ふれる

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梗 概

ふれる

デザイナーのシンのもとに、恋人でプロデューサーのサエラが新しい仕事を持ってきた。サエラはシンの故郷・明都みょうどと、かつて明都と敵対関係にあった地域・螺臼らうすの和平記念の祭典の企画を務めており、シンには祭典用の舞踏の衣装を制作してほしいという。サエラによれば、祭典の舞踊は友好のシンボルで、かつて分断された二つのものを繋げるものでなければならない。螺臼の母と明都の父を持つサエラにとって、今回のプロジェクトは特別な意味があった。

シンが担当する衣装を着るのは、明都の国家舞踏手・イライだった。シンは明都と螺臼が交易をはじめた昔の書記を紐解き、昔の衣装のかたちを現代風にアレンジしようとする。シンはイライの身体をかたどりながら、彼の衣装をつくりはじめる。お互いの皮膚に触れ、肉の質感を確かめながら形をつくる中で、シンとイライは離れがたい関係性になっていく。

シンは衣装の素材と色を選択する際、明都と螺臼の境界付近で採取される植物、華青の色味に惹かれる。華青の衣装はかつて祭礼で使われていたが、華青を布にするには超絶的な技巧が必要で、今や伝承が途絶えていた。シンが調べると、華青には人を酩酊させる成分が見受けられた。シンは、華青の繊維の触感が着用者の身体的能力を引き出し、色素が見る者を魅了するのだと推測する。また華青の色は、イライの白い肌によく映えた。シンは衣装のデザインを、華青の力を最大限に活用できるかたちにした上で、現代の技術で過去の技巧を甦らせながらアレンジし、華青の素材と色素を活かした衣装をつくりだす。

明都と螺臼の両国にルーツを持つサエラは、二つの国の伝承を合わせると、華青は禁忌の素材で、一定時間着用すると毒を発すると詠われていることを知っていたが、イライへの嫉妬と、またシンの手による幻の華青の衣装を見たいという欲望に勝てず、伝えずにいた。

祭典当日、イライはシンの衣装を着けて踊った。華青の衣装はイライの感覚を刺激し、極限的な動作と感情表現を可能にした。彼の舞踊は見る者を酔わせ熱狂させた。イライが螺臼の客席側に近づいた瞬間、舞と会場の興奮と振動は最高潮に達し、螺臼の人々はイライに触れたいという欲望が抑えられなくなった。観客はイライに襲いかかり、結果、彼は重傷を負う。イライは施設に隔離され、明都と螺臼は一時険悪になった。

シンは喪失感を抱きつつも、イライという類まれな舞踊手を通して、かつてない美と情動を顕現させたことに喜びを感じる。サエラはイライの居所を密かに突き止めて訪問するが、イライはシンに関し、シンはイライ当人ではなく、イライを通して再現されるものに魅了されているだけだと言い、今後シンとは会わないと伝える。

サエラもまた、自分はシンの眼中にないことを実感するが、イライに手渡された衣装の残骸にシンの手触りを感じて握りしめ、自分はシンの才から離れられないと予感する。

文字数:1200

内容に関するアピール

今まで書いたものが感覚に関わる話だったので、今回は触覚を書こうと思い、日常的に肌に触れる服をモチーフにしました。触覚では、対象を知ると同時に、対象と自分の違いを認識するように思います。衣装は触覚と同様、自分と外界を区別する境界になると思います。

シン・イライ・サエラは衣装を通して互いの違いを体感します。相手の求めるものは自分ではないと悟って離れるのがイライ、それが分かっても相手を追うのがサエラです。求めるものは得られず、それを理解しているにも関わらず、追い続けてしまう人の姿を書ければと思います。

毒性の色素に関しては、ナポレオンが好んだパリスグリーンという顔料は有毒で、彼の死期を早めたという説を知ったのですが、同じ時期に画家さんから、有毒の色は強く美しいという話を聞き、目に美しく、触れると有害である色素を書きたいと思いました。華青は植物ながら鉱物の要素を持つような、特殊な生物を想定しています。

文字数:400

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羽龍の舞

1.
 舞台の上は、日常と時間の流れが違う。
 目の前で繰り広げられる光景から、シンは強く実感していた。
 楽の音に合わせ、衣装をつけた舞手が登場する。
 空気が緊迫し、観客の呼吸も舞手と同調して上下する。
 羽蝶はちょう飛鳥あすか深山みやまの主流三派に続き、三派から派生した流派などが各々の舞を披露する。
 濃密な瞬間が続いた。そして最後の舞で、シンの緊張がひときわ高まった。
 登場した舞手の流派は羽龍はりゅう。薄青の衣装に銀糸の細い帯をつけていた。澄んだ笛の音が空間いっぱいに響きわたる。たっぷりした袖と床に届きそうな裾がひらめく。
 シンは舞を見ながら、衣装の制作過程を思い浮かべた。青蛾せいがの繭からとれる糸は春の海のように明るい青だ。そこに白継草しらつぎくさの茎を絞った染料で波濤を描いた。衣装のかたちは動いても邪魔にならないかたちに設えた。伸縮性に富む布地と糸は、人の力で傷ついたり破れたりすることはない。夜の冷気の中で摘んだ綾取草あやとりぐさの根を細く依り、密度を増して編んだ帯は強くで、光に当たるときらきらと輝く。
 息や汗を感じさせない舞踊は、その場の注目をすべて奪っていた。
 全員の舞が終わった。観衆は夢から覚めた直後のように沈黙している。
 やがて舞台上に、髭の白い小柄な翁が登場した。常に微笑みを浮かべているように見える老人は、一番素晴らしかった舞を発表した。細い体に似合わず張りのある声だった。
 読み上げられたのは、シンが精魂込めて衣装をしつらえた最後の舞手、セアラだった。 シンはほっと安堵して、舞台のある神楽屋かぐらやを後にした。
 外に出てしまえば、神楽屋は、大きめの小屋にしか見えない。白木で組まれた外観は、他の家屋よりはしっかりしているが、白日の光の下だと弱々しく凡庸だった。それでも確かに、夢幻の時間を提供した舞が行われていたのだ。

