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「アーカイヴ」と「レパートリー」が交差する場所で

ポストモダンの洗礼

二項対立には限界がある。だからこそヘーゲルは弁証法と呼ばれる二項対立を統合する方法を理論化したわけだし、デリダは脱構築と呼ばれる二項対立を無効化し、新しい回路を開く方法を徹底したわけだ。ちなみに弁証法の例を挙げると制作者と消費者をアウフヘーベンしたらYouTuberやゲーム実況者が生まれたということであり、脱構築の例を挙げるとRPGの勇者は壺を割るし、魔王はかわいいということだ。というわけで「アーカイヴ」と「レパートリー」という二項対立を目撃した場合、ポストモダンの洗礼を経た我々はまずその二項対立を疑ってかかる必要がある。

よって今回の論考では、「アーカイヴ」と「レパートリー」という概念に沿って話を展開していくというよりは、むしろこれらの概念に対する「強弱」、もしくは交差する場所について考察を深めていく。その上で今日の「芸術文化の諸領域における同時代的課題」として、「アーカイヴ」と「レパートリー」における「SNS」の問題を取り上げ、それが芸術文化に及ぼす影響とその対処法についての記述を試みたい。

「アーカイヴ」と「レパートリー」の例

上記のように本論考の目的は明確になった。ただしそのような話を展開するにあたって、まずは「アーカイヴ」と「レパートリー」の概念について良く知る必要がある。そこでダイアナ・テイラーによるこれらの概念に対する説明をまとめれば、「アーカイヴ」とは「耐久性」があり、「不動」なものである一方で、「レパートリー」とは「消失」し、「変化」するものであると言える。しかしより具体的に言えば、それらが一体何を指すのかを自分なりに確かめておきたい。よって以下に自分が思いつく限りにおいて、身近で具体的な「アーカイヴ」と「レパートリー」の例を列挙してみた。

「アーカイヴ」の例

・数式

・仏像

・Wikipedia

・メール

・ピラミッド

・聖書

・標本

・HDD

・アルバム

・化石

「レパートリー」の例

・解剖

・オークション

・花火

・ディベート

・カラオケ

・料理

・おもてなし

・旅行

・遠吠え

・パーティ

確かにこれらの例を眺めていると、「アーカイヴ」と「レパートリー」の輪郭線と境界線が見えてくる。しかし一方では、両者の曖昧な領域に位置する例や交差する例も同時に思い付くことになる。そこでまず概念を整理するため、主にアートにおける芸術文化の具体例を通して、その曖昧な領域と交差する場所について書いてみる。

芸術文化と「SNS」

「アーカイヴ」と「レパートリー」には「強弱」がある。ここで言う「強弱」について簡単に説明しておくと、「強」とはその性質のみの純度が高いということであり、「弱」とはもう一方の相反する性質も一部併せ持つという意味になる。よってその「強弱」を考慮したとすれば、基本的には「強いアーカイヴ」と「弱いアーカイヴ」、「強いレパートリー」と「弱いレパートリー」の四つに分類できることになる。そして芸術文化の諸領域においての潮流は現在「強」→「弱」に向かっており、「強いアーカイヴ」と「強いレパートリー」を両極に置いた場合、「弱いアーカイヴ」と「弱いレパートリー」の間、つまり「アーカイヴ」と「レパートリー」が交差する場所が問題となっている。そしてその場所の代表例として考えられるのが「SNS」であり、我々は芸術文化を考える際にその「SNS」の問題について考えなければならないというのが本論考の見立てである。よってここからは「強いアーカイヴ」から「弱いレパートリー」まで順番に具体例を通して考えていく。

