沙森と五つの青い月

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梗 概

沙森と五つの青い月

湿気で溺れてしまいそうだ、と沙森に足を踏み入れたドゥドワは思った。

沙森は沙漠で死んだ生き物の魂を集め歩く水と緑の楽園だそうだが、森を待つ人マームヒタンが知れるのは砂漠の中に突如ジャングルが現れ、なにもかも飲み込んで消えてしまうということだけだった。噂では沙森の奥深くに黄金の街が眠っているそうだが、沙森が消えた跡に残る大量の肥沃な泥と、死んだ虫や鳥の羽根程度である。その森を昆虫採集家のヴォイチェクを案内して歩く仕事をドゥドワは請け負った。しかしいくらも行かないうちに巨大な生物が彼らを狙っていることに気づく。

ことは三ヶ月前。沙漠の内陸と沿岸部を結ぶ行商人として生計を立てているドゥドワは、相棒のルワィエをつれてヴォイチェクに標本を届けに行った。たまたま沙森が消えたばかりの村に行き当たったので、虫の死骸が手に入ったのだ。外国人のヴォイチェクはドゥドワからいつもかなり良い値で標本を買ってくれるお得意様なのである。しかしこのときは別の外国人がヴォイチェクを訪ねてきており、沙森の出現した場所のデータから、沙森が次に出現する場所を推測しようとしていた。ここ、マームヒトのあるゲヴラフナー星は五つの衛星を持つ天然環境で、しかも地球系人類の入植後に恒星が肥大化して環境が激変したため、その歴史を研究する外国人が少なくない。

彼らは沙森の出現が、ゲヴラフナー章動の周期と一致しているのではないかという仮説を持ち出す。どうもゲヴラフナーと公転周期を同一とする存在Xが、章動で地軸の傾きが最小になったとき、地表に顔を出しているように見えるというのだ。しかし物理物体では説明がつかないので、別空間あるいは別宇宙の存在ではないか?

彼らの話はよくわからないドゥドワだが、出現場所がわかれば待ち伏せもできるのではないかと閃く。ヴォイチェクもすぐに試してみようと乗り気だ。しかしルワィエは危険だとしぶり、ドゥドワと喧嘩になる。どうにかヴォイチェクがとりなして、ルワィエは外で見張りを、ドゥドワがヴォイチェクを案内して沙森の中を進むことにするが、旅の途中でルワィエとドゥドワは口もきかなくなるほどの喧嘩をしてしまう。

喧嘩の途中だったが、沙森が予想したとおり現れたので、ドゥドワとヴォイチェクは中に足を踏み入れ、夜だというのに飛び回る極楽鳥や不思議な形態の虫を採取しているうちに、巨大なヒルらしきものに狙われていることに気づく。ヴォイチェクが防護膜があるから大丈夫だと大見得を切るも、大ヒルの手で膜がやぶられピンチに。木を登り、ハンド反重力装置を使って上空へにげることにするが、大ヒルの口がどこまでも伸びて彼らを追いかける。ついに駄目かと思った時にドゥドワのサンダルが脱げ、それを大ヒルが飲み込む。それで満足したのか大ヒルは大量の蝶にかわり、沙森も砂の中へと帰っていく。ドゥドワはルワィエにしこたま怒られるが、仲直りする。

文字数:1200

内容に関するアピール

以前から沙漠の中に小さなジャングルが突然現れては消える絵を書きたかったのですが、ゲヴラフナー星なら章動(自転軸の微小なぶれ)の周期にあわせてそんなことも起こるんじゃないかと思えてきたので書きました。

沙森には質量があるため同次元に存在するとゲヴラフナー星がぶっ壊れると思うので、別次元とか別の宇宙とかに存在している何らかの生物が、たまたま自転軸が最大に傾いたときに現宇宙の3次元空間に投影されるなどということを考えていますが、実作ではそのへんの理屈はさっと説明する程度にして、巨大な生命体に狙われるドゥドワとヴォイチェクのアクションに注力したいです。

