ぺりぺりぺりぺり

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梗 概

ぺりぺりぺりぺり

2081年、情報分離業データピーラーという仕事が存在していた。

2020年代に「正しくより都合良く」という思想が興隆し、情報の上塗りが流行。人々があらゆる情報にバイアスをかけるための増補をしたことで、原型を留めない情報がネット上に溢れた。
 一方で、発信した一次情報オリジナルが個人資産に認められ、情報の復元需要が高まったことで、増補された情報を除去する仕事、情報分離業が生まれた。
 なかでも、ネット上で自身が電子体となり、増補情報を剥がす現場業種はピーラーと呼ばれていた。
 電子体第一世代であり、ネット永住権を獲得している田牧はベテランのピーラーだ。現実の肉体は焼却済みである。
 2081年現在、人間の肉体・精神情報は全て電子体に移行可能だが、第一世代は当時のスキャン精度やデータ量の問題から欠損を抱えた状態で電子体となっている。電子体化は本来一時的なものであり、元の体に意識を戻すことを前提としたものだったが、データ欠損を承知の上でネット永住を認められた人間の一人が田牧だった。田牧は肉体情報を最優先にしたため、成人後の記憶情報に大きな欠損を抱えていた。

ある日、田牧を指名する依頼が届く。依頼人は辻という老婦人で、田牧の所属する会社の個人支援者であった。依頼内容は自身の遺品整理。辻は一週間前に亡くなっていた。
 田牧は辻の情報の中に異質な情報を発見する。それはとてつもない情報量の増補がなされ、いびつで巨大な球体となった手垢まみれの情報ダートデータだった。

ぺりぺりぺりぺり。
 気の抜けるSEとともに、田牧は増補情報を外していく。
 剥がれていく情報は多様だった。2009年、2027年、家、墓、初めて、最後……情報には一貫性がなかったが、どれも田牧の脳を刺激した。
 作業を終え、田牧の手に収まったのは、ビデオカメラだった。
 そこには田牧が欠損させていた記憶があった。ランドセルを背負う娘、たまねぎを剥く娘、寝ている娘。それは田牧の娘を撮ったホームビデオだった。映像データや剥がしたダートデータたちが、田牧と結びつく。
田牧の娘は、田牧の目の前でトラックにはねられ死亡していた。娘の死を苦にした田牧は電子体化に志願、妻や娘の記憶を棄て、今に至る。田牧は依頼人の辻が離婚した妻であることにも気付く。
 蘇る記憶とともに後悔の念に襲われる田牧。娘を失わせた自身の過失、自分勝手な電子体化と離婚、やはり妻は自分を恨んでいたのだろうか。
 苦悩に苛まれている田牧のもとに辻の遺書データが届く。
「最後のあなたは自分勝手だったのだから、私も最期は自分勝手にさせてもらいます。お願いだから私たちのことを忘れないで。人生で最高の時間をくれた最高の夫であり父親のあなたに感謝しています。ありがとう」
 田牧の電子体に妻の記憶が増補される。辛くも幸せな記憶は、田牧の欠けていた部分を温かく埋めてくれた。

文字数:1192

内容に関するアピール

職業はその人を示す大きな一つの属性であり、また新たな職業は新たな価値観に由来を持ち、その世界の一端が詰め込まれています。
 新しい職業倫理と普遍的なエモーションを一人の人物に詰め込み、前者が後者を浮きぼりにさせることを私の長所足り得るよう目指しています。
 そこで今回は、発信したものが他者(時には自身)によって歪められてしまう世界で、自分と相手の二人だけの感情や記憶を二人で取り戻すお話にしました。
 ちなみに叱られても褒められても伸びるタイプです。

文字数:223

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ぺりぺりぺりぺり

窓の外から聞こえるルリビタキのさえずりが僕を覚醒させた。
 大きく伸びをして一気に立ち上がる。四十の身体はどこにも不調がなく、思考もクリアだ。少し遅れて部屋の照明が灯り、時間を確認すると壁掛けのアナログ時計は六時前を示していた。
 ベッドから降り、手早く洗面を済ませてキッチンへ向かう。セット済みの炊飯器のボタンを押して朝食の味噌汁づくりに取り掛かった。
 冷蔵庫からじゃがいもと玉ねぎを取り出す。細長のじゃがいもはピーラーで、小さい玉ねぎは手で皮をむいていく。じゃがいもを手に取り、丁寧に時間をかけて作業を進める。土色の皮がぺりぺりぺりぺりと取れていく。この瞬間がとても心地よい。
 BGM代わりに流れる番組では、アナウンサーの綺麗な声でどうでもいいニュースを垂れ流している。海外の大統領選挙候補者の不正疑惑、痴漢冤罪裁判、石油王の遺産相続争い。出演しているコメンテーターたちの意見はバラバラだ。
 むけた皮を三角コーナーに落としていく。じゃがいもはくすんだ土色から輝くようなクリーム色になった。
 番組の司会者は困り果てている。コメンテーターたちがまくしたてるソース不明な情報を整理しようとしたが上手くいっていないようだ。いくつかの情報は嘘で塗り固められたものなのだろう。もしかしたら全部嘘かもしれない。
 玉ねぎの外皮を手でむいていく。ぺりぺりぺりぺり。一発で綺麗にむききるために手つきが慎重になる。
 司会は諦めて次の話題へ切り替えた。今の時代、情報の精査は困難だ。ネットに溢れる情報はあらゆる色で塗り重ねられ、受け取る側の都合によって真偽が決まってしまうのだから。
 そういった垂れ流されている真偽不明の情報たちを、僕は料理中の適度な雑音として使い捨てた。
 一発でむききった玉ねぎを日光に重ねるようにして見る。うん、綺麗だ。
 じゃがいもと玉ねぎを適当な大きさに切って、鍋に放り込む。玉ねぎが透明になってきたら味噌を溶かして完成だ。
 食器を用意していると、通知ウインドウが浮かび上がってきた。本日の予定というタグが付けられたそれは今日の仕事場所と開始時間が記載されていた。
 左手のジェスチャでウインドウを消す。
 続いて着信通知が届く。見知った相手にワンタップで通話許可を出す。
「はい」
 視界の左上に早浦の疲れ切った顔が映った。
「おはよう田牧氏。いつも通りだね」
 味噌汁とお新香をテーブルに運ぶ。ごはんが炊き上がった音がした。今日もタイミングはばっちりだ。
「おはよう。今日は夜勤だったのか」
「その通り……ってうわぁ、いつもながら田牧氏の朝食美味そう。ねぇ、俺の分も用意してくれない?」
 叶え難い要望に肩をすくませながらごはんを茶碗によそい、手を合わせる。いただきます。
「で、何の用なんだ」
 口が半開きになっていた早浦はそうそうと用件を切り出した。
「夜勤終わりの優しい俺が田牧氏にお知らせを持ってきたよ」
 気の抜けきったインフォメーション。早浦が僕の担当になって4年になるが、毎度お知らせを口頭で伝えてくれるのは律儀なのではなく寂しがりだからなのだと僕は知っている。
「お知らせは二つ。今日から短期就労の新人が入るっていうのと、明日から特別依頼の仕事が入るっていうの」
 お新香をぼりぼり噛み締める。歯ごたえと塩加減が絶妙だ。
「新人の就労期間は」
「一ヶ月だね」
「短いな」
「転職のタイミングで少しでも新婚旅行代を稼ぎたいらしいよ。面接担当だったけど勝手に身の上話してくれた。まあ人当たりは良かったしテストの結果もそこそこだったから大丈夫だと思う」
 早浦が言うのなら大丈夫だろう。今映し出されている背景から私生活は察して余りあるが、仕事に関してはそれなりに信頼している。
「そうか、分かった。ところでもう一つの特別依頼っていうのは」
 僕は残り少ないごはんを口に運ぶ。早浦は「あぁ」と声を漏らす。
「そっちは田牧氏を直接ご指名のお仕事だね。保全のオプション付きのやつ」
「指名なんて珍しい。保全が必要ってことは早浦付きになるのか」
「そういうこと。事前に下調べもしておきたかったけど時間無いから田牧氏と同じタイミングで作業始める感じになるかな」
 味噌汁を飲み干し、手を合わせる。ごちそうさまでした。
「了解。ちなみに依頼人は?」
 その質問に、早浦のトーンが下がる。
「……会社うちの個人支援者の辻さんだよ。田牧氏も名前くらい聞いたことあるだろ?」
「まあ聞いたことくらいはある」
「その辻さんの《遺情報》の整理なんだよ。特別依頼の内容」
 声が耳から入り情報として脳を刺激する。僕は運んだ食器をシンクに置いて手を止めた。最近触れていなかった単語と連想される事象に戸惑いを覚える。
「それってつまり」
「辻さん、亡くなったんだよ。電子体化もしてない」
 そうか、としか言えなかった。