「強いアーカイヴ」

そこでまず「強いアーカイヴ」として挙げられるのは、キャンバスを支持体として用いた「絵画」一般ということになる。通常「絵画」の起源は洞窟壁画にあると言われ、その代表例としては2018年2月に発表された「ネアンデルタール人による洞窟壁画」、「ショーヴェ洞窟壁画」、「ラスコー洞窟壁画」、「アルタミラ洞窟壁画」などが挙げられる。そこから長い時代を経て13世紀頃、イタリアで「フレスコ」と呼ばれる技法が誕生し、「フレスコ画」という名の壁画がキリスト教教会を中心に広まっていくことになる。そして15世紀頃に油彩が発明されるのと時を同じくして、キャンバスを支持体とする「絵画」が16世紀、17世紀にかけて爆発的に広まることになり、現代においてもその影響力は依然として保たれている。この「絵画」の歴史を「アーカイヴ」の観点から捉えると、壁画は場所、建築物と一体化し、切り離せないものであった一方で、キャンバスは「移動」や「所有」を可能としている点でより「強いアーカイヴ」と呼ぶことができる。つまりアートの歴史は一旦「強いアーカイヴ」へと向かい、進化してきたと言える。

「弱いアーカイヴ」

一方で「弱いアーカイヴ」の例として挙げられるのが、「グラフィティ・アート」である。何故なら「グラフィティ・アート」はキャンバスとは違い、壁からの「移動」や「所有」を前提としておらず、誰かに描き変えられたり、掃除されて消えてしまう危険性を常に孕んでいるからだ。そして「グラフィティ・アート」といえば2018年10月、サザビーズのオークションでバンクシーの《Balloon Girl》がシュレッダーにかけられた事件が記憶に新しい。これは結果的にマーケット強化に繋がる内輪の茶番劇、ミイラ取りがミイラになったとして批判的に受け止める向きもある。しかし今回注目したいのはそこではなく、むしろ「アーカイヴ」の観点から何故彼のようなグラフィティ・アーティストがオークションのような競売や現代美術の商業システムに反抗してきたかだ。

元々グラフィティはヒップホップ文化の一部として生まれた側面があり、ジャン=ミシェル・バスキアやキース・ヘリングといったアーティストはそのグラフィティの図像やコンセプチュアルな部分をアートに応用したことで成功を収めた。バンクシーは間違いなくその系譜の延長線上に位置しており、彼はヒップホップからの伝統である反骨精神や上流階級への批判精神を受け継いだまま、グラフィティにおける図像をイラストのようにキャッチー化し、コンセプチュアルな部分をより強化したアーティストであると言える。そしてそのような系譜と出自を持つバンクシーが、オークションのような資本主義システムに反抗的であることはある意味で当然と言える。

ここでオークションのシステムについて少し掘り下げてみたい。まずオークションは「強いアーカイヴ」を前提として成立するシステムである。何故ならオークションが成立するためには、基本的に競売品が「移動」可能かつ、「所有」可能でなければならないからだ。ここでそのオークションの常識を打ち破る事例として、先程のバンクシーによる「グラフィティ・アート」の例を出すと、2013年2月にバンクシーによる壁画、《Slave Labour》が壁ごと切り離された状態で競売に出品され、同年6月に約1億円を超える額で取引成立したことがある。「グラフィティ・アート」は場所や建築物と同一化し、「移動」できないが故に「所有」もできないことに価値がある、つまり「弱いアーカイヴ」であることに価値があった。しかしこのオークションでは壁から切り離されて「移動」し、誰かが「所有」し得る「強いアーカイヴ」として取引が行われており、それに対してバンクシーのようなアーティストが違和感を感じ、抵抗することは極めて自然なことである。そしてこのオークションへの抵抗という考え方を突き詰めていけば、今回のシュレッダー事件ではむしろ「レパートリー」として作品を消失、焼却させることの方が筋が通っていると言える。なのにも関わらず半分だけ作品を裁断し、それを《Love Is in the Bin》と名付けることは「強いアーカイヴ」をさらに強化するだけであり、そのことが彼の「芸術テロリスト」としての退行を示しているとは言えるだろう。ともあれこの流れを先程と合わせてまとめると、キャンバスの「強いアーカイヴ」からグラフィティの「弱いアーカイヴ」へと「絵画」は近接していくことになる。

