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作者は決して見ることができない(できなかった) ー『白いウサギ、赤いウサギ』の「再演」

 

0.     出来事の背景     〜同時代の劇作家が見ることのできなかった戯曲〜
 2016年12月14日から17日にかけて、ナシーム・スレイマンプールというイランの劇作家が書いた戯曲『白いウサギ、赤いウサギ』が、東京芸術劇場で上演された。
 この戯曲を演ずるにあたっては、一つの約束事が決められていた。
世界中どこでも、毎回違う俳優が演じること。演出も、リハーサルもなし。俳優は封印された台本を、舞台の観客の目の前で初めて読んで、演じなければならない。そしてこの作品を演じることができるのは一生に一度だけ、さらにこの作品を見た観客は、今後一切この作品を演じることができない。また観客は、突然の指令に応答するため、スマートフォンの電源をオンにして入場しなければならない。
 この作品が創られた背景には、作者ナシーム・スレイマンプールが兵役拒否のために、2012年まで自国を出ることができない、という事情があった。
 やむにやまれぬ事情を抱えたスレイマンプールは、一つの戯曲を書いた。演ずる際の約束事をそえて。作家は国外に出ることができない。しかし彼の作品は世界中を旅することになった。
 結果は大ヒットだった。2011年の初演から2016年の終演まで、20カ国以上の国で、1000回以上の上演記録を重ねる。
 世界中の様々な言語で上演された。ただし、作家の母語であるペルシア(ファールシー)語を除いて。
 スレイマンプールは現在、国外を旅することができる。
 2018年11月9日から11日にかけて、スレイマンプールは東京の池袋にある劇場、あうるすぽっとにて『NASSIM』の原作を書き、自ら出演もする。
 もう一人の共演者には、『白いウサギ、赤いウサギ』とやや似た条件が課せられる。
この共演者は、たった一人で舞台の上のスレイマンプールから指示を受け、スレイマンプールと共に演じなければならない。
 今回、作者スレイマンプールは「母語のペルシア語で伝える」ことに主眼点を置く。

 

1.      問題の所在  〜『白いウサギ、赤いウサギ』はどこが新しいのか〜
 演劇において、書かれたものとしての戯曲は、「知」の伝達において耐久性があると想定されている素材、つまり「アーカイヴ」に属し、これに対して俳優のパフォーマンスは、消えてしまう再生不能な「知」、つまり「レパートリー」に属している。
 パフォーマンス研究者のダイアナ・テイラーは、ドラマ(=テクスト)のパフォーマンスが、アーカイヴとしての<書かれたもの>に従属する帝国主義的実践として排除されていることを主張する。
 これに対して疑義を呈しているのがW・B・ウォーゼンであり、『アンティゴネー』のような古典演劇のテクストが「安定したシニフィアン」を提供するというのは本当か、と問う(1)。
 『白いウサギ、赤いウサギ』の場合、オリジナルのテクスト、つまりアーカイヴは確かに存在するのだが、演じる俳優は事前にそのテクストを読むことが禁じられているため、俳優も観客もほぼ同じ条件でレパートリーに対峙する。
 ところが、パフォーマンス研究の創始者であるリチャード・シェクナーによると、「初めて演じられるものは、決してパフォーマンスではない」(2)とされ、パフォーマンスの顕著な特徴として「行動の再現」を挙げている。
 では『白いウサギ、赤いウサギ』はパフォーマンス研究における「パフォーマンス」に該当しないのだろうか。
 あるいは、『白いウサギ、赤いウサギ』に演劇としての革新性があるとすれば、どのような点で新しいと指摘することができるのだろうか。
 以上の点を確認するためには、『白いウサギ、赤いウサギ』を演じる俳優には何が要求されるのか、また『白いウサギ、赤いウサギ』で可能になったことは何なのかを踏まえたうえで、演劇史から見たリチャード・シェクナーのパフォーマンスの定義を再検討しなければならない。

 

2.      この作品を演じる俳優に要求されること、およびこの演劇で可能になったこと
 まず一点目として、この作品を演じる俳優には戯曲をパッと読んで解釈し、即座に身体を動かして観客を納得させるための、即興演技の素質が要求される。
 身体の訓練によって役者の即興演出の可能性を探っていった一例としては、1920年代のロシアで前衛的な演出をおこなった演出家フセヴォロド・メイエルホリドが提唱した、機械的な身体訓練法「ビオメハニカ」が挙げられる。
 「「未来の俳優とビオメハニカ」と題したスピーチで、メイエルホリドは「俳優にとって大切なことは、外から(俳優や演出から)発せられた指令に即座に対応できるよう、その素材、つまり自分の体を鍛え上げることである」と述べている」(3)とあるとおり、いかに素早く対応できるかが、俳優の能力の一つとして試されているのだ。 

 次に第二点目として、『白いウサギ、赤いウサギ』で可能になったことは何だろうか。
この作品を演じることができるのは、戯曲の内容について全く予備知識のない俳優のみとなっているため、各上演においては緊張とともに新鮮さが提供される。観客もその新鮮さを期待する。
 演劇の予測不可能性を探っていったのは、1920年代後半より身体演劇である「残酷演劇」を提唱したフランスの演劇家、アルトナン・アルトーが挙げられる。
 アルトーの演劇は「不可能な演劇」だと言われていた。
アルトーはアルフレッド・ジャリ劇場創設に際し、「演劇が観客の生の不安や気がかりにかかわるように観客に手術を施して生を作り替えて無傷では帰れないようにする」ために「演劇が出来事になるために予測可能な反復はしない」(4)ことを明言した。
 だが「残酷演劇」は俳優の無理解や稽古不足等の諸事情が重なり、成功するには至らなかった。
 これに反して、『白いウサギ、赤いウサギ』は演じる俳優と見る観客に、作品の予測不可能性が事前に知れ渡っていた。
「予測可能な反復をしない」ことが、『白いウサギ、赤いウサギ』の見世物としての「売り」の一つに変化したのだ。

