梗 概
死者の裔
まず、四つの足をとめるところから。それぞれの足に、刃を突き刺し、地面に固定する。暴れることは少なく、どこか超然としている。つづいて、足に人が通れるほどの穴を開ける。内部を螺旋状に切り取り、腹部へと到達。内部から腹を切り裂き放血し、神経樹林は一纏めにしてくくっておく。塊肉を運び出して食料にし、内臓は傷つけないように隅へと押しやる。躯体樹脂が肉を固定し、居住スペースがこうして生まれた。
〈礼拝堂〉と呼ばれる獣を家にして人々は生活を送っている。屯(むら)を一つの単位にして暮らしている。ほかの屯との交易もあり、これには移動に適した〈在肢〉(あし)が使われる。
〈礼拝堂〉は人々が体内の肉を切ったり焼いたり一纏めにして放置し腐らせようが知らん顔で歩みをとめない。四つの足で進み、目的地は分からない。草を食むがそれで動ける量とは思えず、壁に留めてある胃袋にそれらが流れこむこともなかった。
テウは〈礼拝堂〉を人々がより快適に過ごせるように、整備するのが仕事だった。捕獲し、内部の住環境を整え、ときには拡張した。〈礼拝堂〉同士を繋ぎ合わせるのだ。躯体樹脂による〈礼拝堂〉の皮膚の透明化に成功したのもテウだった。太陽光を取りこむことができ、〈礼拝堂〉内に畑が生まれ、畜産も可能にした。テウの屯は十八頭の〈礼拝堂〉がいる。そのすべての改修にテウは関わった。
そんなテウであるから、〈礼拝堂〉に関しては他の人々に比べてはるかに知識があった。しかし、わからないことも多かった。〈礼拝堂〉がどこへ向かっているかということである。摺るように歩いたその跡は常に真っ直ぐで迷いがない。どこかに向かっているように見えるのだ。だがどこへ向かっているのかという確証がなく、あるのは人々のあいだに伝わる、〈礼拝堂〉は死者の国へと向かうという伝説だけだった。
テウは死者の国に関する調査を行うことを提言するが、一旦は退けられる。しかし、事態はすぐに変わった。別の屯から来た〈在肢〉の伝令である。
曰く、人々を乗せた一体の〈礼拝堂〉が火山口に身を投げたという。
これにより屯のなかから〈礼拝堂〉に対する恐怖が現れ、〈礼拝堂〉を降りる者たちが出てくる。だが、テウやほとんどの人にとって〈礼拝堂〉はすべてだった。家であり、食だった。いまさら〈礼拝堂〉をおりて生きていけるとは思えない。
「死者の国は火山のなかにあり」
ある者がそう宣言し、降りることはないと誓うと、それに賛同する人も現れた。
テウは火山口に飛びこむことで死者の国へと行けるとは考えなかった。だが、一つの答えがあると信じて降りなかった。
月日が経った。
テウが乗る〈礼拝堂〉は火山に到達しつつある。
テウは期待に満ちた顔をしていた。答えが見つかると確信があった。
もう火山の活動の音さえ聞こえる。
文字数:1154
内容に関するアピール
発想の原点はヒエロニムス・ボスの絵から。
見せ場は二つ。
まず、〈礼拝堂〉の改修の様子。テウの一人称視点にしてじっくりと文字数をかけて描写しようと思います。テウは知識があるのですから、不自然なく行えると思っています。〈礼拝堂〉の生態についても詳しく書きたいと思っている。
つづいてラストシーンは火山口に〈礼拝堂〉が身を投げるシーン。ここは少し幻想的な描写を入れる予定。最大の見せ場になると考えています。
梗概でカットした空白の月日を実作では書く予定。〈礼拝堂〉宗教の情報をそこで入れるはずです。
文字数:248
死者の裔
1
テウの手が、捕縛されて刃に貫かれた〈礼拝堂〉の太い前脚に触れる。柔らかく、こんなものでこの巨体を支えられるのかといつも驚くが、押しこんでみると、ぶよぶよの肉の先に硬い筋肉の感触を手のひらが感じる。皺をなぞり、軽く叩く。全く意に返さず、といったふうで〈礼拝堂〉はびくともしない。雄大な生物だと思った。美しさに眩暈がするようだ、とテウはよく周りの建築仕に言っていた。見上げると、悠然とした所作で長い首を揺らす〈礼拝堂〉の顔が見える。脚の長さだけでもテウの背丈の五倍はあるが、これでも小さい個体なのだから、やはり〈礼拝堂〉は超然だ、とテウはつぶやく。
〈礼拝堂〉に触れるといつも視野が広がり、地平線の先まで見渡している気分になる。なだらかな丘を下っているような気がして、それは同時に登っている。なにかの足跡をなぞるように歩き、テウの後ろに道ができる。過去に辿った道程と、これから進む軌跡が交差し、並走する。過去と未来が渾然一体となって立ち現れ、現在が吹けば飛ぶほどに軽くなる。
「テウ!」
名前を呼ばれ、振り返るとニカがいた。身につけた、鉱物素を編みこまれた建築仕の装備をガチャガチャいわせて、こちらへ向かってくる。
「そんなところにいたら危ないですよ」
「大丈夫」とテウは〈礼拝堂〉の脚に目をやる。「なんのために捕縛してると思ってるのさ」
「そんなもので〈礼拝堂〉を縛りつけられるはずがないんです」とニカは厳しいことを言う。「いつ動き出してもおかしくない」
「そんな事故は聞いたことがないね」とテウは軽口で返す。
しかし、ニカの気持ちもわからないことはなかった。この〈礼拝堂〉を捕縛したとき、傍らに潰されたツチフマズが死んでいたことは事実だ。この四枚の翅を持つあわれな生物は運悪く、地面と〈礼拝堂〉の脚とのあいだに滑りこんでしまったのだろう。だが、そんな不運はよっぽどでなければ起こらないし、人間相手にそんな事故が起こったという記録は少なくともこの屯ではない。ニカは心配性なのだとテウは内心苦笑する。
ニカがため息を吐き、
「僕らはもう支度が済みました」と、手を広げて装備を示す。ニカの背後では一仕事を終えた捕縛仕が装備を脱いで、相棒の〈羅針盤〉に肉を与えている。「あなたも支度を。みんな待ってますよ」
