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見えないアーカイヴ、想起するレパートリー ―集合体と個体

 たとえば誰かが「戦争に行くけれども、それほど酷い状況にはならないはずです。たった1000人が死ぬだけでそれほど多くありせん」と言うことを想像してみるのです。でもそれは1000人ではなく、スパゲッティが好きだった人がひとり、ガールフレンドがいた人がひとり、サッカーが好きだった人がひとり、常にひとり+ひとり+ひとりなのです。民主主義それ自体はひとりの集合体であるべきで、グループを一括して数えることは非常に危険なことだと思います。私は、すべての人が重要でありながらとても壊れやすいので、2世代、3世代経て行くことによって、すべての人が忘れられるかもしれないということを心配しているのです。―クリスチャン・ボルタンスキー

 

ボルタンスキー的アーカイヴ

 

クリスチャン・ボルタンスキーは、「生」と「死」をテーマに制作を行うアーティストである。この作家は写真や、古着を大量にアーカイヴし、展示する作家として知られている。本稿は、「瀬戸内芸術祭」「大地の芸術祭」に出展されている、ボルタンスキーの2つの作品から「アーカイヴ」と「レパートリー」の関係性を考察する。
 まず、瀬戸内芸術祭の『心臓音のアーカイブ』は、世界中で録音された「心臓音」を用いたインスタレーション作品である。展示空間は、暗闇の中の室内で、一本の通路で構成されている。暗闇の室内では、心臓音に合わせた照明の光のみが道標となっている。通路には、紙面が黒の額縁が並べられており、室内に鳴り響く心臓音の「匿名性」を表現している。
 「匿名的アーカイヴ」は、ボルタンスキーの作品に一貫して見られるが、「アーカイヴ」に対して、ボルタンスキーはどのような態度を持っているのだろうか。
 『心臓音のアーカイブ』について、ボルタンスキーはネットサイト「ART IT」のインタビューで、「アーカイヴとインターネット」に関する質問にこう答えている。

 

その作品のコンセプトは何かを隠すことでした。つまり情報を隠すこと。観客は情報がそこにあることは分かりますが、情報自体は見えないのです。インターネットと違うのは、インターネットでは隠されているものはなく、すべてが開示されていることです。それが美点でもありますが、もしかしたら、謎がないというのはすこし危険かもしれません。

 

つまり、インターネットが「開かれた、誰でも辿り着けるアーカイヴ」なのに対し、ボルタンスキーが目指す「閉じられた、辿り着くことができないアーカイヴ」なのである。インターネットの情報はそのソースに容易に到達できるが、『心臓音のアーカイブ』での「心臓音」は、確かにそれは人間から採取したものであるのだが、そのリソースには到達できない。つまり、ボルタンスキーは、インターネット社会が手にした「アクセスの容易性」に警鐘を鳴らし、「リソースが切断された情報」を扱う。

 

 つぎに、越後妻有にあるもうひとつの作品を述べたい。「大地の芸術祭」の『最後の教室』は、舞台芸術家、照明デザイナー・ジャン・カルマンとの協働した、「人間の不在」をテーマとした作品である。旧体育館が入り口となっており、体育館へ入ると床に藁が敷き詰められており、敷かれた藁の上にベンチが点在しており、そこに首を振った扇風機が置かれている。通路を通って校舎に入り、階段を登ると、二階の理科室と思われる場所には『心臓音のアーカイブ』と同じ心臓音に共鳴する照明があり、教室には白いシーツと白い照明によるインスタレーションがある。三階に登ると、教室には「棺桶」を想起させるガラスケースとシーツのインスタレーション作品がある。
 旧体育館でのインスタレーションは「土地」と「死」の関係性を表現している。新潟の稲が役目を終えたものとして藁を扱い、扇風機の風で藁の「複雑性」を持ったにおいが体育館に充満している。体育館も稲も役目を終えている。しかし、その共演から生まれる、立ち込めるにおいはたしかに「生」を感じる。ここで、このインスタレーションにおける「アーカイヴ」と「レパートリー」について考えてみたい。「役目を終えた稲」を旧体育館にアーカイヴし、藁はまさに役目を終えた「廃墟=小学校」の空間性を増長している。しかし、点在するベンチに置かれた首を振る「扇風機」は、藁をかき回し、においを立ち現し、廃墟に「生」としての「レパートリー」を駆動させている。
 『最後の教室』には、体育館のインスタレーションのほかに、もうひとつ特徴的なアーカイヴがある。三階の旧音楽室は照明を用いたインスタレーションが行われているが、室内の奥の裏棚には、以前学校で使われていたリコーダーなどの「学校の痕跡」がひっそりと展示されている。地域や学校にまつわる道具がアーカイヴされている。『最後の教室』の順路の終盤に忍び込んだ「学校の記憶」は、「人間の不在」を主題にした作品の中で異色を放ち、「場所の痕跡」として、より存在を際立たせている。

 

想像的レパートリー

 

 では、こうしたボルタンスキーにとっての代名詞ともいえる「アーカイヴ」に対し、ボルタンスキー的レパートリーとは結局何なのか?さきほど引用したインタビューでさらに、ボルタンスキーはこう述べている。

 

 私の作品では常に、この大量における唯一性ということを考えています。したがって、もし私がこの「心臓音のアーカイブ」で世界中のすべての心臓音を集めることができるなら、それぞれが唯一のものであり、たとえすべての心臓音が非常に似ていたとしても、なにかしらこうした集合体のなかで個体を識別できるものがあるのです。

 

『心臓音のアーカイブ』に見られる「心臓音」は、世界中から無数に録音されたものであるが、それぞれの心臓音はたしかに我々個体から得られた心臓音なのである。
 『最後の教室』の体育館のインスタレーションの藁は、米の名産地である新潟なら何でもない藁であるのだが、たしかに藁一本一本はにおいを持っており、「一本の稲」の無数の集積なのである。
 ボルタンスキーの作品に見られる「レパートリー」とは、大量のアーカイブに見られる「全体と部分」の間に立ち現れるものであり、そして、それらは匿名性の、つまり「閉じられたアーカイヴ」がゆえに、我々にその「背後にあるレパートリー」を想起させる。
ボルタンスキーは、「匿名的アーカイヴ=集合」と同時に、それぞれの「固有性」を差し出す。我々は、作品を通して、「集合体と個体」を行き来することによって「レパートリー」を享受するのである。

 

引用元:

ART IT クリスチャン・ボルタンスキー インタビュー

「消えゆく記憶の融解点 インタビュー/アンドリュー・マークル」

文字数:2715

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