第三水底劇場、さいごの一日

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梗 概

第三水底劇場、さいごの一日

ゆるいひかりの紋様がさらさらと降って、私は目をさます。白砂から体をひっぱりだし、水を胸いっぱいに吸い込む。
 多くの魚はねむらないが、私たちはあいかわらず夜ねむる。朝起きて、そして仕事にでかける。
 目醒めてもなお、まだ夢を見ているような気がする。

手術をほどこして肺腑をえらに変え、海中に住むひとびとがいる。かれらは半世紀ほど前から文化的なコミューンを形成し、比較的浅く明るい海域で生活してきたが、すでに共同体はその盛りを過ぎて斜陽している。さまざまな理由で地上での生活を厭うひとびとがこの海域に移り住み、かつては多彩な文化が花開いたのだが、外科的な処置によって海中での生活に適応しているため、生まれながらにえら呼吸のできる子孫を残すことができない。地上からのひとの流入が途絶えつつあり、共同体は避けがたい過疎化の傾向にあった。

主人公はその海域の小さな劇場空間〈第三水底劇場〉でスタッフとして働いてきた。しかし、その劇場も閉館することがすでに決定している。この小説は、第三水底劇場が最終公演の千秋楽をむかえる「さいごの一日」の朝から晩までを、スタッフである主人公の目線から一人称の記述でえがきだす。

さいごの一日だからといって、特別な業務があるわけではない。出勤したらまずは通水窓を開け放ち、受付や客席の藻をきれいに払う。舞台の仕込みは済んでいるので、劇場のシャボン師が泡や音やひかりの演出機器を微調整するのを手伝う。昼休みには弁当屋で買った貝を割りながら、シャボン師や年老いた劇場館長とぽつぽつと会話する。館長は水中煙草をひっきりなしに吸い、紫色の水をゆらゆらと吐き出している。午後には出演者(大きなくらげを伴って自在におよぐ踊り子たち)の小屋入りを出迎え、水中の他の劇場で行われる公演のチラシで折り込みをつくる。開場。受付。客入れ。公演中には桟敷席にひっそりと陣取り、公演写真を撮影する。客出し、舞台のバラシ、清掃。買い出し、打ち上げ。

一日の描写のはざまに、劇場の過去、主人公の半生をめぐる回想もあわせて語られる。まだ海の共同体が活気にあふれていたころ、若き日の館長がいかにして劇場を立ち上げたのか。年若い主人公はなぜ地上での生活をあきらめて(突発的な皮膚病がその契機だった)わざわざ傾きかけた海の生活へと逃げ込んだのか。

仕事を終えて帰宅した主人公は、撮影した幻想的な公演の写真を一枚ずつ現像していく。現像しながら、それぞれの人物の前途に思いを馳せる。悲しくも気楽な引退生活をたのしむのだという館長。他の水中劇場で公演を打ちつづけるはずの踊り子たち。海での生活に見切りをつけたシャボン師は、ふたたび肺で呼吸するために危険な手術をうけ、地上の劇場で演出家として出直したいのだという。しかし主人公自身の将来はといえば、明日からの仕事すら決まっていない。主人公はぼんやりとしたままねむりにつく。

文字数:1193

内容に関するアピール

得意なものと言われると考え込んでしまうのですが、小劇場で(もちろん陸上の小劇場で)何年もアルバイトをしていたことを思い出しました。それによってなにか特別な技能を身につけたわけではないのですが、劇場空間の運営にかかわる暗黙知、それに表現者および裏方としてカルチャーをささえるひとびとに対する敬意が、思い出のなかにひそかに蓄積されている気がします。

劇場の営みのなかから「さいごの一日」という時間を切り出すことで、哀愁やノスタルジーのみならず、共同体を存続することの現実的な難しさや葛藤について、直接的ではなくてもその情感を書き込めるようにしたいです。

海の世界を設定したのは、かつて旅先で、いまはなきシルク・ドゥ・ソレイユの水の公演〈O〉を見たのが忘れられないからかもしれません。世界で最も幻想的なショーに負けない華麗さで、水中で繰り広げられる小さなスペクタクルを描きたいと思います。

文字数:389

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第三水底劇場、さいごの一日

海底には大きなキューブが点在していて、そのうちのひとつに住んでいる。
 キューブはひんやりとした灰色をして、光をとるためのガラスをいくつも抱いている。海とひとつらなりのこの部屋には日がのぼれば光がさんさんと差し、前の晩にどれほど夜更かししていたとしても、まぶしさのせいでくっきりと目覚めてしまう。
 どこもかしこも窓だらけで、それなのに家と呼んでもよいのだろうか。こんなにも窓だらけの家なんて、地上ではたぶん家とはみなされないような気もするけれど。かつて住んでいた家では窓に重たい遮像カーテンをかけ、国道をゆくトラックのけたたましい騒音を二重サッシでふせいで、空気清浄機がいつもせわしなく働いていた。あの部屋にはあまねがたまに訪れて、その騒々しさを逆手にとって、ふたりで歌を好きにうたって過ごしたりもしていたけれども。
 ≪——ねむいな——≫
 寝床は部屋の一角にある。白くてなめらかな砂を分厚く敷き、夜にはそこに肩まで潜りこんで眠る。砂の中はあたたかく柔らかで、だれか大きなひとに抱きしめられているような重みが心地良い。目前の窓の外には穏やかな海底がつらなっている。起きた瞬間にその静かな光景が目に入る。聞こえるのは遥かなさざめきばかり。水流にふれた砂紋がゆるやかにかたちをかえてゆく。浅く明るい。透明でかろやか。
 水が清潔すぎるせいで、さほど多くの魚は住んでいない。