完全な死。現実むこうにもネットこちらにも記憶・意識・身体が存在しなくなる状態。
 50年前に死を現実むこうに置いてきた僕にとって、その選択は少しも理解が出来なかった。

   ■

ぺりぺりぺりぺり。
 よくある高さ1mほどのつややかな黒い直方体。その表面から《増補情報》を剥がしていく。パキッと途中で折れて剥がれた《増補情報》は【童謡の替え歌】の音声データだった。片割れは直方体にくっついたままだ。《増補情報》の保全が必要ない仕事だからと剥がし剤ピールコードを適当につけてしまったことを少し反省する。
「田牧さん」
 直方体の反対側にいた新人が手を止めて目線をよこしてきた。
「なんだ」
 僕は応えながらヘラで剥がし剤ピールコードを塗っていく。今度はムラが出来ないように、丁寧かつ素早く手を動かす。
「この剥がし剤って調合とか分量を見極めるコツとかあるんすか?」
 ため息をつきそうになる。この新人でも知らない訳はないような初歩的な知識。テストの結果は何だったのか。
 だが、新人の指導も仕事のひとつだ。喉元過ぎれば熱さを忘れる。やれることは出来るだけ丁寧にやってしまおう。それが一番だ。
「調合に関しては専門の調剤者ディスペンサーに任せるのが一番だな。大体はよく使われる三種類を適当に使うくらいで事足りる。今回のだとよくある平均的な重さのデータが多いから2番を使っておけば何とかなる。《増補情報》が重そうなら1番、軽そうなら3番だ。基本的に満遍なく均等に2mmくらいで塗れれば問題ない。まあ習ったことと変わらんだろ」
「そうっすね。習った通りの話っす。いやぁ、聞いて見て分かってたつもりだったんすけど、剥がし剤選ぶのも塗るのも剥がすのも本当に繊細っつーか、大変っすね」
 へへへと笑う新人の顔に暗さはない。短期就労だからこその気軽さがそうさせているのだろうか。
「そうだな。上手く塗れば剥がし器なんか使わず手でも取れるようになる。剥がすことは考えないでまずは丁寧に塗ることに集中すればいい」
 新人はうっすと応えて黙々とした作業に戻った。
 僕は曲げっぱなしにしていた腰を伸ばし、空を仰いだ。空は現実と変わらず青色をしているが、時々シャボン玉のような透明で薄い膜が現れては消えてゆく。区画内で大きなデータの変更やデータ量の増減時に起こる現象だ。ここ数年、虹色の膜が現れる頻度が増えた。新人はそれを時折珍しそうに見つめている。
 空を覆う膜がふたたび現れる。新人は虹色の空を見つめて言葉を漏らす。
「やっぱりここって現実じゃないんすよね……」
 彼の呟きに僕は何も応えなかった。

     ■

人類がネットの世界をもう一つの世界として扱い始めて50年ほどになる。
 VRやARの技術興隆が一段落した頃。平面に文字列で記述されていたネットという世界が三次元方向に拡張した。その要因となったのが現実世界の物理座標だ。多くのモノがIoT化すると共にネットワーク内のアドレス設定に物理座標が組み込まれると、ネット上に転がっていた情報たちも三次元空間上で〝形〟を持つようになった。
 ネット上で情報が〝形〟を持つようになることで、人類は人体情報を電子体として三次元的に構成出来るようになった。ネット世界という第二の世界が拓かれた瞬間である。人類は新たなるフロンティアに熱狂し、侵入していった。
しかし、ネットの三次元化はひとつの大きな弊害を招いた。
 情報の〝上塗り〟だ。
 それまで情報は二次元で表記・構成されていた。それゆえ厚みのない情報を変容させるには直接その文字列を書き換える必要があった。つまり文字列を固定化ロックさえすれば情報が変容することはなかったのだ。
 しかし、情報が三次元的に〝形〟を持つようになると、情報を変容させるために文字列を直接書き換える必要は無くなった。ただ、任意の側面・角度から情報を〝上塗り〟するだけでよくなってしまったのだ。その上塗りされた情報は《増補情報》と呼ばれている。
 それまでよりも容易に情報の変容が可能になった世界では、それまで以上にネット情報の信頼性が失われた。
 情報が発信される。すると次の瞬間には誰かの都合に合わせた《増補情報》によって情報が〝上塗り〟されてしまう。不特定多数の手垢から情報を守る手立ては、開拓されたばかりの世界には存在しなかった。
 そこで生まれたのが情報分離業データピーラーという仕事だ。人がネット世界で電子体となり、情報を直接ビジュアルで捉えて、上塗りされた《増補情報》を剥がすことで情報を発信された当時の状態に戻す。
 情報を各々の都合に合わせて使いこなすことが当たり前となった時代。多くの人には必要のない仕事であったが、需要は確実に存在していた。
 そんな新たな世界、新たな需要によって生まれた情報分離業データピーラー。その最初の分離者ピーラーが僕だ。
 50年前、電子体化は実験的な側面が大きく、本人の同意以外にも家族からの同意も必要としたものであった。その理由は、人体情報のスキャン・アップロード技術が未発達であったため、電子体に情報欠損が生まれてしまうことにあった。
 当時の電子体の用途としては、現実世界への帰還を原則としたネット世界への探索であり、最初期はネット世界での記憶を現実世界に持って帰れもしなかった。それが技術の発達とともにネット世界の記憶を現実世界に持って帰れるようになり、人体情報のスキャン・アップロードの精度が上がっていき、現在は現実世界と違わぬレベルの人体情報を有してネット世界で暮らすことが出来ている。その成果の一つが、ネット世界に人体情報を完全移行することによる死の疑似的な克服でもあった。
 ネット世界フロンティアへ乗り込んだ第一世代として、僕は誰よりも長い間ネット世界で働いてきた。その成果として、今こうして多くの人がこの世界で自由に生活していることを、自分の誉れのように感じている。

