竜の孔

印刷

梗 概

竜の孔

山羊の飼われる丘陵地帯の谷のそばに、「竜の孔」がある。少女はそこに、怪我した仔山羊を運ぶ。
 そこは、人が入れる程度のくぼみで、細い甲高い音がしたあと、そこに身を入れたものの怪我が治るのである。怪我は治るが、すぐに元に戻るのでさっさと市で売るのだ。音がしている間は近づいてはならず、また、長くそこにおいておくと、形がかわっていくので、長くそばにいてはいけないといわれていた。
 音の聞こえる時期はわからず、何年もあくことがあるが、聞こえる時期には頻繁にきこえる。少女に聞こえるこの音も、年長になると聞こえなくなるので、音の番は、少女の役であった。ちょっと前から音がしていたが、やっと消えたので、上がってきたのである。
 竜の孔のそばには、ゆっくりするのにちょうどいい平地もあった。そこに、小さな車程度の乗り物があるのを少女はみる。厚い服を着て透明な球で頭を覆った男が、彼女に気づいて、その乗り物から出てきた。
 少女は、竜の孔で仔山羊を癒す。それをみて男は懸命に、孔の周りでなにかを組み立て始める。彼女は、その場所に、男がずっといるのが、気に入らなかった。

男は、調査員だった。この星のものではなかった。
 あちこちの惑星にみられる高エネルギー反応の正体をつかむため、最近みつかったこの場所に、軌道上に母船をおいたまま、調査艇で降りてきたのだ。
そのくぼみは、ときどき高いエネルギーを示し、そのとき、むこうに何か空間があいているようだった。
 空間が閉じたところに、少女がやってきて仔山羊を治した。男は、空間が開いているあいだにそこから出てきたなにかがその効果をもたらすと考え、空間が開くと、そこに観測マシンを送り込んだが、ロストした。そのうち、空間を何かが通り抜けて出入りしていることが、わかってきた。
 故郷と似た環境の星で、彼は、生体ログをみながら防御服をゆるめ、観測を続けた。

少年は、毎日山羊を追い、犬を連れて山をめぐった。ときどき、おおきい尾の長い生き物が出る領域だったが、山羊を〆るナイフで、処理してきた。
 時間があれば隣の小さな牧場の、彼よりさらに歳が下の少女と、よく話をしていた。幼かった少女が初潮を過ぎてからは、ときどき竜の孔のそばにいって、少女と愛し合っていた。
ところが最近、竜の孔のそばで知らない男が作業をしていた。別の場所で愛し合おうとしたのだが、少女に拒否された。気に入った場所が占拠されて気分が悪いというのだった。
 少年は、竜の孔に、山羊の群れをつれていく。少女ほどではないが少年も音をきくことができた。男にはきこえないようだったが、音は、高くなってきていた。
 少年は脅すつもりで犬を、そして、羊をけしかける。犬は男の放つショックで倒されるが、山羊は男の作った仕組みを踏み荒らした。さらに、空間が開き、男は孔に押しこまれてしまう。

女は、男の連絡が途絶えたため、あらためてやってきた。軌道上の母船の記録から、竜の孔に降りてくると、男の調査艇のそばには観測器具が散乱し、レコーダーメモが落ちており、尾の長いずんぐりした生き物が、ドアにしがみついていた。女が近づくと、そのまま寄って来ようとするので、やむなくショックを与えて無動化し、残ったものを回収した。そのまま周囲を見回るが、動物の群れとともに遠回しにみている2人の原住民しかおらず、調査艇ごと母船に帰投した。
 回収したレコーダーには、男が孔におし込まれてから後のことが記録してあった。

「孔を通ると気が遠くなり、気づくと別の場所が、孔の中から見える。生体ログをみると、通っている間にほとんど自分の生体反応はない。これを、何度も繰り返してきた。そのたびに見える孔の外がどういうところかもわからない。岩場、山の上、海の底、あきらかに空気のない小惑星もある。どこで出ていけばいいだろう。一緒に入った羊は、出ていったところですぐに息絶えたのが見えた。
 この孔の中をうごくものとともに自分は動いている。宇宙のあちこちにある孔のある空間から空間をつないで、渡りをしているように思える。こいつのつなぐ空間は、いったん死んだも同然になったものも、賦活化することができるようだ。傷が治るのもそのせいか。
 ときどき生き物が入ってきては、出ていく。広い宙域で、遺伝子も含め似た生き物が広がっているのは、こいつのせいなのではないだろうか。
 しかし、長くいると、生き物は、変形していく。古代魚のようなものも奥から出てくる。個体としては傷を治し、種としては時間をさかのぼる作用があるのか。自分の腕も毛がどんどん増えてきた。わかるうちに、元の場所にもどれるか、もどってもそれがわかって、そこへ出ていけるのだろうか。」

