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「書かれたもの」と「奏でられるもの」

 

 

いわゆる「クラシック音楽」がいつ誕生したかというこれまでもさまざまに繰り返されてきた議論は、どんな種類の音楽をもって「クラシック音楽」というのか、というたんなる定義づけの問題にとどまるものではない。「クラシック音楽」とは、バッハやベートーヴェンといったそこに登場する有名な(または忘れ去られた無名な)作曲家たちが残した音楽作品そのものの系譜のみを指すのではなく、演奏家や演奏を聴く観客・聴衆による受容のありかたを含めて、はじめて成立する概念だからである。

ヨーロッパの演奏会史において、作曲家の発表する作品とその演奏との関係に変化が生まれたのは、十九世紀なかばと云われている。宮本直美がその著書『コンサートという文化装置―交響曲とオペラのヨーロッパ近代史』で述べているように、それはそれまでの教会や貴族社会とはまた別の、市民階級という新しい聴衆の誕生と無関係ではなかった。それまでの新作の消費が中心であった大都市の会員制コンサートは、教養ある市民がなんども聴いて「理解すべきもの」として、ベートーヴェンに代表される過去の「古典」作品が繰り返し演奏されるようになるという、まったくちがったものにかわる。それまで過去に作られた音楽は消費され忘れ去られる運命であったが、この時代以降は再演をかさね聴きつがれることで生き残る。いわば現在まで続くコンサートの需要と供給のパターンを形成し、それが「クラシック音楽」というジャンルを成立させることになるのである。

同じような古典作品ばかりが繰り返し演奏されるのに聴衆に「飽き」がこなかったのは、しだいに同じ曲にたいして演奏家がどのように演奏するのか、その差異を楽しむという新しい聴き方が生まれたためだ。作曲家の生みだす音楽は楽譜というかたちに残されはするが、ただの紙きれにすぎない楽譜そのものが音楽なのではない。あくまでそれをもとに音が空間に響き、時間の流れのなかで居場所を得たときにはじめて音楽となる。そのように考えたとき、絶対的に立ちはだかるように見えるアーカイヴとしての楽曲(楽譜)に、レパートリーとしての再現芸術(演奏)がしっかりと対抗しうる、ときにはそれを凌駕するだけの役割を担っているということが、ある意味ジャンルとして健全だという証しであり、「クラシック音楽」が今日消費される文化のなかでそれなりにエンターテインメントとして存在感を示しうる理由でもある。

 

十九世紀はアーカイヴとレパートリーが奇跡的にバランスよく両輪としての役割を果たした時代でもあった。コンサートホールにおいては、しだいに神聖化されていったベートーヴェンやモーツァルト、没後半世紀以上を経て再評価されるようなったバッハなどが繰り返し演奏されるとどうじに、シューベルト、シューマン、リスト、ベルリオーズ、ショパン、ブラームス、といった同時代の偉大な作曲家たちによって、現在でも演奏される名曲が生み出された。貧しい暮らしをしていたシューベルトの歌曲をいまわたしたちが聴こうと思えばいつでも聴けるのも、その作品そのものの価値もさることながら、すぐれた演奏家によって数えきれないほど再演がかさねられたからであり、小学校の音楽室の壁にかかげられている作曲家の肖像をともなった音楽史年表も、じつは再現芸術家たちの演奏の再演の歴史であると云い替えることもできる。

