梗 概
音古城
夜、月が照って屋根が光ってる。満月ではない満月によく似た月だった。古い城のある大通り沿いの街路樹の一本のけや木の下で、ひろしはサックスを吹く。練習しているゆっくりしたメロディのブルース。お城の辺りはいつも暗い。だけど、サックスは月に照らされたら、屋根よりもっと光る。金色の楽器。月は地球の衛星で、惑星ではない。恒星は自分光る星だけれど、惑星と衛星は自分では光らない。太陽の光が反射して月が光る。太陽の光が反射した、月の光を反射した、家の屋根だったり、金色のサックスだったりする。
城の前は、穴場の楽器の練習場だ。通りは車が沢山走って、もともと騒音めいた騒音がしているし、住民らしい住民が住む住宅地は、うるさい大通りを挟んでさらに流れる小さな川の向こう側だった。住宅地の低い屋根がぼんやり月の光を反射する。
音(楽)を聴くという行為と音を奏でるという行為は、人間的な行為だと思っていたけれど、もしかするととても動物的な行為なのではないかという気がしてくる。なぜなら、様々な生き物たちがやってきて、音楽を捕まえていくからだ。
川の中から現れた、濡れた言霊の影が、じりじりと歩み寄って来て、捕まってしまって逃げ出せない音楽。片や、古城に住む幽霊のお殿様が晩酌に聴くために捕まる音楽。大通りを行き交う車によって、さらに遠くに運ばれて行く音楽。
古いお城の中は、白い漆喰の壁に囲まれた空間に、太い柱が天井に何本も、上に上に、連なってはしっている。夜は、伸びている天井の影がずっと高くに吸い込まれているので、太い柱が支えているものは、見えている空間だけではなくて、もっとたくさんの見えないものを支えている様にみえる。その空間に溢れている見えないものは、450年の時間の中で、人々によってさまざまに空想された想像上の動物で、うにょうにょと曲線を描きながら滑らかに柱の間を行ったり来たりする。長細いのも、顔の大きいのも、足が短いのも、楕円形を描きながら移動するものも、毛並みがとてもざらついているのも、全部が音のまわりにやって来る。楽器は、いつも正しさとは無縁に見つけてきた音を響かせている。拠り所の確認作業に四苦八苦する。
ひろしが家に帰って来たらマンションの1階の駐輪場に、ブラシが落ちているのを発見した。大きな20センチくらいあるようなブラシで、楕円形の木に黒い毛が生えている様なやつだった。その日は停めてある自転車も疎らな、駐輪場の白い床には、そのブラシの存在感は煌々と輝いていた。ここにある自転車の隣に、さっきまで馬がいたのかもしれない。もしくは、自転車が馬に見えてきて、ひっそりと姿を変えた自転車である馬を、誰かが毛並みを揃え乍ら手入れしていたのかもしれない。マンションの下の駐輪場に動物がいるというのは安心する。
文字数:1150
内容に関するアピール
上野ミケランジェロ展は、同テーマの古代ギリシャ・ローマの彫刻と、ルネサンス時代の15世紀経て再解釈された独自発展形の全く別の彫刻が並んでいました。ルネサンス時代の半ばからは、政治も経済も混乱と活発で、流行った形式の彫刻が「垂涎」された事が何度も解説に出てきました。彫刻の時代の推移が展示されていました。
課題の生き物の作り方には、神話伝説(日本、ギリシャ、ローマ・英雄、儀式的、神と自然と死のつながり、動物や人間の混合)、妖怪(近代以前の日本・アニミズム、自然事象の具現化、物のキャラクター化)、特撮映画(現代日本、社会問題の具現化)がまず浮かびました。
現在の物語の中で生き物をつくるとしたら、どの観点から生き物が現れて、その生き物と人間との関係性や距離感はどういうものか、課題に対して上記の事を考えて、物語に取り組みたいと思います。
彫刻、建築、生き物の類似相違点、なども考察に取り入れたいです。
文字数:397
鼻
夜、月が照っていた。満月ではない満月によく似た月だった。
何千年も前に建てられた、今は朽ちかけた古い城があった。この城は当初、世界中で一番新しい技術を一同に集めて作られた建物だった。権威と美によって構築された建物には、人と物と財力が集まる極彩色に彩られた、きらびやかな風景があったが、現在は自然風化という破壊の一途を辿っている。古い城にかろうじて残された屋根は、ぼんやりと月の光を白い色に反射する。暗闇の中で、とうの昔から主人も尋ねる人も1人もいない。その姿は、1日ごとに僅かにどこかが破壊される。その日が最も美しい事を永遠に毎日受け入れながら、建っているだけの城だった。
城の傍の一本の柳の下で、男が楽器を奏でている。サックスだった。楽器も月に照らされて光るけれど、城の屋根よりももっとよく光る。楽器は月の光を金色に反射した。
地球から見ると太陽の次に明るい月は、自分では光らない。太陽の光が反射して月が光る。太陽の光を反射した月の光であり、月の光を反射した、屋根であり楽器であり、そして地球だった。
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ピートはことごとく、やって来る自分よりも年上の町民に対して、誰彼かまわずに「あなたが65歳には見えないですね」とつい思った事を言ってしまう。半ば事務的に言い添える節もある。その受給金資格のある年齢は65歳だった。「65歳には見えない若さがある」という意味を込めた言葉である。
