肉のシャイロック

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梗 概

肉のシャイロック

“One pound of flesh, no more no less.
No cartilage, no bone, but only flesh.”
「1ポンドきっかりの肉を、骨も軟骨もない肉だけを」

今年で55歳になる青崎和人は、シェイクスピアの「ベニスの商人」の文庫本を開き、読んで聞かせていた。
「だからお前の名前は、シャイロックだ」
 シャイロックと名づけられたそれは、彼の体にくっついている1ポンドの肉である。

 1ヶ月くらい前から下腹部のたるみが気にはなっていた。日本酒3合を5年以続けて飲んでいる人を常習飲酒家というらしいが、青崎は間違いなくそれだった。深夜にラーメンは食べるし、野菜は嫌いだし、運動もほとんどしないから、内臓脂肪がかなり蓄積している。数年前から定期健診で腹部超音波検査や採血を受けると、脂肪肝があって肝臓の数値がよくないと指摘されるのが常である。本当は毎日ジムに行ったり、アルコールを減らしたほうがいいんだろうが、営業という仕事を口実にそんな気はまったくなかった。そもそもこつこつ継続してやるようなことが苦手なのだ。
ところが1週間前、腹のたるみの上に目が出来てまばたきをはじめ、昨日はついに鼻と口ができて話すようになった。

 大学を卒業して大手電子機器メーカーに就職した青崎は、33年間勤め上げて営業課長となり、この春、役職離脱して関連会社に出向となった。リタイヤまであと10年、35歳のとき結婚紹介サイトで知り合った妻と、平和にのんびり過ごしていこうと思っていた。そんなある日、シャイロックが現れたのだ。

 シャイロックと名づけたからだろうか、彼は強欲かつ冷酷で、どんなこともロジカルに判断する生き物だった。どちらかというと控えめでナイーブな性格の青崎は、シャイロックにそそのかされておにぎりを食べ、毎晩日本酒で晩酌をした。炭水化物によって血糖値が上昇すると、血糖値を下げるホルモンであるインスリンが大量に分泌される。インスリンは余った糖を、シャイロックの大好きな中性脂肪にしてくれるのだ。その代わりに、シャイロックは夏の海岸では腹筋のシックスパックに、夜のラブホでは股間に移動して、青崎に自信と勇気を与えてくれた。腹の肉は体型を管理できないおやじのシンボルではなく、彼の強みになったのだ。

 ところが半年後、青崎は会社の健康診断で精密検査を勧められ、人間ドックでステージ4の肝臓癌であることが判明する。既に病巣を切除することは不能で、半年は生きられないだろうと告知された。
 そんなときも、シャイロックはどこまでも論理的だ。気休めの民間療法などに頼ってはいけない。抗癌剤を投与し、腫瘍の進行を少しでも遅らせて、人生のアディショナルタイムを1分でも30秒でも稼いでいこう。それが難しければ、緩和ケアを優先させて、最後まで楽しく生きようじゃないかと青崎を元気づけるのだ。

 青崎はもはや死は避けられないと悟り、残り僅かな日々と妻と過ごそうと、近場の温泉に出かけることにする。ゆっくり湯に浸かっていると、シャイロックは自分と入れ替わることを提案してきた。シャイロックが青崎に、青崎が腹の肉になれば、癌を治してやるというのだ。このまま最後を迎えるべきか、脂肪になってまで生き続けるべきか…。

 3ヵ月後、青崎は寝室で不快感と異物感を訴えて動けなくなり、病院に救急搬送された。同時に、シャイロックの色が赤黒く変化し、硬く、動かなくなる。検査をすると、シャイロックは脂肪肉腫という軟部組織の癌であった。だが不思議なことに、そのほかの臓器から癌の姿はきれいさっぱり消えていた。病院で青崎の腹から1ポンドの脂肪肉腫が切除される。

 腹に一文字の手術痕を残して、シャイロックはいなくなった。それから1年、青崎は健康な体を維持するための食事と運動のメニューを書き出し、お菓子やジュースをやめ、間食も取らなくなった。毎朝散歩し、運動の記録はスマートウォッチにログを取っている。いまさら仕事に励んでも出世するはずもなく、付き合いの飲み会も断っている。健康になったことは喜ばしいのだが、妻は気づいている。昔の夫がいなくなってしまったことを。

文字数:1702

内容に関するアピール

 誰しも中年になれば、腹の肉となんとか折り合いをつけて、生きていかねばならない。なくなってしまえばいいのにと、ボート漕ぎ運動や、電気刺激の腹筋ベルトを試してみても、そう簡単にはオサラバできない。カロリーを減らそうにも、夜の付き合いは仕事の一部だし、ストレス解消に酒もやめられない。

 シェイクスピアが描いたシャイロックは、感情を表に出さず、どこまでも論理的に自分の行動を推し進めていく人物である。それゆえに立場の違うものと鋭く対立し、相手の力が強大であればあるほど、相手ではなく自分のロジックに敗北してしまう。

 人生の目標もなく、日々漫然と暮らしている青崎は、下腹についた肉のシャイロックと共に窮地に追い込まれる。シャイロックは1ポンドの脂肪に過ぎないが、彼は論理的に行動し、青崎に生きる活力を与え、その生命を救うために自死を選択する。犠牲もまた論理的な帰結である。青崎は、シャイロックとの交渉を通じて成長し、昔の自分ではないものに変わることができる。

