空を織る虫

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梗 概

空を織る虫

ハタオリ蝶はとても優美な形をしている。だがそのほとんどは幼生のまま生を終えるため、空に舞う姿を見た者は少ない。

アサオとユウカは共に十六才の少女だ。二人の住む村は織物を主産業として、生計を立てている。ハタオリ蝶の幼生は織物を作るためだけでなく、年に数回吹き荒れる瘴気を含んだ砂嵐から村を守るためにも使われている。小さな虫たちは、半日から一日かけて村全体をすっぽりと覆う天幕を紡ぐのだ。砂嵐の時期、地上には人の住む街の数だけ、大小の天幕が風に耐えて揺れる。

村は貧しい。ハタオリ蝶の卵は自家採種が禁止されており、このような産業を持つ村でさえ、政府の許可を得た販売者から買うしかない。工業用と村の天幕用の種(卵)に指定された餌を買えば、いくら織物を作っても食べて行くのがやっとだ。この村では、食べ物は近隣で定期的にたつ市で買う。野菜や穀物の種も家畜の仔もひどく値が高い上、砂嵐に晒される大地ではうまく育たないからだ。

二人は、ハタオリ蝶の幼生を上手に操る腕の良い職人として知られていた。彼女らは次々と新しい技術を編み出して、村の織物の評判を上げた。
 アサオとユウカは、幼い頃、家族の乏しい食を補うための木の実を拾いに行った先で季節外れの砂嵐に遭い、皆が生存をあきらめた頃に村に戻って来たことがある。その間、二人は常時ハタオリ蝶の天幕に覆われている森の住人に助けられ、養われていた。この森はどこの村にも属しておらず、存在自体もめったに口の端に乗せないのが、慣わしだった。村の記録には、彼女たちが神隠しにあったとだけ、書かれている。
 あの時、アサオとユウカは成虫となったハタオリ蝶を確かに見たのだ。そのおぼろな記憶に導かれるようにして、二人は村の外の隠れ家でこっそり育てた蝶を羽化させ、自家採種と研究を始めた。それが、新しい織り方へと繋がっていたのだ。

ある日、政府からアサオとユウカに呼出状が来た。中央都市へと赴いた二人が見せられたものは、ハタオリ蝶たちが作った惑星全体を包む天蓋だった。ずっと昔、彗星が大気のバランスを乱して以来、これなくして、人はこの星で生きて行くことができなくなっていた。この世界を守る膜を維持する職人になって欲しいと、彼女たちは依頼される。
 広い空での仕事に心を奪われるアサオ。一方、ユウカは天蓋を紡ぎ続けて力尽きて死んでいく無数の虫たちの姿に、初めて罪悪感を覚えていた。アサオは中央に残り、ユウカは村へと帰った。

織物を作るにも、ハタオリ蝶の犠牲は必要だ。砂嵐をやり過ごすためにも。改めてその事実を苦く噛みしめながら、ユウカは隠れ家へと足を運んだ。
 彼女が驚いたことに、そこには政府の役人たちの姿があった。二人が育てた蝶の繭は無残に焼かれた後だ。処罰を覚悟するユウカ。
 だが役人はユウカに優しく聞いた。あなたはハタオリ蝶が空を飛ぶところを見たくはないか、と。

ユウカは、常に天幕に覆われた森の中で働くことになった。これらの森は、種を結ぶ植物や生殖能力のある動物の遺伝子を絶やさないよう、大切に管理している政府機関の一つだ。このような政府の統制に反対する者もいるため、施設の内容は一般にあまり知らされていないが、彼女の不法に作った繭が焼かれたのは、蝶の疫病発生を防ぐためだったと、今ではユウカも理解していた。ハタオリ蝶は、ここではケースの中で飼育され、村々の天幕に使われる卵が清潔に採種されている。

頭上では、小さな虫たちが森を覆う天幕を今日も紡いでくれている。そして、きっとそのずっと上の空の中でも。
 大気の状態は、ずいぶん良くなってきているという。砂嵐の元凶となる大地の汚染除去も進んでいる。
 どのくらい先のことか分からない。だが、いつかハタオリ蝶に頼らなくても、他の生き物たちが生きられる世界になった時に、ここに保存された種たちは大地に還されるのだ。
 ユウカは目を閉じて、その日の光景を思い描いてみた。

