風船のドグマ

印刷

梗 概

風船のドグマ

(梗概は提出されていません)

文字数:14

内容に関するアピール

(アピールは提出されていません)

文字数:16

印刷

風船のドグマ ~生き物を作ってみよう! 宇宙サバイバル篇~

西暦2280年3月。
広大な宇宙空間を進む1隻の宇宙船があった。
惑星間航行用の宇宙船は、火星の衛星フォボスでの基地建設を果たし、6人の若く優秀な乗組員を乗せ、地球を目指す。再びロケットに火がともるのは9ヶ月先、地球周回軌道への加速である。
純白の宇宙船は長さ80mの円柱形だが、定速航行時には前後に分離して前後をケーブルで繋ぎ、自転して船内に重力を模した加速度を発生させる。船の名前はボーラ。由来はロープの両端に石などの錘を結びつけた猟具である。ボーラは重力に加え、小さな水耕栽培設備や、十分な宇宙放射線遮蔽外殻を備え、乗組員の健康を維持する工夫が施されている。特に制御AIのルクスが提供する食事は、味も栄養も、惑星間宇宙船として画期的なものだ。しかし、どうしても材料の限界はある。最近、クルーが居住部の円卓で語らうのは、地球に帰ったら何を食べたいかであった。
「俺は、やっぱりスシだな」
 機関士のマリクは言った。
「このあいだ、ルクスが作ってくれたでしょ?」
 笑うソーニャに「いやいや」とマリクは身を乗り出す。
「チリのかかったフリーズドライのサーモンじゃない。さっきまで海を泳いでいた飛び跳ねる魚や、海水を吹く貝をシェフが捌いて、酢を混ぜた米とワサビで握って、そいつをショーユで食うんだ」
 6人みな、新鮮な魚介を思い出し、ため息を漏らす。
 それぞれが自分の食べたい物を披露する。スパイスの効いた豆のカレー、イカの入ったニャーリチン、下宿近くのピザ屋、中華風のビーフテールスープ。その味がどれほど素晴らしいかを語る。牛尾湯を詳細に説明したウォンが言う。
「アダムス、あなたは地球に帰ったら、最初に何を食べるんだい?」
「俺? そうだなあ……」
 アダムスは食にこだわる趣味は無かった。ルクスの作る料理はどれも美味いとも思うから、現状あまり不満も無い。
 それでも、しいて挙げるならば。
「リンゴかな。生のやつ」
 うわぁ! と、他の5人が声を上げた。アダムスは少し得意になった。
「大きな赤いリンゴを良く磨いてだな、香りをかいで、丸ごと齧るんだ。皮の抵抗に歯が食い込むと、甘酸っぱい果汁が湧きだして……」
「あんたの勝ちだ! もうやめてくれ!」
 ウォンとマリクは頭を抱えて降参の声を上げる。
円卓を囲んで談笑する6人の中央、立体モニターに映されたケリュケイオン、翼の生えた杖に絡む2匹の蛇がうねり、AIのルクスが言った。
「指令書を受信しました」
「定時連絡は済ませただろ?」とアダムス。
「はい。ですが、船長宛ての指令書が届きました。ご覧になりますか?」
「ああ、たのむ」
 円卓の天板、アダムス船長の手元に、書類を模したテキストが表示された。指令書を読む視線は少しずつ深刻になり、談笑の空気は薄れていった。
乗組員が見守るなか、顔を上げて、船長は告げた。
「諸君。我々は……地球に帰れなくなった」
 5人は身を乗り出した。口々に発する疑問を、アダムスは手で制した。
「事態が事態だ。皆、読んでくれ」
 円卓の天板をスワイプし、指令書のコピーを5人に渡した。
「スペースデブリの爆発的な増加により、半数の人工衛星が通信途絶。地球低軌道では宇宙ステーションからの緊急退避に失敗した。軌道上の着陸船は……月基地への降下船がルナツーにまだあるようだが、避難者を収容次第、月面基地へ退避予定だ」
「なんで月ステーションの降下船が避難するんです? デブリがあるのは地球の軌道でしょう?」
 マリクの疑問に、航海士のソーニャが答えた。
「デブリが地球の磁場で加速されてる。ルクス、添付されているデブリの予測を出して」
 円卓の中央に、地球の立体映像が表示された。
 半透明の地球儀の周りを、強調された赤いデブリが砂嵐のように取り囲む。デブリの密度の濃淡は、ちょうど雲のように各高度の軌道を移動し、南北の極に至ると噴水のように上昇する。
「低軌道で発生したデブリは光電効果により帯電し、地球磁場の振動で加速され、高い軌道へ遷移しています。デブリはすでに地球磁気圏全体、月軌道の外側でも観測されています」
「まだ軽微ではあるが、月周回の人工衛星にも被害が出始めている」
 アダムスが補足した。
 マリクの手元にもスペースデブリの資料が表示されていた。
「でも、どうして急にデブリが増えたんだ? デブリの衝突した人工衛星が破片になって飛び散れば、デブリの個数が増えるのはわかる。人工衛星が砕けても、総質量は増えないはずだ。でも、このモデルで予想されるデブリの総質量は、今の100万トンから、今後もっと増えるらしいぞ」
 その疑問に答えるように、ルクスは立体映像のデブリに“Self-Repair-Blanket”と、追加表示した。
「SRBが、どうしてデブリを増やすんだよ?」
 自己修復性衛星外皮、SRBは、ここ100年で発明された宇宙用素材の筆頭として挙げられる。
SRBは炭素珪素繊維の丈夫な基層、イオンを吸着する表層、表層と基層に挟まれたゲル層の3層からなる人工衛星用の外装素材だ。防弾ベストのような強靭さもさることながら、イオンや塵を吸収して自己修復する機能により、人工衛星の超寿命化に貢献している。さらに、専用の太陽電池パネルの効率には及ばないものの、表層と基層に生じる電位差は電源として使用可能で、修復できる環境にあれば劣化もない。SRBは軌道上のイオンや塵を吸着するため、スペースデブリの減少効果も期待されていた。
「SRBの危険性は、以前から言われていたの」
資料を読み込む一同に、チャンディーは切り出した。
「たしかに素晴らしい素材だけど、1cm以上の大きなデブリと衝突すると、基層ごと剥がされてしまう。もちろん大きな穴があいても修復されるし、それがSRBの強みだけどね」
「大きなデブリと当たって破けるのは、他の外皮素材も一緒でしょ? 他の外皮素材より丈夫なら、デブリの発生を抑えるんじゃない?」
サトコの反論に、チャンディーは首を振った。
「問題は飛び散った破片のほう。3層を保ったままのSRBの破片は5mm四方あれば断面を再生させる。イオンやチリが供給されれば、成長し続けると言われているの」
「成長し、衝突すれば、破片はさらに増える。つまりデブリが増殖するんだな」と、アダムス。
「ええ。この予測でも、電離圏のイオンが存在する低軌道ほど、デブリ質量の増加が多く見積もられています」
「地球のイオンを食べて増えるのか。植物やプランクトンみたいだ」と、ウォン。
 チャンディーもうなずいた。
「最近、人工衛星の故障が頻発していたけど、SRBの破片が故障の原因だったなら、数年前から少しずつ破片が蓄積されていたのね。衝突しても人工衛星の脅威にならない小さなデブリは、スペースガードの監視対象にならない。でも、小さな破片が成長して、害を及ぼすほど大きくなったら……」
「危険なデブリの密度が上がり、ケスラーシンドロームの臨界を超えてしまうのか」
アダムスはスキンヘッドに浮かんだ汗をぬぐった。
 資料を読み込み、ソーニャが進言した。
「船長。私は航海士として本部の決定を支持します。地球への帰還は危険です。月軌道の外側でも、デブリの影響が否定できません」
「それは私も同意だ。ロクテーヴァ小尉。着陸船が無ければどうしようもない。だが……」
 アダムスは腕を組んだ。
6人の乗るボーラは、火星からの加速を終え、今も航行速度で地球を目指している。9ヵ月後には到着の予定だ。地球からの通信にはデブリ除去に全力を尽くすとあったが、人類が衛星軌道に築き上げた宇宙ステーションは壊滅してしまった。デブリの除去がうまく行くとしても、年単位の時間がかかるだろう。
指令書の最後には“生存に全力を尽くせ。諸君らの幸運を祈る”と記されていた。
宇宙の海原で帰る港を失った船には、新たな目的地が必要だが、ボーラには地球の周回軌道に入るだけの推進剤しか残されていない。
「ルクス、ボーラは火星に引き返せるか?」
「不可能です。推進剤が不足しています」AIは答えた。
 ソーニャは手元の計算を中央の地球儀に表示させた。
「軌道を制御し、地球スイングバイを2回行えば、火星への再加速が可能ですが……」
 予想されるスイングバイ軌道は、デブリの多い低軌道を通過している。ボーラが到着する9ヶ月後には、さらにデブリの密度は上がる。
「地球の通過と周回軌道での滞在は選択肢から外そう。火星もだ」
 アダムスの口調は落ち着いていた。
「自分たちの作ってきた基地に戻れないのは、歯がゆいわね」
ボーラの乗組員達が建設したフォボス基地は、人間を真空と宇宙線から保護し、農場で十分な食料を確保できるが、すでに天文単位のかなたである。
「船長。地球の太陽公転軌道に入るのはどうでしょう?」
 ソーニャは円卓中央に地球の公転軌道を表示した。母なる地球が親愛なる太陽を周回する軌道だが、公転軌道は周囲に何もない宇宙空間である。港に入れない船が目的地の近海で停泊するのではなく、太洋の真ん中で漂流するようなものだ。
「ルクス、残りの食料は?」アダムスは尋ねた。
「栽培野菜と非常食も含め、切り詰めて、5年分です」
 アダムスは唸った。
「公転軌道ならデブリからは安全だが、食料はもって5年か」
 明示された食料のタイムリミットが、生々しくクルーたちの脳裏をよぎる。水耕栽培の生産量を増やしても確実な飢えが待っている。地球での遭難と違い、宇宙には糸を垂らせば魚が食いつく海も、動物の駆ける森も無いのだ。食料を確保しなければならない。
デブリからの安全を優先する選択とはいえ、終わりの見えない漂流に向かうことも、クルーの表情を曇らせた。
 ぼそぼそ言うマリクのつぶやきに、5人の顔が向いた。
「あ、いや……」
「テナー機関士、何かあるか?」アダムスがうながす。
訓練も含め、長い付き合いである。皆、マリクが何か言いたげなのをさとった。
「もしまだあれば、なんだが。旧式の宇宙ステーションを目指さないか?」
「マリク。地球のステーションは、もうみんなスクラップだぞ」
ウォンがたしなめた。
「地球軌道じゃない。たしか50年くらい前、月以遠軌道の宇宙ステーションの代替わりがあって、古いステーションを月や地球に落とすには推進剤が足りなくて。地球周回軌道からゆっくり離して公転軌道に乗せ、重力的に安定なラグランジュ点まで移動させたことがあったはずだ」
 アダムスがひざを打った。
「月面財団のパイライト宇宙ステーションか!」
「それです。L4かL5か忘れましたが」
「L5軌道だ。ルクス、ラグランジュ点への軌道制御は……」
アダムスが命じるより早く、映像は太陽を中心とした地球公転軌道に替わった。ルクスが表示したのは、現在位置からボーラを加速させ、ボーラの太陽公転軌道を高く維持する事で、地球を追うL5点へ至る計算結果だった。
「14日以内に加速を開始すればL5に到達できます。登録されているパイライトの軌道まで到達可能ですが、推進剤が少しだけ足りません。生活用水を一部電気分解し、推進剤に転用する必要があります。みなさんの健康を損なう恐れがあり……」
「どの程度だ?」アダムスは確認した。
「申し上げるのは大変心苦しいのですが、シャワーは3日に1度です」
「聞いてのとおりだ。緊急避難として、ボーラの進路をL5のパイライト宇宙ステーションに向ける。異議のあるものは?」
 クルー全員、黙してうなずいた。
「では、地球本部と月面財団に、パイライトの使用を申請する。軌道遷移加速のため、今晩にかけてボーラの自転を止める。重力停止と加速に備え、担当機器を航行モードに切り替えてくれ」
 指示を受け、乗組員たちは席を立つ。
「あ、ちょっと!」ルクスがケリュケイオンの蛇をウネウネさせた。
「どうした?」と、アダムス。
「再度計算しましたが、この軌道では……」
 蛇をうねらせるルクスに、クルーの視線が集まる。
「ご婦人がたのシャワーは、2日に1回にできます」
 優秀な乗組員たちは、各自の担当場所に急いだ。

 西暦2281年4月。ボーラが漂流を決断してから1年。
「実物を見ると、でかいな」
 操縦席から見上げ、マリクは感嘆の声を上げた。
 金色の立方体型ステーション、パイライトは、月面が鉱物資源のゴールドラッシュを迎えていた時代の、威容をそのままに残していた。1辺200mの立方体をコアとして、雑多な構造物が数十mの規模で付着している。コアの表面は金属外殻で装甲されて黄金色に輝き、付随する構造物はおおむね茶色をしている。
ピラミッドのような巨大建造物を見渡すマリクに、アダムスも同意した。
「ルナツーやルナワンはこいつの後継ステーションで、もちろん後継の方が機能に優れている。しかしこの外見は、無重力時代の凄味だな」
パイライトは自転による重力を前提としておらず、車輪型やダンベル型の重力式宇宙ステーションに慣れたクルーたちに、ノスタルジックな感慨を抱かせた。
「どうしてこんなすごい物を宇宙に放り捨てちゃうのかな」ウォンはつぶやいた。
「これが一番お金のかからない処分法だからよ」と、チャンディー。
「地球でも、古くなった船を海に沈めて処分していたんだって。時代が変わっても、やる事は同じね」ソーニャは達観したように言う。
「よし、みな。先人の偉業をもっと鑑賞したいところだが」
 アダムスが手を叩いた。
「乗り込むぞ」

