた。
「それは……そうでしょう。この町のみんなはそのために頑張って働いてるんだし」
「でも体に対して本当に見合ってるのかしら? 女神様が覇気のないように見えるのは、そのせいなんじゃないの? そのせいで、私たちに対して何かを伝える気力もないんだとしたら……」
「アーサ」
 アーサの言葉は、それだけ聞くとかなり不敬だ。私たち以外誰もいないのはわかっていても、私は不安になってきて周囲を見渡す。
「女神様になるといっても実際どうやって体が変貌するのかしら」
「知らない、少しずつ大きくなるんじゃないの」
 私は適当に口にする。女神様になる過程については私も知らない。だけど、候補が選ばれている以上、何らかの方法で女神様の体のサイズにまで大きくすることができるのだろう。
「それって痛いのかしら」
「そりゃあちょっとは、何かあるんじゃないの」
「嫌だな……」
 遠くを見る目をしてアーサは言う。
「いいじゃない、女神様になって長生きするようになるんだから」
「あなた本当にそう思ってるの?」
「何?」
 アーサは何か皮肉を言うのだろうと思っていた。だけど、淡々と話し始めた。
「あなただって小さい頃から聞かされてきたでしょう。昔、女神様は戦で戦われた」
 それは神話の世界だ。私たちはみんな、その物語を聞かされて育つ。
「うん。女神様の足は鞭のようにしなり敵をたたきのめした、って何度も聞いた」
「だけど今はもう敵なんていない。交易をしているどの国が、『神』を擁しているっていうの?」
「でも軍隊はいるでしょう」
「それなら軍隊で戦えばいいのよ」
 アーサが勉強のできる生徒だったことは、嫌と言うほど知っている。だから私は、彼女はただの優等生なのだと思っていた。こんな風に、反抗的な思想の持ち主だなんて知らなかった。
「でも……」
 私は学園の外の荒れた土地と、覇気の無い男たち、学園に入れることさえできなかった女たちのことを思い浮かべる。彼らを訓練したとして、女神様に匹敵する力を持てるとは思えない。この国はもともと貧しいのだ。
「わかってる、私だって別に……」
 アーサはしょぼくれた様子で口をつぐんだ。彼女だって本当に、女神様がいなくなってこの国がやっていけると信じているわけではないのだろう。
 俯いていた彼女は、ぱっと顔を上げると急に言った。
「ねぇ髪、洗ってくれない?」
「私はそこまでやれって言われてない」
「世話係なんだから、何でもするんでしょ。女神様の世話係になる練習だと思ってやればいいじゃない」
 アーサはそう言って上着を脱ぎ始める。私はため息をついて立ち上がった。
「ねぇ、神様がもういない他の国では、最後の神様はいつ身罷られたのかしら」
「アーサ」
「だってそうでしょ、どこかの時点まではいた、だけど今はいない」
 きっと彼女は自分がこの役割に選ばれたことが不満だから、何かと文句をつけようとしている。それはわかるけれど、さすがに口が過ぎる。
「女神様、どうしてご短命なのかしら」
「短命?」
 あまりにも長い時間を生きる女神様に、到底ふさわしいとは思えない言葉だった。
「私たちの基準で考えてしまったら長いけど、本当ならば女神様は数万年を生きられるはずなのに、それほど長く生きられた女神様はいない」
「そんなこと言っても……私たちからすれば、十分にご長寿だよ」
「本当は、一人いれば十分なはずなのに、どうして入れ替えるの?」
 そのままぶつぶつとアーサは呟き続ける。これ以上何を言っても聞きそうにないので、私は腕をまくって彼女の髪を洗うことにした。アーサはいつも、お気に入りの髪留めをつけている。鳥をかたどった金色の繊細な髪飾りだ。彼女のことだから、本物の金かもしれない。それを私は丁寧に外した。
 アーサは頭がいいから、色々と疑問が湧いてくることもあるだろう。でも、さすがに口が過ぎる。
 私に髪を委ね、目を閉じた彼女は大人しくて、ずっとそうしていればいいのにと思った。黙って立っているだけなら、美人なのに。

「ねぇ、アーサはどうしてる?」
 昼間、私は普通に授業を受けている。そうするとアーサのことを知りたい人たちに話しかけられることがあった。
「どうって、元気だけど」
「いい気味よね、あの女」