朝起きて、仕事に出かける支度をする。
 ここには地上と違って声がない。呼吸器官をすっかりつくり替えてしまった私たちは、もはや喉をふるわせることができない。けれどもこの2本の腕、そのさきにつらなる手と指とはそのまま残されているから、水話サインと呼ばれる記号をつくって会話する。
 ≪——おきないと——≫
 独り言をいうのにもかつては喉に、ふるえぬ水を無意識に送り込んで噎せることもあったけれども、いまでは無音のピアノを弾くように両手をゆるゆると動かして自然と言葉をかたちづくることができる。
 起きしなにいつも一粒のピルを飲む。枕元のケースにおさめたシートから粒を押し出して口にふくめ、海水とともに飲みくだす。このピルは空気のような、あるいは水のような必需品だから、この海をゆるやかに統べる自治体により無償で提供されている。
 飲むことを欠かすわけにはいかない。海中の暮らしに適合するためのきわめて重要な成分を、ままならぬからだへ取り込むために。私たちのからだは、水中の暮らしに適したつくりをしていない。ピルの成分が欠乏すればすぐに死に至る。ある程度の水圧にたえうる循環をささえるもの、飲みすぎた塩を調整するもの、粘膜や肌を強くなめらかにするもの、水棲の細菌に対する免疫力を高めるもの。それにとりわけ肝要なのは、低体温で動けなくなるのを防ぐもの。
 このピルのおかげで、私たちのからだは海水のあたたかさを誤認する。
 薬とは、もっぱら飲み過ぎでひとを死に至らせるものだと思っていた。死ぬひとは抽斗に薬をためる。ためた薬でひそかに死のうと試みる。でも、当然のことだけれど、過剰とおなじくらい欠乏だって致命的なのだから。とりわけこの海の中では、服薬をうっかり忘れることがそのまま死へと結びつく。うっかりしていて、あるとき眠るように死んだひとの話もどこかで聞いたことがある。
 ≪——しなないように——≫
 家を出るまえに髪をよく梳かす。うすい衣をはおる。靴は履かない。

丸窓のうちのひとつをひらき、するりと潜り抜けて外に出る。いつもの職場へ向かう。
 私たちのひざから下には、おおきな水かきが埋め込まれている。それはおどろくほど機能的な水かきで、歩くように両脚を前後させれば水の重みをつらぬいて、するりと先へ滑ってゆくことができる。はじめてこの海をゆるりと歩んだとき、あまりの自在さに言葉をうしなったのだっけ。子どものころ、プールの授業で咳き込みながらもがいていたのが嘘のようだった。
 からだにたくさんの改造をほどこしたから、海の世界はとてもやさしい。
 家を出てしばらくゆくとモノレールの駅がある。このさみしげなモノレールが、この海域の中心街とその外へとつらなる群落とをむすんでいる。車体は管状の線路のなかを音もなくやってきて、水の奥へと去ってゆく。
 もしもにぎやかな街中で働いているのなら、このモノレールに乗ってゆく必要があるのだと思うけれども。職場までそう離れているわけでもなかったし、あまり頻繁に列車はこないから、私は乗らない。水かきをゆらめかせつつおよいで向かう。
 砂の波打つ海底に、横長の影がひとつ浮かびあがる。その上方、波間にゆれるヨットのことに気がついて、私は顔をあげる。
 とてもひさしぶりに、あまねがここに来ている。 
 私はゆっくりと上昇し、しずくを散らしながら水面に顔を出す。濡れた両手を組み合わせて、記号のかたちで話しかける。
 ≪——てんきがよいね とても——≫
 「まぶしいね、まぶしくて目があかない」
 波間のヨットからあまねの明瞭な声が降ってくる。まぼろしのようにきれいな声。水の記号をいつのまにか理解するようになった旧い友人。あまねは折々ここを訪ねてくる。そんなことをする地上のひとは、きわめて珍しいのだけれど。
 あまねは海辺に居をかまえているらしいものの、もっぱら仕事のために遠くへでかけ家を空けている。そのことがすこしだけ羨ましい。海の世界は伸びやかなようでいてじつのところ狭く閉ざされ、環境のよく整えられたこの街を離れて生きることはできないから。
 それほど時間に余裕があるわけでもないけれど、長かった旅の話をせがんでみる。あまねは、西の国の山岳地帯で見たものについて話して聞かせてくれる。古くて険しい石造りの城、夕暮れどきに現れる笛吹、鐘の音、新鮮だがきつい匂いのする山羊の乳、味気ない芋と小麦の食事、天窓のそと横切った大きくて黒い鳥。それに、つやめく布にたっぷりとひだの寄せられた豪奢なドレス。
 「でも、今日で最後なんでしょう」
 旅の話をみずから遮って、あまねは唐突に問いかける。この日付をあまねが覚えていたことは、なんだか意外にも思われる。
 ≪——そうだよ——≫
 目をほそめてあまねを見上げる。抜けるような青の空。いまでは潮水よりも、海風や陽光のほうがずっと目に染みる。濡れそぼるスポンジを押したみたいに、両目から涙があふれる。
 うっすらと風が吹いている。あまねはくろぐろとしてゆたかな髪をながく伸ばして、薄青いあざを頬にも腕にもくっきりとひからせて。じつのところ私のからだにも似たようなあざがいくつも貼り付いていているのだけれど、海の中ではゆらめきにまぎれて消えてしまう。
 「だいじょうぶなの」
 ≪——たぶんね——≫
 ざぶりと水の中に頭を沈める。水を大きく吸ってから、もう一度水面のうえに顔をあげる。あざのある両腕を上に伸べ、はっきりと水話サインをつくってみせる。
 ≪——だいじょうぶだよ もういかないと——≫
 「今日は、夜にもまた来るから」
 やせぎすの乾いた手が差し伸べられて、私たちはあいさつのように軽く指をからめる。