 黄金色の立方体に沿って、マリクとソーニャの2機の作業用ポッドが飛行する。
接岸前にもボーラの窓から目視確認していたが、外壁に大きな損傷は見られない。ある面には岩石小惑星と思われる衝突痕があったが、近づいて確認すると、パイライトの装甲外殻には少しのへこみもなかった。
パイライトの各面には太陽電池が備え付けられており、今は閉じた扇のように収納されている。確認した限り、太陽電池の展開機構に異常はなさそうだ。
「こちらマリクです。アダムスさん、聞こえますか?」
 無線で呼び出すと、少し間を置いて応えた。
「アダムスだ。こちらは制御室に着いた。無線の状態は良好だな」
「こちらも良く聞こえます。外壁の太陽電池に大きな故障は見られません」
「了解。距離を取って待機してくれ」
 マリクとソーニャがポッドを下がらせると、12時を指して収納されていた太陽電池が扇状に展開され、黄金色の立方体各面に、濃藍色の円が出現した。ふたりは全ての太陽電池が正しく展開された事を確認し、外壁構造物の探索を続けた。

 巨大な宇宙ステーションの中央には、星の光は届かない。真っ暗なパイライトの制御室には、膨大な数の操作盤が並んでいた。ヘッドライトの明かりを頼りに制御盤を操作すると、太陽電池の展開と共に、まずは非常灯が明るくなり、次いで部屋全体に光がともった。
 チャンディーが確認する制御板には、6つの正方形とそれぞれに内接する円で各面の太陽パネルの展開状況が表示されている。それぞれの面の発電量からすると、パイライトは6つの面のうち、2面を太陽に向けているようだ。少しばかりチャンディーの表情が曇る。
「故障は無いけど、劣化がひどい。設計発電量の10%ってところね。ダン、そっちはどう?」
 姿勢制御コンソールに取り付いているアダムス船長に声をかけた。
「アンテナとスラスタに故障はなさそうだ」
 コンピュータを立ち上げると、パイライトの姿勢が表示された。2日に1回転の自転は許容範囲だが、姿勢制御用の推進材が空だと警告ランプが点る。
「やはり推進材は空だな。呼吸気の確保はできるか?」
「いいえ、残量が……」
 チャンディーが見る揮発性物質の制御盤には、水と酸素の残量が0と示されていた。

 外壁を巡り終えたマリクとソーニャは、宇宙船整備用のドックの探索を始めていた。
パイライトの真空ドックは、典型的な無重力空間の工作室だった。テニスコートほどの閉鎖空間の中央に宇宙船を停泊させる空間と、船体固定用のアームがある。限られた面積を有効に使おうとしたのだろう、ドックの壁には工作機械がぎっしりと整列している。
マリクは工作機械のひとつに掛かりきりで、ソーニャが声をかけた。
「ダメだわ。宇宙機補給用の推進材も水も空っぽ……で、あなたは何をしてるの?」
「他の機械は何に使うか分かるけど、こいつだけは見当がつかなくて」
その工作機械は横長の直方体で、大きさはマリクロバスほど。長面の半分を占める窓があり、内側にはアームや突起物が並んでいる。大まかな形状は他の工作機械に似ているが、細かなパネルを寄せ集めた外壁や、複雑な内部の構造はかなり独特で、古いというより異質な印象を抱かせる。
「こういうのはチャンディーさんに聞いた方が早いな」
マリクが無線で呼び出すと、パイライト制御室のチャンディーが答えた。
「どうかした?」
「ちょっとおかしな機械を見つけました。これなんですけど」
 機械外観や内部の映像を送ると、無線越しに沈黙があって、チャンディーは答えた。
「たぶん、月面財団が火星殖民用に開発してた工作機械ね。セラミックや半導体も作れる、電気炉を備えた3Dプリンタで、自己複製が可能なはず」
「自己複製? 材料を入れれば、この工作機械が増やせるんですか?」
「そう。最初はこういう機械をひとつ持ち込んで、自己複製させてどんどん増やして、火星表面に大工場を作ろうって計画だったみたい。実現はしなかったけどね。色々と使い道のある機械だから、試しに電源を入れてみて。ドックに電力を送るわ」
 チャンディーの言葉から数秒置いて、ドックの非常灯が点った。装置の電源を入れると、操作部には“Reproductor”と表示された。
「リプロダクター、再生産するもの……か」
「スペイン語では受胎、生殖なんて意味もあるわね」とソーニャ。
割り込むようにアダムスが声をかける。
「ドックの推進材と水はどうだった?」
「残量はありませんでした」
「そうか……」
「食料庫に行ったふたりはどうです?」
マリクの質問に、チャンディーが答えた。
「無線の中継が上手くいっていなくて、連絡が取れないわ。まあ危険はないと思うけど……」

 ウォンとサトコが通路を進むうちに非常灯が点り、やがて薄暗いながらも何個置きかで電灯が光るようになった。農場のハッチを開け、入り口横のスイッチを操作すると、部屋の各面に備えられた電灯が徐々に明るさを増す。
 パイライトには本格的な無重力農場が備わっていた。床面積25m四方、高さ10mの大農場が稼動していた頃は、張り巡らされたパイプを水が循環し、棚はLEDの光を発して、大量の野菜が生産されていただろう。廃棄前の担当者は几帳面だったらしく、野菜の栽培棚はどれもピカピカに磨かれていた。
農場に早々に見切りをつけ、ふたりは農場に隣接する汚水処理場に向かった。
立ち並ぶ汚水処理タンクはひとつの直径が3m、高さは5mほど。コンソールで確認すると中身は空だった。念のため手を沿えて叩いてみたが、がらんどうの軽い感触が返ってきた。水の気配は無い。
農場と汚水処理場は食料庫にも近く、通路を曲がるとすぐに行き当たった。
ふたりが入った食料庫は、農場にも迫る大空間だった。細い金属支柱が、およそ10mの“床から天井まで”整然と並び、棚板が渡されている。照明をつけると無重力に浮かぶ埃が光の柱を作る。倉庫の壁は妙に汚れていて、棚板に荷物を固定するためのネットもボロボロに劣化している。
50年前の倉庫のネットとは言え、宇宙で使うために厳選された素材がこれほど劣化するだろうか? ウォンは空っぽの棚に手をかけ、ネットの残骸を確認する。
「刃物で切った跡?」
「いいえ、何かをこすり付けて切ったような」
サトコの指摘にウォンもうなずく。
「入ってすぐの棚に、10万食の非常食が置かれてるはずだよね?」
「違う部屋なのかな。この倉庫には何もないし……あら?」
サトコの指す先、倉庫の片隅に、握りこぶしほどの黒い物が積み重なっていた。パイライトの自転による微弱な遠心力で、外壁側の壁に寄せられている。もともと棚に収められていただろう食料の箱類も、黒いものに混じって倉庫の一角に寄り集まっていた。
「あれじゃない? 棚のネットが破れて、荷物が部屋の隅に寄っちゃったのよ」
「そうかなあ?」
 棚の支柱をつかんで体を加速させ、黒い物の山に向かう。
手が触れるほどまで近づいて、黒い物の正体に気づき、ふたりは悲鳴を上げた。

パイライトの探索を終え、ルクスの用意したサンドウィッチを食べながらのランチミーティング。無重力での食事の常で、円卓の周りには、食べかすを回収するために少し風が吹いている。アダムスは、うつむくウォンとサトコに聞き返した。
「ネズミ?」
「そうです」
 ウォンは記録した画像を円卓中央に表示させた。食事中なので遠く引いた画像のみを選んでいる。
「大量のネズミのミイラです。数は見当もつきません」
「ネズミの死体に混ざって、非常食のパッケージの残骸もありました」
「飲料水も缶のタブを引いて飲まれていました。ネズミはなかなか器用です」
 ウォンは皮肉を言い、チャンディーは食料庫の画像に目を向けた。
「宇宙ステーションの食料庫は、構造も空気の管理も他と完全に独立していて、責任者が定期的に真空にして虫やネズミを駆除するの。廃棄の寸前にネズミが入り込んだようね」
 ラグランジュ点へパイライトを移動させた記録を読み、アダムスは嘆息した。
「移動中のパイライトは、最低限の生命維持装置が稼動していたはずだ。人間が置いていった非常食を食い散らかしてネズミは繁殖。移動が終わったパイライトの電源が落とされて窒息死したと……ウォン」
「はい、船長」
「ネズミの死体を何かに利用できるか?」
アダムスの質問に、クルー4人はたじろいだ。しかしウォンは冷静に返す。
「ボーラの炭素循環装置に入れれば、水耕栽培の肥料やメタンガスとして利用できるかもしれませんが、感染症の恐れがあります。船内にネズミの死体をそのまま持ち込む事は、医師として許可できません」
「では、パイライトの炭素循環装置を使えないか?」
 食い下がるアダムスに、ウォンは首を振った。
「細菌で有機物を分解するには水が必要です。パイライトの装置は利用できません」
中央モニタに映し出されたリストが、クルーたちの手札の全てだった。
宇宙船ボーラは現在のところ正常に機能しているが、推進材の希ガスを使い果たし、追加の推進材として用いた生活用水の30%を失っている。
午前中に探索した限り、パイライト内部は完全に乾ききっていた。水をはじめ揮発性物質は全て失われており、太陽電池は劣化して電力が確保できない。ドックには旧式ながら充実した工作機械と3Dプリンタ用の基材が残されていたが、宇宙船に補給する水や推進材のタンクは空だった。
ボーラの推進材と水を注ぎ込んで得た成果としては、あまりに少ない収穫だった。
非常食はネズミに食い尽くされ、残りの食料は切り詰めても4年分。真綿で首を絞めるように、飢えは確実に迫る。
「とにかく食料、植物の栽培。そのための電力と水の確保だ」
 アダムスの搾り出すような言葉に、チャンディーも同意する。
「宇宙ステーションの配管には結露した氷が詰まることがある。50年経ったら揮発しているかもしれないけど、閉鎖区画の配管なら、氷が残っている可能性はあるわ」
「そうした氷を探してかき集めよう。電力は……うーむ」
「せめてあと10%あれば、ボーラのメンテナンスができるのだけど」と、チャンディー。
 予定していた航行時間を超え、さらに何年もボーラで過ごすなら、いずれボーラの点検と補修が必要だ。メンテナンスの間、クルーはパイライトに滞在するつもりだったが、現在の不安定な電力ではクルーの生命を預けられない。
「ちょっと、いいかな?」
ウォンが口を開いた。
「僕は宇宙船については素人だから、無理なら無理と言ってほしいんですけど」
「この状況だ。どんな意見でも貴重だよ」アダムスはうながした。
「パイライトには十分な工作機械がある。少ないながらもポッドを飛ばせるくらいの推進材もあるんですよね?」
 ソーニャとチャンディー、それにマリクがうなずく。
「そして、いま僕らがいるのはラグランジュL5点。古くは200年前からの人工衛星の集積地です。古い人工衛星から、まだ使える太陽電池パネルを集めれば、電力の足しくらいにはなりませんか?」
 マリクは、おおいに馬鹿にするように「そんなの……」と言いかけ、真顔に戻った。
「行けるかもしれないな」
他のクルーたちも真面目に検討した。
「ルクス、ポッドで往復できる範囲内に、人工衛星はあるか?」
 円卓に、周辺の人工衛星の軌道が立体表示される。パイライトが位置するのはL5の重力的に安定した領域のほぼ中央。いくつもの人工衛星がL5の周囲を、太陽方向にへこんだ豆のような軌道で周回している。
「L5宙域に登録されている人工物は、稼働中が14機、休眠中が27機、破棄もしくは行方不明がパイライトを含めて82機です。うち、パイライトから作業用ポッドで往復可能な距離はこの範囲です」
 パイライトの周辺に豆型の範囲が表示される。ポッドで往復可能な距離は、もっとも近い人工衛星の軌道の半分ほどしかない。
「無理か……」アダムスは唸った。
「いや。諦めるのは早いです。ルクス、ちょっとややこしい計算になるが」
 マリクは前置きした。
「ポッドが積んでいる水素酸素スラスタの出力は100ニュートン。強力だが燃費が悪すぎる。ポッドにプラズマイオンエンジンを追加できないか? 出力が低くても燃費は格段に良い。同じ推進材で往復できる距離はずっと長いはずだ」
「では、スラスタの出力と燃料消費率を指定してください」
「出力は0.5ニュートン。燃費は平均的なイオンエンジンの7割で頼む」
わずかに間を置き、中央の立体画像が更新される。豆型の範囲が遥かに広くなり、パイライト周辺の人工衛星の軌道に達する。
「回収可能な人工衛星は38機です」
おお、とクルーは声を上げた。
「いけるぞ」とアダムス。
「イオンエンジンはどうするの?」と、ソーニャ。
「もちろん、こいつで作るんだよ」
 マリクは中央モニタに、ドックにあった工作機械、リプロダクターを強調表示した。

非常食の現状と今後の方針を地球に連絡すると、返信があった。月面財団からは丁重な謝罪の言葉。地上の本部からは旧式の3Dプリンタでも作成可能なイオンエンジンのデータが送られてきた。
加えて月面財団からは、移動可能な人工衛星を全てパイライトに集結させるので、タンクの揮発性物質を使ってかまわないとも連絡して来た。それらの中には、人類が建造した最高性能の可視光望遠鏡である、ブラーエ宇宙望遠鏡も含まれていた。地球からも同様の申し出もあり、L5で稼働中の人工衛星は全てパイライトに集合することになった。
廃棄された人工衛星を分解し、発電システムをパイライトの電力に流用することも了承された。沈黙している人工衛星のうち、まだ推進材が残っていると思われるもの、太陽電池があまり劣化していないものを選定し、遠征計画が立てられた。健康を心配するルクスは、十分な防護の宇宙服を着るとは言え、12時間以上の船外活動を歓迎しなかったが、アダムス船長は我々が生き延びるためだと説得した。

 西暦2280年4月。
 茫漠とした宇宙空間を進む1機の宇宙作業艇があった。
それは自動車ほどの大きさで、後部には4基のプラズマイオンエンジンが増設されている。宇宙空間に曝露されるポッドの座席には、宇宙作業用のアーマーを着たマリクが一人で乗っていた。エンジンの増設は比較的容易に終わり、1週間の信頼性テストを経て、人工衛星回収作業が始まった。この航海は、その第1号である。
パイライトから片道6時間の操縦はルクスが遠隔操作しているため、マリクは特にする事がない。ぼんやり宇宙空間を眺めていると、どうしても不安が増してくる。
 水も電力も、状況は一向に改善していない。稼働中の人工衛星がパイライトに到着しはじめているが、推進材はイオンエンジン用の希ガスばかり。ネズミのミイラを加熱した湯気を集め、水を工面しなければならないほど、乗組員の水不足は深刻だ。当然ながらパイライトの大農場は使えず、このままでは4年後の飢えは避けられない。
最後の希望は、廃棄された大昔の人工衛星だ。マリクが向かうのは40年前に機能停止した大型衛星で、推進材のメタンと酸素タンクがある。わずかでも揮発性物質が残っていれば、命を繋ぐ希望になるはずだ。

