200年後の卵

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梗 概

200年後の卵

赤道にほど近い、ある小さな島で起こった、つい最近の出来事と、200年前の出来事。どちらから話してもよいのだが、まずは最近の出来事から。

その島の外れには、砂浜と森と崖と墓地に囲まれた、直径30メートルほどの円形の空き地があった。
 友達のいない小学二年生のジラーユは、ひとりでよくその空き地へ行った。一帯は遊び場の宝庫で、ひとりでも飽きることはなかったが、でもやっぱり、友達と一緒だったらどんなに楽しいだろうかと、思うこともあった。

夏のある日、それはちょうど中元節(日本でいうお盆)にあたる日だったが、ジラーユは、空き地の西の砂浜で、巨大な卵を発見した。高さ30センチ、重さ10キロはあろうかという、大きな卵だった。待つこと二ヶ月。産まれてきたのはカメだった。しかし普通のカメではない。それはみるみる大きくなり、生後一ヶ月で全長1メートル、二ヶ月で2メートル、その後もひと月に1メートルの速さでどんどん大きくなった。
 ジラーユはカメに〈ロン〉と名付け、友達になった。ロンはジラーユにとって、はじめての友達だった。甲羅の上に乗って散歩をしたり昼寝をしたり、甲羅を巨大滑り台にして遊んだり、ジラーユは毎日夢中になってロンと遊んだ。

あるときジラーユは、ロンが墓地にいるのを見た。ロンはすでに全長5メートル、高さ2メートルほどになっており、後ろからでは何をやっているのか分からない。ジラーユが前にまわってみると、ロンはなんと人間の死体を食べていた。この島では土葬が一般的なのだが、前の日に埋葬されたばかりの遺体だった。
 その頃島では、遺体消失事件がつづき、騒ぎになっていた。事件の真相を知ってしまったジラーユは悩んだ。ロンの仕業だと明かせば、ロンは殺されてしまうかもしれない。しかし、黙っていても、早晩大人たちはロンの存在を突き止めるだろう。そこでジラーユは、自ら墓荒らしの犯人だと名乗り出ることにした。これによって人間の友達はますますできなくなったが、ロンを失うのは嫌だった。
 しかし、その後も度々同じことが起こるので、さすがにジラーユの嘘も通用しなくなり、またロンはすでにどこにも隠れようのないほど大きくなっていて、ついに島の人々にロンの存在が知れることとなった。ロンが食べるのは死体ばかりで、生きた人間を食べることはないのだからいいじゃないかと、ジラーユは必死の反論を試みたが、墓を荒らすカメなどとんでもないし、さらに巨大になったら何をしでかすか分からず危険だという多数派の正論によって、ロンは退治されることになった。

200年前、この島には、ロンよりももっと巨大なカメがいた。全長30メートル、高さ10メートルの巨亀で、現在円形の空き地となっているところに、何十年も(あるいは何百年も)留まっていた。
 そのカメも、やはり人間の死体を食べて生きていた。当時の人々は、島の誰かが亡くなると、カメに遺体を捧げた。カメは言わば島の人々の墓場であり、ご先祖様の魂の宿る場所として、崇拝の対象となっていた。

あるとき、この島に大津波が押し寄せた。多くの島人たちが波にのまれ流された。
 そこで不思議なことが起こった。溺れ死んだ何百という人々が、気づけば巨亀の甲羅の上へ乗せられて、波のうねりに逆らうように、ものすごいスピードで海の中を進んでいた。何がなんだか分からぬまま辿り着いたところは、竜宮であった。

死んだ島人たちが竜宮での煌びやかな暮らしを一ヶ月ほど続けたある日のこと、カメが皆に告げた。島ではちょうど中元節の時期ですから、久々に島へ戻りましょう、と。そしてカメは、島人たちに大きな卵をひとつ託した。自分はもう島での役目を終えたので、次のカメを島へ授けるのだという。
 竜宮にいたのは一ヶ月ほどのはずだったが、島では200年の月日が流れていた。
 こうして200年後の島の砂浜に、大きな卵がひとつ、置かれたのであった。

ところで、ジラーユとロンはその後どうなったか。

結論から言えば、島人はロンを退治することはできなかった。ロンの甲羅は鉄塊のように頑丈でビクともしない。火炙りにも失敗した。火を近付けても、ロンの身体には着火しなかったのだ。ロンと人間に作用する時間の速度には、2400倍の開きがあるため、ロンに着火するには通常の2400倍の時間を要するのだが、そんなことを知るはずもない島人たちは、このカメに恐れをなし、それ以上の攻撃をやめた。