     ■

昼休憩中、新人は一人分の間を空けてベンチに座ってきた。
「田牧さんって第一世代の人なんですよね」
 唐突な質問を受け、僕は口に含んでいたミニトマトを飲み込む。
「そうだな」
「でもそれにしてはパッと見じゃ俺と全然何も変わらないんでビックリしたっていうか」
 ジロジロ見てくる新人の言いたいことはよく分かった。数の少ない第一世代は、イメージも相まって酷く粗い解像度のボディで説明されることが多い。ただ、ここはネット世界だ。上塗りがとても上手に出来る世界なのだから見た目がアップデートされていくのは当然ではないだろうか。
 そう説明すると新人は膝を打った。あまりにも動きが古臭い。
「なるほどっすね。いやぁ、でもこうやって伝説の田牧さんと一緒に出来るなんて光栄っすよ。なんというか、ベテランっていうのを超えて神! みたいな」
 この新人は人当たりが良い。早浦が言っていた通りの人物だとよく分かる。しかし、なんだか会話の据わりが悪いように感じてしまう。性格の不一致かもしれない。
「ところで昼飯はいいのか」
 当たり障りのない質問に新人は大袈裟に右手を左右に煽いだ。
「あー、いいんすよ。今は新婚旅行代稼がなきゃなんで昼食代もケチってるんす。てかむしろ田牧さんはなんで昼ご飯食べてるんすか? ネットだと何も食べなくても生きていけるんすよね?」
 なんかすげー美味しそうっすね、と羨ましげに手作り弁当を見つめてくる。まるでエサの前で待てと言われている子犬のようだ。あげたりはしない。
「働いてると他に大した楽しみもないからな。趣味みたいなもんだ」
「あーなるほどっす。趣味大事っすもんね」
 本当に分かっているのだろうか。その疑問を白飯とともに飲み込む。
「てか田牧さんは何で働いてるんすか? お金も生きるだけならそんなに必要ないのに……ってあっ、分かった! 田牧さんもここでバッチリ稼いで家族と旅行とかする感じなんでしょ!」
 何が嬉しいのかビシッと人差し指を立ててニコニコ笑っている。新婚というのは何でも楽しくなれる素晴らしい時期なのだろうか。よく分からない。
 そんなアホっぽい新人の顔を数秒見つめる。明日からは特別依頼の仕事になる。今日一日だけの指導役。相手は一ヶ月だけの短期就労。いくつかの要素が組み合わさり、ため息を吐くように僕の口は自然と開いていた。
「いや、家族はいないんだ。というより、正確には家族がいるかも分からない」
 僕の言葉に「え……」と新人はたじろぐ。
「第一世代には情報欠損があるのは知ってるだろ? 僕の場合には成人後の記憶の大半が抜けてる。そのせいで自分が結婚しているのかも分からない。現実に戻ろうにも肉体は無くなっていたし、家族と名乗る人から連絡が来たこともない。まぁ第一世代で電子体化してるくらいだから訳ありな人間だったんだろうな」
 言ってしまってから重い話をしてしまったと後悔する。本当に後悔は先に立たない役立たない。
 誤魔化すように自嘲気味に笑うも新人の表情は硬くなっていた。
「なんか、つらいこと訊いちゃってすみません」
 急に真面目なトーンになってしまって僕も困ってしまう。
「いやまあ僕自身は別につらくもないから……」
 バッドコミュニケーション。ネット世界で50年生きてきてこの返ししか出来ない自分のなんという経験値の少なさか。情報分離業なんて一人で黙々とやる仕事をしているからこうなる。記憶のある分だけでも合わせて70年は生きてるはずなのに。相手は20代だぞ。若者に気を使わせてどうするんだ。
 過ぎたことは取り返せない。過去のマイナスは未来のプラスの糧にするしかないのだ。
「というか、新井の奥さんってどんな人なの?」「子どもはまだいないんだ」「新婚旅行はどこにする予定なの?」
 僕はここでようやく新人の名前を初めて呼び、話題に華を咲かせる努力をしたのだった。

     □

あの頃から、もうだいぶ遠くなってしまった。
 去りし日々は一瞬で、それでも鮮明に浮かび上がる思い出がある。
 何もなかった日々に与えられた希望。
 その輝きはどんなことがあっても陰ることはなかった。

     □

慣れないことをした次の日は、少し身体が重く感じた。
 早朝から移動し、早浦から指定された場所に着く。潮の香りが漂う港には多くの倉庫が立ち並んでいた。
「この中に辻さんの《遺情報》がある」
 現実世界からウインドウを通じて早浦の姿と声が届く。
「ここは何の倉庫なんだ」
 塗装に輝きすら覚えるその倉庫は、しかしながらデザインには古臭さがある。
「辻さんが所有していた企業向けの貸倉庫らしい。現実では今も貿易商の輸入品が納められている倉庫として使われ続けているよ」
 扉に手を触れるとざらついた感触がした。IoT化された倉庫。物理座標が設定されているモノはネット世界でも表出される。扉脇にある無駄にIoT化された定礎板には、40年前の年が刻まれていた。
 扉を横にスライドさせる。
 その大きさに似合わない滑らかさで扉は開いた。
 現実世界ではこの空間に無数の輸入品が積まれているのだろう。しかしネット世界では、IoT化・入電されていない物は見ることが出来ない。
 電気の点いていないがらんどうな暗がりはとても寒々しい。
 近くにあった照明のスイッチを押す。
 明かりが点く。
 そこにはきっと老婦人が遺したささやかな情報が————