最初にやって来た無精ひげが生えたつなぎ姿のビール腹のボビーさんは、そもそもそれが真実なので、変なことを言う若者公務員のユーモアとして気軽に受け取り、「気持ちは20歳で、私の息子より若いが、頭の方は孫よりちょっと賢いぐらいだよ。」と答えてから気前よく大きな笑い声を立てた。ピートもつられて笑い「いやあ、そうでしたか。そんな風にも見えませんでした。人は見かけに依らないものです。お孫さんは何歳ですか。」「こないだの日曜日にようやく1歳になったばかりだよ」と言って、その後の事務手続きはすんなりと進む。出だしはそこそこ良かった。
次にやって来た目の前のご婦人アレクサンドラさんに対しても、ピートはいつもの様に元気よく朗らかに声を掛けると、すごい形相で睨まれた後、「おっしゃる通りまだ61歳ですから。私は年老いて足の悪い母親の代理でこちらに来たに過ぎません。」と彼女の怒りとは裏腹に、丁寧な言葉で訂正される。微妙なところで、ユーモアを混ぜた嘘のつもりで言った言葉が、混沌の末に言葉通りの真実であると、逆説的に嘘が強調されて言葉上の真実味を帯び、「あなたは65歳に見える」と聞こえてしまうのだ。しかし、瞬間的に感情的になった彼女も、ピートの長く伸びた鼻を見ると、その言葉さえ、真面目に言っているのか、冗談でそう言っているのかわからない事に冷静になってから気が付く。アレクサンドラ婦人のその反応に気付いてか気が付かずか、ピートは素直に謝りの言葉を述べて、事務手続きに取り掛かった。
3番目にやって来たのは、ロビンソンさんだった。ピートが彼にも同じことを言う。無気力な目線の返事だけで、うっとうしがられるていることがわかる。1人暮らしで家族がいない彼には、久しぶりに会話らしい会話の始まりの様にも思えたけれど、気の利いた返事をするにしても、勝手な事を言われた腹立たしさに怒るにしても、会話の仕方を忘れてしまっていた。彼は体力的にも精神的にも年をとったことに、毎日1日分ずつ絶望を増して感じている。誰でも生まれてから1日ずつ老いていき、翌日はさらに前日よりも若さは失われていく。ロビンソンさんはいつもそんな事をひとりで考えていた。
ピートはなんとなくロビンソンさんにも謝りの言葉を述べて、続けて事務手続きの説明に入る。
ピートは、町役場に勤務する青年だった。先日の人事異動で年金課に匹敵する部署に兼任という形で配属されることになった。そして、その日から受付事務を担当している。それまでは、建設課の内部処理の事務を担当していたけれど、人と直接やりとりのある仕事がしたいと以前から部署移動の希望を申請していた。総勢10名の小さな町役場なので、問い合わせのある住民がそう頻繁にやってくる訳でもないけれど、ピートにはとても嬉しかった。
彼の見た目はどこからどうみても好青年である。本来なら、誰からも疑われることなく好かれるタイプである事は、毎日綺麗に洗って丁寧にアイロンを当てられた清潔感のあるワイシャツ、顔から溢れる明るく朗らかで活発な表情がすでに物語っていた。だけど、彼によって整えられたその見た目以上に、人がまず気が付くのは、彼の顔の真ん中に長く伸びた鼻だった。そして、誰でもそれに気が付いてしまう。ピート本来の性格より先に、顔の特徴に現れていた。結局のところ、ピートがいくら他の全ての見た目が好青年であっても、長い鼻がある事で、ピートに対しては、常にその発言に対して嘘をついているのではないかという、疑いの意識を持たれるのだった。なぜなら、ピートがピノキオ種であるからだった。
【ピノキオ種の人々の誕生に関する年表】
?2 l7年の現在までに、地球上では結局核戦争は起こらなかった。第2次世界大戦後、常に心配されていたし、今でも心配されているけれど、向う岸が見えずにいつまでも辿り着かずに終わらない、人類の長い綱渡りは、辛うじて今のところ成功している。しかし、「平和な地球」の崩壊の危機は、別の形でやって来た。それは間接的にはわからないけれど、直接的には人類によるものではなかった。
S5!1年頃、ピノキオ種の創世記は、人類にとって第2の創世記でもあった。地球そのものの地殻変動と異常気象が頻繁に繰り返されたせいで、地球環境が一変してしまった。地球上の大陸が大部分変形して、同時に、世界中の気候変動は、元々の森林伐採による地盤崩壊が森林資源の急激で極端な減少に拍車をかける事となった。
m3Q0年頃、その流れの中でも特に一時期、今から$5O4年前においての状況が相当厳しく、当時存在していた植物は厳重に保護され、同時のどのような劣悪な環境下でも成長する植物を増やす方法が模索され、研究開発されていった。その森林増殖計画の一環として開発されたのが、ピノキオ種の人間の誕生だった。
Z7X6年頃、ピノキオ種は植物の代替生物を目的として人工合成された植物動物だった。つまり、植物と動物の両方の特徴を備えている生き物だ。動物的な形態としては、人間と全く同じだった。ただ、通常の人間と異なる大きな特徴は、ピノキオ種の人々の鼻が嘘をつく事で伸びる体質だった。伸びた鼻は1mになると、自然にポロっと落ちてしまう。落ちた鼻はそこからは、植物的な形態となる。土に植えられた鼻は、それまでの可動式な動物として育てられた事により、一旦植物になってから根付いた土地では、順応性の高い植物となる性質があった。