文字数:425

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肉のシャイロック

 大学を卒業後大手電子機器メーカーに就職して、私の会社人生も今年でちょうど33年目を迎える。4月には55歳になるので、会社の規定で役職離脱して関連会社へ出向することになった。ちょうど1年前の4月、同期で最後に部長になってからの1年間は苦痛の日々だった。思ったように仕事もできず、他人を恨んで文句を言ったり、「もう駄目だ」と情けない声で泣き言を言うことすらあった。夜中、悪夢に声を上げたことも一度や二度ではない。しかしもう大丈夫だ。断崖の上から広々とした大海原を望みながら、吹き付ける潮風をものともせず、ふわりと舞うカモメのように生きていこうと思う。この歳での役職離脱はこれ以上の出世はないという会社からのシグナルだし、元のように仕事にすべてを預けることはもうないだろうが、今はそれも含めて私の人生だったと晴れ晴れとした気分でいる。リタイヤまでの10年、定年後も続けられる新しい趣味でも見つけてのんびり過ごしていくのがいいかもしれない。35歳のとき結婚紹介サイトで知り合った女性と結婚したものの、自分自身の煮え切らない性格が災いして5年後に離縁状を突きつけられて、未だ気ままな独り暮らし。新婚の時に購入した4LDKのファミリーマンションは無駄に広すぎるけれど、ローンは今年で完済だ。これからは自分の生活のペースを変えていかねばならないだろうし、気持ちの整理も必要だ。残りの人生は、激流を乗り切って行き着いた河口の淀みではなく、ここから大きな海が広がっているのだ。そう考えて、出向前の年度末にもかかわらず、ひとりでイギリスにやってきた。海外旅行は入社10年勤続表彰で5万円の旅行券をもらって訪れたハワイ以来のはずだから、これが20年ぶりだ。

 ロンドンでは、日本のパスモにあたるオイスターカードを券売機で購入し、バッキンガム宮殿や大英博物館、ナショナル・ギャラリーといった観光地巡りをした。イギリスは白人ばかりだと思い込んでいたが、ロンドンの街は人種のるつぼで、アジア人がひとりで歩いていても人目を引くことはない。イギリス人は親切で、嫌な思いをすることもほとんどないし、テロが頻発する恐ろしい大都市という陰気なイメージは勝手な思い込みだと反省させられた。敢えて難点をあげれば電車がよく遅れはするけれど、10分も待っていれば動き出すし、周囲にやきもきして文句を言う人もいない。考えてみれば、常に他人のすることを監視して、サービスの質に厳しい日本のほうが異常なのかもしれない。ひとの目を気にしなくていい社会もいいものだなと、少し気に入っている。
 セントポール寺院から歩行者専用の吊橋であるミレニアム橋を通ってテムズ川を渡ると、そこは現代美術の殿堂テート美術館だ。真昼の太陽に照らされて、ガラスと金属でできた橋がキラキラと輝いている。ロンドンの美術館は「FREE AND OPEN FOR ALL」で入場無料のところが多い。ダビンチも、モネも、ゴッホも、時間ができた時にふらりと出かけてベンチに腰掛け、ずっと眺めていられる。特に予定もない旅行者にとってこんなにありがたいことはない。テートで開催中のピカソの特別展を一周してから、隣接するグローブ座に向かった。シェイクスピアが自身の芝居を上演した劇場を復元したグローブ座では、16世紀当時と同じ条件でシェイクスピア劇を見ることが出来る。建物は舞台と座席の上だけに屋根がついた円形の屋外劇場で、中央部分のヤードと呼ばれるアリーナは文字通りの青天井だ。もともと近所の石鹸工場からでたヘーゼルナッツの殻を、灰や土と混ぜ合わせて床にしていたそうだが、今はコンクリートで固められている。ヤードは立ち見席にもなるのだけれど、立ち見にもルールがあって、疲れたからといって座ってはいけないし、雨が降ったら傘を指してもいけない。2時間を超える演劇を立ちっぱなしで見るのは、いくらファンだと言っても大変だ。グローブ座にやってきたのは観劇のためだ。劇場に隣接するボックスオフィスの窓口に並び、午後2時開演の「ヴェニスの商人」の1階座席を購入した。料金は40ポンド。5ポンドの立ち見席もあったけれど、さすがに2時間以上ずっと立ち続ける自信がなかった。
 敷地の一角にあるスワンカフェでアールグレイを飲みながら時間をつぶし、ちょうど開演30分前に、尻に敷くクッションを2ポンドでレンタルして、席についた。グローブ座は舞台と客席を仕切る幕がないので、シーンごとに役者たちが入れ代わり立ち代わり舞台に登場しては芝居を繰り広げる。役者が観客に呼びかけることも多く、円形劇場ということもあって、会場の一体感を感じやすい。開演後1時間半ほどして、舞台上では、黒い帽子と黒いマントに身を包んだユダヤ人のシャイロックが声を張り上げた。

“One pound of flesh, no more no less. No cartilage, no bone, but only flesh.”
「1ポンドきっかりの肉を、骨も軟骨もない肉だけを」

 演目に「ヴェニスの商人」を選んだのは偶然ではない。私は自分の腹についた1ポンドの肉をシャイロックと名付け、共同生活を送ってきたからだ。

 私が最初に腹の異常に気づいたのは、1年前のことだった。その前から、年齢相応に腹のたるみが気にはなっていた。日本酒3合を5年以続けて飲んでいる人を常習飲酒家というらしいが、私は間違いなくそれだった。深夜にラーメンは食べるし、野菜は嫌いだし、運動もほとんどしない。会社の定期健診で腹部超音波検査や採血をすると、内臓脂肪がかなり蓄積しており、脂肪肝があって肝臓の数値がよくないと指摘されるのが常である。本当は毎日ジムで体を鍛えたり、アルコール摂取量を減らしたほうがいいんだろうが、営業という仕事を口実にそんな気はまったくなかった。そもそもこつこつ継続してやるようなことが苦手なのだ。ところがその腹のたるみの上に目が出来てまばたきをはじめ、その翌日には鼻と口が現れた。目は見えているようだが、鼻で呼吸はしないし、口はあるが消化器官はつながっていないので、モノを食べることはない。だがそのたるみは喋りだし、その日から腹の肉との共同生活が始まったのだ。

