泥の海

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梗 概

泥の海

大規模な地殻変動と温暖化により、多くの陸地が「泥海」とよばれる干潟で覆われた世界。地上のあらゆるものが、ゆっくりと泥の中に沈んでいる。残された人々は、沈みゆく廃墟や、泥に根を張るマングローブの上でコミュニティを形成している。泥により人々は自由な移動を制限されている。雨季になると、どこからともなくやってくる泥流が、地上のすべてを押し流す。

主人公の少女とその家族(両親、兄)は、60階建てタワーマンションの最上階に住んでいるが、すでに54階まで泥の中に沈んでおり、そろそろ住居の移動を考えている。泥に住むトビハゼや、貝類、甲殻類、熱帯の果実などを主食としている。コミュニティを定期的に行商人が回っており、貝殻の加工品やマングローブの樹脂で作ったアクセサリーを、生活必需品と交換してもらう。泥発電により、微量ながらも電気を使うこともできる。家族の仲は良いが、少女は最近、兄が夜中に部屋を出ていくことを気にしている。

泥と青い空のみが広がる世界。少女はタワーマンションの屋上に立ち、泥海の地図を描いている。浅瀬、深み、落とし穴、そして縄張り……。見渡せるのは泥一色だが、その内実は複雑に入り組んでいる。

遠くに泥牛のキャラバンが見える。行商人は泥牛(水牛の亜種で、背中に脂肪をためたコブを持ち、長期間泥の中を歩くことができる)の背中に乗り、コミュニティ間を移動する。泥牛の乳はチーズなどに加工され、人々の貴重な栄養源となる。この世界においては、泥牛の命は人間よりも価値があるとされている。泥牛は神であり、この世界は泥牛の見ている夢であると信じている人々もいる。泥海にはところどころ、「落とし穴」と呼ばれる深みがあり、そこにはまり込んだ泥牛はそのまま死を待つしかない。動けなくなった泥牛は生きたまま海鳥の群れに食われる。それが目印となり、泥海の地図に、また新しく「落とし穴」の場所が書き込まれる。

また、泥の中には凶暴な大王ウミムカデ(体長5~10メートル。普段は泥の中に住み、動くものを感知すると外に出て捕食する)が住んでおり、縄張りに入ったものは食い殺される。泥海を行くものは、決してその縄張りに足を踏み入れてはならない。

ある嵐の日、少女のコミュニティは、マッドスライダー(アメンボに似た大型の虫で、泥の上を滑って移動する。操縦には相当の技量が必要)に乗った泥賊の襲撃を受ける。両親は殺され、兄は濁流の中に消える。少女は泥賊に連れらさられ、復讐を誓いながらも、アジトである打ち上げられた貨物船で、奴隷として働く。泥賊は大王ウミムカデを駆逐しながら、泥海での勢力を徐々に広げていく。

やがて彼女の描いた泥海図が(最初は猜疑の目を向けられつつも)認められ、泥賊の中での立場が上がっていく。少女は普段は姿を見せぬ泥賊の頭領と会見するチャンスを待つ。そして、その日がやってくる。頭領は仮面をつけている。頭領は少女との結婚を申し出る。「私はこの世界の王になる。そのためにお前が必要だ」

少女は頭領の胸に、隠していたナイフを突き立てる。頭領は崩れ落ち、仮面が外れる。その下から現れたのは、行方不明になった兄の顔だった。

文字数:1296

内容に関するアピール

勢いだけで書きました。

文字数:11

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泥海の神

大規模な地殻変動と温暖化により、多くの陸地が「泥海」とよばれる干潟で覆われた世界。
人々は、泥海に点在するいくつかの島で、コミュニティーをつくって生きている。嵐がくるたび、どこからともなく濁流が襲う。島は泥海に侵食され、沈み続けている。いずれは、陸地のすべてが泥に埋まるだろうといわれている。

スウは、崖に立つ見張り台から、泥海を見下ろしている。潮を含んだ泥海からの風に、彼女の長い髪が揺れる。泥と青い空のみが広がる世界。その水平線―泥平線と呼ぶべきか―の向こうは、水で満たされた本物の海があるという。しかし、だれもそれを見たことはない。