「強いレパートリー」

ここまでは「アーカイヴ」の「強弱」について話を展開してきたが、ここからは「レパートリー」の「強弱」についての話に移行する。まず「強いレパートリー」について。これは従来の「演劇」における「演者」のパフォーマンス一般が当てはまるだろう。何故なら「演者」は言葉による台詞や身体の動きによる演技によって「観客」にパフォーマンスを行うが、それらは言うまでもなく時間の流れと共に消失し、一度きりかつ再現不可能なものであるからだ。しかし中でも平田オリザの「演劇」における「演者」のパフォーマンスは「強いレパートリー」そのものであると言える。これは一体どういうことか。

まず平田オリザは「現代口語演劇理論」を提唱したことで有名な劇作家、演出家である。この理論について簡単に説明すると、「演劇」において日常会話、つまり口語で自然に話すことを提唱したということになり、言い換えれば彼は「演劇」空間における言文一致運動を行ったと考えることもできる。これにより「同時多発会話」と呼ばれる複数の「演者」が同時に喋ったり、「演者」が「観客」に聞こえづらい声で喋ったりするという従来の「演劇」では考えられないことが起こった。しかしこれを「レパートリー」の観点から捉え直してみると、従来の「演劇」では消失していなかった台詞を積極的に消失させるスタイルと捉えることもでき、これは平田オリザが「強いレパートリー」を志向しているとも考えられる。彼の「演劇」においては全ての台詞を聞き取ろうと思うと、「観客」は何も聞き取れない。よってむしろ「観客」は台詞を積極的に聞き流すこと、つまりパフォーマンスの一部を消失させることによって逆説的に「演劇」を体感するのだ。

「弱いレパートリー」

次に「弱いレパートリー」について。その例として挙げられるのが「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(以下「SEA」と呼ぶ)」である。しかし「SEA」の定義は未だに明確であるとは言い難い。よって「SEA」に含まれる三つの要素を暫定的に挙げるとするならば、以下のようになる。

  1. プロジェクトが社会との関わりを持っていること。
  2. 相互作用(インタラクション、コラボレーションなど)があること。
  3. プロジェクト参加を促し、時に一時的なコミュニティを形成すること。

そして本論考では特にこの3番目の要素に注目する。「SEA」では関係性を創造しようとする傾向があり、その関係性とは共犯、敵対、友好、上下、無自覚など様々ではあるが、結果として一時的なコミュニティが形成されることが多い。しかもその一時的な参加型コミュニティの構築は、かなりの長期間にわたってその関係性が維持されることもある。またこの性質に加えて「SEA」の成果はワークショップでの制作物やドキュメンテーションを通して伝えられることが多く、これらの性質は「アーカイヴ」の性質に近い。つまり「SEA」は基本的にパフォーマンスとして「レパートリー」に近い性質を持つものの、「強いレパートリー」にはない「弱いレパートリー」ならではの性質を持っていると言える。

例えば高山明による《ワーグナー・プロジェクト―「ニュルンベルクのマイスタージンガー」》は、通常「強いレパートリー」として捉えられる「演劇」におけるパフォーマンスを、「弱いレパートリー」として実演してみせたプロジェクトである。歴史的に「演劇」においては「演者」と「観客」は舞台上と客席に二分され、それらの関係性が根底から揺るがされることは少なかった。しかし《ワーグナー・プロジェクト》ではラッパーのための一時的な学校が作られ、その現場では「演者」も「観客」も「スタッフ」も区別が付かない。またどこが舞台でどこが客席なのかも良く分からないし、何がリハーサルで、何が本番なのかも分からない。そんな中で一時的に作られたコミュニティは祝祭空間として機能しつつも、一方向的にパフォーマンスを与えては消失していく「強いレパートリー」とは違う機能を果たしたはずだ。このようなプロジェクトは「SEA」の一環として捉えることが可能であると同時に、「絵画」における「アーカイヴ」と同様、現代の「演劇」における「レパートリー」も「強」から「弱」の方向へと向かっていることが分かる。