ピノキオ種の人々は、始めこそ人工合成された人種だといっても、独立した個体種としてすぐに地球という世界に順応していった。ピノキオ種の人々は、よく喋り、よく笑い、よく働いた。その中には、よく嘘をつく事も含まれている。よく喋る事で、その中に嘘を盛り込むことが出来た。ピノキオ種の人々にとって、嘘は植物の水に相当する。鼻が成長するためには、適度に水を遣る様に嘘をつかなければならない。その嘘のつき方に、ピノキオ種の人達は悩まされて、工夫してきた。そうやって、次第に嘘にまつわる独自の文化を育んでいき、美学を構築していった。そして、ピノキオ種の人々は嘘で作った自らの鼻を、茶色く剥き出しになった地面に、せっせと植えていく作業を繰り返していった。ピノキオ種の人々はそうしたくてそうした一方で、そうしなければ、自らも絶滅してしまう環境下だったからだ。
g8V5年頃、ピノキオ種の鼻由来の植物は、従来の植物よりも根が何倍以上も張る特徴もあった。そのおかげで、安定したのは植物の数だけでなく、地表の土地とプレートの地殻変動への対抗に徐々につながり、数千年単位で植林され、改変された地球環境は、ほぼほぼ現在のものとなって安定する事になる。新しい陸地の形を元に、真っ新な地図が再編纂された。新しい地図に描かれた大陸は、鳥が飛んでいるような形をしていたり、帽子を被った人が笑っている様な顔をした形だったり、花が咲いている形だったりした。他にもいろいろな形に喩えられた。それは全て新しい希望を持った喩えだった。新雪の真っ白な道に一歩ずつ足跡をつけていくかのように、生き残った人類はその新しい土地にコミュニティを築き上げていった。そしてそのコミュニティに構成された人々の中には、ピノキオ種の人々も含まれていた。
近代史
ピートの祖先であるピノキオ種が誕生した歴史的経緯は以上述べたようなものだ。駆け足で辿ってみたけれど、現在の地球上に生き残った人類および生命の歴史を語る上で、ピノキオ種の誕生は必要不可欠な存在である。しかし、それでも当初、広げられた白い地図上で、ピノキオ種の人々と鼻の伸びない従来の人間との間で、今までにはない新たな社会を形成していく過程には、憂慮される問題が大きなものだけでもいくつかあった。その一つが、ピノキオ種が自然発生による誕生ではなく、人工種族である事だった。それは、創造人種と被創造人種という人種間の意識の優劣が出来てしまう恐れがあった。来歴として酷似しているのはロボットなどの人造人間だろう。しかも、鼻という人種的身体特徴を「利用する」「提供する」という行為に両側面にも無意識的優劣関係が発生してしまうのではないかいう問題が内在していた。しかし、ピノキオ種の人々の場合、独立した種としての繁殖や、その他の生命原理が整っていることと、付加価値的な特徴はあるものの、純粋に従来の人間と同等の姿形だけでなく、思考と感情を持ち合わせたているため、ピノキオ種の人々自身の植物と動物を愛してやまない振る舞いによって、人類としての尊厳と権利を獲得していくに至る。また、同時に、種としての特徴によって生き様を背負う点で、人種と言ってしまえばより直接的になるけれど、人類が今まで度々に犯してきた多くの過ちである差別の観点への反省が、生き残った人類によって、ようやく生かされる事になった。
補足
ちなみに、鼻の伸びる植物動物として誕生した生き物は、ピノキオ種以外にも、天狗種とゾウ種がいる。天狗種は、見栄を張ると鼻が伸びるし、ゾウ種は甘えると鼻が伸びる。それぞれの最初の開発者は、ピノキオ種は貧乏で真面目な初老の研究者、天狗種は金持ちの仙人、ゾウ種は口煩いモンスターペアレンツだった。けれど結局のところ、社会に順応した生活を送り、現在も最も人口が多い種族はピノキオ種だった。基本的に鼻由来の植物の質も3種の中で一番良い。他の天狗種と象種の体の起源が動物寄りであるのに対し、ピノキオ種は元の素材が木材、つまり植物の身体であったからだった。また、見栄を張るにしても甘えるにしても、日常的に鼻を伸ばすために行う行為として限界があった。ピノキオ種の人々は、鼻が伸びる生き物としてのマイノリティの中ではメジャーになっていった。天狗種の人々もゾウ種の人々も種族として現在も生き残ってはいるものの、今ではあえて必要以上に鼻を伸ばすことなく、羽を伸ばして、それぞれの生活をひっそりと営んでいる。
注)数字ほど正しくて美しいものはない。ピノキオ種では嘘にまつわる美しさに相応しい年号表記を採用。
【年表おわり】
ようやく再び?2 l7年の現在、ピノキオ種の誕生からb6q9年以上が経った今では、地球上の環境はすっかり安定し、平和になった。ピートはとりとめのない日常の暮らしを送っている。しかしながら、ピノキオ種の人々が今現在でも引き続き持ち合わせている実際的な大きな問題は、今も昔も変わらず「嘘をつくと鼻が伸びる」体質と、ピノキオ種の人々の築いてきた嘘に対する文化と美学との個人的な折り合いだった。また、特別極端に植物を増やす必要がなくなった今日も、ピノキオ種の人々は植物を植え続ける、という社会的に担っている役割とその行為への誇りだった。
悪意があっても無くてもちょっとした嘘や演技に対しても鼻は伸びてしまう。それは「お腹が減ったらご飯を食べる」ことと同じくらい、ピノキオ種の人々にとっては当たり前のことなのだけれど、それが個々人のレベルの実際の社会生活での話となると、本人も周囲の人も付き合い方にはなかなか悩ましく苦労するのだった。
その日、新しい仕事を担当して勤務5日目、週の仕事終わりにピートは上司であるトムに声を掛けられた。ピートは新しく従事したこの1週間の仕事に対する、感慨深い感想を述べる。
「一時は人類だけでなく、地球生命の危機とまで言われた時もあったのに、寿命も人口も社会の基盤も回復した実感が出来る、素晴らしい仕事です。」
「実際に大したものだよ。支給金額は少ないけれども、社会システムが回復する事自体に意義がある。」
