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記憶をめぐる独白の限界

1.記憶と時間嫌悪

生きるとは衰えることだと知りはじめたとき、ひとは時間に嫌悪する。なぜなら、ひとは永遠を生きられず、永遠でないがゆえに「歴史」や「思い出」を記憶するからだ。もちろん、「歴史」はひとつの<種>がための幻想に過ぎないし、「思い出」もまた個人が関係するひとびとや出来事との小さな<類>がための幻影に過ぎない。とはいえ、哲学や思想なしに生きることが退屈であるように、「歴史」や「思い出」といった記憶なしに人生を生き抜くことはあまりに脆いだろう。ひとは複雑な感情を記憶のなかで覚える。けれど、[多すぎても-少なすぎても][重すぎても-軽すぎても]機能不全になる記憶をめぐって、ひとがどんなふうに記憶と結ばれるかを考えることは現代における重要な課題のひとつに思える。

a.「思い出」と生活

科学技術の点から記憶を考えれば、情報メディアの発達によってひとびとは様々な記録を手軽に保存・再生・共有できるようになった。とはいえ、20世紀にアドルノが都市におけるサラリーマンの暮らしを「選択肢も記憶も欠如した生活環境」と言ったように、21世紀も相も変わらずにひとびとの記憶と生活の関係は変わっていないようにみえる。というのも先日、大学の同窓会があって友人の携帯電話の思い出写真を眺めていた時に、大学から社会人の現在に至るまでの記憶の断片が1台のデバイスに収められていることに静かに驚愕したからでもある。それは僕が学生時代から記録係なるものを勝手にやっていた性格もあって、SDカードを数ヵ月に1回交換するサイクルの不自然さに気づかなかったためでもある。もちろん、携帯電話に保存される写真だけが生活記録を構成するすべてではないにしても、写真を撮るだけの時間と関係の質量が、記憶と生活をめぐるひとつの指標になることを思わずにはいられなかったのである。「思い出」というべき<類>の記憶は、大人になればなるほど蓄積しにくいというのは社会生活的な事実のひとつだとして、大人になったわれわれはいかに<類>の記憶を保存し共有するか、また新しい「思い出」をいかに獲得するか、大雑把に言えば、そんなことをかれこれ検討するのだった。それは20歳を過ぎたあたりから大脳皮質に記憶が蓄積されにくくなるがゆえに、年齢を重ねるにつれ、時間の流れが早く感じられるという脳科学的な事実とは別に考える必要があるだろう。

b.「歴史」と多様性

保守傾向の高まりと排外主義が吹き荒れる昨今、多様性をめぐる言説が飛び交う時代になってきた。なぜ多様性が必要なのか、手短に言えば、歴史上の多くの文明がそうであったように、あるいは動植物の生態の繁栄と衰退がそうであるように、多くの種は、多様性が破壊されることで再生産力を失い、荒廃と没落を余儀なくされるからである。そんなことを100年前にガブリエル・タルドは指摘していたが、「歴史」意識の後退が、あるいは彷徨える<種>の記憶が、ひとびとの不安や鬱屈に結びついた排外主義としてあらわれはじめたようにみえる。もっぱら現代は、破滅主義的な傾向にある作家やアーティストが多様性を訴える奇妙な光景をみているともいえるし、ただ状況が表層を変えて-悲しくも懐かしくもない現在を破壊するだけ-の反復が起きているだけだとも言えなくもない。少なくとも「歴史」というべき<種>の記憶が、ひとびとの不安や鬱屈を鎮めるだけの関係を結べていないのである。必要なのは、新しい「歴史」を描き出すというよりはむしろ、複数の「歴史」観をひとつに和解させる誘惑を振り切って、それらの幻影的な作用を情動的な発作を回避しつつ方向付けることだろう。わかりやすくいえば、批評家であれば、自分の言説の機能と方向性をわきまえて、現代的なフラットな磁力に抵抗する必要があるということである。もちろん、現代的なフラットな磁力に対抗するためにこそ、新しい「歴史」の発明が必要なのかもしれないが。

c.ノスタルジーの変質

「思い出」であれ、「歴史」であれ、ひとびとを誘惑する記憶は、しばしば苦痛を伴う空間的な望郷であったり、今は亡き古き良き時代への時間的な郷愁であったりする。そうした情念と苦悩が強まり長引くと「ノスタルジア」というべき精神的な病に侵されることになる。「ノスタルジア」は17世紀末にスイスの医者、ヨハネス・ホーファーによって精神医学の概念として発見されるが、19世紀末には精神分析の発達によって精神医学の領域から姿を消すことになる。それゆえ、現代においてノスタルジーは評判の悪い概念というよりはむしろ、美学的に好ましいとされる場合も目立っている。