文字数:274

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沙森すなもりと五つの青い月

水の中にいるようだ。息をいくら吸っても、体の中に入ってこない。
 このままでは湿気に溺れてしまう。
 二の腕で汗を拭いながら、ドゥドワはそんなことを思った。
「おい、先生――」
 がくん、と足元が抜けてドゥドワはとっさに木の幹にしがみついた。足裏の下にあった木の根はきえ、すねが根の間でひかかっている。
 泥の底は見えない。
 木の幹に体を押し付けて、彼は足を引き抜いた。くるぶしを濡らす水は生ぬるい。もぞもぞとした感触に目を凝らすと、かかとに体をこすりつけるように腹をみせた魚が流れていった――死んでいるわけではないようだ。尾びれを振り、エラのあたりからはえる八本の角で水面をさぐりながら泳いでいる。
「なんか変なやつがそっち行ったぞ。足元、気をつけろよ」
「変な? 虫かね」
「あー……魚っぽいやつ」
 ああ、と落胆した声でヴォイチェクは返事をした。魚には興味がなかったらしい。興奮してつかまえてくれと大声を出されるよりはましだが、なにか釈然としない思いを覚えてドゥドワは口をまげた。
 それにしても暑い。
 じんわりといつのまにか汗が皮膚に浮いている。乾くこともなく、流れ落ちることもないのが不快だ。古代の人間はどうしてこんなところに住んでいられたのか、と思いつつドゥドワはまた一歩慎重に歩を進めた。
「おお! 見たまえ、こんなところに小さな……幼虫かな? やはり甲虫以外もいるんだな、ちょっとつついてくれたまえ」
 やだよ、と反射的にドゥドワは言い返した。虫を採取するための道具はヴォイチェクだって持っているのだから、自分でやればいいのだ。
 彼が指していたのは木の幹で体をもたげている蛇のような、紐のような生物だ。暗いので色はよくわからないが、表面には細かい毛が生えており、体液をその毛の先に玉状にしてくっつけている。枝から体を離し、頭を地面に向けて虫はゆらゆらと体を揺らして、水面から舞い上がる銀色のシャボンに反応していた。その生物の少し上あたりには同じように細長い虫が輪っかになって空中でくるくると回転している。羽もないのに宙に浮いているのは奇妙だが、沙森すなもりではなにが起きても驚いてはいけない。
 沙森すなもり
 誰が呼んだか、人は砂漠に気まぐれにあらわれる不思議な緑の楽園を沙森という。
 肌まで青く染まるエバーグリーンの木々がせめぎあうジャングル、その中ではいつも黄金色の雨が降っている。空を求めて梢を仰げば、暗闇にあってもほのかに発光する色鮮やかな鳥が歌っている。口々にさえずって仲間を呼び、ラピスラズリブルーの複葉羽根やエメラルドグリーンの喉袋をふるわせて愛をうたう。筒状の頭に喉を伸び縮みさせてうたう鳥を見たときはさすがのドゥドワも首を傾げたが、とにかく奇妙な形をした鳥が多いのも沙森の特徴だ。
 ここ、マームヒトは今でこそ砂漠の国であるが、かつては国土のほとんどを緑の森がしめる豊かな土地だった。緑は焼け付く太陽に追われて高緯度地方へと逃げていったが、森を待つ人マームヒタンは同じ場所で土地を守っている。いつか太陽が老いさらばえ、森がこの地へ戻ってくる日まで何度でも生まれ変わる。そんな森を待つ人を癒やし、砂の中からすくい上げるのが沙森の役目なのだ――
 と、詩人であれば情感たっぷりに語るだろうが、あいにくドゥドワは死んだあとのことなどどうでもよい人間である。彼の狙いは金だ。沙森の奥にあるという黄金の街をひと目でいいから見てみたい。彼のあとをついてくるヴォイチェクだって、不思議な生き物を採取できればなんでもいいのである。要するに二人は似た者同士なのである。
 ザザ……と突然音をたて真上の梢が揺れた。
 ぎょっと身をかがめてドゥドワは上空を仰いだ。正方形の布のようなものが梢に引っかかっている――と思いきや、それはふわりと風をはらんで飛び上がった。あれもどうやら虫か鳥のようだ。どう見ても絨毯か、せいぜい布にしか見えない。腹は毒々しいカナリアイエローで白い斑点がポツポツと浮き上がり、はためくたびに背のひだひだが草のようになびいている。奇妙な虫――虫なのか?
 汗を拭い、気を取り直してドゥドワは足をまた泥を探った。
 熱気と湿気の絡み合う空気が体の内側に入り込んだせいか、体が膨張しているような錯覚をする。肌が消え、夜の中に自分自身が溶け出しているような、そんな感じだ。
 ヴォイチェクと自分をつなぐ腰にくくりつけたロープをぎゅっとにぎり、ドゥドワは深く息を吸った。肺の奥底まで水が満ち、ますます息苦しさを覚えるが、彼の心はくじけなかった。泥の中に足が沈み込み、木の根に指が当たる。ギャアギャアと頭上で鳥が鳴いているが、姿は見えない。
 奥へ、もっと奥へ――
「君、待ちたまえ。じっくり観察をしなければ来た意味が……」
「意味なんてどうだっていいだろ。とりあえずとっといて後で調べろよ」
「いや、そういうわけには――……君――」
 ドゥドワはむっとしてヴォイチェクを振り返った。彼は腹を立てていた。それで、ヴォイチェクの声音の違いに気づかなかったのだった。
「なんだよ、うっせぇ――……え?」
 ぴくぴくとまぶたを痙攣させて、ヴォイチェクは指でなにかを示している。顔はこわばり、こめかみから汗が流れ落ちているのに、彼はそれを拭く仕草も見せなかった。
 嫌な予感。
 ドゥドワはふだん、勘は鋭いほうだと自負している。本当に勘が鋭ければ面倒事に巻き込まれないだろうと相棒のルワィエにはぐちぐち言われるが、金儲けのために危険なところに突っ込むのと勘の良さは全く別物だ。
 この時、ドゥドワははっきりと命の危険を感じた。無意識に腰のロープを握りしめ、音を立てないようにそろそろと背後――ヴォイチェクの指している方へと視線を送る。なんでもない。なにもない。ただのヴォイチェクの気まぐれだと願いながら、彼はゆっくりと息を吸った。
「……君、あれを見たことは……? あれも虫かね? やけに大きいが……」

 