文字数:1606

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空を織る虫

一.
 アサオはヨウの実を拾いに行く仕事が嫌いだ。
 悪路に頻繁にへそを曲げる運搬機の機嫌をとることも、途中の平野を覆う人面草の叢をうっかり踏んづけて四方八方から悲鳴を浴びせかけられることも、板状瓦礫の谷間をこわごわとすり抜けることも、湿地近くで毒虫に刺されながら野宿することも、ぜんぶぜんぶ嫌いだ。
 それよりも、その時間を腕の良いハタオリ職人になるための修練にあてたかった。
 だけど、今年は気候のせいでハタオリ蝶の生育が悪い。蝶の幼生に織らせる布で生計を立てるアサオの藩にとって、それは冬の飢えを意味していた。食料の足しになるものを手に入れられなければ、春に中央政府から分配されたヒトの『卵』のほとんどを、処分せざるをえないだろう。アサオとユウカが『卵』として配られた年のように。
 実をつけるヨウの大木は、大人の足でも丸一日かかる北の森にある。布を織る大人たちが、そんなに長いこと手を休ませるわけにはいかない。ヨウの実拾いは、アサオやユウカのように『卵』の段階は脱けてもまだ一人前の年齢に達していない幼生たちの仕事だった。
 車体を大きく跳ねさせて、アサオの運搬機が止まった。見れば、脚の一本が瓦礫の隙間に挟まっている。
「ああ、もう。ボンヤリしているから」
 後ろを歩いていたユウカが、自分の運搬機を止めて走り寄ってきた。十二才にしては大柄な彼女は、杖ですばやく瓦礫を砕いた。運搬機が脚を引き抜く。
「余計なことしないで。自分でできる」
「私は機子だからね。アサオたちを助けるのが仕事なの」
 ユウカの言葉に、アサオの胃の腑がキュッと縮まった。『卵』としてハタオリの藩に振り分けられた五歳の時から、アサオとユウカでは立場が違う。雑用と補助をする機子になるか、布を織り藩の運営にもかかわるハタオリ職人になるかは、最初から決められている。
「ユウカの方が、ハタオリ蝶を扱うのが上手いしセンスもある」
「すぐに追い越されるよ。私たちは、それぞれが最初からそういう風にできているの。分かるもの」
「分からない」
 アサオは言いつのったが、ユウカは唇を引き結び、それ以上の議論を拒絶した。
 道のりは遠かった。おまけに、昨夜は慣れない野宿で、二人ともよく眠れなかった。人影のない乾燥した土地がつづいたあとで、やっと板状瓦礫が乱立する丘の上まできた時、少女たちは疲れ切っていた。ここで休憩を取ろうというアサオの提案に、ユウカも頷いた。
 手頃な岩に腰掛けて水を飲みながら来た方向を眺めると、そこここに集落が小さく見える。遠い山陰にあるのは、食料を生産している藩だろうか。
 どこかで鈍い破裂音がした。
「今、なにか変な音がした」
「え?」
 ユウカには聞こえなかったようだ。
 もう一度。遠いが大きい。運搬機の鉄板がびりびりっと震えた。
「雷……かな」
 不安げにユウカが空を見上げた。雷なら、砂嵐の前兆である可能性がある。アサオは注意深く空気の匂いをかいだ。雷の匂いはしない。だけどなにかおかしい。
「煙の匂いがする」
「そう? それじゃ遠くから煮炊きの煙が流れてきたのかも」
 軽く返されて、アサオは言葉を呑み込んだ。そうじゃない。だが神経に障っている不穏な気配の正体を説明できない以上、言い募っても仕方がない。
「ハタオリ蝶がいつまでも私たちを守ってくださいますように」
 ユウカが干した果物の包みを開けて、小さく唱えた。アサオも同じ言葉を呟いて、手を伸ばす。
 干した果物の甘みを口の中で味わっていると、ゆったりした気分になってくる。先ほどの不安も、いつの間にか消えていた。
空を振り仰いで、ユウカが目を細めた。空には薄い雲がかかっている。
「綺麗ね。あそこにも私たちのところと同じハタオリ蝶がいて、空を紡いでいると思うと不思議な感じ」
 ずっと昔、彗星が大気のバランスを乱して以来、この惑星は全体をハタオリ蝶たちが作った天蓋で覆われている。大気は少しずつ厚みを増し、安定した状態に回復しつつあると言われているが、まだ虫たちの吐き出す細い糸に頼らなければ、人間が安心して住むことができない。
「いいなあ」
 アサオはハッとして隣を見た。
「私も、いつか空で働きたい。空を飛ぶ人に生まれたかった」
 空の上で天蓋を維持すべくハタオリ蝶を扱う空職人がいるという話は、ハタオリ職人の村でのおとぎ話のようなものだった。その話は、同じくハタオリ蝶を扱う者としての誇らしさと微かな羨望とを込めて語られる。優秀なハタオリ職人なら、抜擢されてその職につけないとも限らないからだ。
 だが、ユウカの口調には、憧れと同時に哀しみがこもっていた。
 ハタオリ職人の藩では――いや、どこの藩であっても、『卵』として配られた幼い子どもたちは、大抵の場合、何の疑問もなく自分の役割を受け入れて仕事を覚え、三十年ほどで急速に衰えて人生を終えていく。適切な遺伝を掛け合わせて生まれた子供たちを、さらに適性と能力を十分に見極めた上で、それぞれにふさわしい場所へと送るのだから、当然だ。だが、それでもまれに適応に不具合のある『卵』が出てしまうことがある。
 職人たちのひそひそ話から、アサオは彼女たちがユウカに疑惑の目を向けていることを知った。しかし、それの何が悪いというのだろうか。
「私も」
 アサオは言った。
「私も空を飛ぶ人になる。絶対に、ハタオリ蝶に空を織らせる空職人になる。ユウカと一緒に空の上で働きたい」
 これまで一度も考えたことはなかったのに、口に出した途端、それがずっと前から強く望んでいたことのように思えた。
「一緒に飛ぼう」
 熱を込めてもう一度言い、アサオはユウカの手を強く握りしめた。ユウカの目が頼りなく揺れて、次の瞬間、アサオの手が強く握り返される。
「うん」
 泣き笑いのようなユウカの顔が、やけに脳裏に焼きつく気がした。