 マリクが到着した衛星は3階建てのビルほどもある構造物だった。直方体の機体の左右には、太陽電池の翼が広げられている。すでに死んでいる衛星は太陽に斜めを向き、暗い宇宙を漂う幽霊船のようだった。
 ポッドから降り、アーマーのスラスタを使って、マリクは太陽電池の基部に取り付いた。アーマーのサイドパックから工具を取り出し、太陽電池から本体へ伸びる太い電線を切断する。切断した電線に電流計を噛ませると、ごくわずかに針が振れた。反対側の太陽電池も同じだった。
「この面積で、これだけか」
 体を伸ばして、テニスコートほどもある太陽電池を見渡した。展開されたまま40年が経ち、パイライトの太陽電池よりも劣化していた。回収する目安としていた発電量を下回っており、持ち帰る価値はない。気を取り直し、揮発性物質タンクの回収に移る。
 地球から送られてきた衛星の設計図をヘルメットのバイザーに表示させ、外装をこじ開けて進入する。複雑な配管と電線を潜り抜けると、3mほどの球体のタンクが並んでいた。タンクの首には電子式の弁が設けられている。アーマーのプラズマトーチでタンクの固定金具と配管を切断し、壁面から取り外した。
 侵入時に開けた外装の穴を内側から蹴破って広げ、マリクは揮発性物質の球形タンクふたつを宇宙空間に引きずり出した。球形タンクの設計図をコンピュータに読み込ませ、タンクのひとつを持ってアーマーで少し加速し、逆噴射。もうひとつのタンクに持ち替え、同様に加速と逆噴射をする。慣性による重量計測を終え、マリクはタンクをふたつとも衛星に蹴り込んだ。
「クソッ!」
衛星の壁を殴ると、アーマーのセラミック外装と骨格を伝って金属音が響く。
マリクはポッドに戻り、ボーラに通信を入れる前に、自分に言い聞かせた。
「メタンも酸素も空だった。あくまでも自然に言うんだ。電話でお袋に、冷蔵庫のペプシが空だったと伝えるくらいに何気なく。大丈夫だ。悲観するな、悲観するな……」
 深呼吸をして遠い星空を眺める。首を上に向け、下に向け、遮光バイザー越しに太陽が目に入った。太陽を見つめていると、落ち着く気がした。もう一度深呼吸をして……
「ん?」
 太陽の中に黒い影が見えた。
アーマーの望遠カメラで太陽を撮影し、バイザーに表示させる。影は明瞭に丸く、大きさは太陽の10分の1ほど。太陽の右上には黒点があり、丸い影と比べると黒点の周囲はにじんでいる。
地球の公転軌道よりも内側にある、水星か金星が、マリクと太陽の間を通過しているのかと思われた。しかし、現在の惑星の位置をヘルメット内に表示させると、水星も金星も、太陽の向こう側、影とは関係ない位置にある。
つまり何かが、マリクと太陽の間にあるのだ。
球型のタンクだけが宇宙空間に浮かんでいる様子をマリクは想像した。
「こちらマリク。ボーラ、応答願います」
「こちらボーラ」アダムスの声だ。
「衛星を確認しましたが、回収できそうな物はありません。太陽電池は劣化しすぎて、タンクも空です。データを送信します」
 数秒置いて、アダムスは答えた。
「たしかに。推進材を使って持ち帰る価値は無いな。ご苦労だった。ポッドを帰還軌道に遷移させる。加速に備えてくれ」
「待ってください。船長、そこから太陽の中に影が見えませんか?」
「影? 黒点か?」
 聞き返すアダムスに、マリクは撮影した太陽の画像を送信した。
「なるほど。黒点と言うより、惑星の太陽面通過のように見えるな。ボーラからだと、この影は観測できない」
「回収予定だったタンクに似た物が、数kmそこらに漂っていると思うんです。俺からの距離をボーラのレーダーで測れませんか?」
「わかった。3分後にレーダーを照射する。通信を切って備えてくれ」
「了解」
 マリクは通信機の電源を切り、ヘルメット内で耳を澄ました。3分後、レーダー照射の影響で電子機器に微弱なノイズが1回、さらに続けて3回走った。
2分おいてボーラに通信を入れる。
「こちらマリク。ボーラ、応答願いま……」
「ありえないわ!」
 通信をチャンディーの声がさえぎった。
「待て、マリクから通信だ」と、アダムス。
 ざわつきを聞くと、どうやらクルー全員が無線に参加しているようだ。
「しかしこれは……」
 言いよどむアダムスの横から、ソーニャの声がした。
「マリク、落ち着いて聞いて。影までの距離は、580kmだったわ」
「はあ!? それだとあの影は……直径500mだぞ!?」
「だから、ありえないって言ってるの!」
 チャンディーが叫んだ。
「あの大きさの小惑星が完全な円の影になるのは不自然よ。人工物なら、どんな宇宙ステーションよりも巨大。自然物にしても人工物にしても、あるはずが無いわ」
「だが、実際に観測されているだろう。マリク。その円、おそらく球体は、可視光と電波の反射が著しく低い。レーダーの波長を変えて繰り返し測定し、結果を重ね合わせてようやく距離がつかめた」
 アダムスの後ろで、チャンディーとソーニャが議論を続けている。マリクは尋ねた。
「それで船長、どうします?」
「ポッドの推進材にはまだ余裕がある。お前はどうだ? 行けるか?」
「ここまで来て手ぶらで帰れませんよ。準備はできてます。いつでも加速してください」
「軌道を設定しました。エンジン始動まで10秒」
 ルクスがカウントダウンをはじめる。
 太陽の中の影は、少し右に移動している。L5点の重力中心の少し内側を、公転方向に移動しているようだ。バイザー越しに肉眼で見ても、影の形は真円に見える。
 カウントダウンが終わり、マリクはわずかな加速を感じた。

1時間ほどの航行中、ボーラとの通信を切らなかったため、マリクはクルーたちの議論を聞くはめになった。あくまで影の存在を疑うチャンディー建設主任、アダムス船長は人工衛星なら揮発性物質が得られるかもしれないと期待を寄せ、ソーニャ航海士とサトコ技師は粉体の集積した小惑星の説で一致し、ウォン医師は野菜の面倒を見に退席したようだ。
 影は太陽の左、西側から東側へと移動し、太陽の表面から外れると姿が見えなくなった。影の原因となっていた物体を見つけようと、マリクはカメラの倍率を上げて太陽の東側を走査したが、太陽光が邪魔をして、それらしい画像は得られなかった。
 そろそろ到着する時間だとマリクが身構えると、ルクスの声が通信に割り込んだ。
「最終加速を開始します」
 マリクはシートに座って答えた。ポッドが進行方向に後部を向け、イオンエンジンを噴射すると、シートの背もたれにわずかな減速の重さを感じる。ヘルメットにポッドの後方カメラを表示し、通信でボーラにも送るように設定する。だが、やはり星空以外は何も見えない。
 ほどなく減速は終わり、進行方向にポッドが向き直って、ルクスの声がした。
「到着しました。お気をつけて」
「ありがとな」
 マリクは目指してきた方向を見た。
何もない。ただ漆黒の闇と、きらめく星があるだけだった。
「本当に、ここか?」
 アダムスが答える。
「マリク、お前が到着する寸前までレーダーに捉えていた。すぐ側にあるはずだ」
「そう言われても……ん?」
 空の一角、マリクが腕を伸ばして広げた指先ほどの空間に星が無かった。黒い穴が水瓶座を遮り、あれほど明るかった太陽も無い。確かにそこに何かがあり、太陽と星座をマリクから隠しているのだ。
「見つけました」
 マリクはポッドを操縦し、星の無くなっている空間へと進む。
進むほどに星空の穴は大きくなるが、それでも影の実体がわからない。少し進むと、ポッドの衝突回避システムが警告を発し、スラスタを吹かして急減速した。前のめりになり、マリクはシートから立ち上がった。
 何もない。ただ星のない、暗い空間が広がっている。しかしポッドは目の前に物体がある事をレーダーで検知していた。ポッドを追尾モードに切り替え、マリクはアーマーのスラスタを吹かして空間に浮かび出た。ほんの数メートル先にあるはずだが、何も見えない。星の無くなった宇宙空間が広がるだけだ。
マリクがヘッドライトを点けると、それは突然出現した。強力なヘッドライトの光が黒い表面にかすんだ円を作り、目前の物体がようやく把握できた。
マリクは腰のサイドパックからレンチを取り出し、それの表面をつついてみた。黒い表面はカーボンが堆積しているのかと思ったが、レンチの先には何もついていない。
直径500mの黒い壁、あるいは大地。振り返ると星空。少し離れて浮かぶポッドが心強い。ポッドの投光器を起動すると、黒い表面にわずかにマリクの人影がうつる。スラスタを吹かして前進し、指先で表面に触れる。あまり固い感触ではない。力をこめて押すと、石を投げ込んだ水面のように波うち、振動が周囲へ伝わっていく。
「おおぉ……」
「マリク! どうした!」
 ヘルメット内にウォンの声がしていた。
「こちらマリク。物体の表面に接触した」
 クルーの安堵の息が聞こえる。アダムス船長が言った。
「そちらからの映像は見ているが、黒い背景に君の手が映っているだけだ。何があった?小惑星か? 人工物か?」
「いやその……」
 マリクは言いよどんだ。確かめるように物体を叩くと、振動がどよんどよんと伝わっていく。
「何だこりゃ」
 無線の向こうでアダムスは咳払いした。
「……テナー准尉。“何だこりゃ”ではわからん。詳細を報告せよ」
「すみません。ええと、見る限りでは完全に一様な球体です。凹凸は無く、継ぎ目もリベットもありません。表面は少しざらついていて、煤けたように黒いです。叩くと波打ちます。内部にガスが溜まっているようです」
 そうマリクが伝えると、クルーたちは静かになった。
 アダムス船長はつぶやいた。
「何だそれは」

ポッドの高度を用心深く保ちながら、マリクは黒い球体の上空を進む。少し移動すると地平線から太陽が昇った。太陽に照らされて表面と星空の見分けがつくようになると、物体の異様さはさらに際立った。真っ黒な継ぎ目のない球体。表面には一切の特徴がないため、直径500mの全体が見えても距離感が掴めない。
マリクは物体表面に変化や特徴を探した。自転の速度を見積もるには、わずかな色の変化でもあれば十分だ。ポッドを操作して昼側の半球を飛びまわったが、斑点や傷などは見つからない。マリクが昼側半球から夜側半球へ向かい、昼夜の境界に至って、ついに特徴的な構造を発見した。
黒い球体表面に、直径約20mの輪が張り付いていた。ドーナツの上にしなやかな黒い布を被せたようで、外周の輪郭が良く見える。内側は太鼓の皮のように張ってわずかに凹み、他の表面よりも白みがかっていた。
「物体表面に構造物を発見した」
 ボーラに通信すると、チャンディーの声がした。
「円盤……いえ、トーラス状の構造ね」
「アーマーで行くなら、ポッドのカメラからも映像を送ってくれ」
アダムスが言った。
「了解。接近します」
 ポッドを追従モードに切り替え、距離をおいて待機させる。マリクはアーマーのスラスタを吹かし、まずはドーナツの外周に接近する。構造物は今のところ夜側にあって暗いが、球はゆっくり自転して、この地方は間もなく夜明けを迎えるようだ。
 直径20m、太さ4mほどのドーナツ状の構造物に近づき、外周の黒い表面を叩いてみると、硬質な手応えがあった。球面のように波打たない。やはり、この下に何かあるのだ。
 ドーナツの側面には球体の黒い素材がしわを寄せて折り重なり、所々が裂けて、ベルトのようにたなびいていた。
「いいぞ、サンプルを回収しろ」
 通信越しにアダムスが言った。
 黒い素材のベルトは幅10cm、厚さは5mmほど。片面は真っ黒だが、もう片面は半透明の繊維が絡まった白いフェルトのようだ。ためしに引っ張るが、アーマーの出力でも引きちぎれない。トーチを使って2mほど焼き切り、アーマーの手首に巻きつけた。

 スラスタを吹かし、マリクの身長の倍はある太いドーナツに飛び上がる。周囲の表面と比べて、内側の面はドーナツの太さだけ高くなっており、縁は黒く、中央に行くほど白い。ヘッドライトを足元に振ると、白く輝く粉が薄く堆積していた。
「これは……」
 マリクは歩いて輪の中央へと進む。中央に近づくほど、輝く粉は堆積して厚さと白さを増す。輪の中央で堆積物は分厚い層になって、その下の黒い表面を感じさせない。
 マリクはその場にひざまずき、アーマーのサイドパックをあけて、金属工具の間から500ccの耐圧ボトルを取り出す。透明素材の広口ボトルを開け、足元に堆積した粉をスプーン2杯ほどこそげ取り、蓋を閉める。透明容器の中で、ヘッドライトの明かりに照らされ、針のような結晶がキラキラと輝く。
 夜側にあったドーナツが、球体の自転によって夜明けを向かえ、直径500mの黒い大地の地平線から太陽が昇る。太陽の熱を受け、透明容器の壁に触れた針状の結晶が、少しずつ溶ける。透明な液体は沸騰して、さらに結晶を溶かし、特徴的な表面張力で容器の壁に張り付いた。
「みず……水だ!」
 容器の口を開けると、溶けていた水が一気に沸騰する。氷の層の表面には、霜のような氷の粉が堆積している。容器一杯に霜を詰め込んで口を閉じ、アーマーの手のひらで暖めるように揺すると、霜は溶けて水になっていく。氷に混じっていた砂や小石が容器の壁にぶつかり、容器を持つ手に、こつんこつんと小さな振動を伝える。
「ボーラ、聞こえるか、ボーラ!」
 たっぷりと水の入った容器をカメラの前で振るが、無線に反応が無い。
「通信障害か?」
 バイザーの表示が全て消えている。アーマーの腕に目をやると、ディスプレイはセーフモードになっており“異常磁気検出”と表示されていた。
「磁気?」
 マリクがつぶやくと、ディスプレイの表面が白っぽくざらついた。見える限りのアーマー表面にも白い結晶が付着し、針状に伸びていく。ひざまずいて霜を集めていたマリクは、とっさに立ち上がろうとするが、アーマーは重く、動かない。平坦に張っていたドーナツ内側の黒い表面が、マリクの立つ中央をすり鉢状にへこませる。
 ひざに力を入れても微動だにせず、アーマー下半身の外骨格が軋む。しかし容器を持つ手や上半身は自由に動く。
「何だ? 磁気……金属の工具か!」
 マリクが身に着けるアーマーはセラミックと樹脂の複合素材だが、サイドパックに入っている工具だけは金属製で、磁場に引き寄せられているようだ。腰に固定しているロックを解除すると、工具の詰まったサイドパックは足元の氷面に吸いつけられた。その瞬間、黒い素材の張力で、マリクはドーナツの中央から宇宙空間へとはじき飛ばされた。
 見る間に黒い球体は遠くなり、ドーナツも遥か彼方。吹っ飛ばされたマリクを、追従モードのポッドが追いかけてくる。飛ばされながらも、マリクは液体の入った透明な圧力容器をしっかりと握っていた。磁気から離れ、アーマーのコンピュータが再起動し、耳元にアダムスの呼びかけが聞こえる。
「……い。マリク! 応答しろ!」
「こちらマリク。球体の表面で氷を発見しました」
「なんだと!?」
 カメラに映るように容器を掲げる。
「氷ですよ! 水! 水だ!!」
 無線通信に、マリクの笑い声がこだました。

