梗 概
網天蓋
ある植民星は、重力が弱く、多くの岩山から巨大なアーチ型リボン状の構造物が生えていた。
幼なじみのミシャとリギ(リギが視点人物で主人公)は、周囲になじめず、お互い以外には友達がいなかった。ミシャは気が強すぎ、リギは気が弱すぎた。それでもなぜか二人は馬が合った。(人を寄せつけないミシャにリギが同情と憧れが混在した気持ちを抱いて一緒にいるという側面が大きかった)
ミシャは〈天蓋〉と呼ばれる、岩山から生えた巨大リボンを登るのが好きだった。リギは高所恐怖症の気があったものの、それにいつも付き合わされていた。貧しい土地で細々と生きる人々の中で、地上の物事を忘れるため、〈天蓋〉に登る人も多かったが、二人は高すぎて誰もいない場所をいつも目指した。
ミシャは、そうやってたどり着いた高みからダイブするという楽しみも覚えた。リギも一緒に飛ぼうと誘われたが、リギはどうしても怖くてできず、落ちたミシャを追いかけて一人で〈天蓋〉を降りることを繰り返すしかなかった。
ある日、リギは〈天蓋〉が動いていることに気づき、〈天蓋〉が生きているという、不思議な実感と愛着を覚える。同時期に、増殖した〈天蓋〉に空を覆われてしまった地域からの難民がミシャとリギの地区に押し寄せていた。
年月が流れ、ミシャとリギの地区の空も、多くの〈天蓋〉が絡み合ってできた、法則性のある壮大な網目模様で覆われていた。日光が遮られ、人々は飢饉に苦しんだ。〈天蓋〉を少しずつ破壊する作業が行われ、リギは心を痛めた。ずっと友人関係を続けていたミシャも、〈天蓋〉の破壊を快く思っていなかったが、なすすべはなかった。
ある日、ミシャは久しぶりに一緒に〈天蓋〉を登ろうとリギを誘い、リギは応じる。ミシャは、事前に調べてきたという、ほかの人に邪魔されないルートを選び、二人は高すぎてほかには誰もいないところへたどり着く。そこは、リギが一度も来たことのない遠い場所で、ほとんど隙間のないほど、〈天蓋〉が増殖していた。
ミシャは、〈天蓋〉のことをいろいろと調べてきたのだと打ち明ける。〈天蓋〉が法則性のある模様を描いている理由について、ミシャは持論を展開する。生き物とは、情報を増やし、宇宙を雑多にしていくために存在している。人類は文明を築くことで、〈天蓋〉は模様を描くことで、情報を増やしているのだ。しかし、文明を築くほうがはるかに多くの情報を生むことから、〈天蓋〉は人間との生存競争に負けようとしている、と。ミシャは、人類の文明自体がくだらないし、生きていても意味がないから、一緒に死のうと言う。リギは、とっさに返事ができなかった。ミシャは、〈天蓋〉の隙間からダイブする。リギはその時まで気づいていなかったが、下は海だった。
リギは、ミシャを失ったこと、結局ミシャを理解できなかったことに絶望し、〈天蓋〉を破壊するための機械を盗み、〈天蓋〉の根元を切断する。〈天蓋〉はゆっくりと家々を押しつぶした。
文字数:1211
内容に関するアピール
人間からすると、一見生き物には思えない生き物を登場させたいと思いました。
自分の気持ちから出てきたものをひねらずに書きました。
文字数:63
網天蓋
どうして今まで生きてこられたんだろう。
きっとそれは、誰にもなにも要求されなかったからだ。罪の償いという名の単調な生活。これではなんの償いになるはずもない。ただ刑務所に入っているだけだ。そもそも、リギは自分が本当の意味で、罪を犯したとは考えていなかった。犯罪行為はしたわけだし、ほかの人からすれば、自分は極悪人なのだろう。それは理解できる。しかし、僕の考えでは、あれは自分の一生の行いの中で、一番善いことだった。
その人生も、もうすぐ終わろうとしている。わかるんだ。なんとなく、自分の中の残り時間を示す時計が見えそうな気がする。数少ない大切な人たちは、とっくの昔にみんな死んだ。置き去りの自分ももうすぐ終わり。
僕がこんな穏やかな最期を迎えていいのかな。まあきっと、善良な人が報われない人生を送って凄惨な死を迎えることもあれば、極悪人とされている人間が穏やかに長い人生の幕を閉じるってこともあるのだろう。当然だ。神様なんていないんだから。
リギは、穏やかな気持ちで、残された時間は過去を振り返って過ごすことにした。
白い服の背中が、どんどん遠ざかっていく。ひとっ飛びで、何メートルも道を進んでいく。空へ続くまっすぐな道。
リギは、空へかかる巨大な赤いリボンのような道にしがみつくようにして、進むことができない。しがみつくと言っても、とっかかりがまったくないから、すべすべとした硬いリボンの上にへたり込んでいるだけ。かなりの急こう配だ。
白い服の人影が振り向いた。すっと立ち、こちらを見ている。
「ごめん」
リギは精一杯の声を出した。
待って、と言いそうになったけれど、待ってくれているのはわかっている。
「ミシャ、なんでまっすぐ立てるの?」
間抜けな質問をしてしまった。
「ギザ靴履いてるからに決まってるだろ」
ミシャはリギに聞こえるように大声で答えた。
「リギも履いてるから立てるはずだよ」
「こわいんだよ!」
「お前は原始人か? 体育の成績はいいのにな」
ミシャは前を向く。
「来ないなら置いてくよ」
ミシャは再び道を蹴り、数メートル進んだ。
リギは唇をかみしめ、底に繊維のついたギザ靴を履いた足で立ち上がった。
「わあ、すごい」
リギは辺りを見渡し、目を輝かせた。自分たちの町と荒野の境目が見える。家々は豆粒のようで、そこに人々が暮らしていることが嘘みたいだ。目を上げれば、オレンジ色の太陽が少し大きくなったように思えた。
「高所恐怖症じゃなかったの?」
ミシャはあきれたように言った。
「ここまで来ると、距離がわかりにくいから大丈夫なんだ」
リギは、ここまで来たかいがあったと思い、ミシャに笑顔を向けた。道の幅は軽く十メートルはある。道が上へ向けて斜めになっている地点ではこわかったけれど、ここまで来ると地面とほぼ平行みたいだし、落ちる心配はなかった。
「そんなもんか?」
ミシャは苦笑する。
「ここには誰もいないね」
ミシャはリギの言葉にうなずいた。
「ここまで来るやつはめったにいないから」