ことのはじまりは七年前まで遡る。
 ドゥドワがヴォイチェクと出会ったのは、砂の包囲網に怯える小さなオアシスのほとりへ行商に行ったときであった。二日ばかり村のあらわれない地域を走ってきたのでドゥドワと相棒のルワィエはすっかりぐったりしていた。迎えに出た村人も口々に今日は休めと勧めてくれる。
「変な外国人が来ててさぁ、どこでも飯多めに作ってるからちょうどよかったな」
「外国人なんてみんな変だろ」
「いやぁ、あれはなかなかいない変人だよ。なんか沙森の虫がどうのこうのとか言ってて、今は村長とこにいる。あ、ちょっと話せば金くれるよ」
 はん、と相棒のルワィエが鼻をならしたが、ドゥドワは俄然乗り気になった。金はいいものだ。いくらあっても飽きないし、足りない。それを気前よくくれる外国人がいるなら、放っておくわけにはいかない。
 家を飛び出した十四の頃からずっと、ドゥドワは行商を営んでいた。いろいろと紆余曲折があったが、最近はルワィエという根っからの善人と組んで、内陸の小さな村へ行商にいくスタイルである。大きな街へ出るのが難しい内陸の小さな村は肉や果物を売りさばく仲介者が喉から手が出るほど求めているし、金払いも悪くない。楽ではないが儲かる仕事だ。
 ルワィエはつまらない男だし、手広く商売をする気も才覚もないが、行商の相棒としてはちょうどいい、とドゥドワは評価していた。まず金に汚くない。字の読み書きもできる。さらにドゥドワを砂漠の真ん中に放り出していったりもしない。
 一番都合がいいのは、ルワィエがとかく人に好かれるところだった。別段みてくれがいいわけではないと思うのだが――たしかに背はドゥドワより高いし、腹も出ていないし、ついでにいえば乱杭歯でもないが――、子供好きなのがいいのかもしれない。田舎の人間は子供の扱いに長けている人間を信頼する。独身のドゥドワより、妻子持ちのルワィエの方が気に入られるのが道理というやつだ。
 疲れたから寝るというルワィエをほったらかして、彼は酒を片手にいそいそと村長の家を訪ねた。丘の下に埋もれるようにある家の扉をあけると、甘い花の匂いが漂っている。家の中の者は特に驚きもせず、ドゥドワを歓待した。その部屋の隅で、ヴォイチェクは立派な口ひげまでひしゃげさせてしょげていた。
 茶色の髪の毛にアンバーの瞳、肌の色は白く、歳は中年から初老、焼けない体質なのか首と腕が真っ赤にはれあがり、濡らした布をあてて冷やしている。彼は犬のように萎れかえっていたが、ドゥドワを見るとにこりと形ばかりには愛想を示した。村長が一緒に酒でもどうかとすすめると、遠慮がちにグラスを受け取り、ちびちびと飲む。付き合いはいい男のようだ。
「先生よ……真っ昼間に半袖で外出ただろ。無茶してると死ぬぞ、気をつけろよ」
 挨拶もそこそこにドゥドワは先制した。先生と呼んだのが良かったのか、ヴォイチェクは首をすくめて小さくなっただけだ。そのまま、なにをしにこんな内陸くんだりまで来たのかと話を向けると、笑顔になって昆虫採集家であることを暴露する。本当はマームヒトのかつての様子を調べているのだが、虫のこととなると頭のネジがふっとんでしまうらしい。
 ちびちびと酒をのみながら、ドゥドワは虫の話も聞いてやった。くだらないように思われても、外国人の話にはかならず儲け話のネタがある。たとえば砂の中に眠る古代の遺跡のかけらだとか、化石だとか、掘り出されてうっちゃってある古技術を使った道具だとか、そういうがらくたに外国人は目がない。びっくりするような金を出すこともある。
「沙森にはね」注釈もなく突然彼は言った。マームヒタンなら誰でも知っていると思い込んでいるらしい。「昔の虫や生き物がいまだ生きてるらしいんだよ。それで噂をたどって旅をしているんだが、なかなか出会えなくてねぇ」
 間違いない、とドゥドワは確信した。ヴォイチェクは完全なる狂人だ。こういう狂人は金に糸目をつけない。使える。
「君は沙森をみたことはあるかね」
「そりゃあることはあるけど――」
「なんと!」
「けど、ふつう危ないから近寄んねぇよ」
「あぶない、とは?」
「沙森ってのは砂の中から出てきたり引っ込んだりするだろ。引っ込むときに飲み込まれたら泥ん中でぐちゃぐちゃになって死ぬんだってさ。あとは――沙森ん中には使い切るのに何千年もかかる黄金の街があるらしいんだけど、見に行って帰ってきたやつはいないんだ。なんか森の中に人間を食っちまうやばいやつがいるんだってさ。沙森が消えたあとに黄金が残ってりゃ追いかけるけどさ、泥しかないしね。ま、たまに死んだ虫が落ちてることもあるけど……」
「泥と死んだ虫――」なるほど、とノートをひろげて、ちびちびと彼は文字を綴った。「君はそれ以外のものはみたことがあるかね? 葉っぱや木や、落ち葉なんかでもいい。あるいは……小枝、鳥の羽や……石、魚、骨、とにかくなんでもいいんだが」
「出てるのを遠くから見かけたことはあるけど、そんときゃ森の上の方でなんか飛んでたぜ。鳥かな? 今度見つけたらなんか持っててやろうか? 泥も一握りくらいなら運んでやるよ」
「本当かね! 泥があるだけでもだいぶ違う、すごい、すごいぞ!」
 ぱっと顔を輝かせ、ヴォイチェクは前髪をかきあげた。仕立てのいい服を来ている彼だが、内陸まではるばる旅をしてきたせいか、襟元はヨレヨレ、もとは白かったであろうシャツは砂色になり、中衣はほこりっぽい。ズボンにも引っ掛けて破けた箇所があり、苦難の道が伺われるのだった。こういう男は首都シテで珍しいものが持ち込まれるのをただ待っているべきだ。そしてドゥドワが彼の希望どおりにものを持ち込んだら、金を払って買えばいい。ドゥドワの懐は潤うし、彼は危険な目に遭わずにすむ。
「お代はそれなりにいただくけどね。いつでも見つかるわけじゃないし、危険もあるし」
 ヴォイチェクはおっとりとした顔をあからめてもちろんだ、とドゥドワに握手を求めた。
 交渉成立だ。

 