「強弱」から交差する場所へ

今までの話を簡単にまとめると、「アーカイヴ」と「レパートリー」には大別して「強いアーカイヴ」と「弱いアーカイヴ」、「強いレパートリー」と「弱いレパートリー」の4種類があり、現代の芸術文化(「絵画」と「演劇」)においてはどちらも「強」から「弱」の方向へと変化していることが分かった。そして先述したように「弱」が「アーカイヴ」と「レパートリー」における「もう一方の相反する性質も一部併せ持つ」のであれば、その構造は正しくデリダの言う脱構築そのものであると言える。つまり先程も挙げた「グラフィティ・アート」におけるバンクシーは「弱いアーカイヴ」として「レパートリー」の要素を取り入れ、「演劇」における高山明は「弱いレパートリー」として「アーカイヴ」の要素を取り入れているという意味で、極めて脱構築的な手付きを芸術文化に導入し、成功していると言うことができる。

SNS」化する芸術文化

それでは「弱」によって互いを取り入れ始めた「アーカイヴ」と「レパートリー」が交差する場所とは一体どこにあるのだろうか?実はそれらが交差する場所として一番象徴的な場が「SNS」である。「SNS」は常に「アーカイヴ」と「レパートリー」の重なり合う場所を追い求めて実験を繰り返してきた。もちろん「SNS」はデータの集積であることから考えて「レパートリー」に近い性質を持つと考えられるが、その中での位置付けを先程の「強弱」を応用して考えることは可能である。

例えば「Facebook」を「強いアーカイヴ」に位置付けるとするならば、「Snapchat」は「強いレパートリー」に位置付けることが可能だろう。何故ならば「Facebook」における友達とは大抵現実の人間関係を反映した固定的なものであり、投稿は基本的に「アーカイヴ」として残ることになるからだ。一方で「Snapchat」は投稿が時間経過によって消失する仕様になっており、スクリーンショット対策もしていることから「アーカイヴ」への強い抵抗がある「レパートリー」の性質を保持していることが明らかである。また「Twitter」を「弱いアーカイヴ」として位置付けるとするならば、「Instagram」を「弱いレパートリー」として位置付けることも可能だろう。何故かと言うと「Twitter」は「Facebook」と比較してフォロワーやテクストの流動性が高く、ミュートやブロックによって相手の存在を消失させることも容易に可能だからだ。一方で「Instagram」は基本的にフォロワーよりタグのシステムに力を入れることにより、その場限りのコミュニケーションが起こり易い仕様になっている。また「ストーリー」と呼ばれる投稿機能は通常24時間経過すると内容が消失するようになっており、この性質は「Snapchat」の「レパートリー」に近いものがある。

「絵画」や「演劇」における「アーカイヴ」と「レパートリー」の「強」から「弱」への変化は長い時間を経て行われてきた。しかし「SNS」においてはその歴史が数年のうちに反復され、今や様々な角度からその最適な交差の仕方を模索する場へと変貌している。その潮流は既に芸術文化が変化する速度を遙かに上回っているはずだ。考えてみればバンクシーによるシュレッダー事件の舞台はオークション会場であると共に「Instagram」でもあった。また高山明の《ワーグナー・プロジェクト―「ニュルンベルクのマイスタージンガー」》を始めとした「SEA」におけるコミュニティ生成の特徴は極めて「SNS」的でもある。他にもチームラボによるメディアアートの作品群は明らかにインスタ映えを計算して作られているし、美術館もその潮流とは無関係ではいられない。

上記のように「アーカイヴ」と「レパートリー」が様々な方法で交差し合う、その新しい方法をいち早く見出だし、実践してみせたものが次の時代の寵児となるだろう。例えば「舞踏」では土方巽の動きをVRを使用して「アーカイヴ」しようとする動きがある。もしくはコンテンポラリー・ダンスのような動きを売買するアーティストも存在している。これらはどちらも「アーカイヴ」と「レパートリー」が交差する場所について考えた結果生まれたものだ。しかし最後に注意したいのは、芸術文化が「SNS」化してインスタ映えを追求したり、「いいね」を集めることに奔走することは芸術文化の本質から著しく外れているということだ。そうではなく、「SNS」の動向の中に「アーカイヴ」と「レパートリー」が互いに隠れて結び付く回路を見付け出し、実践してみせること。その分析と実践の中にのみ、新しい芸術文化が誕生する余地が存在し得るのだろう。

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