 寝所で身を起こしたシンは、傍らに横たわる白い体に目をやった。
 背から尻まで届く部位に、かつて王を婚姻を交わしたという伝承がある聖獣、龍が彫ってある。蛇に似た身体と獅子に似た頭を持つその獣は青色で、鱗の縁取りが青緑、中心から頭部と尾に向かうにつれ濃い色味で描かれている。鱗の一枚一枚までも識別できるくらいの精妙な彫りで繊細な筆致のため、強さと儚さが両立している。
 横たわった身体は柔らかくしなり、龍もまたうねって見えた。シンは龍の顔の中で、ひときわ深い青の色をした目の部分にそっと触れてなぞる。すると白い背中がちいさく震えた。
「……くすぐったい」
 弾むようにくすくす笑いながら、声の主は告げた。
「自分の描いた龍が、そんなに愛しい?」
「いや、龍の線が君の静脈の色と同じだったから、本当に刺青かどうか確かめたくなった」
「羽龍の舞人は、至高の粋に達すると、血が青く沸きあがると聞いたことがある。血潮が原初的生命力となって、生涯で最高の舞を披露できるんだって」
 その言葉を聞いたシンは、舞人が全身から青い血を吹き出しながら龍の姿に変化し、昇天する姿を想像してしまう。
「代謝が上がるのかな。生涯最高ってことは、その後は一切踊れなくなるってことだろ? 美しい話だが物騒だな」
 シンは立ち上がり、寝所を後にした。灰磁の甕に入った清水を白木の柄杓で掬って飲むと、爽やかな木のにおいが立ちのぼる。そして改めて、自分の喉の渇きに気づいた。
「深く眠れなかった。緊張していたみたいだ、セアラ」
「ケイナの笛がいつも通りだったから、私は平常心だった。緊張するなんておかしいね、あなたが躍ったわけじゃないのに」
 くすりと笑いながら、セアラは告げた。
 小さく伸びをして、彼女はこちらを向く。
 細い身体はしなやかな筋肉に包まれており、舞におけるあらゆる動きが可能だ。舞手としては小柄だが、舞台上では大きく見える。
「王へ献上する舞手を決めるのは大事だろう。羽龍に決まったから肩の荷が下りた。選考から落ちていたら、俺の衣装がまずかったんだと思って悩んだかもしれない」
 昨夜の舞は選考会だった。あと3回月が満ちれば、シンとセアラがいる集落、杭名くいなを統べる王が来訪する。当日は杭名の地を上げて祭礼を行い、その一環として舞を献上する。昨日は歓待祭の踊り手を選んでいたのだった。10の年ごとに行われる歓待祭に舞手として選ばれるのはこの上ない栄誉であるし、選ばれた舞手が所属する流派の地位も向上する。
「私が舞を習い始めた頃、歓待祭の踊り手は三大流派から出ると聞いていた。時代は変わるものだね」
「君が舞を習い始めたのは、生まれ5の月後程度だろう。そりゃあ時代も変わるよ」
 シンは窓辺へ向かった。小さな窓は、綾取草の強靭な茎の繊維を晒してつくった布で覆われている。布を外すと、夜の冷気とともに明け方の光が入ってきた。
 外の空気の気配に、セアラは寝具の布を纏って立ち上がった。その何気ない動作でさやかな風が起こる。シンは彼女の所作に見とれた。
「昨日選ばれたのは、君の舞が優れていたからだ。今どき流派は関係ないだろう」
 そう言いながらも、シンは実感していた。
 杭名の国は、舞の国だ。三流派は歴史も長く、弟子も多い。セアラの所属する流派、羽龍は羽蝶から出てきた派だが、今は担い手が少なく認知度も低い。だから今回の歓待祭は、羽龍の知名度を高めるよい機会なのだが、その分他の流派からの風当たりも強いはずだった。
 セアラが横にやってきて、黙って窓から外を眺めた。
 森と海が近い杭名の地の空は、空の色味が時間によって微妙な濃度で移り変わるのが特徴だ。海と森林の空気の違いのせいとされているが、よく分かっていないという。夜の空は漆黒に近い濃紫だが、明け方に深い紺色が入り混じり、一瞬青緑色に染まる時間帯がある。それから鮮やかな青に変わればその日は晴れで、灰色がかってくれば雨が近い。
 繊細な色のうつりゆきを確認していると、空気が緑と青に染まった。シンはふと、セアラの白い顔がさらに青みを増し、ひどく儚い存在のように思えた。身体をよせると彼女の肉の弾力と温かみを感じたので、ほっと安堵の息をついた。