女は、退行したと思われる男を回収にふたたび竜の孔におりるが、すでに、なにもみつからなかった。

文字数:1968

内容に関するアピール

「生物」というお題で、とりつくと人体を再生する生き物、を考えました。
 病院で診察していて、あったはずの身体的欠損がない、おかしい、という路線で考えたのですが、いじくればいじくるほど「寄生獣」に似ていくので、直接とりつかせるのはあきらめ、そういうシチュエーションをつくる生き物、に路線を変えました。
 この生き物は、宇宙で、ある場所からある場所へ、空間に穴をあけて「渡り」を行うようです。その通路にはなにがしかの力が満たされており、迷い込んだ個体に対しては、怪我を一時的に直したり、種として遡行させたりします。
 星が違うのに非常に似た生物がいるという点も、その設定内で理屈をつくりました。
 なお、高い音というのは、ただのモスキート音の設定です。
 実作にするときは、そのほか、それぞれの設定を不自然でなくするべく、細設定を追加できると考えています。

文字数:371

印刷

竜の孔

少女は、仔山羊をかかえて、ゆっくり斜面を登っていく。
 ずっと遠くまで見晴らしのいい、青く草の生えた斜面には、ときどき思いもよらない突起や窪みがある。一歩ずつ気を付けて足を運ばねばならない。
 仔山羊は、少し前の嵐で、後ろ脚をいためていた。痛がらなくなるまでひと月ほど見ていたが、変に曲がったままなので、爺が言ったのだ。
「竜の孔の様子はどうなのかな」
 斜面の丘を越えたむこうの谷の、さらにむこうの斜面の脇に、窪みがある。そこから、時々甲高い音が細く鳴る。鳴る時は何日も続き、より高くなって、消える。
 この音は子供や若いものにしかきこえない。爺も、昔は聞こえたといい、竜の笛と呼んでいた。この一帯に一軒だけのこの家で、それが聞こえるのは、彼女だけだった。
「ちょうど、音が高くなるところだったわ」
「鳴っている間は近寄らんようにして、終わったら、早いうちに連れておいで」
 昨日、音は消えていた。そこで、彼女は、跛行の仔山羊を連れ、竜の孔に向かったのだった。
 この季節に、空はどんよりと曇っている。ときどき雨は降るだろうが、大したことはなさそうだった。
「おおい」
 右手の丘のほうから、彼女の名を呼ぶ声がする。ずっとむこうの家の、やや年長の少年だった。少年といっても薄く髭は生え始めていた。
 従える山羊の群れはそのままに、斜面に足をとられないよう、ぴょんぴょん飛び跳ねながら近づいてきた。
「音は消えたろ、あとでいくよ」
「今日はダメ。この子を治すから」
 あー、というそぶりで少年は立ち止まった。
「明日はどう」
「この子を市に連れて行くと思うわ」
 そのまま彼女はまた自分の方向に歩き始めた。仔山羊を抱きしめて歩くうちに、長袖と膝下までのスカートにつつまれた体は少しほてった。去年よりすこし膨らんだ胸元から熱気を逃がしながら、谷への降り口にやってきた。
 ところどころに岩場があるものの、ゆるい斜面で、山羊の群れをつれて降りることもできる。むこう側に、木立にかくれて滝がある。遠い水音のすぐそばにひらたいところがあって、そのむこうに竜の孔がある。
 ところがいま、その平地に見慣れないものがあって、彼女は足を止めた。
 たまに町におりると見る自動車より、ちいさい、銀色で卵のような形のものがそこに、倒れもせずに立っていた。まわりの草は、焼け焦げている。
 しばらく見ていたが、なにもおこらない。
 彼女はゆっくり傾斜をおりていった。谷の中央の細い流れをまたいで越え、彼女の肩くらいまでむこうの傾斜をあがって、平地に立って、あらためて銀の卵を見た。
 仔山羊が腕の中で、姿勢をかえようともがいた。そのままでは持ちきれなくなり、一度地面に下ろすと、仔山羊は、びっこを引きながらすこし歩き、平地の外れまで行って草を毟り食い始めた。
銀の卵は、じっとしている。
 気味は悪い、さっさとすませよう、彼女は、山羊を草のところからかかえあげた。脚と腰を嫌そうに動かす仔山羊を、そのまま平地の奥、斜面にひらいた窪みまで持っていった。
 竜の孔と呼んでいる、浅い、大人の背くらいの窪みには、何かが満ちていた。
