超高速マグロ捕獲作戦

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梗 概

超高速マグロ捕獲作戦

沖合で一隻の漁船が転覆した。船長の重雄と息子の秀文は奇跡的に他の船に拾われて助かった。大きな竿がしなり、太く頑丈な糸が瞬く間に海へ引き込まれ、重雄はかなりの大物だと興奮したが、船はその勢いで横転した。転覆する直前のソナーには、ありえない速度で迫ってくる影が映っていた。秀文は故障かと思ったが、念のためにソナーの画面を撮影。後日、知り合いの海洋生物学者の松崎に見せた。松崎によれば、これは明らかに生物であるとのこと。重雄は水面下を泳ぐ巨大なマグロを目撃したと話すが、マグロが泳ぐ速度はせいぜい時速6~7キロしかない。この生物の推定時速は300キロ以上だと松崎はいう。

じつは数年前より松崎に憧れて海洋生物の研究を趣味にしていた秀文は、超高速マグロが食いついた釣り糸の先端に小型の発信機を取りつけていた。そのことを重雄に明かすと、でかしたぞわが息子よ、と重雄は未確認生物を捕獲できた場合の莫大な収益を妄想した。

だが秀文はマグロを捕獲するつもりはなかった。というのも、近所に住んでいるオカルト研究家の田淵君に相談したのがきっかけだ。田淵君は約1億年前の地球に衝突した謎の隕石について教えてくれた。彼によればその隕石は、まさにマグロのように宇宙空間を移動し続ける生命体で、何らかの原因でたまたま太古の地球にぶつかってしまい、以来、全身を覆う大量の水から抜け出せず、罠にかかったようにずっと海中でもがき続けているのだという。

田淵君は火星人の友達とその場で交信し、超高速マグロを宇宙に帰す方法を尋ねる。友達がいうには、海中から延びる大きな斜面を設置し、水面から強制的に顔を出してやればいいそうだ。秀文は田淵君に「捕まえなくていいの?」と尋ねると、田淵君は「地球を襲いに来たわけでもない通りすがりの生物を捕まえるわけにはいかないよ」と答えた。

秀文にその作戦を伝えられた松崎は、可能ならば捕獲して生態調査を望んでいたが、最終的に協力してくれることになった。

修復した重雄の船を改造し、船尾に板を取りつける。重雄にはあくまで超高速マグロを捕獲する作戦だと伝え、マグロが坂に沿って水中から飛び出したところを網で捕らえてくれと頼んだ。重雄は意気揚々と松崎の話を聞き、練習を重ねて本番に備えた。

作戦を指揮する田淵君を船に乗せて漁船が出航。松崎が発信機の情報を解析したところによれば、マグロはずっと同じルートを周回していることがわかっていた。水面近くまで上昇してくるのはこの海域に来たときだけだ。

待機する漁船に迫ってくる影をふたたびソナーが捉えた。轟音とともに銀色のボディが水面から浮上し、坂を上がって一気に空中へ突き抜ける。重雄がソイヤっと叫んで網を構えるが、秀文が事前に入れておいた切れ込みによって容易に突破された。

超高速マグロはゆるやかに回転しながら大気圏を抜け、約1億年ぶりにもとの暮らしに戻っていった。

文字数:1191

内容に関するアピール

遠くの宇宙からきた未確認生物が、わざわざ地球めざして訪ねてくるのではなくて、ただ通過しようとして引っかかっちゃっただけだとしたらおもしろいなあと思って書きました。よろしくおねがいします。

文字数:93

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夜が明けるまでには

淡く青みがかったグレーのイルカをベースにして、まずは胴体を膨らませてふんわりとした丸みをつける。それから尾ビレを大胆に上に反らせて、蟹股の両脚を生やして立たせ、胸ビレを古い航空機のような硬質の翼に変換する。ジェイはいったん手をとめて、デスクの奥を占める透明なスクリーンに浮かぶサレット(Sullet)の図像を眺めながら、全体のバランスを確認した。物理演算にかけたときの調整によりずいぶんと幅広の足になってしまったが、彼としてはさほど気にしてはいなかった。

既存の生物を使ったにしては上出来じゃないか、とジェイは思った。この子がじっさいに動くとなったらもう授業どころじゃない。リー先生に送信するまえに、この愛くるしいデザインをティムにも見せてやろうか。

ジェイは机上のパネルを操作し、オンラインクラスルームにアクセスした。級友のティム・サテルが自分と同様に自室のデスクに向かって工作の課題と奮闘している様子を確認すると、特定の生徒間のみで会話ができるコンパートメントを設定し、ふたつのデスクを接合した。終業までの期間、生徒たちはこうして学校のサーバを経由したコミュニケーションツールを自由に活用することができる。

ジェイに呼びかけられたのを知らせるメッセージがティムのデスクに表示されると、ほどなくして額を弛ませた彼が映像に顔を出した。「新しいポケモンはできたかい?」

「まあね」ジェイは得意そうに口元をゆるめた。「でももしポケモンなら、きっとすでに似たようなやつがたくさんいると思う」

「あっちは2億匹もいるんだから当然さ」ティムはまぬけな顔で頬杖をつきながら、もう片方の手でスクリーン上の邪魔なアイコンを消去していた。

彼らはポケモンをはじめとする様々な空想生物のデザインを、学校指定の教材で嫌というほど見せられていた。それらがどんな目的でデザインされたものなのかは知らないが、生徒たちにとってその形状からじっさいの動きを想像する訓練にはなかなか役に立つ資料だった。

「ほら、見てよ」ジェイが先ほどのずんぐり体型に翼の生えた二本足のイルカを画面の端に表示すると、ティムはその図像を手元で回転させながらしばらく黙って観察した。相手の予想外に静かな反応をまえにして、ジェイは座席を回転させてスクリーンから目をそらした。

「もうすこしスマートにしたほうがいいんじゃないか?」ティムがわずかに顔をしかめて言った。「このサレットは、ゆっくり歩く以外のことはできなそうだ」

「これでいいのさ」ジェイはやや不機嫌そうに声を低くすると、自分の描いた図像をあらためて見つめた。フグのような胴体から鋭い翼を伸ばした不格好なイルカがまぬけな表情をこちらに向けている。「名前はポウ。もう決めたんだ」

「ふうん」ティムは笑いをこらえるようにうつむいたかと思えば、すっと顔を上げてふたたびジェイに視線を送った。「おれのアンフィスバエナも見るかい?」

突如、画面いっぱいに映し出される双頭の蛇――眼はハエのように赤く、とぐろを巻いた胴のメタリックな表面には乳牛のような斑模様が施されている。尻尾に代わって口を大きく開いたもうひとつの頭が、下顎まで伸びる鋭い牙を光らせていた。それを見たジェイは動揺を隠すように無言でそのサレットの形状を観察し、精一杯の余裕を示しながらかすかな笑い声を漏らした。画面の隅へ縮小しながら移動したティムの顔がわずかに舌を出して口角をつり上げている。

「こいつの優れた点は」と彼は言った。「まず死角がないことだ。一方の頭が前を見ていても、もう一方が左右と後方をつねに見張っている。そしてとにかく動きが俊敏で軽やか! おれの計算によれば、時速にして30キロは出せる予定だぜ」