寄り道をすれば、たいてい始業時刻に遅れてしまう。朝から急ぎの仕事があるわけでもなし、海底のなだらかにくだってゆくのに沿ってからだをしずめ、いつものように水のなかを滑りおりる。
 劇場は、くぼみの最も深いところに横たわっている。初夏はつなつのいま、陽光がためらいなく真上からさんさんと降っている。
 ≪——きれいだ——≫
 それは巨きな貝殻の一枚を無防備にあおのけたようなかたちをして、半分ほどは砂の中に埋ずもれている。水底にひそむ野外劇場。屋根にあたる覆いはなく、舞台も客席も場外の波にさらされているが、やさしい地形にまもられているので強い波が来ることはめったにない。客席はねそべることのできる広さをしていて、そこにも砂が敷き詰められている。遠目に見れば灰色の貝殻がくぼみに落ちているだけのようでもあるが、それでいて照明や音響のための設備は、神経質なシャボン師によって案外こまやかに整えられている。
 私はここで働いていた、とはまだ言えない。私はここで働いている。いまはまだ、ぎりぎりこの時制が正しい。 
 外からの光をさえぎることができないからもっぱら夜間公演ソワレを打つばかりで、昼間に客が来ることはほとんどない。ひそかに光差すこの劇場は、打ち棄てられた祈りの場のようにも見える。
 ≪——いいおと——≫
 近づくにつれ、管弦楽の旋律がしだいに大きく聞こえてくる。たぶんシャボン師が、夜の公演の用意をすでに始めている。
 第三水底劇場。そっけない名付けだと思う。
 第一劇場と第二劇場は、すこしばかりにぎやかな街中にある。こことは違って、ホールはすきまない屋根でおおわれている。あたたかい水を循環させる仕組みも備わっているし、バーや食事処やスタジオもある。とりわけ第二劇場には、水中にも音をひびかせる白亜のパイプオルガンがくじらの腹のように悠々とそびえておりうるわしい。三つ目のこの劇場だけが、さみしい窪地に立っている。公演を損ないうる喧騒からは遠く、ひそやかで心地よいのは確かだとしても、客を集めるのに苦労するのはいなめない。
 この劇場はまもなく廃業する。そのことはもう半年ほども前から決まっていて、いまさら嘆き悲しむわけにもいかない。それに私は館長やシャボン師とは違って、ここでなにか特別なことをしてきたわけではないのだし。チケットを切ったり、ちらしを折り込んだり、掃除をしたりしてきただけ。
 この場のことはなんとなくいとおしいけれど、惜しむ資格など自分にはないような気がしている。
 ≪——おはようございます——≫
 シャボン師が私に気づいているのかどうかよくわからないが、ぼんやりと指を組み合わせてあいさつの言葉をかける。客席のはるか上方の調整室の窓から、シャボン師の猫背のすがたがうっすら見えている。音響と照明とあぶくシャボンとを操作するために備えられた、劇場のひそかな心臓部。こちらからその部屋のなかはよく見えないが、向こうからはこのホールを完璧に見渡すことができる。シャボン師は影のようにその部屋になじみつつ、今晩の公演でつかう曲を大音量で鳴らして音のバランスを調整している。
 私はその轟きにつつまれながら、日課の掃除をはじめる。モップのような掃除器具を半地下の倉庫から引っ張り出して、ひろびろとした客席の手すりや通路をこすりきよめる。館長はいい加減な人間だからよごれもそこまで気にかけないが、シャボン師はそのするどい目をいつも劇場のすみずみまで光らせている。ひりひりするような職業倫理。
 さいわいなことに、掃除はそれほど嫌いではない。いつだったか雇われていた別のスタッフは掃除がうまくできないせいで結局やめてしまったが、私の場合は性に合っている。
 今宵、くらげ屋の公演がある。屋号にたがわず、多数のくらげを伴って踊るダンサーである。この劇場でこれまで何度もダンス公演を打ちつづけてきたベテランで、私なんかよりもはるかに繊細な感覚でもってこの劇場のことを知っている。繰り出される光がどのように舞台に差し込み、そのからだとくらげを照らし出すのか。自然の波が入り込んだとき舞台のどのあたりで渦が巻き起こり、いかなる身のこなしによってその波動を柔らかくいなせるのか。遠くから音や光やあぶくをあやつるシャボン師と、どうすれば完璧に呼吸をあわせることができるのか。

私がここで働くことになったのは偶然だった。海へと移り住むひとたちはたいてい先に働き口を決めておくものらしいが、私はあまねの忠告も聞かず、たいして準備もしないまま飛び込んだせいで、初めのころはどう生活したものかなやむばかりだったのを覚えている。
 ともあれ職を求めるならば、あたりを難なく動き回ることができるようにならねばならない。私は呼吸とおよぎの練習のため、しかめつらをしながら、ひぐらし当てもなく家の周囲を行き来していた。およぐことは思いのほか易しかったが、えずくような反射をおしとどめつつ喉の奥に水を送るのがつらかった。水を吸おうとするたびに喉がひとりでに水を押し戻し、ほとんどけいれんするみたいに無理やり水を胸に満たして、それでも十分な酸素を取り入れられずにくらくらする頭でぼんやりと過ごしていた。
 求人の貼り紙にゆきあったのも、その孤独な訓練のさなかだった。劇場のある窪地にむかってからだをしずめ、その出入り口のそばを横切ったとき、ゆらゆら水になびくその紙がふと目に入って。劇場の手伝いだなんて、なにをするのか想像もつかないけれど、たぶん言葉がそこまでうまく話せなくてもいいんじゃないか——だって舞台の裏方はもっぱら、水話サインの見えない暗闇の中で仕事をしているはずだから。そう思ってこの職に応募したような気がする。
 いくらか地上で勉強してはいたものの、そのころはまだ、かんたんな水話サインをあやつるのにもかなり手間取っていたし、すばやく変化する他者の手の動きを正しく見てとることが苦手だった。
 ≪——すみません もういちど——≫
 採用のための面接にも、そのあと業務内容の説明を受けるのにも苦労したけれど、移住者のみから構成されるこの共同体は言葉に不慣れな者にとてもやさしい。この奇妙な記号を生まれながらに操るものは一人もいないのだから。
 公演のないさみしい日には、いつもなら寡黙なシャボン師がこの言葉の練習の相手をしてくれた。
 ≪——まあ じきになれるさ——≫
 それまでは、鏡に向かってあやふやな練習を繰り返すばかりだったが、シャボン師のおかげで私の水話サインはまたたくまに洗練された。いまでは、地上で話していた言葉とおなじくらいなめらかというわけにはいかないまでも、仕事をするのに支障のない確かさで、諸般のやりとりをこなすことができる。
 あのとき求人広告が掲げられていたのと同じ場所に、いまでは廃業の報せをしたためた紙が打ち留められている。館長のやたらと達筆な字が、悲しみがこもっているのかそうでもないのかよくわからないひねくれた文体で、この唐突な幕切れについて述べている。