トムも感心して答える。だけどトムはその後の言葉を続け、
「君のこの仕事に対する誇りはわかっているつもりだけど、しかし、冗談でも本気でも、言っていい事と悪い事がある」
とピートは厳重に注意を受ける。トムの顔は怒っているというよりも、状況に困惑しているようだった。ピートが受付する時にことごとく「あなたが65歳には見えないですね」と言っている事に対してだった。
「わかっているとは思うけれども、町役場にはいろんな立場と事情を持った町の人々がやって来るのであって、ひとりずつその住民に対して適切な方法で対処するのが僕たちの役目だ。それは決められた通りに事務的に処理することでもある。事を妙な具合に荒立てるような余計な事はやめるように。仕事中は仕事に徹する様に。」
トムはとても真面目で曲がったことが嫌いだった。そのため部下のピートの行動の真意が掴み切れない事が多々あった。自分が無意識のうちにしているかもしれないピノキオ種に対する偏見にも十分注意しようとしていた。しかし、トムの場合、彼が神経質すぎる事も裏目に出ている様な気がするのは、トム自身もわかっているつもりだった。
「すみません。つい毎回思った事を言ってしまったのです。だけど、ロビンソンさんの反応が気になりました。彼の性格が無口なのでしたらいいのですが、思った事があってそれを黙っているのは気の毒です。」
「君はカウンセラーにでもなったつもりかい。ロビンソンさんはロビンソンさんの性格や生活スタイルがあって、私たちがとやかく首を突っ込むことではないよ。」
「しかし、事務的に仕事に徹するだけなら、仕事の意味は半減するのでは。」
「事務的に仕事に徹する事こそが、十分に意味のある事だ。仕事に個人的な趣味を持ち込むべきではないよ。」とトムは言って、それまでだった。
その晩、ピートは寝る時にベッドに置いた枕を見ながら、ロビンソンさんのことを何となく考えていた。ロビンソンさんが何も言わなかった事は、本当はなにも思わなかったのか。それならそれでいいのだけれど、顔をみると何か言いたそうだった。それとも言わない事は嘘をつくこと以上に自分自身に対すして孤独と罪を持つことなのではないか。
そんな風に考えるのは、嘘をつくという事は、こちらのしゃべること自体の内容だけでなく、相手の受け取り方で、発言者の意図を介せず、勝手に相手に嘘だと認識されてしまう事が多々ある事をピートは経験から知っていたからだ。
それに、ピノキオ種は嘘をつかなけれは、鼻は伸びなくてよいはずだった。だけど、本当にそうだろうか。意識しない嘘をつかない人など、どこにもいないのではないか。例えば、正直者が良いという価値判断に囚われて、正直者である事を演じている事は、無意識に演技という嘘をついている。そうなると、嘘をついた事が、鼻が伸びるという形でバレてしまうピノキオ種は、とても正直者という事になるかもしれない。
ピノキオ種が嘘をつくと鼻が伸びる時、嘘をついたその瞬間に伸びてしまう訳ではない。嘘をつくということ自体が社会的な行為であり、したがって社会的な生き物のピノキオ種の人々にとって、ついた瞬間に嘘が嘘と相手にばれると都合が悪く、気まずくなる。その日に付いた嘘は、夜、眠っている間にまとめて鼻が伸びるように、初期の頃、今では厳重に禁止されているピノキオ種の人々に対する品種改良がまだ許されていた頃に実施された。今もその特性は昔のままであり、寝ている間に鼻は伸びる。
ピートも寝ている間にいきなり伸びすぎる鼻の重さによって、寝違える事は度々あることだった。そのため、ピノキオ種に人気の枕の形も開発された。それは、U字形のくぼみの様になっていて、頭と鼻を真っ直ぐ固定出来るので、鼻が真っ直ぐ上向きになって、ぐらぐらと首が動くことがない。鼻が夜のうちに伸びてもそれなら寝相が悪くて、伸びた鼻を壁にぶつける事もないし、1mになった鼻がいきなり顔に落ちて来ることもない。だけど、ピートはベッドの置いてある壁側とは反対側の横向きに顔を置いて寝るのが好きだった。たまに寝違えても、白いマシュマロみたいな普通の形の枕を使って眠るのだった。
【嘘と上手く付き合う事が出来る職業リスト】
※なりたいものになればいい。ただし、なりたいものになる能力を持つ事が前提である※
注:(カッコ)内は嘘バロメーター。嘘度が少ない方が嘘をつきたくない人向き。多いと大いに嘘がつける。
- 職人:モノを作る技術があれば、誰ともしゃべらないでとりあえずは仕事が出来る。( )
- 公務員:基本的にはマニュアルに沿った対応をすれば、嘘をつく余地がない。無理に嘘をつかなくてもよい。(嘘)
- 俳優(舞台・映画・特に声優):演じるということ自体が嘘であるので、大いに嘘がつける。しかし、演技のための多大な技術と努力と才能は必要。(嘘嘘嘘)
- クレーム対応電話事務員:クレーム対応は相手の話を聞く事が仕事である。こちらの正直な意見を言って火に油を注ぐようなクレーム対応方法はない。その行為は演技であり、嘘である。電話対応なので、相手にそれがピノキオ種による嘘だとばれなくてもよい。(嘘嘘嘘嘘嘘)
- ユーモアを駆使した話術を持った伝説のバーテンダー:人を楽しませる時には、真実をありのまま述べるよりも、嘘をついた方が良い場合がある。嘘を生かした話術が必要な、かなりの技術職である。(嘘嘘嘘嘘嘘)
- 建築家:最近ピノキオ種の人々の間で人気の職業。なぜなら、鼻をそのまま木材として建築資材に利用する建築設計方法が流行っているため。(?)