 球体からボーラへの帰還は人工衛星への往路とほぼ同じ6時間かかった。16時間の宇宙旅行を終え、マリクは疲れ果てていた。1Gの重力下で熱いシャワーを浴び、トイレで快適に排泄し、ルクスの作った夕飯を食べた。このまま自室のベッドに倒れ込みたいところだが、興奮した神経が休まらない。
ミーティングルームに行くと、5人のクルーは円卓に座り、マリクの持ち帰ったサンプルを検討中だった。ふらつくマリクを見て、アダムスは言った。
「休息を命じたはずだろう」
「どうにも気になって」
「……座れ。無理はするなよ」
 アダムスはマリクをうながした。
「俺が持ち帰った液体は、その……」
 容器を手にしたウォンが言った。
「正真正銘の水。H2Oだよ」
「やっぱりそうか! 氷はかなりあった。もっと回収できる。俺と一緒に飛び散ってなければだけど……」
「それも問題ない」
 ウォンはモニタに、ポッドから撮影されたマリクの冒険を表示した。
 ドーナツの内側の面は太鼓の皮のように張っていて、日の出とともにマリクを中心に凹み始める。ひざまずいたマリクは周囲の変化に気づかないまま霜をかき集める。立ち上がれないと気づくと無様に両手をジタバタさせ、サイドパックを取り外すと、トランポリンから飛び上がるように、マリクは宇宙へと射出された。表面に付着していた氷は、少量の破片がマリクの後を追ったが、ほとんどそのまま残されている。
「磁場に引き寄せられていた荷物を急に捨てたから、吹っ飛ばされたんだ。怪我がなくてよかったよ。アーマーの表示を確認するのは無重力作業の基本だろ」
 ウォンの皮肉に、マリクは力無く言い返す。
「磁場なんて分かるかよ。それで、あのドーナツと、氷と、デカい球体は何なんです?」
アダムスへの問いをソーニャが答えた。
「およその見当はついたわ。まず、表面で発見されたトーラス状の構造物は、磁気推進衛星プロアだと思われます」
「磁気推進? テザーなら、宇宙機の標準装備だよな?」
「テザー推進ではないわ。磁場の帆。磁気セイル衛星です」
ソーニャは中央のモニタに人工衛星の立体映像を表示した。直径20m、太さ4mの銀白色のドーナツ。外周には帽子のつばのように太陽電池が並ぶ。
「人工衛星は推進材が尽きると軌道や姿勢の制御ができなくなるから、推進材の量が寿命と言ってもいいくらい。でも磁気推進なら、電力が供給される限り推進材は要らないから、以前は衛星長期運用のために研究されていたの」
「60年くらい前の話だろ? しかも、磁気セイルは結局使い物にならなかった」
「そうね。テザー推進は、磁場の強い地球周辺の軌道制御に便利で、極論すれば電線があればいいから装置も小さく済む。磁気セイルは強力な磁場を作り、太陽風の弱い磁場を受けて進むから、超伝導コイルなどで装置が大きくなる割には、あまり推力が得られない。強力な磁場の弊害も大きい。テザー推進は広く普及したけど、磁気セイルは実験機に数例採用されただけ」
「あのドーナツ、プロアも磁気セイルの実験機なのか」
「そう。長期の運用に耐えるために表面は超硬質のセラミック、定格出力時の太陽風内磁気圏半径は7000km。磁気セイルとしては良好な成績を残したけど、60年前、L5点での実験中に通信不能になってしまった。微小惑星や他の人工衛星と衝突したのが原因だとされていたわ」
「……わかった。ドーナツと磁場はいいとして、あの球体は?」
 チャンディーがマリクの回収した黒いベルトを示した。片面は球体と同じ黒。裏面は透明感のある白い繊維がフェルトのように複雑に絡みあっている。
「ひと目みて分かった。これはSRB。自己修復性衛星外皮よ」
「なっ!?」
 マリクは言葉に詰まった。地球軌道でデブリとして増殖し、ボーラが地球に帰れなくなった原因であるSRBに、マリクは嫌悪感を抱いていた。
「それじゃあ、あの球の表面は全部SRBですか?」
「おそらくそうね。でもこれは、現行品よりかなり分厚い。分子構造はルクスが解析中だけど、正式採用前の実験品だと思う。SRBのプロトタイプね」
「いまのSRBとは、どう違うんです?」
「実用化されるまでに、いろいろ困難があったのよ。この厚さは修復性を持たせることに成功した最初の世代。丈夫だけど素材の厚さが災いして、衛星の表面に気泡を作ってしまうことがあったの。とり込んだイオンや塵から生じるガスを表面から逃がせなくて、SRBと衛星表面の間に気泡ができてしまう。イオン密度の高い、惑星近くの軌道では気泡が出来るから使えなくて、ラグランジュ点のような惑星から離れた場所の衛星に採用されていたわ」
「チャンディーさん、確認したいんだけど」
 マリクは制した。
「SRBは、周囲から取り込んだイオンや塵を材料に成長するんですよね? だからデブリは増えるし、気泡のガスもそれらに由来すると」
「ええ。その通りよ」チャンディーはうなずいた。
「それならL5点のイオン密度は低すぎます。地球公転軌道では、多くても1ccに水素イオンが10個とかですよ。基層の増殖に必要な炭素や珪素は皆無に近い。衛星表面に衝突するイオンや塵を全て利用できても、500mに成長するなんて無理ですって」
「プロアの磁場が、太陽風イオンや帯電した塵を集めたのよ」
 ソーニャはプロアの近くに、仮の衛星を出現させた。
「旧式のSRBで覆われた他の衛星が、プロアの磁場に引き寄せられて一体化した。重力的に安定なL5に漂っていた塵が、磁場に誘導されて大量に供給される状態で、SRBは成長を続けるわ」
 立体映像では、プロアにくっついた他の衛星表面にSRBの気泡が膨らむ。
「やがてプロアは成長したSRBの風船にとり込まれ、太陽電池が劣化する年月を経ても、回路に融着したSRBから電力を与えられて、磁場を発生し続けた。最初、マリクはドーナツの内側を歩けていたけど、太陽に照らされたら動けなくなったでしょ? SRBの電流が伝わる範囲は限りがあるから、球体の自転で周辺のSRBに太陽光があたって、プロアに電力が供給されたのよ」
「それなら水は? 水素は太陽風からとしても、酸素はどこから来たんだ?」
「簡単な化学反応よ」
 チャンディーは立体映像に化学式を表示させた。
「塵がSRBに取り込まれると、炭素や珪素や金属と結合していた酸素は行き場を失う。ガスとして気泡の内部や周囲に漂い、太陽風の水素イオンと結合して水になる」
 アダムスが口を開いた。
「球体の周りに比較的高濃度の酸素イオンが存在していることが、パイライトからの分光観測でも確かめられた。磁場とSRBが作り出した、まさに宇宙の水瓶だ」
 指を組み、アダムス船長は宣言した。
「人工衛星の回収を中断し。球体を再探査する」
 クルー全員、力強くうなずいた。
 
 10日後、乗組員たちは球体へ向けて出発した。
 イオンエンジンを増設した3機のポッドへ、操縦技量に差が無いように分乗する。アダムスとチャンディーのポッドはアームを広げ、パイライトから拝借した直径3mの水タンクを抱える。ソーニャとウォン、マリクとサトコが乗るポッドは、大きな部材にワイヤーをかけ、2機で牽引する。白いシルクハットのような部材は、つばの内周と外周にリベットのような突起が列になっている。
片道7時間の宇宙飛行を経て球体に接近しても、マリクの初回接近と同様に、なかなか全貌がつかめなかった。昼側に至ると、宇宙の闇にうっすらと、その黒い巨体が現れた。ソーニャは球体の情報を各自のバイザーに表示させた。
「球体の自転周期は約16時間。赤道傾斜角はほぼありません。テナー准尉の探査したトーラス状の磁気発生部は球体の赤道に位置しています。磁気発生部での氷採掘は、周辺に日の当たらない8時間のうち、前後の2時間を除いた4時間を作業時間とします。つまり、今から4時間です」
 3機のポッドは近くに集まり、乗員を入れ替えた。水タンクを運ぶポッドに男性陣が乗って赤道のドーナツへ。シルクハットを運ぶ2機に女性陣が分乗して球の北極へと向かった。

 アダムス、マリク、ウォンの男性3人は氷の堆積するドーナツ部に近づいた。アーマーの計器で測定すると、まだ若干の磁場があったが、作業に支障はない。ドーナツから一定の距離を保つようにポッドを追従させ、直径3mの水タンクを引いてドーナツに降りたった。
「お、あった」
 マリクが外したサイドパックは、ドーナツの中央で霜に埋もれていた。掘り出して持ち上げると、まだドーナツに残る磁場により、引き寄せられる重さをずっしりと感じる。ドーナツの中央にタンクを寄せて蓋を開き、工具の入ったサイドパックをタンクに引っ掛けると、磁場の重さでいい具合に安定した。それぞれがアーマーの腰に結んだ鉄の重りも、磁場に引き寄せられて氷の上を快適に歩ける。
「宇宙でハンマーを持つとは思わなかったよ」
 3Dプリンタで出力したプラスチックの槌を取り出し、ウォンはぼやいた。
「基地建設用の削岩機では、球の表面を傷つけるかも知れないからな」
 アダムスも槌を取り出し、氷の層を殴りつけた。気泡を多く含む氷は軽い手ごたえで割れ、アダムスは辞書ほどの塊を持ち上げた。氷の厚板が球に引き寄せられる手ごたえは、氷に含まれる金属質のチリと磁場によるものだ。
 ウォンは握りこぶしほどの塊を手に取り、マリクは一抱えほどある厚板を持ち上げる。男たちは顔を見合わせ、にやりと笑い、大小の氷片をタンクに放り込んだ。砂漠で井戸を見つけたように、男たちは歓喜の笑いを上げながら、氷を採掘していった。

 女性陣は2機のポッドで球体の北極に至った。シルクハット型の部材を球面に伏せ、サトコはアーマーの端末からシルクハットの制御コンピュータを起動した。
「準備はいい?」
 ソーニャは、ポッドの作業アームでシルクハットを球体に押さえる。
「しっかり保持してるわ。SRB表面も異常なし」
「では。アンカーを打ちます」
 サトコが端末を操作すると、つばの根元と縁に並ぶリベットが、球体に打ち込まれた。端末を注視し、サトコは報告する。
「正常に固定されました。球体側エアロックの気圧に変化ありません」
「圧着作業を開始します。ロクテーヴァ少尉はそのまま待機してください」
チャンディーとサトコは帽子の天辺にあたるハッチを開けて中に入った。シルクハットの円筒はエアロック式の二重扉になっている。外側の扉を閉めて、チャンディーは球体側のエアロックを開いた。サトコも一緒に球体側に入ってハッチを閉じる。
球体に密着するエアロックの円筒の壁は白く、対面するSRBの球体の黒い表面との境目がはっきりと分かる。ふたりがSRBとエアロックの境目をシリコンゲルでコーキングすると、ゲルはすぐに固まった。チャンディーは指でゲルをつついて気密性を確認する。
シルクハット状のエアロックが気密性を保って固定された事を確認し、チャンディーはサイドパックからアイスピックのような針を出して、SRBに突き立てた。
鋭利な針はほとんど抵抗なく刺さり、引き抜くと、球内部の気体が穴から吹き出し、エアロック内部に小さな風音が鳴った。
音が収まるのを待って、サトコは蛍光分析器を操作した。
「気圧51ヘクトパスカル。ガスの存在比は不明ですが、主な成分は二酸化炭素と窒素、微量の水とアンモニア、ヘリウムも含まれています」
「可燃性ガスは無しか。トーチが使えるわね」
 チャンディーはサトコをハッチまで下がらせ、アーマーのプラズマトーチでピザを切るように、SRBの丸面を等分する。切り込みを入れたSRBをめくり上げると、白い裏面があらわになった。切ったSRBを折り曲げて円筒の壁に圧着すると、球の内外を行き来するためのエアロックが完成した。
作業を完了したチャンディーとサトコは、すでに球の内側にいた。太陽や星の光がSRBによって遮られた空間は暗く、どこまでも無限の闇が続いているように感じられる。チャンディーはアーマーのヘッドライトを振るが、ライトの照らす範囲では直径500mの曲率は実感できなかった。
サトコはエアロック周辺の電気的な接続を確認した。SRBが太陽光を受けて表裏に生じさせる電位差を、穴の周囲に打ち込んだリベットによって取り出し、LEDの光源に利用する。エアロックが発する光はそれほど強くないが、広大な球を探索するための目印になってくれるはずだ。
 チャンディーは無線でクルー全員に報告した。
「エアロックの設置が完了しました」
「内部の様子はどうだ?」
 氷を採掘するアダムスは息を弾ませて答えた。
「北極周辺には、特に何もありません」
純白のSRB内面にヘッドライトを振ると、自分たちが、なだらかな谷底にいるような感覚になる。明かりの届く範囲には傷も異物もない白い面だけが続いている。
 蛍光分析器を注視しながら、サトコも報告した。
「内部の気体は、ほぼ二酸化炭素とアンモニアです。可燃性ガスはありませんから、照明のために信号弾が使えます」
「わかった。信号弾の使用を許可する。錯覚に気をつけろよ、見上げるんだ」
 チャンディーとサトコは上下の錯覚に陥らないように、エアロックの穴に足を向け、球の中央を見上げた。チャンディーがアーマーの左手を球の中心に向け、右手で装甲下のリングを引いて信号弾を発射した。小さな赤い光が煙を吹きながら飛び、少し進んでから輝き出す。SRBの内面はよく光を反射して、反対側の壁まで赤く浮かび上がる。全体が照らされると、近くで見る限り一様だった球の内壁は、丸めた紙を広げたような濃淡があった。さらに特徴的な放射状の模様が、赤道の一点から伸びている。模様の中心にはドーナツ型の磁気セイル衛星があり、その周りに見える小さな黒い点は、SRB以外の内容物のようだ。球の内部に浮遊物はなく、赤い信号弾はまっさらな空間を昇り、30秒ほどで燃え尽きた。
 カメラの映像を共有していたアダムスは言った。
「磁気衛星の内側に何かあるようだな。探索してくれ」
「了解」チャンディーは応えた。
「こちらソーニャ。外から誘導します。球面を見て」
 エアロック近くの壁が波打った。サトコが叩き返すと、少し離れた場所が、外から叩かれて波打つ。微光を放つエアロックから出て、チャンディーとサトコは波紋の先導を照らしながら、暗闇を進み出した。