真昼にさしかかるころ、硬い白髪をふりみだして館長が来る。館長は中心街のほうで本屋やら画廊やらも経営しており、もとより毎日ここに来るわけではないのだが、今日は記念すべき最後の日だから抜かりなくやってくる。
 ≪——もうしぶんない いやはや きょうも——≫
 肉のそげたふしくれの指が、機嫌よく記号をつなぐ。いくつもの商談やら駆け引きやらを潜り抜けてきたはずの、勇ましくて無骨で、いささか都合の良い両手。けれどもそこには老いの影が見える。皺だらけだし、その動きにはどこか明晰さがたりない。
 館長ばかりではない。ここらに住むひとは若者よりも、老人のほうがずっと多い。
 ≪——うつくしくおわることも まためでたい——≫
 館長が適当なことを言うので、私はひやひやしながらシャボン師を見やる。シャボン師は、舞台の隅のスピーカーを角度をなんどもわずかに正している。館長の手元の記号を見てとっていたのかどうか、よくわからない。
 廃業の理由はきわめて実際的で、うつくしくも、めでたくもない。お金にならないという、ただそれだけのこと。もとよりこの海底の共同体が縮小の傾向にあって、だから第三水底劇場もその影響をまぬかれることはできないのだった。
 一時期はこのあたりに理想をいだいた多くのひとびとが移り住んで、新しい世界への希望の込められた資金が多少なりとも流れこみ、栄華をきわめるというほどではないにしても、温かなゆたかさに彩られていたのだというけれど。
 館長は、私がすっかり掃除を済ませたホールを悠々と横切り、背負っていた荷物を舞台の中央におろした。
 ≪——たべなさい もらったものだ かなりうまいはずだよ——≫
 シャボン師が顔をあげる。目があうとき、苦笑なのかほほえみなのかわからない表情をしている。

館長がまだ若く、全身に意欲をみなぎらせていた時代には、海へとむかう文化運動はただならぬ熱をおびていたのだという。館長はみずからここに劇場をつくるのだと心に決めて、水底や地上の要人のもとを駆け回り、資金調達にいそしんだらしい。この痩せぎすの、流木みたいにごつごつとした老体が、若々しくなめらかにあたりを泳ぎまわっているのを想像するのは難しいけれど。
 昔語りを何度も聞かされたことがある。在りし日のことを話すとき、館長はきまってうっとりと目を細め、わざとらしく遠くを見やる。
 ≪——うかされていたよ だれもがうかされて よりうつくしいもののほうへ——≫
 館長はもともと絵描きだったが、水中での画材の扱いになじめず思い切って転身し、この海ではめずらしい経営者として振る舞うようになった。結果としてそれは適職だったといえるのだろう。私たちの多くは実用的なことがほんとうに苦手だから、経営や政治にかかわるひとたちはだれだって重宝されるのだった。
 地上には、私たちの暮らしをよろこんで支援するひとたちが今も昔も暮らしている。もちろんそうしたひとびとの数は減りつつあるものの、すっかりいなくなってしまったわけではない。その多くは医者や工学者、あるいは資本家たちで、なにか美しいものを生み出しうるとされる才能を海に送り込み、さらには経済的に、あるいは技術的に助けの手を伸べることを正しいものと考えている。
 不可思議な形而上学に信を置くこうしたひとびとのおかげで、私たちは生身のからだにえらを設けることができるし、あるいはモノレールやその他の水中建築にまもられて暮らすことができる。ごくたまに、分厚いダイビング・スーツを着て酸素ボンベを背負った新聞記者や、あるいは文化人類学者や美術史家がこのあたりにやってきて、それぞれの関心にしたがってあたりを調査し、そして地上へとむけたさまざまな報告を書きつづる。そのような報告さえあれば、地上の支援者たちは十分満足できるらしいのだった。
 地上のひとびとはとても優しい。でも、多くのことを地上の技術に依存しているせいで、私たちはひとりで立つことがかなわない。街を育てるための工学も、このからだのひとつひとつを海になじませる医学にかかわる蓄積すらも、大部分は地上に置いてきてしまった。この場所には生活のための実用的な知識が足りない。海のなかに暮らしているのに、魚の獲りかたをだれも知らない。海藻はそこらに育っているが、筋張っていて消化に悪い。

館長の持ってきたのは、そこらで採集できるいくらかの貝類と、地上からの土産らしいナツメと鳥卵である。館長は地上の知り合いも多いから、ここでは珍しい土産をよくもらってきてはあちこちに差し入れている。
 シャボン師も機材をさわるのを中断し、こちらへやってくる。腰にさげた工具袋から細いペンチを取り出して、私のほうに差し出してくれる。私がもっぱら貝しか食べないことをシャボン師は意外にも覚えていて、館長はいつも忘れる。館長にとって私は、所有しているいくつかの店のうちのひとつを手伝っている目立たないスタッフにすぎないのだから、べつに驚くべきことではないのだけれど。
 はじめて館長に会ったとき、シャボン師が私の来歴を手短に紹介してくれたはずだけれども、そのことだって覚えているかどうか。
 ≪——うたうひとがくるのはめずらしいよ きわめてめずらしい——≫
 私は手渡されたペンチを握り、殻を挟んで二枚貝や巻貝をひとつずつ割って、やわらかな身をくちびるに吸い込んでゆく。貝類には痛覚がない、ということを私は信じていて、もしもそれが嘘ならばいったいなにを食べればよいのだろう。痛みを証明することは難しい。できれば生きものをなるべく食べたくない。でも、ここらに生えている水草は噛み切るのにも苦労するくらい硬くこわばっている。
 貝の身はねっとりとしていて、海の水よりわずかに甘い。甘いのでいつもすこしかなしい。
 ≪——うれゆきはどうかね——≫ 
 ≪——まんせきです さいごくらいはね——≫ 
 シャボン師も貝をつぎつぎと割りながら、そのあいまに器用に水話サインをかたちづくる。
 館長は、その痩せたからだのどこにおさまるのか不思議なくらいよく食べる。貝もナツメも、地上でゆでられたらしい小さな鳥卵も。ナツメのあまずっぱい匂いが少しばかり水にただよう。シャボン師もその実をいくらか口にふくんでいるが、私は貝ばかり吸っている。