「だぁからさっき行っとけっていっただろ、ったくよぉ」
「怒鳴ったってしょうがないだろ、子供なんだから」
「子供だって小便したいかどうかくらいわかんだろうがよ! だから連れてくんのは嫌だっていったんだ!」
「バカ言え。置いてきたら死ぬだろ」
 石段を一歩ずつ登りながら、ドゥドワとルワィエはずっとそんな喧嘩をしていた。
 マームヒトの首都シテは、海からやってくる雲のもたらす恵みの雨と、地表から染み出した水が海に向かって流れ落ちる扇状地の上にあるおかげで、エメラルドの愛称でも呼ばれるほど緑豊かな街であった。港から一キロメートルのところにある中央噴水から八本、放射状にのびる水路にそって街は外側に広がっている。南は庶民の台所である埃っぽい市場、西には外国からの荷が届く国際貿易港、東は国際空港に北は丘陵地帯の高級住宅街と街の色彩も豊かだ。一旦市場によった後、二人は外国人の邸宅が多い、海を一望する岸壁沿いの道をてくてくと歩いていた。
 石段は日陰で涼しく、頭上に生い茂るアカシアの花が、清々しい匂いを漂わせている。虫の這う階段を一歩一歩登りきれば、ヴォイチェクの屋敷だ。
 二人がヴォイチェクに会いに来たのは、行商で移動中、砂から顔を出した沙森に出くわしたせいであった。沙森はちょうど村を飲み込んで沈んでいこうとしているところで、村人は森とともに消えた。たったひとり、まだ言葉も拙い子供を残して――
「ははあ、君が噂の沙森の住人かな?」
 扉をあけたヴォイチェクの開口一番の言葉は、たった一人の生き残り、シャティウのことであった。大げさに両手を広げて歓待してくれたのに、シャティウはぷいとそっぽを向いてルワィエの肩に額を押し付けている。ヴォイチェクが闊達に笑ったのでよかったものの、ドゥドワはひやひやした。やはりコントロールのできない子供なぞ連れてくるべきではなかったのだ。
「手紙を読んで心待ちにしてたんだよ。かわいそうに……引き取り手は?」
「うちで引き取るよ。あんまり面倒見るやつが変わっちゃ落ち着かないだろ。な」
 二人の立ち話はそこそこに、いつもの書斎の扉を押し開ける。荷をおろそうとして、ドゥドワははっとした。
 北向きの部屋はひんやりとして、すがすがしい香りに満ちている――庭に咲き乱れるアカシアの匂いだ。あけはなした窓のそばでは、蜂がブンブンと不穏な音をたてて働いているが、熱気は部屋の仲間では入ってこなかった。白いぼんやりとした光の差し込む室内はいつもどおり本だらけでかび臭く、せっかくの大きなソファも紙束や本に占拠されてほとんど座る場所がない。
 しかし彼を驚かせたのは部屋の様子ではなかった。
 来客が二人。
 知らない少年と外国人の男である。
 男のほうはヴォイチェクより少し若いくらいだろうか。眼窩が深く、その底には青みがかった灰色の目玉が光っている。髪の毛はサンドグレーで、十人いれば十人が彼を外国人だと言うだろう。薄い唇を真横に結んで生真面目そうだ。しかし、ドゥドワはさっと彼がシャティウから視線をそらしたことを見逃さなかった。子供は苦手なタイプだとみた。
 一方、少年は好奇心たっぷりの黒目がちな目を見開き、口元に力を入れて一生懸命に口を閉じている。褐色の肌に黒髪、黒瞳、たぶんマームヒタンだろう。シャツに長ズボンという出で立ちだが、足元はサンダル、髪の毛は短く刈り込んでいる。彼は声変わりも終えていない甲高い声でこんにちは、と礼儀正しく言った。
「その子も探検家?」
「あ? ちげぇよ、俺たちは行商人、そいつはただのおまけだ」
 おまけ、と少年は首を傾げた。しかしすぐにソファから立ち上がり、シャティウを手招きする。
「彼はハジ・ヤズヂ。えーと、どこから来たんだったっけな?」
「アスクヌラムル。海岸線を一日北に行ってちょっと東に行ったところにあるんだ」
 知らない村だ。どこかで聞いたことがあるような気はするが、北辺はドゥドワたちのテリトリーではない。
「ハジは惑星運動についてすごく詳しくてね、理論のこととなると一番頼もしいんじゃないかな。で、そっちは惑星考古学者のクライヴ。沙森のことにはあまり関わってないが、同業者だから定期的に情報交換をしているんだよ」
 よろしく、と落ち着いた声でクライヴは言って握手を求めた。外国人で行商人のドゥドワに握手を求めたのは二人目だ。もちろん、一人目はヴォイチェクである。

