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来たるべき〈チェルフィッチュ〉のために

 

 

 

アーカイヴとレパートリーという対立概念を脱構築し、両者の関係を再定義しようとした論客にW・B・ウォーゼンがいます(内野儀『「J演劇」の場所-トランスナショナルな移動性へ』を参照)。簡潔にいえば、俳優の身ぶりや演技のレパートリーと、戯曲テキスト(アーカイブ)が相互に干渉し合う「あいだ」にこそ、瞬間瞬間の身体が舞台上に現れるとウォーゼンは指摘するのです。この「相互交通」を経由して、アーカイヴとレパートリーの「あいだ」が現出するという考え方は、極めて実用性が高いようにみえます。

演劇では、テキストとそれを読む人がいて、彼らが観客に演技を見せますが、そこから演技がなくなるとどうなるでしょう。テキストを読む人(俳優)と観客は一体化し、受容者(読者)という枠組みに括られることになりますよね。

テキスト(アーカイブ)と読者(レパートリー)ということを考えるならば、その「あいだ」に現れるものこそが、たとえばコンテンツなのだということもできるのではないでしょうか。

 

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ぼくがこの論考で言及したいジャンルとは、漫画です。なぜ漫画なのかといえば、それは漫画ほど、読者=「レパートリー」の状況、つまり読み方に左右される現状がせり出してきているものはないからです。

今年の6月には「LINEマンガ」がリニューアルされました。600以上の漫画をスマホから読むことができるだけではありません。そこでは、ワンタッチでページを「スクロール」するのか「めくる」のかを、読者が自由に入れ替えることができるのです。読者の読み方(レパートリー)によって〈漫画〉が姿を変えていきます。

加えて、コンビニや本屋さんの棚に並ぶ漫画の数を見れば一目瞭然なのですが、漫画はそもそも「複製芸術」なのであり、テキストの「動かなさ」は担保されることになります。漫画は「アーカイブ」なのです。

つまりぼくたちが出会う〈漫画〉とは、アーカイブ(漫画それ自体)とレパートリー(読み方)の「あいだ」に宿る各々の体験なのだと確認することができるでしょう。

 

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さて、この文章におけるぼくの問題意識は、なぜ日本の漫画はいつまでたっても国際的な環境の中で「ねじれ」ているのか、ということに尽きます。「ねじれ」とはどういうことなのか。そもそも日本の漫画は世界中で流行しているじゃないか!という声も聞こえてきそうですね。

これから順番に議論を組み立てていきますが、ぼくには「まだ」「やはり」日本の漫画が国際的な文脈における様々な可能性を自ら狭め続けているように思えるのです。そして、それは世界で受け入れられない日本の漫画があるという不満などではなくて、むしろなぜ海外の漫画がぼくらの手元に届かないのだろうということが、ぼくにとっての疑問に繋がっています。日本の漫画が真の意味で海外への「交通」を獲得していないように見えると言っても良いでしょう。

出版社のあるかどうかもわからない「海外作家の締め出し」や、増えていく日本の漫画家人口を〈ひとまず脇に置いて〉、ネット環境が整ったいま、新しい漫画表現が世界のどこかから「誤配」的にもたらされ、日本の漫画に興味深い変化を与えていけるような状況が、なぜ生まれていないのか。そのことを頭の片隅に置きつつ、アーカイブとレパートリーの関係を応用して、漫画の状況を考えていきましょう。

 

 

 

 

 

ぼくたちが読む漫画は一般的に「右綴じ」で、読者は「ふきだし内に縦向きに書かれたセリフ」を読み、その視線はページ上で「S字」を書くようにして下降していきます。ページの一番下にたどり着けば、ページをめくったりしながら次に次にと進んでいきますね。右綴じなので、左から右にページをめくり、どんどん「左へ」進んでいくのが、基本的な読み方=「レパートリー」となります。そこに新たに、めくりではなくスクロール(縦読み)にするかどうかの基準が加わってきました。

ここに書いただけでも垂直方向と平行方向の運動が何通りにも入り乱れ、日本の漫画を読むという行為がとても独特であることがわかるはずです。

一方で、中国における漫画の読み方は、日本人の基本的な読み方と「ほぼ同じ」になることに留意しておきましょう。むしろ海外のコミックにおいて日本の漫画との差異を感じざるを得ないのは、ヨーロッパ系の言語を中心に、セリフが横書きで書かれたものだということですね。

実は、日本の漫画においても、セリフが横向きで書かれたりしている作品はこれまでにも存在していたのです。しかし、いくつもの試行錯誤がグローバルな文脈に結合することに「成功」したと述べるのは難しくなります。そもそも、日本の読者にとっては、まずそれらの作品を読むことが難しかったのかもしれません。