ジラーユは、島人たちからロンの見張り役に任命され、引き続き毎日のように空き地に行っている。ジラーユには、ロンの見張りに一緒に行きたがる友達も何人かできた。だが、ロンは今では、遠くの民家からでも甲羅の上部を見ることができるくらいに大きくなっているので、よく考えてみれば、見張り役などいらないのではあった。

文字数:1964

内容に関するアピール

何年も前の話ですが、大学の研究調査でタイ東北部の農村をいくつか訪れたことがあります。その中に、「亀の村」という名前の村がありました。集落内では亀が野放しにされていて、人と亀が一緒に夕涼みをしながら、辺りをうろついていました。小さな亀を手に乗せて、村の子どもたちが遊んでおり、彼らに亀について色々と教えてもらいました。

この小説の舞台は、赤道近くの架空の島であり、タイの内陸部にある「亀の村」を舞台にしているわけではありませんが、「亀の村」の情景はやはり端々に活きてくるだろうと思います。また、中元節が出てくるので、華人の住む島を想定しています。

ところで、高さ30センチ、重さ10キロという卵の大きさは、世界一大きいダチョウの卵でさえ高さ18センチ、重さ1.5キロですから、つまりは異常なほど巨大です。ですが、17世紀に絶滅した巨鳥エピオルニスの卵がちょうどそれくらいだったらしいので、歴史的に見ればあり得ないというわけではないようです。さすがに全長30メートルのカメは、いないでしょうが・・・・・・。

文字数:449

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蛸子しょうこ

日本海に面したとある漁村の西のはずれに、船も人も決して近寄らぬ浜があった。その浜は、船の舳先のように切り立った高さ百メートルほどの断崖絶壁と、鬱蒼とした森に囲われ、人里からは遠く離れている。民家や漁船が集まるのは開けた東の浜の周辺で、そこから一本の細い公道が海岸沿いに西の浜まで延びているが、その道を伝って西の浜までゆく者は滅多にいない。

タコ漁が盛んなその村では、その昔、漁に入る前の春先に、豊漁を祈願する祭祀として人身供犠の儀式が行われていたと伝えられる。十二年に一度、村で一番美しい嫁入り前の娘を生け贄として海の神へ捧げる。娘は手足を縛られ、断崖絶壁から海へ投げ入れられたという。西の浜付近の海の底には、何十という年若い娘たちが沈んでいることを思うと、村人たちは迂闊には近寄れまいという心境になった。また、犠牲を強いられた娘たちの怨念によって、若い男女がさらわれるという噂もあった。

そのような言い伝えによって、村の西方には誰も近づかなくなった。そこを訪れる者があるとすれば、それは自殺願望者だけである。実際、年に数人は断崖絶壁から身を投げる者がいる。名もない小さな漁村に用がある者など滅多にないので、遠方から訪ねて来る者があればほぼ間違いなく自殺願望者とみて、村人たちが監視の目を光らせるが、それでも防ぎ切れぬことは多い。人知れず亡くなった者もあろう。稀に村から自殺者が出ることもある。

 

村の元漁師、伊波宗太の一人娘よう子は、二十八のとき絶壁から身を投げ、自ら命を絶った。いや、結局遺体はあがらなかったので、本当に身を投げたのか、確かな証拠はない。ただ、よう子は長いこと精神を患っていたので、多分自殺だろうと判断された。遺体が見つからないので、海に身投げした可能性が高い、と。単に失踪しただけで、いまもどこかで元気に生きている可能性だってなくはない。宗太は、その可能性を未だに半分くらいは信じていた。

宗太は今年で七十五になる。昨年妻に先立たれ、独りになった。初めての一人暮らしに、宗太は未だ慣れない。家の中には、妻の気配が至るところに染み付いている。目の前に妻がいるような気がして、話しかけようと顔を上げ、ああそうだった、いなかったんだったと、開きかけた口を閉じることもしばしばだ。

生きていることと死んでいることとの境はどこにあるのだろうと、最近宗太はよく思う。死んでいることと存在しないことは同じではない。家にいると、妻の存在を確かに肌身で感じる。ならば死とは何なのか。そもそも自分が生きていると思っていることが勘違いなのかもしれない。自分の存在を感じてくれている人がどこかにいるだろうか。いないのなら、それこそ死と呼ばれるにふさわしいではないか。このように一人暮らしの家の中では、生死の感覚が容易に反転してしまうのだった。