 腹に人格のある肉がくっついていては、先の生活が思いやられるはずだが、子供のいない私にとって、突然できた扶養家族との会話は新鮮でもあった。シャイロックと名づけたからだろうか、彼は強欲かつ冷酷で、どんなこともロジカルに判断する生き物だった。普段から朝食を食べる習慣がなかった私に、起きて早々シャイロックが噛み付いた。
「おい、朝から何も食べないとはどういうことだ」
いちいち人の生活スタイルを改めようと、上から目線の発言にはいらいらさせられる。
「朝は食べる気がしないんだよ」
「そのまま出かけていって、仕事に集中できるのか? 頭もよく回らないし、健康にもよくないぞ」
「朝食を食べると、頭が働くとか、太りにくくなるってのはよく聞くけどね。でも前の晩遅くまで飲んでるから、食べられないんだよ」
「米を炊いたり、パンを焼いたりしないのか? 卵とかソーセージとか、シリアルだけでもいい」
「朝っぱらから、そんな時間ないし、起きてすぐ食欲わかないし」
「病気の予防にも、まとめ食いしないで一日三回食べるべきだろう。朝食を抜くと昼食後の血糖値が上がりやすくなるし、朝食をとれば体内時計がリセットされて、肝機能のリズムを整えてくれる。糖質を取れ。時間がないのなら、おにぎりがいい」
 あまりにもうるさいので翌日から、シリアルを買ってきて食べることにした。シャイロックは、私がシリアルに牛乳をかける音を聞くと、目をキラキラさせて喉を鳴らすのだ。
「そのフルーツ入りのグラノーラは最高だな。オレンジと黄色のドライフルーツがさくさくという歯ごたえの間に優しさを運んでくる」
 自分で食いもしないのに、よくも知ったようなことを言う。だがシャイロックの饒舌に、次第に食欲がわき、朝食をスプーンで一杯、二杯と口に運ぶようになった。

 シャイロックは寒がりだった。山野に早春の匂いが満ちるようになってきても、気温が10度を下回る日は目立って口が重くなった。春は日本で一番過ごしやすい季節だが、それでも周囲に人の気配がないことを感じとるや、
「なあ、結構寒いよな」と、シャツの下からしばしば話しかけてきた。腹巻でもしてやればたいそう喜ぶんだろうが、脂肪をそこまで甘やかすこともあるまい。
「脂肪のくせに寒いのか?」
「ああ、脂肪細胞は他の細胞に比べて低温に弱いんだよ。キンキンに冷やして、脂肪細胞を壊すダイエット法があるくらいだからな」
「脂肪ダイエットって言えば吸引だと思うけど、それじゃないやつ?」
「低温脂肪分解法って言うらしい。テレビでやってた。脂肪吸引っていうのは腹に穴を開けて吸い取るけど、それは外科的に切ったり貼ったりしないから、人気らしいぞ。それに他の皮膚細胞には害を及ぼさない」
 私はシャイロックの言うことに思わず声を上げて笑った。BGMがわりにつけているテレビから果敢に情報を収集していたとは頭が下がる。
「また、変なことを言うもんだな。自分が溶けて無くなる方法を俺に教えるなんて」
「でも、お前も痩せたいって思うことはあるだろう」
「あるけど、そういう不健康な痩せ方には興味ない」
「運動でもして脂肪を減らすのか?」
「理想はそうだね。でもその根性はない」
「だと思った。運動出来るようなら、腹にこんな脂肪はつかない」
「ちなみに、その冷やして分解した脂肪はどこへいくの?」
「尿や便で体外に排出される。1時間冷やせば2割くらいは消えてなくなる」
「なるほど、すげーな」
「腹の脂肪分解は、美容業界で唯一、女性患者より男性患者が多いジャンルらしい。お前もやったらどうだ」腹の肉はいじわるそうにきいた。
「今さら、腹が凹んだとしても意味ないよ。痩せて何をするってんだよ」
「健康になれるさ。それに今から痩せられるんなら、人生をやり直せるってことだ」

 シャイロックはお喋りだったが、日中、他人の前で喋りだすことのないよう、あらかじめいい含めて置いたので、職場では静かでいてくれた。だが、家に帰った途端にあれこれと健康状態について質問を浴びせてきた。真夜中の12時を過ぎてニュースを眺めながら何をするでもなく、いたずらに時間を過ごしていると、シャツの下から私を責めるのだった。
「お前は、毎日こんな深夜に寝るなんて実に不思議な生き物だな」
「まあ、不思議なのはそっちのほうだと思うけどね」
「もう少し早く寝られないのか?」
「いいか、7時や8時から飲み始めて10時まで飲むだろ。それから家に帰るまで1時間。ニュース見て、風呂入って12時だ。ほら、無理だろ?」
「それで6時に起きて、よく夜まで仕事していられるな? 昼寝でもするのか?」
「昼寝はしない。でも、昼間はすげー眠いよ」
「それはダメだ。そんなんじゃ疲れが取れない。昼寝でもいいからもっと寝るべきだ。そうしないと免疫力が回復しないから、いつ病気になってもおかしくない。仮に病気になっても、そんな体力では病気と戦えないぞ」
「それはそうかも知れないけど、それがサラリーマン生活ってもんなんだよ。それにみんな眠そうにしてるから目立たないよ」
「お前は目立ちたくないのか。眠そうにしている中で1人効率よく仕事すれば評価されるのではないか」
「会社はそういうところじゃないんだよ。シャイロックみたいに正義ばっかり振りかざしてたら仲間から変な目で見られるだろ。理屈を押し通すよりも、大事なのはチームワーク」
「お前と俺みたいな?」
「そゆこと。昼間は黙っててくれて助かってる」
「俺だって朝から晩までお前の腹にいて、綿の下着を見続けているんだぜ。それでも我慢してる」
「感謝してる。食い物についてあれこれ言われるのは煩わしいと思うこともあるけどね」
「それについちゃあ、これからも言わせてもらう。俺たちは一心同体だから、健康状態は他人事ですまないわけだ。お前のことを考えるのは、俺自身のことを考えることでもある」
「そりゃわかるけど。いや、ありがたいと思っているさ」
「お前には仕事がある。好きなことをやる自由がある。俺はお前の腹で生きるしかないから、偉そうなことは言えないがね。でもお前は自由すぎて、自分の命を軽くみていると思う」
「わかった、わかった、そこまで言わなくていい」
「体に気をつけて、俺の大好物の影響をたんまり摂取してくれ。酒は飲んでいいぞ。日本酒が最高だ」
「え、健康に気をつけるんじゃないのかよ」
 シャイロックは私の体を心配しているようで、だが実は自分のために生きているのだ。
「病気にならずに長生きしながら、できるだけ栄養はとってもらいたいんだ」
 どちらかというと私は控えめでナイーブな性格だと思うのだが、シャイロックにそそのかされて朝にはシリアルやおにぎりを食べ、毎晩日本酒で晩酌をするようになった。炭水化物によって血糖値が上昇すると、血糖値を下げるホルモンであるインスリンが大量に分泌される。インスリンは余った糖を、シャイロックの大好きな中性脂肪にしてくれるというわけだ。その代わりに、シャイロックは夏の海岸では腹筋のシックスパックに、夜のラブホでは股間に移動して、自信と勇気を与えてくれる。私の腹の肉は体型を管理できないおやじのシンボルではなく、強みになったのだ。私とシャイロックはまるで学生時代からの親友のように、なんでも話し合い、お互いに力をあわせて生きていこうと腹を固めた。だが、そんな暮らしも長くは続かなかった。

