梗 概
流星雨があがったら
恒星間天体9I/2034 D1が確認された。そして、地球軌道と交差しているその軌道を地球が横切った時、まれにみる大流星雨が観測された。
病理標本の脂肪組織に細菌が見つかった。コンタミネーションを疑い原因が精査されたが、不明のまま。生体の脂肪組織自体に細菌がいる可能性が否定できない。ピロリ菌も、胃の中に細菌がいるはずがない、と、当初は存在が疑問視されていた。これも新種の細菌かもしれない。
病理検査室と細菌検査室が特別チームを組んで検査にあたる。かなりの割合で脂肪組織に微生物がいた。しかし、現存するどの培地でも培養できない。シークエンサーやPCRで遺伝子同定を試みるが、塩基配列も全く分からない。
一向に微生物の同定がなされないまま、症例数だけが増えていく。時折、脂肪腫を伴うケースもあったが、良性腫瘍のため、病状の悪化は見られない。むしろ、感染者には、スリム化傾向と生活習慣病の軽減が見られることが多かった。
便宜上、その微生物には名前が付けられることになった。大流星雨が世間をにぎわした年だったので、Meteobacteria(仮称)と呼ばれた。
感染者が爆発的に増加したのは、肥満と糖尿病を売りにしていたタレントが、突然スリムになった姿を公表してからだ。感染経路も定かではないため、あらゆる方法を試してみる者が続出する。他の感染症も蔓延する、と医学界は騒然とし、もし毒性があっても治療法は確立していない、と警告を発する。
警告にもかかわらず感染は拡大。あっせん業者も林立し、一大ビジネスとなった。予想通り、他の感染症も拡大するが、感染症治療のための費用は生活習慣病関連の医療費が激減したことで相殺された。感染さえすれば、ダイエットの必要もなくスリムになれるという非常に手軽な魅力。医療経済性の観点からも問題がないことと相まって、人々の行動は歯止めがきかなくなった。
そんな中、脳を含む全身への細菌の侵入が確認される。細菌感染とともに、ウジと思しき幼虫が脂肪組織内で成長していることも確認された。特に、脂肪が急速に減少している症例に顕著だった。しかし、異常な症状は誰一人、出ていない。
1年後、別の恒星間天体7I/2035 G1が地球に接近した。恒星間の彗星であり、長い尾を引いたその姿は肉眼でも壮大に見え、地球最接近の日には大勢が夜空を見上げた。その時、感染者の体から、おびただしい数の金色の蝶が滲み出て、一斉に夜空へ飛び立つ。人々が驚愕し見守る中、それは上空に集まり、流線型の飛行物体の姿に合体・変形する。そして、蓄えた脂肪をエネルギー源として飛行、最接近中の恒星間天体に向かう。
地球上の技術では解析不能だったMeteobacteriaは、他星系の知的生命体から地球へと送り込まれた生体サンプル採取・解析用の生物プローブであり、計画通り回収された。7I/2035 G1は高速で太陽系から飛び去って行った。
文字数:1196
内容に関するアピール
いてくれたらとてもうれしい生物を考えました。脂肪を食べる細菌! あまりにも実用的過ぎて夢のない生き物ですが。切実な、あったらいいな、を形にしました(笑)。
この作品のイメージは「沈黙のフライバイ(野尻抱介)」です。どこかに住む地球外知的生命体が、地球にすでに生命がいることを知っていて、ピンポイントで探査機を飛ばしてきます。現代人の(私のような)欲望を上手に利用して、十分すぎるほどのサンプルを採取し、持ち帰る。しかも、廃物利用(?)で脂肪が宇宙船に向かうエネルギーになります。
長い時間をかけて太陽系まで到達した異星人(人かどうかはわかりません)の探査機と、人類との刹那のコンタクトの物語です。
文字数:296
流星雨があがったら
夜明けが近い。東の空が白んできた。
それでもまだ、明るい星がいくつも残っていた。群青色に薄れゆく夜空を白く切り裂いて、静かに流星が降る。その空の下、僕はひたすら自転車をこいでいた。
こんなに大騒ぎになるとは、思っていなかった。
僕にとっては、(おそらく)未知の流星群を見逃した、そして、ただただ疲れただけの夜だったから。
その前日。
五時半の終業。
秒針が真上を指すと同時に、キンコンダッシュ(チャイムはならないけど)。
やった! ……と思いきや、
「おい」
背中から声がかかる。
まじかよ~~~。今日だけは、見逃してくれ!
「残業長者のお前が、今日は早いな」
細菌検査室の上島純一。高校からの腐れ縁だが、出来は天と地ほども違う、優秀なやつ。
「それともただの休憩か。夜中の解剖当番に備えて」
脳裏に当番表とかすかな不安がよぎる。確かに今日の当番は僕だ。だが、年に二〇件あるかどうかの病理解剖。この夜に(しかも僕に)当たる確率は低い。何しろ三日前にハズレくじを引いている。自慢にもならないが。
「今から恒例の観望会だ。邪魔するな」
「まさか、例の? JKと山籠もり?」
「おまえなー」
今夜は母校天文部主催の観望会だ。確かに女子高生はいるが。
へらへら笑う上島に背を向けて、走った。ちょっと邪魔は入ったが、幸運の女神はまだ微笑んでいるはず。
病院の廊下から見えるバス停は、容赦なく西日にさらされている。予定のバスは五時四五分。これを逃すと、次のバスは二時間後。ちらりと見た腕時計は、四〇分になろうとしている。よし! この調子ならオンタイムだ。玄関まで、その角を曲がれば十メートル! 一層強く床を蹴った。
――あれ?
白い?