あるいは、宗太がこんな風に思うようになったのは、長い冬のせいかもしれない。雪深いこの村の冬は、死の気配に閉ざされる。森はしんと静まり、時折森の木々からどっと雪の落ちる音は不吉で、厚く積もった雪がすべての生き物の気配を消し去ってしまう。民家や港は時が止まったように凍てつき、生来話好きの宗太にとって、雪に閉ざされた家に一人きりという状況は拷問のようだった。

 

だが、長い冬を耐え忍べば、豪雪地帯の春は一気にやってくる。花という花が一気に咲き乱れ、鳥という鳥が一斉に鳴き声をあげ、動物という動物が一斉に目覚める。

陸のように目には見えぬが、海の中にも当然春の訪れはある。プランクトンが増殖し、海藻が生い茂り、産卵期を迎えた様々な魚たちが浅瀬に集まる。

春になると宗太は、日に二度も三度も散歩に出た。鳥のさえずりや虫の羽音や潮風に洗濯物のはためく音などを聞きながら、家々の軒下を伝って歩くと、必ず近所の誰彼から声がかかる。
「宗太さん、今日は小ぶりだども生きのええのが獲れたよ、あとで持っていぐね」
「んだが、ありがとう。ところでね」
 宗太は待ってましたとばかりに話をはじめる。宗太の散歩は家から数十メートルと歩かないうちに二十分、三十分を経過するのだが、所狭しと民家の建ち並ぶ入り組んだ道を抜けると、あたりは急に閑散とし、海と森とに挟まれた細い一本道がつづく。宗太は、誰も通らないこの道をよく歩いた。いつかよう子がひょっこり帰って来るとしたら、この道からのような気がするのだ。この道は西の浜の手前で森の中に入り、その先は断崖絶壁へとつづく。宗太は、道が森に入る手前のところでいつも引き返した。そこから先へは進まない--これは村人たちの暗黙の了解事項でもあった。

 

ある日の午後、宗太が例の一本道を引き返していると、前方から見知らぬ若い男がやって来た。男は顔を上げてはいるが、宗太のことなどまるで見えない様子で、ずんずん向かってくる。宗太は立ち止まって、目の前を通り過ぎる男を見遣った。無精髭を生やし、黒ずんだ顔には生気がないが、足取りに迷いはない。ああ、またひとつの命が失われようとしている--宗太は思った。だが、引き留めることはしなかった。雪はもうすっかり溶けたとは言え、この時期の海は凍えるほど冷たい。この男の最期の瞬間は、息苦しさと寒さの一体どちらが勝るのだろう--宗太はそんな要らぬことを考えていた。

宗太も、昔は何人もの自殺願望者を踏み留まらせてきたのだ。絶壁に向かおうとする者があれば、必ず声をかけた。それが人としての務めだと思ったし、何より、引き留めることすら叶わなかったよう子のことを思えば、みすみす見逃すことなどできなかった。

しかし、長年の経験により宗太は、引き留めるべき者と引き留めても却って逆効果である者との見分けがつくようになった。具体的な見分け方をひとつひとつ挙げていけるような分析的な能力は宗太にはなかったが、様々な要素の組み合わせの総体として、引き留めても意味のない者たちは、身体の重心が高いように感じるという点で共通していた。この男もそうだった。

砂利の上を歩く男の乾いた靴音が、やけに軽く響く。宗太は、男が森へ入ってゆくのを見送ってから、再び歩き出した。

 

内海亨は、死ぬならばここで、と決めていた。みっともない死に様を他人に見られるのは嫌だったし、みんなだって嫌だろう。遺体は海の底で蟹にでも喰われ、跡形もなく消えてしまうのが望ましい。

森に入り、山道を登り、崖の淵へと進み、そこから足を離すまで、亨はまったく躊躇うことがなかった。そのことは亨をいたく満足させた。しかし、身体が宙に放り出された直後、亨は恐怖のあまり気を失った。が、それも束の間、冷たい海に身体を打ちつけた瞬間、衝撃で意識が戻り、その後は沈みゆく己の身体を存外冷静に見つめていた。水のあまりの冷たさに痛覚は麻痺し、水圧の変化だけを肌身に感じながら、息苦しさに抵抗することもなく、段々に意識が遠のいてゆくことを意識していた。