 最初に体の不調を感じたのは、隣の家の柿の実が大きくなっていたから去年の9月だった。1日中なんとなく体はだるいし、食欲もないので、社内の診療所に行ったら、過労ではないかと言われた。4月に営業部長の辞令が出たばかりだったから、恥ずかしいところを見せられないという意識があって、新しい仕事を覚えようと少し根を詰めたからかもしれない。念の為血液検査をやったけれど、特に不調の原因になるような数値は出なかった。
 その後も腹痛や下痢といった不調は続いた。近所の内科医院にも行ったけれど、検査の結果に異常はなく、内科医も様子を見ましょうと症状を緩和する薬を出してくれた。さらに一ヶ月が経過し、右の腹部に鈍痛を感じるようになって、近所の医院に紹介してもらって自転車で10分ほどの距離にある総合病院に出かけた。9月と10月の2ヶ月間、過労だろうとお茶を濁していたけれど、朝から血液検査、腹部超音波検査、腕から血管に造影剤を入れたCT検査を立て続けにやって、2週間後、既に十分に大きくなった癌が見つかった。GOTやGPTと呼ばれる酵素の値は異常値を示し、体の断面画像には、はっきりと病変部が写っていた。

「出来るだけ早く肝生検やりましょう。検査入院してほしいんですが、いつなら入院できますか? 肝臓に直接針をさして組織を採取すればもっとはっきりしますんで」若い担当医は、事もなげに言った。
「針を刺すんですか?」
「ええ、刺します」
「麻酔とか?」
「いえ、麻酔はいらないです。針を刺すだけなんで」
「それで入院が必要なんですか?」
「時間がしっかり取れますからね、そのほうがいいんですよ」
 私は言われるがまま、その週末から2泊の検査入院をすることになった。入院中はレンタルの病衣を着るので、スマホと充電器を入れた小さな鞄ひとつ持って入院受付に行き、6畳程度の小部屋をあてがわれた。肝生検は、長い針を超音波を見ながら腹の上から突き刺して、肝臓の組織を採取する検査である。ひとりが超音波を、ひとりが針を突き刺す役目で、2人の医師が患者の体を押さえつけて実施する。針を指している間、患者は体を動かさないように息を止めていなければならない。
 検査当日は、手術室に移動することもなく、検査用具一式をワゴンに乗せて、医師たちが病室にやってきた。シャイロックも針を刺すときいて、恐れおののいて背中に回った。
「はい、息をとめててくださいね」
 前触れもなく針がお腹に差し込まれる。息をしたら針に内蔵がかき回されるイメージが浮かび、恐ろしさで必死に呼吸を止め、腹が動かないようにベッドにしがみついた。しばらくして針が引き抜かれると、安堵の胸をなでおろし、息を吐いた。
「あれ、うまく取れないな」医師があっけらかんと声を上げる。
「もう1回、続けていきます」もうひとりの医師が、こちらの都合も考慮せずに勝手に宣言する。
 私は目をむいて医師に苦しそうな表情を向けた。医師は患者の苦悶に満ちた表情など気にもとめず、針の先端に意識を集中している。
「刺さってるかな? 刺さったか?」針とトリガーを掴んだ医師がきく。
「もう少し奥です」若い医師が答える。
 医師たちは超音波装置のスクリーンを眺めながら、腹の中で針の位置を調整している。私は額に脂汗を浮かべて耐えていたが、我慢できずに口を開いてほんの少しの息を吸い込んだ。針はまだ差し込まれたままだ。
「いったん抜きますね」
 再び針が抜かれて、大きく深呼吸した。出血があるといけないので、若い医師は腹を強く圧迫し続けている。針を抜いて先端を確認していた医師が、すまなさそうに言った。
「もう1回、いってもいいですか? うまく取れていないので」
「へたっぴめ」突然、背中のシャイロックが口を挟んだ。
「え、何か?」医師が怪訝な顔をしてきいた。
「いえ、何でもないです。お願いします」
 わざわざこのために週末を潰して、金を払って入院したのだ。検査しないまま終わる訳にはいかない。
「じゃあ、もう一度息を止めて!」
 わかっている。今度こそ確実に決めてくれ。
 結局、十分な量の組織は取れなかったが、針は肝臓を確実に突いたので検査は可能だろうと言い残して、2人の医師は器具を持って出ていった。私の肝臓に穴が空いているということだろうか? 再度腹に針を突き刺すことは避けられたものの、私は串刺しになっている砂肝を想像し、吐き気を催した。
 一週間後に検査の結果が伝えられ、ステージ4の肝臓癌であることが判明した。既に病巣を切除することは不能で、半年は生きられないだろうと告知された。私は自転車に乗って病院から家に帰る途中、軽いめまいがして、駅前のファミレスに入った。