 彼女はかつてのアーサの取り巻きの一人だった。よく見ると、アーサと似た長い茶色い髪をしている。でもアーサの方がずっときれいだった。
「アーサは……あなたが女神様の候補になっても、あなたと同じことは言わなかったと思うけど」
 さすがに腹が立って、私は言ってしまった。普段は争いを避けて大人しく過ごしているのに。
「なんであんたなの」
 だけど彼女が口にしたのは私の言葉に対する文句ではなかった。
「え?」
「なんでアーサの世話係があんたなのよ」
 私はそれまで、自分が選ばれた理由など考えてはいなかった。
「成績がよかったからじゃないの」
「何なのよ」
 彼女は私を睨み付けて、すぐに背を向けてしまった。だけど確かに、私もその理由は知らない。どういう基準で選ばれたのだろう。家族がいないから選びやすかったのかもしれない。朝でも夜でもただ働きさせられる。
 そう思うと先生達の冷静な計算が見えるようで、少しだけ不快な気持ちが湧いてくる。私は別にアーサの世話係になりたいなんて、思ったこともなかった。
 アーサに聞いてみようかとも思っていた。以前よりはよく喋るようになっていたからね。もしかしたらアーサとはこのまま気軽に楽しく話せる関係になるんじゃないかと、そんな風に一瞬思ったんだよ。後から思えば、大変な間違いだった。
 その日、私が部屋に行くとアーサは目を腫らしていた。そして鋭い目で私を睨み付けてきた。
「卑怯者」
「なんで」
 突然罵倒された私だって、たまったもんじゃない。
「あんたはのうのうと私を犠牲にして生きてくんでしょう!」
「犠牲になんて……」
 アーサのヒステリーはいつものことだったけれど、さすがにこれほどは珍しい。私は相手にしないつもりでいた。でも、次の言葉にはさすがにどきりとしてしまった。
「私を推薦したんでしょ」
 先生が話したのだろうか。アーサ自身に知られているとは思わなかった。とはいえ、言い逃れをするつもりはなかった。
「確かに私はあなたを推薦したたけど、私に決定権があるわけじゃない」
「そんなことわかってる!」
 最近は落ち着いていたアーサの情緒は、ひどく不安定になっていた。まぁ先生や私以外と接触しないでこんなところにずっといたら、そうなるのも無理はないと思う。だけど、その憤りの矛先になる身としては勘弁してほしかった。
「でも、あんたが推薦した、最初に」
 アーサはしつこくそうくり返した。お前のせいだ、お前が推薦したからだ、と。決定したのは先生や、最終的には学園長だろうと言っても聞く耳を持たない。
「最初かはわからないじゃない」
 私もむきになってきて言った。実際、他のクラスメイト達の多くもアーサを候補とすることに賛同したと知っていた。
「あんたが推薦したのが悪いの!」
「はいはい」
 私はいい加減どうでもよくなってきて、乱暴に言った。
「私を責めて何か結果が変わるの?」
 賢いアーサにそれがわからないはずはない。案の定、彼女は黙った。
「……でも、私の気が済むかもしれない」
 目を腫らして、拗ねたように彼女は言う。
「へぇ、じゃあどうぞ」
 アーサはむすっとした顔のまま黙り込む。ごねて泣きわめき続けるほど、彼女に理性がないわけではない。
「ずっとずっと恨んで、やっと気が済むかもしれない、ってくらいだから覚悟してほしいわ」
 アーサは幾分かトーンダウンした声で言った。
「あらそう、執念深いこと」
 私もアーサも黙ると、部屋に沈黙が落ちる。この部屋はやはり苦手だ。どこか空気が湿っている。
「あなたは何になりたいの?」
 しばらくして、アーサはぽつりと言った。
「え、私?」
 話の矛先が急に自分に向かってしまい、私は答えに窮する。
「私は……女神様のお世話係になるのが夢だった」
 私は気がつくと過去形で話していた。というのも、目の前にいるのはその女神様になる可能性がある相手なのだ。案の定、皮肉っぽい顔でアーサは笑った。
「私の耳の穴でも掃除したいの?」
 かっと顔が熱くなる。もし私が夢を叶えて、かつアーサが女神様になれば私は彼女の世話をし続けることになるのだ。
「あなたが本当に女神様になると決まったわけじゃない」
 女神様のために働けるなら本望だと思っていた。その気持ちに嘘はなかったはずだ。それなのに、それがアーサだと想像するだけで自信がなくなる。