ニカは張り切っているように見える。無理もない。久々の建築だ。向こうに並ぶほかの建築仕からも上気している雰囲気が感じ取れる。あのなかの何人かは初めての建築だったはずだ。興奮の渦に一垂らしの不安が見て取れる。
婚礼の儀が近いのだ。〈遊び礼拝堂〉に入っていた屯の若い娘が別の屯の男と、男の〈羅針盤〉に乗って帰ってきたのがすこし前。男が屯長に結婚します、と言い、娘ははっきりと頷く。屯長が深く息を吸い、うむと首肯すると、婚礼の儀を執り行うと宣言をした。
そこで捕縛仕とテウたち建築仕に声がかけられたのだ。かつて、新婚の夫婦は最初、小さめの〈礼拝堂〉に住むことになっていた。子をなすと、夫婦の〈礼拝堂〉は屯中の〈礼拝堂〉を行き来できるように繋ぎ合わされたのだ。だが、この風習は古くなりつつあった。テウの先代の功労によって〈礼拝堂〉内で耕作をすることが可能になってから、屯で子供が死ぬことは極端に減ったし、〈礼拝堂放し〉や〈羅針盤放し〉などの口減らしもなくなった。だからいまは、夫婦の〈礼拝堂〉はすぐに屯の、他の〈礼拝堂〉に繋がれる。
テウの号令で建築が始まった。
剣切で人が通れるほどの穴を〈礼拝堂〉の前脚に開ける。テウは血が流れてこないことへの疑問をつぶやくほかの建築仕を窘めながら切り進めていく。
「いつものこと」
ある程度肉を切り出して、人が入れる場所を作ると、生の肉の匂いが強くなった。しばらくは匂いが取れないけど、我慢しろよとニカが新人に言い、テウにつづいて入っていく。〈礼拝堂〉の脂肪で作られた爛淡を持って内部を照らすのが当面の新人の仕事だ。肉を螺旋状に切り出して胴体部分に登っていく。切り出した肉は外の人へ渡す。婚礼の儀のために取り分けて、あとは食事の馳走にするのだ。それでも多いから、干して保存することになる。骨にはなるべく手をつけない。突き当たっては迂回し、上を目指す。
「食べてごらん。おいしいから」
テウが骨の隙間を指さして、新人たちに言う。骨にへばりついた肉をナイフでこそぎとり、口に運ぶと顔がほころんだ。旨いです、と恥ずかしそうに言う。まだ、テウとは距離があった。
「建築仕の特権だな」と、ニカがその距離の橋渡しをしてくれる。新人の顔の緊張がいくばくか収まり、笑い声が肉にくぐもり、肩が揺れて、肉壁に映る影が揺れた。
次々と肉を切り出し、外へ排出していくが、内臓へと到達する直前の段になって、食事を告げる笛が微かに聞こえた。今日はここまでだな、とテウが肉製階段を下るようにほかの建築仕に命じる。
外では焚火の光が出迎えてくれた。屯の人は外で食事をとることにしたらしい。瑠璃紺色の空の下、あちこちで火にかけられた巨釜から脂と香草の良い匂いが漂っては各人の鼻へと運ばれていく。釜ごとに少しずつ匂いが違うのは住んでいる〈礼拝堂〉によって微妙に具材が異なるからだ。
気づけば、屯の人間はほぼ全員が〈礼拝堂〉から降りてきていた。釜を中心にして人が集まっている。釜の数は十八。この屯の〈礼拝堂〉の数と合致している。〈礼拝堂〉舵士のニイトゾがテウに手を振り、名前を呼んだ。テウが住む〈礼拝堂〉の釜がここだと言った。
今日は捕縛の関係で作業の時間を多く取れなかったが、明日からは終日の作業となる。精をつけるのには最適だ。各自で椀によそっては夢中で食べていく。
テウには大きな椀が渡された。これで頑張れというように笑顔でよそうのは屯長だ。
「いい個体じゃあないか、葬壇も大きく作れる」屯長が作業中の〈礼拝堂〉に目を向ける。
「はい」とテウが腕を受け取りながら応える。「捕縛仕がいい仕事をしてくれました」
食事の席は、誰かの囃子で佳境になり、ゆったりと流れる風にあわせたかのような手拍子をもって終わりを迎えた。
「今日はくれぐれも体を休めること。体調管理に気を遣い、明日からも建築に励んでくれ」
そう言って、テウは自分の住む〈礼拝堂〉へ戻る。人前で話すことには慣れないな、と苦笑を漏らし、寝床に顔をうずめた。そのまま、作業の工程を頭の中で確認する。肉の切り出しにあと三日はかかるな。背中部分に大きな空窓を所望だったはずだから躯体樹脂が多く必要だ。屯中のものを集めても心許ない……。〈羅針盤〉を編成して集めに行かせなければいけないかもしれない。江歩樹脂で、住居空間ができるように、肉に塗っていくのは丸一日かかるだろう、それが安定するのに六日かかる。その間は暇になるから、婚礼の儀に使う織布作りを手伝うことになるだろう。あの個体なら脳油があるはずだからその確認もしなければいけない。空中の危険な作業だ、ニカと二人でやるべきだろうか――。
いつの間にか眠ってしまっていた。
目を覚まし、躯体樹脂製の窓から入る星の光に目を閉じると、聴覚が鮮明になった気がした。隣の部屋からすすり泣きが聞こえてきた。たしか、隣にはテウの半分ほどの歳の少女が一人で暮らしていたはずだ。顔は見知っているが、話したことは数えるほどしかなかった。そういえば両親は〈羅針盤〉で出かけて行ったきり帰ってきていないのではなかったか。最も大きな〈礼拝堂〉の中で作物を作る畑を耕す人の中の一人だったはずだが、どうしたことかとテウは身を起こした。思えば、釜煮の場にはいなかった。樹脂によって固められた肉に足を降ろし、部屋を出る。目を瞑っているように感じられるほどに暗いが、微かに香に灯された火の光が所在なさげに置かれている。部屋から持ってきた爛淡に火をつけると、凹凸のある肉壁が火の影に揺れた。
テウは少女の部屋の前で声をかけた。たしか、名前は――。
「カナイ」
不意にすすり泣く声がやんだ。入るよ、と怖がらせないように抑えた声で言い、嵌めこまれた木製のドアを押す。懐かしい感覚がした。思い出した。テウが初仕事でつけたドアに違いなかった。部屋の隅にひとまとめにした〈礼拝堂〉の神経網を置いた憶えがある。右も左もわからない時代だ。感慨が身を浸らせる。しかし、ドアを開け切ってみて、驚いた。