 レストランでは何を注文したのか覚えていない。それほど動転していたということだが、しばらくすると抹茶ラテが運ばれてきた。私は、死刑宣告が日常生活と地続きだったことを実感し、整理がつかないまま抹茶ラテを睨みつけていた。シャイロックの言う通り、免疫力を回復させる時間がなければ病気を治すことは出来ない。睡眠時間を削って仕事するなんて俺は間抜けだったんだろうか。健康というものが医者という専門家しかわからない領域で、どの医者も同じような能力を持っていると信じていたのも間違いだった。医者によって、見える病気と見えない病気があったのだ。異常なしという医者がいたら、病院を変えて原因を突き止める努力をしなければいけなかった。
「長生きするためにはどうすればいいだろう」私は独り言のようにつぶやいた。
「俺にきいてるのか?」シャイロックがおそるおそる小声で答えた。
「ほら、病院で薬づけになるんじゃなくて、ヒーリング施設とか、断食道場とか、波動とか、有機栽培のものだけを食べて体調を整えるってところがあるらしいから」
「長生きしたいってのに、残された限られた時間を、そんな効果の証明されていないいい加減なことに使うっていうのか? まだ死の準備をするには早すぎるんじゃないか」
「じゃあ質問を変える。長生きするために、病気になる前に、元気な時に何をすべきだったんだろうか」
 思い返してみれば、私は半年以上前から時々貧血の症状があった。会社の同僚も、田舎の親戚も貧血に良いものは何かを調べて、レバーを食べろとか、アサリやしじみの味噌汁を食えとか、ビタミンCを取れとかアドバイスしてくれた。中には怪しげな健康食品を送ってくる人もいた。鉄の錠剤を飲んでもみたけれど、ちっとも効かなかった。
「貧血の薬って効かないんだなって思っていた」私はシャイロックに打ち明けた。
「そのとき、精密検査を受けろと言う人はいなかったのか?」
「いなかった」
「お前の周りの連中もずいぶんいい加減なんだな。お前のことなんか、どうでもよかったんだろう」
「ああ、わかったよ。もうそれ以上は言わなくていい。でも、その時、貧血の原因を調べることもなく、気を紛らわすだけのために無駄な金も時間も使うべきじゃなかった」
「病院嫌いだったのか?」
「いや、毎年健康診断は受けているし、風邪気味だなと思ったらすぐに会社の診療所には行く。けど、病気の判断って、こんなに属人的なものとは思っていなかった。ある医者は大したことないから様子を見ましょう、と言うし、別の医者は徹底的に原因を調べようと言う。対策をとるためにはまず原因を調べないといけないって、健康保険適用外の検査を進めてくる」
「そこで患者自身が判断しなきゃいけないわけだ」
「仮にとりあえずこのまま様子を見ましょうって医者に言われたとき、そんなはずないって病院を変えてみるって発想はなかった。長生きする人って、自分で病気を見つけるために医者に依存しない人なんだな」
「当然だ。最新の医療機器の揃った医療機関で、徹底した検査をするのがまず先決だ」
「でも、お金も時間もかかるから、なかなか出来ないんだよ」
「金の問題じゃないだろう。そういえば先月こんなニュースをやっていた。大金持ちの経営者が膵臓癌になった疑いで入院した。腹部造影CT検査や腹部超音波検査をしてみると、完治が難しい膵臓癌じゃなくて膵内分泌癌だとわかった。そっちは腫瘍の成長スピードが遅いので、外科手術が非常に有効だ。ところがその社長は手術を拒否して、代替療法にのめり込んだ。莫大な資産を使って、野菜ジュースだけ飲む断食や鍼、腸内浄化、心霊治療、ハーブ療法などありとあらゆる代替療法を試した。もともと進行は比較的穏やかな癌だから、彼は病気の発見から8年も生きた。でも彼がのめり込んだ治療の効果はなくて、癌は膵臓に転移して、結局標準治療の手術を3回もしたけど手遅れだった」
「かつて身内の人が癌の手術をしたけれど、ひどい状態で死んでしまったとか、そういうトラウマがあったのかもしれないよ」
「でも病気は人によって症状が違う。他人の経過は参考にならない」
「自分が死ぬって宣告されて、そういうふうに客観的に判断できないもんだよ」
「代替医療を選択する人は規則正しい生活を送って、学歴も年収も高い傾向もあるそうだ」
「周りにも、抗癌剤の副作用が辛いって人は多い。苦しくて、生きているのが嫌になるらしい。これなら生きていたくないと思うほどの苦痛に襲われるんだって。きっと生きようって気持ちが折れてしまうんだよ」
「噂に影響されすぎてるんじゃないか」
「実際はそうでもないってこと?」
「いや、しっかり事実に基づいてるのかってことだよ。抗癌剤と言ったってたくさんあるんだろ? 患者の状態や、癌の種類や進行度によっても効果は変わるだろうし」
「でも患者にはどうするのがいいか判断できない」
「患者には無理だ。でも、専門医がいるだろ。効果が証明されている薬を正しく処方してくれる専門家だよ。医学は科学なんだから、あくまでも効果が測定されてる。そういう弱みにつけ込んでくる他人の商売に利用されちゃいけない」
「人の話を鵜呑みにするなってこと?」
「まあ、言ってみればそうだ。きっと病気のことが知れれば、周囲の連中がいろいろ言ってくるだろう。でもどれも素人のそいつらがやらせたいことで、お前のために最適な治療だとは限らない。そういうものに耳を貸してはいけない。治療というよりも、呪いだよ」

 シャイロックが予想したとおり、私が癌だという噂が広まると、会社の同僚、親類、友人が次々とセカンドオピニオンを進めたり、健康食品のサンプルを送ったり、怪しげな代替医療の情報をもたらした。何かをしてあげたいという善意が、呪いとなって私に向けられた。スーパーで売られている食品には、天然とか有機とか人が手をかけていないものが良いものとして売られているが、同じように治療も考えられているようだった。
 そんなときも、シャイロックはどこまでも論理的だ。気休めの民間療法などに頼ってはいけない。抗癌剤を投与し、腫瘍の進行を少しでも遅らせて、人生のアディショナルタイムを1分でも30秒でも稼いでいこう。それが難しければ、緩和ケアを優先させて、最後まで楽しく生きようじゃないかと元気づけるのだ。