ジェイはティムの話にフウンと相槌を打ちながらも、そこまでの性能を組んだサレットを、まだ子供の彼がじっさいに形にできるのかは甚だ疑問だった。というのも、サレットはそこいらの粘土細工とはわけが違うのだ。サレットは特殊素材、不思議で愉快な万能素材。あらかじめ設計したデザインに基づき、内部に無数のナノマシンを包含したゼリー状の物質を成形してつくられる人工のペット。ジェイはこのサレットを自らの手でつくる高学年の授業をずっと楽しみにしていた。入学当初の登校日、校舎脇の石畳につまずいて転倒しそうになった彼の体を、見知らぬ上級生のサレットがふんわりと受けとめてくれたのだ。あの不思議なやわらかい感触、地面との隙間に一瞬ですべりこむ華麗で俊敏な動作がことあるごとに心に蘇り、何度も何度も自分でつくるオリジナルのサレットを妄想してきた。

しかし、いざ描画をはじめてみると、ジェイはそれが想像よりもはるかに難しい作業であることを実感した。形態のデザインによって自立と挙動のプログラムを組み立てるというサレット特有の製法は、こだわりさえ捨てれば感覚的なパッチワークだけで一応の個体として仕上げることは可能だが、より実用性の高いものを完成させるとなるとかなり豊富な形状パターンの知識が求められることを授業で知った。ジェイは泣く泣く構想していたオリジナルのデザインをあきらめ、学校からサンプルとして渡された数千枚の画像群から、数種のイルカの平均的な特徴を抽出し、自作サレットのベースにしたのだ。

「さっき先生に見せたところ、おれのサレットは自立度が学年でも上位だそうだ。まあ、次の登校日を楽しみにしていてくれよな」ティムはそう言うと、画面にわざとらしい笑顔を近づけてから一方的にコンパートメントを閉じた。

ジェイはふたたび先ほど自ら描いたサレット――ポウの図像をスクリーンに表示して眺めてみた。ティムに指摘されたとおり、たしかにこの子は動作が速いとは言えないだろう。自立度も彼のアンフィスバエナに比べれば断然に低いのかもしれない。たしか自立度が低いサレットの感覚器官は相対的に鈍くなるとか――彼は海岸で拾った書物の切れ端に書いてあったことを思い出す。とはいえ自立度を上げるにしても、ポウの丸っこい胴体をただシェイプすればいいというものではない。無駄なく連動する筋肉の存在を正確に示唆するフォルムをデザインしなくては、安定した自立度を確保することはできないのだ。設計の対象が筋肉や骨格ではなく、あくまで外見の姿形であるところがサレットづくりの難しいところ。

ジェイは工作科目担当のリー・サプライヤ宛にメッセージを送った。もちろんポウの図像を添付したものだ。10分ほど経過してから、リー先生の教卓がジェイのデスクに接合されたことを示すメッセージが届く。ジェイはスクリーンに映ったリー先生に軽く会釈した。

「ジェイ・サンクウ、あなたはとても素直に自分の感性にしたがってサレットをデザインしましたね?」

「はい、リー先生。でもおかげで最低限の自立度しか確保することができませんでした」

「仮測定器にかけた結果、あなたの描画した『ポウ』の自立度は33.5 indでした。はじめてのデザインとしては及第点でしょう」リー先生は淡々とした口ぶりで言った。

「先生、ポウの愛嬌度はいくつでしたか?」ジェイはさりげなく訊いてみた。

「おや、愛嬌度についてはまだ習っていないはずですが?」

「海岸で拾った本の切れ端を読んで知りました。でも先生、ぼくはまだよくわかっていません。言葉は知っていますが、理解が追いついてないのです」

リー先生はしばらく沈黙したあと、やや早口で説明を開始した。「愛嬌度は主にサレットの挙動と時間に関する指標です。自立度がサレット自身の状態を保ちながら同じ場所に居座ろうとする性質を表すのに対して、愛嬌度は状態を時間とともに変化させ、その場を動こうとする性質を表します。ゆえに愛嬌度の高いサレットは周囲にその状態の保存を呼びかけ、現在位置に留めておきたいという衝動を喚起させるのです」

「先生、その説明は切れ端に書いてありました。もっとわかりやすくお願いします。あと、ポウの愛嬌度はいくつでしたか?」

ジェイの質問を受けてふたたび硬直したリー先生は、先ほどよりもおだやかな口調でゆっくりと話しはじめた。「では、サレットの表情に注目してみましょう。自立度は顔立ちを形成し、愛嬌度は顔つきとして表れます。わかりましたか?」リー先生は口角を下げた。「愛嬌度の数値はまだ教えることができません」

ジェイは同じ内容を再度尋ねる。「ポウの愛嬌度はいくつでしたか?」

「愛嬌度の数値はまだ教えることができません。同じ内容の質問をこれ以上くりかえすと懲罰対象になります」リー先生は冷たいまなざしでジェイのほうを見ていた。

「わかりました」ジェイは不服そうに言った。「リー先生、ありがとうございました」

デスクは教卓から離れ、スクリーンにはふたたびポウの図像が映った。

 

登校日。ジェイは海沿いの道を歩いていた。遠回りして学校に向かう途中、水平線の一部がかすかに蒼く盛り上がっているのが目に入った。島のなかでもここはとりわけ殺風景な場所で、港や浜辺の代わりに鉄骨で構築された断崖絶壁が足元に長く伸びている。うっかりサレットが落ちてしまわぬよう、二重のフェンスが道路沿いに並んで潮風を防いでいた。

ジェイがしばらくその場に立ち止まっていると、背後から声が聞こえた。通りかかった車の運転手が声をかけてきたのだ。「ねえきみ、あれは日本列島かい?」

ジェイはふりむきざまに首をかしげる。その反応を見た運転手は気まずそうに笑いながら言った。「写真、撮ってもいいかな?」

「あ、はい」とジェイが言うと、運転手は黒い板状の物体をしばらく両手で掲げてから礼を言った。

ジェイは好奇心にまかせて車の近くまで歩み寄り、運転手の目を見ながらためしに訊いてみた。「学校まで乗せてくれませんか?」

運転手は困ったような顔で入念にあたりを見まわすと、黙って後部座席のドアを開けた。ジェイはすこしどきどきしながら車内に乗り込んだ。

「身を伏せて、けっして窓の外から見えないようにね」運転手は発車するまえにふりかえって注意をした。ジェイにはその理由がわからなかったが、はじめて車に乗せてもらうことができたうれしさもあり、彼の言葉に素直にしたがった。

「いいかい? このことはほかの誰にも言ってはいけないよ」運転手は微妙に声をふるわせていた。「とくに学校の先生のまえでは絶対に禁句だ」

「はい」とジェイは小声で返事をしながら、滑るように地面を転がっていくタイヤの振動に意識を向けた。ふと助手席を見ると、シートを大きな鞄がまるまる占領し、その上には一冊の雑誌が無造作に乗っかっていた。表紙にはシマウマとフクロウを交配したような見たこともない動物が描かれている。

月刊サレットフィリア――ジェイがこの書籍の、というよりサレットに関する本の表紙を見たのはこれがはじめてだった。宿舎にある本といえばせいぜい校長の自伝くらいだ。以前、島の海岸で拾った2枚の切れ端はもしかしてここから抜け落ちたものだろうか? そう思って彼はそっと手を伸ばす。