「ミシャは前にも来たことあるの?」
「一回だけ。面白かったから、誘ったんだ」
「僕が高所恐怖症だって知ってるのに」
「でも大丈夫だっただろ」
ミシャはニッと笑った。
「先端まで行ってみよう」
リボン状の道の終わりは、唐突にあった。端は少しギザギザしている。そこから先はなにもない。
少し恐怖がよみがえってきて、リギは思わずミシャのシャツの裾をつかんだ。
ミシャの顔は見ていないのに、ミシャが微笑んだような気がした。
ミシャは先端から虚空をのぞき込む。リギもつられて見ると、下は荒野だ。茶色にわずかに緑が混じった土地。ここから見ると、カビの生えたカーペットのようだ。
ミシャは体を起こした。
「ここから飛んでみない?」
さらりと言う。
「え? 飛ぶって?」
リギは目をしばたたいた。
「落ちるんだよ。下には誰もいないだろうし」
「いやいや。なんで?」
「どう見てもいないだろ」
「そうじゃなくて。わざと言ってるだろ。なんでそんなことするのかってこと」
「楽しそうじゃん」
「風に飛ばされて変なところに落ちたらどうするの?」
「風なんて吹いてないよ」
ミシャはリギの心配を笑い飛ばし、背筋を伸ばした。
「じゃ、行きまーす」
なんの予備動作もなく、ミシャは道の先端から落ちた。
「うわあああ!」
悲鳴を上げたのは、リギだった。ミシャは地面へ向けて大の字になり、小さくなっていった。
リギは一瞬地団太を踏んだあと、くるりと向きを変えて道を蹴った。もと来た道を戻るのだ。
リギは荒野を走った。空から落ちてくる白から目を離さないようにしながら。もう少しで地面に到着する。
ミシャより前に、ミシャの落下予想地点へ到着することができた。ミシャは空中で体の向きを変えたのか、仰向けでゆっくりと落ちてきた。リギはそれをただ見つめていた。
ついにミシャの背が地面についた。二人は、なんとも言えない感じで目を合わせる。
その時、ミシャは勢いをつけて飛びあがり、リギに飛びついて地面に押し倒した。離れて転がる。
「痛いよ」
リギは倒れたまま横になり、地面にぶつけた後頭部をさすった。
「なんで追いかけてきてくれなかったんだよ」
ミシャは半身を起こし、さげすむようにリギを見た。
「追いかけたじゃん」
「すっごく遠回りでね」
「だって」
「飛び降りるのはこわいから? やっぱりお前は地球の原始人だな」
「僕は正真正銘、この星の生まれだよ」
「知ってるよ。三歳の頃から一緒にいるし。リギは感覚が先祖返りしてるんだよ」
「そうかもね」
リギはふてくされた。
「楽しかったー」
そう言うミシャの顔は、学校で見る表情とはまったく違って見える。
「これからどうしよっか?」
リギが体を起こして言うと、ミシャは立ち上がる。
「もっと町から離れてみようか」
「戻るのが面倒になるよ?」
「なに言ってんだよ。意外と体力あるくせに」
「ミシャほどじゃな」
リギが言い終わる前に、ミシャは走り出していた。
「置いてくなよ」
リギは飛び上がり、笑いながらミシャを追いかけた。
リギの妹のリアは、生まれつき体が弱く、みんなと比べて半分も学校に行けなかった。
リギとリアは、ほとんど会話することがなかった。リギより一つ年下のリアは、、心配されるのを嫌った。気遣いの言葉をかけるのを避けると、リギはほかに話しかけることを思いつかなかった。学校のことを話すこともできたかもしれないけれど、かえって傷つけてしまうのではないかと、こわかった。リアも無口だった。
そんなリアが、突然話しかけてきたことがある。
「リギ、どうして生き物は生まれたの?」
いきなりなんでそんなことを訊くんだと尋ねると、知っている人全員に訊いてみるんだとリアは答えた。
わからないけど、生物の本に載っているんじゃないかと答えた。学校の図書館には、草からつくった紙でできた本がたくさんあった。
じゃあ借りてきて、とリアに頼まれたけれど、結局、忘れてそのままにしてしまった。
思い出したのは、リアが死んだあとだった。それから、リギは生物の本を借りて読んでみたけれど、知りたい答えは書いていなかった。真面目に学校の授業を受けるようにもなった。なぜ生き物が生まれたのか、いつか授業で習うんじゃないかと思ったのだ。でも、いつまで経っても、そんなことはちっとも習わなかった。無駄に成績が伸びた。
歴史の授業で習ったことによると、我々の先祖である昔の人々の中には、体が弱い人などいなかったらしい。病気になることもなく、怪我もすぐに治せた。でも、そのような人たちはもういない。再び科学技術を発展させることができれば、再びそのような世界になる、ということらしい。
この時代に生まれたリアは運が悪かったのだろう。いや、そうでもないのかもしれない。なにがリアの幸せなのかは、リアにしかわからないわけだし。
母は、リアは天国に行ったと信じているけれど、リギは、母に育てられたにもかかわらず、そういうことは信じていなかった。リアは消えた。でも実は、どこかへ行ったと思っている自分もいる。自分が置き去りにされたと感じる時があるからだ。リアは死にたくて死んだわけじゃないし、もうどこにもいないのに――
「リギ、この問題に答えてみなさい。山から採れる主な資源は、鉄鉱石と青鉄石となにかな?」
先生の問いで、リギは我に返った。
「えっと、赤黄炭です」
「正解。このような資源は岩山の組成の約半分を占めていて――」
地学の先生は、教室の窓からも見える岩山について解説を続けた。
今日の最後の授業が終わり、リギは教科書を鞄に詰めた。
「あのさ」
おずおずとした声がして、リギは顔を上げた。クラスメイトのキナが、ノートを持って立っている。
「もし時間あれば、明日のテストに出るところを教えてほしいんだ。測量法のところがどうしてもわからなくて……リギは勉強が得意だから」
キナの腕には、青あざがいくつもある。誰も本人に対しては口にしないが、家庭内暴力を振るわれているという噂だった。
「ごめん」
リギは立ち上がった。
「今日は用事があるから……ごめんね」
「そっか。わかった」
リギはそそくさとミシャの机のところに行った。
「帰ろ」
「うん」
校舎から出ると、ミシャは言った。