泥に半身を埋めた野生の泥牛が、生きたまま海鳥たちに啄まれている。泥海のあちらこちらには、落とし穴と呼ばれる場所があり、そこに落ちたものは二度と抜け出すことができない。体重が千キロ以上になる泥牛であるならなお。落とし穴に落ちた泥牛は、やがて骨のみを残し、しばらくの間は、そこが危険な場所であることを教えてくれる。泥海の世界では、生きているものより、死んでいるものの方が役に立つこともある。

泥牛は泥沼の数少ない移動手段、またその乳はチーズなどに加工され、人々の貴重な栄養源となる。この世界においては、泥牛の命は、人間よりも価値がある。泥牛は神であり、この世界は泥牛の見ている夢であると信じている集団さえいる。
スウは一度、行商人に頼み、泥牛の眼を覗き込んでみたことがある。黒水晶のような深い闇の向こうから、少女がこちらを覗き込んでいた。もしこの世界が牛の見る夢ならば、その瞳の向こう、牛の意識の向こう側に、本当の世界があるはずだ。あの少女は、本当の世界に住んでいる、わたしに似た誰かなのだろうか……。

背後に気配を感じ振り向くと、兄のシンが立っていた。
「風が渦巻いているな」
シンは遠くの空を見つめている。その顔立ちは端正だが、仮面のように無表情で、感情を読むことができない。
「見えるか」
遠くの空に黒雲が生じていた。嵐の兆候だ。一度嵐が起こると、それとともにどこからともなく濁流が押し寄せ、世界を泥で覆う。そして島はまた少し、泥に沈む。
「シンもこの島をでていくの」
スウの住む島は小さく、住む人も少ない。若者はある程度の年齢になると、より大きな島へと、泥牛に乗って旅立っていく。
「どのみち沈む島だ」それはシンの口癖だった。
「年寄りたちはいい。生まれた島で育ち、生まれた島で死ぬ。俺たちはそうはいかない」
「わたしはこの島を出たくない」
「スウは臆病者だ。いや、心が老いているというべきか」
 再び雷鳴が轟く。雲の切れ間を大きな竜がゆっくりと横切った、ように見えた。
「いいか、俺が行くのは、泥海の中の他の島じゃない。泥海の向こうにいく。本当の海の、その向こう。この世界の向こう側に」
「どうやって」
「この世界は夢だよ。このまま泥に埋もれて死ぬのを待つか、この夢から覚めるか」
 シンの横顔は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「帰るぞ」

 嵐が過ぎ去ると、ときに濁流に流され、思いがけないものが浅瀬に打ち上げられる。よく晴れた朝、スウは、人々の騒がしい声に導かれ、泥海の浜辺へと来ていた。見慣れた泥海の中に、巨大な黒い丘が姿を現していた。いや、それは丘というよりは、一つの島に見えた。すでに死臭を嗅ぎつけた海鳥たちが、騒がしく空を舞っている。巨大な二本の湾曲した角。それが、この得体の知れない何が、泥牛あることを示していた。しかし、脚がない。脚が‎あるべきところに、トビハゼのようなヒレがついている。

「あれは鯨牛だ」
隣に住むラス爺さんが、酒臭い息を吐きながらスウに語りかける。短く刈り込んだ白髪頭。日焼けした肌に刻まれた深い皺。右手には、酒が入ったガラスのボトルを握っている。
「俺は昔、海に出たことがある。その時に見た。あれは確かに鯨牛だ」
「鯨牛ってなに?」
「泥海の向こう、本物の海に住んでいる、水の中の牛だ」
ラスはボトルの酒を飲み干す。ラスは朝から酔っ払って島をふらついている。家族はいない。いつもホラばかり吹いており、だれも彼の言うことを信じるものはいない。勝手に人の家に上がりこんでは酒と食べ物をねだる。しかし、不思議と彼を嫌うものは少なかった。
「泥牛の中には、海で生きることを選択したものもいる。そいつらは脚をヒレに変え、自在に水の中を動き回る。彼らは海で自重から開放され、どんどん巨大化した。ついでに、鼻の穴から潮を吹く」
「ふうん」 
 スウは話半分に聞き流す。
「あれ、どうするんだろう」
「さあな、俺のしったこっちゃない。そんなことよりスウ、暇だったら一緒にお茶でもどうだ」
「ラスはお茶じゃなくてお酒でしょ」
ラスは、厳つい顔を崩し笑う。深い皺がさらに深くなる。スウもつられて笑う。ふわりとした風が、二人の間を通り抜ける。