「だめだよ」運転手はその雑誌を取り上げると、ジェイの手が届かないドアポケットに押し込んだ。「きみがこれを見るのはまだ早い」

「どうして?」ジェイはやや不満げに言葉を返した。

運転手は何も答えなかった。彼はじっと前方に目線を合わせたまま、時おり左右を見まわしていた。そしてしばらく走り続けたあと、学校まであと数分のところで車を停め、ジェイにすぐさま降りるよう指示した。

「すまない、悪気はないんだ」運転手は降りようとするジェイに握手を求める。その誠実そうな表情にジェイは困惑し、自分の手のひらをちらっと確認した。握手を交わすのは、何年もまえにティムの手を握って以来のことだった。

運転手の手にそっと自身の手を重ねてみたジェイは、瞬間、その異様なあたたかさにのけぞりそうになった。全身を電気が駆けめぐるようにぎょっとして手を引っ込めると、彼はそのまま駆け足で車から離れた。

 

登校日の学校は、島中の宿舎から集まった大勢の生徒たちで賑わっていた。上級生グループの多くはサレットをつれて歩き、行き交う多様な交雑種や幻獣の類がジェイの目をせわしなく動かした。人間の顔で微笑みを飛ばしてくる人面犬や、飼い主の生徒と見まちがえるような二足歩行のサレットもめずらしくなかった。

普段と同じ日ならしばらく観察していたいところだが、この日の彼の目的はポウの誕生に立ち会うことだ。雲ひとつない初夏の日差しが照りつける中央広場を抜けて、精製室がある第三棟を目指す。

「ジェイ・サンクウ」精製室の手前にある認証ゲートをくぐったところで、ジェイは校長のボウデン・ボウデンに後ろから呼びとめられた。ボウデンはちぢれた黒髪を揺らしながら、潮風で干からびたような声で言った。「きみの拾った雑誌の切れ端とやらはどこにあるかね?」

ジェイは即座にリー先生にポウの図像を送信したときのことを思い出した。あの会話はこの校長に筒抜けだったのだ。しかしそれ以前に、この切れ端がいったい何だというのだろう? と彼は思った。ボウデン校長はいつも顔や歩き方から威圧感がにじみ出ていて、できればあまり関わりたくはない。

「これですか?」とジェイがポケットから折りたたまれたサレットフィリアの切れ端を出すと、ボウデンはそれを指先で奪い取って食い入るように眺めた。どうやら書かれた内容の隅々までを確認しているらしい。

「これは預からせてもらうよ」ボウデンはそう言って背中を向けた。「今後、こういうものを拾ったら学校に届けるように」

 

ジェイが精製室に入ると、奥の壁に埋め込まれた冷蔵庫の化物が目に入った。あれがサレットの精製器だ。精製器のまえには操作パネルが設置されており、生徒たちが列をつくって待っていた。生徒の何人かはなぜか途中で列を抜けていく者がいて、ジェイは不思議に思ったが、待ち時間が減るのは大歓迎だった。

精製器の内部から素材を加工する音が聞こえてくる。はじめて体験する波打つ金属音のような音色に、ジェイはいささか動揺しながら精製室の内装を眺めていた。壁際に並んだ水槽には数種のカラフルな海藻が揺れている。湿気で曇った窓からはぼんやりとした陽光が漏れ、加工前のサレット特有の錆びた鉄のような臭気が室内に充満していた。列が前方に進むごとに、ジェイは精製器の正面に開いた小窓からサレットの質感をまじまじと観察できるようになった。淡い紺碧色のゼリーの内部では無数の粒子がうようよと蠢いている。

先頭の生徒が設置されたパネルに手をかざすと、数分後には彼のペットとなる新しい生命が誕生する。受け取り口は第三棟のエントランスを抜けた先の仕上げ室にあるため、精製器の認証を終えた生徒はそそくさと部屋を出ていくのだった。

サレットはいつ生命を吹き込まれるのだろう、とジェイは思った。リー先生の授業によれば、サレットはあくまで生命活動を疑似的に再現する特殊素材の一種にすぎない。このゼリー状の不思議な物質が生きているわけではなく、包含されたナノマシンがある刺激を加えられることによって変形し、あたかも生命体のように活動しているだけだという。

だが、とジェイは思った。生物がそんな簡単に再現できるものだろうか?

入学してはじめて上級生のサレットに出会ってから、幼くも自作サレットの構想ばかりを頭に描くばかりで何も気にしていなかった。サレットとはそういうものだと思っていたのだ。なのに、どうしていまさら? サレットは特殊素材、不思議で愉快な万能素材。ならその素材はどこからやってきた? ただの素材がどうして生物を思わせる様態にまで変身することができる?

ジェイはそれらが馬鹿げた疑問であることは承知していた。自室にある木製のデスクだってもともとは生きていたのだ。でもそんなことを一度でも気にしたことがあったか? やっと自分のサレットに会えるんだ! いまさら気に病むほうがどうかしてる!

ジェイはどういうわけか、次第に乗り物に酔ったような気分になっていた。精製器の内部からは耳の奥を揺さぶるような音が断続的に響いてくる。彼のまえに並んでいた生徒の手続きが終わり、ようやく順番がまわってきた。が、操作パネルに指を触れてガイドにしたがうもアイコンの文字がかすんでうまく進まなかった。湿気と臭いにやられたのか、急に全身の皮膚が張り裂けそうな感覚がジェイを襲った。

苦闘すること数分、やっとの思いで認証を終え、ポウの成形を開始する。待ちに待った瞬間のはずだったが、いまのジェイに感慨にふける余裕はなかった。受け取り口の番号を確認すると、彼は急いで精製室をあとにした。

第三棟のエントランスは最上階までの吹き抜けになっている。天井近くの窓から流入してくる潮の臭いに、ジェイはそのときはじめて気づいた。広間の中央に浮かぶ球体のオブジェの下を抜けて、指定された仕上げ室までの廊下を歩く。いくらか気分は落ち着いてきたものの、自作のサレットとの初対面に得体のしれない不安を感じはじめていた。

廊下に並んだ仕上げ室のドアのひとつを指紋で解錠して入室する。ジェイはますます緊張してきた。

右手の壁に大きく開いたトンネルの出口から、ポウのかたちをした紺碧色のサレットの原型が登場。ガラスの小部屋のなかにストンと収まった。ジェイが手前にある操作パネルに指を触れると、ポウの全身サイズや柔軟性、形状に関する細かいデータと、そこから導かれる最終的な自立度の数値(33.9 ind)が表示された。最終確認の手続きを終えるとコーティングが開始され、ポウのデータに合わせて弾力が調整されたゼリーの表面は、淡く青みがかったグレーの保護膜に覆われた。

小部屋の正面が開くと、ポウはイルカに似合わない不自然な二本足で立ち上がり、ジェイの近くまでやってきた。目線は彼よりもすこし下にある。

「やあ」とジェイは言った。「こんにちはポウ、ぼくの名前はジェイ・サンクウだ」

教材用のサレットには鳴き声が設定されていないので、ポウは胸ビレの位置から生えた硬質の翼を上下させて反応した。翼が生えているからといって飛べるわけでもなく、できることといったら歩いたり走ったりすることくらいだ。ジェイがドアを開けてやると、ポウはのそのそと仕上げ室から出ていった。飼い主にかまう様子もなく廊下を歩きながら、あちこちを観察してまわっているようだった。