地上を懐かしいとは思わない。そう思うくらいなら、はなからこんな場所にはやってこない。海に来るまえの記憶にはなんだか暈のむこうにぼやけていて、なにも覚えていないというわけではないけれど、思い返したところでなんだか別の人の過去をさかのぼっているだけのような気がしてしまう。
 ヨットで折々ここまでやってくるあまねだけが、まだくっきりと覚えている最後の知り合いで。
 知り合い、と呼ぶのはしらじらしい。おなじ音楽学校に通って、おなじ声楽の授業を受けて、それにあの国道沿いのやかましい部屋でたびたび気まぐれに寝起きをともにして、好き勝手に歌をうたったりしていたのだから。双子のように、というつもりはない。あまねのほうが歌い手としてあきらかに魅力的であることをわかっていたし、それをねたむつもりもなかった。ともに生活できるだけで、じゅうぶんすぎるほど幸福だった。
 じゅうぶんすぎる、では言い足りない。思い出すことは苦しいし、また同じ思いをするのは怖いけれども。
 あのころの私は、私はあまねだと言いたくなるくらいからだの芯から陶酔しきっていた。すべての感覚が振り切れて、声も思考もからだもあまねに同期して、本人よりもずっとあざやかにその感情をすくいとって、壊れてしまいそうなくらい強烈なよろこびと絶望とに交互にうたれて。
 脳裡にはつねにあまねの、あの甘美な歌声が鳴り響いていた。文字通り寝ても覚めても、その声にひたりつづけていた。
 私の声はあまねのように傑出してはいなかったけれど、あまねの声とあわさるときだけ信じられないほどゆたかな色合いを得てきらめいた。そのことはあまねも、冷酷なくらいはっきりわかっていたと思う。私たちは街中のバーやレストランをいくつもめぐって、小さくとも抜かりのないコンサートをひらいた。私たちは若くてつややかで溌剌として、二人して声の限りにうたって、つかれきってまたあの部屋で眠りについて、目が覚めればまた箍のはずれたようにに夢中でうたった。窓の外にはあいかわらず重々しいトラックがものすごい騒音をたてて通り過ぎてゆく。それも気にならぬほど晴れ晴れと、むしろそれにかこつけて自由に歌っていた。そうしているあいだに他方であまねは伝統的なコンクールでつぎつぎと華々しい成績をおさめて、私はそれがうれしくて、ますますあまねのうちに融けていくようで。なんの見通しもないくせに毎日こわいくらい気が昂って、なにかに憑かれたかのように幸福だった。

けれども幸福とはなんだろう。いまでは私もたしかにさみしさや、かなしみのようなものと寄り添いつつ暮らし、そういえば仕事すら失おうとしているけれども、たぶん不幸ではないと思う。あのときの感覚は、たぶん幸福とよぶにはいささか烈しすぎる。
 満足げに食事をおえた館長がふところから葉巻のかたちをしたものを取り出し、導火線のような紐をひきぬく。明らかに葉巻ではないが、私たちはこれを葉巻と呼んでいる。紐をひきぬくと水分と薬品が反応して熱をおび、パイプにつめられた烟草の葉から成分が溶け出すので、口にくわえて吸うと香りや成分を愉しむことができる。
 肺のあったところに無理やりつめこんだできあいのえらで呼吸しているのだから、そこに嗜好品を流れこませるのは決して賢くない。燃しはしないのでタールこそ少ないものの、地上の烟草とほとんど同等の成分が、もろい呼吸器官をむしばんでゆく。そのことをもちろんわかったうえで、館長はものすごい本数の葉巻を吸う。白い口ひげのはざまから満足げにうすむらさきの煙を吐き出して、目をほそめる。
 烟草は健康にひどく障るとされて地上ではもうほとんど吸われていないけれど、海のひとびとはそんなことは気にも掛けない。老いた世代のみならず、数少ない若いひとたちもためらわず吸う。自ら望んで、すでに十分すぎるほど脆弱なからだをもっている私たちにとって、烟草など大した害には数えられないのかもしれない。
 この海で、館長ほど長く生きるひとはめずらしい。
 たぶん、館長のこの海での生も、そう多く残されてはいないのだろう。そのことをはっきりとわかって、身辺整理をしているに違いない。だから維持できない劇場は、あと片付けのできるうちにすっぱりと手放そうとする。
 館長には子どもはいない。館長のみならず、ここでは子どもを持つひとはきわめて少ない。私たちは生殖の機能を欠いているわけではないが、生まれてくる子どもはもちろん生まれつきえらを持つわけではない。仮に小さな子どものからだの肺をとりのぞき人工のえらに替えたとしても、成長するにしたがって手術を繰り返さなければならない。
 私たちの海の衰退は、ひとつにはこのような避けがたい構造にも起因している。
 ≪——いっぽんだけ いただいていいですか——≫
 ≪——むろん すきなだけ——≫ 
 館長から葉巻をうけとる。紐をひきぬき、パイプが温まるのを待つ。いつのまにかシャボン師もうつむき加減で、なにか別の銘柄の葉巻を吸い、おなじうすむらさきでも少し紅がかった水を吐き出している。私も葉巻に口をつけ、しぶみのある果実のような匂いの水を少し吸い込むと、かなしみの霧のすこし晴れたような心地がする。もしかしたらこれは、惜しむべきひとときなのかもしれない。
 ≪——そういえば おかにもどるつもりでいます わたしは——≫
 ふと顔をあげてシャボン師が言い、私は目をみはる。笑みのはりついたままの館長の表情がぎこちなくなる。
 ≪——なんと それはなんと いさましいこと——≫

ひとたび肺をえらに変えれば、元にもどすことは非常にむずかしい。
 だからみなそれなりの切実な理由をかかえてここまでやってくる。私の場合は病だった。病があの日々のなにもかもを台無しにした。たぶんそうだと思う。あるいはあの病は、なにかひとつのきっかけのようなものにすぎなかったのかもしれないけれど。
 まずはあかねが調子をくずした。それは、はじめのころは単なる皮膚病のように見えていた。
 疵ひとつなかったあまねのからだに桃色のあざのような斑点がつぎつぎとひろがり、痒みも痛みもないのだというけれど、その模様は見た目に痛々しくてかなしかった。斑点は隠せるし、歌うことには障らないとあまねは言ったが、私は妙にいやな予感がして、目先にせまるコンサートの日程をすべてキャンセルした。病んだからだを強めに押せば、そこからあたらしい斑点がひろがることに気づいておののき、自分であがないうるもっとも柔らかくてなめらかな布団の一揃いを買い求め、部屋じゅうのすべての角に緩衝材をとりつけた。あまねを部屋に呼び寄せて、できる限りなにも触れず、そして決して何も歌わぬように言って、布団の中に寝かしつけた。
 自分のまだ健やかな喉でなにか歌ってきかせようかと思ったけれど、涙ばかりこぼれるので喉がふるえ、歌らしい歌を響かせることはできないのだった。
 医者にかかれば、やはりうたうことはしばらく慎むほうがよいと告げられた。伸びやかにうたえば、皮膚と同様に喉の血管もこわれて外からは見えぬあざをもたらすだろうし、それがうたわれる歌にいかに影響をおよぼすものかよく知られていないから。
 病は伝染し、ほどなくして私のからだにもあざがひろがったが、そんなことはどうでもよかった。
 とかく安静に、なるべく動かないようにしてからだのこわれるのを防ぐこと、防ぎながら治癒を待つこと。あまねは言いつけを確かに守って、処方された眠り薬を飲み、死んだようにこんこんと眠った。私もおなじ診断をくだされておなじ薬を出されていたのに、どういうわけかほとんど一睡もできずに、こらえきれぬ泣き声をあげつづけていた。嘘みたいにたくさんの涙がながれて、頬も髪も、枕も濡れそぼって潮のようなにおいがしていた。あまねはごくたまに、抗生剤やステロイド剤を飲むために起き出したが、もちろんうたうことはなく、話すことすらほとんどなく、話すにしてもほとんど吐息のようなごく小さなささやき声をあげるばかりだった。
 いくら泣いても、かなしみはどうしてもやまないのだった。あまねに出会って以来、歌声を欠いたあまねを一度もみたことがなかった。あまねが黙り込んでいることが耐えがたかった。病が癒えたあとの声をまもるために、いまは静かにしなければならないことくらい理解している。でも、私にとってあまねは声で、あまねの声こそ私だったのだから。
 私は声をあげて泣きつづけた。その間、あまねがどう思っていたのかわからない。健康だったら抱きあってかなしみを癒すこともできたのかもしれないけれど、そうすることはできなかった。すぐそばに横たわっていながら話すことも触れることもなく、それぞれの繭に引きこもるようにして、嵐のように唐突な病が去るのをひたすら待っていた。