ヨウの大木は、たくさんの実を落としていた。北の森はこの地方では珍しい彗星以前の植物が存在する場所だ。やはり過去の遺物である巨大な建物の瓦礫と混じり合うようにして、樹木が生い茂っている。木漏れ日が地面に落ちて揺れている様は、美しかった。
「今日は誰もいないのね」
「拾うのが楽だからその方がいい」
 ここに来れば、他の藩からの木の実拾いと出会うことがある。ユウカがそれを期待していたことに気づき、アサオは不愉快になった。もちろん、他藩の人と出会えば、ハタオリの藩とは異なる暮らしの様子を聞いたり、新しいニュースを知ることができる。それでも、今日は二人きりでいたかった。
 すぐに収穫袋は、艶やかな円い実でいっぱいになった。それを大人しく待っている運搬車に乗せて、また次の袋に取りかかる。大人が五人がかりでやっと幹を抱えられるほどの巨木は、その間も絶え間なく周囲に枯れ葉と熟れた実を落とし続けていた。
「あと二、三回は来られそうだね」
「ユウカはもう来なくてもいい。一人で運搬車の二台くらい連れて来られる」
「よく言うわよ。夜、一人じゃ怖くて泣いちゃうくせに」
 ヨウの実はアクが強いので、食べられるようにするのに手間と時間がかかる。だが、ひとたび晒して粉にしてしまえば保存が利く。ずっしりとした袋の重みは、今年の仲間たちの無事を約束してくれた。木陰での作業は心楽しく、しばらく少女たちは夢中になって木の実を拾い集めていた。
「アサオ。人がいる」
 アサオが運搬機の重さを確認していると、ユウカの声が聞こえた。大きな瓦礫の蔭から慌てた様子で手を振っている。近づくと、彼女が何故焦っていたのか分かった。
 瓦礫の際の窪みには、半ば落ち葉に埋もれるようにして小さな少女が倒れていた。皮の袋を抱え込むようにしている。アサオ達より一つか二つほど年下だろうか。
「息はある」
 跪いて、アサオが確認をした。耳元で何度か声をかけたが、微かに呻き声が漏れるだけだ。顔に大きな擦り傷。それから腕と足に少々のあざ。古い火傷の跡は、気にしなくて良さそうだ。ハタオリ蝶の布でできた上等な外衣を着ているから、どこの藩にも属さない放浪者や農場などでこっそりと使われている規格外者ではないだろう。細すぎる手足と白い顔からは、彼女がどこの藩に属しているかうかがい知ることができなかった。
「連れて帰って、この子の藩を探してもらわなくちゃ」
 意識がないままなら、何とかして運搬機に乗せて運ばなければならなくなる。せっかく集めた木の実を無駄にすることを思い、アサオは少し忌々しい気持ちになった。だが、ユウカはそんなことは気に留めず、ひたすらに見知らぬ少女を心配しているようだ。あきらめて、アサオは片方の運搬車から荷物を取り出した。この時間から帰ろうとすれば、人面草の原あたりで日が暮れるが、仕方がない。
 二人がかりで運搬車に少女を担ぎ上げて、重量制限ギリギリまでヨウの実も積む。
「頑張って。あんまり揺らさないようにね」
 ユウカが、無茶を言う。彼女の運搬機もいつもよりたくさんの実を積んでいるから、バランスを取らせるのが難しいはずだ。帰りは、運搬機を気遣って足場の良いところを選んで進むので、行きよりも時間がかかる。疲れた足を励ますには、頭の中で藩に帰った時にもらえる甘いお菓子のことを考えるのが一番だ。『卵』たちが見て欲しがったら、一口ずつだけ分けてやろう。それとも、こっそり隠れて独り占めした方がいいだろうか……。アサオの口の中に、唾が湧いた。
 だが、ようよう瓦礫の丘の上に出たところで、二人は信じられないものを目にした。
 南西の空に、黒い砂煙が小さく見えている。砂嵐がくる。まだ、そんな季節ではないのに。

 遠出をした際、一番怖いのは急に襲ってくる砂嵐だ。大空を覆うハタオリ蝶の膜がどこかで破れた時、地上には猛烈な砂嵐が吹き荒れる。砂嵐には人や獣を害する毒が含まれており、長いこと晒されていると死に至った。だから、空の上にいるハタオリ蝶の動きが鈍く砂嵐が頻繁にくる季節には、人々は砂を防ぎ空気を浄化するために藩を丸ごと覆う天幕を張って、その中で生活をする。藩天幕を織るのも、もちろんハタオリ蝶の幼生の仕事だ。そのための高いポールが藩の周囲には立てられており、砂嵐の季節が近づくと補助枠を渡す。そしていよいよという時が来たら、リードを一斉に張って、糸を吐き出せるように準備したハタオリ蝶の幼生を大量に放つ。幼生たちは、口から細い糸を絶え間なく吐いて、半日から一日で天幕を織り上げるのだ。この季節、民間の行き来はほぼ途絶え、人々は天幕のそれぞれの仕事を黙々とこなしながら、砂嵐が止むのを祈る生活を送る。