「キナになんか言われてたけど、どうしたの?」
「勉強を教えてほしいって。でも今日は、墓参りに行かなきゃいけないから」
「そうか、リアの命日だもんな。でも、少しくらい教えてあげてもよかったのに」
「でも、時間ないから」
「そうか?」
「そうだよ」
「きっと、キナはお前と仲良くしたいんだよ」
「え、なんで?」
「さあ。でもそんな感じする。いつも俺とばっかり一緒にいなくてもいいんだよ?」
「なに言ってんだよ。変なこと言わないでよ」
二人は一緒に、丘にまばらに生えていた小さな花を摘んだ。
そこに、数人の同級生がはしゃぎながら通りかかった。その中の一人が、叫びながら、棒切れで地面を叩いた。
「花だ! 花がある!」
言うまでもないことを叫びながら、小さなピンク色の花を薙ぎ払い、叩き潰した。
「やめろ」
ミシャが立ち上がって言った。もともと目つきの悪い目で睨む。下手に顔立ちが整っているのが、よりこわく見せる。
棒切れを持ったそいつは、一瞬だけ睨み返してきたが、不本意そうな顔で仲間と一緒に足早に去った。既視感のある光景だった。ミシャといつも一緒にいるせいだ。リギはこっそり苦笑する。
それから、リアの墓へ行って花を供えた。荒野に、墓石がたくさん並んでいる。リアの墓石に刻まれている日付は、ちょうど一年前だ。
「リギのお母さんは元気になった?」
ミシャは久しぶりにリギの家族のことを尋ねた。
「うん、まあね」
母がいるからには、自分は死ねないな、なんてリギは思った。
「あのさ、なんでいつか死んじゃうのに、生きるのかな?」
リギの言葉に、ミシャは笑った。
「哲学者にでもなれば?」
「哲学者なら、その答えを知ってるの?」
「さあ。でも多分、哲学者なんてこの星にはいないよ」
「え、そうなの?」
「山か畑で働いてる人しかいないじゃん」
「学校とか病院とか、市場で働いてる人もいるよ」
「とにかく、哲学者はいないって」
「ミシャは将来なんになるの?」
「さあ。リギは?」
「できるだけ楽な仕事がいいなあ」
そんなことを話しながら、荒野に二人で石を並べて勝手につくった一本道を行ったり来たりした。
「明日はまた〈天蓋〉に登ろうよ」
ミシャは言った。
「ええ? また?」
「いいじゃん。行こうよ」
「えー。海のほうがいいな」
「海なんて行って、一歩間違えたら死ぬぞ。流れが速いんだから」
「釣りするんだよ。泳ぐんじゃなくて」
「今の季節はボートがないと釣れないよ。もしボートから落ちたらそれこそ死ぬ」
「案外ミシャって臆病なんだ―」
「臆病じゃない。慎重と言え」
「〈天蓋〉から飛び降りるような人とは思えないよ」
リギは、暗くなり始めた空を見上げた。岩山から伸びた数本の長さの異なる線である〈天蓋〉が、黒々と空を切り分けている。
その線はまるで、どこかへ突き進もうとしているように見えた。
家に帰ると、母が豆のスープを用意してくれていた。
「日々の糧をお与えくださり、ありがとうございます。今日、食事にありつけない人々にも、体と心の糧をお与えください」
母が食事の前の祈りを唱えている間、リギは祈るふりをして、スープの中をのぞき込んで肉片を探していた。やっぱり、お湯の中に沈んでいるのは豆ばかりだ。
母は、リアの墓のことを気にしていた。回復してきてはいたものの、母はまだ体調が悪そうだ。リギが墓は大丈夫だと言うと、安心したようだったが。
「お父さんもリアもお母さんも体が弱いけど、リギは健康に育ってくれてよかった」
それが母の口癖だった。また同じことを言われ、リギはいつものように暗い気持ちになった。父もリアももういない。母もいなくなりそうで、つらくなる。それに、なぜか後ろめたく感じた。そんなわけはないとわかっているけれど、まるで母がリギを責めているような。健康なだけで、自分にはなんのとりえもない。勝手に重荷に感じてしまっているのだろうか。
豆のスープは食べ応えがなかった。すぐに終わってしまう。
「ごめんね、少なくて」
リギはなにも言っていないのに、母は本当に申し訳なさそうに言った。そのような態度にもかすかに苛立つ。
「仕方ないよ」
リギは食器を片づけながら言う。
「プレイン地区からの輸入も少なくなってきてるみたいだし」
「そうね。昨日、市場に行った時も、いろんなものが品薄だった」
「今度は僕が行ってくるよ。体つらいんでしょ?」
「ありがとう。本当は友達と遊びたいでしょ」
「友達少ないから」
そんなことを話した翌日、リギのクラスに、プレイン地区からの転校生が五人もやってきた。
五人とも痩せていて、薄汚れた格好をしていた。ほかのクラスにも何人も同じ地区からの転校生が来たらしい。
クラスのみんなに囲まれた転校生の言う言葉に、リギは輪の外から聞き耳を立てた。
「食べるものがなくなったから、こっちに引っ越してきたんだ」
「空が暗くなったからだよ」
「暗くなったから、畑がだめになったんだ」
プレイン地区と言えば、広大な畑が広がっている場所だと地理の授業で習ったのに。
ミシャは、転校生には興味がないようだった。一日の最後の授業が終わると、いつものようにリギのところに来て、「今日は〈天蓋〉だからな」とささやいた。
リギは嫌だと言ったのに、結局、また登ることになってしまった。〈天蓋〉に登るために、〈天蓋〉が生えている岩山を登ることも結構大変だ。それよりも大変なのは、こわさに耐えることだ。必死にミシャについて行く。〈天蓋〉には、誰ともわからない大人の姿もちらほらあった。目的があるようにも思えないが、座っていたり、登っていたりする。リギとミシャを注意する気配もなく、目を向けてくる人も少ない。まるで自分の世界に入っているようだ。もしかすると、その人々は、地上になにか逃げ出したくなるようなものを抱えているのかもしれない。
気がつくと、誰もいない高みに到着していた。〈天蓋〉という道が地面と平行になり、ちょっとした展望台みたいだ。リギは、ゆっくりと淵へ近づく。ここまで来ると、恐怖はそれほど感じない。五十メートルほど先には、別の〈天蓋〉が同じように伸びていた。こっちは赤いけれど、あっちは黄味がかっていて、少し短い。