そのスピードで止まれるはずもなく、僕はその白い何かに激突した。むにゃっとした感触? 弾き返されて改めて見ると、うわ! (名前は忘れたが)確か最近配属になった新しい脳外科部長先生。二メートルにも迫ろうかという巨体と、コニシキ並みのふくよかな体躯(ショックアブソーバとしての性能は申し分なかった)。
「す、すみません! 急いでたもので」
「あれ~、キミ、確か病理検査室の~」
「はい。桜井です」
「や~、いいところであったなぁ~。ちょうど訪ねようかと思っていてね~」
まじですかぁぁぁ? よりによって、今日ですかぁぁぁぁ……
八月の夕暮は遅い。八時半を過ぎたぐらいから、やっと夜らしい気配が漂う。海抜三百メートルの山頂は、街の光があるものの、四方がひらけて絶好の観測場所だ。今日は月も邪魔にならない。西の地平線から、金星、木星、アンタレスをはさんで土星に火星と並んで、豪華な夜空が広がっている。気の早いおじさんたちが、天文部の生徒がセッティングした望遠鏡を覗いている。
まずは間に合って、ほっとした。
廊下で脳外科部長に捕まった時は、99%、あきらめた。患者が急変しなければ、夜明けを二人で迎えてた。患者さんには申し訳ないが、助かりました。だけど、ずっと気になっている。あの先生、どこかで会ったような……。ネームプレートには『福原』と、ちょっと納得の名前があったけど。
星を眺めながら物思いにふけっていると、天文部顧問の橘翔平がのっそりと現れた。橘も上島同様、よくできる部類の同期だ。
「お前、その腹、毎年成長してるな」
「いやー、もうすぐひとり生まれそうだよ」
かっかっかっか、と天に向かって大きな口を開け、陽気に笑う。昔から憎めないやつだ。
「だけど、おれだって努力してるんだ。今日だって自転車で来たぞ」
「自転車で、山を上ってきたのか?」
「電動自転車、でね」
ずっこけた僕の目の前に、明るい流星が一つ流れた。
「あ、流れた!」
「散在だろ? まだペルセには早いよな」
ペルセこと、ペルセウス流星群は、しぶんぎ、ふたごと並ぶ三大流星群の一つで、極大は八月十三日ごろ。明るい流星が多く、街の光があっても、極大にはかなり多くの流星を見ることができる。夏休み、しかもお盆の時期に重なって、知名度抜群の流星群だ。一週間前だから、今の流星はペルセにはちょっと早いかもしれない。それにしても、明るかった。等級は軽くマイナスだろう。今日の観望会は幸先がいい。
後ろのほうでも歓声が上がった。もう一つ、流れたらしい。
「これは、これは。流星観測には早いかと思ったけど、持ってきてよかったよ。観測機器」
橘は近くにいた生徒に声をかけ、手際よくセッティングの指示を出しながら、そそくさと立ち去った。
あたりはすっかり暗くなった。時折、楽しそうなはしゃぎ声が聞こえるぐらいで、山の上は静かで気持ちがいい。天の川に、夏の大三角。いるか座、や座……。社会人になって、ゆっくり星空を眺めることが少なくなった。年に一度のこの観望会は、まっさらな、少年の心に戻れるような貴重な時間。
南から壮大に延びる天の川を見上げていると、もう一つ、明るい流星が音もなく流れた。この調子でいけば、一時間に十個程度は流れそうだ。確かに放射点はペルセじゃない。もしや、未知の流星群か。高ぶる気持ちを抑えて芝生の上に仰向けになり、万全の観測体制に入った。……その時。
闇を切り裂く電子音が、僕の意識を無理やり現実に引き戻した。病院からの呼び出しだ。
く~~~~。ありえない。
全く気乗りしない口調で電話に出る。
「はい。桜井です。……はぁ。脳外? わかりました(涙)」
――くっそ~。明日は、宝くじでも買ってやる!
やけくそに、星空に誓った。
すでに山頂から街へ戻るバスはなく、橘の電気自転車を拝借して病院に戻った。下り坂に平地ルート。車も少なく、三〇分もあれば到着だ。
病院に向かう僕の目の前にも、ぽつりぽつりと流星は流れて、しかも、だんだん数が増えている?
病院につくと、病理医の東野先生はとっくに着いていた。というか、もしかして、残業でしたか? すみません。いそいで解剖グッズをかき集めてかごに入れ、解剖室に向かった。
解剖室は地下。病理検査室のある三階のエレベータホールで窓から外を見る。街灯がついていても木星は見えるなぁ。でも、それだけ。天の川、久しぶりに見たなぁ、なんてエレベータが来る間に物思いにふけっていると、あれ? 今、流れた? い、いやに明るいじゃないか。ほんとに今晩は流星が多い。もしかすると、僕、ものすっごく貴重な夜に、今から地下でお仕事?
解剖室にはすでにご遺体が運び込まれていて、主治医先生までお待たせしていた。
「あれ~、桜井くん。今日は縁があるねぇ」
おお~。またまた、脳外科部長先生!
「悪いですねぇ、せっかくの夜に。あれ、見た? すごい流れ星。私、ついさっきまで屋上で見てたんですよ。言葉を失うって、このことですね。あんな数の流れ星、ずいぶん長い間生きてますけど、見たことなかったですよ。いや~、驚くべき経験だったねぇ」
え~? 先生も見てたんですか? そこまで言うなら、どうしてまた、今晩、剖検なんですか。患者さん、もう一日二日、持たせられなかったんですか。こんな貴重な夜に!!!