それが何なのか、彼女は知らないし、爺も、これを知る人も誰も知らないようだった。無窪みの奥が揺らぐような、空気の濃淡がそこにあった。
 かん高い、笛のような音が消えてしばらくのあいだ、いつもこの窪みにある、この濃淡に、彼女は用があるのだった。息をとめて窪みに身を入れ、仔山羊をそこに押し込むと、何もないように仔山羊はくるくる回ったが、そのうち眠そうにすわり込んだ。
 彼女は、横になった仔山羊をみながら、うしろに下がった。あまり自分までここに身をさらさないよう言われていたからである。そもそも、自分まで寝てしまってはどうしようもない。
 うしろに下がりながら、銀の卵をみて、頂点からなにから上に突き出されて、光るレンズがこちらを向いているのに気づいた。
「何よあれ、やめてよね」
 思い出したように息を深く吸い込んで、彼女は、しばらくそちらをにらみつけていた。
 ころあいを見計らっていたのだが、待ちきれなくなった。彼女はふたたび息を吸い込んではとめて、窪みに入り、仔山羊の後脚を触った。脚は治っていた。仔山羊はうすく目を覚ました。
 ここに身をさらすと、怪我が治るのだ。ただ、そのまま治るような怪我はそれでいいが、治らないような傷やゆがみは、治ったように見えても、そのうちまた元に戻ることも、彼女はにわかっていた。
 さらした時間の分、治って見える期間も長い。
 これくらいなら、ふた月は治っていてくれるだろう、そのあいだに本当に治ってくれたらいいんだけど、だったら今頃治ってるわね。
 そう思いながら彼女は、息を止めたまま、仔山羊を抱き上げ、窪みから平地に戻った。そして、銀の卵の一部が開いて、中から全身白い服につつまれた男が出てきたのに気づいた。
 男は、ぎこちなく片手を挙げた。彼女はつまずいて、膝をついた。
 仔山羊が腕からこぼれた。はっきり目を覚ました仔山羊は、不自由なく立ち上がり、銀の卵にむかって歩き始めた。
 男は驚いた表情でそれを見た。彼女は、立ち上がり、仔山羊を、男の前から奪うように再び抱えて、平地からおりた。流れを超え、むこうの斜面を懸命に上った。
 上がりきったところで振り向くと、男はじっとこちらを見ていた。なにかする気があればとっくにしていただろうからそれほど危険ではない、そう思いながらも、そこから、仔山羊を抱えたまま、彼女と爺の住む小屋までいそいだ。すこし歩けばもう谷も平地も銀の卵も、蔭になって見えなくなった。
 囲いに仔山羊を離した後、彼女は爺に、みたものの話をした。
「むかし一度みたことがあるものかな」
 爺は考えながら、
「子供のころだな、竜の笛の音がやんだ後に、そういうものを見たが、しばらく近づかないうちにいなくなっていた」
「なんなの、あれ」
「わからんな、あのあとちょっと長く、笛はならなかったから、近づく理由もなかったんでな」
とにかくあまり近づかないほうがいいというのは、単に見慣れないからで、それ以上の理由はなかった。
「竜の息にさらすのが、ちょっと短かったかもしれないわ」
「だったらなおのこと、さっさと市で売っておいで、しばらくして足が曲がっても、買ってから怪我したとしか思われないんだから」
 翌日仔山羊は、市で売られていった。
 お代を懐に、もう中に仔山羊のいない籠をかついで、丘のずっと下のバスだまりから小屋への道を歩く少女をみて、道のそばの草地まで山羊を連れて少年がやってきた。
「アデル」と声をかけ、「売れたかい」
「いい仔山羊だもの」
「明日はどう」
 彼女は、立ち止まり首を振った。
「竜の孔であの仔をなおしたとき、私もちょっと入ったの、だからまた血が出るかもしれない」
 みるみる少年の顔は、赤くふくれた。
「でも、いまあそこに何かいるわ」
「なにかって」
「銀色の卵みたいなものに、男のひとがいた。いる間は近づくなっていわれたわ」
 少年は不満そうにうめいた。「じゃあほかのところで」
「だめ、だから、なにもいなくなったら、教えてよ」
 彼女は歩き始め、不満げな少年は、山羊の群れとともに道から離れていった。2匹の犬が、群れの周りを走り回った。
 彼女は、あのひとはそのことしか考えていないのかしらと思いながら、小屋に帰った。
 数日たって、少女はまた、竜の笛をきいた。