 すでに風が吹いてきている。間に合わない。砂嵐が来る前に、藩まで行き着くことなど到底できない。この砂嵐が何日続くか分からないが、自分たちで何とかしなければ、死ぬしかないのだ。
「お守り袋、持ってる?」
 アサオは自分の守り袋を取り出しながら、ユウカに訊ねた。色を失った顔が、小さく頷く。
「運搬車はそこの瓦礫のすき間に押し込もう。ユウカは先にどこかに避難して繭に入っていて」
 アサオは夢中で運搬車から少女の体を抱え上げた。自分でも驚くほどの力を出していることが分かる。 
「一人じゃ無理だよ。手伝う」
「大丈夫。間に合わなくなる。邪魔」
 つっけんどんにアサオはユウカを突き放した。ユウカはおろおろと手をもみしぼった。
 どうすればいいだろうか。各自が身につけている守り袋の中にあるハタオリ蝶の卵と餌は、ギリギリ一人が入れる緊急避難繭を作る分量しかない。通常の方法を取れば、助かるのは二人だけだ。
 お願い。気がつかないで。気がついても自分の身だけ守っていて。
「ハタオリ蝶があなたを守ってくださいますように」
 言うと、ユウカが目を見開いた。
「先に繭を作って。私たちは大丈夫。お願い。時間がないの」
 
 ガタガタと震えながら、アサオは自分も手近な空間に身を潜め、少女の体を引き寄せた。嫌な臭いのする風が、一際強く吹きつけてきた。期待を込めて探した少女のバッグの中には古い本ばかりが入っていて、肝心のものは見つからない。少し離れた岩陰でユウカの体が繭に籠もったのを見て、わずかにホッとする。
 いっそ、この子を見捨ててしまおうか。
 そんなことはできないと知りながら、アサオは自分の心に問うた。アサオが帰らなければ、幼い『卵』たちが悲しむ。大人たちだって、嘆くことだろう。
 だが、この子にだって、同じように嘆く人がいるに違いない。ハタオリ藩の住人でもないのに、こんなに良い服を着せてもらっているのだから、さぞかし……。
 そこまで考えて、アサオはハッとした。そうだ。使えるかも知れない。
 急いで自分の上着を脱いで、少女の体からも苦労して外衣を剥がす。もう間近に嵐はやってきている。アサオは上着と外衣とを重ねて、二人の体をうまくくるむように工夫した。手元のわずかな空間で、守り袋の卵に目覚めの薬をかけて、布の端に放す。だがアサオの思惑とは違い、卵から出てきたハタオリ蝶の幼生たちは布の内側にも同じ分量の糸を使おうとしてしまう。それでは、繭が二人分の体をつつみきれない。焦るが虫たちを思い通りに働かせることはできず、時間だけがどんどん過ぎていく。
「砂嵐?」
 ふいに、間近で声がした。薄暗がりの中で少女の目が開いていた。
「そう」
 風が強くなってきている。声が震えないように気をつけながら、アサオは短く答えた。せめてもと布きれの重なりを強く押さえた手に、指の長い手が重ねられた。
 チカリ。
 二人の手元が一瞬、強い光に照らされた。そこに虫たちが、いきなり集まってくる。少女は、いつの間にか手にしていたライトを、ふたたび布のすき間に向けて点滅させた。虫たちは布のすき間を埋めるようにして、糸を吐き出す。二枚の布は、たちまちもとから一枚の布であったかのように繋がった。
「ここはもう放して大丈夫。次はどこを補強すればいいかな」
 少女はアサオに向かい、ふてぶてしいまでに落ち着いた顔で微笑んだ。
 
 砂嵐は三日三晩つづいた。
 嵐が去った後、アサオたちは探しに来た藩の大人たちの手で助け出された。壊れた運搬車が目印になったのだ。二人が入っていた繭のあったすき間は、落ちてきた瓦礫で入り口が塞がれていた。だが、ユウカは見つからなかった。彼女が入っていたとおぼしき繭の残骸はあったが、本人の姿だけが忽然と消えていた。
 結局、北の森で拾った少女は、身元の問い合わせもされることなく、そのままハタオリの藩の住人となった。何を訊ねても覚えていないと答える少女に、アサオ一人だけになってしまった十二歳の枠を埋めさせることは、大人達にとって都合の良い方策だった。
 そして、少女は新しい名前を与えられた。『ユウカ』と。