肉の壁一面に絵が描かれていた。見慣れた風景、窓の外をたゆたうこの屯の――つまり、〈礼拝堂〉たちの――風景だった。〈礼拝堂〉数頭を中心に、土煙が舞う大地に点在するのは草木と花々。空には重い雲がかかり、それがよりいっそう隙間から覗く陽の光を際立たせている。平坦な土地が地平線までつづき、ようやっと最後に山らしき膨らみが描かれていた。それを爛淡の赤い光と窓の外の星の青い光が照らし、まるで朝日を受けた〈礼拝堂〉と夜のとばりの中の〈礼拝堂〉が混在しているような気がした。
寝床の上でカナイが足を抱えて座っていた。爛淡の明かりが照らす顔には二本の線がはっきりと見え、その手には炭が握られていて、泣きながら絵を描いていたのだとわかる。
「カナイ」ともう一度テウが声をかける。カナイは肩を震わせて、なんですかと低くつぶやいた。
すっかり怯えられてしまった。生まれたてのナキドコロに逃げられずに近づくように、軽く腰を落として、微笑みを携えて近づく。その時間でテウはカナイを観察する。
怯えている。快活な印象はなかったが、ここまで内気ではなかったはずだ。体を小さめだ。だが弱さはない。鍬を振るうのに慣れた腕に腰回りだ。髪の毛の統率が取れていないのは絵を描いている最中に頭を掻きむしったからかもしれない。よくよく見れば肌が汗でうっすらとしめっている。目には涙を溜めているが、思っていたよりも落ち着いて見えた。
「カナイ」と三度呼びかけ、大丈夫? と後につづける。カナイが頷くので、座ってもいい? と寝床を指さす。
「……どうぞ」
ありがとう、と言いながら腰を下ろすと視界の隅々まで絵で埋めつくされているのがわかった。天井にまで描かれていて、大型のツチフマズが悠々と空を飛んでいる手触りが伝わってくる。
静かになってしまった。やんわりと泣いている理由について聞こうと思っていたが、言葉が出てこない。第一、すでに泣き止んでいて、絵のつづきを描きたいのか、手に持った炭をいじって遊んでいる。
遠回りをすることにした。
「立派な絵だね」
テウが意を決して口を開くと、ありがとうという言葉がカナイの口からでた。
「あそこからの――」テウが窓を指さす。「風景だよね」
会話ができそうだということに安心したテウがつづけると、カナイは首を振った。
「違う」とやけにはっきりと口にする。
「じゃあ、なに?」
カナイが口を開き、なにかをいいかける。口を閉じて、悩むような素振りを見せた。他の人には言わないと約束してくれますかと訊いてくる。テウはわかったと頷くと、後をつづける。
「死者の国の絵です」
そこで得心がいった。
死者の国。
死後の世界がどんなものであるかという古い伝承だ。それは生者の世界となにも変わらない風景がただあるという世界なのだ。
「死者は、もう死なないという一点を除けば、生者となにも変わらない」
カナイが伝承の最後の一行を歌うようにつぶやく。
テウは顔を上げる。再び見た絵からは、なにか顔をそむけたくなるような寂寞と禍々しさが立ち現れていた。〈礼拝堂〉には窓が開けられ、後ろ姿の人物が描かれているのが見える。その薄い背中に、テウは怯えのような感情を憶えた。不意に、カナイが口籠もった理由がわかった。死者の国の絵を描いていることを人に知られたくなかったのだ。強烈な衝撃を孕んだ絵を描けること自体を隠したいのかもしれない。
「死者の国……」
テウが口の中でつぶやき、それを二度三度繰り返す。不思議なことに、つぶやくたびに絵の実感と言葉の実感の繋がりが強くなっていくのがわかる。もう死者の国は、テウの眼前に目を背けられないほど巨大な衝動としてあった。
2
胃袋を裂き、樹脂製の管を通して、胃液を外に排出する。胃液はまるまる切り取り、これは遮幕や祭礼用の衣装にする。外では仕立仕が裁断用の剣切を片手に仕事を待ち構えている。
あの絵を見てから、テウの眼に映る景色に変化があった。生者の世界となんら変わらない死者の国が、二重写しになったようにして見えるような気がした。現実との乖離とは違い、むしろ現実を側面から眺めたような感慨がある。
「疲れてますか」
ニカが訊いてくるが、テウは大丈夫だと応える。新たな〈礼拝堂〉をほかの礼拝堂と、橋でつなぐ作業の中だ。瞬間によって〈礼拝堂〉間の距離に差が生じるから、橋は収縮性のある〈礼拝堂〉の腸を縫い合わせたものを使う。
作業は佳境にある。江歩樹脂で固めた肉の日常的な感触が足の裏に感じる。陽の光を取りこんだ天窓の出来も上々と言える。一部、膿んで異臭がするが、香を焚き問題はない。あとは〈礼拝堂〉側の治癒力次第となる。家財を運び、要望通り火炊き場を大きくあつらえる。新人にはそれぞれ一部屋を任せ、葬壇は装飾を残すのみである。午後には脳油を汲みとる算段になっていた。
息をつき、呼吸を整える。あの夜から毎晩、カナイの部屋には通っていた。次の日の作業のためにも、睡眠時間を削るわけにはいかなかったが、抗いがたい、誘惑に近い感傷が常につきまとい、足を運んでしまう。
死なない生物の腹に住み、死なない生物を食べては死んでいくのだから、始末に負えない。
カナイの言葉は常に歌うように流れ出る。それがテウには心地よくも恐ろしく感じられる。言葉に蹂躙されるような手触りがあった。
「ニカ」
午前の作業後、テウはニカに訊いてみた。死者の国を見たことがあるか、と。テウは驚きに目を見開き、呼吸を整えるようにして息を吐く。
「意外ですね。テウからそんな言葉がでてくるとは」
余裕のある声で笑う。本当に予期していなかったというように。