館長はぎこちない笑顔のままホールから引き上げて、なかば書斎のようになっている事務室へと休みにゆく。シャボン師は私にチラシのつめこまれた袋を手渡し、折込オリコミよろしく、と言ってまた機器の調整にかかる。折り込んだだけの紙束は水中ではいとも簡単にばらばらになってしまうから、実際には角をハトメで留めるのだけれど、地上の言葉そのままにそれを折込とよぶ。余った箱馬をいくらか手元に引き寄せて机のかわりにし、私は折込を追加でつくる作業を始める。
 そうこうしているうちに、ついにくらげ屋がやってくる。網のなかに押し込められた透明なくらげの一群を引き連れている。客席へとつづく入口ではなく劇場の上方からふわふわとおとずれて、気づけばもう舞台のあたりに漂っているので、手を振って笑いながら出迎える。
 名残惜しいと思っているに違いない。くらげ屋が来るのもすこしばかり早すぎる。初日が3日前で、もう仕込みも場当たりも終わっているのだから、もっと遅くにきても十分な余裕があるはずなのに。
 ここ3日間、とてもたくさんの人が来ていた。あらかじめ用意しておいた折込も足りなくなってしまうくらい。よくあることだとは思うけれども、廃業が決まってからのほうがむしろ、名残を惜しんで多くのひとが記念にここを訪れている。郷愁とはかくも簡単にひとを引き寄せるものらしい。でも、もちろんそれでは遅すぎる。経営的な手続きのあれこれはもうすっかり済んで、あとは終わるのを待つばかりのときになって、いきなりチケットが売れ出したのだとしても。
 なつかしい、と多くのひとが言う。この劇場にいると、あの燃え盛るような時代のことを思い出すのだと。この海がまごうことなき理想世界だと信じられていたあの日々のことを。
 ≪——ついかのちらし ありますか——≫
 ≪——ええ ありがとう かんちょうはいるかな——≫ 
 ≪——いるはずです たぶんじむしつに——≫
 メイクアップするまえのくらげ屋はいかにもほがらかな見た目をしていて、踊っているときの気迫をまったく感じさせない。この劇場の最初期のころから踊っているのだというから本当はかなりの年長のはずでだが、それでも下っ端の私の顔までをいつのまにか覚えて、目をまっすぐに見て丁寧にこちらに話しかけるので、慣れない感覚に私の方がどぎまぎしてしまう。
 館長とくらげ屋は旧い友人だった。事務室で二人が話し込み、たぶん昔話に花を咲かせているあいだに、私は手際良くチラシをかさね、ハトメで留め、つくった折込をひとつひとつの座席に配置していく。公演写真を撮影するための大きなカメラのレンズを磨き、新しいフィルムを嵌める。公演の予約者リストを確かめ、劇場の出入り口、円い時計のかけられたところに受付台を設置し、チケット代をおさめるためのケースのなかの釣り銭の額を数えてから鍵をかけておく。
 気の早い客が何人かやってきて、かれらもまた事務室のほうへ上がっていった。みなここへひんぱんに公演を見に来る常連客か、あるいはこの劇場でよく公演をやっていた表現者たちで、やはり昔からの館長の知り合いだった。何度もここに来ているので、私のほうもその顔を一方的に覚えている。
 痩せ衰えたり背が曲がったりしているのに、それでも目をらんらんとさせたかれらを見ていると、たぶん自分は間違いなくこんなふうに明るく歳をとることはできないだろうというさみしい確信にいたってしまう。
 受付台にちいさなランプを灯す。目の前の円い時計がやがて開場時刻をしめし、ひとびとが受付をおとずれはじめる。私はそのひとりひとりから名前を聞いて、予約者リストを確かめてチェックをいれ、チケット代を受け取り半券をわたす。どこかで聞いたことのある名前、どこかで見たことのある顔つき、なつかしさとさみしさのない混ぜになった切ない表情のひとたちが列をなし、つぎつぎと私のもとを訪れる。もちろん、みな私のことは知らない。ただ劇場の床を、壁を、その佇まいをうっとりと眺めて、水かきでゆっくりと海水をとらえながら、それぞれがきっとなにか特別な記憶を思い起こしながら客席へと進んでゆく。
 気配を消したシャボン師がすっとこちらへやってきて、予約リストのチェックを確かめながら、時間どおりの開演ね、時間ぴったりに受付の灯りを消して、と言いのこし、調整室のほうへ去ってゆく。くらげ屋とくらげたちは舞台袖で、きっとからだをあたためているのだろう。館長はといえば、どこにいるのかよくわからない。どこか目立つ場所にいるのではないかと思っていたが、あんがい事務室にひきこもったまま、葉巻をふかしつづけているのかもしれない。それともいつのまにか客席へとすべりこんだのか。