銀のポッドに母船から乗り込んで、男は、この惑星の姿をモニターで見た。
 宙域のあちこちに仕掛けたセンサーが反応したので、やってきたのである。
 かなり前にここに彼のような観測員のきた記録はある。そのときは、反応のあったところでずいぶん待ったが、なにもおこらず撤収したとあった。
 似たような、高エネルギー反応が、この宙域のいろんな場所で報告されてきた。場所に特定の傾向はなかった。この惑星は、彼にも生存可能な場所だったが、ほかの報告を見ると、まったく大気のない小惑星の上であったり、高圧の不活性ガスの雲の下であったりした。
 生物のいる環境も、いくつかあった。環境が変わると生物もかわるが、類似の環境では、類似の生物が見られた。ここまではふつうに説明ができるのだが、違う惑星であっても、類似の生物のあいだでは、生体制体組成も同様であり、繁殖形態も似ていたし、遺伝様式やその分子構造も極めて類似していた。これをもって「神」の実在をうたうものがいるほどであった。
 これから彼の降りる惑星にも、彼にきわめて似た、生物が、社会を作って生息していた。
 あえて敵対行動をとる必要はないにしても、それらと無用な軋轢をおこすことは避けねばならなかった。
 ひとり母船で空間を超えてここまできたが、これは真空と真空のあいだでしかジャンプできない。惑星上には、ポッドで降りる必要がある。
 この母船を衛星軌道上において探知されるレベルの技術には、まだこの星は達していないはずだった。だが、急速にそのレベルは向上している。探知されアプローチを受ける前に、調査を行わねばならない。
 ポッドのモニターに、高エネルギー反応観測データを重ねた。反応値は、観測開始したときよりも、急速に低下していた。
「また、空振りかな」
 いってみなければ仕方ない。夜の側にいるあいだに、彼はポッドで、降下していった。
 その場所が「竜の孔」と呼ばれていることは、彼は知らない。着地し、周囲を観測したときには、エネルギー反応は消えてしまっていた。彼はがっかりした。それでもしばらくは留まる必要があった。
 ポッド外の環境は、生存可能だった。しかし彼は外には出ず、内部装置でできる範囲の環境モニターを行った。
 朝が来て、夜が来た。ふたつめの朝、この惑星の住民が近づいてくるのに、彼は気づいた。
 小型の女性タイプで、少女というべきものだった。ポッド内から彼は観察した。
 少女がかかえこんだ動物は、地上での動きから、下肢に問題があった。少女はそれを、高エネルギー反応があったであろう、引っ込んだ地形に入れ込んだ。
 よくみるため観察系を作動させたところで、少女に気づかれた。お互いに無害かは不明だが、アプローチする意味はあると考えて、生体レコーダーを作動させた防御服のまま、彼はポッドのハッチをあけた。
 目の前を、トラブルのあったはずの部分を問題なく動かして、動物が歩いた。
 驚く彼を尻目に、少女はその場から、動物を抱き上げて去っていった。
 少女がわざわざそこにその動物を連れてやってきて、その動物が明らかに障害から回復したことは、この場所が特異であって、それがここの住民にも知られていることを示す。
 窪み内の大気を採取したところ、簡易計測でも、重い不活性ガスがやや多いことが示された。
 彼は、観測機器をポッドから出して、窪みのまわりに備え付けた。そのまま日が経過した。窪みの中の不活性ガスはどんどん薄くなっていった。
 何か事が起こると、それについて防御服のレコーダーに、ささやいて記録していく。その必要もほとんどんなく、待つのに飽き始めたころ、いきなり高エネルギー反応が窪みの奥に現れた。この前から、甲高い細い音がしていたのだが、彼にはそれは聞き取れていない。