 私はシャイロックに励まされ、というよりも半ば脅迫されて抗癌剤治療をスタートさせることにした。根拠のない治療や健康食品は無視して、エビデンスに基づく治療しかやらないことに決めたのだ。ネットで腫瘍内科医のいる病院を調べ、自宅から電車で1時間ほどの総合医療センターを訪ねた。そこで腫瘍内科医の吉村医師に、これまでの経緯を説明し、先生とコミュニケーションを取りながら標準治療を進めたいと申し出た。
「でも先生、抗癌剤ってつらいって聞いたんですけど、大丈夫でしょうか?」治療をはじめるにあたって、自分の抱いている恐れを正直に伝えてみた。
 それを聞いて、吉村医師は黙って私の顔を見つめて言った。
「昔は化学療法と言って、副作用が強いものが主体だったんですよ。でも最近は癌細胞だけが持っている分子を狙って攻撃する分子標的薬があるんです。副作用だって、それを抑えるための薬がいくつもある。標準治療というと金額が並の治療ってイメージですけど、これはスタンダードの訳で、どちらかと言うとこれまでの医学的研究の結果による治療と考えるのがいいでしょう」
 そして治療に当たって2つのことを守ってくださいといった。ひとつは、薬の名前は全部おぼえること。その薬がどんな症状を緩和したのか、あるいはどんな問題を引き起こしたのかを明確にしなければならない。そのために、どの薬を飲んだらどうなったのかの因果関係を管理することを求められた。もうひとつは、毎日記録をつけること。病状は1日1日異なるので、薬の効き方、飲んだ回数、飲んだ量まで正確につけ、医師と情報共有して欲しいと言われた。2つのノルマを承諾して、3週間毎の通院が始まった。

 私は3週間に1回、午前9時に病院に行き、採血と採尿、レントゲン、簡易CTをとってから診察を受けた。
「抗癌剤の量は1日40mgですか?」最初に先生が聞くのは、抗癌剤の量と症状だ。
「その日によって違います、20mgとか60mgとか。以前に先生が様子を見て調整しなさいと言われたんで」
「ああ、それはそういう意味じゃなかったです。毎日変えるのはよくないですね。最低でも3日は同じ量で続けてください。そうじゃないとベストな組み合わせが判断できないですから」
 私は抗癌剤だけを処方されているわけではない。もう一つ、痛みを抑えるための麻薬系鎮痛剤を一緒に飲んでいる。抗癌剤とその副作用を抑える薬の組み合わせは、人によって異なるのだ。
「今は、どこか痛いですか?」
「2週間位前からかな…、前回の診察の後くらいから痛いです」
「結構、前からですね」
「前回もらった薬を飲み始めてから、痛い場所が変わりました」
「その前は、どこが痛かったですか」
「腰ですかね」
「今は?」
「鳩尾のあたりです」
「それは、癌の痛みじゃないかもしれないなあ」
「副作用ですか」
「可能性としてはありますね。前回、抗癌剤の量を増やしてるから」
「それでかあ…」シャイロックが小声でささやいた。
「薬を必要量にして2回目で副作用が強く出るってことはよくあることなんですよ」医師はシャイロックの声と気づかずに返事をした。
「でも、そんなにひどい訳じゃないです」あわてて私が続けた。
「まだ100%にするのは早かったかもしれないです」
「抗癌剤を減らすんですか?」
「ええ、そのほうがいいでしょう」
「でも、我慢出来ないほどの痛みじゃないですよ。効いてるかもしれないし、減らさなくてもよくないですか」
「いえ、駄目ですね。打てる手は他にもいろいろありますから大丈夫です。我慢したら治療は長続きしませんよ」
「そもそも、なんで痛いんですかね」
「わかりません」
 わからないことをわからないという医師を、無能ではなく、誠実と感じるのは今までになかったことだった。ついでに、気になっていた腫瘍マーカーの値をきいた。
「そういえば、腫瘍マーカーはどうでしたか?」
「ああ、ちょっと待ってくださいね」
 吉村医師はPCを操作して、カルテの印刷ボタンを押した。直ぐにテーブル横のプリンターが数値で埋まった表を吐き出した。
「これです」医師はその表を手渡した。
 数値を一瞥して、思わず声を上げてしまった。
「これ、相当下がってますよね?」
「ええ、前回の20%位です」
 それをきいて、医師がなにか自分を喜ばしてくれるのではないかとついつい説明を待ってしまった。
「これはいいことですよね?」
「いえ、腫瘍マーカーっていうのは指標にならないんですよ。上がったり下がったりするもんです」
「いい加減なものだな」またシャイロックが声を上げた。
 私は右手で腹を押して、黙るように圧力をかけた。
「でも、一応下がっているし、それもかなりの下がりようですよね?」
「1回の数値の変化だけで判断しないほうがいいです。あとでがっかりするだけですよ」
 吉村医師は、ただ事実を坦々と説明した。彼によれば、医療費が呆れ返るほど高額なアメリカでは、患者は医療費の使いみちに非常に神経質で、自分が受けている医療を真剣に勉強するそうだ。だから、彼は日本の患者にもできるだけ自分の治療内容について理解してほしいと考えていた。患者を喜ばせるようなことは決して言わない。癌になったとなれば、多くの患者は病気から逃れたい一心で、夢のような治療法があるという噂に飛びついてしまいがちだ。高濃度ビタミンC治療や温熱療法、ホルミシス療法、ケトン食療法、エネルギー療法…世の中には効果があやふやなものの情報のほうが幅を効かせている。一方、科学的に効果が認められている治療っていうのは地味だし、夢もないが、着実に出来ることをこなしながら、癌細胞をひとつひとつ減らしていく陸上戦を戦うイメージだ。

 家に着くと、シャイロックはニヤニヤしながら自信満々に言った。
「一応、治療が効果をあげているようじゃないか」
「ああ、病気と治療ってのは、自然災害と科学技術みたいなものだって気がするよ。癌を治そうってときに科学を信用しないのは、自然災害のとき祈祷師に頼むようなものだね」
「考えない人が多いのが不思議だがな」
「ただ、それでも癌はまだ治る病気とは言えない」
「人間は誰しも寿命があるんだから、どんな治療も所詮は延命治療みたいなもんだ。たとえ癌を完全に消し去ることができなくても、いろんな薬が開発されて患者の残された時間を伸ばすことはできる。十分素敵なことに思えるけどね」