「ちょうど戻るときにはね、爆発的な流れ星も見ましたよ。こう、ちょうど頭の上で光ったなぁと思ったら、ぱぁっとね、まるで音のない花火を見ているようでしたね。四方八方に散っていきましたよ。いやぁ、珍しいなぁ」
まじですかぁ? そんなすごい流星まで。あああああ~。一生後悔するなぁ。
僕の心にさんざん波風を立てて、脳外科部長先生は東野先生に歩み寄って、淡々とご遺体についてブリーフィング。僕はいつものようにいそいそと器具を出して、臓器を入れるホルマリンバケツを作って……。
脳外の解剖は時間がかかる。しかも、夜中の解剖は病理医と助手の二人体制。人数の多い日中と比べて、格段にスピードが落ちる。僕は早く帰って寝たい一心でひたすら手を動かした。なのに、脳外科部長先生は、東野先生を伴って隣室に行き、ご丁寧にご遺族に説明をしている。
丑三つ時をまわった解剖室にご遺体と二人、はたから見るとかなりホラーな場面だ。万が一にも、今、後ろの標本室のドアが開いたりしちゃったら、心臓が止まること間違いなし。などと、強がりだか何だかわからない一人突っ込みをしながら、黙々とご遺体のお腹を縫う。
しかし、このご遺体、お腹周りに脂肪が多いなぁ。
ヒトの脂肪は牛や豚と違って、鮮やかな黄色だ。そう、モンシロチョウの黄色いやつみたいな。キチョウっていったかな。そんな感じの色。黄色の蝶は幸せを運んでくるんだぞ。僕にもよろしくお願いしますよ……。
――あ~、もう集中力、限界。
やけくそ気味に後片付けを始めたころ、東野先生が看護師さんたちを伴って戻ってきた。ご遺体に死に化粧を施して、霊安室に運んでいく。夜中なのに蝶のように軽快な彼女たちとは対照的に、僕はのそりのそりと着替えをした。サナギになる前の芋虫みたいに。
東野先生と病理室に戻りながら、気になっていたことを聞いてみた。
「あの脳外科部長先生、新任だと思うんですけど、どこかで見たことがあるような……」
「あれ、桜井くん、知らなかったんですね。彼、有名ですよ。テレビにもよく出てますし。Dr.ショック・アブソー腹っていう芸名で」
えええ!? まじですか。名は体を表す!!!
今日はまた、驚きの多い一日だったなぁ。と、窓から外を眺めると……。
あれ? また流星?
すっかり別世界に行ってたから忘れてたけど、一晩でどれだけ流れたんだろう。
久しぶりに母校の門をくぐった。
天文部は、例の大流星雨の撮影に成功し、学園祭に向けてプラネタリウムでの再現上映を企画していた。ある筋からは、世紀の天体ショーを袖にして、地下で仕事をしていたというへそ曲がりなOBのためのイベントだ、とも耳にしている。
――それにしても、驚いた。
こんな大流星雨があるだろうか。
圧倒的な数の流星で、地面には影ができていた。満月の明るさに匹敵する、いや、それ以上かも。
「流星群の母天体は、二月の恒星間天体だとさ」
橘が、最新情報だ、と言って教えてくれた。
二〇一七年に初めて観測されてから九個目の恒星間天体9I/2024D1だ。九個目ともなると珍しくもなく、特に注目もされなかった。太陽に近づいても暗いままで、目立たない天体だったし。
なのに、その軌道を地球が横切ったとたん、まれにみる大流星雨が観測された。しかも、流星の出現はたった一日。非常に狭い範囲にしか、塵は残っていなかったらしい。どこからそれほどの塵を噴出していたのか、今となっては確認のしようもない。非常に不思議な恒星間天体だ。
「ちょうど夏休みだからさ、生徒に9I/2024D1の軌道計算をさせてるんだ。太陽系近傍の軌道は分かってるから、もっともっと遠くのね。どこから来て、どこに行くのか」
橘は楽しそうに言った。
「桜井くん、このスライド、コンタミしてますよ」
東野先生が、細面に黒縁メガネの、いかにも神経質そうな顔をのぞかせた。鏡検に回した病理検査のスライドに、何かが混じってしまったらしい。
「ほんとですか? すみません! 確認します」
そういって僕は東野先生からスライドを受け取って、顕微鏡に載せた。
自分で言うのもなんだが、わが検査室の病理標本作製技術は結構高い。全国規模で行われる精度管理では、毎年A評価だ。だから、東野先生がコンタミしてるといったときには、一瞬耳を疑った。
ありえそうな原因を考えながら、顕微鏡をのぞく――。
いやー、美しい。細胞質は儚いながらも力強いピンクに。その中に高貴な紫に染まる核。何度見てもほれぼれする、美しいHE染色。
……あっ。
「ほんとだ。脂肪組織に細菌が載ってる」
これは間違いなくコンタミだ。脂肪細胞の、縁だけピンクで中がスカスカに抜けている細胞質に、小さく細長い青紫色の細菌が載っている。通常あり得ないところに細菌があるということは、明らかにコンタミ。でも、東野先生には申し訳ないけど、今回はこれで診断してもらおう。診断に問題はないはず。
そう言って標本を戻した僕を、東野先生は眼鏡の上から覗き見て、
「確実にコンタミって言いきれます? なら、速やかな原因究明をお願いします」
と、追い打ちをかけた。
いやいや、先生。それ以外ないでしょ。と、喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んで、わかりました、と答えた。
東野先生は非常に優秀な病理医で、大学もほかの病院の病理医も一目置いている。だけど、いかんせん、細かい。いちいち納得するまで説明を求めてくる。妥協という言葉を持ち合わせてない。その態度が煙たがられるのか、同業者の集まりにあまり呼ばれない。別に興味もないんだろうけど。
僕はしぶしぶ原因探しに着手した。どこでコンタミしたのか――。切り出しやパラフィン包埋の時に入ったなら、薄切の時に取り除かれる。おそらく、染色液が一番怪しい。そうでなければ、カバーガラスか封入剤か……。いずれにしても、ほかの標本に同じような細菌が載っていれば確定だ、と、午前中に一緒に染めたスライドを出して、顕微鏡に載せた。
予想に反して、原因究明は難航した。
同時に染めたほかの標本には、同じようなコンタミはなかった。「たまたま」入ってしまったのではないかと、再度、切片を作って染め直してみたが、その標本でも、例の脂肪組織には、しっかりと細菌が載っていた。
――う~~~ん。
どういうことだろう。確か残りの臓器があったはず、と、ホルマリンにつけたままの臓器から一部を切り出し、包埋からやり直して染色した。
それでも、細菌は脂肪組織にある……。
訳が分からない。よーく考えよう。と、僕は自分に言い聞かせた。
本来、脂肪組織に細菌はいない。これ、常識。でも、何度作り直しても、標本に細菌が……。
「一体、なんなんだ」
何もかも投げ出したくなって、椅子の背にもたれた。窓から見える西の空は、真っ赤な夕焼けだ。
「腐ってたんだろ」
突然、さかさまの顔が現れて、言った。細菌検査室の上島。
「腐ってた? そっか! 手術のあと、放置していたのか!」
それなら話は簡単だ。僕は颯爽と外科に連絡をした。
数分後。上島は高らかな笑い声を残して、消えていった。
やられた。
もしも臓器が腐っていたなら、染色標本にはピンク色の壊死がある。あんなにきれいな脂肪組織が、そのまま残っているはずがない。――万策尽きた僕をみて、上島がからかっただけ。くそっ。
その時、絶妙のタイミングでドアが開き、東野先生が入ってきた。すみません、先生。まだ、原因究明できてないんです……。
「桜井くん、申し訳ないんですけどね、大学の後輩がコンサルテーションに来たいっていうので、ちょっと部屋を開けていてもらえますか?」
はぁ。コンサルテーションね。こんな時間から。お安い御用ですよ。部屋を開けておくぐらい。
安どした僕の顔を見て、東野先生は付け加えた。
「それとね、例のコンタミ、何かわかりましたか?」
穏やかに付け加える、あなたが憎い。すみません。まったくわかりません……。
その日、東野先生を訪れたのは、僕もよく知っている県立病院の雫石真樹子先生だった。病理医にしておくにはもったいないほどの器量よしで、愛嬌があって、朗らかで。しかも、神経質で人付き合いの悪い東野先生にたびたびご意見伺いに来る、その心臓、どうなってますか?