嘘と仕事の関係は、実際に働いてみないと本当のところはどうなのかわからない。現実にピートは、嘘と仕事の関係ではなく、いろいろな人の役に立ちたいと思って、公務員になったのだ。
週末になって、ピートは部屋の片づけや天気のいいベランダに洗濯物を干したりした後、近所のパン屋に朝食用のパンを買いに行った。時間に余裕が十分にある休日に、美味しい出来立てのパンを食べるのが、ピートのささやかな贅沢だった。パン屋では、丁度そこで働いている友人のレイモンドに出会った。彼は休憩中で、店の傍に置いてあるベンチで煙草を吸っていた。レイモンドはそこのパン屋でパン職人になるための修行中だった。
レイモンドは自分の鼻が伸びる特性を好きではなかったし、ピノキオ種の人々が嘘をつくことにこだわること自体が好きではなかった。好きも嫌いもなく、付き合わなければならない事ではある事柄ではあるけれど。そのために、技術さえ身に付ければ、あまり人としゃべらなくていいのではないかという理由で、パン職人になるために、パン屋で毎日働いている。小麦粉とパンの焼けるにおいに包まれて、黙って親方の仕事を盗む。パンを焼く技術は簡単には手に入らないけれど、実際に余計な事をしゃべらなくてもいいので、レイモンドは自分のピノキオ種という事を意識しなくてよく、それが彼にとってはとても楽で合っている仕事らしい。それに親方の事をとても尊敬している
以前に、レイモンドは、フランスパンは伸びた鼻の形に似ているからあまり好きでないので、自分が店を開いた時には絶対に置かない事にしようと思い、フランスパンのクープを入れる作業を5本入れる所を適当に3本や4本にしてサボっていると、親方に見つかってこっぴどく怒られた。
「おい、レイモンド。フランスパンのクープが何で3本や4本でまばらなんだ。それに長さも深さもまばらで雑だ。きちんと5本入れるようにって最初に教えたじゃないか。これじゃあ焼き上がる時にきちんと空気が抜けずに、いいパンに焼き上がらないじゃないか。」
「フランスパンは伸びた鼻に似ているから、あまり好きではないんです。」
「それはてめえの勝手であって、仕事に私情を持ち出して、きちんとした仕事をしないのなら、よその店でやってくれ。てめえの鼻が伸びようと伸びてなかろうと、焼き上がったパンをみれば、きちんと仕事をしているかしていないか、すぐにわかるんだからな。」
そう親方に言われてからは、美味しいパンを焼くために、毎日腕を磨いている。
「嘘をつくことが言葉の行為である以上、言葉と沈黙の関係は対照的であると言わざるを得なし、沈黙する事は嘘ではないはずだけれど、現に1日中しゃべらなかった日でも鼻が伸びた事が何度かあって、最初は、それはそれで驚いたし、自分の鼻にうんざりしたよ。」
「1日もしゃべらない日!そんな日なんて今までなかったと思うよ。」人としゃべるのが好きなピートはレイモンドの言っている事にとても驚いた。レイモンドはレイモンドでピートの話に驚いた。
「それはそれで控え目に言っても珍しい話だ。だけど、そう言う場合は、たいてい自分の感情に対して、自分で嘘をついた態度をとってしまうような日で、それは言葉でついた嘘ではないはずなのに、鼻が伸びた事があったよ。ささやかな人体実験だよ。まあでも、大体は他人としゃべって嘘をついているのか疑われるストレスよりも、黙って自分に嘘をついていた事を後で自分ひとりだけで驚く方が、僕はいいな。それに、自分で悩む事は他人に嘘をつく事ではないからね。」
それからレイモンドは、最近は三日月型のクロワッサンを素晴らしく綺麗なキツネ色に焼き上げるコツを習得した事についてなどを話てくれた。
ピートはレイモンドの話を聞いていると、美味しいクロワッサンが食べたくなったので、焼きたてのクロワッサンをたくさん買った。
パンを買ってから歩いていると、途中で、ピートはハンナに会った。ハンナもピノキオ種だった。ハンナはとにかくなんでもよくしゃべって、とても楽しい女性だった。楽観的で嘘でも本当でもあまり気にしない割に、自分の欲望に対してとても素直に反応する。つい真面目に考え込んでしまいがちなピートは、ハンナに会うととても元気になる。
ハンナは今、電話口でクレーム対応をする仕事をしているらしい。
「私もクレーム対応マニュアルっていうのを見たの。嫌な客が凄い剣幕で怒ってきても、貴重な意見だから、改善のためにそれをきちんと聞いて、ありがたい意見のお礼と至らない点を平謝りしないといけないって書いてあったわ。
嫌な客にすごい剣幕で怒られて、それにへこへこ謝らないといけないから、ストレスは溜まるだろうと覚悟はしていたし、いくら貴重なご意見だからって、怒られて言われたら、謝りたくなくなるだろうし、謝りたくもないのに謝るんだから、たくさん嘘がつけるし、たくさん嘘をついてたくさん伸びた鼻を丸太にしたかったの。
それで今、ピノキオ種の建築家がピノキオ種の鼻由来の丸太を材料にして建物を建てるのが流行っているのって知らない?その丸太で、家を建ててやろうと思って選んだ仕事だったんだけどね。全然電話がかかってこないのよ。私もわざわざ電話かけて怒るつもりもないけれど、マニュアルがあるくらいだから、怒る人もいるのかしら、くらいに思っていたのに。他の人もみんな、今の人って怒らないのかしら」
