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芸術文化諸領域における普遍的な価値の体系

「アーカイヴ化」を「その固有性を再生産可能にする等の目的で、変化に抵抗すると想定される諸アイテムとして存在させること」だと定義した場合、「レパートリー化」はどう定義されるだろうか。

例えばここでシェイクスピアを例に挙げてみる。イギリスではストラトフォードのグローブ座などに於いて、シェイクスピア生前に用いられた16世紀当時の英語までも再現した上演が試みられている。彼の脚本は古英語→現代英語→外国語という過程で翻訳、時には翻案を経て、日本国内では文学座を筆頭に様々な公演団体が彼の作品を上映している。

「レパートリー」という概念が「身体化された記憶の行為化は再生産不能な知である」を指す場合、シェイクスピア作品において、アーカイヴたる戯曲テクストに基づいて現象化される演出家、役者の表現はレパートリーである。アーカイヴが「十二夜」初演時の言語、役者の演技、公演環境を記録していたとしても、現代に「十二夜」初演時のオリジナリティを復活させることはできない。初演公演翌日に同じ役者と同じ環境で再演を行ったとしても、その達成は不可能である。現代では舞台芸術における刹那な固有性を、カメラ機器を用いた映像記録によって、表現ではなく鑑賞のレベルで再現可能にしようという運動もある。しかし鑑賞のレベルにおいて、劇場空間のリアルタイムと固定化された映像を外部で鑑賞するのとでは体験価値が全く異なる。

これはクラシック音楽の演奏会でも当てはまり、体験の場としての環境や表現者の発する音声や躍動の振動の感覚が相違項としてある場合も、レパートリーは再生産不能であると言える。ベルリンフィルハーモニーは「デジタルコンサートホール」をインターネット上で展開している。この利用料金は一ヶ月1910円であり、実際に劇場に足を運び鑑賞をする感覚と大いに相違することは、各々の価値体験の価格を比較すると窺える。

演劇の映像資料化やクラシック音楽の音源をCD化するといった「アーカイヴ化」は見事に頓挫しており、その行為は全て「レパートリー化」で説明できる。つまり「レパートリー化」とは表現の再生産可能性への志向である。演劇やクラシック音楽などの室内芸術はそもそもレパートリーになる以前に「レパートリー化可能」である。例えば演劇の場合では戯曲テクスト、クラシック音楽では楽譜テクストと言ったアーカイヴがあれば、再現への志向が担保される。ダンスなどの身体表現や民間伝承においては、その専門的な難易度を度外視した場合(何故ならばここでは志向性として定義したレパートリー化について言及しているため)アーカイヴに依拠せずとも伝聞や口承によってその知は伝播される。レパートリー化は、⓪原作者が表現の再演を前提にしている ①ロケーションを限定しない(室内や舞台で表現される)②アーカイヴによる全体的な表現の再現可能性に不完全性がある ③そして表現が少人数などの比較的小規模で実行可能である、或いはテクストなどのアーカイヴが表現の大枠を規定してくれている といった点で、表現の後継者が再現を志向しようと挑発されるかどうかで達成される。レパートリー→アーカイヴかと思われた存在妥当性の順列は、(アーカイヴ→)レパートリー→アーカイヴであり、このフローは連鎖して多種多様な作品が生まれてくる。例えば同じマーラーの交響曲では、演奏する指揮者がブーレーズであるかクレンペラーであるかどうかで楽譜テクストの解釈が異なる故にその音楽も大きく異なるし、ハムレットの上演もその翻訳テクストを河合祥一郎訳にするか福田恆存訳にするかで些細ながら印象は変わってくる。

 

それでは映画と絵画は、レパートリーとアーカイヴの概念にどのように関係してくるだろうか。

ロベール・ブレッソン監督作品「やさしい女」は2015年に渋谷アップリンクを始め全国の劇場で29年ぶりの本邦公開に至った。「やさしい女」はロベール・ブレッソンの初カラー作品でありながら未ソフト化であるため、当時のデジタル・リマスター版で蘇った上映機会の話題性は高かった。2018年3月には新ベルリン派の気鋭アンゲラ・シャーネレク監督の特集上映がアテネ・フランセ文化センターで組まれた。同センターでは「マイナードイツ映画(発掘)講座」と題して、本邦未公開作品などを講師の翻訳により上映する試みがなされている。2018年8月には旧東ドイツのハイナー・カーロウ監督作品「死が二人を別つまで」が同講座の一環で上映された際には、上映会場は多くの人で埋め尽くされた。また都内でも各美術館で展覧会や企画展が日々催されている。例えば2017年に国立新美術館で催されたダリ展は盛況だった。図録を買えば鑑賞できる、ましてやインターネットで検索すれば閲覧すらもできる絵画を、わざわざ入場料金を支払ってまで、体力を消費しながら鑑賞しようとするのである。

映画と絵画に関して言えば、上記に定義されたレパートリーの概念は適用しえないだろう。なぜならそこにレパートリー化可能性がないために、それ自体に再生産される志向性を持ちえないからだ。まず映画の場合、スタジオ撮影やロケーションのもとで役者に演劇させ、それを機器を通して映像として記録する。その後に編集者が作為的に或いは偶然に映像を加工する。この説明以上に複雑で大規模な過程を経て映画は上映へと至るわけだが、視聴者はどんなにその映画に感動することがあっても、その映画を再生産しようとは誰も思わないだろう。絵画でも同様に、幾らJ.E.ミレーの象徴主義絵画に心を奪われようとも、その絵を自らの手で現代に構築しようとする者は現れないだろう。法的適正さを無視した場合、映画と絵画に可能なのは「複製」だけである。何故ならば原作者が作品をアーカイヴとして製作した際に、彼らの原作自体が緻密に構築されたアーカイヴであるが故に、同様な表現を志向する後継者たちにとってその再構築の目処が全く立たないからである。

レパートリー化可能性の観点から、映画や絵画、そして小説といった芸術文化は、作品がアーカイヴとしての固定性を抱えているために複製の余地しか持たず、再構築や再生産に付随した新たなる価値を創作することはできない。演劇やクラシック音楽と異なり、作品の本質はアーカイヴから脱することができない。それゆえに、厳正な管理を以て作品は時代を超えてその固有性を一貫させるしかなく、私たちはDVDやイメージとして「複製」された作品本来が秘めた本質を求める以上は、特集上映会や企画展に体験価値を求めて足を運び、実際に作品を体験せざるをえないのだ。

レパートリーとして表現の後継者たる新たな担い手によって再生産される、乃至は歴としたアーカイヴとして「複製」或いは実物の提示によってその固有性を維持するか。現代の芸術文化は大まかにここで大別された通りに価値を普遍化させている。

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