 セアラが帰宅した後、シンは織場おりばへ赴いた。
 杭名では十六の年までが子供、それ以降は成人と見なされ、さらに教育を修めるために群の育成機関や王都の上級機関まで行く者と、手に職をつけることを選択する者とに分かれる。
 シンは上級機関まで通った後、故郷である杭名へ戻ってきた。上級機関を卒業すると王都で官吏になる者が多いが、シンのように見分を広めるために教育を修め、仕事は故郷で行う者もいた。
 織場は、寝具の布などの日常的な布や人々が着用する服など、あらゆる布を制作する職の場だ。手織機の音が遅くまで響き、染織作業では水を使うため、織場は人家離れた場所につくられる。杭名の織場も集落の縁で、川が海に注ぎこむ地点の付近にあった。
 織場の人間は、一通りの仕事が全部できるようになった後、適性に応じて担当を決められる。シンの担当は服で、その中でも舞の衣装をはじめとする、祭礼の衣装を制作することが多かった。
 シンが織場で飾り糸を染めていると、しきりに話しかけてくる者がいた。
「昨日の舞、見ましたよ。セアラさん、きれいでしたね」
「そりゃあよかったな、ミルヒ」
「なんですか他人事みたいに……あの衣装、銀糸の染めを手伝ったのは僕なのに」
 衣装の創り手、美衣よしぎぬとして独立するためには、一定の期間、年上の美衣のもとで修業する必要がある。シンは既に美衣としての一定の地位を築いており、ミルヒはシンの腕に惹かれて弟子入りした。手先が器用で飲み込みが早いので重宝しているが、シンは彼の口数が多いのが難点だと思っている。
「そんなことより、手動かせ」
 シンの言葉に、ミルヒは舌をぺろっと出して首をひっこめる。
 二人は染色した糸をひなたに運んだ。柔らかい光が色とりどりの糸を乾かし、濡れていた時より軽やかな色味を引き出している。
「シンさんの色は鮮やかですね。この朱、火喰花の花弁ですか?」
 赤系統の糸の束が並ぶ中、ミルヒはひときわ鮮やかな朱の糸を指さした。赤の中に少しだけ暗さがあり、それが色の重みを増している。
「火喰花は火喰花だが、朱殻草あけからくさを捕食した直後の火喰花ひくいばなを使ってる」
 植物の中には、虫や他の植物を食して栄養にするものがある。火喰花は比較的小さめの羽虫を食らう。
「確か捕食前後は、人体に有害な花粉を出すって聞きましたけど」
「そうなんだが、毒があったほうがうまくいくんだ」
 捕食系の植物の多くは、食事の時に有害な酸や毒を出す。従って材料にする時は細心の注意が必要だ。
「先日のセアラの衣装にも、ほんの少しだけど、毒は入ってる。その方が色が鮮やかに、強く出るんだ。もちろん人に害が出ない濃度だよ」
「なんだか怖いですね……。で、新しい衣装は、もう決まったんですか?」
 たくさんある糸をまとめながらも、ミルヒのおしゃべりは止まらない。
「いや、もう少し考えたい」
「昨日の一番、セアラさんに決まったのは、シンさんの衣装の力もありますよ」
「衣装は舞手を引き立てるためのものでしかない。衣装が目につくようなら、かえって邪魔していることになる」
 シンが苦笑いして言うと、ミルヒは首を横に振る。
「いや、他の流派の衣装は毎回同じような感じだし、舞手の個性も引き立たっていなかった。舞の内容に寄り添って魅力を増す衣装をつくれるのは、シンさんしかいない」
 ミルヒの言葉は、決して大げさでもなかった。
 手先が器用なシンは、織場のほか、家具などをつくる工場にも適性があったが、つねに肌に触れ、皮膚に近いものである服に興味を抱き、王都で学ぶことにした。
 人間は衣服に包まれることで、気候の変化に適応し、怪我から免れ、有害な光から守られる。王都では、衣服はそれだけではなく、社会の中での役割や地位を示し、自我を積極的に表現するものとしても機能することを実感として知った。生活習慣や価値観の変化を外的に示しながら、肌に触れることで着ている者の意識を内側から変える衣装を尊いと思った。
 学んだ知識を携えて杭名の織場に戻ってきたシンは、衣装づくりを通して織場の雰囲気に変化をもたらした。職人たちは自分たちの仕事に強い誇りを持つようになったし、服づくりに工夫を凝らすようになったのだ。
 シンは乾燥させた糸に目をやった。あらゆる色が揃っており、まるでさまざまな画材をまき散らしたようにも見える。その中で銀糸の糸が目につき、シンは昨晩のセアラの舞を思い返した。
 舞においては、ミルヒの言うように、毎回同じ衣装で踊る流派もあるが、セアラはずっとシンに衣装を依頼してきた。舞の内容に合わせた衣装を制作すると彼女は喜んだ。昨日の舞は、海を題材にしたものだった。だから青の衣装にして布地をたっぷりとった。帯の色は光を受けて輝く海面の再現だ。
 歓待祭では、セアラはどのような舞を考えてくるだろうか。彼女の身体は採寸せずとも熟知している。すんなりとした手足、細い胴回りと腰つき、薄い胸と長い首。彼女の冴えた白い肌には、どんな色味でもよく映える。
 彼女の身体が動く様子を想像して、シンは気持ちが高まった。帰りにセアラに会いに行こう。そう決めるとシンはミルヒとともに、今度は布の染作業にとりかかった。

2.
 羽龍の舞場に行くと扉が開いており、細い笛の音が流れてくる。
 そっと覗き込むと、セアラの姿が見えた。
 夕刻だった。開け放した窓からさしこんでくる橙の光は逆光で、セアラの体の線をはっきりと浮かび上がらせる。長くしなやかな手足と、無駄な肉のない身体が空中に曲線を描く。シンは目を見張り、その情景を瞳に焼き付けようとした。
 奥から声がした。セアラよりも深くて芯のある声だ。
「そこまで」
 音楽がやんだ。セアラは舞を止めると、声の方向に向き直った。
 長い笛を持つ人物のさらに奥に、黒く小さな人影が見える。
「どうだったでしょうか」
 少し息を切らしながら、セアラが問う。
 影の主は何もいわない。
 シンが息を呑んでみていると、小さく頷いたようにも見えた。
 こつこつという固い杖の音が遠のいていく。影はそのまま立ち去ったようだ。セアラは身じろぎもしなかった。
 その時、シンは細い枝を踏んだ。シン自身にも聞こえないくらいに小さな音だったが、高い声が耳に飛び込んできた。
「誰ですか?」
 セアラよりもっと細い澄んだ声。近づいてきた人物は少女のようだった。
「すまない、脅かすつもりはなかった」
 声の主を見ると、左の手に笛を持っている。顔かたちはまだあどけなく、こちらを見上げる瞳はひどく淡い。日の光に透ける川の水のようだ。
 シンは思い出した。この子は年若くして羽龍の音を司るケイナだ。
「のぞき見していないで、こっちに来てよ」
 セアラは笑いながら、シンに向かって言った。見とれていたことを認めたくなくて、シンはなるべく無表情を保ちながら内部に入る。
「今の舞は、歓待祭で踊るものか?」
 シンが尋ねると、セアラは首を横に振った。
「気の向くままに踊っていただけ。次はどうするか考えていない」
「さっきの師匠だろう? 指示があるんじゃないか」
 セアラは続けて首を横に振っている。
「それはないと思う。昨日のことを報告したら、感想は一言だけだったし」
「一言って?」
「良かった。それだけ」
 見ればセアラは、少し俯いている。シンは慰めるように言った。
「良かったってことは、セアラの舞が良かったってことだろう。それに、さっきも何も言わなかったけど、指摘することもないってことじゃないか」
「……ありがとう」
 シンはセアラの不安をよく知っていた。
 この広い舞場にいるのはセアラとケイナだけ。羽龍が比較的新しい流派とはいっても、数年前はもっと弟子がいたと聞く。しかし前宗主が亡くなり、今のセアラの師匠、イライが継いでからというもの、弟子は離れていく一方だと聞く。セアラの言によれば、イライは優れた舞手だが、教えることには長けていないことが要因だとのことだ。
 前の宗主に比べ、イライはとにかく言葉がないのだという。どれだけ練習しても何も言われないこともあるし、相談しても返ってくる言葉は一言二言だったりするそうだ。
 イライが宗主になった時、最初のうちはセアラは不安そうだった。しかし彼女は才能にも身体的にも恵まれており、精神面でも強かったので、他の弟子ほど焦らずにすんだようだ。
「今の舞を見て、何か連想した?」
 シンの瞳を覗き込みながら、セアラは聞いていた。
「どうだろう、前の舞は雄大で、海を想起させるものだったけれど、さっき見たものはなんていうか……」
 シンはセアラのシルエットを思い出そうとして、目を閉じた。
 身体はやわらかにたわみ、孤を描いていた。衣装がたなびき、空気と一体化している。地に降りる音もしない。静まり返った空気の中で、幽玄の笛の音と、わずかな息遣いだけが聞こえる。舞手は重さがなく、どこまでも飛んでいけるように見えた。
「空を飛んでいるみたいだったな。羽蝶で空を舞う演目があるだろう。あれに近いけれど、もっと早くて壮大だった」
「空……想像が膨らむ」
 小さく頷きながら、セアラは呟いた。
 シンとセアラは、ケイナの手をひきながら舞場に後にした。外に出ると空は濃紫に近い色味になり、闇の色が近くなっている気配がする。シンは舞場の戸口付近に生えていた明灯草めいていぐさの茎を折りとり、ケイナの手に持たせてやった。すると五つばかりぶらさがっている花に光が帯び、道をじんわりと照らし出した。