「それって電話番号が嘘になったりしていて、電話を掛けようとしているけど、誰もつながらないだけなんじゃないの?」
「それは嘘というより、うっかりあり得る話ね。」
「もしくは、電話なんかじゃなくて、実際にお店や会社に文句言いに行ったり。」
「それもあり得るわね。
そもそも見た目で判断されて、その上、言葉を疑われるって、私たち、ピノキオじゃなくてピエロよね。鼻の長いピエロが姿を隠してまで嘘つきピエロを演じるって、三面鏡の中に閉じ込められたみたい。」
「ところで、何のクレームを受ける仕事なの?」
「クレーム対応なんてマニュアルさえこなせば、どこでも一緒だろうと思って、実は3つの会社の電話線を引いているのよ。それぞれの電話に出る時に使い分けるつもりでね。」
「たくさんあるんだね。」
「そのはずなんだけど、どこからもちっとも電話が来ないのよ。えっと、仕事を委託されているのは、墓石の会社とお蕎麦屋さんと電気屋さんよ。」
それから今から、ハンナはいつか建てる予定の家の相談をするために、建築家を尋ねる所だと言った。一緒に来てみないか誘われたので、ピートも面白そうなので、ついて行く事にした。
ハンナの話によると、最近は、ピノキオ種の間で、伸びた鼻を植物として植えずに、そのまま木材として利用して、家を建てるのが流行っているらしい。ピートも、ピノキオ種の鼻由来の丸太が建築資材として利用される話を、建築課の仕事をしていた時に聞いた事がある。だけど、実際にそれを利用して建物を建てている人に会うのは初めてだった。フランクさんという建築家だった。フランクさんもピノキオ種だ。フランクさんが特別なのは、他の建築家と違って、自分の体質として馴染んできたピノキオ種の鼻由来の木材の特性を研究し、それを構造やデザインに生かして設計することだった。
基本的には、ピノキオ種の鼻で出来た木材は、本体と同じく、植物と動物の中間の性質を持っていて、有機的な建築物を生み出す可能性がある素材である事が特徴だった。有機的、つまり鼻由来の木材は、ピノキオ種の身体の属性から離れて丸太になった後も、生きていているのだ。建築物の骨組みとなった段階でも、変わらず周囲の木材と絡み融合し、時間とともに成長する。そこが、植物そのものから切り出された丸太と最大の相違点だった。そのため、鼻由来の木材では建築物の建て方が変化した。
詳しい話の続きは、ハンナが約束をしていた建築家のフランクさんの家に着いてから、フランクさんがしてくれた。フランクさんの家は、街から少し離れた場所で、白い壁のシンプルな形の四角い建物なのに、スッキリとカッコ良かった。だけど、建物の中はモノで溢れて、初めてみるような、いろんなものが置いてある実験室になっていた。そこでフランクさんは、設計したり、観察したり、研究したりしているそうだ。
フランクさんはピートとハンナの前に淹れ立ての紅茶と木製の建築模型を置いた。3人はピートが持って来たクロワッサンを食べながら、そこから講義が始まった。
【フランクさんの建築講義】
「まず、設計図を元に、本物にしては小さめの、模型サイズで建てたい理想的な建築物の枠組みを作るんだ。そもそも落ちたばかりの鼻由来の丸太は、素材自体が1mで、どうしても小さな模型サイズの枠組みになってしまう。だけど、その方が細かい所をこまめにデザイン出来るから、とても勝手がいい。それから、生きた素材である鼻製の丸太が、模型サイズの建築物としての枠組みに収まると、次の段階になる。」
ピートとハンナは、フランクさんの説明を聞きながら、たくさんの模型案が並んでいる部屋の中を見回す。きっちり安心の住宅型、まるい不思議なドーム型、模型なので低いけど鋭くとがったタワー型、中が階段だらけの素敵な迷路型など。どれも木製、しかもピノキオ種の木材から器用に作られている。フランクさんの話は続く。
「鼻由来の丸太で出来た模型に、ホルモン促進剤を注入するんだ。これが1番の重要ポイント。ホルモン促進剤で、成長機能を促し、建物の骨格のサイズをどんどんと大きくすることが出来るからね。だから最初の模型を小さなサイズでも綿密に丁寧に作れば、いい建物が出来上がることになる。」
フランクさんは、30センチの空の注射器のような形の道具をみせて、模型の1つに軽くあてがった。
「ホルモン剤の効用は、鼻由来の木材の持つ機能を最大限有効に引き出す為に調整するという観点では絶対的だよ。急いで建物を大きくしたい場合には、成長促進剤のなかでも強力なものをホルモン注射すると、納期を急ぐ施工にも対応する事ができるんだから便利だよね。だけど、あまりに早く建て過ぎた建物は、弊害も多い。成長する時に中の素材が急に大きくなり過ぎると、スカスカの空洞になってしまうんだ。」
フランクさんは実験で出来た、ホルモン促進剤と使い過ぎて早く大きくなった、鼻由来の木材を見せてくれた。それは白くてスポンジみたいで、まるでヘチマたわしだった。ハンナはそれを見て
「あら、私このスポンジ欲しいわ。これで身体を洗うと美容に良さそうだもの。」
と言って喜んでいると、フランクさんも、