一瞬、目の前の物が何なのか分からなかった。
 正確には、目の前の光景が一つの物体であることを認識できなかった。
 照明が点いても目の前は真っ黒だった。上から光が来ているにも関わらず認識出来る色が変わらなかった。
 ただ一つ、異なるところはその色味だ。
 がらんどうで寒々しい暗闇から、光沢のある、見慣れた黒色になっていたのだ。
 自然と、目線が上を向く。
 天井を見上げるようにして、ようやくその黒い物体の輪郭を見つけることができた。ゆるい弧を描いている輪郭は今にも天井に触れそうだ。
 大きい。ただただ大きい。
「……おい」
 どうにか口を開く。
「あぁ……」
「これが、辻さんの《遺情報》なのか?」
「そう、みたいだね……はは」
 早浦も乾いた笑いしか出ていない。僕も呆然と見ている事しか出来ない。
 倉庫内は静謐さを保っている。

老婦人が遺した情報は、いびつで巨大な球体となった手垢まみれの情報ダートデータだった。

     ■

ぺりぺりぺりぺり。
 黒から黒を慎重に剥がしていく。いつも以上に丁寧に。
 今回は《増補情報》の保全が求められている。つまり、他人から勝手に付けられた情報も欠損なく剥がし取り、保管する必要がある。
 額に汗が浮かび上がる。汗は目尻、頬を伝い首に巻いたタオルにしみ込んでいく。
 地上5mに作られた2m四方の足場。僕は胡坐を組んで目の前の黒と対面し、その身を剥がしていく。
 剥がしきる最後の最後まで気を抜かない。ヘラの先に1番の剥がし剤を掬い取り、塗り足す。10秒ほど待つ。すると、ぴったりとくっつき合っていた《増補情報》同士の境界線が浮き上がってくる。その僅かな境目に軽くヘラを差し込み、隙間を作る。ぺり、と剥がれ始めた《増補情報》に両手の人差し指、中指の計4本をひっかけて少しずつ手前に引いていく。
 ぺりぺりぺりぺり。
 その大きさ、重そうなビジュアルに似合わない音を立てながら《増補情報》は剥がれていく。
 取れた黒い物体を脇に置く。【墓石の下見】の映像記録だった。一見するだけではその内容までは分からない。
ひとつ前に剥がした《増補情報》は【紙タバコ(リトアニア)2MT】の取引情報だった。試しにタイトルで検索をかけると公表されている情報だった。辻の持っていた貸倉庫という場所柄からか、この巨大なダートデータには辻や輸入に関係する情報が多く塗り付けられていた。
「早浦」
「あいよ」
 キーボードの打ち込む音ともに音声のみ返ってくる。
「進捗どうだ」
「うーん、中身自体は突飛なものでは無いんだろうだけど、如何せん物量がね……もっかいエコーやってもらっていい?」
 了解、と応えて工具箱を引き寄せる。開けると電動ドライバーに似た携帯型エコー機を取り出す。
 黒の壁面にエコー機を当ててスイッチを押す。すると視界の右下にウインドウが開かれる。追いきれないスピードで文字列が流れていく。その全てが三次元化されている情報を平面的に切り取ってコード化された情報だ。
「うーん、あぁ。そうなんだよな……」
 早浦の呟きが聞こえてくる。三次元化されている《増補情報》を物体として捉えて分析する方法が一般的な中で、コード狂の早浦はこのニッチな機械を使って無理矢理コードで読み取っている。常人には理解できないが、これで他の調剤者(ディスペンサー)以上の成果を出せているのだから驚きだ。
「確定では無いけど、たぶんこの《増補情報》の多くは辻さん本人が塗りつけた情報みたいだね」
 そうなると……と早浦は自分の世界へ戻っていった。何かしらの取っ掛かりを見つけられたようだ。
 《増補情報》の保全が必要な場合、データ量が多い場合など、分離者ピーラーのみでの作業遂行が難しいことがある。そういう時に共同して作業にあたるのが調剤者ディスペンサーだ。調剤者は現実世界で《増補情報》に関するビッグデータや過去の作業事例と照らし合わせ、より適切な剥がし剤を作る専門職だ。早浦はその中でもかなり優秀な調剤者だ。
 作業を始めて二日。まだこのダートデータ専用の剥がし剤は出来上がっていない。例を見ない情報量に対して慎重に分析しているのだろう。
 僕はその間、ひたすらコツコツと《増補情報》を剥いていく。取れた《増補情報》はより簡単に分析へかけることが出来る。結果、僕の成果が早浦を助け、早浦の成果が僕を助けることになる。

ぺりぺりぺりぺり。
 孤独な作業が続く。この作業の先には早浦がいて、依頼人がいる。ただし今回の場合はその依頼人が死んでしまっているのだが。
 会社の個人支援者である辻とは会ったことが無い。辻は電子体化をしていないし、僕には現実の肉体がない。早浦は一度だけ会ったことがあると言っていた。温和な老婦人だったそうだ。
 無心で手を動かしていると、ささくれのような疑問が浮かび上がってくる。
一体どうして温和な老婦人は《遺情報》の整理を頼んだのか。何故その大切な仕事に僕を指名したのか。電子体化しなかったのは何か理由があったのだろうか。
 電子体化が一般に普及してもう10年ほどになる。安心・安全・安価に電子体化が出来るようになったことで、人類は死を疑似的に克服することが出来た。
 現実で死んだとしても電子体化をしていればネット世界で生き続けられる。事故で植物人間になってしまった少年が電子体化をして家族と画面越しに再会したニュースは非常にセンセーショナルなものだった。
 死んだ人が暮らす第二の世界としての役割を担うようになったネット世界では、この10年で環境整備が急速に推し進められた。無限階層マンションの構築、食物の再現データ研究、現実世界を再現するための物理座標取得機の極小化とその設置など、挙げればキリがない。
 現実と大差なく、人によっては現実よりよっぽど快適に暮らすことが出来る世界が目の前にあり、一方で死という未知の恐怖がある。その時、一体どれだけの人が後者を選び取ることが出来るだろうか。
 辻は会社の個人支援をするほどの人だ。経済的に困っていた訳でもなければ、温和な人柄的に何か切迫した危機に瀕していた訳でもないのだろう。
 そんな人が、一体どうして選び取れる生を捨て、死に身を委ねたのだろう。
 小さな《増補情報》を剥がしたところで集中が切れてしまった。
 足場で大の字になる。
 取れたばかりの《増補情報》を片手で持って眺める。カードサイズの情報は【通院記録(辻いつみ)】だった。
 《増補情報》の概要は完全なオープンソースとして、個人の閲覧の意志とは関係なく表示される情報となっている。当然ながらその中身までを情報分離業者が閲覧することはない。
 職業倫理として、扱う情報の勝手な閲覧はありえないし、これまで興味もなかった。
 しかし、今は少しだけ気になっている。
 辻いつみとはいったいどんな人物だったのか。そして、辻いつみがいかにして大きな決断を下すに至ったのか。