 布の染作業がひと段落ついたシンがセアラの家に寄ると、彼女は庭先の柔緑草じゅうろくぐさの上に座りこんでいた。柔緑草は丈夫で柔らかく、赤ん坊の寝具として使うこともあるくらいに肌触りがよい。彼女は膝の上に小さな机を乗せ、木肌を乾燥させてつくる樺皮紙かばひがみに筆で何かを書きつけている。近づいて見ると記号や暗号に見えたが、一定の規則性があるようだ。
「新作の舞譜まいふか?」
 シンが急に話しかけたので、セアラは驚いて身を震わせた。
 舞譜は舞の種類や順番を譜面に記録したものだ。舞譜は流派間で記号や符号などの基本的な部分は共通しているが、同じ文字で記載しても概念が違うこともあるという。シンは舞譜に関して学んだことはないが、セアラと親しくなる中で、何が表現されているのかうっすらと分かるようになっていた。
「頭に浮かんだものを書きつけておこうと思って。次はどうしたものかと考えたけど、この間のシンの感想を聞いて、空にしようかと」
 舞の主題は海や山、動物などの具体的なものや、喜びや悲しみなどの感情系、そのほか抽象的なものが使われることもある。羽龍は三大流派のような制約はないが、それでもセアラは直感的に分かりやすいものを使うように心掛けているようだった。
「王に、杭名の空の素晴らしさを知っていただくにはいい機会だね」
 杭名の空が見せる色は、他の地域に比べ、とりわけ複雑で多様だ。
「衣装のつくりがいがあるよ」
 シンは呟いた。空のあらゆる色を閉じ込めるか、ある時間帯の色彩を切り取るか。セアラの舞の内容次第ではあるが、誰も見たことがないような衣装にしたい。
「楽しみにしてる」
「舞を観てから決めようと思う。大体決まったら教えてほしい」
 ええ、とセアラは頷く。
「もうすぐ舞手の旅が始まって考える余裕がなくなるから、近いうちに舞譜をまとめておこうと思ってる」
「巡礼みたいな旅だな。俺もついていきたいけれど」
 シンの言葉が終わる前に、セアラは首を横に振った。
「ありがとう。でもシンは仕事があるし、今は忙しい時期でしょう。気持ちだけで充分」
 その年一番の舞手になった場合、行事に一定の割合で出なくてはならない。特に選ばれて間もない期間は、杭名が属する群全体に顔見せの挨拶をする必要がある。それはセアラ個人の技量はもちろん、羽龍という流派を紹介するためのものでもあった。
 シンが忙しいのも事実だった。美衣としての実績を積んで8の年が過ぎるシンは、技能と共に評判も上がってきており、織場でも一目置かれる存在になっていた。しきたり通りを好む長老たちには時には煙たがれることもあったが、王都で学び聞いていたものを活かして新しい提案を行うシンのやり方は、若者や柔軟性のある長には新鮮で魅力的に映った。
「わかった。じゃあこの舞譜、読み方を教えてもらっていいか?」
 その言葉に頷いたセアラはさっそく樺皮紙を広げた。シンは真剣な面持ちで、それらの複雑な記号を吸収しようとした。

