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アヤウタ

課題文を読んで「これはエクリチュールとパロールの話じゃないだろうか、デリダが私を呼んでいる」と思った。わけではないが、気がつけば『声と現象』を手にしていた。がむしゃらに読み進めて、今の自分では読めないものだということが分かった。そもそも、論じている対象のフッサールをやらなければ、読めないであろうことは分からなかったか。後悔というのは、レトロスペクティブなものでしかないと思う。それは、トートロジーでしかないと思う。などと、途方にくれている。

「それでも、デリダは私を呼んでいる」と思った。わけではないが、『声と現象』と一緒に買ってきた現代思想のデリダ特集号を開く。東浩紀がデリダについて語ったインタビューがある。題は「デッドレターとしての哲学」、アツいと思った。わけではないが、これなら読めそうだということで、ページを進める。

様々に興味深いことがあるわけだが、自分にとって大事な情報は、デリダと言う人はどうもいいひとであるということと、次の図が載っていることだった。

下方の図は、中間講評会で、自分が挿入した図。上方の図は、『一般意志2.0』に掲載された図。

対談より引用。

 『一般意志2.0』の196頁の図は、デッド・ストック空間やマジック・メモから発想された図(『存在論的、郵便的』322頁)が変形されてつくられているものです。よくみると似てますよ。

もうひとつ、似ていると思ったもの。デリダは、どうもかつて自分が惚れた小林秀雄。似ているというものは、思い込みにすぎず、エラーだ。という。けれど、エラーにこそ可能性がある。まだ、デリダは論ずることはできないが、この機会に、小林秀雄と東浩紀をつなげてみたいと思うのだ。

 

小林秀雄は、考えるということは、つかんだら離さないことであると言った、というおぼろげな記憶が思い出された。それが、CDであるか、本であるか分からなかった。探したら、『考えるヒント』に次のように書いていた。

考えるとは、合理的に考えることだ。どうしてそんな馬鹿げた事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が至る処に見える。物を考えるとは、物を掴んだら離さぬという事だ。画家が、モデルを掴んだら得心の行くまで離さぬというのと同じ事だ。だから、考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常なことである。だが、これは能率的に考えている人には異常な事だろう。

「考えるということは、物を掴んだら離さぬという事」と小林がいうのは、物を書くという行為は、その場で消えてしまうレパートリーとしての知を、しっかりとつかんで、苦心してテクストを編もうとしていたということだろう。

そのようにして、小林はテクストと向き合っていた。テクストは自信を持っていたが、ほかは決して評価されるものではないと考えていた様子が、残された講演CDなどから分かる。しかし、私は、講演CDによって、小林に出会った。あの口調や声なしには小林ではない、というより、小林のテクストは自動的にあの語りによって再生されてしまうのだ。

それは、自分だけなのかもしれないと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。橋本治の対談本に、茂木健一郎と小林秀雄について対談した回が収録されており、そこで茂木も講演CDの良さを語っている。

茂木 酒の席での小林さんの話は圧倒的に面白かったらしい。青山二郎あたりは、「おまえの書くものはおまえの話に比べてつまんねえ」と言ってる

自分のテクストとレパートリーとしての語り、それを小林自身がどのように考えていたのか。『考えるヒント3』に「しゃべることと書くこと」というエッセイがある。そのエッセイで、小林は「自分の講演がテクストになっているものはあるが、あれは書き起こしたものを直しているから読めるのであって、自分の講演はあんまりです」と述べてから、菊池寛の講演の批評をしている。菊池の講演は良い。だが、菊池は雄弁家でもなければ、話し上手でもない。では良さの所以は何かと言えば、眼前の聴衆の心理をとらえることがうまいからだという。

この眼前の聴衆の心理をつかむということを、東も重視した。そして、現在の技術ではその聴衆の心理というものを可視化できるのではないか、という提案が『一般意志2.0』でなされている。

『一般意志2.0』で、「憐れみ」という概念が、重要だった。この「憐れみ」を、小林は道徳の問題における、良心として語ったと考えるのである。これは、先に引用した、エッセイ「良心」において、道徳とは外部から来る権威によって定められるものか、という問いに対する小林の返答だ。

道徳の問題を考えるに際し、良心の問題を除外し得ても、良心とは問題ではなく、事実なのであるから、彼が意識するとしないとを問わず、彼の心のうちに止まるであろう。

感情の呟く言葉は、その種の不明瞭な言葉に相違なかろうが、良心の言葉とは、そういうものではあるまいか。

良心は、はっきりと命令もしないし、強制もしまい。本居宣長が、見破っていたように、恐らく、良心とは、理知ではなく情なのである。彼は、人生を考えるただ一つの確実な手がかりとして、内的に経験される人間の「実情」というものを選んだ。