と、口に出したわけではないのに、東野先生の肩越しに僕を見てにっこりした真樹子先生。……やっぱり心の声は漏れてましたか。
東野先生がちらりと僕を振り返って、真樹子先生に言う。
「実はね、桜井がコンタミ問題で悩んでるんですよ」
はい。すみません。解決できてません……。問題の標本をしずしずと差し出して、顕微鏡に載せる。のぞきながら、真樹子先生は楽しそうに言った。
「うわっ。脂肪組織に細菌? 珍しいですね」
ごもっとも。ほんとだったら、新発見。大発見ですよ。
「ですよね。ピロリも初めは誰も信じませんでしたからね。胃に細菌がいるなんて」
そう言いながら、東野先生の目が、きらりと光った。
「脂肪を食べちゃう細菌だったら、私も飼いたい!」
真樹子先生は朗らかに笑う。
何をのんきに、と、僕は二人を見てあきれていた。ほんとにそのときは、何をばかなことを、と思ってたんだ。
脂肪組織に載った細菌用物質は日を追うごとに増えていった。コンタミ説は影が薄くなって、本当に細菌が脂肪組織にいるのではないか、と疑うようになった。
こうなると頼りになるのは上島だ。病理検査室と細菌検査室が特別チームを組んで検査にあたることになった。
まずは手術で取った脂肪組織でグラム染色。あっけないぐらい簡単に、細菌が染まった。ちょっとずんぐりした桿菌だ。しかも、かなりの数。でも、染色結果がピンクか紺色か、一定しない。つまり、グラム陽性桿菌なのか、陰性桿菌なのか、定まらない。グラム染色は基本的な細菌の染色法で、細菌の同定では最初に実施する。微生物学赤点すれすれ野郎のへたれグラム染色では、どっちつかずの結果が頻繁に出るものだけど、プロの上島先生にはありえない。かなり意外な結果。
しかし、上島はひるまない。細菌検査室のありとあらゆる種類の培地を持ってきて、熱心に白金耳で検体を塗りたくった。手際よくシャーレのふたをして、インキュベータに突っ込んで……。最後に、白金耳で突かれまくってへなへなになった脂肪組織が、僕の前につきだされた。
どうする?
だいぶくたびれてるけど、これだけあれば、病理標本には十分。電子顕微鏡用のブロックも作れそうだ。いそいそと病理検査室に引き上げて、小さく刻んで用途別の固定液に入れた。ついでに、遺伝子検査室にも組織を分けて協力させる。
これだけ仕込めば、一週間もたたずに何かしら判明するに違いない。
脂肪内細菌の同定計画は今始まったばかりだ。
一週間後。
僕は再び途方に暮れていた。でも、前回と違うのは、頼もしい仲間がともに首をかしげていることだ。細菌検査室の上島と、遺伝子検査室の水瀬冴子。
「高価なシークエンサーが入ってるのに、いざとなったら役立たずだな」
「しょうがないでしょ。臨床用のプライマーしかないんだから。未知の細菌には対応できないの。残念ながら」
大学の研究室に塩基配列そのものを読んでもらえるよう依頼した、と水瀬は言った。
「そういう細菌検査室はどうなの? 培養、出来なかったんでしょ?」
なぜか少し勝ち誇ったような水島の声に、上島がむっとしたのがわかった。
「……だめだった。どの培地でもコロニーひとつ、培養できなかった」
上島は屈辱さえ感じているようだ。
病理検査室でも新たな所見は得られなかった。あ、ひとつだけ。電子顕微鏡で見てみると、細菌状物質の輪切りが脂肪組織の中に無数にあった。……それで? だよな。まあ、細菌は脂肪組織に確かにいるってことで。
一向に細菌の同定がなされないまま、報告数だけが増えていった。それも全国的に。
そんな折、真樹子先生が東野先生を訪ねてきた。県立病院でも、相次いで脂肪組織に細菌が見つかっているのだという。
「やっぱり脂肪組織に細菌がいたんですね~。それで~、脂肪を食べてくれるのかしら???」
真樹子先生、そこですか。興味の矛先は……。食べてるとわかったら、絶対飼いたいって言い出しますよね。
「それを確かめるためには、感染前後で体脂肪率を計測するだけで済むかもしれませんね」
東野先生も真面目な顔で無責任なことを言うなぁ。どんな影響があるかもわかっていないのに、よりによって人を使ってそんなことしたら、人体実験ですよ。
「私、適任者、知ってます!」
――僕も知ってる。でも、真樹子先生、それ、言っちゃまずいんじゃ……。
「Dr.ショック・アブソー腹、参上!」
え??? 誰か呼びましたか?