二.
 夜空を明々と焦がして燃え上がる建物群。火に包まれた天幕からは、大きな花びらにも似た炎が次々と降り落ち、あたりは一面の炎の海となっていく。
 髪の毛と皮膚の焼け焦げる嫌な臭いが鼻をついた。吹きつけてくる熱風。噴き上がる炎。
 気がつけば、体中が火に包まれている。
 痛みが脳内を焼き尽くすように襲って来た。感じているのは、熱さなのか極限までの冷たさなのか。あまりに痛みが激しく鋭すぎて、その判別さえもつかない。指先一つ動かせない。
「……!」
 ユウカは、自分が叫ぶ声で目を覚ました。
暗い天井が目に入った。体は緊張で強ばり、心臓がすごい勢いで鼓動を打っている。全身に、滝のような汗をかいていた。
 現実と非現実の境界を脳が彷徨う。心も体も夢にとらわれたままだ。
ベッドの他にはほぼ何も無い殺風景な部屋の壁には、薄いカーテンを通して差し込む月光が影を作っている。静かな部屋に、時計が規則正しく時を刻んでいた。
 ほ、とユウカは息を吐いた。少しずつ現実が夢の帳を食い破っていった。隣のベッドでは、アサオが白いうなじを見せて俯せになり、静かな寝息を立てている。ユウカはベッドの脇に立つと、手のひらで包み込むようにしてその頬に触れた。
暖かい。
 安堵感と愛おしさが込み上げた。体から強ばりが解けていく。
 私はユウカ。十六歳。ここはハタオリ職人の藩。大事な友だちのいる私の居場所。いまは余計なことを考えなくても良い。
 あの夢を見るのは、久しぶりだった。
 頭の奥が覚醒してくると、先ほどあれだけリアルに感じた恐怖と絶望感は霧散した。
 ただそれはどんなに微かなものになろうとも、彼女の中で決して消えることのないものだった。
 アサオの柔らかい毛先へと指先を移動させると、ん、と声を漏らして身じろぎをする。なんだかたまらなくなって、息づく体を毛布の上からそっと抱きしめた。暖かい体と心音に心が安らぐ。健やかに眠る少女の顔を覗き込んで、ユウカは額に口づけた。アサオ、と心の中で抱きしめるように彼女の名前を呼ぶ。悪夢から解放されたのは、十二の時にアサオと出会ってからだ。
 アサオの睫毛が眠そうにまたたいた。焦点の合っていない瞳が宙に向けられる。
 眠りを妨げてすまなく思う気持ちと、起こして声を聞きたい誘惑の間でユウカの気持ちが揺れた。
「ユウカ」
 小さな声がして、力のまだ抜けている手が、ユウカの体を確かめるように探った。
「まだ夜明け前だから。寝ていて」
「ん……」
 再び目が閉じられた、かと思ったが。
「何かあったの?」
 目はつぶったまま、意外なほどにはっきりした口調で問う声がした。
「何でもない。平気よ」
 答えると、ゆっくりと目が開く。
「ああ、そう? なら良いけど。私の方は変な夢を見ていた。何か……空職人の最終選考の結果を待って緊張しているのかな」 
 まだボウッとした顔で首を傾げ、今度は不明瞭に言葉を続けた。髪を撫でるとくすぐったそうに笑ってから、アサオはユウカの腕に顔を擦りつけた。
「大丈夫。アサオはきっと受かるに決まっているもの。私が保証する」
 そうだ。きっとアサオは夢を叶えて、ここからいなくなる。それは、ユウカがここにいる理由の半分が失われるということだった。
「……ねえ。変な気分。嫌じゃないけど」
 くすぐったそうに、アサオが笑った。
「え?」
「気づいてない? ユウカって、ホント私のことを好きだよね」
 器用な指が、ユウカの夜着のボタンを一つ外した。
ドキッとしていると、クスリと笑われる。
「だけど、言わなきゃいけないことは言ってくれない」
 もう一つ、ボタンが外される。
「早く着替えなさい。風邪ひいちゃうよ。こっちのベッドに入っていいから」
「ああ……うん。そうさせてもらう」
 夜着は汗を吸って重い。ベッドの中もじっとりとした湿り気が充満していることだろう。
 着替えてアサオのベッドに潜り込むと、すでに眠っていると思った少女が言った。
「ねえ。お願い。本当は覚えているんでしょ。私がここからいなくなる前に、あなたの名前を教えて」

 ハタオリ藩での機子の仕事はたくさんある。もちろん、対となるハタオリ職人が布を織る手伝いもあるのだが、ハタオリ蝶の幼生を育てたり、まだ自分で身の回りのことができない『卵』や見習いたちの宿舎での世話といった雑務の方が多いかもしれない。
 ユウカは、ハタオリ蝶の幼生がいる飼育場にいた。
 掃除も終わり、餌やりもすんだ。手早く仕事をすませて作った時間を、彼女は自分の『研究』にあてていた。部屋の一角に置かれた机の上で、条件を変えて育てた幼生たちの重さをはかり、記録していく。
 ハタオリ蝶の卵もその飼料も、すべて中央政府が有償で支給していて、マニュアル通りに飼育すれば、そこそこの質のものが育てられるようになっている。大して工夫の余地があるとは思えなかったが、対象物についてよく知ろうとするのは、彼女の第二の天性のようなものだった。
 周囲からは、絶え間なく虫たちが餌を食べる音が聞こえてくる。激しい雨の音にも似たそれは、この藩に住む者たちにとっては幼い頃からの子守唄のようなものらしい。プンと鼻につく虫の臭いも、彼らが気にすることはなかった。
 だが、ユウカは苦手だった。この惑星に住む以上、ハタオリ蝶の恵みを受けなければ生きて行かれないし、幼いユウカが暮らしていた場所にもハタオリ蝶はいた。それでも、虫の姿形も感触も嫌いだったし、ここの飼育場にも慣れることはできなかった。
「ねえ、その虫の触り方、何とかならない? かわいそう」
 背後から声がかかって、ユウカは文字通り飛び上がった。つまんでいた幼生を危なく潰しそうになり、慌てたあげくに今度は振り落としてしまう。アサオがその様子を見て、声を立てて笑っている。
「未だに、ハタオリ蝶が苦手だよね。よくここの藩で暮らせていると思うよ。だけど、虫嫌いなのに生態には興味津々って不思議だよね」
「わざわざからかいに来たの?」
 声に恨みがましい響きが籠もる。アサオは笑いながら、ユウカが取り落とした幼生を拾い上げ、そっと飼育箱に戻した。
「これ。ユウカに最初に見てもらおうと思って」
 誇らしげに、アサオが一通の白い封書を差し出してきた。中央政府の印が入っている。
 開けるまでもなく、結果は明らかだ。しかし、ユウカは丁寧に中の紙を取り出して読んだ。
「おめでとう。空の織り人さん」
 目の前にアサオの満面の笑みが広がったかと思うと、強い力で抱きしめられた。
「ありがとう。ユウカのお陰だよ。いろいろ教えてくれたから。……ああ、『ユウカ』」
 喘ぐように名前を呼んだ声が、涙で濡れている。顔は見えなかったが、ユウカは彼女が今呼んだのは、自分の名ではないことに気づいていた。
 アサオは声もなく泣き、ユウカの肩が涙で濡れていく。その姿に、ユウカは彼女がこれまでどれだけ『ユウカ』の死について自分を責めてきたのか、思い知らされる気がした。
空職人になるというのは、アサオと『ユウカ』の約束だ。だから、夢を叶えるために、アサオは血の滲むような努力をしてきた。
 ユウカはそっとアサオの体を抱き返した。もういいんだよ、と伝えるように。