「ええ、まあ」と辺り一面を示すように右手を左から右へ横にはらう。「この景色がそのまま死者の国の景色ですからね。見たことあるかと訊かれたら、こうして毎日見ています。普段はあまり意識しませんがね」
葬壇や戯躯省を作っているときはやはり特に意識しますね、と後につづけ、テウの目を見る。ぼくのタ――ンは終わったから次はあなたですよ、とそう目が言っている。ニカから視線を外して、テウは口を開いた。
「わたしは最近、世界が二重になっているように見えるよ」視線の先では子供たちが棒切れを振り回して遊んでいる。手から飛んでいき、一人の男児に当たった。泣き声が響く。「死者とわたしの違いはなんだろうか」
礼躯投に使う戯躯省を作るのも建築仕の仕事だ。そこに遺体を入れるのも。遺体を入れられた戯躯省が〈礼拝堂〉から放り投げられるのを見るたびに、テウは死者の不在をその戯躯省に感じる。歩き進む〈礼拝堂〉から、土に埋もれた、どこかの屯の戯躯省を見るたびに、いたたまれなくなるのだ。
「死者は、もう死なないという一点を除けば、生者となにも変わらない」
ニカがささやくように言う。なぜか涙が零れそうになった。情けないと思い、歯を食いしばっては波が去るのを耐え忍ぶ。
「さて」テウが空気を読んで声音を変える。「脳油汲みの準備をしましょう」
脳油汲みは危険もある作業だ。だから最小限度の人数で熟練者が行う。そしてこの屯ではそれはテウのことを指し、寛容な目で見て、ニカのことを指す。
〈礼拝堂〉のなかから背中に出て、長い首を、足場を打ちこんでは登っていく。途中、〈礼拝堂〉と目が合った。くぐもった青だが、澄んでいる。金色の燐が輝くように青のなかでその身を主張する。なだらかに色の内実が緑、黄色、夕陽色、瑠璃紺色と多様に変化していき、水滴が地面で弾けるような音が聞こえるようだ。魅力いう名前の引力が働いているように、こちらを惹きつける。まばたきを繰り返し、首を振って頂点を目指した。
〈礼拝堂〉の頭の頂に、穴の開いた杭を数本打ちこみ、そこに命綱を通して体に固定する。これで少なくとも落ちて死ぬことはなくなる。小型の剣切で〈礼拝堂〉の扁平の頭に縦に切りこみを入れて、人が通れる大きさに開く。足場のしっかりしていない作業だから、刃があらぬ方向へ逃げるが、繰り返し裂いていく。堂液があふれ出て、腐った肉を焦がしたような匂いが鼻腔を貫いた。かまわず、切り裂いていき、小分けにした肉を切っては下に落としていく。油を多分に含んだ肉だから油抜きをする必要があるが、これも貴重な馳走だ。
切っていくとぷつりと繊維が千切れる音が微かにして、先ほどの腐臭に生臭さが加わった。脳油だ。
「開いたままにしておいて」
テウが開けた頭を指さして、ニカに指示をする。引火する危険があるから爛淡は持ちこめない。どちらかが頭の中に入って汲むしかない以上、もう一人は閉じようとあがく傷口を開けて、中に光が入るようにしておく必要があった。
「ぼくが入りますよ」
ニカの言葉に、あなたの背丈じゃ窮屈でしょうと応え、ずるりと潜っていく。
入ると、不快な匂いのするもやに抱かれているような気分になった。顔を撫でる風がべたべたと触ってきているようで、吐き気がこみあげ、えづいた。それに暑い。湯気のようなものがどろりとした脳油から立ち上っているのが見える。足元を脳油が覆い、動くのにも苦労する。腰に下げていた桶を二つ重ねた容器に掬い取っていく。
「テウ、大丈夫ですか」
心配そうな声が外から聞こえる。「なにかあったら命綱を引っ張って合図してください」
「ええ……、ええ、ええ大丈夫」
こごった空気。立ち上る生臭い匂い。ぶよぶよとして気持ちの悪い脳油。脈動する壁。傷口の隙間から見える高い視界の世界。カナイはこんな景色を見たことがないだろうと、テウは思った。そしてこうも思った。カナイがこの景色を見たらどんな絵を描くのだろうか。彼女はこの景色も、死者の国へと昇華していくのだろうか。
一通り、脳油を取り切った。桶は一杯になり、腕は上げるにも苦労するほどに疲弊した。楽をさせてもらおう。テウは命綱を二度、三度引っ張る。ニカが傷口から引っ張り上げてくれた。ありがとう、と礼を言い、ニカがさすがのあなたも疲れましたかと軽口をたたく。
「まあ、ね」
と気のきいた文句も出てこなかった。
夜になり、カナイの部屋を訪れると、カナイは鼻を手でおおい、顔をしかめた。
「嫌な匂い」と言って、焚いている香の数を増やす。「脳油って臭いのね」と言って一人得心している。
「匂いはしっかりと落としてきたはずなんだけど……」
「嘘」と断言するのだ。「まだまだ臭いわ」
テウは、そう言われても仕方がないとしか言えないなと笑い、部屋の変化に気がつく。
「床にまで絵を増やしたの……」
窓から身を乗り出して、下を覗きこんだような構図だ。まだ、床の一部だがいまにも自分の体が落ちていきそうなほどに迫力がある。冬の風が飛び跳ねたような花を上から描いているのが印象的だ。
「これはヨルノヒゲ?」テウが指で示して訊ねる。
そう、とカナイが頷き、これはテノヒラガエシ、こっちはモウモクザルと植物の名前を次々にあげた。そのどれもが見事な出来である。最後にカナイがまとめる。
「これもすべて、死者の国」
「カナイが思う、死者の国って一体どんな――」と言いかけて、テウは背中に怖気が立ったことに気がついた。今ではすっかりこの絵たちを死者の国を描いたものだと認識していることに思い当たったのだ。もはや目の裏側にまでこの絵が張りついている。
「わたしが思うに――」カナイがおもむろに口を開く。「死者の国は、〈礼拝堂〉に乗ったからこそのもの」
テウはわけがわからず、首をひねる。
「つまり、わたしたちの頭に浮かぶ死者の国は〈礼拝堂〉が見せているんじゃないかってこと」