 

3 .     リチャード・シェクナーの「パフォーマンス」の定義を検討する
 リチャード・シェクナーは1968年に実験演劇の中心地ニューヨークで演劇集団「パフォーマンス・グループ」を旗揚げした。
 「パフォーマンス・グループ」の役者たちはせりふを即興で作り上げたり、せりふを自分なりに変形して上演した。
 台本(テクスト)、つまりアーカイヴに基づかない方法で、演劇の世界に観客を引き込み、俳優と観客が相互に影響を与えあうための努力をおこなった。
 また観客も、客席の場所を移動したり、前方の舞台のみならず、客席の後方で上演が行われるなど、舞台を見る視点を幾重にも変化させることが要求された。
 それでは、シェクナーの「パフォーマンスは「行動の再現」である」という提言は、どこから導き出されたのか。
 シェクナーは、演劇は儀式のように繰り返されることが条件だが、見世物としての興行には、偶然の事件やアクシデントも「非日常性」という要素を観客に与える、としている。
 そのうえで、演劇の上演におけるリハーサルの役割については「作品は戯曲から「生まれる」のではない。リハーサルのプロセスを通じて戯曲と「出会おう」とする試みから作られるのだ」(5)として、上演の創作過程(=リハーサル)までも演劇のプロセスに組み込まれていると述べている。
 つまりシェクナーのパフォーマンス研究においては、書かれた戯曲(アーカイヴ)と俳優による上演(レパートリー)という二項対立的な枠組みに捉われず、書かれたテクスト、テクスト上演の創作過程、俳優のパフォーマンス、儀式のような非日常性を共有する観客、観客がどのようにして舞台を鑑賞するか、上演する俳優たちと観客の間に相互作用は生ずるのか、これらが一体となって、ある一つの演劇作品が構成されているのである。

 

4 .     どのような要因が『白いウサギ、赤いウサギ』の新しさを成立させているのか
 『白いウサギ、赤いウサギ』の作者は、国外へ出ることを禁じられていた。
その地に拘束されている最中の当事者が戯曲を書き、自分が決して鑑賞することのできない状況において「上演」される。
 これは一見すると、「パフォーマンス・アート」的な「事件」である。
身体を使って演じる俳優も、その場に居合わせる観客も、そして遠いイランから動くことのできない作者自身も、それぞれ独自の方法でこの「事件」に関わりあうことで、この戯曲は大ヒットした。
 このような上演方法は、今まで存在したことがなかった。
 演劇がある「事件」と関わりあうことで、近年において社会性を獲得した例として、アメリカの演劇集団「リヴィング・シアター」の観客参加型かつ祝祭性の強い『パラダイス・ナウ』(1968)が挙げられる。
 その際に「当時の観客に一回性としてのショックを与えた」原動になったのは、1963年「当局による劇場閉鎖という事態が必要だった」(4)とされている。

 『白いウサギ、赤いウサギ』はパフォーマンス研究から見た場合、どのようにして「行動の再現」が起こって、この作品を「演劇」として成立させているのだろうか。
 劇場において演じる俳優、それを見る観客にとっては『白いウサギ、赤いウサギ』の戯曲の中身を読む・聞くことは初めての体験だが、この作品の上演の存在を知る社会にとって、つまり『白いウサギ、赤いウサギ』が誕生した事情を知る者にとって、この作品は2011年の初演から既に「再演」だったから、とすることができないだろうか。
 インターネット環境の整備、スマートフォンの普及により、世界中の人間は現在、瞬時にして同じものを共有して見ることが可能になった。
 しかし『白いウサギ、赤いウサギ』を見ることができるのはその場にいる者だけ、しかも一回その上演を目にした者は、二度とこの作品を演じることができない。
 この意図的に作られた「ローカル性」「限定性」が、この作品の新しく、オリジナルな部分なのである。
そして、戯曲(アーカイヴ)とその上演(レパートリー)という区別だてに捉われずに、いかにこうした一回性、当事者性といった、演劇というジャンルが持つ強みを打ち出していくかが、現代の演劇に課せられた課題だと言える。

 

【引用文献】
(1)内野儀『「J演劇」の場所 トランスナショナルな移動性へ』(2016)東京大学出版会 p.47.-p.49.
(2)リチャード・シェクナー『パフォーマンス研究:演劇と文化人類学の出会うところ』(1998)人文書院 p.16.
(3)楯岡求美「メイエルホリドの演劇性 ーチェーホフ、コメディア・デラルテとの出会い」『岩波講座 文学5 演劇とパフォーマンス』(2004)岩波書店 p.159.
(4)北山研二「演劇の可能と不可能 ージャリ、コポー、アルトー」『岩波講座 文学5 演劇とパフォーマンス』(2004)岩波書店 p.175.
(5)リチャード・シェクナー 同上(1998)p.77.
(6)内野儀『メロドラマからパフォーマンスへ』(2001)東京大学出版会 p.222.

【参考文献】
高橋雄一郎『身体化される知 パフォーマンス研究』
高橋雄一郎・鈴木健 編『パフォーマンス研究のキーワード:批判的カルチュラル・スタディーズ入門』
「インタビュー リチャード・シェクナー パフォーマンス研究の起源と未来」『舞台芸術08 パフォーマンスの地政学』
セオドア・シャンク『現代アメリカ演劇』

文字数:4676

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