「ポッドのある平地には、ポッドの焼いた草の跡しかない。前回と同じことが起こっているなら、周囲に対する破壊的な効果はそれほどない」と、レコーダーにささやいてから、彼は、簡易シールドのみをおいて、ポッド内のモニターからそれをまず観測した。
 窪みの奥に、空間がひらいていた。気体がゆらぎ、そこから何かがこちらに侵入してきていた。それはこちらの大気に混ざると、そのまま見えなくなっていった。
 それは1日続いた。彼は、各観測値が一定値になってしばらく続くのを確認し、防御服に呼吸ヘルメットをかぶってポッドを出た。周辺環境自体は、大気の変化しか観測できていない。そこで、窪みの奥の空間に、自走性観測プローブを送り込んでみた。
 有線で送り込んだが、データも送ってこないし、画像もあまりに不鮮明だった。コントロールできているかすらわからなかったので、ケーブルをたぐりよせてプローブを回収し、内部記録を直接解析した。動くものがそのむこうにあることしかわからない。
 ポッドの中で意味不明の解析結果をうらめしそうに見ながら、彼は、モニターの中の、窪みに目をやった。
 いきなり、空間から、いくつかの、魚に見えるものが飛び出してきた。地面でしばらく跳ねて、そのうち動かなくなった。
 と、窪みからでてくるものが途切れ、空間が閉じた。高エネルギー反応は消えている。
 彼は、ポッドから出て、窪みに入り、挟みで魚をつまみあげてトレイに乗せた。魚は、鰓をひろげて、ふたたびトレイの上で跳ねた。それをみていて、急に彼は眠りたくなった。
 窪みの大気を彼はしっかり呼吸していた。
「しまった」
 解析して無害に思われたが、そうではなかったのかもしれない、ヘルメットを必ずかぶって行動するという内規を、しょっちゅう無視していたが、今度は危ないかもしれない、そう思いながら彼は意識を失った。
 目覚めたときには、あたりは暗かった。窪みの空間で彼はゆっくり起き上がった。
 足元にトレイが落ちていた。そして、数匹の魚が、相変わらず鰓を動かしていた。
 彼はあらためてトレイに魚を回収し、隔離容器に移してポッドに戻り、自分の防御服のレコーダーの生体ログを確認した。意識を失っていたのは半日程度だったようだ。プラス一日以上でなかったことに彼はほっとした。さらにログを見て、それまでにあった、大したことはないにしても標準から外れた値がすべてなくなっていることに、驚いた。
 回収した魚は隔離容器の中で死んでいた。半日以上外で生きていて、いきなり死ぬのも不思議だった。総じて、何が起こっているのか、彼にはわからなかった。
 とれるデータはとって、あとで考えるしかない、しかし、体系的にとられなければ、たいがいのデータは何の役にも立たない。
 翌朝も、窪みのエネルギー反応は、まったくない。ポッドから出て、窪みに向けた観測機器をチェックしながら、背後に気配を感じて、彼は、まえに少女の消えていった丘を見上げた。
 少女ではない人影が、こちらをうかがっていた。かなり遠いはずなのに、彼は、はっきり顔を見ることができたし、彼に気づかれたと察したか、ゆっくり去りながら踏みしめろ足元の音も、はっきり聞き取ることができた。
 何もしないことで害意がないことはわかったんだろうか、と思った。この場所で、それを住民に対して示すためのコードがなんなのかは、彼は共有していないので、何もできなかった。
 十日ほどたって、彼は、か細い高い音が、窪みの奥から響いてくるのに気づいた。
 あいかわらずどんよりした空を観測員は見上げた。なにかが近づいてきつつあるような気がした。

