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きらきらの機能

一度限りの生を生きるわたしたちの、一度限りの営為、その一つ一つをありありと刻みたい。情報化社会を生きるわたしたちにとって、その欲望はますます強まっている。溢れかえる情報へのアクセスが容易となった世界で、もはやわたしたちは、情報を摂取することだけでは飽き足らず、そこになにか「リアル」の、「現実」の体験が加わらないと物足りなくなった。フェスや握手会の売り上げは上がっていても、CDの売り上げは落ちていっている。情報が飽和してしまって、自分しか体験出来ない、コピー出来ない体験にしか値段がつかなくなっていると、宇野常寛は言う。さらに宇野は、今日の私たちが、虚構にもとめるものも、変わってきたと言う。かつて虚構の機能は「ここではない、どこか」を仮構することだった。対してインターネット以降は「いま、ここ」を多重化し、拡張していくような虚構を求める、「拡張現実の時代」だと言う。

「身体を使って得られる体験」と「ここに来ることでしかできない体験」を標榜するチームラボのデジタルアートは、宇野が指摘するところの今日求められる虚構の模範であろう。6月21日にお台場にオープンし、連日予約チケットが売り切れになるほどの人気だと言う「MORI Building DIGITAL ART MUSEUM:EPSON teamLab Borderless」では、床から壁まで、一面をディスプレイにしてデジタルアートを映し出すなどして、「自分が作品の一部になる」作品を展開する。

なかでも、約6万個のLEDで宇宙空間を表した作品内部に入り込める作品「クリスタル ユニバース」は、床や壁を鏡で覆うことで、色を変えながら明滅する無数の光が、どこまでも広がる幻想的な空間をつくりだす。きらきらとまばゆく輝く「インスタ映え」する写真を、SNSに載せる人は少なくない。

その「きらきら」は、そこに入り込める空間を体験するという点では新しいが、SNS用の写真となり背景と化した時には、SNS世代にとっては馴染みのものである。自身の顔を写した写真に、きらきらとした光や輝きを散りばめるように加工を施す慣習は、2000年頃に女子高生を中心にブームとなったプリクラに始まり、今日もなおスマートフォンのアプリケーションを用いて盛んに行われる。

こうした「きらきら」は、「若い女」が好むもの、であろう。インテリアに、アイフォンケースに、爪やアイメイクに、「きらきら」を施す女は少なくない。チームラボ作品の「きらきら」は、そうした「若い女」の嗜好にかなう、「ちゃらいもの」とも評される。しかし、かつてなく「いま、ここ」を求める今日の世界で、チームラボの「きらきら」が好まれることには、浅からぬ理由があるのではないか。

「きらきら」がいかに人を惹きつけるかを考える時、浮かび上がるものがある。世界に三つだけ、日本にのみ存在し、そのすべてが国宝に指定されている茶碗、曜変天目。

黒い艶やかな肌の、両手で覆い隠せるばかりの大きさの碗、その内部には不規則な斑文があり、斑文の周囲が、青味がかった銀色の光彩を発する。その斑文と光彩は、茶碗表面にかけられガラス質に転じる釉薬の、焼成の際の偶然に変化の結果生まれたものとされ、二度と同じものをつくられないと信じられている。「曜変」という言葉は、この星のような光彩がある窯変に対して、光輝くという意味のある「曜」をあてて生まれた推定されている。「掌の中の宇宙」と称されるその妖しい輝きは、宋時代の建窯で生み出され,日本には室町時代にもたらされた。静嘉堂文庫美術館所蔵のものは、徳川将軍家伝来のものを三菱財閥の岩崎小弥太が購入し、藤田美術館所蔵のものは、徳川家康旧蔵と伝えられ、水戸徳川家に伝来したものを、藤田平太郎男爵が購入SI、大徳寺龍光院所蔵のものは千利休とともに茶湯天下三宗匠と称される茶人津田宗久が所持し龍光院を開山した江月宗玩に伝わり、今日に至る。南宋の宮廷や室町の足利将軍家でも用いられた可能性が指摘され、茶人や大名に珍重されたその輝きは今日、美術館のガラスケースの中にあってなお、見る者を魅了して止まない。