その真相は、このダートデータの中にあるかもしれなかった。

     □

あの日を境に、何かが大きく変わってしまった。
 失ったものは大きかった。変わってしまうのは当然だった。
 それでも、変わらずにいるべきものもあったはずだったのに。
 全てを変えてしまった。でも、悲嘆するだけにはなりたくなかった。

     □

作業を切り上げて帰途につく。
 早く帰ろうと思えば、点在する転移装置に乗ればよい。
 でも、今日はゆっくり歩いて帰りたい気分だった。

湾岸地域から離れ、歓楽街が近づいてくると喧騒が目立つようになってきた。
 歩行者天国を通る。広い道路同士が交差する地点で、人だかりが出来ていた。
 その集団は、何かを見つめており、ときおり歓声をあげていた。
 近づいていくと音が聴こえてきた。
 ぺりべりばきばき。
 嫌な音が嫌な光景を予測させる。
 ばきがりべりぱき。
 歓楽街の喧騒に似合う音が鳴り響く。新人でも出さないような汚く大きな音に、観衆は興奮しているようだった。
 人だかりの切れ間から、音の正体を覗き見てしまう。違ってくれと祈る。
 しかしそこには予想通りの光景があった。1.5mほどの歪んだ立方体に大きな鉈で切れ込みを入れている男がいた。半袖短パンに銀の鎖のネックレス、オールバックで汗を光らすその姿はいかにも配信者だった。
 分離芸術家ピーリスト。そう自称する彼らは、《増補情報》にまみれの情報を、自らの意図に合わせて剥がし削り、芸術作品に昇華させるという活動を行っている。
 彼らの活動方針は多岐にわたるが、目の前にいる彼はなかでも悪質な部類のようだった。人の情報を勝手に加工するゲリラピーリストと呼ばれる彼らは、その過激さを売りにして主に配信活動を通じて稼いでいる。
 彼らに求められているのは大衆受けする派手さだ。数年前から現れ始め、この数年で情報分離業というマイナーだった仕事を世に広めたのは間違いなく彼らの功績である。
 一方で、彼らが嬉々として見せつける情報を蔑ろにした行為は、世間で情報の扱いが軽視されやすくなった一因になっているという罪も孕んでいる。
 端的に言えば、僕は彼らの行いが嫌いだ。
 きっと信条もあるのだろう。事情もあるのかもしれない。それでも、誰よりも情報を丁寧に正確に扱わなければならない仕事を、全く逆の行為に反転させていることが、僕には許せなかった。
 ゲリラピーリストの男は大袈裟に鉈を振り上げ、打ち下ろす。ガチンという鈍い音とともに《増補情報》の欠片が地面に散乱する。その光景に周囲は沸き立つ。その歓声で男は更に調子づく。今度は鉈で軽く切れ込みを入れるとそこに手をかけた。煽るように声量を上げた応援の声にあわせて「いくぞっ」と声を張り上げると、一気に《増補情報》を剥がしおろした。
 べりべりべきばり。
 力任せに剥がした《増補情報》を両手で頭上に掲げる。男の目線の先には、わざとらしく置かれたビデオカメラがあった。そんなものが無くとも撮影は出来るはずだが、それもパフォーマンスの一貫なのだろう。
 あまりにも自分勝手で、ある意味今の時代を象徴するような姿に、僕は目を伏せ、耳を閉じる。ただただ、歓声が沸き立つその場から立ち去る事しか出来なかった。

     ■

辻の倉庫に来て三週間が経った。
 あの途方もない大きさを誇っていたダートデータも、いまや2m立方程度までになっていた。
 僕だけなら一年がかりの仕事だった。それを一ヶ月程度にまで縮めてくれたのは他でもない早浦だ。早浦のコード分析によって生み出された剥がし剤は、【辻ひろみの情報】と【それ以外の情報】を自然剥離させるものだった。早浦自身は「これだけ大きいからこそ作れたし使える剥がし剤だね。応用が利かないからクソ剤だけど」と笑っていたが、その剥がし剤は間違いなく仕事を加速させてくれた。
 そんな大仕事をやり遂げた早浦は本日有休を取っていた。だいぶ無理をしてくれていたのだろう。昨日見た早浦の顔は、夜勤明けの三倍ほど酷い顔になっていた。その顔のことをいじったら「お前を《増補情報》まみれにしてやろうか?」と脅された。

ぺりぺりぺりぺり。
 静寂を保つ倉庫で一人、黙々と作業を続ける。少しずつ、少しずつ。確実にダートデータは小さくなっていく。
 それに合わせて倉庫の壁沿いに並べている《増補情報》は増えていく。今回の仕事依頼は《遺情報》の整理であり、それには《増補情報》の整理も含まれている。
 【墓石の下見】【紙タバコ(リトアニア)2MT】【通院記録】【ソマリア沖海賊情報】【12月の食事記録】【散歩】【ビデオ撮影術入門講座メモ】【お気に入りプレイリスト】【面白かった漫才動画リスト】【映画鑑賞記録】【3月家計簿】【今日のごはん】…………
 数えてみると、その数はゆうに一万を超えていた。五日かけて《増補情報》を辻いつみと貿易会社とその他の情報に分け、時系列順に整理した。全体の九割超におよぶ辻の情報は多岐にわたり、概要情報を眺めるだけでそれらが辻いつみの情報のほぼ全てなのだろうと思わされた。
 いびつで巨大な球体となった手垢まみれの情報ダートデータは辻いつみの人生ほぼそのものだ。人一人の人生の情報量は多い。しかしそれを視覚で捉えたことは初めてだった。
 ダートデータは何重もの層になり、積み重なっていた。剥がせば剥がすほど辻の記録は時を遡っていく。
 80代、70代、60代、50代、40代。《増補情報》に付与されているタイムスタンプをもとに並べていく。辻がどういった人生を過ごしてきたのかは概要からだけでは分からない。ただ一つ推測できるとしたら、辻に家族はいないようだということだ。
 《増補情報》で確認できる概要情報はデータのタイトルとその情報が発信された際のタイムスタンプのふたつだ。そしてそのデータタイトルに家族の存在を想起させる単語が一度も出て来ていないのだ。例えば子供がいれば授業参観や入学式卒業式、成人式や誕生日などの思い出は少なからず残されるだろうし、夫だけでもいれば家族旅行や結婚記念日のお祝いなどがあってもおかしくないだろう。
 もしかすると、実際の辻には家族がいて、ネットにはその情報を発信しなかっただけかもしれない。僕は、どちらかといえば辻に家族がいる可能性の方を信じたかった。
 そう信じたいのは、僕が孤独な自身を少なからず憐れんでいるからだろう。寂しい訳ではない。今さら家族を作りたいと思っている訳でもない。でも、記憶を無くすという代償を払ってでも電子体化に踏み切った過去の自分を想像すると、やるせなさや憐憫の感情を抱いてしまう。家族がいない自分と少しでも同じ部分があって欲しくない。辻に対してそう思ってしまうのだ。
 ぺりぺりぺりぺり。
 剥がし終えたばかりの《増補情報》につけられたタイムスタンプはまた少し時間を遡っていた。
 誕生日を祝った記録が無い辻の誕生日がいつなのか分からないが、年代的におそらく30代の記録になってきているのだろう。