少年は、本当に、少女の体のことばかり考えていたのである。
 山羊の群れをまとまった草地に移動させながら、彼は、どこなら彼女とゆっくりできるか、場所を探していた。このあたりは何度もいききしていて、すべての地形は頭に入っていたのだが、見方が変わると、見え方もかわることがある。
 少女にいわれて、彼は、竜の孔を見に行こうとしたところが、笛の音が聞こえた。聞こえているあいだは近づくなと、そこを知る大人にも、少女の爺にもいわれていた。
 なにがいけないのかきいてみたが、
「笛が鳴っているあいだは、そこに竜がいるということになっているから、近づかんほうが無難じゃろう」
程度の答えしか返ってこない。
「いったことはあるの」
「遠くから見ただけだけれどな、あそこには本当に孔があるのだ、ふだんはわからないのだけれど。竜は、見えんが、その孔を出入りしている。そしてそこから出る、竜の息のおこぼれを、たまにいただいているだけだからな。用もなくものではない」
「体がよくなるじゃないか」
「調子の悪かったところがよくなる、それはいい。でも、それは嘘で、また元に戻ってしまう」
「戻ったらまた繰り返したら」
「次にいつ笛が鳴るかわからんのにか。だったら、調子の悪いところとちょっとでも折り合えるところを見つけたほうがいい、変によくなっても、続かないのだからな、折り合いをつけたところにまたもどるのが大変なのだ」
少年にはわからなかった。調子が悪い、ということが実感としてわからなかったからである。
「それにもうひとつ、これは自分じゃ確かめたことはないのだがな」
「何」
「儂の生まれる前にも、しょっちゅう笛が鳴っていたことがあって、何度も繰り返してあそこにいっていたものがおったらしい、何代前なのか知らないのだが」
「何をしにそんなに何度も」
「それは知らんが、だんだん顔がかわっていったし、気性も荒くなった。なにかが入れ替わったんだと、家のものが怖がって、叩き殺したそうだ」
 それは嫌だなと、少年は思った。
「このあいだからよく笛が鳴るね」
「鳴らないときは、何十年も鳴らないんだがな、儂がまだ笛を聞ける時分にも、しょっちゅう鳴っていることがあったがな。歳食って聞こえなくなって幸いなものだ、あんなものがしょっちゅう聞こえたんではかなわん」
 その、ちょっとかなわん事態が最近やや繰り返し、おこっている。
 遠い耳鳴りのようであまり気にならなかったが、少女の癇に障るのは、少女といて感じた。その竜の孔のあたりに、卵があるといきなり少女いわれても、なにがあったのかわからない。
 誰かがそこに、いるらしいことはわかった。音がやんだら見に行こう、と思いながら、竜の孔のあたりを遠回しに、彼は、山羊の群れを追ってまわった。
 竜の笛が最近よく鳴るにつれ、気づいたことがあった。あまり見ない形の生き物が、草地に潜んでいるのに、何度かでくわしたのである。
 大抵は、大きなネズミのような生き物だった。少年よりは小さく、歯はそれほど発達していない。動きも一見は素早いものではなくて、このあたりでの生存に適しているようには思えなかった。だが、一度納屋の隅にそいつがいるのを見て以来、犬をけしかけて足止めしたうえで、とどめを刺すようにしていた。犬の訓練にもなると思った。
 目先のことをあれこれ思いながらも、結局は、彼女をゆっくりしたい、というところに頭が戻っていくのだった。竜の孔のそばの平地、あそこがいちばんゆっくりできるし、彼女もあそこが気に入っていたのだから仕方ない。
 笛の音がやがてまた消えたので、翌朝、やや離れたところに群れを置き、犬に番をさせて、少年は竜の孔に向かった。丘から谷をのぞき込むと、彼女がいったように、大きな銀色の、卵状のものが、平地にあった。卵と竜の孔のあいだに、いくつかものが据え付けられていた。そして、その間を、白い服を着た男がたたずんでいた。
 よくみようと足元をかえていくと、男がこちらをむいた。少年は、しばらく男を見ていたが、こちらに何をしようという感じでもないので、丘から群れに戻っていった。