「エレーナ様はまだ数万年はお生きになるに決まってる」
「そうね、そうだといいけど」
「アーサは、何になりたかったの?」
「……特に、何ってことじゃない」
 私を笑ったのだから、彼女には何かよっぽど大きな夢があるのかと思った。だけどアーサの答えは、私の想像とはかけ離れていた。
「家族と一緒に穏やかに楽しく、老いていければそれでよかった」
 それは才女である彼女の望みにしては、あまりにもつまらなかった。祭祀長になるとか、彼女だったらもっと高くを望めるはずだ。
 でも、それは確かに女神様になったら実現できない。家族とは二度と同じ目線に立てないのだから。それが、アーサが女神様になることを嫌がる理由なのだろうか。
 そうだとしたらあまりに利己的だ。私は家族を知らない。育ててくれた大人はいるけれど、親ではない。女神様はこの国みんなのために存在している。アーサはそれと、自分の家族なんて個人的なものを天秤にかけている。
 そんな行為ができること自体、私にとってはあまりに贅沢に感じられた。

 日々は忙しさのうちに過ぎていった。
 期末試験も、やっぱり張り合いがなかった。順位など気にしないつもりでいたけれど、やっぱりアーサに勝つか負けるか気になってたんだね。
 私たちは来年には学園を卒業し、選ばれれば正式な世話係になる。もし女神にならかったとしたら、アーサもきっと選ばれるのだろう。
 この頃のアーサは静かだった。ぼうっと考え事をしてよく黙り込み、以前のように頻繁には私に話しかけてくることもなかった。
 恐らく実際に女神様になるなんてことはない。だけどもしそうなったとしたら仕方がない。アーサなりにそう納得できたのだろうと思っていた。
「今日は、何もしないでいいから」
 そんな風に言われることも増えた。最初の頃、色々と言いつけられるのが嫌で仕方がなかったのに、何もないと言われると所在なくなる。私は配膳や衣類の交換などの最低限のことしかしなくなっていた。
 たくさん会話すれば仲良くなれるんじゃないかと思っていた。でも、そんなのは勝手な夢だったわけだ。
 私とアーサは相容れない。こんな風に、毎日顔を突き合わせる関係になっても。
 本当に、誰がどうして私をアーサの世話係になどしたのだろう。
 その日、私が夜のアーサの世話を終えて自分の階に戻ろうとしたとき、アーサは唐突に言った。
「ちょっと待って。今日は私があなたの髪を洗ってあげる」
「……どうして」
「たまにはそうしてみたいの」
 アーサが気まぐれなのはいつものことだった。だけど、私の髪を洗うなんて変だ。そう思ったけれど私には断れなかった。
 水を入れた桶に、頭を近づけて髪を浸す。私の髪はアーサと違って、黒くて硬い。アーサの手が私の頭を丁寧になでた。他人にそんなふうにされるのは初めてで、何だか変な感じがした。気持ちいいような、悪いようなぞわぞわする感覚だ。アーサは時間をかけて丁寧に私の髪を洗った。
「そのまま乾かしていて」
 言われるままに私はタオルで自分の髪をぬぐう。何だかくすぐったい気分だった。家族というのは、こんな風に髪を洗い合ったりするものなのだろうか。私が育ったところでは、担当の大人は何十人もの子供を見ていて、一人ひとりにこんな扱いはしてくれなかった。
 こんなくすぐったさが、家族ということなんだろうか。私はしばらくタオルで熱心に髪を拭っていた。なんだか恥ずかしくて、アーサには話しかけられなかった。
 しばらくして顔を上げると、部屋の中にアーサの姿はなかった。
「アーサ?」
 狭い部屋だ。寝床にいるのかと思ったけれど、いないのはすぐにわかった。まさかと思った。私は服のポケットに入れていた、鍵がなくなっていることに気づく。
 ――やられた。
「アーサ!」
 私は慌ててドアを開けた。アーサは階段の前にあるもう一つのドアを開けるのに手間取っているところだった。
 彼女が振り向く。今までにないほど、焦って必死な表情だった。
「お願い、カンナ」
 アーサは小さな声で言った。
「見逃して」
 もし私が見逃したら、アーサはこのまま地上まで逃げ去るのだろうか。どこまで?すぐに捕まるから家族のところには行けないだろう。だけど十八歳になれば戻ってこれるかもしれない。あくまでアーサが女神候補なのは、期間限定のことだ。学園からは退園になるだろうけれど、生きていく道は彼女ならいくらでもあるだろう。