 飲み物を持ってくると言ってハジが走り去り、シャティウが催促したのでルワィエがあわててトイレにはしり去ったので、やれやれとドゥドワはソファに腰をおろした。どうも子供がいるとバタバタして落ち着かない。ハジくらいならまだしも、言葉もはっきりしない年齢のシャティウはいくらいいきかせても荷台の商品をひっくり返すし、お金をおもちゃにしたりかじったりするし、勝手に迷子になるし、とにかく手がかかるのだった。それでシテに戻ってくるまでもルワィエと何度も衝突した。ドゥドワは子供が嫌いだ。できれば関わり合いたくない。
「さて……それで、実物を見た――と聞いたんだが」
「そ。俺たちが見たのは沈んでいくとこだったんだけど、いちじく畑の向こうにさ、家より大きな木がウワーッって揺れてて――結構でかかったよ。ちょっとでも中を探検できりゃよかったんだけど、シャティウをみつけちゃったんでね、そんな時間もなくて。とりあえず標本も作ったけど、生きてる虫も採取してきたよ。いつもと違ってなんか柔らかいやつもいたし、あ、あと泥と、葉っぱもある」
「すごい!」
 大きな分厚い手を打ち合わせてヴォイチェクは高い頬骨を赤らめた。目が興奮にきらめいている。
 荷物の麻袋に手をつっこんで標本を取り出す。ソファの前にあるローテーブルは表面がうっすらと光り、地図が浮かび上がっている。地図上には色とりどりのピンが刺さっており、なにかを主張するように文字がその横に添えられていた。ドゥドワは文字がよめないが、地図くらいは読める。これはマームヒトの地図だ。それが面映リュートに投影されているというわけだ。
 紙の地図でないなら、上になにを載せても構わないだろうと、ドゥドワは麻袋から木箱を取り出して机の上に載せた。クライヴという男は寡黙なタイプのようで声を発しないが、箱をあけるとぐっとソファの背に体重をかけて身を乗り出す。この男となら仲良くやれるような気がする。
「ああ、きれいに標本にしてある……すばらしい……」
 少しかすれた声でクライヴはつぶやいた。
「こっちの木箱の中もいつもより状態がいいんだけどさ、でも今回の目玉は、こっちだ」
 ブリキ缶を片手でつかみ、机の中央にどん、と置く。はっと息を呑んだクライヴとヴォイチェクが身を乗り出したので、ドゥドワは指を振って鼻を突っ込まないようにと注意した。そしてゆっくりと蓋がわりの麻布を取り外す。
「おお――……」
 さりさりと左右非対称の十本足を動かす虫が入っている。一番前の右足だけがいやに長く、その足のせいでぐるぐると回転するようにしか移動できないらしい。体は蛍光にちかい緑色で、暗闇の中でも仄かに発光する。沙森に住む昆虫の餌など知らないので、沙森のあとにのこされた泥をしきつめ、乾かないように水をやり、適当にビーツを放り込んでみたが、日に日に動きは悪くなり、弱くなっているのは間違いない。熱が良くないのか、乾燥が良くないのか、餌があっていないのか、とにかく生きたまま連れて帰ってこれただけでも大変なことだ。
 すごい、とクライヴは感心した調子で声を漏らした。ヴォイチェクも目をぎょろりと見開いて息を止めてしまっている。客の反応がいいのは喜ばしい。普段は行商などクソくらえと思ってばかりだが、苦労して仕入れた品が喜ばれる時だけは報われた心持ちになるのだった。
「ココナッツジュースなかったからオレンジジュースにしたよ――あれ? さっきの子は?」
 独り言にしてはやけに大きな声を出して戻ってきたハジは入り口でぱたりと足を止めた。二人はまったく反応しなかったが、ハジもぱちぱちとまばたきをして、どういうわけかにっこりと笑う。なれているらしい。仕方がないのでドゥドワは便所だよ、と答えてやった。シャティウにくらべればハジは大人に近い。話くらいはしてやってもいい。
「じゃぁすぐ戻ってくるね。おじさんも水飲むよね」
「そりゃここまで登ってきたからな、喉がカラッカラだよ」
 意外なことにハジはあまり昆虫に興味がないようだ。ちらりと視線は送ったものの特に顔色もかえず、水差しからグラスに水をそそぎ、笑顔でドゥドワに手渡してくれる。
「沙森ってほんとにあるんだね。僕、伝説だと思ってた」
 ソファの背もたれに軽く腰掛けて、人懐っこくハジは話を続けた。ドゥドワはそっとルワィエの影を探したが、こんなときに限って姿も形もない。
「さっきヴォイチェクさんに出現場所のリストをもらったんだけどさ、あ、そろそろマッピングできたかな? すごいよね、赤道直下から緯度が七度くらいのところまでにしか出現しないみたい。えっとね」
 ドゥドワの相槌をまたず、彼はグラスを片手に空中に四角をなぞった。軌跡がぼんやりと光り、すぐに面になる。面映ルュートだ。
 くるりと面映を裏返した彼は口を尖らせて背面を指でなでた。もたもたした仕草だったが、光っていた面がふっと消え、円柱状に変形する。あきれたことに立映テケも使えるらしい。立映の中心には青と緑のマーブル模様の球が浮かび上がっている。
「これ、ゲヴラフナーのモデルだよ」
「…………」
「で、ここが――みえる? ここがマームヒト」
 ぐっとドゥドワはこらえた。ハジがなにを言っているか全く理解できない。だいたいゲヴラフナーがなぜ球なのか? しかし、子供でも知っていることを知らないとばれたら商売がしにくくなるかもしれない。わからないときは黙っているに限る。
「で、沙森の現れたところを時系列順にピンで示してみたんだ。現れた日時は正確じゃないけど、過去十年分はあるから数ヶ月なら誤差みたいなもんだよね。見える? もうちょっと大きいほうがいいかな」
「その緑のピンが沙森なのか?」
「うん」
 ぱっと顔を明るくして元気よくハジは返事をした。彼の手元で緑色のピンが球のなかから浮かび上がったり沈んだりしている。
「僕、これってランダムじゃないと思うんだ。絶対法則があると思う。でね、考えたんだけど、ゲヴラフナーって月が三つもあるでしょ。だから結構複雑な章動運動をするんだよね。それと関係してるんじゃないかと思って――ほら、潮の満ち引きとかも月と関係してるって話だし、こういうのはまず天体運動を疑わないと」
 目がぐるぐるする。ハジがなにを言っているのかまったくわからない。幸いなことにクライヴが標本から視線を剥がして、ぐい、と首を捻じ曲げたので、ドゥドワはほっとした。
「章動運動の周期と一致した?」
「ずれてるところもあるけど、なんかそれっぽい感じだよ。見て、だいたい自転軸の傾きが最小になる時に出現してる。数値を見て誤差評価しないとわかんないけど、全く外してることはないんじゃないかなあ」