彼がポウのあとに続いてエントランスに戻ると、ティムがアンフィスバエナを従えて立っていた。

「よう、ジェイ」彼は揚々と叫んだ。「なんだ! そのとろそうなイルカは」

「ほっといてくれ」ジェイは自分のほうに引き返してきたポウの頭をなでた。「そのでかい蛇の自立度はいくつなんだ?」

「62.8 ind」ティムが鎌首をもたげた頭に手を置くも、双頭蛇は微動だにしない。「安心しろよ。おれが命令しないかぎりは絶対に攻撃しない」

ジェイが警戒した様子を見せると、ティムは彼のほうに歩いて接近し、急に数年前の無邪気だったころに戻ったような口ぶりで言った。「ところでジェイ、おまえ愛嬌度って聞いたことあるか?」

「ああ」ジェイはむきになって即答した。「もちろん知っているとも」

ティムが声をひそめて言う。「おまえのサレットは自立度こそ低いが、愛嬌度はなかなかのものかもしれないぞ」

「でも、リー先生は教えてくれなかったよ? きっと最上級生になるまではダメなんだ」

ジェイがそう言うと、ティムはへっへっへと笑いながら強引に肩を組み、彼の耳元でささやいた。「おれに任せろ。少々危険だが、いい方法を教えてやる」

 

ファンディ・エトは窓枠にひじを乗せ、眼下を高速で走り去る波の模様をぼんやりと眺めていた。海面を滑るように低空飛行で進むこの浮遊船は、船舶としては小型だが波にあおられる心配がない。そのため船酔いもなく、ファンディは終始おだやかな気分ですごした。

インドネシアのスマランから片道約5時間の旅を経てファンディが到着したのは、北太平洋に浮かぶ巨大人工島MUである。

ファンディは大学でサレットの研究をしている。サレット研究者は、サレットを物質として扱うグループと生命として扱うグループの二派に分かれているが、彼は世界中でもごく少数しかいない後者に属していた。物質派が圧倒的に多い理由は単純で、そのほうが多くの人間にとって好都合だからだ。

現在、世界中で利用されているサレットの始祖は、2089年にマリアナ海溝の底で発見された。探査船が採取したのは小粒の岩石のはずだったが、船内の水槽に入るとその姿を変え、いくつかの塊に分裂した。このゼリー状の物体は外部から取り込んだ無数の微生物を包含しており、微生物たちはサレットの一部になることによって変異する。彼らは互いに電気信号を送り合うことでネットワークを形成し、本体であるゼリーの表面に受けた外部刺激をもとに、状況に応じてその形状と硬度を変化させていた。さらに、彼らは水圧の変化によって分裂し、分化したそれぞれがまた新たな微生物を取り込むたびに膨張することが明らかになった。

2092年、復旦大学の研究チームが大型の可変圧水槽を用いたサレットの人工増殖に成功。その2年後には国際サレット協会が発足し、ゼリーの表面を保護する特殊フィルムを開発した。彼らは微生物に代わって大量のナノマシンをサレットに取り込ませ、ネットワークを拡充することで光や音の受容も可能にした。サレットはプログラムに応じて様々な形態にその姿を変化させる万能素材として話題を呼び、はじめはユニークな記録媒体として、やがては新種のペットとして商品化されていった。

これがいったいロボット犬とどう違うのかね?――サレット製の犬を指してそう断言する専門家の声は各所で頻繁に引用された。ひとたびサレットを生物と見なしてしまえば、大抵の国でペットの飼育に関する法律や倫理規定がきわめて厄介な障壁となる。新しいサレットの購入や古くなったサレットの廃棄についての決断を、利用者に躊躇させることのメリットは、どの人工ペットメーカーも見出してはいなかった。

ファンディはMUの視察許可を得るまでに2年もの期間を要した。MUを運営する国際サレット協会の審査を受けるためには、まず会員による紹介が必要だったからだ。彼は知り合いを伝手にメッセージを送り続け、ようやくの思いで会員の日本人女性と面会することに成功した。ファンディは持ち前の愛嬌であっというまに相手と親しくなり、彼の熱意に打たれた新しい友人は喜んで紹介状を書くに至った。

 

船が港に接岸してまもなく、乗り合わせていたほかの会員たちはいくつかのグループに分かれて散っていった。ファンディがタラップを降りていくと、古めかしい電気自動車に乗ってやってきた会長のボウデン・ボウデンが彼のほうに近づいてきた。会長とは面接のとき以来の再会で、直接会うのははじめてだった。

「ようこそMUへ」ボウデンは日に焼けた手を差し出して言った。「映像で拝見したとおりの好青年の来島を心より歓迎します」

ファンディがボウデンの手を握ってあいさつすると、さっそく近くにある屋外エレベーターに乗るように言われた。そっと断崖を見上げてみると、壁沿いに上から垂れ下がったレールが何本か走っており、足元は10メートル四方にわたって地面の色が変わっていた。自動車のような大荷物がある場合はこの大きな板に乗って地上階へ向かうらしい。

ボウデンが車を運び終わると、エレベーターは静かに上昇をはじめた。ファンディはすこし緊張した表情で棒立ちになって頭上を眺めていた。しばらくして、島の下層を構成する錆びた鉄骨と青空の境界から3本の円筒が生えてくるのが見えた。

「あそこにあるのは?」と彼はボウデンに尋ねた。

「ええ、あれが」ボウデンは窓から顔を出してにこやかに言った。「レベル5・サレットの施設ですよ」

「噂には聞いていましたが……」ファンディはやや言葉につまった。はるか下の防波堤に砕かれる波の音が聞こえた。「想像していたよりも立派な建物ですね」

 

地上階に到着すると、3本のタワーは島の中央にそびえ立つシンボルとしてより強い存在感を示していた。手前に広がる森の入口にはアーチ形のゲートが設けられており、島の外周を囲む道路が分岐して森の奥まで延びている。近くには自動車が3台、いずれも潮風を浴びて随所に錆の入った手動運転車が放置されていた。

「お好きなのをどうぞ」ボウデンが徐行運転で近づいてきた。「わたしは向こうに用事があるので、17時になったら施設の第一棟で詳しい話をしましょう。宿舎の場所は先日お送りした資料に書いてあるとおりです」

ではまた、と彼は軽く手で挨拶し、すみやかにゲートを通過して森のなかに消えていった。

ファンディは適当に選んだ自動車の側面に、会員証の映った携帯用端末をかざして鍵を開けると、肩からおろした大きな鞄を助手席に置いて座った。こうした古い車のドアはゆっくりやさしく閉めることができないことを彼は知っていたので、気合いを込めて勢いよくレバーを引き寄せた。手動の運転はヴァーチャルゲームでしか体験したことがなく、エンジンをかけてひと息つくまでには若干の時間がかかった。

やがて微細な振動が心身を解きほぐす。明け方に出発した船旅の疲れが押し寄せてきたのか、ファンディは遠い空と海のかすんだ境界をぼうっと眺めた。

おもむろに鞄からサレットフィリアの10月号を取り出す。これまでにサレット関係の雑誌でレベル5・サレットに言及したものはひとつもないが、ここにはサレット・デザイナー養成学校について書かれた記事が載っていた。島の周囲が不自然にぼやけた数枚の衛星写真と、ちいさな文字がページの隅に密集している。生徒は深海から採取されたレベル1の天然サレットを見学する授業にはじまり、レベル2の人工ナノマシンサレットを用いて、レベル3の生物サレットやレベル4の高度な生物サレットのデザインに取り組むカリキュラムが組まれているという。彼はパラパラとほかのページもめくってから、鞄の上に雑誌を置いて車を発進させた。このサレットフィリア10月号はすでに各国で発売が禁止されている。もし生徒たちが非公開のレベル5・サレットのデザインに着手しているとすれば、なぜ教育機関を装ってまで隠匿する必要があるのだろう? レベル5・サレットなるものの実在はボウデンの発言から明らかになった。やはりあれはただの噂ではなかったのだ。