 昼過ぎに、今までに見たこともない数の、泥牛の隊列が浜辺にやってきた。木でできた牛の仮面を被り、漆黒のローブを纏った人の群れが泥沼に降り立ち、巨大な牛の死体を取り囲む。その姿からは、男か女か、若者か老人かもわからない。スウとシンは、浜辺に座り、それを眺めている。
「狂信者たちだな」シンがいう。
「泥牛を神と崇めている。どこかの島に、彼らの住む大きな神殿があると言われているが……」
 浜辺では、木陰に座ったラスが、どこからか手に入れたギターを弾きながら、歌を唄っている。古い子守唄だ。スウも、むかし、母の胸の中で聴いた。――この世は夢、醒めてもまた夢――。
「あのじいさんにはかかわるな」シンの顔はそういうと、漁へ出るため、その場を立ち去った。
 スウはラスの隣に座り、子守唄を一緒に唄う。浜の砂が、素足に心地よい。ここは楽園だ。シンがいて、ラスがいる。わたしはここを出たくない。
「うえっぷ。のどが渇いた」ラスは酒のボトルに口をつける。
「ラス。あの人たちは誰? シンは狂信者だと言っていたけど」
「神を信じるものであるのは間違いない。一つ違うのは、狂っているのは奴らじゃなくて我々の方だ、ということだ」
 そう言うと、ラスはギターを掻き鳴らし、唄う、――この世は夢、醒めてもまた夢――。
この世は夢? 狂っているのは我々の方、というのはどういうこと? そう聞き返そうとして横を見たが、ラスはガジュマルの樹によりかかり、すでに眠りの世界へと落ちていた。

 狂信者たちは、手慣れた手付きで泥牛を解体していく。夕方には、骨格だけを残し、そのすべてが運ばれていった。スウはただそれを、浜辺に座って眺めていた。それまでは黒々とした丘にしか見えなかった得体の知れない何かが、角をもつ頭蓋と、あまりに大きすぎる肋骨をあらわにすることによって、確かに泥牛だったものとしてスウの前に立ち現れた。脚のない巨大な泥牛が、まるで命をもっているかのように、今にも泥海に沈まんとしている夕日に向かい雄叫びをあげていた。

翌日、家に客人が訪ねてきた。見知らぬ、若い男だった。この島に、行商人以外の客があることは珍しいことだった。物腰の柔らかい男で、スウと目があうと、丁寧にお辞儀をした。男と父は、書斎で二人、夜遅くまで話し込んでいた。
深夜、スウは何かが倒れるような物音に目を覚ました。起き上がり、窓を開ける。浜辺に、炎が揺らめいているのが見えた、スウは着替えると、手提げランプに灯をともし、自分の部屋を出た。スウは階段を降りる。スウが書斎の扉を開けると同時に、何者かが飛び出してきた。スウは突き飛ばされ、床に倒れる。影が走り去る。スウはすばやく起き上がると部屋の中に飛び込む。父と母が、血溜まりの中、折り重なるようにして倒れていた。スウは駆け寄り、二人の体を揺する。しかし、応えはない。ふたりとも、心臓をナイフのようなもので一突きされていた。スウは自分の部屋に戻ると、部屋にかけてあった弓矢をもち、テラスに出る。月明かりの下、礼拝堂の向こう側に、男の影が見えた。スウは男に狙いを定め、弓を引く。空気を切る音とともに、男の体が傾ぐ。男は右の肩を抑えながら、それでも立ち止まることはない。スウはテラスから飛び降り、男を追う。