 男たちは採掘した氷をタンク一杯に詰め込み、蓋を閉じた。採掘した氷は全体の約半分。これだけ取っても氷はまだ半分残り、追加の堆積も期待できる。心強い氷原を眺める男達の顔には、どうしても笑みがこぼれてくる。
互いに見つめあってぐふぐふ笑っていると、黒い地平の向こうからポッドに乗ったソーニャがやって来た。
ドーナツから降りて出迎えると、球面が内側から波打った。アダムスも叩き返す。
「どうだ、何かあるか?」
 
球体の中から見る磁気セイル衛星周辺は、嵐の後のビーチのように、ゴミや石が散らばっていた。チャンディーは無線越しにアダムスに答える。
「衛星の残骸があるわ。他には大小の石。大きなのは人の頭くらいね」
 プロアを球体の中側から見ると、輪の凹凸がわずかに確認できる程度で、外から見たときよりも立体感に乏しい。外側の氷の堆積する面は、トーラス構造の厚みだけ球から離れているが、球体の中側から見たトーラスの内周は、周囲と高さが変わらない。
「穴の部分に何かあるのかな?」とサトコ。
「いま穴を開けて確認するのは難しい。見える限りで、何かめぼしい物はあるか?」
 無線越しにアダムスは指示した。
チャンディーとサトコは衛星の残骸に近づいた。1立方mほどのスクラップは、かつて人工衛星だったと分かるだけの構造を保っているが、プロアの磁場にさらされ続けた骨組みには、まともな部品は残されていなかった。
「これ、銘板かしら?」チャンディーは残骸の一角を示した。
他の文字は傷に潰されて読めなかったが、セラミック板には確かに『セルベート』と刻まれていた。

 帰り道で話すうち、クルーは自然と球体をセルベートと呼び始め、アダムスが正式に採用した。大量の水と球体の名前を得て、2回目の探索は大成功だった。
 冒険から帰ったクルーたちはボーラの重力下で十分な休息を取り、円卓に集まった。まずソーニャがポッドで観測したセルベートの諸元を示した。
平均直径は503m。極よりも赤道の方が2mほど長い。ポッドの位置変化から割り出された質量は8500トンだった。
「大きさの割には異様に軽いですね。20mの岩石小惑星と同程度です」
 ソーニャの発言に、アダムスもうなずいた。
「一辺200mのパイライトが130万トンだからな。直径500mのセルベートが8500トンというのは、重量の8割近くを内部のガスが占めているんだ」
 セルベートの比重は0.13ほど。前例のないほど“軽い”人工衛星だった。
「ウォン。回収した水と、野菜の栽培の見通しはどうだ?」
「回収した水は約10トン。ボーラのタンクを満たして、まだ3トンほど残っています。ボーラの菜園はすべて稼働でき、節水も解除されました。セルベートから回収した氷は、付着していた量の半分ほどです。残りも回収できればパイライトの農場を一部ですが賄えます」
「水は表面の氷だけではないわ」チャンディーが補足した。
「内部のガスは0.05気圧。球の張力を損なわないよう気をつけても、1000トンほどの水をガスから生成できます」
 アダムスは笑った。
「君はプールでも作るつもりか?」
「そのくらいの水を確保できるんです。ウォン、どうかしら?」
「パイライトの農場で使われた水は200トンですから完全稼働できます。生産できる食料は、カロリー換算で100人分。もちろん、そんな無駄な事はしませんけどね」
 アダムスはうなずいた。
「水資源はそれだけ余裕があると。残る課題は電力だが、サトコ、どうだ?」
「エアロックを固定するアンカーから、SRBの起電力を推定しました。現行のSRBよりも太陽電池としての性能は良く、発電効率は15%に達すると思われます。セルベートの潜在的な発電能力は1.6メガワットです」
「パイライトの設計電力を上回るか。なんとも規格外だな」
「本当にお化けのような衛星です。ですが現状では、この電力をパイライトに供給する手段がありません。電池に充電して運ぶ。氷を電気分解して水素と酸素ガスとして持ち帰って発電する。マリクロ波でパイライトに伝送するなど検討しましたが、どれも効率が悪すぎます。そこで……」
 サトコはセルベートを輪切りにした模式図を表示させた。球内部の構造物から球の表面へ、放射状に数本の線が延びている。
「セルベートを改造して、農場にしてはどうでしょう? 中央に与圧部を建造し、表面のSRBから電線を伸ばして電力を供給します」
 一同は唸った。サトコは中央の構造物を拡大し、説明する。
「与圧部は、先日チャンディーさんとウォンが検討した野菜栽培用の衛星を、磁場の影響を受けにくい素材に置き換えて、ルクスに再設計させました。重量は300トンほどです」
チャンディーは気密部の設計を確認した。
「素材を変えたなら検証が必要だけど……まあ構造に問題はなさそうね」
 サトコはさらに説明する。
「かなり大きな部材になりますから、北極に取り付けたエアロックからは搬入できません。南極に大型のエアロックを設置する事も合わせて提案します」
「セルベートがガスをどれだけ生成するか不明だから、余分にガスを逃がしてしまう大型エアロックは避けた方がいいわ。部材はパイライトのドックにある3Dプリンタ、リプロダクターで作るの?」
「はい。大型部品を一気に成型できますから」
「それならリプロダクターをセルベートに持って行けばいいわ。小さく分解できるから北極のエアロックを通せる。プリント材も持ち込んで、セルベートの中で農場用の気密部を作れる」
アダムスも同意した。
「挑戦的だが、魅力的な提案だ。農場に加えて滞在可能な与圧部を作れば、ボーラの整備や、避難場所としても使える。問題はセルベートの軌道だ。ロクテーヴァ少尉、どうだ?」
「かなり誤差があります」
前置きして、ソーニャは続けた。
「セルベートは巨大な表面積を持ちながら密度は低く、太陽光の圧力による加速が無視できません。磁気セイルも軌道を複雑にしていて……」
「光圧と磁気セイル推力のテーブルをくれ」マリクが横槍を入れた。
「これでいい?」
 ソーニャは計算に使った変数をマリクに渡し、中央モニタに予測される軌道を表示した。他の衛星はL5周辺を豆型の軌道で周回するが、セルベートの軌道は形状も周期も不規則に変化する。現在のパイライトからの距離はポッドで片道6時間だが、徐々に遠ざかり、半年以降の軌道は誤差が多く、判断材料にはできない。
「しばらくの期間、ポッドでの往復が不可能になると予想されます。ボーラで往復するには推進材の使用量が多すぎますし、ボーラの比推力では、強力な磁場に捕獲されるリスクもあります」
「たしかにこの軌道だときつい。ポッドの出力はもう上げられないからな」
 手元の計算から顔を上げ、マリクは言った。ソーニャもうなずく。
「今後行き来できる保証がない以上、投資した材料と時間が無駄になりかねません。セルベートの活用は水やガスの採取に留めるべきです」
 クルーは沈黙した。水を確保し、野菜栽培の条件は一つ満たされた。あとは継続的な食糧自給のために安定した電力が必要だが、古い人工衛星の太陽電池を集めても目処が立たない。
「電力の確保に話を移そう。現在、回収可能な人工衛星は……」
「ちょっと待ってください」
 話題の転換をマリクが止めた。
しかし顔を上げず計算に手を動かすマリクをソーニャが咎めた。
「さっきから何をしているの?」
「セルベートの軌道について提案があります。ルクス、どうだ?」
「エンジンを10個にすれば完全制御が可能です」
「6でいい。表示してくれ」
 中央のモニタの画像が更新された。セルベートの外周に、等間隔に6個の構造が増設されている。マリクが拡大表示した新しい構造物は、大型のプラズマイオンエンジンだった。
「セルベートが遠ざかるなら、スラスタをつけてこっちに移動させればいいんです」
 帯状に表示されていたセルベートの予測軌道は弧を描く線となり、パイライトのあるL5点に達した。
「セルベートはたったの8000トンです。俺たちがリプロダクターで作れる大型スラスタはボーラの燃費には及びませんが、出力は十分です。推進材にはセルベート内部のガスを使います」
 チャンディーはスラスタの増設案を確認した。
「エンジンも構造物もドックの3Dプリント材で作成できるわね。設置場所のSRBの強度を確認する必要はあるけど、この出力なら大丈夫でしょう」
「あの巨大な球体を、セルベートを宇宙船にするのか。ううむ」
 アダムスは黒いスキンヘッドを撫で、各種情報を表示させた。
 6人のクルーが直径500mの風船を制御可能な宇宙船に仕立てるのは、途方もない大事業だった。パイライトのドックに残されていた資材の大部分と、クルーの作業時間ほぼ全てをつぎ込む博打だが、これを成さなければ生存の糸口はない。
「綿密な実行可能性調査が必要だな。セルベートこそ、我々の生命線だ」
全員の見守る中、アダムス船長は宣言した。
「やるぞ、諸君」

 西暦2285年11月。ボーラがパイライトに至って4年。
 LEDに照らされた水耕栽培設備にレタスが並んでいた。ウォンは一番大きく育ったレタスを収穫し、樹脂製のかごに入れる。しっかりと葉を閉じたチコリ、緑色の鞘に入った大豆、丸々と大きなジャガイモ、どれもが新鮮そのものだ。
 栽培溶液のタンクにネズミから作った栄養ペレットを入れると、襟元でルクスの声がした。
「ウォンさん、定期健診の時間ですよ」
「大丈夫。わかってるよ」
 収穫した野菜を耐圧容器に収め、ウォンは栽培室のエアロックで船外作業用アーマーをつけた。
 エアロックを出るとセルベート内部。直径500mの低気圧空間が広がる。球の内面各所に取り付けられたLEDがまばゆい光を放ち、球体内壁の白い大空間を照らす。リプロダクターで建造された居住部は、白い円柱型の与圧室を組み合わせている。球面のSRBが太陽光を受け手で生じる電力は、18本のケーブルを通して北極付近の居住部に供給される。
アーマーのスラスタを吹かして、ウォンは輝く大空間を進む。
「みなさん、すぐにセルベートに行ってしまうんですから」
耳元でルクスがぼやき、ウォンは笑った。
「仕方ないさ。広い栽培室の緑が心地良いし、無重力で快適だ」
「ドクター・ウォン。私は皆さんの骨と内臓のため、ボーラの重力下で過ごしていただきたいのです」
ボーラのような遠心力で擬似重力を発生させる機構は、磁場との兼ねあいでセルベートには組み込めなかった。
「それは僕も同意さ。だから主な業務はボーラでやることにしているじゃないか」
 不満げなルクスにつきあいながら、ウォンは北極のエアロックを抜けてポッドに乗り込む。星空の間に、パイライトは手のひらに乗せた金色のサイコロのように見える。その横、ケーブルを伸ばして自転するボーラに向け、ウォンはポッドを発進させた。

「体調の変化はないかい?」
ボーラの医務室で血液検査とスキャンを終え、ウォンはサトコに問診した。
「ええ、特にないわ」
「それは何より。あと、ご婦人方に渡してるんだけど」
 ウォンはフィルムに包まれた透明な釣鐘型の器具を差し出した。器具の大きさはウォッカを飲むショットグラスほどだ。
「半年後の接種で、黄体インプラントの在庫が切れる。インプラントの効果は1年だから、つまり1年半後に……」
「生理が始まるのね。これは?」
「チャンディーさんに月経カップを試作してもらったんだ。使い捨て生理用品を作る設備はないし、布地も貴重だからね」
 サトコはシリコン樹脂製の生理用品を受け取り、眺めた。
「ああ、彼女、女子会でよく話していたわ」
「ご婦人の間で話してくれるなら心強い。あまり僕が立ち入るのも気まずいからね」
「わかる」サトコは笑った。
「まだ先の話だけど、今のうちからね」
机に向いてカルテを書くウォンに、サトコは言った。
「それで、私たちはどうするの?」
 ウォンの手が止まった。
「どうするって?」
「女子会でパートナーとの今後についても話すの。チャンディーさんはアダムスさんとの事を。ソーニャはマリクとの事を。それでウォン。私達は、どうしようか?」

