雲を夢見て

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梗 概

雲を夢見て

 重い扉を力一杯に開け放ち、マンションの玄関から飛び出した。真夏の日差しが照りつける中、馴染みの建物が後ろへ遠ざかっていく。母親と口喧嘩したのはもう何度目になるだろう。土手の急斜面を上がりきり、静かに流れていく白い雲を見ながら思う。雲になってどこまでも遠くへ行けたら、どんなにいいだろう。

 ハリボテのような研究所のドアを開け、《生化学者|バイオケミスト》を自称する老人を訪ねた。彼によれば、ヒトの身体の半分以上を占める水分を蒸発させ低温・低気圧下で結晶化させることで、身体を雲状にする研究をしているという。クロラバロン藻という細胞内に葉緑体を持つアメーバ状の藻類の遺伝子を、ヒトの皮膚の細胞に組み込んで光合成が可能な膜状の身体を生成する。これにより雲状になった身体を覆い生命機能を維持したまま空中を漂うことが出来るんだ、と彼は意気込んで私に説いた。雲になった被験者の写真は、皆悠々と空を漂い、むしろ誇らしげにさえ見えた。地上の喧騒から離れた世界が、目の前にあった。

 ヘリウムとともに赤い風船に封入された私は、波状に折りたたまれた研究所の天井から放たれた。斑状の雲と同じくらいの高度になった所で凍りついた風船が割れ、雲状になった私の身体はやっと外の景色へ仲間入りを果たした。

 西から近づく高気圧に押され、身体は太平洋を東に進む。爽やかな太陽の光で海の波面がきらめき、蒸発した水蒸気を取り込んで私の身体はぶくぶくと膨らんでいく。細胞内に葉緑体を含んで若干緑がかり、身体の重みで低空飛行を続ける私の身体は、はたから見ればアングラ演劇の巨大な吊物に見えるだろう。

 夏が過ぎようとする頃、ペアのアホウドリが私の身体に突っ込んだ。二羽はしばらく暴れたのち、雲に空いた穴を巣にして卵を産んだ。餌を取るため海上と巣を飛び回るオスが、3ヶ月に1度しか家に帰ってこない父親と重なって見える。ハワイ諸島近辺を飛ぶスポーツ機が雲を引き裂く事件があったが、親鳥の懸命な保護により雛鳥はすくすく育ちやがて旅立っていった。

 私の身体が故郷の街ほどの大きさになり、猛スピードで迫る積乱雲に突入していく。細胞に打ち付ける豪雨を抜けると、真っ白な飛行船が雲の上に不時着していた。不思議がる乗客の中にスーツ姿の父親の姿があった。観光ビジネスの商談で強面の上司や交渉相手と乗り合わせていたようだった。

 重みに耐えられず沈んでいく飛行船のガス袋を、乗客たちが梯子越しに登っていく。土と砂に覆われたアメリカ大陸の上では、水蒸気を取り込めず私の体はみるみるしぼんでいった。

 上司に胸ぐらを掴まれた父親は、商談失敗の責任と飛行船の賠償逃れをなすり付けられて飛行船から突き落とされる。父親は萎みかけの雲の中へ蟻地獄のように沈んでいった。遠くから救援のヘリコプターがやってくる頃、飛行船のエンジンが充満した水蒸気で発火し飛行船のガス袋が破裂する。乗客が火の海に落ちていく中、アホウドリの巣だった雲の陥没部に倒れている父親は救助された。

 

文字数:1241

内容に関するアピール

地球上の多くの生命体は自身の代謝機能を維持するため水が必須と言われているが、水蒸気で出来たいわば「水の塊」である雲は生命機能を持つに値する存在ではないか、という考えから雲状生物の着想を得た。

雲状生物のエネルギー源として、脊椎動物の細胞内で光合成を行うスポットサラマンダーというサンショウウオの例を参考にした。細胞内で光合成を行う藻類は、比較的私たちの回りにいるクラミドモナスに近い種類らしいが、まだ解明されていないのでchloro- (緑色の)とballoon (風船)の造語を当てた。

一見アクションがなさそうな雲でもアホウドリや積乱雲、飛行物体とのコンタクトを通じて、雲状生物の視点による世界の見え方と、自然界と人間社会の両方を潜り抜ける私の変化を追う。

文字数:326

課題提出者一覧