ドアをふさがんばかりの身体で、アブソー腹先生が入り口に立っていた。
「きゃ~! アブソー腹先生、お目にかかれて光栄ですぅ」
何とまたミーハーな真樹子先生。こらこら。握手なんてしたら、デブ菌が移りますよ。
「私も気になってましてね、その脂肪内細菌。え? 脂肪を食べるかどうか、確認したい? いや~、でもこの脂肪は商売道具ですからねぇ」
どうしてこの人たちは、こうも論点をずらして平気なのだろう。あきれはててものも言えない。
そうこうしているうちに、脂肪を生検して検査してみることになった。どうやら、アブソー腹先生も少し心配だったようだ。これだけ多くの検体に細菌が見つかっている現状では、当然だ。
果たして、アブソー腹先生の脂肪組織にも細菌がいた。
東野先生(というか真樹子先生)の計画通りにはならなかったわけだが、しばらく経過を観察することになった。体重&脂肪率測定がアブソー腹先生の日課となった。
病理検査室に持ち込まれる検体が、このころから少し変化していた。脂肪腫の切除検体が増加傾向なのだ。例の細菌と脂肪腫に関連があるのかどうかはわからない。でも、なんとなく肥満傾向にある患者が多い。案の定、橘も脂肪腫疑いで来院していた。脂肪腫は良性腫瘍で、病状の悪化は見られない。不幸中の幸いか。
便宜上、その細菌には名前が付けられることになった。大流星雨のあとに見つかったため、Meteobacteria(仮)と呼ばれた。天文ファンの心をつかむ、うまいネーミングだ。
時折併発する脂肪腫を除き、何も症状が出ないので、正確な感染者数は把握できていない(脂肪腫さえ、Meteobacteriaが原因かどうかは分かっていないのだが)。アブソー腹先生と橘にも細菌がいたとなると、おそらく感染率はかなり高いはず。
一方、細菌の同定は、というと、大学はもとより、著名な遺伝子研究施設でさえ、塩基配列の特定にも至っていなかった。培養が可能な培地はなく、実験動物への感染も不可能。唯一、ヒトへの感染がみられるだけ。
なんだろう。このステルス性と宿主特異性は。感染経路の特定もままならない。もし致死的な病原性があったら、人類は滅亡?
――いやいや。SFの読み過ぎだ。
体脂肪率を測定し続けて一か月。
アブソー腹先生に、顕著な変化が見られた。
なんと、体脂肪率30%減少!
商売道具がぁ、と少し萎れて去っていくアブソー腹先生。その背中を見ながら、少しスリムになった、と喜んでいた橘が頭に浮かんだ。
東野先生に許可を取って、Meteobacteria感染患者の検査結果をかき集めた。驚いたことに、感染者には、スリム化傾向と生活習慣病の軽減が顕著に見られる。本当に、脂肪を食べていたりして。もしそうなら、真樹子先生、大喜び! だけど、まだ耳に入れてはならぬ。せめて、病原性の有無が確実になるまでは。
あぁ~、大騒ぎになる予感がひしひしと迫ってきて、押しつぶされそうだ。
そんな僕のノミの心臓を一ひねりに潰してくれたのは、かのアブソー腹先生だった。
商売道具の脂肪が減少して、しょげ返っていたのに。さすが大物タレント。肥満と糖尿病の改善が見て取れるデータもろとも、短期間でスリムになった姿をテレビで公表してくれた! 恐るべし、マスコミ。病院には取材が殺到した。
マスコミだけではない。かの真樹子先生が、アブソー腹先生に直接話を聞かなくっちゃ、と病理検査室に陣取っている。
「真樹子先生、それ以上脂肪がなくなったら、男の子と見分けがつかなくなりますよ」
東野先生は、珍しく真樹子先生をなだめにかかっている。視線は、真樹子先生の胸元に……。いくらダンディ東野でも、それ、セクハラですよ。でも、――同感です。
「う~ん、子どもが生まれてから、お腹周りの脂肪が気になるんですよ~。そこだけ、食べてくれないかなぁ」
――それは、都合がよすぎでしょう。
マスコミがMeteobacteriaとアブソー腹先生の症例(?)を取り上げると、検査依頼が急増した。いるかどうかだけ調べるのなら細菌検査だけで間に合うのに、厚生労働省の通知が発出され、情報収集のため、と病理検査室へも検体が回ってきた。
感染するだけでスリムになれる、という非常に手軽な魅力に抗えず、Meteobacteriaに感染していない人たちは、感染の可能性を探った。感染経路も定かではない。あらゆる方法を試してみた。
それに応えるのがビジネス界。高いギャラで感染者を確保、感染希望者に貸し出すサービスが始まった。借り手は感染者に危害を加えない限り、設定した料金の範囲内で感染を模索できる。
気になる料金は、というと、一番感染率が高いと思われる接触感染で、二時間十万円。風営法に抵触しそうな、限りなくグレーな設定だ。
一方、騒然とする医学界。
人々の見境ない感染行動に侃侃諤諤。なにしろ、素性が不明。毒性があるのかどうかも全く分からない。もしあったとしたら果たして治療法があるのか。さらに、他の感染症の蔓延も危惧されるとなれば、手をこまねいている場合ではない。しかし、出来ることと言えば警告を発することぐらい。
当然、厚生労働省の警告ぐらいで引く国民ではない。現在に至るまで試したダイエット法の数も、費やした金額も計り知れない。それが、食事制限も運動も不要なのだ。この機会をみすみす逃すことはできない。警告にもかかわらず、予想通り、感染は拡大。あっせん業者も林立し、一大ビジネスとなった。
他の感染症も拡大した。顕著な感染者数の増加がみられたものは、HIV、B型肝炎、ヘルペス、クラミジア、梅毒に淋病。ここに至って、感染経路が明らかになった。Meteobacteriaの感染には、おそらく性行為が最も効率がいい。
性行為感染症(STD)関連の医薬品メーカーは、Meteobacteria特需に沸いた。その一方で、生活習慣病関連の医薬品を扱う企業は、売り上げの激減を嘆いた。体内の脂肪含有量が低くなるにしたがって、高血圧、高脂血症、糖尿病などの症状が改善され、医薬品が不要になったからだ。
厚生労働省の試算では、STD治療で増大した医療費は、生活習慣病関連の医療費が激減したことで相殺された。医療経済性の観点からも好ましい事態となり、Meteobacteria感染に対する警告の声は、一段、低くなった。