この茶碗は、いくつものアンビバレンスを立ち上げる。掌におさまる小さいものでありながら、そこに無限の宇宙を見せる。茶を飲むという行為に用いられる道具でありながら、宝石のような輝きを見せ、美術館で展示される。そして、硬いガラス質によってコーティングされた整然とした形は、それが永続性を有する物質でありながらも、同時に、容易に割れ砕ける脆さを持つものであることを思わせる。そして、固定化された造形であるにも関わらず、輝く光彩はその見えを変転し続ける。変化しないはずであるのに、二度と同じように見ることができないことを、強く印象づける。

もちろん、あるものを同じように見ることなど、そもそもできない。いかに固定化されているように見えるものであっても、不変のものはないし、何かを見ているわたしは、次の瞬間には、別のわたしであるから。しかし、そうであることは、しばしば考えられもしないし、忘れられる。「曜変」は、そういうわたしたちの、目のあり方、生のあり方を、教えてくれる。そうだからこそ、この茶碗は、価値を有し続けてきたのではなかったか。

この一回性を喚起する機能は、しかし、茶碗に本来求められていた機能であったと、荒川正明は考えている。千利休をはじめとする茶人たちが催した桃山時代の茶会の室礼やその道具には、古来以来の神に捧げるいわゆる「造り物」の要素が垣間見られるという。「造り物」とは古来祝祭や祭礼の場を飾り、神霊としての表象や供物の意味を込めた聖性を有する造形物である。例えば、平安時代、王朝の貴族たちの祝いの席には、高価な素材で精巧につくられた、「風流造り物」が飾られた。山形や州浜の舞台に、金銀や種々の宝石でできた、草木花、鶴や亀、宝物をのせた船などの、めでたいモチーフで飾る。これがのちの祭礼の山鉾や山車や花笠、宴会の席に置かれた島台へと引き継がれる。いずれも、ある期間が終われば取り壊されて、あるいは焼却されたり流去されたりしてしまうものである。佐野みどりによれば、「風流造り物」の場は、ポトラッチ(競い合って贈与・消費する饗宴の習俗)ともいうべき富の蕩尽の場であり、一回限りのその飾りの、精巧な細工、豪華さと贅沢さ、以外で奇抜な趣向の面白さが競われたのであった。

荒川正明は、桃山時代につくられた楽茶碗をはじめとする和物(日本で作られた)の茶碗に、日本的なアジールの象徴的表現、つまり海岸や洲浜や島など、神聖な場や領域のもつ聖性が宿されたという。それらは聖なる存在であった素焼の土器という素材を活かし、神聖な場である洲浜や島を思わせる「歪み」を特徴とするためである。

たほうで、わたしは、宝石を散りばめて成った風流作り物のきらめきを、「曜変天目」に見る。宝石を散りばめて成ったミニチュアのきらめきは、それが一回限りの祝いの場で飾られるというパフォーマンスを伴って、いよいよ、尊い輝きとなる。変転するその輝き、二度と繰り返すことのない見えは、場の一回性をいやましに強めるものであったに違いない。一回性の増幅装置である宝石のきらめきを、「曜変天目」は、耐久性を備える形で、内包する。

チームラボの「きらきら」は、その体験の一回性を、増幅させるという点で、今日のわたしたちの心性に適っている。しかしたほうで、持ち物や身体を「きらきら」で埋め尽くす人を目にすれば、嫌気がさす。それは、本来潔く消えゆくからこそ尊い「きらきら」の価値を、損なう行為であるためであろう。「曜変天目」もチームラボも、インテリアも身体を飾る宝飾やメイクも、そのきらめきは、非日常の「ハレの場」にあってこそ、その一回性を強く脳裏に刻み、その体験を、きらきらと輝かせるものとなるのではないか。

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