そう言われるとテウも理解に至った。「あの風景は〈礼拝堂〉が見せる幻かなにかだってこと?」衝撃をくらったかのごとく、体が後ろへのけぞった。「ありえない」
「……畑歌って知ってる?」
カナイの問いにテウは首を振ると、カナイは歌いだした。
「空から降るサトウノキ
波のまにまにコガネガイ
知らば知らしめヤマアラシ
あの夕立はウレシザケ
木立に吊るしたユメマクラ
切れ切れ踊るクノノコエ
落ちつつ落ちよツチフマズ
ただ鳴くままに、山には添えよオオコヤシ」
節が踊り、飛び、溜めるようにくぐもり、足が高く上がる。それは歌だ。連続し、或いは不連続の――。
歌い終わると、カナイは額に浮かんだ汗をぬぐった。ふう、というため息には緊張のわだかまりがほどけた音が混じった。
「これが」と言葉の出ないテウにカナイが言う。「畑歌。畑作業中にみんなでなんとなく歌う。わたしたちの、楽しみと言えば楽しみ」
綺麗な声の、綺麗な歌だった。あらゆるものが色づき、楽しく、美しい。だがそれと死者の国、〈礼拝堂〉がどうつながるのかがわからない。「だから、つまり?」テウが訊く。
「これが、きっと死者の国の、本来の景色。この歌の歌詞はとても古くから伝わっている。どれくらい昔かはわからないけど、多分、わたしたちが〈礼拝堂〉に住むよりも前。その頃の人にとって、死者の国とはこの歌詞の――」中空を見て、言葉を探す。「この歌詞みたいに、壮麗で、幸せそのものみたいな景色だったんだと思う」
「それは、つまり、〈礼拝堂〉に住むようになってから……」
戸惑うテウの言葉をカナイが引き継ぐ。
「そう、奪われた。わたしたちは、死者の国を」
窓に映る自身のひきつったような顔をテウはまるで他人事のように眺めた。
〈礼拝堂〉に住む以前――。それは想像することが困難な世界だ。なにを食べていたのか。なにを着ていたのか。なにを感じて生きていたのか。それは無数の「なにを」に埋没した果ての風景だ。
「わたしたちはもう」カナイの目が真っ直ぐ、テウの目を捉えて離さない。「生者と死者の区別さえつかない。自分が生きているのかなんて、もう、わからなくなってしまった」
カナイの仮説を聞いてからしばらく立って、テウの屯から死者がでた。まだほんの子供だ。〈礼拝堂〉の窓を割り、真っ逆さま。落ちていった。内臓は破裂し、即死だった。血で塗られた泡を口の端から零して。婚礼の儀の八日目、終盤での出来事だ。大人たちは新たな夫婦を称え、追加の料理を作ることに精一杯で、子供が遊ぶに任せていた。
事故だ。
〈礼拝堂〉によっては、内部が迷路のようになっているものがある。食糧庫や貯水庫として使われる個体などがそうで、子供の遊び場としてこれほど適したものはそうはなかった。少なくとも子供の側の視点では。
子供の親が叫んだ。
一緒に遊んでいた子供は戸惑うだけだったが、さすがに事態の深刻さには気がついていた。顔を伏せて、両の手を固く握った。嵐が通り過ぎるのをじいっと待つかのように、視線は斜め下の地面を凝視していた。
悲しみの嵐を初めて経験する少年少女を後目に、テウたち建築仕は礼躯投の準備に取り掛かった。戯躯省を遺体の大きさに合わせて作るのをほかに任せて、テウとニカは死んだ子供が住む〈礼拝堂〉のなかの葬壇の支度を始めた。
木の葉で包んだ干し肉を葬壇に配置し、脳油で作った香を焚く。ふうわりとあたりに、香ばしくも鈍重な香りが広がる。死の匂いかな、とテウがつぶやき、いいえ、ただの葬礼の匂いですよとニカが渇いた笑いを吐き出す。ニカの目には隈があり、頬には左右に一本ずつ線が出来ていた。
「ぼくもこの〈礼拝堂〉で暮らしてますから、死んだ子――アレイって言いますがね――はよく知っているんですよ」
おもむろにニカが喋りだした。テウに言っているのかと思ったが、そうではなかった。ただが口から出るに任せているといったふうで、声の焦点はかなたに飛んでいた。
「動物が好きな子でね、〈羅針盤〉に乗りたがったものですから、捕縛仕に一緒に頼みこんだりしたものですよ……」
言葉をかけようにも見つからず、テウは手を動かすことに集中しようとした。無駄だった。頭は次々に考えごとを思いついては氾濫させる。テウはニカにことをよく知らないことに思い至った。この〈礼拝堂〉にニカが住んでいるなんて、知らなかったのだ。アレイという少年の名前も。元々、人づきあいのある方ではなかったが、カナイの絵を見て、世界が二重写しに見えるようになってから、その傾向はより強くなっていた。
ニカが手に持っていた爛淡が割れた。目を向けて落としたのだとわかる。ニカはぼんやりと手を伸ばして、指先を破片で切った。血が流れた。ニカがテウを見て、はっきりとした口調で言った。
「あなたは前に、死者の国についてぼくに訊ねましたね。ぼくはいま、とても死者の国の遠さを感じていますよ」
それを言うと、止血をしてきます、と言って歩いて行った。その日はもう、ニカは戻らなかった。準備は夜になっても終わらず、様子を見にきた屯長に、明日中には終わるはずだと言った。
「では、礼躯投は明後日の朝にすることにしよう」と重々しく頷いた。
部屋に戻り、そうだろうかと、今さらながら、ニカの言葉を反芻する。わたしには死者の国が目の前で待ち構えているよという言葉が口からこぼれた。
わたしたちは死者だ。
そう言葉にする。
死者は、もう死なないという一点を除けば、生者となにも変わらない。
そう口のなかで言ってみる。
では、とテウは窓の外を見た。婚礼の儀が終わって、留められていた〈礼拝堂〉たちはまたゆっくりと進みだしていた。わずかに揺れを感じ、それが自身の心臓の鼓動と同調しているという想像をした。
では、わたしが死者じゃないなんて、なにをもって証明すればいいのだろう?