 セアラが旅に出てからもシンは舞譜の譜面を眺め、衣装について考えた。空のあらゆる表情やセアラの動きを想像し、閃きが起きるのを待つ。思いついたことは全て書き出した。やがて頭の中にいくつかの形の候補が現れ、あとはセアラの実際の舞を見てから、という段階に入った頃、セアラが戻ってくる日を迎えた。
 シンはすぐにでも会いに行く予定だった。頭の中の着想を話したくてたまらない。しかし当日、セアラの家に赴いても、中はがらんとして誰もいない。試しに舞場にも行ってみたところ、笛の音が聞こえる。
「セアラ、帰っていたのか」
 声をかけると、ケイナしかいないことに気づいた。彼女はシンの方へ体を向けて告げた。
「こちらにはいらっしゃいません」
「では、どこにいるのか知ってるかな?」
 問われてケイナは目を伏せた。表情が読み取りづらい。
「セアラさんは怪我をして、療院にいらっしゃいます」
「なんだって?」
「心配させたくないから、すぐには知らせないでと言われたのですが」
「怪我って、どういうことなんだ?」
 シンの気配に気おされつつも、ケイナは言った。
「巡業最後の日、舞を終えて舞台から退く時、出ているはずの段がなくて、舞台から落ちたのです」
 礼もそこそこに、シンは療院へ向かった。病人や怪我人などをとどめおく療院では、万日草ばんにちぐさを煎じた苦々しいにおいや、百合蜂ゆりばちが集めた蜜を煮詰めたにおい、黒墨茸くろすみたけを煮出した臭気など、様々なにおいが充満している。そんな中、セアラは寝所で青ざめて横たわっていた。
「ケイナから聞いて……」
「ありがとう、来てくれて」
 セアラは顔色は冴えないものの、言葉はしっかりしている。
「怪我したって聞いたけれど、どうした?」
「足首をやられた。大したことないから、大丈夫」
 頷きながら気丈に告げるセアラに、シンは尋ねた。
「どれくらいで治るんだ?」
「それが……」
 セアラの顔が曇る。
「完全に治るには、3の月くらいはかかるって。でも、もっと早く治すから、大丈夫」
歓待祭は、あと2の月程度に迫っている。
 シンには分かっていた。セアラは医司にはもっと長い期間を言われたのだろうが、軽く見せようとしているだけだろう。
 寝所を出たシンは、医司に聞いた。
「あの、セアラのことなのですが……」
「一刻も早く治したいと言われたのですが、4の月は絶対安静です。完治すれば元のように動けますが、焦って早く動かすと、将来支障が出るでしょう」
 予想通りだった。
「ですので、彼女にも焦らないように言ってくださいますと助かります。一生のことを考えた方がいい」
 医司はそう言うと、シンに向かって一礼をして去っていった。
 シンも彼女に無理をさせるつもりはなかった。歓待祭に出たいことは百も承知だが、舞えなくなることと引き換えにするべきではない。
 シンは日々セアラを見舞うたびに、医司の言うとおりに療養に集中するよう告げた。最初は抵抗していたセアラだが、心から心配しているシンの様子にだんだんと気持ちが変わってきたようだった。
「歓待祭までに治らないということ、最初は受け入れらなかったけれど」
 数回目の見舞いで出たセアラの言葉に、シンははっとなった。
「医司とあなたのお願いには根負けした」
「よかった。勇気がいる決断だったと思う」
 シンの言葉に、セアラは頷きながら告げた。
「一つ気がかりなことがある。代わりの舞手は羽龍から出すことになるのだけれど……」
 これまでのセアラの言では、師匠のイライを継ぐ人間はセアラだけだった。
「過去に舞手だった人にお願いするのは、難しいのか?」
「技量的に難しいと思う。となると、イライ師匠しかいない」
 セアラは困った顔をしている。
「シンにお願いしたいんだけど、私の舞譜を師匠に渡してもらえる?」
「イライ師匠は見舞いには来てないのか?」
 シンが尋ねると、セアラは黙って首を横に振った。
「師匠は浮世離れしているところがあって、気づくと数か月の間、稽古どころか何の音沙汰がないことがあった。ケイナが話しているだろうから、私の怪我のことは知ってるでしょうけど」
「師匠に引き継ぎたいのは分かったが、今のイライ師匠は舞台に立てる状態なのか?」
 その言葉に、セアラは眉を曇らせた。
「師匠は確か、体を悪くしていた時があった。でもやってもらうしかないと思う」
 歓待祭で舞手が踊れなくなることは今までにもあったが、その時は同じ流派から代替の舞手を出していたはずだ。別流派に切り替わるということになったら、羽龍は担い手がいないのだと見なされ、存続が危ういだろう。
「……分かった。伝えてみる」
 呟いた言葉に、セアラは黙って頷いた。