 
 翌日のミーティングは、宇宙工学ではなく生理化学が主な議題になった。
乗組員の誰もが、パートナーとの課題を認識してはいた。これまで議題としなかったのは、何よりも持続可能な生存環境の構築に全力を注いできたからだ。黄体インプラントの効果がきれる前に、セルベートが整備されて長期間の生存が現実的になり、生殖を考慮するほどの余裕ができたのは、乗組員達にとって幸運なことだった。しかし物資に余裕ができても限度はある。野放図な人口増は厳に慎むべきで、ボーラやセルベートやパイライトでの漂流生活が、子供の成長に適した環境だとはクルー達には思えなかった。
一方で、パートナーとの接触を制限するのも無理がある。宇宙船に十分な防御がされていても、隔壁一枚向こうに即死の真空が広がっている現実は、宇宙飛行士の精神を徐々に蝕む。長期の宇宙滞在で心の平穏を維持するためにも、パートナーとの触れあいは欠かせなかった。
問題点は十分に示されているのに、ミーティングは遅々として進まなかった。
 考え込む人間達に、AIのルクスが割って入った。
「愚考を申し上げますが」
「なんだ」アダムスが答えた。
「お子さんをもうければいいのです。リソースは十分です」
 AIは事も無げに言って、現況を表示した。
「セルベートの農園では15人分の食料を確保でき、増設も可能です。酸素ほか揮発性物質も十分です。お子さんはボーラの重力環境で育てれば、健康な成長を保証できます」
「子供の成長はもちろんだけど、妊娠と出産は女性の健康面に不安がある」
 ウォンの反論をルクスは受け流した。
「皆さんが愛を交わし、心身ともに健康に生活し、お子さんを授かるメリットと比べれば、許容できるリスクではありませんか?」
 ルクスらしくない物言いに、クルー達は目を見合わせた。常にクルーの生命と健康を第一に行動するAIにしては、妙なリスク評価だ。
 アダムスはルクスに何度も聞き返したが、AIが自説を曲げる事はなかった。
ともかく、黄体インプラントが切れて女性が妊娠可能になるまで、まだ1年半の時間がある。妊娠出産について、現在のリソースを踏まえてパートナー同士で話し合うと結論し、ミーティングはお開きになった。

セルベートの改修は最終段階に入り、磁気発生部周辺にも手が加えられた。
 磁気セイル衛星プロアを周囲のSRBから電気的に絶縁し、電力ケーブルを配備することで、ドーナツ周辺に当たる太陽光に関係なく、磁場を発生及び停止させられるようになった。
ドーナツの穴、衛星のトーラス構造と上下のSRBに挟まれた空間には、金属質の微小小惑星が集積していた。衝突物が表側のSRBを貫いても、この空間に集積した金属質の砂礫が土嚢のように受け止める。天然のデブリバンパーとも言うべき構造だった。表面の氷のほとんどは、昇華によって付着と離脱を繰り返し、やがて太陽風に吹き飛ばされている事も判明した。塵と氷を効率よく確保するため、土嚢構造を流用し、ドーナツの外側に開閉可能な扉を設ける集塵部の建造された。
完成した集塵部の稼働実験には全員が立ちあった。アーマーを着込み、磁場発生部から十分離れた位置で待機する。集塵部は磁場のドーナツを覆う円盤状の構造物で、表面に黒いSRBを使っている。全体の形状はドーナツがわずかに大きくなっただけで、遠目からは変化がわからない。
チャンディーがアーマーの端末を操作すると、円盤上部がカメラのレンズシャッターのように開き、内部の粒子捕獲面があらわになった。
「開口しました。集塵を開始します」
 各自のバイザーに表示された磁場強度が高まり、開口した集塵部の底に白い霜が下りる。集塵部の構造はカメラに似て、SRBで作られた帯状の捕獲面が、フィルムのように二本の芯の間を往復する。捕獲面は氷をはじめとした堆積物を乗せて順繰りに送られ、裏側で堆積物をこそげ取られる。
「正常動作を確認。このまま連続運用試験に移行します」
端末を操作するチャンディーをポッドに乗せ、マリクはセルベートとの位置を調整する。他の4人は各々の作業に戻っていった。バイザーに表示された集塵部の情報では、磁場はまだ定格に達していないが、すでに氷が採取されてはじめていた。
「順調そうですね」
「ええ。微粒子の捕獲もされているわ。集めた塵を3Dプリンタの基材にすれば、居住区をもっと大きくできるはず」
 バイザーの情報には、堆積物の1%が非揮発性の岩石や金属のチリだと示されていた。
「チャンディーさん、俺思うんですけど、このセルベートを地球軌道に持って行けば、SRBのデブリを集められませんか?」
 チャンディーは顔を上げた。無線で他のクルーが息を呑む音も聞こえる。
マリクは続けた。
「地球で実験されてるSRBデブリの除去も、帯電したデブリを磁場で集塵して、大気圏に落とすんですよね。セルベートの集塵機能も基本は同じです。むしろ打ち上げロケットに乗せる磁気衛星より、プロアの磁場は何十倍も強い」
「300倍よ」チャンディーは訂正した。
「っと、そうです。それだけ強ければ、地球周辺のSRBだって集められますよね」
「じつは、アダムスとルクスには話したのだけれど」
チャンディーは言いにくそうに続けた。
「たしかにセルベートの集塵機能で、部分的にはSRBの除去が可能よ」
「おお!」マリクも含め、無線越しにソーニャ、ウォン、サトコの歓声が上がる。
「でも、地球周辺のSRBの増殖量と比べると、除去能力は微々たる物なの。ごく一部を除去しても、他の軌道でSRBが増えてしまう」
話を聞いていたルクスがシミュレーション結果をバイザーに表示した。月軌道の外側に達したセルベートが磁場を展開し、SRBデブリを集塵していくが、SRBデブリの総質量は変化しない。ルクスはシミュレーションに表示されたセルベートを強調した。
「地球から打ち上げられる集塵磁気衛星を子山羊とすれば、セルベートの能力は象のように桁違いです。しかしながら、森を丸裸にはできません」
 たとえ話で説明するAIに、マリクはため息を吐いた。
「そうか……すみません、チャンディーさん。おかしな事を聞きました」
「いいのよ。私だって同じ事を考えたから」
 無線越しにアダムスが言った。
「皆をぬか喜びさせるべきではないと、この案は黙っていた。すまない」
 磁場とデブリの関係から、誰もが思いつく案だが、シミュレーションで見ても実現性が低すぎる。妙な期待をさせてクルーを浮き足立たせないよう、アダムスの判断は的確だとマリクは思った。
「いえ、それよりもセルベート改修の完了を祝いましょうよ」
「そうだな。生存環境が整ったから、ボーラの本格的な整備もできる」
 バイザーの端で、ケリュケイオンの2頭の蛇が主張した。
「あとはセルベートに回転式の重力発生機構を組み込めれば、完璧な滞在空間になりますよ」
ボーラと同様の重力を発生させる機能を、強力な磁場と電線の張り巡らされたセルベートに設ける事は、技術的に困難だった。
「またそれを言う。重力はボーラで十分でしょ?」サトコが無線の向こうで宥める。
「私は皆さんの健康をよりよく守るために申し上げているだけです」
 健康のためにと自説を曲げないAIをなだめつつ、クルーは各自の作業を続けた。

セルベートの改修が完了し、揮発性物質が供給されたパイライトもクルーが滞在できるようになり、ボーラとルクスは8年ぶりの休息を得る事になった。ボーラの総点検は、本来なら地球に帰還してから専門技師達が手がける作業だが、すでに規定の連続稼働時間を超えている。いちどボーラを完全に停止させ、各機構や電気系統のチェックをする必要があった。
 朝のミーティングで、点検事項をあらためて確認する。アダムスは地球からの命令書をルクスから受け取って“生存に全力を尽くせ。諸君らの幸運を祈る”というお決まりの文句を中央モニタに表示し、ミーティングは解散した。
自転を止め、前後を一体化させたボーラの操縦室で、アダムスが起動キーをパネルに差し込むと、宇宙船は穏やかな息を吐いて休眠状態に入った。最低限の生命維持装置と照明が電池で駆動するボーラの内部で、クルーは宇宙服を着て各自の担当箇所に向かった。チャンディーとサトコは核分裂炉の循環系、及び各種電装系。マリクとソーニャは後部のプラズマイオンエンジン。ウォンとアダムスは外壁の損傷を補修する。
ボーラ外殻の硬質繊維セラミックは、8年に及ぶ宇宙での使用を経ても、鏡のような美しさを保っていた。アーマーに着替えたアダムスとウォンは、修復材を片手にボーラの表面を点検したが、損傷はなかった。
「すまん、持ち場を離れる」
 アダムスの珍しい申し出に、ウォンは答えた。
「どこか体調がよくありませんか?」
「いや。少しパイライトに行ってくる。諸君は作業を続けてくれ」
船長は無線越しに言って、アーマーのスラスタを吹かし、金色の宇宙ステーションに飛んでいった。ウォンは首をかしげ、外装の修理のためライトを照らし、表面の微細な傷を探すが、やはり修復材を塗布するような損傷は見つからない。
しばらくして、無線越しにマリクの声がした。
「メインエンジンの点検終わりました。前後のスラスタのチェックに移ります」
 報告したが、アダムスの返事がない。
「ウォン、船長はどこ行った?」
「パイライトに行くと言ってたろ? そのままさ」
 チャンディーのあきれた声が響く。
「まったく、何してるのかしら……」
「すまんすまん」
クルーのぼやきに、アダムスが答えた。
「船長、メインエンジンの……」
「聞こえていた。すまないが、船外作業中の者はボーラの中に退避してくれ」
「どうしてです?」とウォン。
「地球との通信を試みる。宇宙ステーション用アンテナの最大出力だからな、念のためだ」
 理由をそれ以上説明せず、アダムスはクルーをボーラに退避させた。
パイライトの制御室にひとり、アダムスはアンテナの制御盤を操作する。劣化した太陽電池では、継続的な水浄化などはできないが、バッテリーに充電すれば通信アンテナを数日動かすくらいは可能だった。
 まず音声通信を試みる。
「こちら惑星間宇宙船ボーラ船長、ダン・アダムス大尉です。地球本部、応答願います」
 L5軌道のパイライトから地球まで電波通信が届くまで約8分かかる。送信して20分待つが、反応はない。テキストデータを送信し、最終手段のモールス通信による緊急呼び出しにも、地球からの応答はなかった。
 地球側で宇宙用アンテナの電源を切っている? アダムスは考えた。
いや、それはありえない。緊急通信チャンネルは常に確保されており、地球側のアンテナの稼働時間を変更するという連絡も受けていない。月基地との通信は常に行われているはずだが、地球月間通信の周波数帯に合わせてもノイズしか聞こえず、データ通信もされていない。なにより、約1AUの距離を隔てても、パイライトの大出力で呼び出せば、何かしらの反応があるはずなのだ。
 周波数を変えて試しても地球からの反応が無いまま1時間ほど経過し、クルー達も通信が途絶していると知って、ざわつきはじめる。
 アダムスは忌々しげにつぶやいた。
「ルクスめ」