浜辺では、無数の炎がゆらめいていた。正確にいうならば、松明の灯りが。牛の仮面を被り、松明を持った人々の群れが、浜辺に並んでいた。それは、昨日見た狂信者たちの姿だった。
「あんたたちは何者!?」
スウは、狂信者たちに向かって弓を射る。しかし、不思議な力が働き、放たれた矢は狂信者の眼前で停止、落下する。狂信者たちはじりじりと、スウに近づいてくる。
「皆殺し、皆殺し、皆殺し」狂信者たちが、低い声でつぶやく。
スウは弓を捨て、両手を上げる。
「わかった、降参する」
 その時、スウの後ろで、耳をつんざくような破裂音がした。
「スウ、こっちにこい!」
 スウは即座に振り返り、走った。再び破裂音が二度、三度と響く、狂信者たちはひるんでいるのか、追いかけてくる気配はない。何かにぶつかった。ラスだった、ラスが、スウの体をつよく抱きとめていた。
「よかった」
 ラスがつぶやく。

 異常な気配を嗅ぎつけたラスは、銃を持って浜辺へでた。ちょうどスウが狂信者たちに取り囲まれていたところだった。ラスは、スウを助けるため、銃を狂信者たちに向けて発砲した。
「あくまで警告だけどね。俺には、人を殺す度胸はない」
 二人は、夜の闇の中、北の洞窟へ向かう。そこにラスのねぐらがあった。ラスは松明に灯りをともし、奥へと進む。
「この島に鯨牛が現れたのは、スウがいたからだ」
「どういうこと? ラスは、この世界の秘密を知っているの?」
「多少は検討をつけている。それより君のお兄さんは無事かい?」
「わからない。家にはいなかった」
「あいつらに連れていかれたかな」
 スウはふと、ある可能性に思い当たったが、口にはださなかった。
「牛の神殿に行きたい。兄もそこにいるかも」
「ああ、俺もそれを考えていた」
「何か、手段はある?」
 ラスは洞窟の奥に進む。やがて、泥の海へと抜ける外穴へとたどり着いた。ラスが泥の海に松明をかざすと、岩に係留された、古いボートが浮かびあがった。
「泥の中を漕いでいくつもり?」
「いや。これはただの舟ではない。空飛ぶ舟だ」
「空を?」
「空を飛ぶは言いすぎだった。ほんのちょっとだけ浮く。泥の中に住む微生物が発する電流を利用して、浮く。泥の上を高速で、滑るように移動できる。しかも自動操縦ときたものだ。この世界にとっちゃあ少しばかりオーバーテクノロジーだがな」
 スウは、ラスが何を言っているか理解できなかった。
「これは、俺が昔、牛の神殿から盗み出したものだ。あそこには、もっとすごいものが眠っている。狂信者たちがなにをやっているのかは知らんが、乗り込んで、世界の秘密を解き明かしてやる」

ボートは泥の海を滑るように走っている。その風で、スウの長い髪がたなびく。ボートの中は狭く、二人は体を寄せ合っている。これほど速く自分の体が運ばれるのは、スウにとって初めての経験だった。自分が風になったように感じた。ラスがこのような魔術を隠していたなんて。ボートは牛の神殿のある島へ向かっている。どういう仕組みかはわからないが、人間が操縦する必要はないらしい。

 遠くで稲妻が光った。
 泥海の向こうに島が見えた。丘の上に、白い神殿が見える。
「よし、奴らのアジトが見えてきたぜ」
 再び、稲妻が光る。
「天で竜が暴れているな。また嵐がくるかもしれん」
 ラスがつぶやく。泥の海が揺らめいた。
「天の竜より、地の竜の心配をした方がいいみたい」
眼前の泥海が盛り上がった。緋色の触手が現れた。ボートに並走して、巨大なウミムカデがその頭部をあらわにする。無数の足が、不規則にうごめく。大王ウミムカデ。それはまさに地上の竜だった。硬い甲殻と、無数の節足。あらゆるものを噛み砕く牙。ウミムカデはスウの何倍もある上体を大きく泥海から上げ、ボートへめがけ突っ込んでくる。
「くそったれ! 俺様に逆らうとはいい度胸だ!」
 ラスは銃を手に取ると、その先をウミムカデに向ける。しかし、照準が定まらない。
「駄目だぁ! 酒が切れちまった! 手が震える!」
「貸して!」
 スウはラスから銃を奪い取ると、ウミムカデの顎を撃ち抜く。ウミムカデは、泥を跳ね上げ暴れたのち、力尽き泥の中に沈む。
「後ろからも来る!」
ラスが叫ぶ
 振り向きざまに二発、弾を打ち込む。
「今度は左!」
 間に合わない。寸前のところで、ラスがボートの舵を取る。飛び上がったオオムカデが、ボートの先を掠め、また泥の海へ潜る、
「まったく! 神殿はもうすぐだってのに! くそっ! ここは大王ウミムカデの巣だ!」
 酒をあおったラスが、スウの腕から銃をひったくる。
「オッケー、あとは任せとけ」
「任せるって、どうするつもり? 弾がいくつあっても足りないよ」
 ボートの周りを無数のウミムカデが取り囲んでいた。ラスはスウに向き直り、その目を見つめる。
「スウ、俺は……、俺は!」そこまでいって言葉を飲み込む。「楽しかったぜ、スウ!」
 ラスはボトルの酒をぐっと飲み干す。そしてボートから手に飛び降りた。
「お前ら! 俺はこっちだ!」
「ラス!」
 ラスは天に向かって銃を撃つ。その轟音に反応したウミムカデたちは、その牙の先を一斉にラスへと向ける。ボートはウミムカデの群れをすり抜け、スピードを上げて神殿へと走る。