一例をあげれば、スタジオジブリ制作の映画『コクリコ坂から』がそのひとつだろう。『コクリコ坂から』は2011年7月に公開された1963年の高校を舞台にした恋愛&青春群像劇である。本作の見どころのひとつは、登場人物の新聞部部長の風間俊が「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!新しいものばかりに飛びついて、歴史を顧みない君たちに未来などあるか!」と演説する場面にある。それは物語の象徴的なノスタルジーの本懐を貫く主張であり、主題歌や音楽と相まって、作品全体には望郷的で郷愁的な美的雰囲気が漂っている。もちろん、名演説の言説内容を否定するわけではないが、難点としては、本作が「ノスタルジー」映画になりきれていない感じが否めないという点がある。というのも、登場人物の少年少女の苦悩が現世的な恋愛と成就に注がれている分、現世疎外的で回復不能な苦悩が後景に退き、どこか気楽で幸福な上辺だけのノスタルジーの謳歌に終始してしまったようにみえるからだ。たとえば、本作のPVをみてノスタルジー映画だと期待すると、炭酸の抜けたメロンソーダのような、なにか満足できない違和感を覚えることになる。その点、キャッチコピーの「上を向いて歩こう。」はたしかに嘘をついていない。結局のところ複雑なのは、震災以後の最初のスタジオジブリの作品となった本作で、救いのない回復不能な「ノスタルジア」を抱えて生きる少年少女を描くよりはむしろ、恋愛であれ青春であれ健全な幻想に浸って生きろというのが、大人の責務であるような気がしないでもないからである。

そんなわけで、僕が言いたいのは「ノスタルジー」の観念が現代では軽くなったというのもあるけれど、軽快な「ノスタルジー」の美しさだけでは救われない、生きている時間からの疎外がもたらす不可能な回帰への憧憬と時間に対する憎悪の入り混じった苦悩に落ちるひとびとは今も変わらず存在しているということである。戦争や災害、不慮の事故や事件、重たい病などによって、かつての生の時間を二度と生きられなくなってしまったひとびとはもちろん、「歴史」や「思い出」を形成し獲得するちからを喪失してしまったひとびとの情念の鎮魂が文化芸術の領域で必要になってきているように思われるのだ。

ひとは永遠に健康で幸福で労苦なく神々のように生きることはできない。仮に永遠でないがゆえに生じる時間意識と時間嫌悪がひとを神や動物から区別するのだとしたら、時間意識(あるいは人格)を輪郭づける記憶のなかで、「思い出」も「歴史」も欠如した生活とは別の永遠を見出すほかないのかもしれない。言い換えれば、抽象的にも主観的にも生きている時間から疎外されたひとびとが悲哀に似た記憶を最後まで手放しがたい感情に苛まれるのは、人間がそれでも人間として生きようとする運命の呪力にみえるわけで、記憶の呪縛から完全な脱出を願うことは不自然な結末を辿るほかないのかもしれない。たとえば、「失われた対象から自分自身をうまく切り離すということ、客観的に見て対象が失われたときにはそれを諦めるということが、鬱病の主体にはできないのである」といったフロイト的な精神分析を試みたところで、喪失と欠損を抱える(集団的)主体は、<類>がため/<種>がための記憶による情動的補給なしには、別の破滅的永遠に向かう情動的暴走が疑われてならないのである。それゆえ、芸術文化の領域では紋切り型の恋愛と友情以外の脱出口を用意する必要があるように思える。

2.記憶における「独白」と「対話」

ここまで独白的に記憶をめぐって動かないものである「アーカイヴ」的なテクストを記述してきたけれど、記憶の暗愁的なちからを反転させうるものは、動くものである「レパートリー」的な対話に秘められている。正確にいえば、爆発的な迫力を持った独白的な「アーカイヴ」に対話的に出会うことでしか、記憶との解放的で情熱的な関係を結ぶことはできないだろう。

芸術文化の領域において最も面白くないものは、独白的あるいは「アーカイヴ」的なちからを持たない(あるいはそれを軽視した)、その場限りの「レパートリー」を対話の可能性だと妄信するすべてにあると思う。具体的には、東京国立博物館で開催中の「マルセル・デュシャンと日本美術」における第2部「デュシャンの向こうに日本がみえる。」展での『この展覧会では「芸術」をみるのではなく「考える」ことで、さまざまな知的興奮を呼び起こしてください。』といった態度で一回性の鑑賞体験を意図することだろう。「デュシャンの向こうに」日本をみるにしても、安土桃山時代や江戸時代などの日本美術の作品展示はあまりに唐突で無関係で道具的だという印象は否めない。とはいえ、個々の作品おいては対照的に、デュシャンの油彩画「デュムシェル博士の肖像」などは「アーカイヴ」的な魅力があり、同じく東京国立博物館での特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」における「六観音菩薩像」のうちのひとつ「如意輪観音菩薩坐像」は六観音菩薩像のなかでも圧倒的な清閑的異彩を放っていた。この二つの展覧会をたまたま東京に来ていた友人と鑑賞したのだけれど、そのあと喫茶店で話したのは「アーカイヴ」的な魅力ある作品群をきっかけにした信仰と思想をめぐる芸術についてであった。言い換えれば、「アーカイヴ」的な魅力抜きに強度ある「レパートリー」は可能なのだろうかと考えさせられてしまったのである。

最後に、芸術文化の諸領域における同時代的課題をいえば、個別的にも集団的にも「歴史」や「思い出」といった「アーカイヴ」が喪失と欠陥を抱えるなかで、それぞれの記憶体験が「レパートリー」として機能し昇華する現実的な空間が乏しいようにみえる。仮に知らないだけで、豊かな空間があるのだとしても、芸術文化の「アーカイヴ」的な知が乏しければ再び暗愁の世界に沈むことになる。だからといって、死ぬまでずっと仮想現実に孤独に浸っていられるほど、ヒトは進化も変化もしていないはずだ。それゆえ、ひとは部屋の外に出て「歴史」や「思い出」を語るほか、出口のない現実世界でやり過ごす術はないのだろう。記憶への執着と情熱は紙一重なのだから。

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