 私は抗癌剤治療を始めて、明らかに効果を発揮し、副作用を抑えつつ腫瘍が縮小しているのを知って喜んだ。しかしそれから3ヶ月後の診察の後に突然、強烈な痛みが体を襲ってきた。痛み止めの麻薬も効果がなく、寄せては返す波のように体内を痛みがうねりはじめたのだ。寝室でも体が押しつぶされるような痛みを我慢することができず、おもわず大きな唸り声を上げてしまった。
「大丈夫か?」暗闇の寝室でシャイロックが心配そうな声を出した。
「今、何時? まだ朝までは時間があるよね」
「そうだな、4時頃かな」
「じゃあ、薬飲んでもいい時間だ」
 麻薬系の薬は一定時間空けないと飲むことができない。薬が切れると痛みが激しくなるので、薬を飲んでいい時間まで脂汗を流しながら待つことになる。私はキッチンまでよろよろと歩き、わずかばかりのコップの水と一緒に薬を飲み込んだ。
「なにか、できることあるか?」と、シャイロックが言った。
 私はベッドに戻り、腰掛けて深呼吸をした。
「いや、そこにいてくれればいい」
「まあ、ほかのところには行けないけどな」
「そうだった」
 バカなことを聞いた。私はほんの一瞬だけ喜色を浮かべた。
「痛みをコントローする必要があるな。次回の診察では、痛みを抑える麻薬の量をもっと増やしてもらったほうがいい」シャイロックは哀れな私の病状を観察し、その原因を解消するための方法を考え続けた。
「ああ、そうかもしれない」
「抗癌剤の副作用は何百もあるらしい。同じく薬でも人によって症状も異なるから、副作用を抑える薬も上手に選ばないと大変だ」
 今や私の痛みの辛さを知っているのは、同じ体に住むシャイロックだけだった。その日の朝日が上る頃には、薬の効果が出てずいぶん楽になった。
「これはダメかもわからないな」私は気が抜けた状態で、意気地のないことを口にした。
「誰でも弱音を吐きたくなることはあるさ」
「シャイロックはいいな、常に冷静でいられてさ。感情的になることはないんだろうな」
「感情はある。でも問題を解決しようって時に、感情が役立つことはあんまりないね」
「まあ、いいや。もしもこのまま俺が死んだら、シャイロックの暮らしはどうなるんだ?」
「お前が死ぬことは考えていないけどね」
「それはまた客観的とは言えない物言いだな。私の足も手も、ずいぶん痩せてきたと思うんだ。食欲だってない。一日何にも食べなくても平気だ。これのどこが生き残る人間かね」
 そう言ったとたん、数回激しく咳き込んだ。
「ああ、腹が痛い。咳もおいそれとできないな。死んだほうがいいかもしれない」
「不吉なことを言うな」
「死ぬ以外に、この苦しみから逃れる方法はあるかな」
「もちろん、あるさ」
 シャイロックは明るくなってきた窓の方を睨んだまま、冷静な口ぶりで言った。
「俺と交代すればいい」
「交代?」私は聞き直した。
「あんたが腹の肉に、俺があんたになる。その取引を承諾するのなら、癌を消し去ってやろう」
 突然のことに、私は雷に撃たれたように動けなくなり、そして乾燥したがさがさの首をさすった。
「それは私が脂肪になるってことか?」
「そうだ」
 確かシェイクスピアの「ヴェニスの商人」で、シャイロックはアントーニオに金を貸し、万一契約を破られた時には違約金がわりに1ポンドの肉を切り取っていいという証文を交わした。シャイロックから取引などという言葉を聞くと、何やら危なっかしい感じがするが、こいつはルールを守り筋を通すやつなのだ。この申し出が、自分が健康な時に発せられたものだったら、笑いぐさとして真面目に取り合わなかったろう。しかし、この苦痛と交換できるのなら、このバカバカしい提案も考えてみる価値があると思えたのだ。
「冗談じゃなく、真剣に言っているのか?」私は苦しそうな顔でシャイロックを見つめた。
「俺はお前のそういう青ざめた顔を見たくないんだ。人間じゃなくなっても、生きている価値があると思うなら、俺と立場を入れ替えようじゃないか」
 私はシャイロックのこの予想外の言葉に、つい笑いだしてしまった。
「もし私が腹の脂肪になったとして、シャイロックは人間になって何をしたいんだ」
「そうだな、見ていない世界を見たり、体験していないことを体験する。お前もずっと仕事しかしていなかったんだろう。仕事では体験できなかったことをしようじゃないか」
「そしたら、今度は私がお前の腹で文句を言ったりするのかな」
「ああ、そうだろう。文句を言われるくらいは平気だから、どんどん言ってくれ」
 このまま死んでしまえばいいのか、それともシャイロックの腹の肉として生き続けたほうがいいのだろうか。どんな選択をすべきだというのか、私は必死に考え、そのためにすっかり疲れてしまった。
「私はお前さえいなければ、こんな選択はしなかったように思うんだ」
「こんなって、癌治療のこと?」
「そう。病気を治すのに、こんなに馬鹿真面目に毎日自分のログを書いて、薬の情報を調べて、自分の様子をできるだけ客観的に見つめようとするなんてさ、そういう発想はなかった。調べて、整理して、考えて、決断するってさ、すごく疲れることだから、普通はあんまりやりたくないわけだよ。もっと、人間は安心したいし、希望を持ちたいし、依存したいもんなんだよ。でも、こんなふうに癌と戦おうとするなんて、既にもう私は私じゃないんだよ。私がシャイロックになることは構わない。もうね、死んでも全然構わないと思えるんだ」
 私はゆっくりとベッドにその重い体を横たえた。窓からは晴れ渡った青空が見えていたが、だまって天井を眺めていた。
「もしかして病気にならなかったら、お前は存在しなかったのかな」
 シャイロックは黙っていた。