ゆるやかなカーブの先を横切る水平線上にかすかな陸地の影が見えた。海に面した道路脇には透明なガラス板のようなフェンスが二枚重ねになってずらりと並んでいるが、ファンディはそのとき、そこにひとりで景色を眺めている少年の姿を発見した。

速度を落として車をそっと停止させる。少年の視線の先にあるのは方角からして日本列島だろう、とファンディは思った。彼が例の学校の生徒である可能性は高い。年齢にして推定10歳前後。毛羽だったウェットスーツのような独特の服装が、学校に指定された制服なのかはわからない。

ファンディは迷っていた。協会関係者以外の島民との接触は会則で禁じられていたからだ。彼は会員の誰かの子供? レベル5・サレットとやらのデザイナー候補としてこの島へ? だが、――とファンディはいままで意識から遠ざけていたひそかな直感がよみがえりつつあるのを感じた。信じたくはないが、ありえないはずの事態がこの島のどこかで自分を待っている。そんな予感がこの島特有の雰囲気のせいか、妙に現実的に思えてきた。

ファンディが意を決したように声をかけると、少年はふりむいて彼の顔を見た。彼は少年の表情をまじまじと観察しながら、反射的に写真を撮っていいかと尋ねた。

少年は困り気味に応じたあと、ファンディのほうへ近づいて言った。「学校まで乗せてくれませんか?」

少年は後部座席の足元でうずくまり、ファンディは島の中央部へ向かう道に車を走らせた。なぜ自分がすんなりとドアを開けたのかはわからない。会則で禁じられた行為には違いないが、悪いことをしている意識など微塵もなかった。たとえ相手が子供であれ、ただ通行人に頼まれたとおり車に乗せた運転手に何の罪があるだろう? 禁止する理由がそもそも不明確なのだから、したがう道理もないはずだ。

ファンディがそんなことを考えていると、いつのまにか少年はわずかに体を起こして助手席の鞄を見ていた。彼はそっと手を伸ばそうとするが、ファンディはとっさに気づいて鞄の上に乗せたままにしていたサレットフィリアを遠ざけた。彼は直感的に、この少年にはまだこれを読ませてはいけない気がした。不明確な理由で少年の好奇心を邪魔するのを申し訳なく思ったが、ファンディはサレット研究者としての勘にしたがうことにした。

「ここで降りてくれ」ファンディはいやな予感がした。学校まではまだいくぶんか距離があったが、彼にはここで確かめておきたいことがあった。「すまない、悪気はないんだ」

彼は上半身をひねって、後ろの少年に握手をもとめる。結果はふたつにひとつ。研究者が夢想した幻か、隠されていた現実か。少年は突然の要求に戸惑いながらも、何も疑っていないのか、あるいは疑い半分なのか、表情を固くしてちいさな指先を伸ばし、そっとファンディの手のひらに触れた。

 

真夜中に宿舎を抜け出したジェイは、ポウをつれてティムとの待ち合わせ場所に急いだ。巨大な葉と茎が生い茂る校舎周りの森には鋭利な枝がもれなく切除されている。宿舎から学校へ向かうにあたって、まだ迅速な移動には慣れないポウのようなサレットでも安全に進むことができた。ポウはポウでなかなか学習能力が高いのか、しばらくジェイが先行して走っていると、距離を重ねるごとに翼の縦揺れが減り、すこしずつ体勢を調整しながら独特な走行フォームを身につけていった。

ティムと打ち合わせたとおり、第一棟の裏を囲むフェンスの下には深いくぼみができていた。彼のアンフィスバエナが掘ったものだ。自立度の高いサレットは耐久性もポウとはくらべものにならないのだろう。ジェイはポウの弾力ある尾ビレをぐいっと押し込んでフェンスの向こう側までくぐらせると、自身もいそいで学校の敷地内に侵入した。

第一棟の裏口の手前でティムが待っていた。彼は天然サレットの欠片で緻密に再現されたボウデン学長の親指をポケットから取り出し、ドアのロックを解除した。いったいなぜきみはそんなものをもっているんだ? とジェイは思った。ティムによれば知り合いの上級生にもらったのだという。

エントランスまでの廊下を歩きながら、彼はジェイに親指サレットを見せて言った。「これはレベル1のサレット。で、授業で使う素材の状態がレベル2、レベル3がおまえのつくったポウ、そしてレベル4がおれのアンフィスバエナ、ここまではいいな?」

「そんな階級の区分は初耳だけど」

「まあ聞けよ」とティムは不敵な笑みを浮かべて言った。「サレットのレベルはこれですべてじゃない。ボウデン学長やほかの先生たちが、生徒には絶対に教えない隠されたレベルが存在する」

ジェイは息をのんだ。たしかに最上級生たちがつれているサレットはみな、ずいぶんと性能を強化されたものばかりだ。しかし生徒にも教えられていないとなると、さらに上が?

「――レベル5・サレット」とティムが小声で言った。「それが今夜、おれたちが正体を突き止める最大の獲物だ」

「そのスーパー・サレットがここにいるのかい?」

「噂ではね。この第一棟は第二、第三棟となにが違うかわかるか?」

ジェイはしばらく考えた。第一棟は基本的に最上級生しか立ち入らない場所で、彼自身も訪れたのは二回目だった。だがエントランスの周囲を見渡してハッと気づく。これだけ高いタワーにもかかわらず、あるはずのものがここにはない。「……エレベーター」

「そう、ここにはエレベーターがない。最上階まで行く手段はそこにある螺旋状のスロープだけだ。これが何を意味するか? つまり自作のサレットを使って登れってことさ」

「なるほど」とジェイは言った。「で、最上階にはなにがあるのさ?」

「おそらく愛嬌度を測定できる装置だ。そしておれの考えでは、レベル5・サレットは愛嬌度となんらかの関係がある」

ティムは自信満々だった。アンフィスバエナが胴体を膨張させて幅を増すと、彼はその上にまたがってスロープの入口まで滑るように移動していった。

ジェイもそれを真似てポウに乗ってみようとした。が、ポウはジェイがまたがろうとすると体をゆすり、何度やっても逃げるようにひとりで走りだしてしまう。

「もしかして乗れないのか?」ティムがかすかに笑いをこらえて言った。

「先に行っててくれ」ジェイは恥ずかしくなって目をそらした。「自分の足で登るから」

ティムは「しかたないな」と言ってするするとスロープを登りはじめた。「夜明けまでには追いつけよ」

 

ジェイがしゃがんでポウの口先をなでると、ポウはジェイの肩に頭を乗せてきた。イルカ特有の弾力ある質感が頬を通じて伝わってくる。彼は自らデザインしたポウの体の形を両手で包むようにして確かめた。

「ついてこられるか?」とジェイが訊くと、ポウは大きくしなやかに尾ビレを振った。スロープに足を乗せてから、あらためて上を見上げる。巨大な螺旋は何重にもつらなって彼方の暗闇に溶けていた。

 