 候補が空白になるのは、ほんの少しの期間だけ。
 だけど、女神様に何があるかは実際の所誰にもわからない。もし、新たな候補を立てられないまま、女神様に何かがあったらこの国は終わる。
「家に帰りたいの」
 切々と彼女は訴える。そんなこと、私に言われても困る。みんなが困っても、自分の家族だけが大事なんてずるい。私の表情を読んでか、彼女は更に口にする。
「私は女神になんてなりたくない」
 アーサは泣きそうだった。彼女のそんな心細げな表情は初めて見た。
「家族って……そんなにいいもの?」
「何なの、あなただってわかるでしょう」
「わからない……私には誰もいないから」
 アーサが息を飲むのがわかる。戸惑うような沈黙があった。アーサの潤んだ目が、やり場に迷うように伏せられる。
「でも、学園は家族のようなものだっていつも学園長も言ってる」
 私は自分でも信じていなかったはずの受け売りの言葉を、気がつくと口にしていた。
「待って、それとこれとは……」
「私には学園があって、女神様がいる。だからいいの」
「カンナ、お願い。私はそれでも家族のところに帰りたい」
 凡庸な外見の私はそもそも女神様の候補にもならない。アーサが選ばれた一番の理由は外見だと、どこかで私は知っていた。今までの女神様もずっと、お美しかったという。強大な存在になろうとも、その外見がごくごく平凡だったら、国民は畏敬の念をきっと抱かない。私は神にはなれない。
 目の前にいて、私に懇願しているアーサは美しかった。彼女の望みを叶えるのも、潰すのも私次第なのだ。そう考えると今まで知らなかった感情が湧いてきて背筋がぞくぞくした。アーサを思い切り叩きのめしてやりたかった。同時に抱きしめたかった。
「誰か!!」
 私は階段の下に向けて大声を上げた。
「誰か来て!! アーサが逃げようとしてる!!」
「カンナ!」
 やっと鍵を開けられたアーサは、私を振り切るようにして階段を駆け下りていく。
「誰か!! 緊急事態なの!!」
 私は階下に向けて大声で叫んだ。見下ろすと、必死に階段を駆け下りたアーサが先生たちに取り押さえられるのが見えた。私は一部始終を、ずっと見下ろしていた。
「……あんな……するくらいなら死んだ方がマシ!」
 女神様も、こんな風に人間を見下ろしているのだろうか。かわいい、愛しい、かわいそうにと思いながら。
「女神様に……名誉なことですよ」
「……嫌!! 私は……普通で……!!」
「女神様には……なれるものではないのですよ」
「絶対……嫌!!」
「アーサ様はずっと長い、神々の時間を……のです。国を、みんなをお守り……る。あなたはずっと若く、美しい……我々が老いてもずっと」
「そんなの……まっぴらだって言ってるじゃない!!」
 アーサの叫びはヒステリックだった。学園にいて、自分だって女神様に守られているくせにどうして理解しないのだろう。誰かが犠牲にならなくてはいけないのだ。
「私は……私は普通に生きて死にたいだけなの!」
「その普通を守って下さっているのが女神様なのですよ」
 少しして、アーサが先生たちに引きずられるようにして階段を登ってきた。私とすれ違いざま、アーサは言った。
「あなたを死ぬまで恨むわ」
 そのときのアーサの貫くような目を、私は一生忘れないだろう。今になってもよく覚えているよ。よぅくね。

 ・

 私はアーサに面会を求めてきた彼女の家族を見たことがある。平凡なやつれた中年女性と、まだ小さな少年だった。母親と弟だろう。
 その女性は先生に向かって、アーサに会えないかと必死に頼み込んでは断られていた。アーサがもし女神様になったら、この人達を守れる。だけどもしそうなったら、アーサが一寝入りしている間にこの女性も寿命で死んでしまうだろう。
〝家に帰りたいの〟
 まだ幼い弟だって、きっと見る間に老いていく。アーサに似た美形だけど、頬が赤くて可愛らしかった。
 誰かが犠牲にならないといけない。それなら家族のいない私でもよかった。
 でも、私は選ばれない。誰一人、私を女神候補として推薦はしなかったことを、私は知っていた。

「カンナさん、脱走を止められたのはあなたのおかげです。どうもありがとう」