さらに、少子高齢化に悩む国家にとって福音となったのは、妊婦の増加だ。Meteobacteriaが見つかってから約3か月。このままいけば、特殊合計出生率は2を超えるかも、あるいは3も夢ではないかもしれない。特に症状も出ないことだし、いいことばかりじゃないか。感染を危ぶむ声は、いつの間にか聞こえなくなった。
人々の行動には、歯止めがきかない。
流行語大賞に大流星雨とMeteobacteriaが選ばれ、新しい年が明けた。
人々の熱も冷めた激寒の二月。とっぷりと日が暮れた終業時、橘が青い顔をして病理検査室に現れた。
何かが体の中を這っているような感触がする、という。服を脱いでみると、ところどころ幅一センチメートルぐらいの赤い筋が見える。
「どうしたんだ、これ。ミミズ腫れか?」
「昨夜、寝てたらぞわぞわしてたんだ。朝起きたらこの通り」
しかも、とズボンをずらすと、鼠蹊部に延びる赤い筋の先端が、かすかに動いているような……。
「ここが、どんどん下に向かって動いている」
急いで皮膚科に連絡し、時間外のところを拝み倒して診てもらうと、
「寄生虫、かもしれません」
「寄生虫!?」
「通常は寄生しない宿主に寄生すると、寄生虫がいろいろなところに迷入してしまうことがあるんです。それにしても、このサイズというのは、ちょっと……」
皮膚科の専門医でも、見たことのない症例のようだ。治療そっちのけで、しきりと写真を撮っている。ひょっとすると、有名ジャーナルに橘の身体が掲載される日が来るかも。
そこに、もう一人。
「せんせ~~~!」
ずいぶんお腹のすっきりしたアブソー腹先生が突入してきた。
「これ、見てくださいよ! 動くんですよ!」
白衣をまくり上げて出てきた腹部には、橘と同じ赤い筋が何本も。
「これは! 橘さんよりもすごいですね」
泣きの入ったアブソー腹先生も、即刻、撮影モデルと化した。
とにかくCTかMRIでも撮ってみましょう、と橘とアブソー腹先生はともに放射線科に送られた。
一足先に病理検査室に戻ると、東野先生の冷ややかな目が待っていた。すみません。緊急事態で……。
東野先生のご用事は、先日の剖検標本について、だった。邪魔が入って、そのまま作業台の上に置いておいた標本だ。
あ、先にご覧になった? すみません。染色チェックもまだだったんです。え? また、変な染まりしてます? そうじゃない? Meteobacteriaらしい細菌が全ての標本に? 脂肪組織だけではなく、内臓、筋肉、そして脳までも!?
「ヒトの体内環境に適応して、生息できる場所が増えたのかもしれませんね」
東野先生は淡々と答える。
「死因は、Meteobacteriaに関係ありますか?」
「もともと悪性腫瘍のある患者さんですからね、Meteobacteriaが関係しているかどうかはわかりません」
がんの末期で、日和見的に増えたのだろうか。今となっては、わからない。
「Meteobacteriaがいても、どの臓器にも炎症反応はないので、高度な免疫寛容が成立している、とは言えますね」
高度な免疫寛容。ヒトと、共存するつもりなんだろうか?
首をひねることしかできない僕に、東野先生は、同じような症例が出てきたら、また考えましょう、と言って出ていった。と思いきや、ぴょいとドアから顔をのぞかせて、
「ほかの病院でも同じような症例がないか、確認してもらえますか?」
あれ? それ、今日中ですか? ……ですよね~~~。
こんな時間に連絡できるところと言えば、真樹子先生ぐらいだ。時間外にすみません。電話をかけようとしたその時、
「東野せんせ~い!」
あり得ない勢いでドアが開き、当の真樹子先生が息を切らして走り込んできた。
「真樹子先生? どうされたんですか? ちょうどいま連絡を……」
「桜井さん、大変なのよ。Meteobacteriaがね!」
「――もしかして、全身に感染している、とか、ですか?」
「え? ここでも、そうなの?」
まじですか? こんな重大局面がこの時間に起こるんですか。……今日は泊まりかも。
東野先生の部屋に真樹子先生を通し、お茶でも入れようと戻ってみると、いつの間にか橘とアブソー腹先生を伴った皮膚科先生と、――なんですか、後ろの医師団は? 白い巨塔の総回診ですか???
「東野先生、いらっしゃいますか? ちょっと見解をお聞きしたいのですけど」
「今、他院の先生がいらっしゃって、お話し中です」
「こちらは一刻を争うのだ。通しなさい」
「い、いや、こちらの案件も、相当重要な問題で……」
止める僕を脇にのけて、白い一団は東野ルームに突入した。入りきれない最後尾はドアの外から何とか中を覗いている。
嵐の過ぎ去った検査室に、ぽつんと取り残された僕と橘。
「何が起こったんだ」
「いや、放射線科で検査をした後、続々と先生が来られて、こうなった」
「??? その赤い筋、なんだった?」
「わからん。幼虫がどうの、ウジ虫がどうの、と騒いでいたが……」
全身に感染しているMeteobacteriaと、少なくとも2例は確認されている(しかも同時に!)体の中を這いまわるウジ虫(?)。これって、いやな予感しかしないんですけど。
久しぶりにMeteobacteria特別捜査チームのメンバーに声をかけた。上島も水瀬もまだ残っていて、すぐに飛んできた。
「生検してそのウジ虫を採取すべきよ」
水瀬が主張した。それはその通り。
「血清でIgEとか抗寄生虫抗体とか、調べるほうが先だろ」
全くその通り。僕たちの視線がレーザービームとなって橘を貫く。
「血を取るぐらいなら、今してもらってもいいんですけどね。その、ウジ虫を取るって……」
橘の顔がさらに青ざめる。
「しょうがないじゃないの。それが一番手っ取り早くわかる方法なんだから」
感染者の義務でしょ、感染したのを逆手にとってさんざん稼いで、と水瀬が詰め寄った。
いやいや、大金を手にした感染者も大勢いるけど、橘はそんなことしてないから。義務っていうのもどうかと……。
二人の間であわあわしているところに、白い一団の最後尾がこちらを向いた。手招きされている?