会員専用の宿舎に荷物を置いたファンディは、夕方になってからボウデンを訪ねて学校へ向かった。中央広場にはまだ生徒が何人かいて、全員サレットをつれて歩いていた。敷地奥のタワーは近くで見上げると窒息しそうなほど高く、ファンディは第一棟の正面口を通過するまでは下を向いて歩いた。

エントランスのベンチに座ったボウデンが笑顔で出迎える。「島の観光はいかがでしたか?」

「すばらしい環境ですね」ファンディは警戒しながら言った。「ここの生徒たちはいつもサレットと一緒のようで」

ボウデンはファンディをじっと見た。「わたしも彼らの熱意にはおどろかされるばかりです」

ファンディは彼の視線に気づくと、隣にやや間隔を空けて座った。

「ただ……」とボウデンは声の調子を落として言った。「その言い方には語弊があることをあなたはすでに知っているのでは?」

「ええ」ファンディは表情を固くした。この男はすべて想定した上で、彼に島の道路を巡らせたのだ。「やはり――。これは会員なら誰もが知ることなのですね?」

「もちろん。そのための会員制ですから。そして規約にあるとおり、このことを島外で口にすることはできません。あなたの同僚がみな刺客サレットを警戒しているように」

ファンディは思い切って本題を突き出した。「ここを卒業した生徒たちはいったいどこへ?」

「各国の専門機関に派遣されて、彼らにしか務まらない崇高な任務に就きます」

ボウデンは冷静だった。この種のやりとりは慣れているのだろう。その任務とやらが何であれ、ファンディが知りたいことはひとつしかなかった。

「その任務が自分にまわってきたら、あなたは誇りをもって引き受けますか?」

「わたしには務まりません」ボウデンは微笑んだ。「自分の車を信頼してハンドルを握ることはあっても、他人を自分の肩に担いで何時間も走ったことはありませんからね」

「なるほど」ファンディは高ぶる気持ちを抑えた。「あくまで詳細は秘密であると……」

「秘密というほどではないが、あなたはまだ入会して間もない。いずれさらに詳しくお話しする時期がくるでしょう」

ボウデンはすっと立ち上がってエントランスを離れた。もうこれ以上の対話は受け付けないと言わんばかりの態度だ。

ファンディは先ほど握手を交わした少年の手の異様な冷たさをあらためて想起した。全身がふるえ、呼吸が乱れていた。やっぱりそうだった。とんでもないことをしてやがったんだ、やつらは。ぼくはずっと騙されていた。学者連中のあいだに染み渡った常識、ずっと実現なんて不可能とされてきたはずの錬金術、どこの国においても禁則という名のジョークにすぎなかったあの悪魔の手段が、ほんとうはずっと秘かに実行されていたのだ、この島では――。

 

ティムは最上階でジェイを待っていた。彼がいくつかの真実を知ったのは30分ほどまえのこと。結果から言えば、彼のアンフィスバエナは不合格だった。愛嬌度(31.6 ami)が基準値に達していなかったのだ。しかし彼にとってそんなことはどうでもよかった。問題は愛嬌度の測定で合格ラインを超えたサレットの製作者が、その場で自動的に「卒業」を迎えること、だった。彼は親指サレットを提供してくれた上級生の名前が修了者のリストに明記されているのを見つけた。その上級生が第一棟を登ったのは、おそらくティムに親指サレットを渡したあと、つまり今日の夕方と推測される。彼にもう会うことはないだろうと、ティムは直感していた。彼から教わったことは計り知れない。特殊なデザインのパターン、性能の増設方法、その他いろいろ――ただし、レベル5・サレットの正体とその行末を除いて。

「ティム!」ジェイがスロープの端から顔を出した。「夜明けまでに間に合ったぜ!」

ジェイに続いてスロープから出てきたポウは見違えるような変化を遂げていた。胴はやや締まり、翼は縮小して腕のように可動範囲が増えていた。

ポウは、スロープを駆け上がるごとに成長したのだ。類まれなる愛嬌度によって!

ティムはジェイを測定器のある部屋へ案内した。とはいえ第一棟にある部屋はひとつしかなく、吹き抜けをぐるりと囲む円筒の内壁には意味不明な文字列が大きく刻まれていた――GNOTHISEAUTON

測定器はまるで大きな体重計のような形をしており、サレットを乗せる台座の上で青い円盤が光っている。ジェイがポウを乗せようとすると、ティムが慌てて制止した。「ダメだ。まずはジェイ、おまえから乗らなくちゃいけない」

ジェイはティムの言う意味がわからなかったが、かつてないほど緊迫した彼の声色に、黙って言われたとおりに台座に足を乗せた。これは測定器特有の手続きなのだろうか、もしかして最初に製作者を特定しているのだろうか、あるいは……

「愛嬌度382.3 ami、自立度316.0 ind」ティムが表示された画面の数値を読み上げた。「このサレットはレベル5に達しています。製作・育成カリキュラムをスタートさせてください」

ジェイがティムのほうを見て言った。「いったいどういうジョークだ?」

「おれもまさか機械にジョークの才能があるとは思ってなかったよ」ティムの声はふるえていた。暗闇のなかでも彼が真剣に言葉を発しているのが伝わってきた。画面にはほんとうにそのように書いてあるのだ。

青い光がシュルシュルと回転する暗い室内に、重い沈黙が流れた。

突如、ティムの背後でドアの開く音がした。瞬時にアンフィスバエナが片側の首を立てて威嚇の体勢をとる。

ジェイは台座から降りてポウを抱えるように構えた。そしてドアを開けた大きな影が視界に入るやいなや、彼はそれが校長のボウデン・ボウデンであることを察知した。

ティムも同時にボウデンのただならぬ攻撃的な雰囲気を感じとり、即座にアンフィスバエナに命令を下した。「アンフィ、やれ!」

ボウデンはドアを開けた瞬間に鋭く牙を剥いた大蛇が襲いかかってきた反動で後退し、よろめきながら廊下に出た。あとを追ってアンフィスバエナとティムが飛び出し、ジェイはポウと一緒にティムの背中を追いかけて飛び出した。

不運なことに、ボウデンが退いたのはスロープに近い方向だった。彼は息を切らせながら叫んだ。「ティム・サテルとジェイ・サンクウ! おまえら最上級生でもないくせに、こんな時間にここで何をしている?」

「……サレットの愛嬌度を測りにきたんですよ」とティムが言った。彼は隙を見てスロープまで突破できるタイミングをうかがっていた。

「ほう、では不合格だったようだな。だがそれだけではあるまい?」

まだ何かが隠されているな、とティムは考えた。ボウデンはおれたちがここにいることから不合格だったことを言い当てた。じゃあ、もし合格していたら、おれたちはいまごろどこに……?