 私は先生達に感謝された。優等生の面目躍如といったところだ。
「もちろん、すべきことをなしただけです」
 不安な予感があった。まさか女神様が崩御することなどあるはずはない。だけど、周囲の先生たちも、どこかそれを予期しているように見えるのだ。気のせいだろうか。
 私は書物で、まだ年若い女性の死因を調べた。
 子宮などの女性病、がん、それから自殺――。
 女神様が自ら死を選ばれるとは思えない。女神様は何というか、そんなことができる様子ではないのだ。体の内側のことはわからないけれど、女神様になる時点では診断を行っているだろうし、健康なはずだ。
 私はアーサの世話係を引き続き任されていた。だけどアーサの部屋の外には常に一人警備の人間がつくことになった。私の鍵を盗んでも、もうアーサは逃げられない。
 あれから、アーサは私に対して一言も喋らなかった。食事もほとんど口にしない。先生達も、そのうち食べるようになるだろうとさじを投げている。
 アーサは私にもう突っかかってこないし、命令もしない。他愛ない疑問を投げかけてくることもない。
 アーサは死んだような目をして、何もせずに日々を過ごしている。
 アーサは一ヶ月後には十八歳になる。それまで待てば、次の世代が候補になる。
 ほんの一ヶ月だ。また一ヶ月後にはアーサは家に帰って元気になって、私とつまらないことで言い争って、それからテストも受けて……。
 もし、と考える。もし私がアーサが脱走するのを見逃していたら、違ったのだろうか。彼女はこの国を去って、あるいは誰かが急ごしらえの候補にされていたのだろうか。例えばそれは、私でありえただろうか?
 エレーナ様が崩御されたのは、アーサが十八歳になる日の一週間前だった。

 死因はわからなかった。エレーナ様は突然に倒れられ、そしてそのまま動かなくなった。
 学園中が大騒ぎだったけれど、私の仕事はもうなかった。
 女神様のお世話は、学園を卒業した者たちにより担われる。私はあくまで候補者の世話係に過ぎない。まだ卒業前だから、係への配属もない。
 私は平凡な一生徒に戻るだけだった。アーサのいた部屋の片付けをしているときに、そこに髪留めが残されていることに気づいた。アーサがいつもつけていた髪飾りだった。女神様は装飾品をつけることを許されていない。だから捨てていったのだろうか。
「カンナさんにと置いていったのですよ」
 先生に渡そうとしたら、そう言われた。
 恨むと言っていた私に、なぜこんな高価なものを残したのだろうか。もしかして、持っていたら呪われるとか? 不思議そうな顔をしている私に、先生が言った。
「あなたを世話係にというのも、アーサさんの希望だったのですよ」
「……どうしてですか」
「さぁ。お友達だからではないのですか?」
 私がアーサを最初に女神様候補に選んだように、嫌がらせの気持ちからだったのだろうか。でも、部屋にいる間は世話係としか話せないのだ。それなら親しい相手を呼んだ方がいいはずだ。
 私は手元に残された髪飾りを、じっと見つめた。

 私は改めて、古い資料を漁った。かつてこの世界には神々がいた。だけど今は一人しかいない。それはもしかしたら、何かの間違いなのではないか。
 普通の人間を、女神にする。それは十七歳の少女にしか適用されない。
「先生、本当は神々は生きているんじゃないですか」
「先生、アーサはどのような手続きで女神になるんですか」
 一時期のアーサのように、私は先生を質問攻めにして呆れられた。でも、先生たちも意地悪で答えないわけじゃなくて、本当に私以上のことは大して知らないみたいだった。女神になる秘術は祭祀長と女神候補のみで執り行われるらしい。
 アーサは女神になる前日、学園の生徒たちの前で挨拶をした。彼女と話せるのはこれが最後だった。
 だけど私は何と声をかけたらいいのかわからなかった。今でも、脱走した彼女を逃すべきだったとは思えないでいた。だって実際にエレーナ様は亡くなってしまったのだから、正しかったのだ。アーサがいなかったら、この国は女神様を失っていた。
 それでもアーサを見ると罪悪感で胸がうずいた。
「アーサ、私は……」
