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見えないものを見てしまう。― これは、ダンスだろうか? ―

私たちはいま、情報化された映像にいつでも接触できる時代に生きている。そんなことは、いまさら古い議論だと言われるかもしれない。たしかに、20世紀は映像の世紀だとあらゆる場所で評されており、知の巨人たちは映像について様々な言説を繰り広げた。ドゥルーズは『シネマ』において世界を分析したが、それは「単にみること」の困難さを如実に表している。その辺りは日本では2018年に福尾匠が『眼がスクリーンになるとき』で解説している。しかしながら、そのことが、つまり、詳細な解説が今でも必要とされている事態こそが、その難しさを超越できていない証と言える。

いや、21世紀に突入して20年経とうとする現在、それはさらに複雑さを増していると言ってもいい。なぜならば、ドゥルーズの映像体験は、単なる舞台からシネマスクリーンへの移行あるいはスクリーンでの表現の遷移で終わっているからだ。

かつては、劇場が現前性を持つ生ある存在として、シネマは光と影で表現される実体のない死せるものとして対比されたものだった。実のところ、事態はもっと深部まで立ち入る必要がある。まず、私たちの多くは、スクリーンを観る体験を当然として、舞台を観る。舞台上で人が動くものを観るより先に、光の粒子が動くことを体験する。それどころか、私たちは自分の部屋で、電車の中で、どこでも液晶パネルで映像を観ることができる。それも当然のことだ。

この時代、アーカイブ的に「見る」ことが優勢の時代だからこそ、あらためて、アーカイブとレパートリーの関係性を探りたい。

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東京でのオリンピック開催を2年後に控えた夏、ひとつの映像が私たちの国で流れた。朝日新聞社による、第100回全国高校野球選手権大会のCM(ダンス篇)である。

 

私がこの映像を初めて観たのはTVだったか、SNSでの映像だったのか定かではない。ただ、長尺版をYouTubeで観たのは確かだ。そこに現れるのは、標準スカート丈に揃えた制服姿の少女たち。女子高生はプレイヤーとしてマウンドには立てないが、応援するならば高校野球の聖地でスカートを翻しても良い。甲子園のアンセム『栄冠は君に輝く』にあわせて。私たちの国では、彼女たちは躍動する。それは、まるで一糸乱れぬマスゲームのように。果たして、これは、ダンスだろうか?

清涼飲料水のCMや高校ダンス部の『ダンシング・ヒーロー』をはじめ、ニュースになるダンスの傾向として、このようなユニゾンが多くを占める。ちなみに先に挙げた朝日新聞社のキャンペーンは2016年から続く第3弾なので、好評を得ているのは事実と言える。

ちなみに、体育でのダンス必修化のニュースが一時期話題になっていたのでご存知の方も多いと思うが、日本でのダンス教育は芸術科目ではない。体育の一環として教えられている。なぜかといえば、それは健康のためだ。音楽に合わせて、清くて正しい近代化のしるしとして。美しさの象徴なのである。そのいっぽうで、体育教師の教育免許をとることで生計を立てるダンサーが数え切れないのも事実だ。

このパフォーマンスの是非はさておき、2018年現在、ニュースになるものの多くは、すでにYouTube上にデータが蓄えられている。演技、舞台芸術は、どれだけ技術が進んでも、レパートリーとしてリアルタイムで体験するには、受容の数が限られる。やはり、これらが拡散されるためにはアーカイブ化されなくてはならず、現場で感じる熱気や息づかい、跳躍の振動は編集の域を出ない。

ここで、話を具体的に進めるために、少し私自身の話をする。ダンサーだった頃、間の取り方を人と合わせるのが得意ではなかった。夜も更けてPCの前でコーヒーを飲みながら、アーカイブ化されたその映像を眺めて「いまの時代にダンスをやっていなくてよかった」と胸をなで下ろした。たしかに、ある種の美しさが現れていた。しかし、息苦しくもある。ダンス部によるパフォーマンスであるのだが、体操とたいした差がないと見えるからだ。そう、ただ「見える」のだ。「体操だ」と断定はできない。

つまり、これは、自身の内部に蓄積されたアーカイブ的なものが、そのように「見せて」いるのだ。

そのアーカイブとは。この国で学校外でダンスを習った経験があれば、おそらく一度は通るアイデンティティに関わる疑問の蓄積だ。その人たちは、ことあるごとに考えてきたはずだ。「私は今、体操をしているのか。ダンスをしているのか」と(マイノリティであることを承知の上である。おそらく多くの方々には、禅問答のように聞こえるかもしれないが)。それは、自分から湧き上がる疑問でもあり、師の言葉にも出てくる。