 ユウカは馬を駆って、人面草の原を走り抜けた。蹄にかけられた植物が奇声を発して、それに呼応した周囲の草も悲鳴を上げ出すが、声が届く頃には彼女を乗せた馬は、とうに姿が見えなくなった後だった。

 今朝、アサオが旅立った。ユウカは最後まで彼女に名前を伝えなかった。これまで嘘をついてきたことで、嫌われたくなかったからだ。
合格通知が届いてからアサオの出発までは、ひたすらに忙しかった。ハタオリ藩にとっては、実質、腕の良い職人を一人失う大きな痛手であった。だが、それ以上に、人々は誇らしい思いで興奮をしていた。大きな宴が催され、近隣の交易がある藩からも客を迎えた。 ユウカはそんな浮き足だった藩の中で働き通しだったし、アサオ本人はやりかけの仕事を完成させるべくずっと工房に詰めていて、その合間に別れを告げる来客の応対をしていた。打ち解けた話をする暇などなかった。いや、ユウカの方でその話をしなくてすむよう、アサオを避けていた。
 強い向かい風を受けながら、ユウカは大声で意味のない言葉を叫んだ。涙が風で後ろへと吹き飛んでいく。
 アサオは空へ行く。そして、十年ほど経てばこの世のどこにもいなくなってしまう。その生に、なんの疑問も持たずに。卵から孵り餌を食み、繭を作ることもなくひたすらに糸を吐き続けて生を終えるハタオリ蝶のように。アサオは死んでしまう。
 なにを憤っているのか、ユウカ自身にも分からなかった。アサオは夢を叶えた。『ユウカ』が叶えられなかった夢を。それでもユウカは納得ができなかった。

 ギャロップで駆けさせていた馬を並足にさせて、ユウカは目的の場所へと方向を変えた。馬は便利だ。子供たちの受難の後、同じことが起こらないようにと藩が無理をして手に入れたものだが、結局、乗れるようになったのはユウカとアサオだけだった。
 ユウカは緑が濃い不伐の森のところで、馬を下りた。ここの木々は、人面草と同じく傷つけられると血を流し悲鳴をあげる。ともかく気味が悪いということで、どこの藩でも伐って使おうとはしなかった。およそ、人が近づくこともない。
 馬を水の飲める場所に繋いで、奥まった谷へと降りていく。崖の窪みを利用して作った小さな作業所が、目的地だった。茂みに隠れた入り口を開け、天幕をかき分けて奥へ入る。暗がりでは、小さな生き物が蠢いている音が微かに響いていた。
 ここは、藩の中では憚られるささやかな実験を行う場であり、二人が他を気にせず話しができる憩いの場でもあった。
 灯りをつけると、ハタオリ蝶の繭がいくつかできていた。天幕や布を作るために育てられる幼生たちは、繭を作ることができない。ひたすら糸を吐き、吐き尽くすと死ぬように人間が作ったからだ。だが、彼らの行動のロックは解除できると、ユウカは知識として知っていた。実際、繭を作らせるまでには、かなり失敗も繰り返したのだが。
 この中に、オスはいるだろうか。オスがいなければ、孵化しても卵を産ませることができない。これまでに孵化させたハタオリ蝶たちは、すべてがメスばかりだった。思いついて餌を変えてみたのだが、果たしてどうだろう。だが、その結果を、ユウカはもう見ることができない。
 その時、ノックの音がした。
 こんなことをするのは、一人しかいない。
「入ってもいいかい?」
 ユウカは振り返って、頷いた。彼と話すのもこれがきっと最後になるだろう。
「俺にはハタオリ蝶のオスとメスとの区別なんてつかないけどね。分かるのかい?」
 訪問者は遠慮なくアサオの椅子に腰掛けて、足を組んだ。
「見たことがあるから」
「さすがは学者さん。ノア計画というのを耳にした時には、どうかと思ったんだが、ちゃんと機能しているみたいじゃないか」
「からかわないで」
 ユウカは顔をしかめた。ひょっとすると餌で性別を調整しているかもしれないから変えてみるといい、と教えてくれたのは、この素性の知れない男だった。 
 そう。男なのだ。
 初めて彼を見た時は、愕然とした。人間のオスを見たのは、初めてだった。人間といえば女であることが当たり前なのに、彼は男だった。あまりに驚いて、ユウカは彼が何者か問いただすこともせずに、ここへ出入りすることを認めてしまっていた。放浪者と関わるなど反対されるに決まっているから、アサオには内緒だ。
 一万人に一人しか男は産まれない。生まれたら厳重に保護して育て、次のヒトの卵を得るために利用する。
 人だけではない。ハタオリ蝶は繭を作って成虫となることがなく、作物の実は地に落ちても芽吹くことができない。家畜たちは子を成さない。
「彗星以前は、本当にすべてがこんなじゃなかったの?」
「もちろんさ。どこかのノアで、動物たちを見たことがあるだろう。それから植物も。それが本来の姿だ」
 ヨタロウと名乗るこの男は、大法螺吹きだ。彗星が地球を掠める前から生きていると、自称している。もちろんそんなわけはない。だが、様々な事柄に精通しているので、半ば冗談でユウカは昔の話について聞くことにしていた。彼の話は面白かった。 
「私とあなたでも、子どもって作れるのかしら」
 ユウカが言うと、今度はヨタロウが盛大に顔をしかめた。
「冗談じゃない。学者ってのは、自分の体も実験材料にしちまうのか。だいたい十六歳ってのは子どもすぎる。俺の年齢とはとても釣り合わない」
「あなたと釣り合うには、何百年も生きなければならないんでしょ。条件が厳しすぎる」
「いやいや、俺の時代だって寿命はだいたい百くらいまでしか……」
 ヒゲのある顎をなでながら、ヨタロウが考え込む。
「君たちは、人の寿命も管理しているってことか」
「多分」
「……気分が悪くなってきた。予想はしていたんだがな。また来るよ」
 顔をしかめてヨタロウが席を立った。
「アサオがいなくなったの」
「そりゃおめでとう。念願の空を守る仕事に就いたってわけだ」
 あっさりと去って行こうとする彼に、ユウカは食い下がった。なにか分からないが、なにか言って欲しかった。 
「私もいなくなる。今日はここを処分しに来たの。アサオに教えた光の信号規則のせいで、私がここにいることがバレた。近々、迎えが来る。だから、もうあなたともこれでお別れ」
「ふうん」
 だが、ヨタロウは吐き捨てるように言った。嫌悪感が剥き出しになっている。
「学者に戻るってわけだ。歪な世界を維持し、戻るはずもない過去の幻を追いかけて役に立たないノアの箱舟を守るやつらのところに。だからお前たちは……」
 すごい音と共に、ユウカの右手がビリビリと痺れた。目の前で、あっけに取られたように、ヨタロウが頬を押さえている。彼に平手打ちを食らわせたのだと気がついて、ユウカは慌てた。
「驚いたな。うちの女房よりすげえや」
「ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの。女房ってなに?」
「連れ合いのことだよ。とっくに死んじまったけどな。いわばまあ、君と君のハタオリ職人のような関係だ」
 先ほどとは違う、優しい口調でヨタロウが言った。
「こっちこそ悪かった。人間ってのはね。悩むから人間なんだと思うよ。君を知って驚いたのは、そのことだ。学者にもこんなやつがいたのかって。ノアに戻りなさい。世界を変えるために。君はいい子だ。これで、俺も未来に希望を持って生きて行けそうだ」
 小屋を焼き払った帰り道、馬に揺られながらユウカは考えた。果たしてあの繭は卵を残すことができるだろうか、と。彼女に繭は焼けなかった。