そして意識が途切れる間際、亨は声を聴いた。幾人かの女の声だった。
「この男もらうのは、おらだで」
「いんや、おらだで」
「おらだで」
「おらだで」
 重なり合う呼び声にかろうじて意識が引き戻され、亨は薄目を開けた。そこで亨は確かに見たのだ。四方八方に揺らめく海藻のように、長い髪に覆われた女の顔がずらりと並び、男の方へ迫りくるのを。

その後のことを、亨はあまりよく覚えていない。必死でその場から逃れようともがき、気づいたときには浜にひとり打ち上げられていた。

 

亨がそのことをツイッターでつぶやくと、予想外に多くの反応があった。続々と寄せられるコメントから分かったのは、過去に同じ場所で同じ経験をした人が何人もいるということだった。「あれはヤラセじゃないか」と言う者がおり、「地元の人たちが自殺防止対策で仕掛けたんじゃない?」「悪趣味」「いや、結構効果あるかも」「実際何人も助かってるし」などと憶測でいい加減な会話が飛び交い、さらにはツイッターでの盛り上がりに目を付けた週刊誌が、それを記事に取り上げた。

村の者たちは、そのような目撃情報があることは以前より風の噂で知っていたが、どうせ生死の境を彷徨った者たちの幻覚だろうとこれまで特に気には留めなかった。しかし、役場に問い合わせの電話がかかり、週刊誌に「手の込んだ自殺防止対策!?」と書かれると、さすがに事の真相究明に乗り出さねばと、村の役場もついに動きはじめた。

 

半年以上に及ぶ探査の末、ついに長い髪の女の捕獲に成功し、その正体が明らかになった。それは人面蛸だった。人間と同じ造形の胴体があり、腕は左右に一本ずつ、腰からは蛸のように八本の足が生えている。水中でも陸でも呼吸ができるようだった。絶句する役人たちの前で、人面蛸が口を開く。
「おらは人間と話がしたかった。んだども、みんなおれどご見ると逃げるから」
 土地の言葉をすらすらと話す人面蛸に、役人たちはさらに面喰らった。けれども、彼女は顔立ちが大変美しく、また友好的な態度であったので、役人たちは徐々に警戒心を解いていった。

彼女は、人間のお母さんと蛸のお父さんとの間に生まれた、四姉妹の長女だという。
「おめさんのお母さんとお父さんは、どうやって知り合ったんだべか」
「お見合い結婚だと」
「誰が……紹介したんだが」
「神さんだと。ある晩、お母さんの夢さ神さんが出てきて、今からどこそごへ行きなせ、んでもってそごさいる者と結婚しなせ言われたって」
「んで、そごさいたのが蛸だったど」
「んだ」
「お母さんは今どこさいる?」
「それは言えねす」
 なんとも奇天烈な話だったが、何しろ目の前にいるのが奇妙な人面蛸なので、彼らは彼女の話を信じるほかなかった。

彼らは彼女に「蛸子しょうこ」と名付けた。

いや、正確には、彼らが彼女に名を尋ねると、「しょうこ」だと言い、漢字は知らねと言うので、ちょうどええ、んだば「蛸」に「子」と書いて「しょうこ」と読むごどにするべ、ということになった。

蛸子の存在は、対外的には--村外には勿論、村人たちにも--当分の間秘密にしておくことになった。蛸子が人間と蛸の間の子だと世間に知れれば、大変な騒ぎになる。蛸子はどこかの研究所か国家機関に取り上げられてしまうだろうし、何をされるか分かったものではない。

蛸子には、住処として役場の小会議室をあてがい、蛸子の世話係には、観光客のいないこの村の役場で一番暇な部署とされている観光推進課の、一番下っ端の番場圭吾が任命された。

 

長机とパイプ椅子が置いてあるだけの簡素な会議室で、蛸子と二人きりになった番場は落ち着かなかった。蛸子が突如豹変し、襲いかかって来ないとは限らない。あの八本足で縛り上げられたら、ひとたまりもない。番場はいざとなったらすぐに逃げ出せるよう、とりあえずドアの傍から離れずにいた。すると、
「おらってやっぱりそんたにおっかねえが」
 と、蛸子が悲しそうに言うので、番場はなんだか申し訳ない気持ちになり、恐る恐る近くの椅子に腰掛けた。