リギはしゃがみ、手を伸ばして淵に手をかけた。遠目に見ると、〈天蓋〉の脇は鋭く曲がっているように見えるが、触ってみると、でこぼこしていた。硬くて温度がない。指先でこすると、でこぼこの表面はつるつるしている。
〈天蓋〉をほかのものに例えるとすると、岩が一番近いかもしれない。でも、岩を触っている時には感じない、不思議な安らぎを、リギは感じた。
なんだろう、この感覚は。わからない。
リギはそのまましばらく、向こうの〈天蓋〉を見つめていた。
「なにしてんの?」
もっと先へ行っていたミシャが戻って来て言った。
リギは立ち上がる。
「あのさ、〈天蓋〉って動いてるの?」
リギは思ったことを素直に言った。
「え?」
「なんか、動いてる気がするんだよね。向こうの〈天蓋〉と近づいてるような」
「少しずつ伸びてるから、動いてるとも言えるかもしれないけど」
「ねえ、ここに座って、じっと見てて」
二人は並んで〈天蓋〉のふちに腰を下ろし、対岸の〈天蓋〉を見つめた。
しばらくそのままでいたが、ミシャはごろんと寝転がってしまった。
「寝ないで見ててよ」
「わかんないよ。動いてるかどうかなんて」
「動いてるって。もうちょっとすれば完全にわかると思う」
「動いてるとして、それがなんなの?」
「多分、〈天蓋〉には意思があるんだよ。なんか目的があって、動いてるんだよ」
「目的?」
「うーんと、あっちの〈天蓋〉と意思疎通してるとか」
「意思疎通っていうのは、目的じゃなくて手段じゃないの?」
ミシャの指摘に、リギは口を尖らせた。
「とにかく、動いてるんだよ」
「リギがそう言うならそういうことでいいよ」
ミシャは立ち上がる。
「そろそろ降りようか」
「うん」
「こっからふわっと」
「それは嫌だって」
「こわくないんでしょ?」
「こわくはないけど、危ないよ。風に飛ばされて変なところに落ちたら」
「一緒に行くよ。はいはい、はーい」
ミシャはふざけて大げさに腕を振りながら、淵まで行ったり来たりして、身を投げるふりをしてはまた戻った。
「やめてよ」
リギはそう言いつつ、笑いがとまらなくなってしまった。
「ほんとに行くよ。えいっ」
ミシャは、自分のタイミングであっさり身を投げた。寝そべって身を乗り出して見下ろすリギに、余裕で手を振りながら落ちて行く。
リギの胸の中で一瞬だけ、血が凍えそうになった。その感覚はすぐに消えたけれど、やはり、リギは落ちることができない。また置き去りにされてしまった。
リギは、それから毎日、自分の部屋から空の〈天蓋〉を見上げ、形を絵に書いた。スケッチブックなど持っていないから、学校で使うノートを使った。仕方ないので、授業中は、ノートを取っているふりだけをした。先生にバレて怒られもしたけれど、聞き流しているうちに、なにも言われなくなった。記憶力だけで、落第しないくらいの成績は維持することができた。別に落第してもよかったのだけれど。
ある休みの日、リギは走ってミシャの家へ向かった。ミシャの家の近くの畑で、兄と一緒に土を耕しているミシャの姿があった。
「ミシャ! 作業中に悪いけど、ちょっとこれを見てよ」
リギがノートを掲げると、ミシャは、曇り空からの弱い光の中で顔を上げた。
「おお、リギか?」
ミシャの兄が声をかけてきた。
「久しぶりだな。元気?」
「はい。ちょっとお邪魔します」
ミシャはわら帽子を取りながら、畑から出てきた。
「なんだよ」
「見て。俺、毎日〈天蓋〉のスケッチをするようにしたんだ。そしたらほら、一か月前と違ってるでしょ。前は二本の〈天蓋〉がこんなに離れてたのに、今はくっつきそうになってる。ね?」
リギは、一か月前に自分が描いた絵を見せ、空を指さした。
「ほんとだ。でもそれがなに?」
「え? すごくない? あんなに大きなものが動いてるんだよ」
「うん、まあ、すごいかも」
「意思があるんだよ。なんか目的があって、近づいていってるんだよ」
「それは考えすぎじゃん? なんの根拠があんの」
「根拠はないけど……」
リギはもどかしかった。自分の中の確かな実感から来る確信があるのに、それを説明できない。
「じゃあ逆に、なんで〈天蓋〉は動いてると思う?」
「さあ。俺にはわからないよ」
ミシャは帽子をかぶり直した。
「またなんかほかにわかったら教えて」
そう言い、手を振って作業に戻っていった。
リギは口を尖らせた。まあいいや。こうなったら、学校の先生に話してみよう。
地学の先生は、リギの話を聞くと、笑いだした。
「きみ、〈天蓋〉が生き物で、動いているってことを知らなかったの?」
「あ、はい」
「〈天蓋〉は、人間がこの星に来る前からこの星に生息しているんだよ。プレイン地区からの転校生とまったく話してないの? プレイン地区の空には、〈天蓋〉が増殖しすぎてしまったんだよ」
「そうなんですか。でも、なんでそんなことに」
「プレイン地区は、ここよりも岩山が多いからね。〈天蓋〉は岩山から生えてるでしょ」
「プレイン地区では、作物が育たなくなってしまったんですよね。それは〈天蓋〉のせいだったんですね」
「そうだよ」
「ここは大丈夫なんでしょうか」
「どうだろうね。今のところは大丈夫だけど。そのうち、国になんとかしてもらわなくちゃならなくなるかもね」
「国って、みんなのためになることをしてくれるんですか?」
「それも正直わからないね。国は、いつ来るかもわからない、ほかの星からの宇宙船をずっと待ってるって話だけど。いつか支援があるって言うけど、どうだか」
「ほかの星の人たちは、この星のことを忘れちゃったんですか?」
「そんなことはないと思うけど。でも、ずっとほかの星からの訪問者はいないし、連絡もない。この星の人々は、生活を維持することで精一杯で、科学技術レベルを上げることを国の目標として掲げられていても、進歩は本当にゆっくりだ。ほかの星も同じだとしても、不思議じゃないんじゃないかな」
「僕たちよりも進んだ科学技術を持った人たちは、ほかの星にもいないってことですか?」
「それもわからない。戦争後に人類圏が離散した過程で、いろいろな技術が失われてしまったらしいからね」
「そうなんですか……」
「てか、ちゃんと授業のノートを取りなよ。せっかく頭いいのに、もったいないよ。本気出せば、もっといい成績取れるでしょ?」