 彼女の目が私を捉える。私が短い髪につけた髪飾りを目にする。アーサと違って柔らかくもなく、黒く短い髪に、似合っているわけもなかった。
 だけどアーサがそれを目に止めて、はっきり微笑むのがわかった。
「こういうの、何て言うんだったかしら。飾りがきれいだと中身がなくてもきれいに見えるものね」
 いつもの教室でのアーサとまるで変わらない口調だった。
「それはどうも。わざわざありがとう」
 でも、アーサはこの一年で随分やせ細っていた。
「似合ってるわよ」
 アーサはそう言って笑った。その笑顔を見ると、胸の奥が苦しくてどうしていいかわからなかった。
「アーサ、あんたが私を死ぬまで恨むっていうなら、私はあんたより長生きする。絶対に」
 痩せてやつれて目の下に隈があっても、アーサは変わらなかった。美しく高慢で性格が悪くて、そして届かない私の同級生だった。
「せいぜい頑張って。期待してるわ」
 アーサはそう言って私に背を向けた。もっと、最初から素直になればよかった。
 私だって本当は、彼女と友達になりたかったのに。

 ・ ・ ・

「これがあの女の話さ」
 あたしは気がつくと、すっかり老婆の話にのめり込んでいた。
「すごい……話だけどでも、本当だって証拠は?」
 とても信じられなかった。アーサ様がそんなに性格が悪くて、女神様になることも嫌がって脱走まで企てたなんて。
 私にとってはアーサ様は最初から、人知を超えた強大で素晴らしいお方だ。老婆が語ったような、生々しい人間くささとは無縁に思える。
「そのときアーサからもらったのが、この髪飾りだよ」
 くるりと後ろを向くと、白髪には似合わない精巧な鳥の髪飾りがそこには鎮座していた。確かにきれいだけれど、それがアーサ様の持ち物だったという証拠はない。
「私はあれから、あれこれ調べたんだよ。古い資料や遺跡を漁って。アーサは女神になった途端、何も喋らなくなった。たまに喋っても、あまりにゆっくりだからうめき声のようにしか私たちには聞こえない」
 あたしは例えば、マヤが突然女神様になることを考えてみる。すごい栄誉なことだと思う。でも、やっぱり友達がそんな形で去ってしまうのは複雑だ。もう一生普通におしゃべりはできないのだから。
「逆なんだよ、きっと」
「何が、ですか」
「女神様がでかいんじゃない、私たちが小さいんだ」
 あたしは何を言われたのか一瞬、よくわからなかった。
「学園の外の人間はよく失踪したし、病気になった。時間の流れが速い小さい人間、それが私達なんだよ」
「何、言ってんの、わけわかんない……んですけど」
 老婆はかつて優等生だったというのがよくわかる口調で、とうとうと自説を語った。小さくて時間が早い人間がいれば、実験に便利だと。だから学園の外では寿命が短く、奇病が流行って人がすぐに死ぬ。私にとっては、どう考えても妄言としか思えない。女神様は巨大なのだ、当たり前だ。そしてあたし達はあたし達。それが普通だ。
「神々は去ってない、完璧に見えなくなっただけで。それが私の結論だよ」
 老婆はまたあの嫌な感じの笑い声を立てた。
「まぁ証拠はないけどね、見えないんだから」
「そんなわけ……」
 あたしはつい想像してしまう。見えないけれど……まだ神々はいる? 例えば今のこの私達も、その神々は見ているとでもいうのか。老婆とあたしの語ったことも、全部聞いている? そんなわけない。だってここは学園の外れで、誰もいない寂しい場所だ。
 ここにはあたしたち以外、誰もいないはずだ。
「女神は神々のお気に入りなんだよ。若くて痩せてて肌が白い。アーサも、立ってるだけなら美人だからね」
「そんなわけないじゃない、おかしいんじゃないの」
 あたしはもう付き合いきれなかった。
 きっと老婆は、アーサ様を逃がさなかった罪悪感で女神様のことばかり考えておかしくなってしまったのだろう。彼女の仮説に何の証拠もない。ただ女神様を貶める妄言だ。
「もういいです、帰ります」
「ああ、帰りな帰りな、墓参りにはまだ早いって言ってるだろ」
 あたしはせっかく老婆に背を向けたのに、つい振り返ってしまった。
「まだ早いって……アーサ様がお墓に入られるのはずっと後ですよね」
 老婆はもうかなりの年だろう。アーサ様が本当に死ぬまで恨む、と言ったのだとして、それはとてもとても長い年月のことになる。