番場は、蛸子にじっと見つめられ照れてしまっている自分に焦った。しかし、無理もない。顔だけを見れば、蛸子は群を抜いて美しいのだ。目元は涼やかで優しそうな表情を湛え、鼻筋は通り、口元は小さくふっくらとしている。完全に平常心を失った番場は、とりあえず何か喋らなければと、意味のない質問を口走った。
「ええど……帰らねで平気だが? 家、ていうが家族のどごろに」
 帰らなくて大丈夫なわけがないだろうと番場自身思ったが、意外にも、返ってきた応えはそうではなかった。
「おらは人間と一緒さ暮らしてみたかった。なにかおれにできることはねか」
 蛸子があまりにも真剣に言うので、番場は思案をめぐらし、村の小料理屋で芸妓として働くことを思い付いた。蛸子の正体がばれてしまってはまずいので、ロボットの芸妓ということにしてはどうかと番場が提案すると、蛸子は大変喜んだ。上司に相談すると、案外すんなりと許可が下りた。それどころか、「この村初の、観光推進課の名に相応しいプロジェクトになるかもしれねな!」と、誰よりも乗り気であった。

 

蛸子と番場の二人は早速、役場の小会議室でYouTubeの動画を見ながら、見よう見まねで芸の仕込みに入った。

蛸子はあっという間に芸を覚えた。しかも、一人で四人分の動きを同時に行うことができる。二本の手で扇子をもち、二本の足で立って踊りを舞いながら、別の二本の足で琴を弾き、また別の二本の足で三味線を弾き、残りの二本の足で鼓を打つことができた。また、十のお猪口に一斉にお酌をするもできた。蛸は、大脳の他に各足の付け根に計八個の脳をもつため、それぞれの足を自律的に動かすことができる。まさに蛸子にしかできない妙技であった。

いよいよお披露目という段になって、ふと不安に思った番場は、旧友のロボット工学者に連絡を取り、蛸子のような芸のできるロボットをつくることがそもそも可能かを尋ねた。すると、到底無理との返事だった。

そこで蛸子は芸のレベルを下げ、ロボットらしく振る舞うよう練習する羽目になった。せっかくの蛸足なのに少し動きをカクカクさせ、芸は、二本の手と六本の足で、計八つの扇子を同時にはためかせるだけの舞となった。

それでも、ロボット芸妓「蛸子」の噂はたちまち村の内外に広まった。番場の上司の期待通り、村史上はじめて、村に観光客が訪れるようになった。雑誌の取材や研究者の来訪も度々あったが、蛸子は上手くやってのけた。蛸子の開発者は番場の旧友のロボット工学者ということにして、彼には事情を話し口裏合わせをしてもらった。

蛸子にとって一番大変だったのは、表情のコントロールであった。表情が複雑な感情の機微を表現しすぎないよう八つの表情の型を決め、日々細心の注意を払う必要があった。

蛸子はいつも、夕方からはじまる芸妓の仕事の前に、小会議室で番場相手に練習をした。「マア、ナンテコト」「ヤメテクダサイナ」などと、たどたどしい標準語もどきを喋りながら、くるくると表情を変えていく。一生懸命に練習する姿は愛らしく、蛸子に心惹かれていることを自覚した番場は、心中穏やかでなかった。

 

飲食店が並ぶ商店街の一角に、蛸子の働く店はあった。年季のはいった数寄屋造りの門扉をかたかたと鳴らしながら開けると、石畳の道が玄関まで続き、両脇にはきれいに刈り込まれた低木が植わっている。蛸子が働きはじめた頃は、ちょうど紫陽花の咲く季節だった。

玄関の戸を引くと、着物姿の蛸子が出迎えてくれる。すっとした目鼻立ちの美人顔に和装はよく似合うが、帯から下がこんもりと膨らみ、四方八方にはだけるように縫製された特注の着物の裾から八本の足が覗く姿はやはり異様で、初めてのお客は大抵言葉に詰まった。
「コンバンハ、ヨウコソオイデクダサイマシタ」
 蛸子は微笑み、少したどたどしい物言いでお辞儀をする。下半身さえ見なければ、この時点でほとんどの男性客が悩殺されていておかしくないのだが、異様な下半身がついているせいでそうならないところが、不思議なバランスの上に成り立つ蛸子の魅力だった。