「憐れみ」も「良心」も、問題ではなく事実なのである。それは、理知以前の、人間である以前の動物としての、機能なのである。だから、それはそのひと固有の、普遍的なものではなく、敢えて言えば何やら全く得体の知れぬもの、なのである。

橋本治の対談本に目を移せば、茂木が「小林は自分と言う楽器をうまく鳴らすこと、どれぐらい対象を感受できるか、に命をかけた人」と評している。理知より情をこそ、大切に考えていたのであれば、それは当然であろう。

自然はアヤを求めない。言って文あるのが、思うところを、ととのえるのが歌だ。思うところをそのまま言うのは、歌ではない、ただの言葉だ。 ―言葉『考えるヒント』

歌であるところの、文を前に、自分の下手にただただ、うちひしがれる。私はいつも、そうだ。唐突に、浅田彰の『構造と力』も、文の姿をした歌であるように思えてならないのだ。『構造と力』のおわりに、ジョン・ケージの『小鳥たちのために』が引かれる。

たとえば、何度か名前をあげたケージ。彼の対話集『小鳥たちのために』は、ポスト・モダンの遊戯空間への、この上なく美しい誘いである。その中には籠から逃れ出た小鳥たちの歌がつまっていて、砂のようにサラサラとふきこぼれてくるのだ。それを耳にするとき、ひとは音楽を遊戯するということの本当の意味がわかったように感じるだろう。

結局、それは、つまり見事に能率的に知というものを、文にしてみせたその本の本質は、ただ怪しく遊戯へと誘う歌であった、と聴くのは、愚かか。もちろん、そうだろう。すくなくとも、もし仮に、歌であるということがあたっていたとして、返信として愚かだ。歌には歌。今の私には歌えない。歌おうとすればするほど、遠ざかる。すなわち、歌えないにもかかわらず、このようなテクストを編んだこと自体が、もっとも愚かだ。さえずる。鳥のさえずりは、まさにレパートリーによって伝達される知である。

ただ、歌わねばならないということはなくて、歌いたいというものをとめるものもない。自然には、上手と下手はあるだろうが、いえばあるだけで、なんということはない。いかなる上手であれ、届かぬこともあり、レパートリーであるのならば、瞬間に消える。下手も同様、何の拍子にや分からん。

私は、芸術文化の諸領域の同時代的問題について語っている。それは、豊かとはどういうことかということだ。

果樹を栽培して、いい実を結ばせる、それがcultureだ、つまり果樹の素質なり個性なりを育てて、これを発揮させる事が、cultivateである。自然を材料とする個性を無視した加工はtechniqueであって、cultureではない。 ―(私の人生観/『考えるヒント3』)

小林は他のエッセイで、芸術家のつくる作品とは、自然の模倣以外の何物もできないのであって、その自然とは、いわゆる自然であることもあり、歴史とか伝統という第二の自然もあるとしている。知の伝達は、この第二の自然の豊かさに直結する。

芸術文化とは、知の伝達によって、第二の自然をいかに保つか、小林の芸術館にしたがえばそうなる。が、小林はやはりモダンの人であろう。そして、浅田は『構造と力』で工学的な知と、純粋な知のポストモダンにおける、変容を告げた。工学的な知が自己目的化し肥大していく一方での、純粋な知の宗教化。そこから転位ズレとして東へと、線がつながる。

 

本当は、ここから先が大切なのに。また、間に合わなかった。

 

小林の「喋ることと書くこと」には次のようなことも書いてある。

書物は、記憶の不確かな処を確かめる用しかなかったでしょう。(中略) 詩はいうまでもないが、散文にしても物語りだった。読まれたのではない、語られたのです。本は、歌われたり語られたりしなければその真価を現す事は出来なかったのです。

田仲美知太郎さんがプラトンの事を書いていたのを、いつか読んで大変面白いと思ったことがありますが、プラトンは、書物と言うものをはっきりと軽蔑していたそうです。彼の考えによれば、書物は何度開けてみたって、同じ言葉が書いてある、一向面白くもないではないか、人間に向かって質問すれば返事をするが、書物は絵に描いた馬のように、いつも同じ顔をして黙っている。

プラトンの著作で、ソクラテスは、死後も登場する。それは、デリダの言う所の亡霊だったのだろうか。少なくとも、わかるのは、プラトンはつかんだ物を離すことができなかったということだ。


 

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