「頭よくないですよ」
「こんなことだから、この国の未来は暗いなあ」
先生は笑った。
〈天蓋〉が生き物で、動いているということが常識だったのに自分がそれを知らなかったことはショックだったけれど、知らなかった真実を感じ取れた自分自身のことは、素直にすごいと思った。〈天蓋〉に触った時に感じた不思議な安らぎの正体はわからないけれど、無意識下で本当のことがわかったのだ。
それがなぜなのかはわからない。でも、リギは〈天蓋〉のことが好きになっていた。リギは、毎日スケッチを続けた。
それからも、ミシャと何度も〈天蓋〉に登った。ミシャは、〈天蓋〉自体にはあまり興味がなさそうだったが、〈天蓋〉から飛び降りることにはなかなか飽きなかった。ミシャは、新しく生えてきた、あまり高くまで伸びていない〈天蓋〉からならリギも飛び降りられるんじゃないかと言ったが、リギは断り続けた。
低い〈天蓋〉は、何本も岩山から生まれつつあった。リギは、岩の上に立ち、視界にいくつも入る幼い〈天蓋〉を見て、不安と興奮という矛盾する気持ちを同時に抱えていた。
ミシャがなぜ〈天蓋〉から飛び降りたがるのかはわからなかった。尋ねることはしなかった。なぜか、こわかったのだ。それは訊いてはいけないのだと思った。多分、ミシャではなく、自分のために。
しかし、学校を卒業する頃になると、今までのように遊んでもいられなくなった。リギは、町の医者に弟子入りをした。母の治療をしたいと思ったからだ。ミシャは、新しく土地を開墾するチームに加わり、忙しそうだった。正直、リギは、ミシャが集団の中で上手くやっていけるのだろうかと心配していたのだが、その必要はなかったようだ。つまらない喧嘩をするとか、勝手に個人行動をしているということもないらしい。それもそうだ。子供の頃とは違うのだ。
ある日、町医者に怪我人が運ばれてきて、てんやわんやだった。脚から大量に出血した男に医院長は処置を施し、リギに次々と指示を飛ばすが、言葉が短すぎて、慣れていないリギは迷ってしまい、何回も怒鳴られてしまった。
処置がひと段落してから、もう少し運ばれてくるのが遅かったら失血死してしまうところだったと医院長は言った。ここには、輸血設備はない。
リギは退勤し、疲れ果て、足を引きずるようにして歩いた。空を見上げると、等間隔に空いた四角形の隙間から、ごく弱く日光が漏れ出ていた。空を編み上げているのは、増殖した〈天蓋〉だった。
あんな重傷者が運ばれてきたのは、リギが勤め始めてから初めてだったが、近頃、怪我人が増えていた。みな、〈天蓋〉破壊工事にかかわっている人々だった。
数か月前から、増えすぎた〈天蓋〉を少しずつ破壊する作業が行われていた。そのための重機を作るのに時間がかかったらしく、その間にも、〈天蓋〉は互いに絡み合い、日光を削り続けていた。機械が完成し、急いで作業を始めたものの、大規模な工事に慣れている人などいない。普段は、農地や市場などで働いている人々だ。せいぜい、建物の建設にかかわったことのある人が一部いるくらいだった。
地上から見上げただけでは、作業の様子も重機の影も見えない。ただ、そこでは確実に切断と運搬が進んでいるはずだ。
〈天蓋〉の作る網目模様は、規則的かつ複雑、端正でいて禍々しかった。大きな目を持った何者かが、とんでもない集中力を持って描いた線画のよう。絡み合い、重くなったせいか、リギが子供だった頃よりも低くなっているように思える。
以前は毎日〈天蓋〉のスケッチをしていたが、最後にスケッチをしたのは、数か月前だ。一度のスケッチにかかる時間と労力が増え続けている。
なぜこんな模様を描くのだろう。どうして人間にとって不都合なほど空を埋め尽くしてしまうのだ。なにが目的? なにを意味している?
その時、さらに空が暗くなった。なにかがゆっくりと落ちてくる。それが日光を遮っているのだ。ということは、かなり大きい。
リギは、それをずっと見ていた。辛うじて、それが赤いということがわかってきた時、それの正体の目星はついた。どんどん大きくなっていく。
「危ないから離れろ!」
声が聞こえ、リギは我に返り、大きくなっていく影の外に出た。
「ミシャ」
小走りに近づいてくるのは、作業服姿のミシャだった。
「久しぶり。どうしたの?」
「どうしたのじゃねえ。帰ろうとしてたら、ぼおっと空を見てるお前が目に入ったんだよ」
リギの背中に、大量の土ぼこりがかかった。振り返ると、〈天蓋〉の破片が地上に落ちていた。二、三人は軽く押しつぶされそうな大きさだ。
「工事のやつがしくったんだな」
ミシャはため息をつく。
「まあ、みんな普通によけるから大丈夫でしょ」
「リギみたいにぼおっとしてるやつじゃなければな」
リギは笑う。
「俺、工事にかり出されるかもしれない」
ミシャの言葉に、リギは目を丸くした。
「〈天蓋〉破壊工事に?」
「うん。人手が足りないんだってさ」
「そうなんだ……」
「俺だって嫌だよ」
ミシャは、リギの表情を見て言う。
「でも、逆らえる感じじゃないんだ。うちの畑の世話があるって言っても、日光が遮られてちゃ畑もだめになるだろうって」
「まあ、そうだよね。今のところは、畑は大丈夫なの?」
「いや、だめっぽい。去年の四分の一くらいの収穫になりそうかな」
「それはきついね」
「前みたいに分けてあげられなくてごめん」
「いやいや」
「お母さんの具合はどう?」
「ずっと同じような感じ」
「ずっと一人で看病してんの?」
「うん。近所の人が手伝ってあげようかって声かけてくれたけど、所詮他人だからさ、信用できなくて」
「そうか」
別れ際、ミシャは冗談でもないような口調で言った。
「上には気をつけろよ」
「あのさ、本当に工事に加わるの?」
「うん。そんなに〈天蓋〉が壊されるのが嫌か?」
「そうじゃなくて、ミシャが怪我しないか心配だから」
「俺は大丈夫だよ」
ミシャは笑って手を振り、道を歩いていった。その背中は、前に会った時よりも細くなったような気がする。自分も同じかもしれないけれど。リギは、家の棚になにも食料がないことを思い出し、ため息をついた。今日は我慢して、明日市場に行こう。なにかあればいいのだが。