恐る恐る東野ルームを覗くと、東野先生の机の前まで、静かに道が開いた(モーゼの十戒ですか……)。
「今、皆さんと話したんですけどね。橘さんとアブソー腹先生が同時に発症した。これは偶然とは思えません。同様の症例が急増するのではないかと推測します。そして、Meteobacteriaとの関連も、疑うべきだと考えています」
緊急事態宣言の発令、ですか。
「詳細は省略しますが、今日のところは採血をさせていただいて、早いうちに寄生虫と思われるものを採取して検査することになりました。以後の対策は、全科横断でチーム編成を行い、病理科が主導します。では、これで」
ぞろぞろと部屋から出ていく一団。残された患者二名と検査関係者三名。これから予想される事態が脳裏をよぎり、口を開く者はだれもいない。
たったったっと軽い足音がして、蝶が舞うように入ってきたのは、内科の看護師さん。
「採血だけ、させていただきますね。……ちくっとしますよ~~~」
手早く採血を済ますと、また軽やかに立ち去った。特捜チームもお開きとなった。
僕も、これからの展開に備えて、今日は帰って寝てもいいですね?
一人で夜を過ごすのは心細い、と橘が一緒についてきた。アブソー腹先生は、もったいないぐらい美人の奥さんとかわいいお子さんが待つ豪邸に帰った。
一人でも狭い部屋に、大の男が二人。橘にベッドを譲って、ソファに横になった。なかなか寝つけない。
「そういえば、流星群の母天体。生徒に軌道計算させたら、ちょっと面白いことになってさ。大学で天文学やってる先輩、いるだろ。相談したら食いついてきて、今、共同研究中なんだ」
「面白いって、どんなふうに?」
「へへへ。知りたいだろ。残念だが、今はダメ。論文投稿するからさ」
「もしかして、宇宙人の飛ばしてきた代物、とかいうんじゃないだろうな」
「ノーコメント」
何だ、そりゃ。勿体ぶりやがって。もう寝るぞ。
「うわ~~~~~~!」
突然、橘が叫んで跳ね起きた。なんだ!? 心臓、止まるからやめてくれ!
「こ、ここ。動いてる。動いてる~~~!」
指さす先を見ると、橘のへそのとなりについた赤い筋の先端が、もっくりもっくりと確かに動いていた。
「昨日も夜に動き出したんだ。こんな感じに……」
やばいですよ。これは。橘じゃなくても叫ぶよ。
しばらく眺めているうちに、赤い筋は動きを止めた。見えなくなったけど、動いてる。内臓に向かっているような気がする、と橘は言う。赤い筋と対照的な、真っ青な顔で。僕たちは、朝まで一睡もできなかった。
翌朝。
病院に行くまでもなく、朝からニュースがひっきりなしに赤い筋について報道していた。やっぱり、二人だけはなかった。全国的に(いや、全世界的にかもしれない)同じ症状が、同時期に現れた。Meteobacteriaとの関連性が高い。いったい、どれだけの患者がいるのか。
出勤してみれば、病院の玄関には患者と報道陣が押しかけていて、大騒ぎ。裏の搬送口から静かに入る。
すでに血液検査の結果が届いていた。
――該当する寄生虫の抗体はなし。IgEの上昇も見られない。全ての数値がきれいに正常範囲内だった。二人揃って。
東野先生は、編成したての「赤い筋特別対策チーム」を講堂に回し、患者の対応を一気に任せた。そして、橘に、少し申し訳なさそうな口ぶりで、体内のウジ虫(仮称)を採取させてもらえるよう、お願いした。アブソー腹先生は外来の担当日で、体が空かないらしい。橘は、涙目でうなずく。災難なやつだ。
ところが、再度MRIで確認すると、橘の飼っているウジ虫は、全て体内の奥深くに移動していて、採取がかなり難しいらしい。安堵とは微妙に異なる複雑な表情を浮かべて、橘は病院から解放された。這い回る気持ち悪さ以外は症状もないので、とりあえずは様子見だ。
赤い筋特別対策チームの診察から、興味深い傾向が明らかになった。全員がMetrobacteria保持者で、体脂肪減少率が三〇%を超えている。感染以前の体脂肪率と、感染後の体脂肪減少率が大きい患者ほど、体内のウジ虫数が多い。そして、Meteobacteria数が減少。特に目立った症状は、ミミズ腫れを除いて、皆無。
「つまり、太った人の脂肪をたらふく食べて、育っちゃった結果が、このウジ虫なのね~」
いつの間にかもぐりこんできた真樹子先生が、大胆な仮説を披露した。細菌サイズからウジ虫サイズまで、成長するか、普通。と常識はささやくのだが、誰も反論できない。検査室の精鋭(?)を集めて結成したMeteobacteria特別捜査チームは、何も結果が出せていないのだ。異常な症状が出ていないことだけが、せめてもの救いか。あとはひたすらこのウジ虫騒動が去ってくれるのを祈るだけ……。
「そういえば、Meteobacteriaがほかの臓器でも見つかった件、忘れられちゃってるよね。この大騒ぎで」
真樹子先生が、もう一つの重要課題を持ち出した。
忘れてませんよ~、もちろん。ただ、対応するには手と頭が足りないんです~~~。
「県立病院では、その後、どうですか? うちでは確かに多臓器にMeteobacteriaの浸潤が見られますが、特に炎症の所見も見られませんね」
え? 東野先生、そんなところまで見てたんですか? あの大騒ぎを主導しながら? 前世は聖徳太子ですか。
「私のところでも結構いろんな臓器に見られるんですけど、特に悪さはしてないみたいなんですよね~。こっちも様子見ですね~」
涼しい顔で答える真樹子先生。
――よかったですね。感染しなくて。今、世の中の虫を飼ってる女性は大パニックですよ。