残り2m立方ばかりのダートデータ。《増補情報辻の記録》はどこまで遡るのだろうか。
 そして、この中心にある元の情報は一体何なのか。
 好奇心をどうにか振り払い、僕は作業を続けた。

     □

記憶は薄れる。消える。どんなに抗おうとも。
 でも、記録は保存できる。遺せる。
 記憶は主観の記録だ。記録は客観の記憶だ。
 なら、やることはひとつだ。自分勝手なあなたに私の自分勝手を贈ろう。

     □

ぺりぺりぱりぺりぱりぱりぺりぱり。
「終わりが見えてきたね」
 早浦がポテトチップスを頬張りながら話しかけてくる。
「早浦、お前暇ならまた休暇取っても良いんだぞ?」
「いや、まだ仕事あるから。今はそれまでの小休止」
 早浦はふたたびポテトチップスを口に放り込む。口ではそう言っているが、その小休止が3日前から始まっている。調剤者がやるべき仕事は残っていないはずで、早浦の意図がよく分からない。
 僕は目の前のダートデータに集中する。大きさは1m立方程度になっていた。何もなければ今日で全て剥がしきれるだろう。
「ねぇねぇ田牧氏」
 いつもの調子で早浦は話しかけてくる。作業中の分離者に話しかけるのはあまり褒められたことではないのだが、この適度なデリカシーのなさに僕は助けられているところもある。
「なんだ。面倒な絡みなら無視するぞ」
 首に巻いたタオルの端を持って汗を拭く。少し喉が渇いた。
「田牧氏ってさ、家族が欲しいとか思わないの?」
「なんだそれ」
 近くに置いてあったペットボトルを取り、水を飲む。
「だってさ、田牧氏と知り合ってから4年くらいになるけど、そういう浮いた話一切聞かないんだもん。記憶が無くて家族からのコンタクトもないって聞いてるけどさ、だからこそネットそっちで家族を作ろうとか考えたりしないのかなって」
 新井君見てちょっと羨ましくなっちゃたんだよねと早浦は笑う。たしかに、新井はとても幸せそうにしていた。
「……そういえば考えたこともなかったな。一人でいることに慣れすぎたし、今さら誰かと生活をするっていうのも正直想像できない。というか実年齢を考えればよぼよぼのおじいちゃんだぞ? 今から結婚とかないだろ」
 当たり障りのない言葉が口からするすると出てくる。まるで僕ではない誰かの言葉みたいだ。
「そうなの? だって体はずっと40歳の肉体のままだよね? ほら、精神は肉体に宿るっていうし、40歳なりの気の持ちようとかあるんじゃないかなって」
「そういうもんか」
「いや、そうじゃないかもしれないけど……でも田牧氏にネットで結婚っていう考えが全くなかったっていうのはなんか安心した」
「なんだよそれ」
 まあまあと流すように笑う早浦。結局何が訊きたかったのかよく分からない。
「ほら、もう仕上げに入るぞ」
 いよいよダートデータが小さくなってきた。ここからはより慎重に作業を進めていく。間違っても元情報に傷をつけてはいけない。
 ぺり ぺり  ぺり    ぺり ぺり      ぺり。
 黒い《増補情報》が取れていく。タイムスタンプの年代は、辻が30代前半の頃の記録であることを示している。
 真面目に、ただ真摯に。目の前の仕事と向き合っていく。
 自分勝手にされていたものを、元の、あるべきものに戻していく。
 元の情報が全て正しいなんてことはない。間違っているものだってあるはずだ。それでも、ありのままを受け入れる。そのための手助けをしている。今までずっとそうやってきた。これからもそれは変わらない。

もしかしたら辻も、そういったことを思って《遺情報》をもとあるべき姿に戻したいと思ったのかもしれない。ふと、そう思った。

     ■

三時間後、最後の《増補情報》を剥がし終えた僕は、ダートデータの中心にあった辻の遺した最初の情報を手にした。懐かしさを感じさせてくれる形をしたそれを思わず優しく撫でる。
 辻が遺した最初のデータはビデオカメラの形をした映像データだった。
 ビデオカメラ。きっと早浦や新井は持ったこともないだろう。僕が現実で生きていた時ですら流通が途絶えかけていた代物だ。とても懐かしい。本当に懐かしい————
「田牧氏」
 早浦に呼ばれて自分が呆けていたことに気付く。
「あ、すまん。少し呆けてた」
「田牧氏」
 その声はいつもの早浦とは違う、真剣なものだった。
「どうした?」
 その迫力にただならぬものを感じる。まるで僕が危険物を持っているかのような。
「その映像データ、見て」
 ありえない指示。完全に情報分離業者の職業倫理に反する行為だ。
「なんだよ急に。駄目に決まってるだろ。情報分離業者が依頼された情報の中身見るなんて」
 早浦は首を横に振る。なんだ、何も間違っていないだろ。
「それが辻さんからの依頼なんだ。田牧氏にそのデータを見て欲しいって」
「は? 何冗談言って……」
「冗談じゃない。それが辻さんからの最期の依頼なんだ」
 早浦の目は、ウインドウを通じても分かるほど真剣で、真っすぐだった。
 意味が、意図が分からない。分からないが、怖い。
 恐怖が思考を進ませ、今までの疑問がゆるやかに繋がっていく。何かが見えてくる。
 その依頼が意味するところは、辻と僕の間には何かしらの関係性があるということで。そしてそれは辻が自分の死後に物を託すほどの強い関係性で……。
 導きかけている結論から目を逸らしたくなる。そんな訳がない。そんな、今さら。なら、一体どうして————
 ビデオカメラを見つめる。
 全ての答えは手にしているビデオカメラにある。辻いつみが何者なのか。僕とどういった関係があるのか。もしかしたら、僕が無くしている記憶についても。