地上に運ばれてきた巨大な破片を皆が囲んでいた。〈天蓋〉の一部は、一枚岩に似ていた。その端が持ち上がり、ややねじれている格好になっている。透き通るような灰色。
「またどんどん同じようなのが運ばれてくるんでしょ? どこに置くの?」
野次馬の中の一人が言った。リギも、その中の一人だ。これを運んできた作業員と見物人たちが混ざっている。
「岩山の捨て場所はいっぱいになりつつあるんだよ」
答えた作業員の隣には、ミシャが立っている。
「まだ空はあんなにふさがれてるのに?」
「増殖を防ぐ手立てはあるのか?」
「これって本当に生きてるの?」
「増えてるんだから、生きてるんだろ」
「誰かがこっそり作ってるんじゃないの?」
「まさか」
くだらない議論だとリギは思った。破片の向こう側にいるミシャは、疲れているようにも見える。話しかけるとみんなに聞こえるから、話しかけられなかった。一度目が合ったが、お互いに無表情だった。
リギは膝をつき、〈天蓋〉に手を当ててみた。以前感じた、不思議な安らぎは少しも感じられなかった。冷たくもなければ、温かくもなく、つるつるしているが、滑るほどではない。
リギはしばらく、じっとして心の中だけで探るように〈天蓋〉に触れていたが、諦めて立ち上がった。なにも感じない。自分は超能力者でもなんでもない。子供の頃は、無意識下で、自分には特別な力があると思い込んでいたのかもしれない。よくある子供の妄想の一種だ。もう大人なのだから、そんな考えは捨てないと。
ミシャはまだ仲間と一緒に残っていたけれど、リギは立ち去った。
医院の窓から荒野を見ると、遠目にこんもりとした影が見える。〈天蓋〉の残骸でできた小山だ。気がつけばそれなりの大きさになっているが、空を見上げても、違いを見つけることはできなかった。このままだと、地上にゴミが増え、空はそのままということになるのだろうか。
ある日、ミシャが医院にやってきた。病室に入ってきたミシャ、布を巻いた手を見て、リギは器具を洗っていた手をとめた。
「ミシャ。どうしたの?」
「手をちょっと切った」
医院長に、座るように促されたミシャは言う。
「大丈夫だって言ったんですけど、先輩に、診てもらうようにと言われて」
医院長はミシャの手の布を外した。布は赤く染まっている。
「大丈夫なものか。縫わないとだめだ」
リギが道具を用意し、医院長がミシャの傷を縫った。
「どうして怪我を?」
医院長がぶっきらぼうに尋ねる。
「重機のタイヤが引っかかって動かなくなってしまって、引っかかった〈天蓋〉の破片を動かそうとしたら、切ってしまいました」
「〈天蓋〉の工事現場では、手袋も使わせてもらえないのか」
「人数が多いですから」
「その割には、仕事の成果は出ていないようだがな」
医院長は感じの悪い人だが、その意見には、リギも内心で同意するしかなかった。ミシャも返事をしなかった。
「リギ、またな」
治療が終わり、ミシャは帰っていった。
「あの人はきみの知り合いなのか?」
医院長がリギに話しかけてきた。珍しい。
「はい」
「そうか」
「幼なじみです。どうかしましたか?」
「いや、疲れていそうだと思っただけだ。工事現場は過酷なんだな」
「そうですね……」
カルテに書き込みをする医院長の表情をこっそりうかがったが、なにも読み取れなかった。
窓を叩く音にリギは驚き、手元の自作の紙から顔を上げた。
リギの部屋の窓の外にいるのは、ミシャだった。リギは椅子から立ち上がって手を伸ばし、窓を開けた。
「どうしたの?」
「別に。たまたま近くを通ったから」
「え?」
こんなことは初めてだった。一番仲よくしていた時期でさえ、用がないのにミシャが訪ねてきたことはなかった。
「手、大丈夫?」
「ああ、大丈夫。あの人はいい医者だね」
「仕事は休んでるんだよね?」
「うん。さすがに休ませてくれた」
「なんか顔色悪いよ。本当に大丈夫?」
「ここは特に日当たりが悪いから、そう見えるんだよ」
「なんかあった?」
「なにも。なに書いてたの?」
「別に」
「見せろよ」
リギは渋々、紙をリギのほうへ差し出した。
「〈天蓋〉のスケッチか。まだ描いてたのか」
ミシャは驚いたようだった。
「今日たまたま、久しぶりに描いてみようかと思って」
「細かいところまで、すごくよく描けてる。才能だな」
「そうかな。複雑すぎてよくわかんないところもあるけど」
「リギは、ずっと〈天蓋〉に登ってないよな?」
「ミシャと一緒じゃない時に登ったことなんてないよ」
「知ってるか? 今の〈天蓋〉は、音がするんだよ。ぎぎぎィって。〈天蓋〉が動いてる音。〈天蓋〉同士がこすれてるんだ。そりゃあ恐ろしい音だよ。時々鳴るんじゃなくて、ずうっとしてるんだ。頭がおかしくなりそうだよ。いきなり素早く動いて、挟み殺されるんじゃないかと想像してしまう時もある」
「そんなことは起こらないよ。疲れてるんだね」
「どうして起こらないって断言できる? きっと、〈天蓋〉は、人間を殺すためにあるんだ」
「落ち着いてよ。そんなわけないじゃないか。〈天蓋〉は、人間がこの星に来る前からこの星に存在してるんだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「どうして俺たちを苦しめるんだろう」
「苦しめようとしてるわけじゃない。ただそこにあるだけだよ」
「リギは昔、〈天蓋〉には意思があるって言ってたよな?」
「よく覚えてるね」
「意思があるとしたら、なにをしたいんだろう」
「人間だって、なにをしたくて生きてるのか、わからないじゃないか」
「いや、なにか意味があるはずだよ」
ミシャは、リギのスケッチをじっと見つめた。
「これ、もらってもいい?」
「え? まあ、いいけど。なんで?」
「よくできてるから。お母さんの具合はどう?」
「え? ああ、相変わらず、あんまりよくない」
「そっか。早くよくなるといいな」
「うん……」
ミシャは、リギのスケッチを手早く丸め、手を振って立ち去った。
数か月後、リギは目を覚まし、ベッドから飛び起きた。部屋を見回し、目をしばたたく。鼻から息を吸い込んでみる。妙に明るいが、火事ではないようだ。