八畳の座敷が三つあるだけの小さな店で、蛸子が店に入って爆発的にお客が増えてからは、毎晩どの座敷も相席となった。地元民と観光客が同じ卓を囲んで酒を酌み交わす。まったくもって予想外の光景が、この村の一角にもたらされた。それもこれも、蛸子のおかげである。

リピーターのお客も多くいた。どの座敷に通されるかで、披露される芸の種類が異なることが、多くのリピーターを生む要因となった。三つの座敷は玄関から遠い順に「一の間」「二の間」「三の間」と呼ばれ、「一の間」では八本の扇子の舞が、「二の間」ではお酌芸が披露され、「三の間」では驚異のカルタ取りが行われた。蛸子に勝ったら一升瓶無料進呈の特典があったが、八本足の蛸子に勝てた者は一人もいなかった。

ところで、一人暮らしで暇をもて余していた話好きの宗太は、当然のようにこの店の常連客になった。また蛸子の世話係の番場も、仕事と称して足繁く店へ通っていた。

 

ロボット芸妓「蛸子」が現れて二ヶ月ほど経った夏のある日、宗太は夕刻前の散歩の途中で、西の浜に人影を見た。陽はすでに崖の向こうに半分ほど隠れ、砂浜の大部分はその陰になって、日中の焼けるような暑さも徐々に和らいできた頃だった。宗太は不思議に思い、人影に近づいていった。若い男だった。
「こんたどごろで何してらんだが」
 宗太の声に男は一瞬振り向いたが、何も言わずにまた顔を海の方へ戻した。

宗太は、一瞬振り返った男の顔に見覚えがあると思った。しばらくして宗太は、彼が春先に散歩の途中ですれ違った男であることに気づいた。彼はあのとき確かに森の中へ入って行った。彼を引き留めることは無理だろうと判断し、声もかけなかったのだ。だが、今こうやって生きているということは、あの後彼は思い止まることができたのか。俺の勘も当てになんねな、と宗太は思った。いや、待でよ、もしかするど--この男はすでに死んでいるのかもしれね。心なしか、この間より肌が透ぎ通って見える。んだども、生えでだはずの無精髭はきれいに剃られでら。幽霊になっても髭剃るごどはでぎるのが……。男と二メートルほどの距離をあけて立ったまま、宗太があれこれ思いを巡らせていると、彼が海の方を向いたまま口を開いた。
「内海亨です」
 随分律儀な幽霊だと宗太が感心していると、
「ご存知ですか」
 と訊いてきた。
「はあ、ええど、何だが?」
「内海佐和子って、ご存知ですか」
 宗太はしばし考えたが、心当たりのない名だった。
「いや、知らねで思う」
「僕の母さん、二十年前に、ここで自殺したんです。僕が生まれてすぐに。僕は小さかったから記憶にないけど、当時はニュースにもなったみたいで。僕は高校生のときに、当時の新聞記事を調べて知りました」
「そうが」
 寄せる波が、宗太の足元の砂をさらっていった。満潮の時刻が近づいている。
「僕もここで死のうと思って、前にあそこから飛び降りたことがあるんです」
 そう言って亨は崖を指差した。やはり飛び降りたのかと、宗太は思った。
「だけど、助けられてしまった」
「……誰さ?」
「わかりません。死ぬ間際、海の中で髪の長い女の人がずらりと並んでいるのを見たんです。それがあまりにも恐ろしくて、必死に泳いで逃げて、気づいたら浜辺にいました」
 亨は、寄せ来る波を避けるように、ゆらりと立ち上がった。
「あの日以来、あれは一体何だったんだろうって、ずっと考えてるんですけど」
 太陽が完全に崖の向こうに隠れ、あたりの影が急に濃さを増した。
「亨ぐんのお母さんだったがもしれねな」
「そうかもしれません。でも、それを見たのはどうやら僕だけじゃなくて。同じような目撃情報があるんです」
「海の中では、何が起ごっても不思議でねからね」
「そうですね」
「じゃあ今日は、その命の恩人さ会いに来だでいうわげが」
「はい、まあ会えるとは思っていませんが」

その晩、亨は宗太に連れられて、ロボット芸妓「蛸子」の店へ行った。蛸子に注がれた酒をしこたま呑み、酔っ払った亨は、宗太の家に泊まって、翌朝早くの列車で帰っていった。

 

蛸子が村に来てから一年半ほどが経ち、段々に客の足も遠のいてきたある日、宗太が蛸子の店にやって来た。秋も深まり、色づいた木々の葉が舞い、間もなくやってくる雪の季節に人々が備えはじめる頃だった。