舞城王太郎原作・大暮維人作画による漫画作品『バイオーグ・トリニティ』を見てみましょう。大事なのは、コマの作り方と読み方に作用する力学に注目することなわけですから、物語の内容に触れることは避けたいと思います。

さて、この漫画は、実は相当ハイブリッドな特徴を持っています。それはふきだし内のセリフは「ヨコ書き」でありながら、コマ内に存在するモノローグなどが「タテ書き」になっている点に強調されます。ですが、ここではあくまでも、セリフの「ヨコ書き」が「ヨコ読み」を駆動する数少ない漫画の例として取り上げてみましょう。そして面白いことに、この作品は、左綴じではなく、日本人が慣れている「右綴じ」の漫画なのです。

 

『バイオーグ・トリニティ』9巻より

 

議論の流れに沿って日本人が「読みづらさ」を感じるポイントを分析してみると、まずあげられるのは、やはりセリフを「ヨコ読み」しながらも、物語を進めるために視線を左へ、そして下へと動かしていくときに生じる抵抗感なのではないでしょうか。その抵抗とは、ふきだし内のセリフを「ヨコ読み」することで、一度左から右に振られた視線が、次のふき出しへ進むためにふたたび右から左へ戻り、そして別のふき出し内の再びセリフを左から右へ読んでいくこと、の繰り返し作用に起因すると思われます。つまり、一般的な「S字」型の読み方を行うために、ふきだし内ではその都度小さな「Z型」の視線誘導を行わなければならないということになります。まずこれが、日本人にとっては億劫な作業になるわけです。

さらに、他のページではふきだしが横に長大化している傾向が目立ちます。そうすると、ふきだしがキャラクターの身体と被らないようにするために、画面構成は独特の形を取り始めるのです。人間の身体が基本的に「タテ長」である以上、その身体に沿った「タテ長」のふきだしを使うことができないことは、時にページ上のバランスを歪めようとする力学を導いてしまいます。

次に、「横読み」でありながら、なんと「左綴じ」でもある漫画の例を紹介しましょう。ここまでくると、もはやアメリカの漫画などにかなり近接するため、日本人の多くは読みづらさを感じるはずです。でも、海外の人たちが日本の漫画を読むときに感じる違和感を擬似体験する助けにもなるかもしれませんね。ほしのえみこ『お姉さまの逆襲』という作品です。

『お姉さまの逆襲』2巻より

 

「Z型」の小さな視線移動がコマの力学に矛盾しないため、左から右へ読み進めるのだと腹を括れば読みやすいかもしれません。それでも、いきなりこの漫画を見たときの戸惑いのようなものは、多くの日本人に共有されるものだと思います。ふきだしが横に長いため、登場人物は半身で描かれるか、または「スタイルの悪い」身体を獲得することになっているのが興味深いです。

最後に、「セリフをタテ読み」のまま「左綴じ」という漫画の例を紹介したいところなのですが、あまりに読みづらく(想像も容易なはず)、だったらはじめから「右綴じ」にということなのか、作品も見当たりませんでした。そのため、先ほどの『お姉さまの逆襲』について、海外の作品を照らし合わせてから、この章を閉じることにしましょう。

先に述べた通り、コマ内の力学は、アメリカの漫画家チャールズ・M・シュルツの『Peanuts』などに類似していますよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、「右綴じ、タテ読み」の「レパートリー」を押し出した日本漫画は、そのままの形で海外に輸出されていったようです。そして、国内の議論を参考にするならば、日本漫画の海外進出という視点でみたとき、やはりそこには「挫折」の影がつきまとっているようにみえます。当時の議論は、漫画を取り囲むインターネット環境の整備とも時期を揃えていました。2007年にpixivがオープンする頃、ウェブ漫画に関する議論も活発化します。その裏側で、漫画の海外進出についての試行錯誤が不足していたようなのです。

漫画原作者の竹熊健太郎は、自身のTwitterの中で、以下のように述べています。

TOKYOPOPが日本漫画を右綴じのまま英字翻訳して海外で一定数売れたことは、確かに事件でした。ところが漫画界は、日本漫画が「そのままの形」で受け入れられたと単純に喜び、海外輸出を志向する一般製造業が当然やるべき企業努力を「放棄した」と思います(2013.4.16)。

竹熊氏の言葉を信じるならば、日本の漫画はグローバル対応することに失敗したようです。そしてこれは、2000年代中盤から2010年代の初めの頃までという、近い時期に展開されていたウェブ漫画表現にまつわる議論と接触します。ウェブ漫画によってもたらされた大きな違いは、やはり「めくり」に変わる「スクロール」となります。たとえば「スクロール」に付随した、様々な漫画表現が豊かには更新されなかった、そのことが日本の漫画がうまく海外進出することの妨げに関わったのだと、ここで竹熊氏の主張のベクトルに議論を重ねることができませんでしょうか。