それはたとえば、ある日のレッスンで災厄のように降りかかる。「あなたはただ足を上げているだけ。それではただの体操!」

――この怒号への答えは、演技を重ねるしかない。ピントが合う瞬間は来たり、その日は訪れなかったり、様々である。あえて個人的なことを言うならば、私には「何かとつながる」感覚があった。その瞬間、正解が訪れることが多かった印象だ。しかしそれは、あくまで私の経験であって、何か明確に定義できるものではない。

その点、大野一雄はアーカイブ化されたインタビューで明確に答えている。体育教師として戦前から女子教育に携わり、徴兵、復員を経て、暗黒舞踏を立ち上げてモダンダンスの世界を再構築した、大野一雄。彼は「ダンスは祈りである」と淀みなく答える。それは、大野の築き上げた業の厚みと、内面の深さが言わせるものであり、真実に限りなく近いと思えるのだが、しかしこれもまた、定義づけとしては「大野一雄だから」という個人的な理由で退けられてしまう。

それにしても、大野一雄のそんな肉声を、何より演技を、こんなに手軽に観れる日が来るとは誰が思っただろうか。彼のたゆたう身体は、私の手のひらで静かに舞っている。それは、YouTubeの再生ボタンひとつで自由自在に。

ひとつだけ確かなのは、過ぎ去ったアーカイブは「これは、ダンスだろうか?」と言える自由を担保してくれることだ。しかし、何も語ってはくれない。

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ドゥルーズが死んだ1995年。日本ではWindows95が発売され、インターネットに接続することが身近になった。それからしばらくネットの世界でもテキストベースでのやりとりが主流だった。しかしそれからたったの数年で、グレーゾーンな動画交換サービスなるものが暗躍し始める。そして、ドゥルーズの死から10年後の2005年。映像共有サービス「YouTube」が生まれた。その契機は、いくぶん神話的な要素もあるそうだが「パーティで流したい、探しているニュース映像が見つからなかったから」作ったのだという。アーカイブを誰かと共有することを目的に設計されたものだったわけだ。みんなでネタとして「見る」ための映像を蓄積するためのシステム。

はじめにYouTubeについて少し触れた際に「これらが拡散されるためにはアーカイブ化されなくてはならず、現場で感じる熱気や息づかい、跳躍の振動は編集の域を出ない。」と書いた。しかし、元よりそのためのものだから仕方ない。

整理しよう。レパートリーとは、ダンスを舞台でみることと言える。アーカイブとは、ダンスを映像でみること。そしてレパートリーとは、そのダンスを、すぐに踊れること。アーカイブされたものは、昔は踊れていたという証にもなる。たとえば大野一雄アーカイブは、彼の証を残すために始まったプロジェクトだ。何より、レパートリーは可変する。いわば生の側にある。対してアーカイブは不動のもので、ある意味で死物化している。しかし、私たちは、映像化しんかえれば、振り返りも共有もできない。

10月6日・10月7日に、木野彩子による「レクチャーパフォーマンス」がDance New Air 2018の一環として、南青山のゲーテ・インスティトゥート 東京ドイツ文化センターで行われた。

『ダンスハ體育ナリ?』と題された公演は2部に分かれており、「其ノ一 体育教師トシテノ大野一雄ヲ通シテ(2016)※再演」「其ノ二 建国体操ヲ踊ッテミタ(2018)」から成る。

この「レクチャーパフォーマンス」は、ダンサーと大学での教鞭という二足のわらじを履く木野ならではの試みだ。

文字通り、其ノ一では女子体育の歴史と大野一雄を、其ノ二では1940年幻の東京オリンピックと体操の大流行を通して、日本では体育の一環として教えられているダンスの特性に、真正面から向きあい、体操とダンス、そしてスポーツとの違いをレクチャーとパフォーマンスにより明らかにしていく。わかりやすい講義と、ワークショップ、ダンスパフォーマンスの組み合わせで、しっかりと身体に刻み込まれる。

木野のパフォーマンスに話しを戻そう。明快なフォーマットが故にあまり意識をしないのだが、実はこのパフォーマンスはパラドックスを秘めている。ここで扱われるのは、アーカイブをレクチャーとして表現するパフォーマンスだ。彼女の、このレパートリーはアーカイブに支えられている。アーカイブ無しには成り立たない。