 それから5日後、私は定期診察のために病院に向かったが、CTの待合室で不快感と異物感を訴えて動けなり、意識を失った。私の体を診察した吉村医師は、色が赤黒く変化し、硬くなった腹部の肉を発見したそうだ。検査をすると、それは脂肪肉腫という軟部組織の癌であった。一方、不思議なことに、そのほかの臓器から癌の姿はきれいさっぱり消えていた。緊急手術が行われ、私の腹から1ポンドの脂肪肉腫が切除された。
 腹に一文字の手術痕を残して、私の体から癌はなくなった。その後、私は健康な体を維持するための食事と運動のメニューを書き出し、お菓子やジュースをやめ、間食も取らなくなった。毎朝散歩し、運動の記録はスマートウォッチにログを取っている。仕事は給料分はしっかり働いているが、付き合いの飲み会は断っている。

 グローブ座の舞台の上では、裁判で負けたシャイロックが退場し、物語は大団円を迎えてカーテンコールとなった。シャイロックの芝居を見ながら、喋る脂肪を思い浮かべていたのは、私だけだろう。「ヴェニスの商人」で、おかしな言い訳で証文を無効にされた彼は、最後に元金を受け取ることもできずに退場する。ルールに沿って予想外の慈悲と憐憫を示すことのなかったシャイロックは、最終的にその場しのぎの詭弁と感情という不公正な代物に負けてしまうのだ。「これが法律なのか?」と言い残して退場したシャイロックの姿が頭から離れない。
 私は、カーテンコールが嫌いだ。今の今まで、命を奪おうとしていた相手と仲良く笑顔で手をつないでいる役者たちを見ると、せっかくの物語世界が台無しになってしまうような気がするからだ。舞台上で微笑みながら満場の喝采を浴びている役者を尻目に、私は慌ただしくグローブ座を後にして、テムズ川沿いのバンクサイドロードに出た。川を吹き抜ける冷えた風が頬を撫でてくる。ロンドンは日中日差しがあるうちはまだいいのだが、朝晩は急に冷え込むことが多い。行き交う人々の着衣を観察しても、寒さに慣れているイギリス人は半袖のTシャツだけという人もいるし、上半身はダウンジャケットで完全防寒のくせに下半身は短パンという人もいて、季節感が全くない。彼らは真冬でも体からボイラーのように熱を発していて、寒いという感覚がないのだろう。
 少し早いが食事をしてからホテルに戻ろうと、地下鉄で繁華街のオックスフォード・サーカスで降りて、明るい内装のレストランに入り、できるだけ周囲に人が少ない奥の角の席を陣取った。そして小声で腹に話しかけてみた。
「なあ、ヴェニスの商人はどうだった?」
 むろん腹の肉が答えるはずもなく、私は薄笑いを浮かべた。
 レストランではイギリスらしく、お酒はぬるいエールを飲み、デザートにはイチゴと焼きメレンゲ、生クリームを混ぜたイートンメスを注文した。冷たいイートンメスは夏のデザートなのだが、イギリスの定番デザートとして、多くのレストランで年中食べることができた。甘いイチゴを口に運びながら、明日以降の予定を考えた。一通り、ロンドンの名所は回ってしまったし、せっかく演劇の国にやってきたのだ。グローブ座で芝居も見たことだし、ロンドンから少し足を伸ばして、シェイクスピアが生まれた田舎町ストラットフォード・アポン・エイボンを訪問するのがいいかもしれない。ツアーでもないし、ホテルの予約もとっていない、気楽な一人旅なのだから。

 イギリス文学史上最も重要な作家と言われるウィリアム・シェイクスピアは、1564年にエイボン川のほとりにあるストラットフォード・アポン・エイボンで生まれた。父親は村長で、革製品を売る商売などもする村の実力者だったというから、相当裕福な家庭だったようだ。ロンドンに出てその才能を開花させたシェイクスピアは数多くの戯曲と詩を残し、1613年に隠居して再びこの町に戻って、その3年後に亡くなった。今も、村には生家の他に、学んだ学校や終の棲家、埋葬された教会などが残っていて、世界中から年間50万人の観光客が訪れている。シェイクスピアの時代から400年が経過した現代でもなお、この町はシェイクスピアによって成り立っているのだ。
 村の中心を流れるエイボン川沿いの小道を歩いていると、四角く剪定された街路樹には赤い果実がたわわに実り、あちこちの軒先に吊り下げられたハンギングバスケットから、色鮮やかな花が溢れ出している。川には、石炭運搬船として使われていた幅2メートル、長さ10メートル以上もある細長いナロー・ボートが何隻も停泊して、船体に水面からの照り返しが揺れている。かつて石炭を積んでいたデッキは、ベッドやソファ、トイレなどを備えるキャビンに改造されて、さしずめ川に浮かぶ家のようだ。イギリス国内には3000キロにも及ぶ水路が張り巡らされているので、船で暮らしながらどこへでも行けるらしい。そもそも家は高すぎて購入できないし、もはや連絡手段はデジタル化されていて郵便配達の必要がないから、船を住処としても不便はない。中にはキャビンを店に改造してアイスクリームを販売しているものもある。
 川の周辺には行き交う人に混じって、首の黒いガチョウがゆったりと歩きながら草を食んでいた。冬の風に吹かれている枯れた茶褐色の芝の間から、ところどころ浅緑の新芽が顔を出している。私は河畔の公園のベンチに腰掛けて一休みし、公園に長い影を落としているレンガ色のロイヤルシェイクスピア劇場の建物を見上げた。この建物の劇場でもまたシャイロックが「これが法律なのか?」と叫ぶのだろう。

 公園のナナカマドが風に吹かれて鳴り始めた。私はベンチから立ち上がり、1年前からの日々を思い返した。道の向こう側には、むき出しになった黒い木材の間から白い漆喰が見えるハーフティンバーと呼ばれる建築様式の建物が並んでいる。このシェイクスピアの時代を象徴する街並みの前を、制服にミニスカートの中学生たちが歩いている。もう春がやってくる。私はシャイロックと出会って生まれ変わった。いや、私がシャイロックである。

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