窓から空を見上げた。〈天蓋〉の隙間から、光の柱が煌々と差し込んでいた。
やはり、工事の成果は出ていたのだ。
夜中に、空気が震えるような音がし、リギは飛び起きた。
「リギ!」
母の叫び声がして、リギは母の部屋に走った。
「どうしたの? なに?」
パニックになりかけている母をリギはなだめた。
「わからないけど、大丈夫だよ。なんか遠くからの音みたいだ」
「なんなの?」
「寝てて。暗いから。危ないから。寝ててよ」
ランプに火を入れ、窓に顔を近づけて外をうかがってみたが、いつも以上に見えにくかった。窓が汚れているようだ。こんなに埃まみれだっただろうか。窓を開けてみたが、やっぱり暗くてなにも見えなかった。
いつものように医院へ向かう道中、畑の真ん中に人々が集まっていた。
差し渡し数十メートルの〈天蓋〉の一部が、瓜畑を押しつぶしていた。青臭いにおいが鼻をつく。
「これが家の上に落ちてきたら、どうなってたか」
そう言ったのは、ミシャの母だった。すぐ近くには、ミシャの家がある。
風への対策で、家は横からの衝撃には強くできているが、上からの衝撃はあまり想定していないはずだ。木と紐だけでできている家も多い。
〈天蓋〉破壊作業員を責める言葉を口にする人々がいる中で、ミシャの兄が言った。
「でも、やっと工事の成果が出てきたところだよ。怪我人はいないわけだし、責めるのはやめようよ」
「まあ、確かにそうだが」
ほかの人々が言う。
「最近明るくなってきたよね」
「この調子で行けば、畑の収穫も上がるかもしれない」
歩きながら人々の集まりを眺めていると、後ろから声をかけられた。
「リギ」
作業服姿のミシャだった。
「あ、久しぶり。あのさ、昨日の音聞いた?」
「ああ。あれが落ちた音だよ」
ミシャは〈天蓋〉の一部を指さしてから、挨拶も早々に言った。
「これから一緒に〈天蓋〉を登らないか?」
「え? これから仕事なんだけど」
「そうだよな。じゃあいいよ」
「わかった。行くよ」
リギは思わずそう言っていた。
「なんで落ちちゃったんだろうね」
リギは、居心地の悪さを紛らわせたくて言った。乗っているのは、ミシャの運転する重機。作業員以外の人が勝手に乗っていいものなのかと当然尋ねたけれど、ミシャは大丈夫だと一言返すだけだった。ミシャはごついハンドルを慣れた手つきで操作する。
「誰かのミスだよ」
運転席には、様々なレバーやボタンがついているが、明らかに摩耗している部分は、ひとつのレバーとひとつのボタンのみだった。途中で、重機がなにかに引っかかると、ミシャは重機をバックさせ、レバーを操作し、転がっていた〈天蓋〉の塊に、重機から伸びた長い首のようなものの先端を当て、ボタンを押した。すると、窓越しにも聞こえるジュッという音がして、〈天蓋〉の塊が泡になった。
「いつもこうやって作業してるんだね」
「うん。簡単なもんだよ。重機と接触したり、破片を手で運ぶ時に怪我をするやつとかはいるけどね」
ミシャは、まっすぐ登るのではなく、斜めに進んだり、折れて別方向へ行ったりした。絡み合った〈天蓋〉は、実用性のない道のように見えなくもなく、ミシャにだけ見える道しるべでもあるみたいだった。
「どこへ向かってるの?」
リギは思わず、不安のにじんだ口調で言った。
「上だよ」
「どうしてまっすぐ進まないの?」
「ほかのやつに見つからないようにだよ」
言われてみれば、ほかの重機や作業員の姿は見えなかった。
ミシャは迷いなくルートを選び続ける。ずいぶんと時間が経った。長らく見たことのない強い光に照らされ、幅数メートルから数十メートルの赤や黄色や黒みがかった青の〈天蓋〉が目に焼きついてくるようだった。
「どこまで行くの?」
「行きたいところがあるんだよ。ほかには誰もいないところ」
「この辺もほかの人はいないみたいだけど」
「絶対誰も来ないところへ行きたいんだ」
リギは黙ったが、正直不安だった。ミシャの様子がおかしい気がする。それに、あまりに長い時間がかかりすぎている。もう町からはずているのではないか。
さらにしばらくして、やっとミシャは口を開いた。
「この辺で降りよう」
降りたところは、もう一つの地平のようだった。リギは圧倒された。〈天蓋〉でできた地平線。子供の頃に見た景色とはまるで違う。燦燦と降り注ぐ光。目を細めていないとだめだ。ここ数年間で、光に対する耐性が失われたのだろう。
ミシャを見ると、平気そうな顔をしていた。
「……すごいね」
リギはやっとのことで言った。ミシャはうなずく。
「すごい増殖具合だろ」
足を踏み出そうとしたリギをミシャはとめる。
「そっちのほうは隙間があるから危ないよ。こっちは大丈夫」
確かに、ミシャが手招いたところは、まるで隙間がなかった。下が見えない。
ミシャは無造作に腰を下ろし、リギも微妙な距離を取って座った。
「ねえ、どうしたの?」
リギは、心配と戸惑いを精いっぱいこめて言った。
「前にさ、〈天蓋〉には意思があるって言ったじゃん?」
ミシャはさらりと言う。
「うん。でもそれはなんの根拠もなくて」
「それは合ってるんだよ。俺、わかったんだ」
ミシャは確信に満ちた様子だった。
「〈天蓋〉は、模様を描くために生きてるんだよ」
「どういうこと?」
リギは眉をひそめる。
「リギが描いた絵、それをずっと見て考えたんだ。地上から見た〈天蓋〉でできた模様は、偶然が作ったとは思えない。〈天蓋〉には、模様を描く習性があるんだよ」
「それはそうかもしれないね」
「でもそれはなぜなのか。俺たちの感覚では無意味でしかないけど、大きな視点で考えると、意味があるんだよ。そもそも、なんで生き物が生きてるかっていうと、情報を増やすためなんだ」
リギは、妹のリアの言葉を思い出した。「どうして生き物は生まれたの?」
「宇宙はどんどん乱雑になってるって、学校で習っただろ」
ミシャは熱心に話し続ける。
「それは宇宙がそういう風にできているからであって、生き物も、その宇宙のシステムのひとつだと考えると、生き物は、宇宙を進めていくため、情報を増やして、乱雑さを増やしていくために存在してるんだよ。情報を効率的に増やしていくためには、ある程度の秩序が必要だ。だから、人間は文明を築き、〈天蓋〉は法則性のある模様を描いているんだよ」