「でも、それならマームヒト以外に沙森が出現してもおかしくない」
「ほかは全部海だよ!」声をたててハジは笑った。「ゲヴラフナーの赤道直下にある大陸はマームヒトだけ、でしょ? しかもマームヒトってほとんど水没して高地しか残ってないから、そのせいで出現回数が少ないのかも。このあたりの森林は砂漠化する前なら照葉樹林だったはずだし、ジャングルなんて絶対おかしいよ。その点、今は海の中にある場所は赤道直下で熱帯だったと思うから、ジャングルを擬態するってのは理にかなってるよね。出てきてても誰もわかんないし。シミュレーションしてみたのは――これ。赤い球で示してるやつ」
 ハジが立映を親指で押さえると、赤い球が青緑色の球に重なるようにして現れた。非常に小さい。ふうむ、とクライヴが息を吐いた。
「恒星からの距離がゲヴラフナーとほぼ同一の物体で、月の引力の影響を受けないくらい小さい……あるいはゲヴラフナーを中心に公転している第四の月で、章動の周期によって地表からは現れたり消えたりするように見える。でも」
「質量のある物体だとすると説明がつかないよね」行儀悪くクライヴの声を遮ってハジは両手を広げた。「ゲヴラフナーとの相互作用もあるし、それにそんなものが内部にあってゲヴラフナーとは独立に動いていたら星がばらばらになっちゃう」
「そう、だね……もしかしたら別次元にあるとか、異星種の持ち物とか……」
 それか、と黒目がちの瞳を持ち上げ、ハジは挑戦的な笑みを浮かべた。「違う宇宙にあるとか。どう? ゲヴラフナーがその接合点になってるんだ」
「また大胆な仮説を立てたね」
 クライヴの声には笑いが含まれているが、ドゥドワはちっとも笑えなかった。二人の話はまったく理解できない。だが、彼にも気づいたことがひとつだけあった。
「おい、なぁ、それって、沙森を待ち伏せできるってことか?」
 あー、と曖昧な返事をしてハジはこめかみをかいた。しかしすぐににっこりと大人の笑みをうかべ、うん、と明快な返事をする。そのアンバランスさにドゥドワは少し不安を覚えた。
「ほんとか?」
「うーん、確実とは言えないけど可能性は高いと思う」
「できんのかできないのかどっちなんだよ、はっきりしねぇな」
「できるかどうかっていわれたら、できるかな。空振りすることもあるかもしれないけど」
 顎をひいてドゥドワは少し考えた。どうもハジの返事の軽さと曖昧さには疑惑を覚えざるを得ない。
 しかし、もしも、だ。もしもハジの言う通り沙森を待ち伏せできるのなら、これはたいへんな朗報だ。虫を捕まえるのもはかどるし、沙森の奥底に眠るという黄金を少しでも持ち帰ることができるかもしれない。今までは偶然出くわすのを待つほかなかったので、十分な準備ができなかったが、沙森を捕まえに行けば対策もとれるのではないか? 人を雇うことだってできるだろう。
 いい。
 金のにおいがする。
「おい」
 不意にルワィエの険しい声が飛んできて、ドゥドワは顔を上げた。いつの間に戻ってきたのか、シャティウを抱いてルワィエが眦を釣り上げている。またうだうだと言って邪魔をする気だ。
「んだよ、いいだろ」
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ、沙森には近づかないほうがいいっていつも言ってんだろ」
「いいじゃねぇかよぉ、ちょっとくらい……」
「なあにがちょっとだっ、知んないなら教えてやるけどな、沙森ってぇのはな、危ないんだぞ」
「そんくらい知ってるっつうの! うっせぇな! だいたい中に入ったやつがほんとに死んだかどうかもわかんねぇだろ、そのガキの親だっていまごろ砂の中だって気づかないでウロウロしてるかも――」
 お母さん? と明敏にシャティウが反応した。落ちかけたまぶたをもちあげ、口をとがらせている。
 しまった、とドゥドワは慌てて口を閉じた。カッと顔を赤くしたルワィエが大きく息をすって、今までに見たことのない表情でドゥドワを睨みつけたことはわかったが、それに答えられなかった。今の発言はまずい。
「おまえ……! この子の前でよくそんなこと……!」
「いや、さ――」
「言っていいことと悪いこともわかんねぇのか、このバカ! 短足! 頭ん中に貯めてんのはカネか? だからそんなにバカなんだな!」
「ああ?」
 カッとなってドゥドワはすごんだ。ようやく、まあまあ、まてまて、とヴォイチェクが緊張感のない声で仲介に入ったが、いくら儲け話が最優先のドゥドワでも許せることと許せないことがある。
「待ちなさい、子供の前でそんなおおきな声だして……」
「もう我慢ならない、我慢ならないぞ! 二度とお前なんかと一緒に商売するか!」
「はあん、いいよ、別に。勝手にすりゃいいだろ、俺はたんまりアイデアがあるんだ、お前なんかいなくたってどうにでもなるね。泣くのはそっちだろ、とっとと村に帰ってかーちゃんに泣きついてろ」
 なんだと! とルワィエは珍しく腹から怒鳴った。びくん、と彼の腕の中でシャティウが小さくなる。しかしどういうわけかシャティウは泣き出さなかった。それどころか目を輝かせ、降りると主張するようにルワィエの胸を押しのけている。めざとくその変化に気づいたヴォイチェクがため息をついて、彼の体を支えた。
「俺はなぁ! 最初っから反対だったんだっ! だいたいこないだだって適当に騙して売っただろ、お前のそういうところがホント――」
「金儲けしてなぁにが悪いんだよ! ちょっと話を盛っただけだろ、あっちだって喜んでんだからオアイコだよ! いちいちグチグチうるせぇな、その石頭でココナッツでも割ってろ!」
「ぼく、お父さんとこ行く」
 ああ、とクライヴはがため息をついた。こめかみに手をやって、静かにしている。その隣でハジはまだ笑っていたが、シャティウのきらきらとした甲高い声には顔をこわばらせ、なんとも言い難いというような大人の表情になった。
「お父さんは忙しくて、しばらく帰ってこれないそうだよ」
「お父さん、沙森にいるもん。お母さんもいるよ! ぼく、迎えに行く!」
「はあ、君は賢いな。なんでもわかってるんだな」
 にこにこと笑顔を取り繕ってヴォイチェクはシャティウに答えた。口ひげをむんずと掴まれても笑顔でいるのはたいしたものだ。
「おじさんも沙森に用があるんだが、一緒に行くかい?」
「いく!」
「おお、頼もしいな!」
 ああ、とルワィエは顔をしかめて顎をそらした。ドゥドワも半分は同じ気持ちだった。