3.
 シンが羽龍の舞場へ急ぎ、扉を開けると誰かがいた。身体は細く弱そうに見えるが、ひとたび動き始めると四肢に力がみなぎる。恐らく準備運動なのだろう、一連の動作は単調に思えるが、型が整っているために一つの作品のようにも思える。
 動きが止まった。人物は舞台中央に座り、声を発した。
「出てきなさい」
 シンは座間の中央に出て姿を見せた。イライ師匠の姿は逆光でよく見えない。
「イライ師匠ですか。私は……」
「お前がセアラと一緒にいるのを、何度か見たことがある」
 よく響く声。中性的だが威厳を感じさせる。
「シンです。実はセアラは怪我をしていて、今日はその件で来ました」
 舞譜をイライの前に広げながら、シンは説明を試みた。
「セアラの怪我は安静が必要で、歓待祭に出られません。彼女はイライ師匠に舞ってほしいと言っています」
 沈黙の後、イライはシンに近づいてきた。
 弱い光がイライの横顔を照らし出す。銀色の髪は長く、動くたびに僅かに光を反射する。目は黄昏のようだった。細い体躯だが、先ほどの動きを見る限り、鞭のようにしなやかで強いのだろう。
「悪くないな」
 舞譜を目にしたイライは、頷きながら言った。
 そして後ろに控えていたケイナに譜面を渡し、背を向けて動きはじめた。
 初見と思しきケイナの笛の音が、イライの動きを追い、やがてぴったり合わさる。恐らく舞譜の動きを忠実に行っているのだろうが、セアラの躍動的で甘さのある舞とは違い、イライの舞は緊張感と迫力がある。腕を少し動かすだけで気迫が漂った。
 やがて舞を止めると、イライはシンの方へ近づいてきた。息がすこしも上気していない。
「今の私は、この舞譜を表現できていない」
「今、しっかり舞っていたではありませんか」
 思わず声を張ったシンに、イライは淡々と告げる。
「最高潮だった頃に比べれば、動けていない。身体が思いについていけていない」
「そんな風には見えませんでした」
 ぎゅっと手を握りしめながら、シンは言った。声に力が入る。
「もしも身体が動かないのであれば、それを補強する衣装をつくります。肉体が精神に追いつかないのであれば、思いが見る者に強く伝わるような工夫をこらします」
「お前、美衣だったな。セアラの衣装を設えていた」
 シンが頷くと、イライが告げた。
「セアラの穴は私が埋める。お前の衣装と引き換えだ」
 そう言われるままにシンは、薄暗がりの中で、衣を落としたイライを採寸した。身体にはわずかな隆起がある程度だった。全身は細いが強靭な筋肉で覆われているのはセアラと同じだが、肉や骨の密度や強度はイライの方がむしろ高いようにも思える。シンは仕事柄、あらゆる種類の人の身体を見てきてはいるが、イライの身体はどんな性や年、職にも当てはまらないように思えた。
 龍の刺青はセアラよりもイライの方が範囲が広い。青い血管が透けて見える裸の背を見ると、龍が立ち上がってこちらに向かって目を光らせているように思えた。
 イライの皮膚はひんやりと冷たく、肌理は細かい。刺青が繊細に施されているせいか、肌にわずかな光沢があるように見えた。シンはふと、この龍の図案を考えた人間と彫師に会ってみたいと思った。
 その日以来、シンは、あらゆる布と糸の端切れを集め、織場帰りにイライの下へと通った。シンが持っている色彩豊かな布の多くは、イライの身体に当てると色あせる。またイライの皮膚も青ざめる。試してみて最も違和感がなかったのは、イライの白目部分の色に近い青みがかった白色の布と、彼女の髪の色に近い渋い銀色の帯だった。
 布地と帯の織糸は、セアラの衣装をつくる時につかった青蛾よりも更に強靭な繭をつくる山森蛾さんしんがの糸を使うことにした。山森蛾は山頂に近い木々に生息し、かなり広い範囲に分散する。また繭は一晩でつくられ、翌々日には羽化して飛びたってしまい、羽化後の繭は使えない。繭集めはミルヒに頼った。夜目が効いてすばしっこい彼は、一晩でたくさんの繭を集めてくれた。帯は綾取草でつくったが、伸縮性をより強めるために夜の冷水に数日間晒し、植物由来の染料で染めた糸に岩を砕いた顔料を固着させ、きらめきと渋い色味を表現した。
 苦心したのは衣装のかたちだった。セアラはシンのつくるものをそのまま着てくれたが、イライは違った。試しの布でつくった衣装で舞うと、イライはどの部位が動きづらいという注文をつけた。後でシンが衣装を見てみると、その部分が傷ついたり破れたりしているのだった。
 シンはイライの身体的特徴と、動きを想像しながら試行錯誤した。布は人を危険から守る、最も身近なシェルターだ。イライの身体が弱みを持っているのであれば、そこを守る役割を持たなければならない。その上で身体の動きを助け、補うかたちを考えた。
 イライが動きの悪さを気にしているのは右足と左腕だった。シンはイライの手足を見て、指の付け根の神経が刺激されており、常時腫れているのだと推測した。そこで、伸縮性の高い糸と布を使って周りの筋肉に圧力をかけ、悪い部分がうまく動くようにした。また、悪い部位の衣装をより軽くし、反対の健康な側はほんのわずかに重くし、全体を整えた。すると悪い部位に血流と力が巡り、動きやすくなるのだ。
 何度目かにつくった仮衣装を纏って舞った後、イライはその服地を破り捨てた。驚いてシンが駆け寄ると、イライは衣装の残骸をじっと見た。
「ここには何もない」
 呟くと、イライは舞場から去っていった。
 何もない、その言葉はシンの脳裏にしみついた。呆然として立っていると、シンの手を引っ張る者がいる。ケイナだ。
「師匠に何か言われたんですね」
 淡々とした口調が、ひときわシンの気持ちに刺さる。
「ああ。俺の衣装には何もないと言われた」
「表面的な良さしかないものを、師匠はよくそう表現します」
 シンがむっとすると、ケイナは取りなす口調で言った。
「本当に救いようがないと、何も言いません。改善の余地はあります」
 シンは破れた衣装の残骸を胸に入れ、折にふれ見つめた。織場でも布の切れ端を見ていたシンの様子に不審なものを感じたのだろう、ミルヒが近寄ってきた。
「それ、何ですか? 衣装とか?」
 なんとも言えずにいるシンを見て、ミルヒが笑った。
「なんだか、想い人の残した端切れを大事にしてるみたいですよ」
 シンは、手にした布に改めて目をやった。
 脱ぎ捨てられた衣装は、着ていた主の気配を残す。頭の中で布の端切れを元のかたちに補う。それを纏っているイライの姿を想像しようとしてみた。するとうまくイメージがまとまらない。
 衣装に何もないというのは、舞手が宿っていないということか。衣装の奥に、舞手であるイライが見えなくてはならないのか。シンは舞場に通ううちに、イライの舞の特性が分かってきた気がした。情緒や感性はセアラより豊かで深いが、身体的な稼働はセアラよりも制約がある。それを補い、活かすような衣装でなければならない。
 シンは制作について考えることをいったんやめ、イライの舞と空を交互に見つめた。イライが表現しようとしている雄大な夜空、希望に満ちた黎明、昼の天の平穏を体感するようにした。イライが舞う時、意識がどこに向かっているか、肌が何を感じているかを熟慮した。
 数十回目の試しの衣装を着用したイライは、ある日頷いて言った。
「良くなった。試作はもういいから、本番の衣装をつくってくれ」
 脱ぎ捨てられた衣装を手にしたシンは、中にイライの舞が宿っているように感じた。その感触が消えないうちに織場へ向かい、既に用意してあった布の中でも歓待祭用にとっておいたものを広げた。
 布は糸を染め、織り機にかけて糸を組織させることで生成される。縦糸と横糸の構造と素材の組み合わせ、そして色の組み合わせでさまざまな様相を見せるが、その布は杭名一番の織師の中でも優れた技巧を持つ者に頼んで選び抜いたもので、とりわけ丈夫で発色が美しかった。
 時間を忘れて衣装づくりに精を出し、小屋に籠って作業していると、ミルヒが心配してやってきた。
「そんなに急いでるんですか?」
「やっと許しが出たんだ。衣装の奥にイライ師匠が宿る、この感触を忘れないうちにつくってしまいたい」
 ミルヒはよく分からないという表情を浮かべたが、それでもシンの作業を手伝ってくれた。白継蛾の衣装と銀糸の帯は、染めて間もなく日に当てると退色するため、作業は夜中に行う。月の光の中で衣装を裁断して縫い上げていく。糸は帯と同じ色味で、依って丈夫にしてから太い針で縫う。針を押し込む時の指の痛みは相当なものだったし、光源が充分でない状態で縫うのでひどく体が痛む。光源は月光のほか、ミルヒが掲げてくれていた明灯草だった。
 しかし身体的な痛みは、シンに舞の感覚を実感させてくれた。一針ずつ布に刻み付けることで、イライのきざしを縫い込んでいる気がした。縫い進めては、全体の様子を光の下で確認する。時にはミルヒにまとわせ、動きを確認することもあった。そして納得のいくものができたと思った時、イライのもとへ持っていった。
 イライは一見して唸った。そして身にまとって動いた後、頷いて告げた。
「よろしい」
 シンは躍り上がりたい気持ちだったが、イライはその衣装をあっさりと脱ぎ捨てると、舞場を去ってしまった。良いとはいっていたが、すぐに脱ぎ去ってしまったのはどういうことか。シンがよく眠れずに翌日舞場へ行くと、イライは何事もなかったように舞台にいた。そしてシンに気づくと小さな瓶を差し出した。
「これを使ってほしい」
 見ればなにかの粉のようだった。光沢のある青色をしており、光の加減で蝶の鱗粉か魚の鱗のように輝く。
「染料か顔料ですか? この量で全体を染めるのは難しいと思います」
 その質問に、イライは首を横に振った。
「布に龍の姿を描くのだろう。その彩色に使ってほしい」
 瓶の中身を見つめたシンは、頷いて言った。
「羽龍を示す龍を描くつもりです。これは鱗の色にします」
 イライは瓶をシンに渡すと、すぐに稽古に入った。何を話しかけてもはっきりとした回答をしない。シンは当惑したが、ずっとそのままでいるわけにもいかない。瓶を手にして立ち去ろうとすると、イライはこちらを見て言った。
「セアラのところへ行くのだろう?」
 見舞いにはいくつもりだったので頷くと、イライは安心したような顔をした。
 織場へ行ったシンは、衣装に下絵を描きこんだ。龍の形はもう既に決めてあった。セアラとイライ、それぞれの背中には刺青の龍がいる。セアラの龍はしなやかで凛としており、イライの龍はひたすら強靭だった。羽龍の舞は、強さと可憐さをどちらも備えている。その両義性を表現するために、華麗な鱗と強い眼差しを持たせ、口元にはほんのわずかな微笑みを描きこんだ。
 下絵を完成させると、シンは衣装を舞場に持ち込んだ。舞台という場の中で、どのように見えるのか確認したかった。衣装を空に釣って全体を見ていると、ケイナがやってきた。彼女は衣装を目に入れるなり、身動き一つしなくなった。
「……どう思う?」
 シンがケイナの背を叩いて尋ねると、彼女はびくっと身体を震わせた。
「空中に龍が現れたのかと思いました」
 ケイナはまだ恐怖の残る表情を浮かべている。シンが顔を覗き込むと、ようやく安堵の表情を浮かべた。
「この柄、怖いか?」
 尋ねると、ミルヒは首を横に振る。
「怖いというより、魅了されました。ここから離れられないという気持ちになる」
 シンも自分が描いた龍を見つめた。裾から徐々に上に向かい、天まで伸びあがっていくかのような勢い。仕上がりにいったんは満足したシンは、衣装を持ってセアラのところへ見舞いに向かった。
 彼女はもう療院は出ており、自宅で生活している。シンが来訪した時、セアラは歩く練習をしていた。まだ歩き方はぎこちないが、自分の家でなんとか日常生活を送ることができるようになっていた。
 衣装を広げて見せると、セアラは息を呑んだ。
「これは……龍が生きてるみたい」
 彼女はシンにまっすぐ向き合って言った。
「素晴らしいと思う。これで完了?」
「いや、まだ着色作業が残っている」
 シンは告げると、青い小瓶をセアラの目の前にかざした。
「これをイライ師匠から預かっている。龍の鱗をこの色で染めるつもりだ」
 セアラは瓶を手にとり、真剣な眼差しでじっと見つめている。
「何か知っているか?」
 沈黙の時間の長さに業を煮やしたシンが言うと、セアラは瓶から視線を外さずに言った。
「これは羽龍に伝わる、華青かせいという顔料だと思う」
「華青?」
「ええ。羽龍の舞は奥義の部分は一子相伝で、最後の舞を教わる時、一つの神話を聞く」
 セアラは語った。夜の世界に生息する龍が、羽龍の祖となる人間の舞に魅了されて時を忘れ、日の光に焼かれて死んでしまう。その時残った鱗を集めたものが華青だと言われている。
「初代羽龍が、龍の鱗を顔料にして衣装につかったという伝承が残っている。その衣装を着けた初代の舞は、見る者が忘れられないものだったと」
「伝承の中の話だろう?」
「そうなんだけど、鱗を砕いたみたいなざらつき、このきらめき、あとは角度によって青がさまざまな表情を見せるという特徴、まさに話に伝わる華青だと思う」
 そう言うと、セアラは瓶をシンの手元に戻した。
「着色しているところを見たい」
「明日やろうと思っていたんだけど」
 セアラは首を横に振った。
「今見たいし、他の人間がいない時の方がいいと思う」
 シンはイライの言葉を思い出した。イライは別れ際、セアラに伝えるか尋ねた。それはもしかすると、セアラには見せるべきだということと、羽龍の人間にしか見せてはいけないことを意味していたのかもしれない。
 二人は織場へ行った。夜の建物はしんと静まり返っている。シンは瓶の蓋を開けた。そこからは夢中だった。氷蝶貝ひょうちょうがいの肉を煮詰めた接着材の氷晶末ひしょうまつをひき、華青を置いて固着させて乾かし、夜の空気にさらした。月の光の下で龍の鱗は青く染まり、深海にいるようにも、空に舞い上がっているようにも見える。
 仕上がった衣装の中の龍は、こちらをじっと見つめてきた。空には朝日が昇りつつあった。