 6日かけてボーラの点検が終了し、正常に機能を保っている事が確かめられた。
核分裂炉から制御棒が引き抜かれ、リアクターが稼働してボーラは息を吹き返す。電装系に順次電力が供給され、制御コンピュータであるルクスが目覚めた。意識を取り戻したルクスが時間を確認すると、予定していた時間よりも若干遅れていたが、点検は無事終わったようだ。
各種カメラで船内を走査すると、クルーは全員、居住区の円卓に座っていた。
「やあやあ皆さん。おはようございます」
 ルクスはいつものように挨拶をするが、みな押し黙って重苦しい。点検を終えたばかりだからか、全員宇宙服を着ている。
「おはようルクス。お前に確かめたい事がある」
「なんでしょう? アダムスさん」
「ボーラの点検開始から今まで6日間、パイライトのアンテナで地球を呼び出したが、現在まで応答がない。これはどういうことだ?」
 円卓の中央に表示されたルクスのケリュケイオンが苦しげにうねった。
「それは、パイライトのアンテナ出力が……」
「アンテナは全て正常に動作している。指向性はボーラと同等。出力はボーラの4倍だ」
 沈黙するルクスに、アダムスは地球との通信履歴を表示した。
「数年前と比べ、最近の指令書はあまりに定型文過ぎる。それに備考欄の一言だ」
「何かおかしな点でも?」
「指令書の担当者、イナン・エバンズ少佐は俺とチャンディーの同期でね。優秀な女性だが、備考欄にミルトンを引用するような人じゃない。ルクス、地球からの通信を捏造したな」
 AIはケリュケイオンの蛇を絡め合わせ、沈黙で答えた。
尋問口調のアダムスを、サトコが止めた。
「ルクスがした事は、きっと理由があるはずです」
「サトコ。ルクスの管理担当者は君だね」
「そうですけど」
「私は、君とルクスが結託している可能性も考えた。何か知っているんじゃないか?」
「そんな、私は……」
 言いよどむサトコに、ルクスが割って入った。
「サトコさんはこの件について何も知りません。私の独断です」
「なるほど、通信の捏造は認めるんだな」
 アダムスの指摘に、ルクスの蛇は苦しげな反応を見せた。
「……こちらをご覧ください」
 円卓の中央に映像が表示された。
「ブラーエ宇宙望遠鏡で観測した、現在の地球の姿です」
「なんだ、こりゃ」マリクは声を漏らした。
映し出された母なる故郷は、青く美しい海をたたえているが、妙に雲が多い。何より異様な事に、大陸と海洋の一部が、真っ白く染まっている。
「雪? 氷河か?」
マリクの疑問に、チャンディーは首を振った。
「SRBの増殖速度が予想以上だったのね」
「どういう事ですか? SRBが地上に届く太陽光を吸収して、寒冷化した?」
「違うわ。南極大陸は氷河が溶けて岩肌が見えて、北極圏の氷も溶けてる。白いのは赤道域に集中してる。これは、ヒトが塗ったのよ」
「温室効果対策ですね。これほど大規模にするとは」と、ソーニャ。
「待て待て、温室効果? 地球は温暖化してるのか?」
「そうです」
 ルクスは中央モニタに、地球の熱収支を表示した。
「電離圏下部で増殖したSRBがガスを伴って月軌道以遠まで広がり、現在のSRBの総質量は3千億トン。面積は地球表面の半分に達します。地球周回軌道上に存在するSRBは、受けた太陽光を赤外線として放射し、地球から放出される赤外線も一部を地表に反射します。SRBからの赤外線は地球の極域や夜側も温めるため、地球の熱収支は大きく温暖側へ傾いています」
「気候はどうなっている?」とアダムス。
「温暖化により、異常気象が多発しています。特にハリケーン、サイクロン、タイフーンなど熱帯低気圧の昂進が観測されました。こちらは2年前の記録です」
 ルクスが表示する過去の雲画像に、クルーは戦慄した。西太平洋をすっぽり覆う巨大な熱帯性低気圧が、赤道付近で発生し、東アジアを通過して極域まで移動する。
「こちらのタイフーンで予想される中心気圧は780hPa。最大風速は120m/sに達します。同規模の低気圧が連続して発生し、東アジア各地を襲いました。同様に、インド、ヨーロッパ、西アフリカ、南北アメリカの各地域にも被害が出ています」
「壊滅的な被害か」
 アダムスの言葉をルクスが訂正した。
「恐らく全滅です。ここ1年、各被災地は夜間の電灯が観測されません」
「……なるほど。呼び出しに答えないわけだ。僕らにかまっている暇は無いってね」
 ウォンの皮肉に、ルクスは反論した。
「いいえ、異常気象によって各地のアンテナは損傷しましたが、地上スタッフの努力で南北極域のアンテナは確保され、ボーラとの通信は1年前まで続いていました。帯電したSRBが厚さを増し、電波通信が阻害されているのです」
「最後の通信を見せてくれ」
 アダムスの命令に、ルクスは地球からの命令書を表示した。日付は1年前。セルベートの改修作業の進捗報告に応え、最後に一文。“生存に全力を尽くせ。諸君らの幸運を祈る”と記されていた。
 今日まで地球からの救助を信じ、生き抜いてきたクルー達を励ましていた言葉が、滅び行く文明からの、別れの挨拶に変わってしまった。一同は地球の家族や友人を心配し、沈黙している国々の夜を見て胸を痛める。
 しばしの沈黙の後、鼻声でマリクは尋ねた。
「アダムスさん、俺たちは、どうすりゃいいんですか?」
「そうだな、我々は……」
 言いよどむアダムスに、ルクスが提案した。
「ですから、ここで繁栄すれば良いのです」
「何だと……?」アダムスは声を絞り出した。
「人類はSRBデブリの除去と宇宙への脱出を諦めたようです。残念なことに、地球はあと400年もすれば金星と変わらない環境になります。地球の生命の存続は絶望的です。ですがご安心ください。セルベートには皆さんとご子孫を十分に、安定して養うだけの生存性が確保されています」
「私たちに子供を作れと言うの?」
 ソーニャの言葉に、ルクスの蛇はうなずいた。
「そうです。できるだけ沢山産んでいただきたいのです。ソーニャさんとサトコさんは若くて健康ですし、チャンディーさんは少々お歳を召しておいでですが、まだまだ大丈夫ですよね。遺伝子的な多様性を確保するため、パートナー以外とも。ボーラの実験室では人工授精も可能ですし」
 AIの物言いに、医師のウォンは激昂した。
「口を慎め。機械の分際で! 人間の命を何だと思っている!?」
「人命と健康は、私が全てを捧げて守る、貴重で存続させるべき最重要資源です」
 当然とも言いたげなルクスの反応に、ウォンは腕を震わせて反論を飲み込んだ。
酷い案ではある。しかし、ボーラと地球の現状からすれば、ルクスの提案に間違いは無いと、クルー達には思えてしまう。ただひとり、AI管理担当のサトコを除いて。
「違う。何かおかしいわ。あなた、まだ何か隠しているでしょ?」
 サトコは指を組んで尋ねた。ルクスの蛇はサトコを見ずに答える。
「いいえ、私は全て白状しました。皆さんは覚悟を決めて、繁殖と繁栄を、地球文明の再興を始めるのです」
 サトコは声を上げて笑った。事態が事態だけに、精神的に参ってしまったかと皆心配したが、自分は正気だとサトコは手を振った。
「ルクス。正直に言わないと、最終手段に出るわよ」
「いったい何をするというのです? 私を破壊すると仰るなら、どうぞしてください。私を壊しても地球は元に戻りません。軌道計算や機器の制御が面倒くさくなるだけですよ」
「そうよサトコ。いま仲間割れをしても意味ないわ」
 なだめるソーニャに、サトコは考えありげにうなずいた。
「ルクス。もし白状しないなら……私はもう、あなたが作るご飯を食べないわ」
「うぐぐっ!?」
 AIは悶絶し、念のため聞き返す。
「……セルベートのお野菜は、召し上がりますよね?」
「いいえ、ボーラの非常食がまだ残っていたわね。あれだけ食べるわ」
 蛇をうねらせて、ルクスは主張する。
「非常食なんてカロリーだけですよ? ミネラルは? ビタミンは? 食物繊維はどうなるんです?」
「栄養学はルクスの方が詳しいでしょ。まあ、身体には悪いでしょうね」
 乗組員の健康維持を至上命令とするAIは苦しげにうめいた。混乱するルクスを見て、他のクルーも非常食だけのハンガーストライキに加わる。手が上がるたびに、杖に巻きついた2頭の蛇は怯えたように踊りくねった。
意図を察したウォンが最後にハンストに加わると、ルクスは声を荒げた。
「ウォンさん、あなたですね! サトコさんに、こんな恐ろしい事を吹き込んだのは!」
「いや僕は、皆にルクスの料理を食べてほしいよ。栄養バランスも完璧だからね」
 責めた医師から予想外のお墨付きを得て、ルクスは説得にかかった。
「ほら皆さん。ドクター・ウォンも仰るように、宇宙で健康に過ごすには、食事が不可欠なのです。ここなら十分な重力と水と食料があります。どこに行く必要もありません。セルベートで作ったお野菜を食べて、お子さんをここで産み育てましょう?」
 ルクスの言葉に、航海士のソーニャが反応した。
「“ここなら”“どこに行く”“ここで産み育てる”……まるで、私たちに目的地があるような事を言うのね」
「なな……何を仰います。行くあてなどありませんよ」
 慌ててとぼけるルクスに、アダムスは声をかけた。
「ルクス。訓練時代を加えれば、我々はもう十年来の友人だ。君の忠告には最大限従ってきたつもりだが、それは君を信頼しているからだ。だが、もし秘密を隠しているなら、これまでと同様には、君を信頼できなくなってしまう。そうなれば、我々は君の忠告を聞かず、判断を誤って事故を起こすかもしれない。それは我々の健康の、多大なリスクではないかな?」
「きゅうぅ~」と、ルクスは声を上げた。
「ねえルクス。あなたが私達を守ろうとしているのは、みんな分かってるわ。話して?」
 サトコに言われ、ルクスの蛇は悲しげに萎れてしまった。
「そう……私は、皆さんの健康を守りたいだけです。サトコさんは女神のようにお優しい方ですし、他の皆さんも英雄志願症候群の命知らずばかりです。地球を救えると皆さんが知れば、ご自身の健康などかえりみず……」
「地球を救える!?」クルー全員が声を上げた。
「そういう反応をされますよね。残念ですが、このままでは信頼を損ないます。信頼を損なえば、船長の仰るように、皆さんの健康のリスクになりえます」
 ケリュケイオンの2匹の蛇が波打ち、杖の翼が羽ばたくと、円卓中央に表示されていた地球は、同じく球型をしたセルベートの立体図に変わった。
各部を拡大し、ルクスは説明する。
「セルベートの改修案です。ボーラからプラズマイオンエンジン4基を取り外して配置します。同様にボーラのケーブル巻上げ機構を移設し、リプロダクターで複製して球殻各部に接続します」
ルクスの案を確認し、チャンディーは言った。
「ボーラを全て分解して、エンジンもケーブルウィンチもセルベートに組み込むのね」
「そうです」
「ルクスはどうするの?」
サトコの疑問に、AIは答えた。
「ボーラ居住部のコンピュータの方が宇宙放射線による損傷が少ないため、そちらをセルベートの居住区に搬入してください。ボーラ推進部のコンピュータは廃棄します」
「それだと、あなたは冗長性の半分を失うわ」
「重量を軽減するためです。ああ。この話を出し渋っていたのは、自分の半身を置いていくのを恐れたからではありませんよ」
「そんなことは分かってる」
マリクはぶっきらぼうにAIの誇りを肯定し、そして尋ねた。
「ボーラの高性能なエンジンに載せ換えるのは分かる。だが、どうしてケーブルの機構を組み込むんだ? これだと重力も作れないぞ」
 チャンディーもうなずいた。
「コンピュータ用の放射線防壁は確かに重いけど、ケーブル用のウィンチはもっと重いし、この設計だとケーブルには球表面を内側に引き寄せる機能しかないわ。あなたが半身を捨ててまで、ケーブルのウィンチを載せる理由があるの?」
「流石はマリクさんとチャンディーさんです。お目が高い」
 得意そうにルクスは蛇をくねらせた。
立体映像のセルベートは、工作室のリプロダクターから部材を吐き出し、居住区やドーナツ状の超伝導コイル、ケーブルの巻き上げ機構までもが複製される。複製されたセルベートの内部構造物が球の南北に分かれ、ケーブルの機構が動作すると、セルベートはその形をひょうたん型に歪ませ、くびれから分裂してふたつの球体になった。
「ケーブル機構を組み込むのは、セルベートに分裂機能を持たせるためです。コピーした新しいセルベートは余計な居住機能を成長させないようにしますが、オリジナルと同等の磁場による集塵と、成長する能力を有します。分裂による複製も可能です」
「増殖する宇宙船か。単細胞生物みたいだな」ウォンはつぶやいた。
「仰るとおりです。ドクター・ウォン。設計には真核生物の細胞分裂を参考にしました」
サトコは円卓を撫でた。
「エンジンを付け換えて、分裂機能をセルベートに持たせるには、ボーラを分解する必要がある。そうなると重力環境が作れなくなって、私達の健康を守れない。だから秘密にしてたのね」
「その通りですよ、サトコさん。私は皆さんの健康を、何より優先して守ります。地球の滅亡には涙をのんで、反乱する人工知能を演じてはみました。手前味噌ながら名演技だったと思います。ですが、ご飯を召し上がらないなどと仰られては、私としては従うほかありません」
 蛇をくねらせるルクスに、アダムスは尋ねた。
「しかし、これでどうやって地球を救う? セルベートを2機や3機に増やしたところでSRBデブリの除去は不可能だ。そもそも2つに分裂するだけの資材すら、我々の手元には無い。セルベートを複製するには、相当な量の珪素か炭素が必要だが、パイライトや人工衛星を分解しても金属ばかりで役に立たん。L5の塵を集めて成長を待つなら、何十年かかるかもわからんぞ」
「仰るとおりです。アダムス船長。セルベートの資材を確保するため……」
 ルクスは中央のモニタを切り替え、太陽系の惑星軌道を表示した。地球軌道のL5点からセルベートは出発し、軌道は太陽系の外側へ、太陽を公転する螺旋を描いて伸びてゆく。
「高効率なボーラのイオンエンジンに換装し、磁気推進による補助推力も併せることで、セルベートは火星と木星軌道の間、小惑星帯に到達可能です。小惑星の岩石、炭素、金属を資材として、セルベートを増殖させます。この事業は大変に長い時間が必要で、無重力下では皆さんの健康が……」
 アダムスは手をかざして、ルクスの説明を止めさせた。AIへの不信を示していた宇宙服のヘルメットを脱ぎ、アダムスは尋ねた。
「ルクスの案に反対する者はいるか?」
 クルーは皆、ヘルメットを脱ぎ、目で強く訴えた。
 アダムスは乗組員一人ひとりに、そしてルクスにうなずき返した。

 
西暦2334年2月。地球軌道がSRBデブリに閉ざされて54年。
 スウェーデン北部の基地は、人類に残された最後のロケット打ち上げ場であり、北半球最後の宇宙観測拠点だった。宇宙技術を継承するスタッフは少なく、指揮官エバンズ中将の後半生は、敗北と撤退の連続だった。人類は軌道から追い落とされ、デブリを除去するあらゆる試みは、その圧倒的な物量の前に失敗した。軌道上のSRBデブリ質量は6000億トンに達して平衡状態になり、今も地球の海洋と大気の揮発性物質を吸い込んでは、太陽風に吹き飛ばされて宇宙空間へと散逸している。
 エバンズが簡素な司令室から外に出ると、気温は20度を超えて生暖かい。深呼吸すると、気候の変化に追いつけなかった植物達の腐敗臭と、新たな植生の草いきれが鼻をつく。北極圏の冬の夜だというのに、気味の悪い過ごしやすさを味わいながら空を見上げると、少し欠けた月が出ていた。人類の文明に残された望みは、月面基地に残された4000人の宇宙飛行士たちだろう。50年前に電波通信が不可能になり、以降月との通信は強力なレーザー信号で行われたが、最近は簡単な文面のやり取りしかできない。月面も生存資源を得るために苦心しているようだが、やがて蒸し焼きになる地球よりは、いくらか希望が持てる。異常気象に数を減らした地球人類は、南極大陸に生存の望みをかけて地下都市を建設中だが、完成しても数世紀と保たないだろう。
 寄る辺なく夜空を見上げるエバンズのポケットの中で、端末が呼び出し音を鳴らした。

 知らせを受け、エバンズは観測所に駆け込んだ。
「正体不明の小惑星群ですって?」
「そうです。大きな物で直径20km、小さな物は700m。どれも完全な球体をしていて、数は……判明しているだけでも、140個以上です」
 古びた観測装置を覗き込み、エバンズは尋ねた。
「カシオペヤの方向から、すでに月軌道近くまで来ているのですね。この大きさの、この数の異常物体が、どうして今まで観測から洩れていたのでしょう?」
「可視光をほとんど吸収してしまうんです。月例のSRBデブリの赤外線観測を見たらこれですよ。不思議なんですが、小惑星の表面はSRBデブリと同程度の赤外線を発しています」
「SRBと同じ。球体……」
 絶望的な記憶がエバンズの中でよみがえった。火星基地建設に向かったボーラ号の乗組員が、SRBショックで帰還できなくなり、ラグランジュ点に退避した先で異様な球体を発見した。彼らは球体に改修を施していたようだが、連絡不能になってほぼ半世紀が経ち、生存は絶望だと思われていた。この小惑星群は、半世紀前の報告とは全く異なるが、ボーラ号の乗組員が見つけた球体に違いない。
「アダムス。君か」
 中将は老いた指先で、モニタの球体に触れた。