 今や、二人にとっての時間の有り様はかけ離れている。老婆が実際に、アーサ様がこの墓地に埋葬されるのを見ることなどできるわけがなかった。
「あの、いえ、あなたもお元気そうですけど」
「いいさ、正直に言えば。もう今にでも死にそうだ、とね」
 老婆はけっ、けっと笑ってみせる。彼女が語ったような、頑なな優等生の少女の印象は、そのしわがれた顔にはもはや見えない。
「もとから家族もいない、私が死んでも、誰も困るこたぁない」
 孤児だと言っていた。学園を卒業した後に自分の家族を持つこともなかったのなら、彼女はずっと孤独だったのだろうか。
 でも学園にいれば寂しくはなかったかもしれない。学園のみんなは家族みたいなものだし、どこにいたって女神様の存在を感じることはできるのだし。
「あなたが死んだら……いない人間のことなんて、きっとアーサ様もすぐにお忘れになる」
 女神様の体に合わせて作られたのだろうお墓は、私たちの住む家よりもずっと大きい。エレーナ様が亡くなったときの葬礼は、お体を聖なる炎で浄化し、三日三晩続いたという。真っ白い巨大な骨だけになった女神様のことをあたしは想像する。
「そうかもね。だけど私は、忘れさせてなんてやらないよ」
 老婆はやけに自信たっぷりだった。年を取ると、遠慮がなくなるのかもしれない。やっぱり老人なんて嫌だ、とあたしは思う。醜い体を晒してまで、そう何十年も生きたくなんてない。あたしはきれいなまま生きて死にたい。
「百年。百年だよ」
 私はきょとんとして老婆の顔を見る。その皺に埋もれた、黒い目を。
 ざああと畑が風に吹かれて音を立てるのが聞こえた。老婆の背後、巨大な墓の後ろにあるのは畑だった。改めて見ると、広大すぎて果ても見えないような広い広い畑だ。
「あの女、体がでかくなったから必要な薬草も桁違いで苦労したよ。あたしがひたすら、耕して広げたんだ」
 それは、あまりにも広すぎる畑のように思った。学園の外にも食べ物を作っている畑がある。でも、これほど馬鹿に広大というわけじゃない。それにもっと色々なものが植わっている。この畑にあるのは、一種類の植物だけだ。
 老婆は健康のための手伝いをしている、と言っていた。これだけの薬草を育てて、老婆は全部を女神様に飲ませているのだろうか。アーサ様は巨大なお体とはいえ、体の組織は人間そのままだ。あたし達にとって有害なものなら、アーサ様にとっても有害になりうる。
「百年、経ったんだよ」
 嫌な予感で胸がざわざわする。アーサ様は今後まだずっと長生きされるのだ。代替わりが起きるとしても、それはもっと先だ。
 ちか、と老婆の髪飾りが日の光を反射する。
「百年なんて……女神様にとってはきっと、まばたきほどの間ですよ」
 老婆はそれほど長生きできない。私たちはちっぽけなのだ。
 それでももしそんなちっぽけな人間が、どうしてもアーサ様より長生きしようとするなら? 自分も女神様になるとか。でもそれはきっと無理だ。
 死ぬまで恨まれ続けるためには、老婆はアーサ様と同じ時を生きないといけない。だけど、もうアーサ様と老婆の生きる場所は分かたれた。そんな方法はない。
「これは……これ全部、薬草なんですか」
 痩せた栄養のない、放置された土地を老婆はたった一人で耕し続けていたのだろうか。百年というその時間の長さをあたしはうまく想像できない。女神様にとっては一瞬の、その長い長い年月。
「今日も、あんたは美しい」
 老婆は独り言のようにそう言った。
 日が陰るのを感じ、あたしは振り向く。
 女神様がゆっくりと倒れようとしていた。まさかと思った。そんなことあるはずがない。この国は女神様に守られている。今も、これからもずっと。
「うそ……」
 まだ女神様はご健在であられるはずだ。まだ若くて、美しくて、この先もあたしたちを守ってくれるはず。
 町の方から悲鳴が聞こえてくる。少し遅れて、大きな物音と土埃が立った。あたしは呆然として、ただそれを見ていることしかできなかった。
 あたしははっとして老婆に向き直る。
 灰色の髪に不釣り合いなほど鮮やかな、金の髪飾りだけが輝いている。既に老婆の息はなかった。

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