そして僕は再生ボタンを押した。それと同時に、何かが僕に加わったような感じがした。

     □

————ごめんね、こんなこと頼んじゃって。
 病室のベットで上半身だけ起こした状態で彼に謝る。伝言と特殊なコード製作を受けてくれた彼。立場的にも、能力的にも彼にしか頼めなかった。大したお礼も出来ず、本当に申し訳ない。
————いえ、私は別に何も……でも、本当に良いんですか?
 彼の言いたいことはとてもよく伝わった。彼の言いたいこともきっと正しい選択だ。それでも、私は確信をもって首を横に振る。
————良いのよ。会わない方が伝わる、通じ合えることもあるから。
 きっとそうだと思える。だって私はこの50年、ずっとあの人のことを見ていたから。
 そう言った私に、彼は深々と頭を下げてくれた。
————ありがとう。
 私も頭を下げる。年寄り同士の自分勝手に巻き込んでしまった彼への謝罪と、私の自分勝手に託した願いとに。

     □

画面に、どこかのリビングが映し出された。ありふれた、どこにでもありそうなリビング。そのはずなのに、僕は懐かしさを感じ、何かが刺激された。
 画面の奥にはドアがあり、その先には廊下が続いているのだろう。ドアの向こう側からどたどたと足音が聞こえてくる。非常に軽く不安定で、守りたくなるような足音。
 ドアノブが下ろされ、ドアが開く。鼓動が早まる。焦燥や恐怖ではない。興奮とも似つかない、早送りと停止の両ボタンを求めてしまうような感情。
 ゆっくりと開かれるドアの先には、少女がいた。二つの足で立つ小さな少女の名は。
「美玖……」
 僕の口から零れ出た名前は、間違いなく映っている少女の名前だ。
 そうだ、この子は美玖。美玖は僕と————
 暗がりの廊下の先から女性が現れた。その慈愛に満ちた顔は美玖に向けられていて、カメラは自然とその顔にズームしていく。
「いつみ……」
 美玖と、いつみ。僕の最愛の家族。
 気付けば目の前が滲んでいた。両の目から涙が溢れ、頬を伝う。
 思い出す。そうだった。いつみの旧姓は、辻だった。
 画面の向こうにいる二人はこちらを向いて笑顔になる。美玖がおぼつかない足取りで歩み寄ってくる。
「ぱぱー」
 カメラを回していたのは、僕だった。

映像は切り替わり、今度は桜舞う道を美玖が歩いている。
 ピンクのランドセルが跳ねている。美玖の喜びようがその後ろ姿から伝わってくる。カメラを隣に向けると、正装を身に纏ったいつみが嬉しそうにしている。僕たち三人は小学校の入学式へ向かっている。
 美玖がジャンプして手を伸ばす。すると急いでこちらに駆け寄ってきて、掌にある花びらを嬉しそうに見せてきた。
「さくらの花びらとれたよ!」
 美玖の頭を大げさに撫でる僕。「髪が乱れちゃうわよ」と笑ういつみ。「ともだちたくさん出来るかな?」と訊いてくる美玖。それは絵に描いたような、希望に満ち溢れた家族だった。

次に映し出されたのは、キッチンだ。
 エプロンを着けたいつみと美玖がいる。美玖が手に持っているのは玉ねぎだ。
 ぺりぺりぺりぺり。
 真剣な目つきで慎重に玉ねぎの外皮を剥いていく。最後まで剥ききって「できた!」と白く輝く玉ねぎをこちらに見せてくる。
 美玖の隣でいつみはじゃがいもの皮を剥いている。
 僕の誕生日。二人は僕の大好物の玉ねぎとじゃがいもの味噌汁を作ってくれているのだ————

幸せに包まれたホームビデオはそこで再生を停止した。
 僕の家族。愛する妻と娘。僕が無くしていた記憶がホームビデオに詰められていた。
 心臓が締め付けられる。
 思い出した。思い出せた。思い出してしまった。
 苦しい。
 でも、苦しさはホームビデオの内容から来るものじゃない。
 同時に思い出したのだ。その後の事を。僕が記憶を無くしてまで電子体化した理由を。

     ■

雨の日だった。その日は美玖が習い事のスイミングスクールに通う日で、僕は美玖を迎えに行くためにスイミングスクールに向かっていた。
 少し仕事を片付けてからと、お迎えに行く時間が少し遅くなってしまっていた。
 駆け足でスイミングスクールに向かった。もう目の前に建物は見えていた。
「パパ!」
 道路の向こう、赤い傘を差した美玖が僕を見つけて嬉しそうに声を張り上げた。父の到着を待ちかねて外まで出てきていたのだ。
 信号機のない横断歩道。道路の両側には街路樹のイチョウが等間隔に植えられていて、車の往来を確認する視界を遮る。
 美玖は僕に向かって駆け寄ってくる。
 傘に当たってうるさい雨音のなか、遠くから水しぶきの音が近付いてきた。
「美玖!」
 水しぶきの音が聴こえたのか、美玖は音の鳴る方へ顔を向けようとする。
 クラクションが鳴る。ブレーキ音がつんざく。鈍い衝突音が耳に届く。
 美玖が僕の視界からいなくなった。
 僕は傘を捨てた。走った。美玖がいたところまで。願う。祈る。叫ぶ。
 辿り着くまでの数秒がとても永く感じた。
 横断歩道に足を踏み入れる。
 車が一台、横断歩道を踏みつけるように止まっている。運転手が車内で呆然としている。
 その車の進行方向、数メートル先の車道の真ん中には赤い傘が転がっている。
 その隣で、赤く染まった美玖が倒れていた。
 あとの事はよく覚えていない。残りの記憶は、いつみに僕の電子体化への署名をしてもらった時の暗いリビングと、カプセル型の電子体化機の蓋が閉じていくところだけだ。

     ■

意識が、記憶から目の前のビデオカメラに戻る。
「田牧氏」
 心配そうな声が聞こえる。そういえば早浦がいたのだった。
「すまん……すまん…………」
 震える手で首元のタオルをなんとか手に取る。でも、一体何を拭けば良いのか分からなかった。
 自分の罪を思い出した。
 恨まれても仕方がない。殺されたっておかしくない。そんな大罪を犯してしまっていた。
 前が見えない。震えが止まらない。もう、何一つ君には届かない。
 僕は君を引き剥がしてしまった。現実を捨て、ネット世界に逃げてしまった。自死を選んでおきながら、でも完全に死ぬのが怖くて、でも記憶はなくしたくて————一番卑怯で自分勝手な選択をしてしまった。
 そんな僕を、君はどう思っていたのだろうか。
 ————もう、その答えを聞くことは出来ない。

その時、メッセージの着信通知が鳴った。
 送信者は早浦だ。
 左上のウインドウに映った早浦に問う。
「これは……?」
「辻さんからのビデオメッセージ。田牧氏宛だ」
 仕事が終わったら渡して欲しいって頼まれてた、と言い残して早浦は通信を切った。
 がらんどうになった倉庫。僕といつみからのビデオメッセージだけが鼓動を打っているようだった。
両手を握り締め合う。
 いつみからのメッセージ。どんなことを言われるのか。この期に及んで自分勝手な恐怖に負けてしまいそうになっている。でも。
 倉庫には冷たい空気が充満している。
 大きく息を吸って、吐く。
 親指を強く握り込んで、人差し指を伸ばして、ファイルとタップした。
 何の不具合もなく動画は再生され始めた。
 そこには、年老いたいつみがいた。