スウがその島に降り立ったとき、ぽつり、と小さな雨粒が落ちた。スウは丘を駆け登り、神殿の前に立つ。神殿の横には、外壁に螺旋状に登る階段が刻まれた塔が高々と聳え立っている。
スウは神殿に足を踏み入れる。がらんとした空間に、自分の足音だけがやけに大きく響く。一番奥の祭壇、そこに、男が立っていた。男は頭に牛の頭蓋を被り、白のローブを身にまとっている。祭壇の後ろには、牛の仮面を被った半裸の男女が、折り重なるようにして倒れている。
スウは、男を一瞥して言った。
「あなたが教祖様?」
 男は黙っている。
「顔を見せなさい」
 男は動かない。
「言うことを聞かないと、殺す」
 スウは懐からナイフを取り出す。
男は、お手上げだ、といったジェスチャーとともに、牛の頭蓋を外す。その下から現れたのは、襲撃の日、行方不明になったシンの顔だった。
「やあ、久しぶり」シンはにっこりと笑った。シンの笑顔を見たのは、これがはじめてだった。「百年ぶりくらいかな」
「2日ぶり。あなたが狂信者たちのボス? それほど意外ではなかったけど」
「ボスか、という問いにはイエスだ。俺はこの神殿の神官を継ぐものとして生まれ、育てられた。ただ、いっておくけど、俺たちは狂信者じゃない。真実を知るもの。狂信者は君たちの方だ」
「わたしは無神論者だけど。そしてそもそも宗教戦争をするつもりはない」
「君の望みは?」
 突如雨風が強くなった。と、同時に地の底から響くような地鳴りと振動。
「地震?」スウは動揺した。
 シンは神殿の二階を見上げている。スウもその方向に目をやる。