 いつまであいつはあそこにいるんだろうと、少年は思った。
 何日かしてまた笛の音がきこえはじめた。
 朝、今日は忙しいから、アデルに頼んで乳をしぼってもらっておいで、と母親に言われ、少年は少女の住むあたりまで山羊の群れをつれて降りていった。絞るあと、その乳の加工もしなければならないから頼むのは、言う必要もなかった。
「ごめんよ、お願いして来いって」
「いいわ」
 少女は足場のいいところに、乳の出る山羊を引いていった。腹の下にバケツを置いて、乳を搾った。少年は黙って見ていた。
 少女は、「よく鳴るわね、嫌ね」と、彼に聞かせるともなくつぶやいた。
「あいつ、いつまであそこにいるんだろうか」
「私が知るわけないじゃないの」
ややとがった口調で、少年は首をすくめた。
「だいたい、なにをしてるかもわからないのに」
「竜の孔に用があるんだろうか」
「あそこにいるんだから、そうじゃないの」
 笛の鳴っていないときに、あいつは暇そうにしていた。鳴っているときには見ていないが、そのときになにかしているのであれば、邪魔したらどこかにいくかもしれない、少年はふとそう思ったが、口には出さなかった。
 絞り終わったときに、彼は、ミルクまみれの彼女の手を取った。そして、その指にしたたるミルクを吸った。彼女は、やがて、少し微笑んで、もう片手についたミルクを、彼の、うすく髭の生えつつある頬になすりつけた。
 そのまま彼女は小屋に、バケツをもって、行ってしまった。
 そのあと数日彼は考えていた。考える材料のない場合、時間は、決心を固めるためだけに使われる。
 笛の音はやや高くなった。
 彼はある朝、山羊の群れを連れて、丘を越えていった。
 高みからみる。銀の卵のそばにはやはりいくつか、ものが据え付けられていた。そして、むこうの窪み、竜の孔のあたりに白い服の男がいた。
 男は、孔のなかを覗き込んでいた。爺の言う、本当に孔が開いているようだった。
 少年の後ろから山羊たちがぞろぞろやってきた、犬に追われて、群れは、仕方なく、ゆっくりと、斜面を下り始めた。
 山羊のざわめきに気づいて、男はこちらをみた。その表情は、少年にはわからない。
 男が大きな声をあげたのも無視して、群れはゆっくり斜面をおりる。少年は犬に指図して、山羊たちをどんどん、銀の卵に誘導した。
 けんめいに孔のなかの空間を覗き込みながら手元のものを操作していた男は、あきらめたようにそれを置いた。
 山羊は平地に上がっていく、のろのろと動きながら、銀の卵のそばでところかまわず動き回り、据え付けられたものは山羊にあたられて、倒れるものもあった。
 男がまた声を上げた。そして、ふところから取り出したものを、べつの仕組みにあたろうとしている山羊に向けた。
 低い音。山羊は倒れた。
 少年は、腰をかがめ、山羊の陰にかくれたまま、犬に合図を出した。吠えながら男に向かう犬に、むけて、また低い音がした。犬は山羊の間に見えなくなった。
 山羊はそれでもどんどん平地に上がっていく。蔭からみていると、白い服の男は山羊に押されて、何度か低い音で山羊を倒し、孔のむこうの空間のなかにあるものに手を伸ばしたところでバランスを失って、そのまま空間に吸い込まれた。
 いっしょに数匹の山羊も空間に入っていった。
 少年は、男が消えたことより、山羊を失ったことに戸惑いながら、口笛を吹いた。残った犬が吠え、山羊たちは方向を変えた。
 群れごと丘に戻り、竜の孔のあたりを見下ろした。横たわっていた犬や数匹の山羊がのろのろ起きだして、こちらにむかってきたので、少年はほっとした。
 銀の卵のまわりは、いろいろなものが倒れ、踏まれていた。
 ここのところ空はずっとどんよりしている。低い雲の一部から、なにかが集まって竜の孔にはいっていくように見えた。少年はそのまま、少女の小屋のほうに、群れを率いていった。羊を失った口実をどうしようか考えながら。