 

ルワィエが口をきいてくれない。
 ルワィエが口をきいてくれない理由はわかっている。金儲けの口実にシャティウをつかったこと以外考えられないが、勝手に勘違いしたのはシャティウだし、それに乗ったのはヴォイチェクである。ドゥドワは口を滑らせてしまっただけだ。まったく納得がいかない、と彼は思った。悪いのはムキになっているルワィエではないのか? シャティウだって両親がみつかるならそのほうがずっといいし、当人だって沙森のことを楽しみにしている。ドゥドワの一体なにが悪いのか?
 ルワィエの村で暮らすうちにシャティウは急に語彙がふえ、ルワィエが相手をしてないとドゥドワかヴォイチェクのところへ自分からやってくるようになった。そしてぺちゃくちゃと断片的なことを話しては、するっとルワィエのところに戻ってしまう。会話が成り立たないので、ドゥドワはシャティウが苦手だ。そんなシャティウだが、沙森を探しに行くという夢はけっして捨てなかった。それを頭ごなしに言い聞かせるのは、さすがのルワィエもできないだろう。
 クライヴとハジに同行を断られてしまったので、いっそうドゥドワとルワィエは気まずくなった。内陸に向けた出発の準備の話や、ヴォイチェクの提示した報酬額の割当だとかで最低限の話はするが、それ以外の無駄話がきえてしまうと気まずくてやっていられない。
 ヴォイチェクの依頼が完了したら、冗談でなくほんとうに関係が切れてしまうかもしれないとやけくそ気味にドゥドワは思った。でもルワィエは都合のいい相棒だったが、もっといい相棒がいるかもしれない。どうとでもなれ、だ。
 シャティウを拾ってから十ヶ月が経っていた。
「心配することはないさ。我々には最新鋭の科学がついている」
 ハジが予想した沙森出現時間まであと三時間というところで砂漠の果てに陽が落ちる。太陽は真っ赤に溶けた鉄のように砂を焼きながら広がり、一筋の線を残して消えた。陽が落ちれば急速に気温もさがって、すっかり夜だ。
 極めて上機嫌に風景の撮影をしていたヴォイチェクもさすがに腹が減ったか、串に刺して炙った肉を頬張っている。どこへ行ってもなにを見ても喜んで報告する彼はまるで子供だ。子供ほど理不尽なことはしないが、雇い主ということもあって強くはたしなめることができないのでそれはそれでイライラする。もっともシャティウと違って放っておいてもトラックの場所に戻ってくるし、食料の調達も自分でするし、誘拐される心配をしなくていいのでずっと楽ではあるのだが。
「最新鋭の科学?」
「そう!」
 大げさに手をひろげ、ヴォイチェクはにっと歯を見せた。ずっと頬杖をついて不機嫌な顔をしているルワィエはなにもかもが嫌になったという表情になってしまったが、そんなことにくじけるヴォイチェクではない。
「なんとだね」
「なんだよ」
「空を飛べる!」
「飛行機か?」
「いやいや、そんな大げさなマシンは必要ないよ。反重力装置をちょっと改良して空を飛べるようにしたのさ。ま、使わなくてすむことを願うばかりだがね。それとだね、ええと――」
 ごそごそとポケットの中をあさって親指くらいの大きさのブロックをいくつか取り出した。その中の一つを彼が指で叩くと、緑色のランプが点滅を始める。緑色のランプと同期して、彼が手首にはめている腕時計も光ったのでドゥドワはなんとなく納得した。
「これは君に。君もだ」
 ブロックをひとつずつルワィエとシャティウにおしつけて、またヴォイチェクは笑顔を作った。シャティウもその時ばかりはまつげをぱっちりともちあげて小さな手でブロックを握りしめた。
「外から見て沙森が沈み始めたら連絡してくれたまえ。内からではわからない兆候もあるかもしれないからね。なぁに、難しい操作はないから大丈夫だよ。それに向かって話しかけてくれれば私の耳に届くから大丈夫さ。安心したまえ。こう見えて私もいろいろと修羅場をくぐっているんだよ」
 パチン、とヴォイチェクは片目をつぶった。
 疑わしい。
「ぼくも行く」
 ブロックを両手で握りしめて、珍しくシャティウが意味の通ることを言った。口をぎゅっと結んで、大きな目を見開いている。ルワィエが無言でドゥドワを睨みつけたので、ドゥドワは顔をそらした。
「気が急くかもしれないが、今回はお留守番しててくれないかな。まずは調査をしなくちゃいけない。調査ってのは――わかるかな? ちょっと見てくるってことだよ。お母さんとお父さんを連れ出すためにはどうしたらいいか見てくるのさ。もしかしたら怖い動物がいるかも知れないし、たくさん泳がないといけないかもしれないし、誰かに捕まっているかもしれないからね。大丈夫そうだってわかったら、君も連れて行ってあげよう」
 難しかったのかシャティウは少し首を傾げている。大きな目に焚き火のあかりが映って泣いているようだ。
「……ほんとう?」
「ああ、約束するよ。今頃お父さんとお母さんも君に会いたがってるにちがいないから、もし会えたら君のことを伝えてこよう。だから今日はちょっとがまんしてお留守番しようね」
 両手でブロックを握りしめ、しばらくシャティウはなにかをけんめいに考えていた。それから、大げさに息を吸い、深々とうなずいたのだった。それが二時間前である。