神殿の二階の柱の間から、巨大な牛の眼が、こちらを覗き込んでいた。

「神が目覚めた」
シンは神殿の外に駆け出し、叫ぶ、
「兵隊を集めろ!」
 銃を持った狂信者たちが、整列する。
「撃て」
 シンが命令すると、狂信者たちは一斉に銃を打つ。しかし泥牛神は、それをものともすることなく、悠然とスウたちを見下ろしている。
「麻酔銃だ」シンが説明する。
「この世界は泥牛神が見ている夢。泥牛神が目覚めるたび、嵐が起き、世界が泥に沈む。そして、目覚めるたびに巨大化する。体が小さいうちは、目覚めるたびに麻酔を打って眠らせていた。しかしあまりにも体が大きくなりすぎた。もう麻酔も効かない」
 雨風がいっそう強くなる。神殿の内部にも、濁流が侵食をはじめている。
「スウ、一緒に来い」
 シンは神殿を飛び出し、隣の塔へと向かった。スウもその後ろ追う。
「次に泥牛神が近づいたら、その眼に飛び込め」
 スウの頭は混乱した。
「神の眼の向こうに、新しい世界がある」
 二人は塔の外につけられた螺旋状の階段を駆け上る。風が強く、あやうく足を踏み外しそうになる。
「言ったろう。この世界は、泥牛神の見ている夢。そして実在の世界に行くには、泥牛神の眼を抜けて、夢の向こう側に出なければならない」
「わからない。何を言っているの?」
 螺旋階段の途中、二人は立ち止まり、下を見る。泥牛神は立ち往生していた。重たい泥が、その巨大な泥牛神の体を押し流そうとしていた。
「自分で起こしたに濁流に自分で流されてりゃ、世話ないな」
 稲光。その瞬間、泥牛神の身体はゆっくりと横倒しになり、泥の中に消えた。
「くそっ! これで本当に終わりだ! くそっ! くそっ!」
 シンは頭を掻きむしる。スウは、シンがこれほどまでに取り乱したところを見たことがなかった。
「泥牛神の眼の向こうには新しい世界がある。それは間違いない。俺はあるとき、眠っている泥牛神が涙を流しているのを見た。いや、それは涙じゃなかった。それはこぼれ落ちるなり、この世界で見たこともないものに変わった。銃や、宝石や……。どれもこの世界にはなかったものだ。中には、あきらかにこの世界の物理法則を無視したようなものもあった。そのおかげで、泥海を牛に乗るより早く移動する術も得た。これらのものはすべて向こうの世界からきた。その時俺は知ったんだ。泥牛は神だと。そして泥牛の眼は真なる世界、本物の世界に続いていると。この世界は、真の世界が落とす影にすぎないことを」
 雷鳴が響く。あまりの眩しさに目がくらむ。
「そして、泥牛神が目覚めるたびに嵐がくること、そして泥牛神が目覚めるたびにその体が大きくなることに気づいた。そして俺は気がついた。その瞳を俺が通り抜けられるくらい泥牛神が大きくなれば……。しかし、それはこの世界が泥に沈むことも意味する。俺はその時を待っていた……。待っていたというのに。この嵐では、神といえども助からないだろう」
 その時、濁流の中から、泥牛神が顔を現した。
「神が、生きている!」
 顔に続き、その身体も現れた。泥牛神は、泥の流れを泳いでいた。
「くそっ! ふざけやがって! 見てみろ。あいつ、泥の中を泳いでる!」
 スウは見た。泥牛神が、トビハゼのようなヒレで濁流を自在に泳いでいるのを。
「よし、俺は行く! 向こうの世界へ!」
シンは塔をさらに駆け上がる。
「ははは、ははは!」
 シンは、狂ったように笑っている。
「スウ! 泥牛神がくれたものがもうひとつある。俺が拾った神の涙のひとつ。それは地面に落ちると形を変え、赤ん坊になった! それの赤ん坊が誰だか、もう分かるね! 打ち上げられた鯨牛も、その子を目指して外の海から来た!」
 再び閃光。
「待ってろ。俺が先に行く。牛の眼に飛び込む。俺が無事、向こうの世界に抜けるのをみたら、ついておいで」
 シンは頂上の前で立ち止まり、スウを抱きしる。そしてひとり、塔の屋上へ登る。
「さあ、こい! そのかわいい顔を俺に見せてみろ!」
 シンが塔の上から泥牛神を挑発する。泥牛神は塔の周りを旋回しながら、シンの様子を伺っている。シンが塔の端に立ち、牛の眼に向かって飛び降りようとしたその時。
 轟音とともに、閃光が走った。スウは螺旋階段の途中で倒れ込む。目の前が真っ白になった。目と耳が潰れた。そう思った。視界が復元した時、スウは、濁流の中に焼け焦げたシンの姿を見た。稲妻が、シンを直撃したのだ。シンの体は泥の流れに飲み込まれ、またたく間に消えていく。

 これも神の力か。
 スウはひとり、泥牛神に対峙する。神は、今や脚を取り戻し、濁流の上に立っていた。いや、泥の海のさらにその上、中空に屹立していた。
 泥牛神はその顔をスウに近づける。そこには怒りも悲しみも、いかなる感情も感じられない。
泥牛神が、スウを促すようにその眼を接近させる。スウはその前にまっすぐ立つ。漆黒の鏡が、スウの姿を映し出す。
「さようなら、みんな」
スウは泥牛神の角膜を抜け、水晶体の中、その奥の深い闇へと進んだ。

文字数:8122

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