三.
 連れ戻される際、ユウカは失踪時の事情を詳しく聞かれ厳しい叱責を受けた。それから、再びノアの施設の一つで種の保存のために働くことを、許された。もともと、ノアを襲った放浪者のグループに連れ去られたことが、原因だったからだ。ユウカが、『卵』の時にも、別のノアの施設で焼き討ちに遭って重傷を負った経験があることも考慮された。
この世界の仕組みに異を唱える者たちは、たびたびノアを襲っていた。主として、すべてを自然に任せろと主張し、ハタオリ蝶による大気の調節にも反対をしているグループだ。彼らは藩に属さない。ノアに住む学者たちが、全滅したこともあった。幼い子どもが、彼らの襲撃への恐怖を抱いたことは仕方がないと見なされたのだ。

 大きな天幕に常に包まれた、ノアの施設は別世界だ。彗星以前の旧世界の姿を保った理想郷に近い。いつか大気の状態が回復した時に、大地に放つための『種』が保存されているからだ。
 ユウカは、足もとの草の実を摘んで手の中で転がした。ここの植物は栄養生殖だけに頼らず、実を結ぶことができる。だが、家畜にはやはりなかなかオスが生まれない。
 これは大気のバランスだけの問題なのだろうか。それとも、彗星以前にも、見えないところで生態系は崩れていたということが、あるのだろうか。
「マナ。ハタオリ蝶が繭を作り始めているよ。準備はできてる?」
 ユウカが施設に戻ってから、なにくれとなく世話を焼いてくれているトウコが、声をかけてきた。ここではユウカは、マナという本当の名前で呼ばれている。
「はい。すぐ行きます」
 ハタオリ蝶の飼育が、ここでもユウカの主な仕事だった。
 目的が違っても、ハタオリ蝶の飼育場は、どこも同じ匂いと同じ音がする。幼生たちは透き通ったような体になり、餌を摂らなくなっていた。ハタオリ村の幼生たちは、繭を作ることを許されずに命を終えるが、ここでは違う。
 餌とロックの解除。
 ユウカは心の中で呟いた。ハタオリ蝶は、彗星以前にはいなかった虫だ。人間が人為的に作り替えて世界を守る神にした。ノアで保存されている種とハタオリ蝶は事情が違う。大気の状態が戻る未来が来た時、虫たちの運命はどうなるのだろうか。
人は自らが存続していくために、ハタオリ蝶を作った。さらに人間も含め、種を選別し改変し、己の手元でのみ繁殖を許してきたのだとすれば、大地がもとに戻ったからといって、現在生きている生物たちを葬り去っても良いと考えるのは、傲慢にすぎる。そもそもそれは、人間自体を否定する行為だ。