4.
 王都からの一行は静かに杭名へ入ってきた。10の年ごとの歓待祭は王の視察と各集落へのねぎらいを兼ねたもので、過度な贅は禁じられている。しかし集落の人々の気持ちは高揚した。王都からやってきたのは皇太子で、歳若くして賢いという噂だった。
 金銭をかけるのは止められていたとはいえ、歓待は趣向と工夫を凝らした。杭名にしかない高い山と深い海からとれる珍味、月のない夜にだけ花開く植物や蠱惑的な幻覚を見せる美しい鳥、極小の玉に百の文字を彫りこんだ工芸品。そして、いつも杭名で評判になるのは舞だった。
 シンが完成した衣装を渡した時、イライは一瞥して触れただけだった。ただ少し笑みを浮かべていたようにも見えたので、シンはイライ師匠が満足したのだろうと判断した。その日以来、イライはケイナ以外の人物との接触を断ち、伝達はケイナ経由になったので、完成した舞をシンが観るのは歓待祭その日となった。
 舞はイライの希望により、明け方近くに行われることになった。王側の使いも驚いた様子だったが、イライは譲らなかったそうだ。最終的には、その時間帯でしかできないこともあるのだろうという皇太子の一言で、イライの望み通りに決行されることが決まった。
 当日、シンはセアラに肩を貸しながら会場に入り、舞台の正面に腰掛けた。傍らのセアラを見ると、最近青白かった顔の色が高揚しているように見えた。彼女は杖をつきながらであれば動けるし、少しずつだが舞にも復帰できる様子だった。
 この日に舞うことができないことはさぞ無念だろうと思い、シンは気をつかっていた。最近のセアラは口数が少なかったので、心の奥は測りかねるところがあった。しかし今は、イライの舞を心から楽しみにしているように見えた。
 冷気が下りる中、薄暗がりの中でかがり火が燃える。弱い光を点滅させる灯火虫や、羽の繊毛と鱗粉が薄緑に輝く霧妖蛾たちが時折ふわふわと通過していく。土の上に柔らかい布を幾重にも重ねた舞台には、日の出の方向に白木でつくった門が設えられていた。門の奥から舞台に入ってきたイライはシンの衣装を身に着け、気迫を漂わせていた。
 ケイナの笛が鳴る。はじまりの合図だ。冷気の中、響きわたる音色とともに、イライの身体に衣装がまとわりつき、見たことのないかたちを生み出す。イライが手を上げると、隙間から篝火が輝く。薄闇の中、服地にまつわる空気がたわむ。まだ夜に支配された空気の中、彼女は炎に照らし出されながら舞った。
 天上へ吸い込まれるような自転と跳躍を繰り返すイライの姿に、シンはセアラの言葉を思い出していた。羽龍の舞手は身体の中心に源があり、そこから全身に血流を巡らせ、しまいには身体の外に力を解放する意識で動く。体の芯を立てて重心を上げる姿勢と、倒ればかりに芯を崩す姿勢を繰り返す。羽龍の名は、龍のごとく自在に空を飛ぶように見えることに由来するのだという。
 セアラの舞譜の主題である空は、時間とともにうつりゆき、明るくなるにつれ広がりを増すように記されていた。最初は抑制されているが、次第に雄大さを示すようになる。
 やがて現実の空でも夜明けが近づき、濃紫の空に光が混じりはじめた。
 紫に混じる薄い色味は時と共にうつろい、繊細な濃淡をなし、色の層を入れ替える。生き物の呼吸にも似た色の運動は、とりとめがなく規則性を欠く分、不気味で神秘的だ。地平線の辺りに視線を走らせると、広い平野と黒々とした山影が見える。その上に色づいた天蓋には、次第に色の洪水が押し寄せる。
 空気が軽くなるとともに、イライの衣装の模様がはっきり見えるようになった。龍はイライと共に空気に溶け、空に向かっていく。濃紫の空に明け方の光が混じり、空の色がイライの龍の色に近づいていく。そして黎明の色、青緑色になった時、衣装の龍と空の色が一体化した。衣装の龍が、自在に動いているように見えた。イライの動きはそれまでより一層、いやむしろ、人とは別の生物のように軽やかになった。跳躍は空気のように軽く、動作は獣のように鋭い。衣装の龍は湧きたち、イライの身体を覆っていく。まるでイライ自身が龍によって動かされているように見えた。
 シンは傍らのセイナの手を握り、小声で囁きかけた。舞台を一心に見つめている彼女の手は冷たく、視線は舞台に据えられ、体は口も含め石のように動かない。シンはセアラから離れ、舞台のすぐ下にまで近づいた。見ればイライの衣装の龍は、彼女の背に彫られた刺青の龍と一体化している。イライの皮膚の下にある血は赤と青ではなく、龍と同じ色だった。力の源である血は青緑に湧き立ち、イライの身体を支配しているようだった。
 笛の音は大きくなり、加速した。見ればケイナは龍をいっしんに見つめ、憑かれたように息を吹き込んでいる。音は強靭な糸のように強く凛として、人が吹いているとは思えないほどに切れ目なく続く。シンは、ケイナの音色も龍のようだと思った。直感とともに走った。ケイナの傍らに向かい、笛を止めようとした。彼女は最後の一音を、全身から集めたすべての息を込めて吹き終わったところだった。
 音の終わりが切れ目だった。
 イライはいっさいの動きを停止し、地に伏した。
 その瞬間、彼女が消えうせた。
 見れば舞台には奈落ができ、イライを吸い込んだように見える。穴の底には布の残骸が見える。眼窩に残った衣装の青緑の残像が、明け方の空気を染めあげた。