あの病の癒えたあと、私ののどはつぶれてしまった。あまねは言いつけ通りに沈黙をまもって過ごしたけれど、私はまるで子どもみたいに、泣くときの声を抑えることができなかったから。
 あまねはからだじゅうに浮き出たあざにおしろいをはたいて、また歌をきかせるためにでかけるようになった。その旅先はしだいに遠くなっていった。はじめのうちは近隣の都市や街で、それから長距離列車にゆられて山を越え、川を渡り、そしてさらには飛行機に乗って海の向こうへ。いまでもあまねが長く家を空けるのは、遠い国にでかけてリサイタルをひらいたり、管弦楽や室内楽の演奏に加わったり、あるいはきわめて高度な国際コンクールに出場したりしているから。
 私はといえば、喉が損なわれて、少なくとも人に聞かせるための歌をうたうことはできなくなってしまったけれど。でも、そのことはべつに構わなかった。うたうことで生計を立てることができる能力のないことは前からはっきりとわかっていたし、大きい声はだせなくても、囁くようにしゃべることは難なくできたから、日常的な生活に困るというわけでもなかった。
 けれども、あまねのほうへめいっぱいに差し向けられていた感覚が一気に霧消してしまったので途方にくれた。前と変わらず親密だったし、むしろ病のあとのあまねはなにかの引け目もあるのか、おどろくほど優しく私に向き合ってくれたけれども。それでも空虚だった。あまねと出会うためだけに生きてきたような気がしていたのに、いきなり断絶してしまった。あらゆる欲望がほそり、うたうのはもちろん、その他のなにをする気も起きずにぼうっとしていた。あの陶酔を、なぜかどうしても取り戻すことができないのだった。
 しばらくのあいだ、喉や皮膚にのこった傷を診てもらうために通院していた。医者はうつろな表情をした私を見て、自分はえらをからだに埋め込む技術を持つ者ではないが、海の世界の経済的な支援者であるのだということを小声で打ち明けた。無理に勧めるわけではないのですが、と医者はにっこりとして、私にむかってなめらかにささやいた。海の世界はご存知でしょう。あれは嘘ではなくほんとうにあるのです。あなたのようにかつてうつくしくうたっていたひとであれば、きっとなじむことができるでしょう。うつくしさを愛する者には優しい世界です。
 あたらしい言葉を学び、あたらしい呼吸の方法を身につけ、あたらしいおよぎかたを体得すれば、もういちどあなたを再建することができるでしょう。もちろん、陸へと戻ることはほとんど不可能ですから覚悟は必要です。えらをまた肺へと戻す手術はまたとなく危険なものですから——でも、手術のための紹介状なら、あなたのため、然るべきひとのもとに書き送ることができます。

ぎりぎりにやってきたひとの受付をいそいで終えて、円い時計をじっとにらめ、ぴったりの時刻になるほんの数秒前に灯りを落とす。首からカメラを提げていることを確認し、ほとんで手探りで細い通路をぬけて、キャットウォークに身を滑り込ませる。
 ここが、劇場のなかでいちばん安心できる場所だった。暗くて、狭くて、不便で、だれからも気づかれずに、舞台と客席のすべてを見下ろすことができる。水の中だから落下して怪我をすることもありえないのだけれど、それでも、険しい山から荒れ果てた谷間を見晴るかすときのように、畏れにも似た感覚がふっと湧いてくる。
 壁に隔てられてシャボン師の姿を見ることはできないが、調整室はすぐそばにある。天井から吊られた大小の無数の灯り、会場に配置されたいくつかのスピーカー、それにあぶくを巻き上げるためのシャボン機、くらげをのせる水流を調整するためのポンプ、そうした機器が見えないケーブルで調整室に繋がっており、シャボン師はそれらすべてをあの部屋からあやつっている。
 やがて蒼くて円いひかりが舞台に落ち、そこにうずくまるくらげ屋の張り詰めたからだがあらわになる。
 遥か遠くから響いてくるようなヴァイオリンの音色が空間に差し込まれ、それに導かれるようにくらげ屋のからだがやわらぎ、あさがおのつぼみみたいにほころんでいく。照明は少しずつ拡大し、色味が複雑になり、あたりでゆらめている半透明のくらげが光をおびる。
 くらげ屋にあわせてシャボン師が演出を調整するのではないし、その逆というわけでもない。音や光をはらんだ水と交歓しながらくらげ屋はそのからだのかたちを変え、そのからだをもっとも引き立てる角度からシャボン師がそっと光を添わせてゆく。使用する音源も場面の転換も、ふたりは事前にきっちり了解しあっているから、それは即興の踊りというわけではないのだけれど。
 くらげ屋は役者でも劇作家でもないのに、ト書きばかりたっぷりと付された台詞のない戯曲のようなものを自ら用意して、シャボン師といっしょにそれを睨めてよくわからないことを言いあいながら、ずいぶんと長ったらしい打ち合わせ事前に設けるのが常だった。そのあいだにつぎつぎと服されて足りなくなる葉巻を、街の店まで買いに行かされることが何度もあったのだっけ。
 私はカメラを構え、しだいに華やいでゆくその光景を丁寧にフィルムに焼きつけてゆく。キャットウォークをじわじわと伝いつつ、さまざまな角度から、さまざまな縮尺で。とりわけくらげ屋やくらげの細部へとズームインするとき、私の写真の技術とは無関係に、あやしげに揺らめく光をかならずとらえることができるのでうっとりしてしまう。たとえばその柔らかな肌のうえに網状にこぼれおちる光、そこを横切るあぶく、反射、ゆらぎ、水流にのって浮遊するくらげを透過して舞台や壁にうかびあがる色とりどりの影、それらの背景——自在に空間をよこぎる光の外で海溝のように黙り込む漆黒。
 静かな舞台は熱をおびてゆく。あくまで穏やかな楽音もだんだんとその圧を増し、穏やかなままにふしぎな凄みをもって迫り来る。踊りにしても速度や振れ幅を増したわけでもないのに、呪いのようにあるいは祝福のように、ホールの空間のすみずみまでを魅惑してゆく。シャボン師はしだいに巻き上がるあぶくの量をふやし、水流を巧みにあやつってくらげ屋のからだの動きと同期させ、まるでくらげ屋のからだがいくつもあるかのような、空間の全てが踊り手のからだで満ち満ちてしまったかのような幻想が、ホールいっぱいに繰り広げられる。
 でも、ついに音は鳴り止む。舞台は暗転する。うまく呑み込めないけれど、これっきりでほんとうに最後なのだった。