ウジ虫騒動から、早一か月。
不幸中の幸いにも、重篤な症状は出なかった。人々がウジ虫を宿した生活に慣れ、精神的ショックもだいぶおさまったころ。
記念すべき十個目の恒星間天体10I/2025 G1が発見された。驚いたことに、地球と月の間を通る軌道が計算されていた。最接近時はとてつもなく明るい彗星になるばかりか、彗星周囲のチリが人工衛星に当たるのでは、と予想され、これまた世界中が大騒ぎ。
当然、リベンジだ! あの大流星雨を見逃した恨みは忘れない。近日点通過の前後一週間は、大事を取って、解剖当番をすべて拒否した。
彗星観望会は、近日点通過の日。
夕方前から、山頂の観望会場には続々と人が詰めかけた。長い尾を引いた彗星の姿は連日見えているはずなのだが、天候に恵まれず、観測できる機会がなかった。今日は、雲一つない晴天。大成功間違いなし。地球最接近は、午後十時過ぎだ。
ウジ虫に大量の脂肪をささげた橘は、すっかりスリムになっている。精神的にもかなり強くなって、頼もしくなった。これを見る限り、Meteobacteriaはデブで軟弱な人類を鍛えるために現れた、神の使いなのかもしれないと思う。
日が暮れて、長い尾を引いた彗星が現れた。
圧巻だ。コマが大きく、満月をも圧倒するほどの明るさ。尾は太く長く、全天を覆うほどに広がっている。時間を忘れ、食い入るように見つめた。生きててよかった~~~。
天文部の生徒が、もうすぐ最接近の時間です、と叫ぶ。
隣に寝っころがった橘が、身じろぎをした。おい、こんなところで顧問が寝てていいのか?
口を開こうと視線を映した僕の目に映ったのは、……光る橘!
――念のため、光源氏とか、そんなこと言ってるんじゃないんですよ。光ってるんです。橘の身体が! ホタルのように体のあちらこちらが!
慌てふためく僕の耳に、一斉に叫び声が聞こえた。周りを見回すと、大勢の人が同じように光っている。その数、五割は軽く超えている。
橘は、無言で立ち上がった。意識は、ない? 天頂の彗星をじっと見つめている。何かに操られるように、体に光を宿した人々が彗星を見つめる。
――いったい、何が起こっている!?
橘の身体の光は徐々に強くなり、それにつれて輝いている部位が膨らんできた。身体から、金色が滲んでいる。
何かが、出てくる……?
染み出した眩く光るものは、長さ十五センチ、幅五センチぐらいの楕円形を膨らませたような形で、次第に形がはっきりしてくる。……それは、おそらく、誰の目にも明らかなもの。
サナギ、だ。
サナギの背中に一筋の切れ目が入る。中から、出てくるのは……。
静けさが、あたりを包んだ。
一瞬、眩く輝き、それは橘の身体を離れて、空を舞った。
――蝶だ! 金色の、大きな蝶!
橘だけではない。その場に居合わせた大勢から、同じように蝶が羽ばたき、夜空に輝きながら舞う。眩いばかりの金色の蝶。数千、数万の蝶が、ゆっくり金の粉を振りまきながら、空に昇っていく。ここだけではない。地平線まで、見渡す限り、金色の蝶、蝶、蝶!
これは――。脂肪の色だ。
無数の蝶が舞う夜空を見上げて、僕は確信した。Meteobacteriaが、あのウジ虫が、孵ったのだ。人間が蓄えた脂肪をエネルギー源として。金色の蝶に!
なすすべもなく見上げる人々の頭上を、黄金色の大河となって蝶が舞う。蝶の群れは次第にまとまり、流線形を形作ると、最接近中の彗星、恒星間天体10I/2025 G1に向かって飛び去った。
周囲にざわめきが戻ってきた。いったい、なんだったんだ……。
「あれ? どうした?」
橘が口を開いた。覚えてない? 大丈夫か? 傷は?
全身くまなく見てみるが、傷一つない。あの蝶が出て行ったというのに?
ああ、理解不能なことばかりだ……。
恒星間天体10I/2025 G1は、速度を上げて太陽系を去っていった。
Meteobacteriaやあのウジ虫は、どこにもいなくなった。病理標本からも。
長い夢だったような気もする。でも、確かに現実だった証拠に、スリムになった橘が、何かを手にいそいそとやってきた。
大流星雨の母天体、軌道計算の結果が論文になった。そればかりじゃない。驚きの結果だ。発表前だが、桜井には特別にリークしてやる。お世話になった病院の先生にも、こっそり伝えておいてくれ。
じゃじゃ~~~ん。
そういって、橘が誇らしげに見せてくれた論文のドラフトのタイトル。
『大流星雨の母天体9I/2024D1と、大彗星となった恒星間天体10I/2025 G1は、同一星系から飛来』
「どういうこと?」
二つとも、飛んでいった方向は違うだろ?
「太陽近傍での軌道はその通り。だけど、フライバイしてたんだ。狙ったように軌道を変えながら速度を上げて、ほら、最終目的地は、ここ。約七光年先のこの宙域に、恒星が見つかった。軌道計算の結果をもとにTOSS宇宙望遠鏡で調べたら、あったのさ。しかも、ハビタブルゾーンに地球型の惑星付きで」
そ、それって……。
Meteobacteriaは、地球人類からサンプルを収集するためのプローブ。大流星雨の時にばらまかれて、彗星に回収させた?
橘がゆっくりうなずく。
「ご明察」
――地球外知的生命体とのファーストコンタクト、か。
「桜井くん。先日試し撮りした電子顕微鏡写真ね、細胞質に見たことのないオルガネラがあるんだけど、サンプル、何?」
東野先生が資料を手に近づいてくる。
それは確か、念のため生検した橘の……。
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