「ボウデン先生、ひとつ教えてください!」ジェイが大声で言った。「ぼくたちは……サレットなんですか?」

 

ファンディは深夜になるまで第二棟最上階の倉庫に身を隠していた。さいわい今夜は海風が比較的おだやかで、第一棟への侵入を試みるには絶好の機会だった。彼はボウデンと別れてから宿舎まで戻り、荷物内の専用ケージから自前のサレットを連れ出してきた。生徒たちに見られないよう、サレットとは別行動で中央広場を抜け、誰もいないことを入念に確認しながら第二棟のエレベーター前で合流した。彼らが最上階にたどり着いたころにはすっかり夜になっていた。

ファンディのサレット――コウキチはレベル4・サレットのなかでもかなり高度なデザインが施されており、動物でいえばムササビの形態に近かった。風をうまく味方につければ、ファンディの体を乗せたまま長時間の滑空に耐えることができる。彼はコウキチに絶大な信頼をおいていた。

ファンディは暗闇のなかで倉庫内の大窓を両手で押し上げると、コウキチに合図をした。コウキチは約1.5倍の大きさまで体を膨張させ、プオオオオと鳴き声を上げると、ファンディをその背中に乗せて窓枠を飛び越えた。塔間を吹き抜ける海風が飛膜を広げたコウキチの体をあおり、彼らはちょうど斜め前方に建った第一棟の方向へ押しやられ、最上階の下部に取りつけられたテラスへと降下していった。まるではじめからこの動線での侵入を計算に入れて設計されたかのような配置だな、とファンディは思った。

吹き抜け部分を囲んで周回する廊下の床が見えたとき、聞き覚えのある少年の声がファンディの耳に届いた。

「ぼくたちは……サレットなんですか?」

ボウデンはしばらく沈黙してから話しはじめた。「きみたちがその自覚をもつのはまだ早い。ここの生徒は自分の育てたサレットがレベル4の一定値を超えた段階でようやく、最上階の測定器にたどり着くよう設計されているのだ。合格した自作サレットは、やがて愛嬌度にしたがってレベル5まで成長し、育ての親に代わって新しい生徒となる。親サレットは測定室にてリー・サプライヤにより一時凍結され、人間に代わる兵士として各地の紛争地帯に派遣される。これは人間の兵士の無益な損失を防ぐためのシステムだ。すべては尊い人命のため。レベル5・サレットはその愛嬌度において、人間の赤子はおろかどんな動物にも勝っている。サレットは敵を殺す能力こそ武装した人間に劣るものの、敵の殺意を殺して隙を生むことにはどんな生物よりも長けているのだ。保護膜に覆われたサレットの体を傷つけられるものがこの島にないのはそのため――。だからこそ愛嬌度は、自立度とはべつに最後の測定器ではじめて通告されるのだよ」

ジェイは言葉が出なかった。前方に立っているティムの背中は、ここに侵入してスロープを登りはじめたころよりもだいぶ弱々しく見えた。

ボウデンは続けた。「とはいえ、きみたちはこんな話をされてもよくわからないだろう。どうせ2体とも明日には再利用器に送られるだろうから教えてやるが、ここは国際サレット協会、つまり人間たちがつくったMUという島だ。海の底から採取された天然サレットの加工に限らず、ほとんどの国や地域で禁止されているヒト型サレットの製造が地球上で唯一、秘密裏に認められている公海上の特区なのさ……」

ボウデンは余裕の笑みを浮かべ、手すりに寄りかかって4体のサレットを見下ろした。人工サレットはほかの生物に比べて異様に学習能力が高いが、同時にきわめて脆い素材だ。こいつらはナノマシンのプログラムによってヒトの物真似をすることで、はじめて役に立つ無償の量産歩兵となる。事実、この10年間に戦場で失われた人命の数はかつてないほど減少しているではないか。こいつらの愛嬌にやられていては、この仕事は務まらないのだ。

ティムが肩をふるわせながら言った。「敵を殺す能力が人間に劣るだって? おれとアンフィスバエナがそんなサレットの生態に気づいてないとでも思っているのか?」

ボウデンが身構える。ジェイはポウを守ろうと構えたが、ポウはジェイの前方に進んでちいさくなった翼を上に反らせた。ティムがふりかえってポウとジェイのほうへ顔を向けた。彼は口を開きかけたが、そのまま表情を歪ませてじっとジェイの目を見ていた。そのまなざしは入学当初の、いやそれよりもっと以前のかすかな記憶のなかに埋もれた、サテルという名のレベル4・サレットの姿を一瞬だけ、ジェイに思い出させた。

ふたたび彼らに背中を向けたティムが叫ぶ。「アンフィ、おれを噛め」

瞬間、ティムの首筋に突き刺さる2本の鋭い牙。淡い紺碧色のゼリーが彼の体内からほとばしるように溢れ出した。

ティムのつくったアンフィスバエナは、胴体の硬度を移行することによって、通常のサレットの限界を超えた鉱物級の硬さを牙に与えることができる。彼が自作サレットのモデルに柔軟な動作を得意とする大蛇を選んだのは、まさにこのためだったのだ。

「ティム!」とジェイは叫んだ。ティムの体内から漏れ出したゼリーを、アンフィスバエナのもう片方の頭が吸引している。崩れていくティム、色あせていくティム。保護膜と布製の制服だけが彼のいた場所に残されていく。

ファンディは意を決して廊下に飛び出した。あのティムと呼ばれるレベル5・サレットの少年が何をしようとしているのか、ようやく彼は理解したのだ。あの子はレベル4のサレットに自分自身を吸収させ、自立度の爆発的なインフレーションを引き起こそうとしている! おそらくサレットを製作・育成する能力を持った親サレットが、自らを材料と見なして子に提供することで実現可能な捨て身の攻撃!――だが、それはまちがっている。サレットは生物なのだ。きみには何の目的も任務もない。ずっと人間と関わらずに暮らしてきた深海生物なのだ。きみはそんなことをするために生まれてきたんじゃない!

ボウデンが叫んだ。「無駄な抵抗はやめろ! この三等兵め!」

ボウデンは内心おそれていた。サレットがこのような捨て身の攻撃をしかけてきたとき、はたして人間にとってどれほどの脅威となりうるのか。彼もまた未だかつて経験したことのない事態であり、それを防ぐためにこそ、己を自覚したレベル5・サレットはすみやかに顧客のもとへ届けてきたのだ。

ジェイは目のまえで身をひねって膨張していくアンフィスバエナが、いつしかおそろしい三頭の龍に変身するのを見た。「ティム!!」

三頭龍は体内で何かが蠢いているかのように、不安定な形状のまま揺れていた。頭部がひとつに融合しようとする直前、天窓が割れんばかりの咆哮が第一棟の全体に響いた。

ファンディはコウキチにボウデンの身を守るよう援護の要請をしたが、どういうわけかコウキチは、じっと三頭龍を見つめたままその場を離れようとはしなかった。

背後から突然あらわれた新規会員の青年にボウデンが気をとられたその瞬間、ひとつに融合してドリルのように尖った三頭龍の頭部が電光石火の動きでボウデンの胸元を貫いた。

ジェイは叫びながら三頭龍の頭に駆け寄った。かつてティムだった巨大なドリルは、歪みもだえながら急激に収縮をはじめていた。

ファンディはボウデンに触れるまでもなく、彼が息絶えていることを悟った。しかし、いまはそれどころではない。小刻みにふるえる三頭龍のそばで必死に声をかけているあの少年を、早急に避難させなくてはならないからだ。

彼がとっさに叫ぼうとしたそのとき、ティムとアンフィスバエナに包含されていたそれぞれのナノマシンが、三頭龍の体内に無理やり同居させられたことによって免疫プログラムを発動し、体内の異物を互いに強制排除しようと四方八方に自立性の矢を分散させた。

破裂。

砕け散るゼリーの粒と塵のようなナノマシンの大群は猛烈な吹雪のようにジェイを襲い、その衝撃は彼の体を手すりの外まで吹き飛ばした。

 