脳油香がくぐる。戯躯省の蓋は完全に閉められ、ふとした瞬間に、中になにが入っているのかということを忘れてしまう。その上で、器の〈礼拝堂〉の油に火がつけられている。火がゆらりと震え、踊るような煙が上へ上へと伸びていく。あちこちから声が洩れ、相変わらず子供たちは身を固くしている。彼らは耐えているのだ。日常を返して、という無言の主張をここ数日貫いている。
礼躯投が始まった。
葬壇と戯躯省を囲むようにして立ったまま、誰も言葉を発さない。屯長だけが、しきりにその円の中をぐるぐると歩いている。みんながみんな、誰かが口を開くのを、息をひそめて待っているようだ。だが、誰も最初の一人にはなろうとしない。ただ、時間の経過だけがあった。
と、一人が口を開いた。
「雨」
ニカだった。それから、ぽつりぽつりと言葉を発する人がでてきた。それこそ、雨のように。
「天窓」
「釜煮の匂い」
「干し肉」
「雲」
鎖送りだ。死者の国を描写する言葉を発して、送るのだ。
「ツチフマズ」
「テノヒラガエシ」
「揺れる」
「〈羅針盤〉」
「クサキリバナ」
「穀物のさざめき」
言葉という言葉が寄せては返した。そうして死者の国が立ち現れる。だが、それは窓の外の風景とどう違うのか、テウにはわからない。
「剣切」
「蓋火鉢」
「爛淡」
「依り水」
「土ぼこり」
「神経樹の束」
延々とつづく。テウは黙っていた。屯長が、死者の名前を放った。「アレイ」。時間がとまったかのように、誰もがつぐんだ。刹那、さらに大きな波がやってきた。
「クノノコエが鳴いた。トケイトウが鳴いた。アマクサガユが鳴いた。シラベウタが鳴いた。カマノヒバチが鳴いた。テキノクルマが鳴いた。タペストリイが鳴いた。シオノハシラが鳴いた」
それは誰かの声――のはずだ。誰の声かはもうわからない。誰かと誰かと誰かと誰かの声だ。怒号に近い。肉壁が震えた。
「カッキリジョレン。サッパにオオエンマ。セッケイゼン」
「落雷。〈礼拝堂〉の足跡。浴橋小屋。湖。ほかの屯」
屯長が手を上げ、下ろした。声が止み、すすり泣きに変わった。建築仕の若い男たちが前に出て、戯躯省を肩にかついだ。屯長が頷き、男たちが頷く。あらかじめ外された窓から、担がれた戯躯省が投げられた。
ゆっくりと落ちていき、土の地面に刺さった。
テウはそれを別の窓から眺めた。やはり、死者の不在を感じた。では生者はいるのかと自問し、首を振った。それは、およそ言葉にできるもの、すべての不在を感じたからだ。
〈礼拝堂〉が歩を進めるごとに土に刺さった戯躯省が遠ざかっていく。
人がそれを眺めた。一日が終わっていく。
誰かが、「人は死ぬと、永遠を生きるんだ」と言った。
そんなものは嘘だと、テウは思った。だが、口には出さなかった。それに代わる答えを用意できていなかった。
夜になり、カナイの部屋に入ると、珍しく寝ていた。絵に、棒切れを片手に辺りを駆け回る少年が描き加えられていた。
3
年月が経った。
カナイはすらりと、手足の長い――畑作業のタコと炭が手のひらを覆っていたが――女性に成長した。もう少女とは呼べないほどで、そのために数日後には〈遊び礼拝堂〉に居を移すことになっていた。年頃の女性を複数乗せた一頭の〈礼拝堂〉を屯から離し、〈羅針盤〉に乗った他の屯の男性が来るのを待つのだ。
だがそれは取り止めになった。
〈羅針盤〉に乗り、息も絶え絶えといった様子の男が、テウの屯にやってきたのだ。だが、それだけで取り止めにはならない。問題は、男が語る内容にあった。
屯から逃げてきたのだという。見れば、纏う服は、服ともいえないぼろの布切れで、目は落ちくぼんでいた。〈羅針盤〉も痩せて皮膚の向こう側の肋骨がうっすらと浮かんでいた。口から、粘り気の強いよだれが垂れた。水もろくに飲めていないのだ。男の腰につけられた革製の嚢の中は空だ。潰れていた。
男は言葉を詰まらせ、取りこぼしながら、語る。それをテウたちは息を呑んで聞いた。
男の屯の〈礼拝堂〉が火山に向かった。数日そこをうろつくと、夜明けごろ、先頭の〈礼拝堂〉が火口に飛びこんだ。じゅう、と音が一つした。それだけだった。人の声もなにもなく、一切が灼けた。
叫び声がした。いや、それは歓声だったかもしれないと男が首を振った。死者の国の入り口が開いたぞ、という声が聞こえた。列になった〈礼拝堂〉が次々と身を投げた。人が灼けた。ドアが灼けた。釜が灼けた。剣切が灼けた。〈羅針盤〉が灼けた。――記憶されてきた一切が火山に呑まれた。
男は怖くなったのだという。幸いにして、男が住んでいた〈礼拝堂〉は列の一番最後だった。着の身着のまま、〈礼拝堂〉の射頭場に留めていた〈羅針盤〉に乗って逃げ出した。それからは、〈羅針盤〉を足に、あちこちを動き回り、夜には火を焚いて寝るといった生活をしていた。〈羅針盤〉に積めるだけ積んだ食糧はたちまちなくなって、食うものも、それを調達する当てもなくさまよっていたところに、テウたちの屯が通りかかったというわけだった。
「あなたたちも〈礼拝堂〉から降りた方がいい。死にたくないならな」
場がさざめいた。馬鹿野郎。と誰かが吐き捨てるように言い、これだから〈羅針盤たより〉は、と声が聞こえた。そんな言葉は耳に入らないのか、男はつづける。
「〈礼拝堂〉を出てからわたしは散々考えた」そう男は座ったまま、左右に揺れながら話した。そのたびに、倒れるのではないかと周りの人間が慌てる。「わたしが怖かったのは、〈礼拝堂〉が火口に飛びこむという不可解な現象か。自分が死ぬことへの恐怖か。あるいは、ほかの屯人がその二つを受け入れていたことか」