「フライパンのコゲを落とすたわしにするのにもいいんだよ。」と教えてくれる。
「だけど、ここまで空洞がひどくなってしまうと、耐久性の求められる建物の素材となるには問題が大いにある。
本来なら、ホルモン注射をせずに、ただの時間の経過だけでもいいんだ。鼻由来の丸太は、そのものの成長能力により、建物は徐々に大きくなっていくんだ。」
「じゃあこれらの模型も、この形で少しずつ成長しているって事ですね。」とピートは疑問をフランクさんに投げかけた。
「その通り。もうどれくらい先の事になるかはわからないけれど、だんだんと大きくなっていくだろうね。
「また一方で言い方を変えれば、鼻製の丸太自体を、採取してから放っておいて時間が経つと、次第に成長してしまっている。地面に植物として植えた時とは比べものにならないぐらい、ゆっくりだけどね。それらを使って、最初から大きな建築物を作る事も可能になる。
その場合は、成長に時間をかければかける程、全くホルモン剤を利用しない場合よりも物質としてさらに強度が増すともいえる。時間をかけて成長した木材は、スポンジ状とは逆に、とても重厚で密度の高い材質になる。けれど、その素材を作る時間もかかるし、出来た重い素材を使うためには人手もかかるし、大変だけどね。
自然に任せる場合は、そのこと自体に意義があるようにも思うよ。例えばそれが宗教的な意味合いを含んだ場合。だけど、そもそも人工植物動物のピノキオ種自体が人工的であるのだから、より自然にこだわった所で、その事に対して神の創造的人工物と宗教性を感じる人がどれだけいるのかも疑問かもしれない。
話が逸れたけど、あまりに時間を掛けたところで、ある一定の強度の基準さえクリアしていれば、建築物の機能として満足したものになる。だから、僕は、建物の成長には、ホルモン剤を基準に沿って、ある程度使用する方法を採用しているよ。」
ピートはフランクさんのいう宗教性について考えていると、ハンナは別の質問をした。
「だけど、そのまま大きくなっていく鼻製の丸太でつくられた建築物の模型は、どんどん際限なく大きくなってしまうと、この家よりも大きくなってしまうわ。この尖った塔の模型だって、2階の床だけでなく、屋根まで突き抜けてしまう時が来るかもしれないわね。」
「そうなんだよ。だから鼻由来の丸太を使った建築方法では、サイズの頃合いの良い所で、今度はホルモン抑制剤を注入して、鼻製の丸太の成長をきちんと止める事が重要なんだ。成長抑制剤を注入したら、全体の骨組みに十分に行き渡らせる。ここできちんと成長を止めなければ、中で人が居住し始めてからも、徐々に建物が大きくなっていってしまう恐れがある。膨張していく空間は、建物の中の住人にも、建物の外の住人にも予期せぬ影響を及ぼすからね。全体が大きくなったり、部分的に大きくなったり。骨格だけが成長し続ける建物は、施工された外壁や屋根に食い込み、外装に亀裂を走らせ、ひどい場合は、最終的に建物の崩壊に至る。つまり、欠陥住宅だよね。
だけど、鼻由来の丸太の特徴は、ただ成長して質量が大きくなり、強度を増すことだけが重要なのではないんだ。もう1つの重要な要素は、組み合わされた他の資材との化学反応をすることなんだ。周りの素材と有機的に変形仕合い、融合して、さらに建築物としての新しい物質と形態が発生する。そこが建築としての新しい可能性を秘めていて、ワクワクするんだ。」
【講義終り】
フランクさんの丁寧に語る興味深い講義の後、たくさんあったクロワッサンはすっかりとなくなり、カップの底に残った紅茶はとっくに冷めていた。そして、その冷めた紅茶を一息に飲んでから、ハンナは質問をした。
「それじゃあ、今度は鼻由来の木材で出来た建物が見てみたくなっちゃった。見せていただけるかしら。」
「今僕たちがいるこの建物もそうだよ。」
「あら、話が早いのね。そんな気はしていたけど。」
「やっぱりちょっとずつ毎日変化しているのですか?」ピートは今聞いた不思議な話を、現実に確かめた。
「そうみたいだね。でも感じている連続した時間の流れとしては、あまりわからないけれど、長くその空間にいたら、1カ月前と今日が同じ形をしていない事は明らかだ。」
「他の建物ももっと見てみたいわ。この部屋にある模型全部の中に入ってみたいぐらいよ。」
ハンナのリクエストに応えて、フランクさんはピートとハンナを新しく作った建物に連れて行ってくれた。その建物は、フランクさんの家からそう遠くない場所の雑木林の入り口で、外側は大きな丸い球の形をしている。その真ん中にある扉に続くための階段が地面から生えるように続いている。部屋の中はワンフロアで、暗闇で天井と壁が境界のない半球体の空間になっていた。そこは地球からS9V4光年離れた場所を永久に飛び続けている人工衛星にとり付けられたカメラで撮影された星が転写されているプラネタリウムだった。時間も場所も自分の知らない遥か遠くの宇宙の片隅が延々と流れていく空間は、終りも始まりもない映画の様だった。
球の下半分は日時計の様に、日光を取り入れた場所になっていた。ガラス張りの上、鏡の反射で二重に自然光が溢れていて、バーがあった。部屋の真ん中にはミラーボールがあり、洪水の様な光は空間の至るところに虹を作る程だった。