観測員の定期連絡が切れた場合、その周辺の観測機器のログが回収され、危険がなさそうであれば、調査員が派遣されることになっている。
 女は、衛星軌道上の観測母船のそばに調査艇をとめ、母船とリンクを張った。
 観測母船からのデータでは、観測員は、ポッドで惑星に降りたあと、不安定な生体ログを送ってきて、記録が途切れ、その後かなり経ってから、生体ログのない通信だけ送ってきていた。死んだのではなく、生体レコーダーとの接続が切れたように見えた。
 なにがあったとしても、状況を確認して、可能であれば観測員を回収しなければならない。でなければ誰も観測員にはならない。
 彼女は、状況の記録をシームレスにしてデータ常時転送のモードで、調査艇のポッドで、惑星に降りて行った。
 観測員のポッドよりも、足場のわるいところに強い調査艇のポッドは、観測船のポッドからほど離れたところに、無事着いた。まる1日、彼女はそこから、観測船のポッドを観察した。
 そのポッドのある平地には、観測機器が倒れて散乱していた。そのあたりのデータはすべて観測船にあるはずだった。
 観測員が行方不明である以上、この場所にいることにリスクは高い。長居するべきではないので、既定の待機時間が過ぎてすぐ、防御服とヘルメットを着けて彼女は自分のポッドを出た。
 観測員のポッドそのものは無事なようだった。散乱した観測機器の中に、白い防御服が落ちているのが見えた。たしかに、観測員はこれを脱いでしまっていたようだ。
 斜面をあがりきると、毛の生えた、彼女の半分ほどのサイズの四足獣がポッドのそばにいた。そいつは、彼女を見て、鳴き声をあげた。
 そのまま近づいて来ようとするので、彼女は躊躇せず、高圧銃を向けた。衝撃で獣はおとなしくなった。
 観測員のポッドのロックを外してハッチをあけた。記録からは、一定時間空きっぱなしだったので自動的に閉扉されたことになっており、そのまま外部からのシグナルは入っていなかった。
 彼女は、観測員の防御服をつまみあげた。ぐしょぐしょに濡れている。彼女はパックを取り出してこの服を隔離保管状態にし、観測員のポッドを自分のポッドにリンクさせた。2つのポッドで母船にむけて上昇していく途中、地上をうつしだすモニターには、ひろい草地と、動物の群れしか見えなかった。
 そこには、原住民が2人、上昇していくポッドを見上げていたのだが、ただの調査員である彼女にはわからない。
 調査艇に戻り、観測母船にポッドを収容して、ポッドと、防御服からのデータを吸い出す手順を行った。
 生体データのほか、観測員自身による音声記録がかなり長く残っていた。すべての解析は母星に帰ってからになるが、いま行方不明の観測員をみつけるために必要なデータがあるかもしれない。彼女は、ポッドに残ったデータのほか、音声記録を早回しで解析するよう、システムに入力した。
後半はほとんどよくわからない音声だったらしい、関係ありそうに判断される内容を一連につないだものが、しばらく待ってから彼女の前に示された。
「押し出されて孔に入り込んでしまった。記録する。重力は感じない、孔に入って、気を失ってからはじめて目覚めたと思われる。
「薄暗いが、それより、目の前につねに波面があるようで、なにがあるかはっきりわからない。明るさの濃淡はある。
「そばに、いっしょに入り込んだ生き物がいる。ときどき声をだしている。こいつに話しかけることが、気を保つのに役に立っている。
「明るい場所に近づいてきた、すこしはっきり見える。べつの空間にむけておおきな口が開いているが、むこうは、、、あの場所とは違うようだ。岩だらけの場所に、つよい光がさしている、小惑星のように見える、ここに出るのは無理ではないか。
「いまみえているのは海の底か。どういう仕組みなのかわからないが、魚がこちらに入ってくる。
「ここは大変な空の上だ。
「なにかわからないものが、空間への開口部にあたるたびに、出たり、入ったりしているんじゃないか、ほとんど見えないが、自分の中を通っていくのがわかる。
「今いるところが、外なのか、中なのかわからないが、向こうが見えるところから、別のところにうつるたびに、意識がなくなる。自分の生体ログをみると、ほとんど反応がない。
「空間から空間に渡るなにがしかの仕組みがここにはあるのだが、いちいち死ななければいけないのか。
「空間から空間に、渡りをするものがいるように感じる。
「死んだものを生き返らせるなにかがここにはあるのか。
「出て行って、そこで生きられることもあるだろう、こういう通行路があちこちにあるとしたら、この宙域の生物系がごく近似しているのもこれのせいか。
「気が付くと、そばにいてくれた生き物がいなくなった。さっきの開口からこぼれてむこうにいってしまったようだ。向こう側で、ぐったりして動かないのが見えたように思う。」
 そばにいてくれる生き物がいなくなってあと、記録は徐々におかしくなっていった。その中でも意味が通る部分が再生されていく。明らかに感情的な恨み言も増えたようだが、飛ばし再生されていた。
「どこから出ていいのかもわからない、元の場所にきたところでそれが見てわかるのだろうか。
「ずっと高い音が鳴っている。
「服がずいぶん緩い、やせたのか、体がずいぶん毛深くなった。もしかして、形態が退行してきているのではないか。
「形態だけですむのか、それは。
「尻尾がでてきたようだぞ。
「何をどうするかよくおぼえていない、記録することは覚えているが、そのうちわからなくなりそうだ」
 ボタンをおすこともできなくなったか、音声記録は途絶えた。そのまま生体ログを追っていくと、標準値からどんどん逸脱していくのがわかった。
 それでも、観測員はその防御服の中にはいたようだった。あるとき、外環境がかわるデータがあった。孔とやらに入ったと記録があるまでの環境に近い。
 複雑な思考ができなくても、単線的な記憶と、意志は、中枢神経のある生物にはだいたい備わっている。なにかよくわからないものになったなりに、観測員は元の場所をみかけて、そこにでてきたのだろう。
 その後、彼の体が服から出ていく記録があった。
 そこまで確認して、調査員は、急いでポッドに戻って、惑星に降下した。
 彼女の無動化した獣が気になったからである。
 たかが一日しかたっていなかったが、平地に散乱した観測機器は、隅のほうに寄せられてしまっていた。
 そして、獣の姿もなかった。
 そのあたりを、彼女はずいぶん探したのだが、結局観測員はみつからなかった。

文字数:12008

課題提出者一覧