それだけ言うと男は意識を失った。テウの耳に、男の言葉から香る恐怖が浸みた。
炭を携えて、部屋にカナイが入ってきた。
だいぶ前に、カナイは自分の部屋の空白という空白を絵で埋めてしまった。持て余したカナイに、テウは自分の部屋に絵を描いてくれと言い、それ以来二人はその日起こった出来事の話をしながら、絵を描いた。テウも見よう見まねで絵を描いては、よれた線を手の腹でこすって消すということを繰り返していた。
「上手くならないね。肉は、あんなに真っ直ぐ切れるのに」
カナイはそう言ってテウをからかう。
テウはカナイに途轍もないほど、惹かれた。より正確に言うならカナイの絵と言葉たちに。
織布をまた用意しなければいけないという話をカナイがし、テウは新しい樹脂の配合についてのニカの不手際に愚痴をこぼす。そうしているうちに逃げてきたという男の話になった。
「信じられない」とテウが言う。
「それは、なにに対して?」
「〈礼拝堂〉が火口に飛びこんだという話」
ああ、とカナイが頷く。「うん。たしかにちょっと信じられない」
「けど……」とテウが言葉を詰まらせ、
「けど、嘘をつく必要がどこにもない」
そうなのだ。「つくなら、もう少し信じられる嘘をつくはずだ」
男の言葉を、屯長は取り合わなかった。〈羅針盤たより〉の言葉を信じてはいけない、と屯人に告げて回っていた。
「〈羅針盤たより〉」とカナイが絵を描く手を止めて、つぶやく。
屯に属さず、〈羅針盤〉に乗って放浪する人のことだ。ツチフマズなどを狩って生活する。彼らは〈礼拝堂〉に近づかず、それゆえに屯と遭遇することはほとんどない。〈羅針盤たより〉とほかの屯からの交易仕の違いは一目でわかる。着ているものの差だ。
「屯長は、あの話をはなから相手にしてない」テウが言う。「元々、〈礼拝堂〉から離れて暮らすことなんてできないと思っているから」
そんなことはない、とテウは思う。ああして、あの男も生きているし、ほかの〈羅針盤たより〉の話は幼少の頃から聞いている。間違いなく苦しく、困難な生き方だが、それでも生きている。
手を止めていたカナイが、再び絵に取り掛かる。空を舞う生物、チョウツガイの触覚を、手首をひねり曲線で描いていく。テウはそれに見惚れた。〈礼拝堂〉の一角で、広がりつづける死者の国が華やいでいく。カナイが口を開く。
「それはあながち間違いじゃないと、わたしは思うけど」
「え」
「屯長のこと」交差する翅に模様が描かれる。「少なくとも〈礼拝堂〉から離れたら、わたしは今のわたしではいられないはず」
そうでしょう、とテウの目を覗きこむ。「わたしの親は、わたしを置いて〈羅針盤たより〉になったから、〈羅針盤たより〉にわたしはいい印象はないけど。でも、それとはまた別に彼らとわたしたちでは見ている景色が違うから。きっと、お互いがお互いを理解できないはず。彼らが〈羅針盤たより〉ならわたしたちは〈礼拝堂たより〉、でしょう?」
「そう」とテウは頷き、〈礼拝堂〉の肉壁を撫でた。
翌朝の屯人の話題の中心も男の話だった。朝餉の湯気とともに立ち上り、それは昼間でも褪せることはなかった。テウはほかの建築仕と〈礼拝堂〉同士を並行に縫い合わせる作業をした。居住空間を拡張したいときに用いられる改築方法だ。だが手軽ではない。〈礼拝堂〉の横腹の皮を切り取って繋ぐのだが、分厚い脂肪が壁になって大変に時間のかかる作業だった。だが、縫い合わせるのは単純だ。腸を使って縫う。手は忙しく、頭は暇になる作業だった。だから、必然と話しながら行われた。
誰かが笑いながら言った。
「あの男の話、なにが怖いって言ってたっけ」
屯に太鼓の音が響いていた。暴力性の発露のような音だとテウは耳を塞ぎたくなる衝動を抑えて、縫蜂をかまえた。男の話を聞いた屯人が叩いているのだ。「死者の国は火山の中だ!」と叫ぶ声が聞こえた。奇妙だ。歯が抜けて噛みあわなくなったような違和感がテウの胸に起こる。死者の国への憧憬が噴き出したこのようだ。
「現象の恐怖。死の恐怖。屯人の恐怖」
建築仕の一人の問いに、別の誰かがそう返すと、また笑いが起こった。乾いた笑いだ。戸惑いが透けていた。
ニカがテウに言う。
「一体、彼はなにを怖がっているんでしょうね」
テウはニカの目を見て、背筋に冷たいものが走った。そこには、恐れるものはなにもないのだ、という目があった。
なにかが変わっていた。しかし、変わったのがテウなのか、ニカたちなのか、わからなかった。
「死ぬのが怖くないの」とテウは慎重に訊ねる。小声になってしまった。ニカに訊き返されて、もう一度言う。ニカは目を閉じて、また開けた。テウとは違う種類の動揺を落ち着かせようというように見えた。
「死者は、もう死なないという一点を除けば、生者となにも変わらない」
そうはっきりと告げてから、まるで子供を諭すようにこうも言った。ぼくらは生きている死者なんですよ。
男はすでに去っていた。屯長が住む〈礼拝堂〉で一晩を過ごしたというが、〈礼拝堂〉を忌む男がその夜をどのように過ごしたのかはわからない。精神的な〈礼拝堂〉への恐怖と、自分の身体の疲れ。そのどちらかが優勢を保ったはずだ。〈羅針盤たより〉を嫌う屯長は、しかし、自身の職務を全うしたことになる。食糧を与え、男の〈羅針盤〉の整備をして、送り出した。
テウは考える。目の前では今日もカナイが絵を描いていた。天井に、〈礼拝堂〉の長く伸びた首が写されている。