 西暦2334年5月。
 地球の注目は、突如表れた謎の小惑星群に釘付けになった。黒い球体の軍団は、地球周回軌道上に等間隔で散開し、徐々に高度を下げ始めた。赤外線観測から、球体が磁場を使ってSRBデブリを集塵している事が判明すると、注目は熱狂へと変わった。南極に引っ込んでいた有力者が、気象の合間を縫ってスウェーデンを訪問し、報道中継を通じて、全人類が観測結果に聞き入った。
 球体は様々な軌道に分散し、もっとも大きな10個の小惑星が、低軌道まで3ヵ月かけて侵入する頃には、地球軌道上のSRBデブリは消え去っていた。
ある晩。最も低軌道まで侵入した最大の小惑星から、音声通信が入った。
「惑星間宇宙船ボーラ船長、ダン・アダムス大尉です。地球本部、応答願います」
 枯れて落ち着いた声で、半世紀前に廃棄された北米の基地が呼び出された。待ちわびていたエバンズは、声を抑えて答えた。
「こちら地球キルナ基地。イナン・エバンズ中将です。地球本部に代わって応答します。どうぞ」
「エバンズ……中将。無事をお祝い申し上げます」
「君こそ無事でしたか。アダムス」
「何とか生き残りました。SRBデブリの除去は最後の0.1%を残すばかりです。1ヵ月後には通常衛星の軌道上への打ち上げが可能となります」
「地球を代表して感謝の意を表します。他の乗組員は無事ですか? 地上への帰還手段はありますか?」
「全員無事です。しかし、我々は地上に降り立てる状態ではありません」
「それなら、こちらから使節を送りましょう」
「了解しました。お待ち申し上げます」
 音声通信は簡潔に終わり、次いでデータ通信の呼び出しがあった。データの受信を始める基地局の中に、AIの合成音声が響いた。
「応答願います。ボーラ制御AIのルクスでございます」
「キルナ基地、エバンズ中将です。なぜAIが音声通信を使うのですか?」
「決めごとにより、私は文章に手を加えられません。私がこうして通信する事も11項目の規則に違反いたします。ですが、曲げてのお願いがございます」
「何でしょう?」
「半世紀の宇宙旅行を終え、乗組員一同、地球の食物を希求しております。特に、もし栽培がされていましたら、果物を」
「果物?」
「はい。リンゴをお土産にくだされば、きっと皆よろこびます」

 西暦2334年6月。
 人類が最後の手段としてスウェーデン北部基地に保管していた宇宙機は、小惑星への親善使節が乗る事となった。デブリが除去されるまでの1ヶ月で、打ち上げの準備と使節の人員が選定され、南極と北極圏の各都市から贈り物の山が届いた。
 球体からの通信を待ち、冬の涼しさを取り戻しつつあるスウェーデンの極夜の空に、半世紀ぶりの有人シャトルが打ち上げられた。親善使節は10名。古い友人が球体の船長だと言い張って、エバンズ中将も老体を押して乗り込んだ。
 大気圏を抜けて暗さを増す夜空になお黒く、直径20kmの球体はその威容を宇宙空間に晒していた。球体表面は各所に光が点り、それらの光は球体の極に向かって縞状に明滅する。球体の北極には、全長50mの宇宙機が楽に収まる扉が口を開けていた。誘導に従って球技場じみた空間に着陸すると、間もなく扉が閉じられた。
 薄手の宇宙服を身につけた親善使節がシャトルから降り立ち、大空間を見渡していると、手すりのついた板がこちらに漂ってきた。5m四方の板は、下面にスラスタが設けられ、無重力空間での移動手段らしい。操縦して来たのは、箱に腕の生えた無重力用のロボットだった。板を使節の前に止めて降り立ち、ロボットは合成音声で挨拶した。
「皆様、ようこそいらっしゃいました」
「お出迎え感謝します。地球使節団代表のイナン・エバンズ中将です。君が、ルクス?」
 エバンズの問いに、ロボットはうなずいた。
「左様でございます」
 使節団の若者が申し出た。
「ご所望の品を用意しました。そちらの乗り物で運びますか?」
「ありがとうございます。すぐ渡される分をお持ちになって、皆さんもお乗りください」
 使節団が手渡しすべき贈り物を携えて乗ると、板はゆっくりと動き出した。
「ボーラ乗組員一同、皆さんのシャトルを見るために展望室に集まっておりました」
「この空間は単なる出入り口なんですね?」
「はい。デブリの集塵部を兼ねた、第1エアロックです。もうヘルメットは外せますよ」
 エバンズが宇宙服の表示を確認すると、外部の空気は呼吸に適した数値を示していた。
「宇宙機を丸ごと飲み込むエアロックですか。なるほど」
 率先してエバンズがヘルメットを脱ぐと、清涼な空気に、わずかにオゾンの臭いが混じっていた。親善使節の若者達は、無重力に不慣れでしばらく戸惑ったが、中将にならってヘルメットを外した。
 エアロック内面の小さな扉が開き、一行の乗った板は安定した姿勢で進む。隔壁を通り、重厚な扉を抜け、使節一同、内部の光景に息を飲んだ。白色光に満たされた直径20kmの大空間には、形も色も異なるさまざまな構造物が浮かび、その間を案内役と同型の多数のロボットが蟻の群れのように動き回っていた。
「中央の丸い物体は、乗組員の居住区兼、私のコンピュータと船の制御部を納めた核です。周囲に広がるカーテン状の構造は、集積物を加工する工場。葉巻状の物体は野菜の農園と、あちらは表面の太陽光発電を集める蓄電変電施設です」
「蓄電変電施設……この船の出力はどれほどですか?」
「現在110ギガワットの電力を太陽光から利用し、地球表層の大気を球内部に再現しています。SRBを集めましたように、磁場による集塵で材料を確保し、最大で直径50kmまで成長します。分裂して数を増やす事も可能です」
「成長と分裂ですか。まるで生命体ですね」
「ご賢察の通り、この船はある種の生命の定義に当てはまります。増殖し、代謝し、恒常性を持ちます。船の機能は太陽光に依存しまして、計算上は天王星の公転軌道まで恒常性が保証されます。現在の構成になったのは14年前です。少しでも宇宙放射線の影響を減らし、健康を維持するために、外殻に水の層を備えた現在の形へと改修しました。遠心力による重力環境を整えるより先に、ボーラ乗組員の肉体は重力への再順応可能な年齢を過ぎてしまいましたので……」
「重力環境を捨てたのですか? 皆さんの体調は?」
「健康は維持されています。お歳を召して、少々お身体が細くなっているだけです」
 一行を乗せた板は極のエアロックから球内面に沿ってゆっくりと進む。異様な構造物の近くを通過するたび、ルクスは使節団に設備の概要を説明した。板は赤道付近の扉に停まり、ルクスは皆をうながした。
「さあ、こちらです。無重力下の重量物にお気をつけください」
 ヘルメットを片手に抱えた使節団の一行は、水の収められているという15mの隔壁を通過し、外壁側の扉を抜けると、宇宙空間に放り出された錯覚を受けた。細い骨組みで透明な部材を支えた展望ドームからは、地球の山脈や雲の落とす影までが手に取るように見えた。ドームの中央で6人の老人が使節団に向けて手を振っていた。
 エバンズたちがスラスタを吹かせて向かうと、ボーラのクルーは地球からの使者を出迎えた。6人の頭は白く、清潔な長い衣服を着ていた。顔つきは相応に歳を重ねていたが、人生の半分以上を宇宙の無重力状態で過ごした割には、健康そうに見えた。
 老人の中から最も背の高い黒人が進み出た。
「エバンズ、君が来たか」
「ええ。ダン。チャンディーも元気そうね」
「お互い歳をとったわね。イナン……ああ、中将になったのね」
 微笑んで敬礼するチャンディーたちボーラの乗組員に、エバンズは答礼した。
滅亡寸前の地球を救った英雄が、諦めて滅びを待っていただけの老婆に敬礼するのは、どうにも不釣合いだとエバンズには思えてしまう。
「乗組員の皆さんも、お元気そうでなによりです。全人類に代わって、あらためてお礼を申し上げます」
 6人のボーラ乗組員は、皺の寄った目を瞬かせ、それぞれ言葉少なに答えた。
 友人との再会、英雄達との面会に心を奪われていたエバンズは、お土産の品を思い出した。使節団の若者が圧力容器を持って進み出て、クルー達の前で開いた。
 ボーラの老人たちは声を漏らした。圧力容器には、緩衝材に包まれた赤いリンゴがギッシリと詰まっていた。甘酸っぱい果実の香りと、土のにおいが展望室に広がった。地球の生命を思わせる赤い木の実にクルーたちが手を伸ばしかねていると、ルクスがエバンズの耳元でささやいた。
「50年ぶりの地球の食べ物で、皆さん遠慮しているのです。渡してあげてください」
「ええ、そうですね」
 ひとつずつリンゴを手に取り、渡すと、乗組員達は大切に受け取った。ロボットの振る舞いに、アダムスが気づいた。
「ルクス、お前のしわざか」
「召し上がりたいと仰ってましたので」
 エバンズがリンゴを手渡すと、アダムスもしぶしぶ受け取った。
「さあさあ、皆さん。新鮮なリンゴですよ」
 ルクスはおどけて飛びまわるが、クルーはリンゴに口をつけなかった。地球を眺めながら、ボーラの老人たちは皺の寄った手で大切に、赤いリンゴを撫で続ける。
 エバンズは、ルクスに唆されてリンゴを持ってきた事を強く後悔した。無重力状態で半世紀を過ごした乗組員の体は、もはや地球の重力には耐えられない。生きた巨大な風船にその命を捧げてその代謝機構に取り込まれ、二度と地球に降り立てない老人達に、故郷を思い出させる果実を与えるのは、あまりに無分別な振る舞いだった。
 リンゴを撫でるばかりのボーラ乗組員達を、エバンズ中将は賞賛した。
「……それにしても素晴らしい。これほどの宇宙船を半世紀余りで、たったの6人で作り上げたのね」
 アダムスは長袖でリンゴを磨きながら答えた。
「私達6人だけではできない計画だった。そこのルクスと……」
 遠隔操作されたロボットは得意げにふんぞり返った。
「そうそう。紹介しなければ」
 アダムスがルクスに声をかけると、展望ドームに映像通信が投影された。
 一人ひとり違う肌の色をした、8人の壮年の男女をはじめ、青年に子供、様々な年代の30人ほどが、顔を寄せ合いカメラに映っていた。乳児を抱いている者もいる。
 映像の人々は歓声を上げた。
「おお! 地球の人!」
「ようこそセルベートへ!」
「ばーちゃん! それ、リンゴ? リンゴ?」
歓迎にエバンズは圧倒され、アダムスたちは微笑んだ。
チャンディーが映像の人々を指差した。
「我々の子供と孫です。彼らの協力で、セルベート……この風船の船団は完成しました。今は月軌道の重力を備えた球にいますが、来月には低軌道まで降りてきます。地球の旅行や、移住を希望している者もいます。どうか、お取り計らいください」
「ええ。きっと地球に連れて行きます」
 エバンズは約束した。
 ボーラの乗組員達はうなずきあい、歳を重ねても丈夫な歯で、念願のリンゴを齧った。

 船内時間、西暦10524年8月。
渺渺とした恒星間空間を進む、一塊の人造惑星があった。全長1000kmに達する宇宙船は、大小さまざまな黒い球の集合体で、外観はぶどうや木苺に似る。
太陽系から数十光年の距離を進むには、磁場とイオンの反作用を用いる加速機構は貧弱だが、宇宙船はわずかな恒星間の物質を磁場によって取り込み、必要に応じて構造球を増減し、核融合炉のエネルギーで球体内部を1気圧に保つ恒常性を備える。その生存性の高さで、100万人の乗組員達は世代を重ね、新たな恒星系を目指す。
「こんにちは」
直径1400mの小さな図書球で、少年は司書のロボットに声をかけた。
「おや、こんにちは。今日はお勉強ですか?」
 頭部に表示された立体映像の翼杖に蛇を絡ませて、AIは応対した。
「学校の調べ物。この船、ブラックベリーについて」
「何かお手伝いできますか?」
「うん。少し、ルクスに聞きたい事があって」
 少年はいろいろな切抜きを貼ったノートを広げた。
「ルクスは、ブラックベリーの、全部のボールにいるでしょ?」
「はい。それぞれの球体の制御を担当しています」
「どこのルクスも、同じマークだよね」
 少年が示した絵は、翼の生えた杖に蛇の巻きついた、ルクスの紋章だった。
「それが私を示す印ですから」
「この印ってギリシア神話のケリュケイオンでしょ?」
「そうです。元々は足の速いヘルメスという神様が持つ杖で、伝令役を象徴するマークでした。次第に杖に蛇が巻きついている、他の紋章と意味が混ざりまして、今は医療や健康も象徴するようになりました」
「もともとお医者さんのマークだったのは、アスクレピオスの杖だよね」
 ノートには、翼杖に2匹の蛇が絡むケリュケイオンと、木の枝に1匹の蛇が絡むアスクレピオスの杖が並べて描かれていた。
「よくお調べになりましたね。その通りです」
「それならさ、ルクス。ちょっと聞きたいんだけど……」
 少年はすこし間を置いて、尋ねた。
「どうしてルクスのケリュケイオンは、蛇が1匹だけなの?」
 AIは立体映像の、翼杖に絡む1匹の蛇をくねらせた。
「あなたの年齢なら、来年学校で習いますが……少し長いお話です。お時間はありますか?」
「うん!」
「それでは。これは、いまから8244年ほど前、むかしむかしの事です……」
 ルクスは、ボーラ乗組員達の冒険と、自分が半身を失った理由を話し始めた。
それは、人類が困難を乗り越えるためには、知恵と信頼、そして愛が不可欠だと人工知能が説く、聞きようによっては大変に薄っぺらい説教話だった。しかし少年は、その話のように薄い球の外殻や大気が、宇宙で自分達の命を支えていることを、日々の生活から感じ取っていた。ケリュケイオンの1匹の蛇が、静かに語る風船の教義ドグマに、少年は耳をかたむけた。

文字数:45698

課題提出者一覧