加えて、結果的にみると、2018年の現在、竹熊氏から何か有効な提案が導かれているということもないのです。批判だけで終わらない、国際的な活路を切り開くための継続的なアプローチは実践されませんでした。漫画のグローバル対応にまつわる議論も、半ば「凍結」してしまっています。

 

 

 

 

次に、日本の漫画、とりわけゼロ年代からテン年代にかけての状況をまた別の角度から捉えた論考を紹介したいと思います。ライター、物語評論家のさやわかによる「過渡期には重力があっても構わない」(『キャラの思考法-現代文化論のアップグレード』所収)を参照してみましょう。

論者はまず、2004年から連載された今日マチ子の『センネン画報』を取り上げた上で、以降に至る作家の表現の変化に注目します。詳細を記述することはできませんが、さやわかさんがここで強調しているのは、ウェブ漫画の過渡期において、その変化の時期を前後で跨ぐようにして活動している作家が、「自分なりのやり方でネットメディア上の漫画を効果的に見せる方法を探っていった」ということ、そしてそれこそが重要なのだということです。

あくまでもメディアの条件を考えながら試行錯誤することの価値が主張されているのであり、それゆえに、「下方向スクロール」式の漫画が今後のウェブ漫画にとって重要なのだとは言い難いところがあると、彼は言及しています。確かに、ウェブ漫画では横スクロール、つまり「めくり」も可能になるのだから、「重力」が「めくり」並みに重要になるとは必ずしも言うことができないのです。

ぼくたちは今まさに、「終わらない過渡期」の中にいます。スタンダードが一つに明確に定まらない以上、毎度毎度フレキシブルな選択をしていくしかない、というメッセージを論考からは受け取ることができます。

さやわかさんの議論は、これからも有効性を持ち得るでしょう。ケースバイケースで課題に応じた選択をしていくことが重要なのであり、「めくり」や「下方向スクロール」はその都度作家が選択をしていけば良いのだということに、いまや多くの人々が肯定的なイメージを持つはずです。

そしてさやわかさんの言葉を信じるならば、今こそ、今だからこそ、直面している事態について、ぼくは1つの可能性を積み上げていきたいのです。それがもちろん、漫画のグローバルな環境への接続という議論であることは言うまでもありません。

その前に、2018年の漫画を取り囲む「現状」について、整理をさせてください。

 

 

 

 

まず、竹熊さんが指摘し、その後放置されたままになっている日本漫画の状況は、海外の読者との間でねじれを生み続けています。

たとえば、尾田栄一郎の『ONE PIECE』英語版は、右綴じの「めくり」式で発売されています。個人的な事情ですが、ぼくが海外に留学している間に多くの友人たちから「読みづらい」と指摘されたのが、同作で多用される「横につながるふきだし」の存在でした。

 

One Piece, Vol. 87: Bittersweet (English Edition)

 

英語のユーザーは、まず横に繋がったふきだしのどこから読み始めればいいのか一瞬戸惑うでしょうし、視線移動もストーリーを進めるためには何度も「遠回り」せざるを得ないわけです。英語圏を中心とした海外の漫画読者は、いまだ大いなる不自由の中で、日本の漫画を消費しています。

時代に応じた表現を練り上げてきた国内の漫画市場はどうなっているのでしょうか。2010年代にスマートフォンの普及率は急上昇し、電車の中を見れば誰もがスマホを手にしています。それに応じて、ウェブ漫画に対応した試みも増えてきました。集英社は「ジャンプ縦スクロール漫画賞」というものを開催し、2018年10月には結果が発表されたばかりです。

そのなかの一つ、八切『特異体質系女子の話』をみてみましょう。

 

 

 

 

これは、リアルな鑑賞状況を示すためにぼくのスマホの画面をスクショしたものですが、他の受賞作と合わせても、基本的な傾向としてコマが巨大化していることは言うまでもありません。コマ枠を立体的に乗り越えるような試みなどが見て取れますが、ぼくが気になるのはやはり「タテ書きの言葉を含んだ、タテに長いふきだし」の巨大化なのです。仮にこのような表現がますます流行していくならば、英語圏の人々と日本の漫画との距離や「ねじれ」は、さらに大きくなることでしょう。横書きの言語と、この縦に巨大なふきだしは紛れもなく相性が悪いからです。

 

 

 

 

 

では、どうすれば良いのでしょうか。

ここで提案したいのは、英語圏の同時代的なコミックからヒントを探ってみるということです。DCコミックのヒーロー「BATMAN」を例にあげてみます。

 

 

先にお見せしたのは、1960年代の作品です。初期には、先に示した『Peanuts』に類似する傾向が見られますね。ヨコに長いコマの中では、ヨコに長いふきだしを避けようとして、人物の身体はやはり不恰好になってしまいます。