 

ドゥドワは我に返った。くだならい回想をしている場合ではなかった。
「ヒル、かな……? しかし少し大きいな」
「少しってもんじゃねぇだろ! でけぇよ!」
 泡を食って思わずドゥドワは叫んだ。叫ぶと湿気が喉につまり、えづきそうになる。
 鎌首をもたげ、巨体は静止している。大きな蛇に見えないこともないが、目や鼻のような器官は一切露出していないつるりとした外見で、梢からわずかに漏れ落ちる月明かりが映っているためか、黒い体の表面は金を蒔いたような模様が浮き上がっていた。大きさは人の半分くらい。
 なんとなくまずい気がする。
「どうする」
「ん? いやあ、あれを採取する方法はちょっと……組織を取れればいいんだが……」
「バカいえよ! どうやって捕まえんだよ! 逃げるんだよ! あれ、ぜってーやばいって!」
「待ちたまえ、せっかく見つけたのになんてもったいないことを言うんだね。我々には最新鋭の科学が誇る防具がついているといっただろう。ちょっと近づいてみよう」
「まじかよぉ……」
 ぐう、とヒルが首を後ろに反らした。
 まずい。
 勘付かれたかもしれない。
 反射的にドゥドワは幹にしがみついた。
「う――――わぁ!」
 とがった先端が突然八つに割れ、中から飛び出してきた黒いムチが空を切って飛びかかってくる。悲鳴をあげたドゥドワの前にずい、と進み出たヴォイチェクが落ち着いた様子で両手を広げなければ、ドゥドワは一瞬で溶けてしまっただろう。
 バチン! と派手な音を立てて白い閃光が散る。
 まるで同期するように水の中でも青い光がまたたいた。ギャアギャアとうるさい声をたてて鳥が飛び立ち、森の中が騒がしくなる。
「ありゃ……まずいな。壊れてしまった」
「やっぱりやべぇじゃねぇか」
「たしかに逃げたほうが良さそうだな。木に登りたまえ。上空から脱出しよう」
 いやにヴォイチェクが素直だ。しかし四の五の言っている場合ではないとドゥドワは木の又に足をかけ、体を持ち上げた。つるがからまった木の幹は思いのほかしなやかで、彼が体重をかけるとぐう、と傾いてしまう。上空の鳥の鳴き声がますます騒がしくなり、あちこちから色鮮やかな鳥が飛び立つのが見えた。森の中は騒がしく、危険な空気に満ちている。
「おっさんも早くしろ! 水の中は危ないぞ!」
 ヌメヌメはまだ鎌首をもたげている。先ほど飛んできたムチは消え、黒い体のあちこちから銀色のシャボンが湧き上がっている。うざったいほど飛んでいたあのシャボンはこの生物が発していたらしい。いつの間にか足元の水もうす青く発光し、ヒルの輪郭をくっきりと闇の中に描いていた。泥を詰めたような体の中では泥水がゆっくりと渦を巻いているが、その中に金色の粉がちろちろとゆれ、少しだけ尖った先端に八分割のきれめがうっすらと見えた。
 理屈はわからないが、ドゥドワは直感した。
 このヒルはこの森そのものだ。この森全体が彼らを捕食しようとして狙っている。
 枝に手をかけるたびに木が大きく揺れる。意外に俊敏に木の又に足をかけたヴォイチェクもすぐに追ってきたのでドゥドワはほっとした。ロープにはまだ余裕がある。どこまで登れるかはわからないが、ここから逃げるにはヴォイチェクを頼るしかない。
「おお……体が水の中に……貝の仲間かな? それとも虫か――ううん、なんとかして組織がほしいなぁ」
「おい!」
「ああ、次来るときは動画装置を持ってこなければ……みたまえ、水中でヒレを動かしている――光が二つ……あの光はもしかしてこの生物が? ふうむ、なかなか興味深いな……」
「なんでもいいからはやくしろよぉ! 近づいてきてるじゃねぇかよぉ!」
「あの斑点は皮膚の模様かねぇ、それとも内臓器官かな? 金色に見えるが――それとも浮袋的な役割なのかな」
「御託はいいから早く登れ! 食われるぞ!」
 ヒルは水面を滑っている。ヴォイチェクが指しているところには水紋がみえるが、はたしてそれがヒレなのかどうかドゥドワの場所からは見えなかった。しかし水紋の下に揺れる青いふたつの光は見間違いようがない。
 なにかが発光している。泥の奥、遥か底でなにかが発光している。まるで水の底から空を見上げたときのようだ。
 鎌首の先端がとがり、八ツ口の切れ目がじわじわと広がっている。といっても目があるわけではないようで、なにかをさぐるように先端を少し開いたまま宙で円を描いている。嗅覚で獲物の居所を探っているような動き、ヴォイチェクが見つけて喜んでいたあの紐虫に酷似している――
 無我夢中でドゥドワはヴォイチェクに手を伸ばした。ヴォイチェクがドゥドワの手首を掴むと同時にヴヴヴゥゥ……と静かな音が始まり、鏡のように静かだった水面がさざなみだつ。
「!?!?」
 木の根元から目を刺す青い光がほとばしる。光の中から何本もの紐がのびてくる。彼らを絡め取ろうとのびてくる。紐のうしろにはぱっくりと開いた闇が控えている。
 ドゥドワは思わず目をつぶった。枝が背中をこすり、バチバチと皮膚を叩く。頭をおさえつける強烈な力に骨がばらばらになって、体がぺしゃんこになる、と思った瞬間、すべての力がかき消え、上下の感覚が消えた。ひゅうひゅうと耳元で風が唸っている。
「うへ――」
 ドゥドワは目を開いた。ぐらぐらと体が揺れ、いつの間にか左手で掴んでいたロープが手首に食い込んで痛い。しかしここまでくれば、あの変な生き物もあきらめる――
「うげぇ! 来てる!」
 足元にぐんぐんと闇が迫っている。闇に蒔かれた金がピカピカと嘘くさいまでに輝いているのに、わずかに割れた切っ先のその奥は完全なる闇だ。ドゥドワの足元すれすれに迫った生き物はくわり、と八ツ口を広げた。
 彼は無我夢中で足をかいた。それでどうなるなどとはとても考えられない。粘つく湿気を手のひらが押し、限界まで薄くのびた世界の境界を突き破る――
 パチン! と境界が弾け散った瞬間、彼のよく知った砂漠の夜の風が肌をなでた。水の匂いも泥の匂いも、あるいは鼻にねじ込まれる緑の青臭いにおいも堆積した死の匂いもかき消え、なにも存在しない砂漠の存在を肌で感じる。湿気の膜を押しつぶすように迫った生き物の口がひしゃげ、境界のあたりがうっすらとまた青く発光した。
「おお……!」
 ヴォイチェクの声に熱がこもっている。
 境界を染めた青い光が、ちぎれて小さな球になり、バラバラと落下する。ぐにゃりと大きく体を歪ませた生き物も先端から崩れ、音もなく森の中へと倒れ込んでいった。森の辺縁を舞い飛ぶカラフルな鳥たちが翼をはためかせて落下する青い球から逃げ惑っている。遥か眼下、金を蒔いた闇が放物線を描いて生い茂った沙森を押しつぶす――
 青い光が、散った。
 それは砂漠の向こうに現れた太陽のような、力強く、しかし優しい光だった。光の中には砂粒が乱れ飛び、羽音を立てて森の梢をこえ、空に舞い上がる。
 よくみればそれは青い蝶なのだった。青い蝶がきらきらと鱗粉をまとわりつかせ、飛び上がったらしかった。しかし森の放つ湿気から離れるとはらはらと羽根を散らし、力なく地面に落ちていってしまう。
「……沙森が……」
 沙森が、砂に沈んでいく。
 溢れ出た泥を残し、地面の中に消えていく。
「……なんと――」ヴォイチェクの声はまだ沙森の熱気に浮かされているようだ。「すばらしい、すばらしいじゃないか、君! こんなことが――ああ、いや、なんと言ったら――信じられない――」
「おい!」
 ヴォイチェクの腰のあたりから突然ルワィエの怒号が飛んで、ドゥドワは我に返った。
 あわててドゥドワは両手でヴォイチェクの腕を掴んだ。変な生物から逃げていてすっかり忘れていたが、ここは空の上だ。落ちたら間違いなく死ぬ。耳元をひゅるひゅるとかすめる冷たい風は冷たく、夢中で掻く足元にはなんの抵抗もない。
「うえ、やべ……」
「おい! お前らどこにいるんだよ! 沙森の中にいやがったら承知しねぇぞ、さっきからヤバイって何度も言ってるのになんで答えないんだよ、いいかげんにしろよ――! ! !」
 スピーカーの向こうでルワィエが激怒している。しかし片手に棒を構え、地面に向けているヴォイチェクは涼しい顔をしてその声に答えもしなかった。
「おい、降りようぜ……! 落ちたら死ぬ!」
「マアマア、いいじゃないか。せっかくだし一周りしてみても。確かにハジが言ったとおり、球状をしているみたいだね。しかし、これで質量がないかと言われると微妙だなぁ。物理法則はあるようだし、おかしな動きをするものもいるが、鳥は物理法則に従った形態をしていたし――ごらん、森の沈下にあわせて泥が吹き出している。うーん、やはり動画を撮っておくべきだったな!」
「おい! きけよ! ルワィエがめちゃくちゃ怒ってる、まじで、やばいって、そろそろ謝んないと、本気で置き去りにされる……」
「おや、てっきりまだ喧嘩を続けるのかと思っていたが、そろそろ仲直りかね? いやあ、面白いからもう少しそのままでも私は別にかまわんよ」
「いや、そういうんじゃ……」
「ちくしょう……!」悲痛な声がまたヴォイチェクの腰のあたりから聞こえた。「だから俺は嫌だって言ったんだよ、ちくしょう……! あんの野郎、帰ってくるって言ったじゃねぇか……! 俺一人で行商しろってのかよ、ばかやろう……!」
 ふうむ、と首を傾げ、ヴォイチェクはぐりぐりと棒を動かした。すると高度が少し下がり、砂の発する温かい熱が肌に触れる。「こりゃ面白いな。もう少し焦らすか。いやぁ、楽しい冒険だった。次回が楽しみだな!」
「また行く気かよぉ……」
 もちろんさ、と自信満々に頷いてまた、ヴォイチェクはにたりと笑った。
 スピーカーの向こうでは泣き声のシャティウがルワィエを慰めている。

 

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