「これをあなたが見ているということは、私は死んでいて、私の記録をあなたが見た後だということでしょう」
 妻の顔には年相応の皺が刻まれ、表情には強い意志があった。
「この50年、この時のために生きてきた気がするわ。それなりに楽しかったしそれなりに大変だった。何の変哲もない、それなりの人生」
 声には落ち着きがある。さっき見たホームビデオの時の声よりも低くなっている。あれから50年、いつみはその間ずっとその身に年を刻んでいた。
「でも、あなたと美玖と過ごした日々は違ったわ。最上の日々だった。今思い出してもすごく幸せな気分になれる、そんな日々だった」
 昔を思い起こしたのか、いつみは優しげに微笑む。けれどすぐに表情が元に戻る。
「だから、美玖が死んだときは悲しかったわ。私たちの大切な美玖。もっと永く生きて欲しかった。もっと成長を見守っていたかった」
「けど、事故が起きたのはあなたのせいではないわ。決して。誰もあなたを恨んでなんかいないの。私だってそう。あなたは勘違いしていたかもしれないけど」
「あなたを殺したいと恨んで憎んでいたのはあなた自身だけだったのよ?」
 寂しそうに微笑んだ。いつみにこんな表情をさせてしまったのは、自分だ。
「あの時も私はあなたにそう伝えた。でも、あの時あなたに届く言葉なんて一つもなかったのよね。でも、今はどうかしら? 少しは届いているかしら?」
 頷く。何度も頷く。そして頭を下げる。ごめん。あの時、君の言葉を聞けなくて。
 僕は、後悔なんて言葉じゃすまないことをしてしまった。娘の死を前に、自分の悲嘆ばかりになって妻との未来を全て手放してしまった。
「過去は帰ってこないわ。あなたにとってつらいことかもしれないけど、美玖は永遠に戻ってこないし、私もあなたと二度と会えない」
「でも、私は思うの。本当につらいことは、大切な人との日々を忘れ去ってしまうことだって」
「優しいあなたはきっと今すごく後悔していて、とても謝ってくれていて、悲しみだけになってしまいそうになってる」
 いつみには僕のことなんてすべてお見通しだった。昔も、50年も経った今でも。
 全部分かっていて、全部を包み込んでくれる。そんないつみの優しさに僕はいつも甘えていた。
「でも、私はそんなこと望んでいないわ。私が望むのはひとつだけ」
「あなたに、幸せに生きていて欲しいの」
 そんないつみが僕を今でも想ってくれている。それがどれだけ幸せな事か。
 幸せと苦しさがない交ぜになっている。それらから目を逸らしてしまいそうになる。
 俯きそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。ダメだ。今はいつみと向き合わなきゃ。向き合っていたいんだ。
「つらいことも楽しいことも、苦しいことも幸せなことも。全部全部私たちの分まで満喫して生きていて欲しいの」
 ゆっくり頷いた。覚悟を自らに刻むように。
「だから、もう一回約束して」
 強く頷く。君との約束を今度は必ず守ると誓う。
 涙で前が見えなくなりそうになる。懸命に拭う。
「あなたは私と美玖が死んでも私と美玖との思い出だけは失くさずにいて。元気に生きて」
 馬鹿みたいに頷いた。ありがとう。ごめん。ありがとう。
「最後に言わせて」
 妻は深呼吸をして、カメラの向こう側にいる僕に優しく教えてくれた。
「私はあなたと一緒になれて本当に幸せでした」

その笑顔は、僕が知っている、最愛の人の最高の笑顔だった。

 

     ■

倉庫は再び静寂を取り戻した。けど、不思議と寒くなかった。
 ポン、と一つのウインドウがポップアップした。

 【辻いつみからの《増補情報》の譲渡を受け入れますか?】

そう表示されている。
 添付されている書類に目を通す。内容はいたって普通の相続手続きに関するものだった。
 倉庫内に積み上げられた《増補情報》たち。
 それらは、いつみの記録であり、僕が見れていたかもしれない記憶でもあった。
 僕が選ばず、得られなかった記憶。半生分の記録。
 このために、いつみは自らの全てを記録し、遺してくれたのか。
 ポップアップウインドウは僕に二択を提示してくれている。
 これはビデオを見て取り戻した自分の記憶とは違う。いつみの都合で用意した、僕という情報体用の《増補情報》だ。
 これについていつみは何も言っていなかった。だから、僕は自分でどちらかを選ばなければならない。想い続けてくれた妻が用意してくれた知らない50年と、後悔の上に自らが積み上げた50年とを。
「……よし」
 僕は少しだけ考えて、これから共に生きていく自分の過去を選び取った。

  Yes記憶を上塗りする  か  Noそのままでいる  か

     ■

久しぶりに空を見た気がする。
 対峙するのは高さ1mほどの黒い直方体。その大きさに、少しだけ懐かしさと新鮮さを感じる。
 眺めていると、後ろから「おはようございます!」と元気な声が聞こえた。
 振り返ると新井君がいた。新人特有のムラのある緊張感は消え去り、一人の分離者の顔になっていた。仕事が楽しくなったのか、就労期間を一ヶ月延長したらしい。
「お久しぶりっすね」
「ああ、久しぶり。元気にしてたか」
「はいっ。あれから色んな現場回らせてもらって、仕事も板についてきたんすよ!」
 右腕に力こぶを作って見せてくる。やっぱり古臭い。
「田牧さんはどうしてたんすか? なんかめっちゃ大変な仕事してたみたいな話聞いたんすけど」
「そっちは昨日終わってな。久しぶりに普通の現場だ」
「へぇ、やっぱ流石っすね」
 何が誇らしいのかへへへと笑う新井君に、ついつられて口角が上がる。
 それを見た新井君は僕の顔を物珍しそうに見つめる。
「どうした、顔に何かついてるか?」
「いや、そんなことはないっすけど……なんか田牧さん変わりました? なんつーか、瘦せたとかじゃないんすけど……なんか良くなったって感じっす」
 もちろん前から良かったっすよ、と新井君は慌てるように付け加える。
 その言葉に、自然と笑みがこぼれる。
「ああ、まあちょっとな」
「え、なんすかそれ。もしかして、なんかいいことでもあったんすか?」
 親しげにされ、なんだか僕自身も若返ったような気分になる。
「そうだな。きっと良いことがあったんだよ」
 ほら仕事始めるぞ、と声をかける。
 えーなんすかそれぇという新井君の言葉に、僕は何も応えなかった。

文字数:20000

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