潮の引くようにひとびとは去り、館長やくらげ屋も連れ立ってどこかへでかけてしまって、ホールには私とシャボン師だけが残される。空間の魔法は解けて、そこはただのさみしい灰色の場所に戻っている。
 いつものようにバラシの作業をしようと思い、あたりを漫然と漂いながら、なかば独り言のようになんとなく話しかけてみる。
 ≪——ばらしは まずは まくをとりますか——≫
 シャボン師はなにも見ていないようで、こちらの手元を見ていたらしい。
 ≪——もういいよ もうつかわないんだから かえろう——≫
 意外な物言いに面食らう。この劇場空間の秩序のためならば、どんなことでもするようなひとだったのに。うつむいているその顔は影になって、どんな表情をしているのかよくわからない。
 ≪——もどるんですか ほんとうに おかに——≫
 ≪——そうだよ うみはもうだめだ みんなわかっている——≫
 ≪——でも しぬかもしれない——≫
 死んでしまったとしても構わないのだ、というようなことをシャボン師は言うので、私はなんと返答していいかわからない。死んでもよい、ということはわからないでもないし、海の世界はもうだめ、というのもほんとうかもしれない。かつて見られた夢は擦り切れてしまった。そのことは見るからに明らかなのだけど。
 でも、私は最初からなにも期待していなかったから。落ちぶれるのだとわかってここまできたのだから。かなしいことはたくさんあるけれど、死のリスクをかかえるだなんて、ありきたりな意味で怖すぎる。
 シャボン師がずっと目をあげないので、私はむきになって自分のほうのからだを沈ませ、うつむいた顔を見上げてみる。
 ≪——どうか ごあんぜんに——≫
 言いたいことはほかにもたくさんあるような気がするけれど、私にはうまく表すことができない。
 そのまま身を翻して、私はうすぐらい劇場を離れてゆく。きっと取り壊されるでもなく、建て直されるわけでもなく、そのままなんとなく薄汚れて、なんとなく細部から壊れてゆくに違いない。思い出のなかだけでしぶとくきらめきつづける、第三水底劇場。

朝とおなじ場所にヨットが浮いている。暗いけれど、あまねがランプを提げているのでそこだとわかる。
 ≪——ぜんぶ おわったよ——≫
 「おわったんだね」
 ささやき声が降ってきて、私はまた幸福になる。かつてのあこがれはないけれども、いまもあまねのことは慕わしい。
 あまねの片手が水面に差し伸べられる。私はヨットのすぐ近くにまでおよいでゆき、その指先に頬を寄せる。
 「あしたからなにするの」
 ≪——なにしようかな——≫
 「あのね」
 あまねはまた唐突に口調を改めた。
 「私、引っ越すことにした。西に。海のない国に」
 どれほど華麗な舞台のうえでも乱れるはずのない声が、すこしだけふるえている。ランプの灯りが、双眸にぎらぎらと映って見える。ふるえる声で、あまねは事情を説明してゆく。それは驚くべき話ではなかった。西の国の音楽学校に招かれて、さらに歌を究める機会にめぐまれたのだと。
 こうなることはどこかでわかっていた。閉ざされた世界へ逃げていったひとのためだけに海辺で暮らすには、あまねはあまりに非凡だった。後ろめたさのようなものがあって、あまねはここに引き留められていたのかもしれないけれど、それも今日でおしまい。
 ≪——うれしいな おめでとう——≫
 偽りなくそう伝えたつもりだけれど、そう言いながら祝福とはなんのことなのか、自分でよくわかっているとは思えない。
 あまねのうたうのを、かなうことなら最後にもういちどだけ聞きたいような気がする。たぶん聞きたいのだと思う。
 どうだろう、わからない。あの病に罹って以来、あまねがうたっているのを一度も聞いていないのだった。なりゆきではなく、あえて聞かないようにしていた。歌声を耳にすればまた呪文でもかけられたかのように、あの恐ろしくも幸せなころの感覚に引き戻されてしまうような気がしていて。
 私たちは静かな海鳴りの音を聞いている。それ以上なにも話さず、ざわめきに耳を澄ましている。
 やがて息がくるしくなって、私はあまねの手を離れる。
 ≪——さよなら——≫
 かつて喉だったところがすこしだけ熱い。水底のキューブへと向かって、ゆるやかにからだを沈める。

キューブのかたちをした家へと戻る。たいした仕事をしたわけでもないのに、疲れにふわふわとつきまとわれているようで、灯りをつける気にもなれない。そういえば首から提げたままだったカメラをはずし、はおっていた衣をぬぎすてる。
 白砂の中に肩までもぐりこむ。砂にはまだ昼間の熱がのこって、その重みがからだをやさしく包み込んでくれる。私は幸福なのだ、とつよく念じる。でもよくわからない。館長のように余生をのんびり楽しめるような身分ではない。
 なにしろ明日の仕事もないのだし、わずかばかりの蓄えはきっとまもなく使い切ってしまう。あたたかな自治体の窓口へゆけば、なにかしらの手は差し伸べられるのだろうけれど。あるいはあの医者に連絡をとったらどうなるのだろう。美術学校を紹介されて、なにか絵を描いたり粘土をひねったりすることになるのだろうか。わからない。
 シャボン師は、あやうい手術を終えてなお永らえていれば、地上でも劇場の演出の仕事をさがすのだろうか。それ以外の職に就くシャボン師のことなど想像できない。シャボン師のことははっきり思い浮かぶのに、自分がはたしてなにをしたいのかわからない。まったくわからない。できればなにもしたくない、けれども死にたくはない。
 たとえばこの古ぼけた、劇場から持ち帰ってしまったカメラを手にたずさえ、そこらにあそぶ光をとらえつつ辺りをおよぎまわっていれば、またどこかで、なにかささやかな求人の貼り紙にゆきあったりもするのだろうか。
 なやんだところでどうしようもない。眠ろうとして、いつものように枕元のピルケースに中身のあることをたしかめる。私を永らえさせるための一揃いの錠剤が、そこに規則正しくおさまっている。
 ≪——のめば まだしなないんだから——≫
 誤認でもよい。海のあたたかさをもう少しだけ信じていたい。
 窓のそとは闇にぬりこめられている。明日の朝にはまたまばゆい光がさんさんと差し、くっきりと目をさますだろう。きっとしばらく死ぬことはない。海はそれほど広くはないけれど、ここでの暮らしにまだ飽いてはいない。たよりない確信をなぞりながら目を閉じる。
 もう二度と会わないひとたちのことが一瞬ばかりまなうらに浮かび、それらの像もまたたくまに滲む。そしてそのまま、すべてしずかな眠りのほうへと沈みこんでゆく。

文字数:19252

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