カウンターには、バーテンダーの男性がいて、ピートたち以外のお客さんも数人いて、それぞれ何か飲んでいる。白い色の炭酸のお酒を注文して飲んだ。バーの男が、銀河で出来たそのお酒は、口の中で集めた星が弾ける飲み物だと言った。ハンナは悪くないと言って喜んだけれど、ピートにはただのカルピスソーダの酎ハイにしては、とても詩的過ぎる割に下手な演出でちょっとうるさい気がした。
ふと気が付くと、バーテンダーの男はピノキオ種ではない、という意識がピートの中に立ち現れた。ピートは自分もなんだかんだ言っても、ピノキオ種の集まるところには、ピノキオ種の人しかいなと思っていた自分に気が付いた。それは衝撃的だった。以前、川に落ちたキツネが氷漬けのまま取り出された、というニュース記事を見た時の気分に似ている。その写真も小さくニュースに載っていた。切り出された氷は黄色い尻尾まで氷漬けになっている。胴体の部分の四角から尻尾の部分が付けだされたような形をした氷をしていた。それはかわいそうだけど、それ以上にとても言いようがなく、どこかいつもと違う気分になって、そわそわとなり、ぞわわっとする。お腹の中に丸い鉄の冷たい球が入ってしまって、撚れるような捩るような種類の衝撃だった。
ピートは今度ロビンソンさんをここに誘ってみたいと思った。上司のトムにはまた怒られるだろうし、ロビンソンさんも迷惑かもしれないけれど。強引にでも説得したい気持ちがピートの中には生まれていた。誰でもいつまでも今日は明日よりも1日分若い。若いせいで、毎日失敗しているのかもしれない。それは生きている間、終わることがなく永遠に続いていく。
後日、フランクさんのアトリエに泥棒が入ったという話をハンナから聞いた。盗まれたのは鼻由来の木材のための成長抑制ホルモン剤一瓶だった。たった一瓶だけだったので、フランクさんもあまり気にしていなかった。
その話を聞いた晩、ピートは夢を見た。レイモンドに会うと、彼は自分の鼻がもう伸びなくなったと言って喜んでいた。
「どうして鼻が伸びなくなったんだい?」
「成長を抑制させるホルモン剤を鼻に注射してみたんだよ。本当は鼻由来の丸太の成長を止めるための建築資材の1つなんだけれど、丸太の成長を抑制させるぐらいなら、本体の鼻の成長も抑制させるんじゃないかと思ってね。そうしたら、ほら、この通り普通の鼻の高さでぴったりと鼻の成長が止まったんだ。生まれてからずっと考えてきたけれど、自分の鼻が伸びるより伸びない方が、やっぱりどうしても僕にはいいんだよ。薬を注射するのはちょっと心配だったけど、ちょっとした人体実験だよ。」
そう言ってから3日後にレイモンドは急な体調不良に見舞われて、仕事場で倒れてそのまま死んでしまった。レイモンドの鼻は壊死を始めていた。という所で目が覚めた。
翌日は休日だった。ピートは急いでレイモンドが働いているパン屋に行った。レイモンドは相変わらず小麦粉とパンのいい香りに包まれて働いていた。
ピートがレイモンドに、フランクさんに聞いた鼻由来の丸太の素敵な建築の話をしたかったけれど、なんとなくそれをどう話していいものかわからなくなった。レイモンドは使用適正量がわかり、問題も副作用もない、鼻の成長抑制剤がある事を知ったらどうするだろう。夢の中のレイモンドの様に、使ってみるのだろうか。レイモンドだけでなく、ハンナやフランクさんやピート自身はどうするだろうか。そのための手段の選択を自らはどういう理由で決めるだろうか。本当は植物や丸太がもう十分に世界に存在していて、それらをつくるための鼻を持っている理由は既にないのかもしれない。
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音楽を聴くという行為と音楽を奏でるという行為のまわりに、様々な生き物たちがやってきて、音楽を捕まえていく。
古い城の傍の湖の中から現れた、濡れた言霊の影が、じりじりと歩み寄って来て、捕まってしまって逃げ出せない音楽。片や、古い城に永遠に暮らす幽霊が晩酌の肴にするために捕まる音楽。風に飛び乗って、さらに遠くに運ばれて行く音楽。
古い城の中は、境界のあやふやな壁に囲まれた空間に、太い柱が天井に何本も、上に上に、連なってはしっている。夜は、天井の影がずっと高くに吸い込まれているので、太い柱が支えているものは、見えている空間だけではなくて、もっとたくさんの見えないものを支えている。その空間に溢れている見えないものは、悠久の時間の中で、人々によってさまざまに空想された想像上の生き物で、うにょうにょと曲線を描きながら滑らかに柱の間を行ったり来たりする。長細いのも、顔の大きいのも、足が短いのも、楕円形を描きながら移動するものも、毛並みがとてもざらついているのも、全部が音のまわりにやって来る。男が奏でる楽器は、いつも正しさとは無縁に見つけてきた音を空間に響かせている。音楽という形でも言葉でもない拠り所の確認作業をするために四苦八苦する。
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