そのみごとなバランスも二十世紀になるとくずれはじめ、圧倒的な演奏優位の時代がはじまる。まず大前提として「クラシック音楽」ではない新しいジャンルの音楽が多く生まれ、それが「クラシック音楽」をはるかにこえる勢いでエンターテインメントとして消費されるようになったという時代の変化があった。そのため、「クラシック音楽」の世界に残った作曲家たちはコンサートで人々の求める作品をつくることよりも、再演を重ねることを前提としない観念先行の実験的な作品をつくる傾向が強まる。その実験のなかには、袋小路に迷い込んでしまったあげく今日ではそのほとんどがコンサートのレパートリーと考えられていない、十二音技法からトータルセリエリズムにいたる音楽のようなものも含まれる。その結果、演奏家はそのエネルギーのほとんどを過去の作品の再演に向けるようになり、当然のようにおなじ作品ばかりが演奏されるため、その演奏そのものの差異化がますます求めらた。おなじ曲のはずなのに、演奏者によってまるで違う曲に聴こえるような(ときには演奏者の自己主張でしかないと思えるほど醜悪な)個性的な演奏が繰り広げられるのである。誰がつくった音楽かという興味から、誰が演奏した音楽かという興味へ。十九世紀なかばにうまれた再現芸術の、グロテスクなまでの肥大化である。

 

その演奏を中心とした「クラシック音楽」界にあっても、もちろんつねに新しい作品は生みだされているが、さきに述べたとおり、演奏されることがなければその音楽は音楽として存在することができない。おなじパフォーミングアートである演劇などにも似たことはいえるかもしれないが、台本という目に見えるアーカイヴは上演されることがなくても読むことで有意味なものになるのにくらべ、音楽史の推移とともに複雑化した楽譜は、それを見て脳内再生をおこなうにはそれなりの専門的なスキルがなければ難しいだろう。アーカイヴとして「見えるもの」であるはずの楽譜はほとんどのひとにとっては「聞こえないもの」であり、「見えないもの」である音を奏でるレパートリーとしての演奏は「聞こえるもの」であるという倒錯した関係。音にして演奏されないということは、その作品が生まれないということと(まったくではないにせよ)ほぼ同意語なのである。(その意味では、「見えるもの」である楽譜が、演奏すると「見えないもの」どころかまったく「聞こえないもの」になってしまうという、ジョン・ケージの音楽史上ほかに類を見ない『4分33秒』は、演奏に対して絶対的ともいえる強度を持っている作品と考えることもできる)

演奏優位と作品供給の停滞という問題は、しばしば「レパートリーの硬直化」と云われるが、再現芸術家がみせる演奏がこれほどまでに多様化しその過剰なまでの差異が消費されている現状を考えると、むしろそれは「アーカイヴ(ス)とレパートリーとの関係の硬直化」と云うべきであろう。いまあるような「クラシック音楽」というジャンルが生き残っていくということを前提とするならば(そうでなくてもよいという議論も当然あるべきだが)、アーカイヴとレパートリーの健全なバランスを取り戻すために、積極的に新作の演奏がおこなわれるべきだし、どうじに繰り返し演奏されるにたえうるような新作が求められるわけなのだが、そこにはべつの手強い「アーカイヴ」がたちはだかる。

 

第二次世界大戦後の一九四〇年代から、ポリ塩化ビニールのレコードが実用化され、限られた貴重な演奏の「記録」程度にすぎなかった録音が、コンサートにおけるそれとおなじ程度に鑑賞される対象となった。コンサートのチケット代金よりもはるかに安い値段で、繰り返し聴くことのできるレコードは、「クラシック音楽」はもちろん、ほとんどの消費対象となり得る音楽ジャンルにおいてメインの商品となった。「見えないもの」である演奏が、レコードという「見えるもの」に姿をかえて再びアーカイヴされるわけである。ダイアナ・テイラーの定義にあわせて考えればこの再アーカイヴは、たんに演奏を「耐久性があると想定されている素材」に置き換えるというだけではなく、いつ聴いてもまったくおなじでしかあり得ない「変化に抵抗する」演奏にするということだ。しかし、変わることのない素晴らしい演奏がいつでも聴けるということが、はたして「クラシック音楽」の(ディープな)消費者の欲望を満たすものになるのだろうか。仮に満たしたとしても、それが「クラシック音楽」の未来につながるものなのだろうか。