そして、この再演では、前回の公演から情報が書き加えられている。新たに入手した映像や情報をもとにしたパフォーマンスが存在する。このレクチャーでは、新たなアーカイブが、レパートリーに変更を加え続けている。

さらに、ラストダンスの「私たちの国では」の冒頭において、木野は大野一雄をアーカイブした舞踏を行う。そしてそれはすぐに彼女の踊りへと連なる。これらのひとつずつの瞬間、アーカイブは死蔵されたものから生ある側へと変容していく。それは、木野の手により表現された大野一雄が、木野のレパートリーになると同時に、本来のアーカイブ化が達成されるのだと言うべきだ。

そして、ここで強調しておきたいのは、この状況が本作品だけに立ち現れることではない。このパフォーマンスが顕著だとはいえ、どの作品においても、アーカイブとレパートリーは、交互に浸食している。生と死は、常に交歓しているのである。

ここで、ドゥルーズに立ち返りたい。ドゥルーズは、『シネマ』の中で、「見る」ことを[運動イメージ]と[時間イメージ]に分けた。[運動イメージ]はは連続性のある、関係性のあるものだ。そして[時間イメージ]は、分節化できる、時間が切り分けられるものだ。その際、劇場が生的な存在として、シネマは実体のない死せるものとして対比されたことも思い出せる。しかし、私たちは、この図式をすべて、単純に当てはめていく必要はない。すでに充分にシネマの眼で物事を見てしまう私たちは、「画面外の存在を見ることができる」という、「シネマ」の特性を思い出すべきだ。

ダンスとは、生あるものと死せるものが交錯し、見えないものを感じさせるものなのだ。だからこそ、拍の後ろにあるうねりを見る、見せるものでいられる。

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当然のことながら、YouTube上に存在しているだけではアーカイブ化されているとは言えない。私たちはYouTubeで拡散された動画で「踊ってみた」ことはできる。憧れの振付を分解映像で研究できることもたやすくなった。しかし、それをなぞるだけではコピーを作るだけだ。そこに見えないものを見ること、意味づけをすること、そして身体に刻むことで初めて、真のアーカイブ化が完了する。

それでは、YouTubeは死なのか? いや、そうではない。アーカイブになりうる、幽霊のような、いわば擬アーカイブと言えるのではないか。先人たちも常に行ってきた、アーカイブとレパートリーの相乗りを、YouTubeという装置で可視化できる。2018年に生きる私たちは、幽霊と共にそこにある存在になった。

ここで、冒頭の高校生の映像に戻る。これは、ダンスだろうか?

彼女たちの無垢な動きに罪はない。しかし、私はこの映像を手放しで賞賛できない。そのようにアーカイブすることにする。なぜならば、私は、幻の1940年オリンピックと紀元節の大会で披露されるはずった「建国体操」を集団で披露する写真を見てしまっているからだ。木野のパフォーマンスで詳細を知った建国体操だ。私もワークショップ中で参加したが、これは正拳突きのような動作が「壱、弐、参・・・・・・」の掛け声と共に続いていく運動だ。しかし、これを倍速で動かしていくと、ヒップホップ、ジャズダンスのステップが現れる。小さな衝撃だった(こんなことは当時の指導者は思ってもみなかっただろう)。

この体操は国民の誰もが運動するように教育された。オリンピックが幻に終わった鬱憤を晴らすかのように行われた1940年の紀元2600年奉祝第6回日本体操大会では、奈良の橿原神宮外苑大運動場では1万人を動員。東京の明治神宮外苑競技場でも1100人が躍動したというのだ。

もちろん、行進や集団で披露することがすべて悪いわけではない。学徒出陣の行進をしたのと同じ場所で1964年のオリンピックの開会式が行われたのは、少なくとも死地に赴くよりは良いことだ。しかし、忘れてはいけない。その見せるための健やかさは、死と隣り合わせであるということを。その意味を結ぶために躍るならば、それは、ダンスになる。

 

 

【参考文献】

『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』/福尾匠 フィルムアート社 2018

『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』/千葉雅也 河出書房新社 2013

木野彩子『ダンスハ體育ナリ?』

http://archives.cf.ocha.ac.jp/exhibition/1031/m_ph_1031-0074.html

文字数:5751

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