夕刻の早い時間で、はじめのうちお座敷には彼一人だけだった。彼は熱燗をすすり、蛸子を前に開口一番こう言った。
「蛸子さん、おめさんを身請けしたい」
 身請けの意味が分からなかった蛸子は訊いた。
「ミウケトハナンデスカ」
「おれと一緒に暮らしてほしいってことだ」
「ワタシハ、ロボットデスヨ」
 蛸子が言うと、宗太は少しの間を置いてから、こんな話をした。
「もう二十年も昔のことだがな、おれの娘が行方不明になった。なんげこと精神を病んでいたから、海に身を投げたと思っとった。んだども、しばらくして娘が夢さ出てきて、蛸と一緒さたわむれながら『お父さん、子どもを産みました』としゃべったんだ。……おめさんは、おれの孫じゃねかと」
「……」
「いんや、ロボットだでいうごどは分がってら。んだども、なしてもおれの孫さ思えでしょうがねんだ。おれの命ももう長くはねから、おれの孫さなったつもりで、なんぼがの間一緒に暮らしてくれねか」

その日の蛸子はなんだかぼーっとしていた。お酌芸では派手にお酒をこぼし、常連客のひとりに「蛸子さんも、いよいよメンテナンスが必要な時期だべか」と笑いながら言われたのであった。

 

番場は浮かない顔をしていた。朝一番で蛸子から身請けの話を聞いたからだ。

蛸子は嬉しそうだった。あんな爺さんのどごがええんだと、番場は内心で毒突いたが、「ついに人間の家で暮らせるなんて、夢みだい」と喜ぶ蛸子を前に、否定的なことは言えなかった。今ではすっかり蛸子の家となっている役場の小会議室--簡易ソファベッドや衣装ケース、姿見なども揃っている--だが、やはり普通の家の快適さにはかなわない。よく考えてみれば、こんなところで一年半も生活させて可哀想なことをしたと、番場は蛸子に少し同情した。
「俺のどごさ来るか」
 とは、さすがの番場も言えなかった。二十六歳--そろそろ結婚も考える年頃で、蛸子と同棲をはじめる勇気は出なかった。

役場の上司たちは、蛸子の今後の扱いについてちょうど頭を悩ませていたところだったので、宗太の身請けの申し出を二つ返事で了承した。

「これがらもロボットのふりし続けるのが」
 番場は唯一気がかりだったことを訊いた。四六時中ロボットのふりをするのはつらいだろうと思ったからだ。
「いんえ、宗太さんには本当のごど話します」
「そうが。んだども、伊波の爺さん、卒倒しねえがな」
「それは大丈夫だで思います。もしかしたら、宗太さんはもう気づいてるかもしれね」

蛸子は、番場の運転するバンで簡単な引っ越しを済ませた。出迎えた宗太は、なぜここに番場がいるのかと訝る表情を一瞬見せたが、特に何も言わず家の中へ入っていった。

 

それから二人がどのような暮らしをしていたのか、知る者は誰もいない。宗太は散歩にあまり出なくなり、村の人たちとの交流もめっきり途絶えた。

しかし、宗太の家からはよく笑い声が聞こえたというから、番場も村の者たちもさして心配はしなかった。村の者たちは、ロボットに入れ揚げた宗太の晩年を少々哀れに思い、よく噂話もしたが、当人が幸せなら口出しすべきことでもなしと、結局話はそこへ落ち着いた。

蛸子のいなくなった店は客が減って元通りになり、観光客のいなくなった村には平常が戻った。

 

ちょうど季節が一巡りした、ある秋の日の朝早く、蛸子から番場のもとへ一本の電話があった。
「宗太さんが、亡ぐなった」
 落ち着いた声だった。

番場はすぐに宗太の家に駆けつけたが、家にはすでに蛸子の姿はなかった。畳敷きの部屋の布団の上に、宗太が横たわっていた。穏やかな寝顔だった。

番場がふと顔を上げると、床の間に飾られた家族写真が目に入った。宗太が若い頃のものだ。奥さんと娘さんと一緒に三人で写っている。その娘さんの顔が、どことなく蛸子に似ているような気がして、番場は遺体の前で手を合わせながら、静かに泣いた。

窓の外では、少しばかり早めの雪がはらはらと舞い始めていた。

文字数:9464

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