「ごめん、なに言ってるのかわからない」
「白い紙に情報を書き留めるとすると、いろんな大きさの字でめちゃくちゃに書くより、決まった大きさの字で端からしっかり書いていく方がたくさん書けるだろ。情報イコール乱雑さだから、秩序は乱雑さを助けるってことになる」
「そうだとして、それがなんなの?」
「人間の文明は、いろいろな情報を生むだろ。言葉やら物の作り方やら、とにかく、生きていくうえでのいろいろなことが、たくさんの情報を生むんだ。でも、〈天蓋〉がやっているのは、増殖して模様を描くことだけ。宇宙の法則に照らし合わせると、人間と〈天蓋〉の生存競争は、人間が勝つに決まってるんだ」
「ちょっと待って。〈天蓋〉がやっているのが模様を描くことだけって、どうしてわかるの? 俺たちが気づかないなにかをしてるのかもしれないじゃん」
「〈天蓋〉が人間よりもたくさんの情報を生み出してるとはとても思えないよ」
「だから、〈天蓋〉よりも人間のほうが価値があるってこと?」
「そういうことじゃないよ!」
ミシャはこぶしを振り上げる。
「俺がやっている作業も、宇宙のシステムのひとつなんだよ。俺がやっている破壊作業は、あらかじめ決定されている結果を現実化するためだけの、それだけの意味しかないんだ」
「そんなことないと思うよ」
「どうしてわかってくれない? どこが理解できないんだ?」
「あらかじめ決定されている結果なんて、あるわけないよ」
「いや、この宇宙のすべてのことは、決定されてるんだよ。宇宙に法則があることが、その証拠だ」
「ミシャ、きっと疲れてるんだよ。だからそんな変なことを」
「俺はずっと考えてたんだよ。疲れてたら、考えたりしない」
リギは、ミシャのしっかりとした目を見た。論破できそうにない。納得したふりをするしかなさそうだ。
「わかった」
「じゃあ、一緒に死のう」
ミシャは、リギを見て言った。
「え!?」
一瞬の強い驚きがあったものの、冗談だとはこれっぽっちも思わなかった。
「個人の存在の意味なんてないのがかわかっただろ。死のうよ」
「ちょっと待って。冷静になろうよ。ミシャには家族がいるじゃないか」
「俺がいなくても大丈夫だよ」
「でも悲しむだろ」
「ちょっとの間だけだよ」
「どうしてそんなことがわかるんだよ!?」
「全部意味がないんだよ。宇宙の歯車の一個でしかないから。俺とかお前とかじゃなく、人間という存在が、だよ」
「だとしても、歯車の一個の一部が無価値なんてことにはならないだろ」
「まったく創造性のない歯車の一個の一部だよ」
「だったらミシャ、もしどう違ってたら満足なんだ?」
「仮定の話はできない」
「ミシャ、そんなにつらかったの?」
「つらくなんかないよ」
「だったらなんで死にたいの? ミシャには優しい家族がいて、僕の父さんや妹みたいに死んでないし、僕の母さんみたいに病気にもなってないし、ミシャ自身も健康で、キナみたいに暴力に耐えてるわけでもないし、かっこいいし、やる気を出せばいろんなことができるのに、どうしてそんなこと言うの?」
「俺よりも、リギやキナのほうがかわいそうだって言いたいの? かわいそうじゃないのに死にたがるのは甘いって?」
「そうじゃないけど。でも、ミシャはもっと自分が持ってるものとか可能性に目を向けるべきだと思うんだ」
「リギに言われたくないよ。もっと楽に楽しく生きられるはずなのに、自分からいろんな人を遠ざけてる」
「僕が?」
「そうだよ」
「ともかく、死ぬなんて言わないでよ」
「俺の話、本当にちゃんと聞いてた?」
リギが黙っていると、ミシャは立ち上がった。
「遠いところまで付き合わせて悪かったな」
「もう帰ろうよ」
「初めは、家族みんなで死のうと思った。でも失敗して、やっぱり誰かに話してからにしようと思った。それだけ。リギがわかってくれるとは、本当は思ってなかったよ」
ミシャは微笑んだ。
「わかってくれなくても、怒ってないから、気にしないで」
「僕も怒ってないよ」
「ちょっと下に降りたら、ほかの人がいると思うから、下まで送ってもらって」
「え? ミシャは?」
「俺はこっから降りるから」
「一緒に戻ろうよ」
ミシャは、軽やかに弾むように、リギから離れた。先ほど、隙間があると言ったほうだった。
ミシャはリギに背を向けたまま、隙間に吸い込まれるように落ちて行った。リギは、足元に気をつけながら、その隙間に近づき、膝をついた。
見下してみたが、自分の影が邪魔になって、よく見えなかった。位置をずらしてみる。
下には、きらめきが見えた。地面があんなに光っているはずはない。そして、ミシャの頭。足を下にして落ちていく。
血の気が引き、リギは別のもっと広い隙間を探して、再び見下した。やはり、下は海だった。浜を探したが、どこにも見えなかった。
置き去りにされた。そう思った。僕につらい思いをさせて自分のしたいことをして、結局、僕のことなんて少しも考えてくれなかった。親友だと思っていたのに。
重機に乗り込み、自分にとってのすべてを壊してやろうと思った瞬間は、傷つき、不愉快で、悲しくて苦しかった気持ちが大きかったが、いざ、〈天蓋〉の根元に取って返し、〈天蓋〉を根元から切断して町を押しつぶしてやろうとした時、どうしてこれを早く思いつかなかったんだろうと思った。
母の顔が思い浮かび、穏やかな気持ちになった。僕が苦しみから解放してあげるから。壊して綺麗にして、終わりにして、楽になる。
自分の人生も、もうすぐそうなる。昔だったら、僕は死刑になっていたかもしれない。今はそんな制度はないから、無駄に長い時間を過ごした。自分のせいであっさりと死んでしまった人たちが羨ましくも思える。何人だったかも忘れたけれど。
過去を振り返るのも終わり、ミシャが言っていたことを吟味するのも終わった。やっと理解できた気がする。僕のしたことにも、意味があったってことなんだね。
そう考えると、悪くない人生だった。つらかったけれど、結果的にはよかった。本当によかった。
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