「……前に、カナイは絵を描きながら泣いていたよね」
「うん。それで見つかっちゃったけどね」腰掛けに乗って、つま先を伸ばしているから声が上ずる。
「あれは、なんで……。なんで泣いてたの」
一瞬の逡巡があった。死者の国の絵だと告白したときのような間だ。カナイがテウを見る。水溜まりにいる小さなアサガエリを覗きこもうとしているようだ。テウもカナイの目を真っ直ぐ見返す。
カナイがため息をついた。口を開け、言葉を選んで応える。
「怖かったから、かな。いまでもそうだけど」
テウの胸の中がすっと落ち着いた。思わず笑みがこぼれる。カナイがむっとした。「可笑しい?」
「いや」とテウが目尻をぬぐう。「安心した」
「そう?」
テウはひとつ頷いてから、
「なにかがおかしい」と言う。「舵仕が〈礼拝堂〉を火山へ誘導しはじめたと聞いた」
死者の国をあまり意識しないと言っていたニカが、いまではすっかりかの国のとりこだ。いまでは彼の目には、日常の風景すべてが死者の国に見えるのだろう。わたしのように、とテウは思う。わたしのように、世界が二重写しに見えて、しかもニカはそれを受け入れている。違和感なんてニカの中にはない。そんな目だった。
男が言ったように、〈羅針盤〉にまたがって逃げるべきかもしれない。このままでは本当に〈礼拝堂〉は火口に投身するかもしれない。しかし、男一人の言葉をそこまで信用をしていいものかわからない。
ふと、ある考えが浮かんだ。カナイ、とテウは口にする。
「わたしたちは生きている」
カナイが不思議そうに頷く。「そう、ね」
「死者との違いは」語尾を上げ、カナイが応える。
「死ねること」
テウは首肯して、ならばと付け加える。
「生者が死ぬことができるという点で、死者と分けられるのなら、わたしは死ぬことでわたしが生きていることを証明する」
「自殺でもする?」動揺するでもなく、カナイが訊ねる。
テウは首を横に振る。
「火口に飛びこむ。〈礼拝堂〉と一緒に。死者の国を目指す屯のなかで、わたしたちだけがその不在を信じて、わたしが死者じゃないことを証明するために」
カナイがうつむき、顔を上げ、笑う。良い考えだとは思わないけどと言い、悪くないかもねと言う。部屋を出ていき、水を汲んで戻ってきた。
「絵を消すよ」と言う。「水浸しにするけど、良い?」
「いいよ」とテウが言う。「いいね」
桶を傾け、水をこぼしていく。いつかの畑歌をカナイが歌う。
空から降るサトウノキ
波のまにまにコガネガイ
知らば知らしめヤマアラシ
あの夕立はウレシザケ
木立に吊るしたユメマクラ
切れ切れ踊るクノノコエ
落ちつつ落ちよツチフマズ
ただ鳴くままに、山には添えよオオコヤシ
「これはきっと、〈羅針盤たより〉たちの死者の国」歌い終わると天井を手のひらでこすりながら言う。「〈礼拝堂〉がわたしたちに見せる死者の国の光景とは違う、別の夢」
4
暑さに身をよじらせる。先陣の飛沫が上がり、よろめくような火の風が割れた窓の隙間から入っては、ドアの向こうへ抜けていった。
また投身の音がかすかに聞こえ、歓声があがる。太鼓の音が大きくなり、粒が空白を埋めていく。ど、ど、と祝祭の叫びだ。歌が聞こえる。あれは新たな生命の誕生を祝う歌だ。婚礼の歌も聞こえ、鎖送りのような単語の羅列がただ並ぶ。
旋律は溶けて、なくなっていた。がなり立てるような声がそれらすべてを代表するようにして山にこだまする。ドアの向こうでは、天窓が落ち、血だらけになったニイトゾやタリスが笑う。屯人は酒をあおり、なにごとかを叫びつづける。言葉の意味が欠落をつづけ、無意味を意味しだす。オ―、オ―、コケシにカカシ、サトウノキ。オオコヤシがポオズになってアマニソラ。オ―、オオ―、オ―、オ―。
窓があった穴からは、先を行く〈礼拝堂〉が見え、そこでもまた、人は隣の人の肩に腕をまわし、なにごとかを話し、笑う。顔は赤く、酒の影響か、この熱波か。踊る人。踊る、踊る。くるりと回り、ふわりと飛ぶ。膝を柔らかく使って、着地。気持ちを上げすぎて窓枠から落ちていく人までいる。誰もが意味を求めず言葉を紡ぎ、テウの周りの声で唯一意味が通る言葉はカナイの言葉だ。だがそれさえも、なにがなんだかわからない、と言うだけにとどまった。そうしている間にも、一頭、また一頭と身を投げこむ。
テウは割れた躯体樹脂で指を切った。いた、と声が洩れ、ふふふと笑う。カナイが首をひねり、大丈夫と訊いてくるのを、手で制してテウはオ―、と外の声を真似てみる。二重写しの世界に自身の声が溶けていき、耳をそばだててもどこに行ったのかわからない。その残滓さえもぬぐい去られ、心地よさを肌で感じる。
「行きて帰らぬ」
カナイが歌うが、それさえも呑まれていく。肉の壁に。がなり声に。〈礼拝堂〉に。その道程に。火口に。過去に。未来に。現在に。この世界――生者の国に。
テウたちの前にいた〈礼拝堂〉が火口に呑まれて見えなくなった。
ドアの向こうの声がよりいっそう大きくなる。オ―、オ―、オ―。
「いざ、死者の国へ!」
そんな高笑いが響く。
テウはカナイを見て、カナイの目はテウをしっかりととらえる。同時に口を開き、同時に言葉を吐き出す。最期の言葉を。
「さよなら、生者の世界」
体がふわりと浮かんだ気がした。内臓が持ち上がる感覚。落下しているのだと気づく。
さよなら、生者の世界。また唱え、もう一度唱えようとする。さよなら――。
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