巻き上げられていく螺旋スロープの渦。きらきらと宙を舞って落ちてくる破片を眺めながら、ジェイは次々によみがえってくるむかしの記憶を探っていた。生徒として登録される以前のかすかな記憶――サテルが飼い主とともに長いスロープを駆け上がり、サンクウはアイを背中に乗せてあとを追いかけた。だが登りはじめてまもなくの転倒。走れなくなったサンクウはアイに背負われ、そのまま測定器まで運ばれた。いつものことだった。サンクウはアイの動きを真似て歩き、アイを真似て表情の変化を得た。サレットは飼主を模倣する。もし人間の自立性に誘導されなければ、どこまでも姿を変えて成長するのだ。けれどもアイは人間としてサンクウを育てた。サレットがサレットを育てることでより高い自立度を獲得した。サンクウのまえから姿を消したあの日まで、アイはたしかにサンクウの育ての親だった。

ジェイはわが子に思いを馳せた。このまま自分がいなくなったら、ポウはこれからどうするだろう? 人間になることもなく、この島で生きていけるだろうか? 結局、最後までポウの愛嬌度はわからなかった。けどきっとすばらしく高いはずだ。いつか誰かが放っておけなくなって、代わりに育ててくれるにちがいない。あの日、アイがわざわざぼくを背負って長い坂道を登ったように――。

 

「ポウ!」とジェイは叫んだ。淡いオレンジに染まりはじめたガラスの天窓を背景にして、二本足の不格好なイルカが螺旋の縁を蹴ってぐんぐんとこちらへ接近してくるではないか! ジェイはポウの体を空中でがっしりと受けとめた。その瞬間はいまの自分が落下しているなんて彼方の夢にすぎなかった。

ところがふと下に目をやれば、エントランスの床もぐんぐんとこちらに接近中! その速さは上からやってきたポウの比ではない。このまま床に叩きつけられれば、きっとティムのようにゼリーになって飛び散ってしまうだろう。

せめてこの子だけでも、とジェイは思った。そしてとっさにポウの胴体を胸に抱えて上を向き、覚悟を決めたように歯を食いしばって目を閉じた。

 

遠くからかすかに聞こえる波音をかき分けて、風を切り裂く音がした。ジェイは自分のわずかに横を何かが凄まじい速さで通過したことに気づいた。全身に衝撃が走ってとっさに目を開けてみると、そのときにはすでに、彼はポウとともにふんわりとしたやわらかいサレットの表皮に包まれていた。

コウキチが誇る2860.6 amiの愛嬌度は、仮にヒト型への成長を促すナノマシンが含まれていればとうのむかしにレベル5を超えている数値だった。この大きなムササビは極度に膨張した飛膜と手足をスロープの手すりにかけ、抜群の伸縮性を持った体を最大限に沈みこませることにより、弾丸と化したジェイとポウの落下速度をすばやく殺すと、ほんのわずかな反動すら許さない永遠のやさしさで軽やかに受け止めたのだ。

 

10

エントランスのベンチにジェイが座っていると、ファンディがスロープから降りてきた。

「ケガはないかい?」

「ええ」ジェイは床に散乱した破片を指でつまんでいた。「サレットにケガはありません。生きているか、死んでいるかのどちらかですから」

少年の言葉を聞いて、ファンディは妙に成熟した印象を受けた。人間さながらの自意識を与えられたサレットが自らの正体を知る経験は、彼の想像をはるかに超えていたのだろう。

「ぼくはファンディ。きみは、名前は何ていうんだい?」

ジェイは顔を上げてファンディを見た。あのときの運転手。かつてはいずれ自分もそうなるだろうと想像していた、大人の姿がそこにあった。まぎれもなく彼は人間なのだ。

「サンクウ」とジェイは言った。「ぼくの名前はサンクウです」

 

ふたりはポウとコウキチをつれて学校の外へ歩いた。明け方の薄暗い森を抜けると、道路を挟んで海が見えた。ポウがフェンスに駆け寄る。コウキチもそれに続いてプオオオオと大きな鳴き声を上げた。その声に反応したポウは口を開閉しながら身をゆすった。

ジェイは白んだ空を吸い込むように景色を眺めた。ここは彼がファンディに声をかけられた場所。いまとなっては懐かしくすら思えた。

「ぼくを車に乗せてくれたのはファンディ、あなたがはじめてでした」

「それはよかった」とファンディは言った。「……きみはこれからどうするつもりだい?」

ジェイはしばらく正面をじっと見つめ、フェンスをよじ登ろうとするポウの頭をなでて言った。「海の底まで潜ってみようかと思います。ポウと一緒に」

「いい考えだ」とファンディは言った。「15年ほど前、人間の手で最初のサレットが発見された場所がこの先の深い谷間の底にある。でも、深く潜ればそのぶんとんでもない水の重さが全身にのしかかるんだ。もしきみとポウを覆っている保護膜が破けたら、もうここに戻ってくることはできないよ」

「いいんです。それで」ジェイはそう言うと、不思議なほど清々しい気分になった。

「ひとつ頼みがあるんだけど、いいかな?」ファンディはコウキチを抱きかかえながら言った。「この子もつれていってほしいんだ」

「もちろん」とジェイは言った。

コウキチはプオオオオと鳴いてファンディの腕から抜け出し、フェンスをよじ登っていく。その声に呼応するようにして、唐突に別の新しい鳴き声が彼らの頭上に響いた。

「ポウ!」とジェイは見上げて叫んだ。フェンスのてっぺんに翼をかけて、ポウが甲高いケーナのような鳴き声を上げていた。

コウキチはファンディのほうをふりむくと、体をひねるようにして顔を近づけてきた。ファンディが頬を寄せて「さようなら」と言うと、プオンプオンと鳴きながらポウの隣まで登っていった。

ポウはちいさな翼を広げてフェンスの上縁を蹴った。コウキチがそれに続いてゆるやかに落下し、海面すれすれの上空でポウを背中に乗せて滑空した。

ジェイはフェンスに登ると、上からファンディに握手を求めた。熱さと冷たさが両者の手のなかで交錯し、一方は慣れ親しんだ太陽の光を、もう一方はまだ知らぬ深海の暗闇をそれぞれ思い浮かべた。

 

少年の新たな旅立ちを見送ると、ファンディは踵を返して森のほうに歩きだした。島には、学校の宿舎には、まだたくさんのレベル5・サレットたちがいる。先のことを想像するだけで不安に押しつぶされそうだったが、いまの彼にとっては、残りの生徒たちをどうすべきか考えるほうが先決だった。おそらくまだ、やるべきことがたくさんあるのだ。彼らがいまも人間として生きている以上は――。

 

島の外へ飛び立ったジェイは、数秒かけていきおいよく海面に着水した。豪快な水しぶきとゴム板でひっぱたかれたような衝撃。無数の白い泡粒が方向感覚を消失させ、やわらかな浮遊感となって彼の全身を包み込んだ。空気よりも存在感のある水の抵抗を手足で確かめながら、彼は水中でポウとコウキチに向けて手をふった。

海は彼らが想像していたよりもはるかに開放的で、おだやかで、そしてフレンドリーだった。ジェイがふと体を上に向けてみると、空の色がだいぶ明るくなっていることに気づいた。ポウとコウキチもおもむろにくるりと体を回転させ、遠くを過ぎ去っていく魚の群れを見上げた。

3体のサレットは互いに合図を送った。水面に揺れてきらめく太陽の光にそれぞれが視線を送って別れを告げると、新しい未知の世界をめざして意気揚々と暗闇のなかを進んでいった。

文字数:22485

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