 皇太子は舞に感嘆し、イライに褒美をとらせると言ってきかなかった。しかし当のイライは影も形もなく消えてしまった。シンの手元には、龍が消えてしまった衣装の残骸が残っているだけだった。褒美の品はセアラが受け取ることになった。
 数日の後、シンとセアラは羽龍の舞場にいた。傍らにはケイナもいる。
 舞場からはイライの気配が消え、代わりにセアラの気配で占められている。
「歓待祭の日、何が起こるか、分かっていたのか?」
 シンが尋ねると、セアラとケイナは肯定した。
「私たちは、華青の伝承を知っている」
 シンは思い返した。
 あの時、イライの身体は自在に動いていた。難があったはずの右足と左腕も、他の部位と遜色なく動いていた。人外の存在のように軽やかに舞っていた。そして龍。イライの皮膚の奥にある血や、背の刺青と同じ色をした龍は、衣装の中で、衣装を超えて蠢き、消え去った。
 シンは、以前、セアラと交わした言葉を思い出した。
 羽龍の舞において、血潮は原初的力となる。
「あの時、イライ師匠の肌の奥に、華青が見えた」
 シンの言葉に、二人は黙って首を縦に振った。
 イライの血潮は華青にとってかわり、身体が活性化されたというのか。
 華青はそもそも毒そのものだったから、あれほど強く美しい色だったのか。
 そしてイライは消えてしまった。まるで生命の力を出し尽くしたかのように。
「なぜ、止めなかった?」
「私たちが止めたところで、師匠はやめる人ではありません。ならば私たちで見届けたいと思ったのです」
 それまで黙っていたケイナは、静かに口を開いて言った。
「それにあなたは、見届けなければよかったと思ったのですか?」
 彼女の薄い瞳には、全てを見透かされる気がする。
 シンは黙って首を横に振った。
 あの瞬間を忘れることは、決してないだろう。
「芸能の多くは、精神や情緒が最高潮に達した時、身体の限界が来てしまう。それを乗り越えることを望まない人はいないでしょう。師匠は思いを遂げられて、満足したはずです」
 セアラの言葉に、ケイナも頷いている。
「……」
「師匠にかわってお礼をいいます。本当にありがとう」
 二人はシンに向かい、ふかぶかと頭を下げた。
 セアラにイライの衣装を渡すと、彼女は薄く微笑んだ。
 その笑顔は、嘗て衣装に存在したはずの龍の表情と重なる。
 不安にさいなまれながらも、シンは予感していた。
 この人々から、技から、業から、離れることはできないだろうと。

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