「クラシック音楽」というジャンルには、作品そのものを聴くとどうじに、その演奏におけるさまざまな差異を聴くという楽しみかたがあることはすでに述べた。そうだとすれば、いつ聴いても演奏に差異が生じることはあり得ない録音では、本質的な満足は得られるはずがない。その証拠に、ディープなファンであればあるほど、異なる演奏者による同じ楽曲のCDを求めて買い漁る。楽曲とある特定のアーティストとの結びつきが比較的強いと思われる他の音楽ジャンルにくらべて、そのことは「クラシック音楽」のきわだった特徴だと云えるだろう。二ノ宮知子による漫画『のだめカンタービレ』で主人公の千秋が指揮をし、同作のドラマ版では主題曲ともなったベートーヴェンの交響曲第七番について、異なる指揮者のCDを三十枚も四十枚も持っているなどという現象は、まず「クラシック音楽」以外では起こりえない。

ここで重要なのは、ある点からある点を暴力的に切り取った記録に過ぎないレコードやCDという録音メディアと、「いま」「ここに」しかない生演奏を比較して、前者には本来芸術にあるはずのアウラがないのではないかといった、なんども繰り返されたような問いではない。レコードやCDとして流通する演奏は、当然のことながら多くの人々が聴きたいと思う商業的なふるいにかけられた限られた楽曲でしかないということなのだ。その限られた楽曲のさまざまな演奏が録音されても、このインターネット上にいくらでも複製されたデータが拡散されうる現代において、それはコンサートへ行かずに済ませるという現象に拍車をかけることはあっても、コンサートへ足を運ぶファンを増やすことには決して寄与するものではない。客足が遠のくことによるコンサートの減少は、必然的に新作の演奏・再演の機会の減少を意味する。それは、演奏される曲のマンネリ化すなわち「アーカイヴ(ス)とレパートリーとの関係の硬直化」を促進させ、ひいては「クラシック音楽」というジャンルの衰退にもつながるのだ。

現代においては、かならずしも「演奏」を必要としない新作の発表のやりかたもあるという反論はあるだろう。パソコンを前にしてソフトに音符を打ち込んでいけば、それがそのまま音になるし、場合によっては音楽を作るために「楽譜」そのものを必要としないことも珍しくない。しかしそれはもはや、「クラシック音楽」というカテゴリーで考えることのできない別のなにかだろう。その空間にふさわしいテンポと音響をともない、演奏家の身体をとおして生みだされるやいなやまたその場限りで消えてしまう演奏。「演奏の現象学」とも云うべき哲学に裏打ちされたその究極のオートクチュールな芸術行為によって、まだ聴かれたことのない新しい音楽をバッハやベートーヴェンと同じ土俵に上げ、演奏というレパートリーに組み込んでいくことにはまだ価値があるはずだ。

 

『のだめカンタービレ』が話題になっていたころ、にわかに全国各地で気楽に楽しめるオーケストラのコンサートがひらかれ、それまで「クラシック音楽」など聴いたこともなかった客層がホールへ足を運んだが、新しいファンになる可能性をおおいに秘めたそれらの人々は蜘蛛の子を散らすようにその後どこかへ消えてしまい、たんなる一過性のブームに終わってしまった。しかしそれは、けっして「クラシック音楽」というジャンルが現代において魅力があるものではなくなったからではないはずだ。その演奏を聴いた人々に、つぎは他の演奏も聴いてみたいという欲望をかきたてるような個性ある演奏が、はたして本当に行われていたのだろうか。

再現芸術における根本的な価値を意識しながら、その空間、その時間においてしか聴くことのできない、再生産を不可能にする圧倒的な強度を持った演奏をすること。そしてまた、演奏されることなくしては存在しないことにひとしい「クラシック音楽」というジャンルのなかで、新しく生み出された作品や、ほこりをかぶったアーカイヴ(ス)から見出された作品を、陽のあたるところでレパートリー化することにつとめること。

それらアーカイヴとしての作品とレパートリーとしての演奏のあいだに、絶えることない循環的なアクセスがあってこそ、「クラシック音楽」はこれからもエンターテインメントとして生き残るだろう。

 

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