現在「バットマン」はブロックバスター映画の中でも「ヒーロー」として際立ち、格好良くあらねばならないのでしょう。今の『Batman』では、タテに長いコマの中で、人物の身長が歪められずに表現されています。コマを割り、以下の例のように複雑なページを作ろうともそれは同じです。ここで重要なのは、それを可能にするために、ふきだしを「小さく」して、登場人物の身体の横に配置することが可能になっている点なのです。

 

Batman-Detective Comics(2016-)Vol.5:A Lonely Place of Living

 

「バットマン」の変化から、小さな「ふきだし」に「ヨコ書き」の文字を詰めることの実用性を認めることができます。そして、英語圏のコミックを参照してさらに考えたいのは、以上の条件に加えて、「下方向スクロール」と「シンプルなコマ割り」の要素を塗り重ねることのグローバルな可能性に他なりません。

 

 

 

 

 

「下方向スクロール」の漫画にまつわる言説を探してみると、例えば漫画原作者の猪原賽は、自身のブログの中で浅野いにおの『ふんわり男』を理想的な作品として取り上げています。

 

 

これは猪原氏が作品からキャプチャ・加工したものですが、見てわかるように画面はすっきりと整っていて、読みやすいです。この読みやすさが何かといえば、そこに、左右見開きの漫画をただ縦に繋げた時に生じる視線誘導のわずらわしさが、取り除かれているからだと述べられています。

 

 

全ての議論を重ねるならば、「視線誘導を計算したシンプルなコマ割り」、タテヨコのスペースを確保した「コマの大きさ」、さらに「ふきだしの小ささ」に加えて、「ヨコ文字のセリフ」が「下方向スクロール」で読まれるとき、ぼくたちは〈左上から右下に向かって〉漫画を読み進める方法を実践することができるのではないでしょうか(これまで触れてこなかったいわゆる4コマ漫画に応用することも可能)。そしてこの方法ならば、英語圏の人々と、日本人のぼくたちは、ほとんど同じやり方で漫画を読み、「リアルな翻訳」も駆動することができるのです。

例えば、日本人の作家がそのようなフォーマットと重力を意識しながら漫画作品を書き上げた時、それは日本人にとっても、韓国人や中国人にとっても、そしてアメリカやヨーロッパに生きる人々にとっても、限りなく近い感覚を通して立ち上がるような「アーカイブとレパートリーのあいだ」=漫画になるでしょう。

 

 

 

 

 

 

ですから、ここまで僕が考えてきたのは、レパートリーの動態をふまえた「アーカイブ」の設計ということになるのかもしれません。読者とメディア状況をふまえることで、〈あいだ〉に生まれる表現をデザインし、蓄積を促す。そのことが、漫画のグローバルな交通という、同時代的な課題への回答なのです。

〈あいだ〉に存在する漫画は、一見がんじがらめにされているように思えるでしょう。それでも、〈あいだ〉に浮遊していると考えるならば、「アーカイブ」と「レパートリー」という両極のバランスを組み替えつつ思考することで、漫画の可能性はさらに開かれていくはずです。

導かれた漫画表現は、終わらない過渡期におけるぼくなりの選択であり、ただ一つの文脈であることに変わりはありません。

 

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最後に、いま一度強調しておきましょう。ぼくが漫画のグローバルな「交通」について考えているのは、ただ日本の漫画を世界に普及したいからというわけではありません。

演劇の話をさせてください。日本の劇団「チェルフィッチュ」は、ローカルであるがゆえに西欧に招かれ、グローバルな越境を達成してしまいました。ここではチェルフィッチュが、商業主体でない西欧の舞台芸術の文脈できちんと文化の土壌に組み込まれ、「クールジャパン」とほぼ関係を持っていないことが重要なのです。

内野儀氏によれば、「解体者」などの他の劇団はすでにグローバルな想像力を内包しているために、西欧は彼らを「差異」としてフェスティバルに招聘する必要がありません。しかしながら、「閉鎖的文化空間」の中での実験と思考を重ねたチェルフィッチュの方法論は、越境を可能にするのです。

日本の漫画は、世界に先立って巨大な文化圏を作り上げました。漫画に関して考える場合は演劇とは逆で、ぼくたちはきっと他国の「トランスナショナル」な表現を招聘できるような、柔らかな土壌を育んで行かなければならないのではないでしょうか。

困難であるならば、それこそが日本人的な問題の根源に触れるという議論に展開される可能性もありますが、ともかく現状としてぼくは、他国の先鋭的な表現を輸入する土壌を作るために、グローバルな「交通」を携えた漫画の世界について考えてみたかったのです。

すべてはその漫画作品、来たるべき〈チェルフィッチュ〉のために。

 

 

 

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