 砂嵐の季節がきて、去って行った。
 そして、ユウカは一つの手紙を受け取った。
 手紙は、なんの変哲もない封書に入れられて届けられた。裏を返すと、ハタオリ藩の長からだった。ろくな挨拶もせずに出てきてしまったユウカに、元気にしているかと便りをくれた、親切な良い人だ。
 今度もまたそうだろうと、ユウカは机の上に手紙を置き、忙しさにかまけて数日放置した。
 手紙は、アサオの死を知らせるものだった。

火事だ。息が苦しい。
 これはまたあの夢だ。早く目を覚まさなければいけない。ユウカはうなされながら夢と現の狭間で必死にもがいて目を覚まし、ついでギョッとして目を見開いた。
 窓に吊したカーテンの向こうが、朱に染まっていた。夢じゃない。ドアが激しく打ち鳴らされ、急を告げる。襲撃だ。先日、中央から要注意の伝達が回ってきたばかりだった。
 急いで服をかぶって、靴を履く。ドアを開けると、廊下に充満した煙が流れ込んできた。吸わないように布を口に当てて外に出て、飼育場を目指す。
 火器の爆音が聞こえる。雄叫びも聞こえるが、警備隊はすでに到着しているらしい。
 燃えているのは、施設の建物だ。襲撃者たちが天幕に本格的に火を放つのは、おそらく退却していく時に違いなかった。だが、おそらくそれは時間の問題だった。早くしなければ、ハタオリ蝶がすべて燃えてしまう。

 煙の合間に家畜が収奪されていくのが見えたが、かまっていられない。家畜も冷凍受精卵さえ無事なら、あとでなんとかなる。各自が各自の責任を持つ種を命に代えても守るというのが、ノアにおける至上命題だ。
「マナ。繭は地下に移した。逃げて」
 誰かが、すれ違いざまに声をかけていく。だが、ユウカは引き返さなかった。ここは、大規模な襲撃に遭ったことがない。天幕が丸ごと焼け落ちた場合の被害のひどさを、誰も知らないのだ。
 ユウカが幼い時に遭った襲撃では、ノアの焼け跡は一週間も熱を持ち、耐熱金庫に入れてあった植物の種子も、すべて命を失っていた。今度も下手をすると同じことが起こる。
 今夜は風があり、火勢が強かった。
 地下を駆け下りた後のことは、よく覚えていない。繭の入った箱を抱きしめて、ひたすらに外に走って逃げたような気がする。
 ともかく気がついた時、ユウカは岩だらけの荒れ地で力尽きて横たわっていた。
 三度も襲撃に遭うなんて。
 そう思ったら、ヒステリックな笑いがこみ上げてきて、止まらなくなった。笑っているうちに涙が出てきて、こちらも止まらなくなった。
泣きながら、ユウカは空を見上げた。煙の漂う荒涼とした大地に、月の光が降り注いでいる。この空の上には、アサオの仕事が残っているのだろうか。それとも細い糸はもう風に吹き散らされてしまったのだろうか。
「早すぎるよ」
 ユウカは呟いた。淋しい。淋しい。淋しい。この世界のどこを探しても、もうあの笑顔に会えないことが、たまらなく淋しい。
 世界が歪んでいると言った、ヨタロウは正しい。
 なんとかしなければならないのだ。歪みを知るものが。僅かずつでも。
ノアの存在は人類の良心なのかそれとも免罪符なのか、とユウカはずっと考えていた。アサオに拾われた時、ノアの外で暮らすことを決意したのも、その問いに対する答えを見つけたかったからだ。
 だが、その問いを抱くこと自体が、間違っていたのだ。
 人々がハタオリ蝶のように、なんの疑問も持たず運命にも逆らわずに生きているという思い込み自体が、間違っていたのだ。
 そんなことにさえ長らく気づかなかったことを、ユウカは恥じた。
 ノアが人類の良心であるように努力しつづけること。
 考えなければならないのは、そのことだけだった。やらなければならないことが、たくさんある。

ノアの復興会議で発言を許され、ユウカはなんとか言葉を絞り出した。
「襲撃者を減らすには、放浪者が生きて行かれる集落が必要だと思います」
 こんなに大勢の前で話をするのは初めてだ。
「農場やノアの施設がしばしば襲撃の対象となるのは、彼らに生きて行くすべがないからです。新しい集落を作れないというのなら、希望するものには適性テストをほどこして、どこかの藩の住人になれるようにするべきです」
 手元のメモに目を落とす。拘束された襲撃者のリストには、ハタオリ藩の『ユウカ』の名前があった。
「放浪者や不法住人の中には、幼い時に何らかの事情で藩に住めなくなったり攫われて身元が分からなくなった者も多数含まれています。ある意味では被害者なのです。私自身、同じような体験をしたことがあるので、よく分かります。どうかご一考ください」
 頭を下げて腰を下ろす。背中は汗でぐっしょり濡れているし、足は今さらガタガタと震えている。隣に座っていた同僚が、肩を軽く叩いてくれた。

『ユウカ』のことを、ハタオリ藩の人に伝えなければ、とマナは思った。きっと、喜んで受け入れてくれることだろう。
 それから、本当の名前も伝えなければならない。臆病すぎて、アサオに伝えることができなかった、本当の名前を。

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